3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『旅のおわり、世界のはじまり』

 テレビ番組のリポーターとしてウズベキスタンを訪れた葉子(前田敦子)。伝説の怪魚を探すロケはなかなかうまくいかず、スタッフも苛立つ。ある夜、路地裏に繋がれたヤギを見かけた葉子は、そのヤギを野に放ちたいという衝動に駆られる。監督・脚本は黒沢清。
黒沢監督にしてはかなりフワっとしたゆるさのある作品。前田敦子の存在感にゆだねた部分が大きい(黒沢清流のアイドル映画と思えばいいのか)からか。それでも室内でカーテンは揺れるし、急に日が陰るし、黒沢印は健在なんだけど。
 テレビクルーは葉子以外全員男性。染谷将太演じるディレクターが現地の人に対してすごく失礼だし、クルーに対しても感じ悪いのだが、こういうディレクターいそうで笑ってしまった。海外ロケのあるバラエイティ番組を見ていると、これはかなり失礼なのではという企画がちらほらあってぞっとすることがあるので、笑いごとではないのだが・・・。現地ガイドの青年とADは葉子にに対して多少気遣いがある。ADが「歌」を聴いたのは彼女と少しだけ心の距離が近かったからか。男性のグループの中で女性が働く時のいまひとつ打ち解けられない感じ、緊張感が随所で見られる。バスに乗ったら男性乗客ばかりだった時(前田の表情が上手い!)や、夜道で男性のグループとすれ違う時の緊張感等、葉子がリラックスしていられるシーンがほぼないのだ。海外にいるからというのも一因だが、仕事仲間の間でいまひとつ意思疎通ができていないというのも大きいんだなとわかる。気を許せる場がないのだ。この気の許せなさ、リラックスできなさは見ていてちょっときつかった。
 ヤギを野に放つという葉子のアイディアは多分に短絡的ではあるのだが、何か自分だけの物語のようなもの、自分の予想をちょっとだけ越えるものが欲しいのだ。彼女が山頂で得たものは多分それだろう。あの瞬間、彼女がウズベキスタンで体験した不愉快さを含めた諸々が物語となる。それは彼女のこの先を支えるものだろう。前田敦子の歌唱は、決して達者と言うわけではないのだとてもよかった。少なくともあのシーンにとってはベストの歌唱。

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黒沢清、映画のアレゴリー
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『誰もがそれを知っている』

 ラウラ(ペネロペ・クルス)は妹アナの結婚式の為、家族と共に暮らすアルゼンチンから2人の子供を連れスペインの実家に里帰りする。ワイン農場を営む幼馴染のパコ(ハビエル・バルデム)とも再会し、結婚式も披露宴のパーティーも大いに盛り上がる。しかしパーティーのさ中、ラウラの娘イレーネが姿を消す。身代金を要求するメールが届き、誘拐されたことが判明するが、それぞれが解決の為に奔走する中、家族の秘密があらわになっていく。監督はアスガー・ファルハディ。
 この邦題はちょっと意地悪。当人は自分達だけの秘密だと思っているのに、周囲はなんとなく事情を察しているという・・・この田舎社会感が辛い!誘拐事件をきっかけに、お互いに隠していた「ということになっている」こと、取り繕っていたことがどんどんほつけて露呈していく。なかなかいたたまれない話なのだ。舞台が都会だったら、ここまで人間関係煮詰まらないような気がする。村の外に出にくい、社会の中での関係性が限定されているという所が事態をこじらせているように思った。そもそも事件のきっかけも、ここから出ていきたいという願望からだろうし。
 ファルハディ監督の作品は、人間の心理の不可思議、矛盾を精緻な脚本で描くという印象がある。本作も人の心のミステリを描いてはいるが、これまでの作品の模倣というか、ちょっと手くせで作ってしまったような印象を受けた。よくある話、凡庸な線でまとまってしまい、いまいちキレが鈍い。クルスとバルデムというスター俳優を使ってもスター映画っぽくはなっていないあたりは面白かった。俳優優先ではなく、作品のパーツとしての俳優なんだなと。
 男女の人間関係、家族間の人間関係のこじれやすれ違いはもちろん厄介なのだが、ラウラの一族が地元の人間に対しうっすらと優越感を抱いていることが、お金の問題が発生するに伴いポロポロ表面化していくるところにぞわっとした。差別発言、相手をさげすむ言葉がナチュラルに出てくるが、発する当人はその差別意識に無頓着なのだ。ラウラの父親の振る舞いは醜悪と言ってもいいのだが(そもそもお前のせいで没落したんだろ!と突っ込みたくなるし)、多分本人はそういう意識はないんだろうなぁ・・・。男女の因果よりもこっちの方が厄介に思えた。この一家、実は地元では好かれていないのでは・・・。


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『魂のゆくえ』

 ニューヨーク郊外の小さな教会の牧師トラー(イーサン・ホーク)は、ミサにやってきた女性メアリー(アマンダ・セイフライド)から、夫マイケルが悩んでいるので話を聞いてやってほしいと頼まれる。環境活動家のマイケルは環境汚染を心配するあまり、メアリーが妊娠中の子供を生むことが正しいのかどうか葛藤していた。更に。トラーは自分が所属する教会が、環境汚染の原因を作っている企業から多額の献金を受けていると気づく。監督はポール・シュレイダー。
 トラーは神父なので、仕事でも私的な課題としても、信徒と、自分自身との対話を続ける。神父という立場からは対話をはぐらかすことはできない。自分自身に対しては可能だろうが、彼は自分への枷としてそれをよしとしない。この対話が彼を追い詰めていく。トラーの自分内ロジック、ともすると思いこみが暴走していくところ、更にそれが何の役にも断っていないというところは、シュレイダー監督が脚本を手掛けた『タクシードライバー』とちょっと似ている。自分の行動の動機を勝手に他人に託してしまっているきらいがあるところも。メアリーに対する思い入れは、ともすると彼の一方通行っぽく見えてしまい少々危うい。
 信仰の話なのかと思っていたら、どんどんそれていき予想外の方向へ。信仰そのものというより、現状の、大企業的教会の一支部として、人道的とは言えない事業もしている大企業の献金を受けないと維持できないという、現状に対する葛藤と言った方がいいのか。とは言え、トラーは元々環境問題に強い関心を持っていたわけではなさそうだ。急にのめりこんでいくのでどうしちゃったの?と不安になる。彼が本来向き合わなくてはならない問題は別にあり、そこから逃れる為に手っ取り早く目の前の問題に飛びついているようにも見えるのだ。
 トラーの信仰は彼の息子が死んだときに既に死に向かい始めていたのではないかと思える。とはいえ、彼が救われるのは全く信仰によってではない!結局それか!という意外性というか、脱力感というか・・・。何とも奇妙な終盤。こうであればいいのにというトラーの幻想であるようにも思えた。でもそこに救いを見出されてもなぁ・・・。やはり他人に諸々託しすぎでは。

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『タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源』

ピーター・ゴドフリー=スミス著、夏目大訳
心、意識はどのように生じてきたのか。哲学者であり熟練のダイバーでもある著者が、生物の進化を追いつつ、脊椎動物とは全く異なる頭足類、タコやイカの仲間の生態の観察から、生き物の心の存在を考える.
本著の冒頭で、原文のmindに「心」、interlligenceに「知性」、consciousnessに「意識」という訳語を当てていることが編集部により記されている。加えて、英語のmindは心の機能の中でも思考、記憶、認識という人間で言う所の主に頭脳の働きを想起させる言葉だと解説されている(なので本著内で言う「心」は英語での意味)。いわゆる日本語で言う「心の動き」とはちょっと異なるということだ。タコの「心」、精神活動についてもこの英語/日本語の差異と似たところがある。人間が想像するタコの精神活動はあくまで人間の視点によるもの、タコの精神世界はタコ独自のもの、タコの身体に基づいたものだという本著の内容が、この前置きに既に現れている。タコの知能が高いという話は聞いたことがあったが、本著によると思っている以上に頭がいい(ただ人間にとっての「頭の良さ」とはちょっと違う所もある)。映画『ファインディング・ドリー』で描かれていたタコの行動はちゃんと事実に基づいていたんだな・・・。基本群れない生き物だが条件によっては小さい社会のようなものを形成するという所や、好奇心旺盛で「遊び」的な行動も見せるという所は新鮮だった。彼らの知能は定型を持たない身体と深く関わっているらしいという点も。ガワが決まると中身も決まるという側面はあるんだろうな。

『立ち上がる女』

 アイスランドの田舎町に住む合唱団講師のハットラ(ハルドラ・ゲイルハルズドッティル)にはもう一つの顔があった。環境活動家として、地元のアルミニウム工場に停電攻撃を仕掛けていたのだ。ある日、彼女の元に4年前に申請していた養子縁組が受け入れられたという知らせが届く。監督はベネディクト・エルリングリン。
 協力者の議員や双子の妹に反対されても我が道を突き進むハットラの姿は力強い。活動家としての手腕は結構なもので、冒頭のボーガンの使い方を見ているだけでも彼女のことをちょっと好きになってしまった。彼女の活動に対して、環境問題は大事だけど周りの人に迷惑がかかるようなやり方ってちょっと・・・と思う人は大勢いるだろう。ヨガのインストラクターであるハットラの妹も、姉の主義は尊重しているが暴力的な方法には賛成できないと彼女を諌める。しかし、ハットラの世間への迎合しなささ、自分を曲げない様を見ていると、(それが今の風潮に即さないものだとしても)いっそ清々しくて、誰かの迷惑なんて考えてられるかよ!正しいと思ったことをやりたいんだよ!って気分になってくる。彼女の中での優先順位がすごくはっきりしているのだ。
 とは言え、ハットラにも迷いはある。活動家である自分が幼い子供の保護者として責任を保ち続けられるのかということだ。これが、自分に母性があるのか女性としてこの生き方でいいのか等ではなく、保護者として適切だろうか(何しろそこそこ危険なことをしているので突然いなくなる=保護者としての責任を果たせなくなる可能があるのだ)という迷い方な所がとてもよかった。あくまで彼女個人(と引き取る子供)の問題であり、世の中のくくりやカテゴリを想定したものではないのだ。自分にとって、自分の家族となる存在にとってベストな道、生き方になるのかを考えている。彼女の妹が、姉のそういう生き方に賛同はしないが理解し尊重しているというのもいい。登場人物に対して個人としての尊重が保たれている映画は、やはり見ていて安心できる。
 音楽の使い方がとてもユニーク。ブラスバンドとウクライナ(ハットラが養子にしようとしている少女がウクライナ人)の合唱団によるものなのだが、背景に楽団が登場してそのまま演奏するのだ。背景に徹するのかと思ったら登場人物と目を合わせたりとちょっとしたコミュニケーションを取ったりもするので、これは何事?!と笑ってしまう。しかしとぼけたユーモアがあり、またハットラに寄り添い勇気づける存在にも見え、気分が和む。音楽自体もかっこいい。

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『タリーと私の秘密の時間』

 2人の子供に加え、3人目が生まれたマーロ(シャリーズ・セロン)は家事と育児で疲れ果てていた。見かねた兄が夜だけベビーシッターを雇い、マーロの元に若い女性タリー(マッケンジー・デイビス)がやってきた。若いながらも彼女の仕事は完璧。久しぶりにぐっすりと眠り、また自由奔放なタリーとの交流で、マーロは生き生きとした表情を取り戻していく。監督はジェイソン・ライトマン。
 赤ん坊が生まれてからの、授乳、オムツ替え、寝かしつけ、泣く、授乳、オムツ替え・・・というエンドレス早回しにめまいがした。子供が生まれるってつまりこういうことなんだなと。脚本は『JUNOジュノ』『ヤング≒アダルト』でもライトマンとタッグを組んだのディアブロ・コーディなので、素直に「いい話」ってわけではないんだろうと思っていたけど、予想ほどには捻っていない。しかしこの話の場合、捻っていないからこそしんどいんじゃないだろうか。マーロと似た状況のが見たらどう思うのか(確かに強く共感するであろう、あるある!的要素は満載なんだろうけど)ちょっと分かりかねる。傷をえぐらないか心配よ・・・。マーロの、若くて自由なタリーに対する羨望と自分に対する後悔、それに対してタリーが平凡な1日を続けていくことがすごいんだ、と説得する様は、マーロの自分内での葛藤をそのまま再現しているよう。なんてことない1日のありがたさなんて、彼女は当然わかっているだろう。わかっていても、持っていたものを捨てていかなければならなかったことはやはり苦しいのだ。
 マーロの夫は好人物で子供たちは手はかかるが可愛い。元々共働き(マーロが休職中だという台詞がある)すごく金持ちというわけではないが経済的に逼迫しているわけでもない。客観的にはそこそこ幸せに見えるだろう。子育ては大変だが、「とは言え子供はかわいいでしょ」みたいに、大変さが見る側にとって無効化されやすい、当事者が大変さの中に取り残されがちなのかもしれないなとふと思った。いい母親、いい妻、素敵な家庭を成立させるために、どれくらいしんどい思いをしているのかなと。マーロの兄の家はゴージャスで、妻はおしゃれで小奇麗、子供たちもごきげんだが、それはお金の力で家事育児をアウトソーシングできているからだよな・・・。一人でやれることには限界がある。
 マーロがぎりぎりであることが、夫には今一つ伝わっていない。いい人だし世間一般的にはいい夫なのだろうが、当事者としての意識が今一つ希薄。彼は寝る前にTVゲームをするのが習慣なのだが、ヘッドフォンをして音声を外に漏らさないという気づかいはしても、コントローラーの音やTV画面の光が寝る時に邪魔なんじゃないかという所までは気が回らない。まあ話し合いの上での処置なのかもしれないけど・・・。とりあえず、食洗機とルンバを買ったらどうかな(食洗機はあったかも)。

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『正しい日、間違えた日』

映画祭に招かれたものの、予定より1日早く到着してしまった映画監督のハム・チュンス(チョン・ジェヨン)は、観光名所で魅力的な女性ユン・ヒジョン(キム・ミニ)と出会う。チュンスは彼女をお茶に誘い、更にお酒も入っていい雰囲気になるのだが。監督はホン・サンス。
原題の直訳だと「今は正しくあの時は間違い」という意味になるそうなので、邦題とはちょっとニュアンスが異なる。ただ作品を見ると、どちらの題名もちょっとそぐわないかなという気がしてきた。男女の出会いを2通りの展開で描いた作品で、前半でパターンA、後半でパターンBというような2部構成になっている(A、Bという章タイトルは付けられておらず、私が便宜上そう呼んでるだけ)。
 酔った男女のかけひきって、見ていてこんなにいたたまれないものだったっけ?と見ながらむずむずが止まらない。チョンスは明らかにヒジョンに好意があるが、いい年齢の大人の言動とは言い難い。「かわいい」の連呼なんて泥酔した大学生じゃあるまいし・・・。世間の噂によれば、彼はモテて女癖の悪い人らしいので、成功体験からくる言動なんだろうけど、よくこれで口説き成功してきたな!とは言えヒジョンもやぶさかではない感じだし、成功していると言えばしている。
 とはいえこのいい雰囲気は長くは続かない。AパターンでもBパターンでも何かしらに腰を折られ、険悪か険悪でないかという違いはあれど、2人の人生はすれ違っていく。AとBのどちらが正しくてどちらが間違いかなど、結局わからないのだ。どちらも間違いとも言えるし、交わらない運命だとするならどちらも正しい。曖昧さ、どうともならない儚さと滑稽さが余韻を残す。
 それにしても、ホン・サンス監督作に登場する映画監督は、大概クズ味がひどいな・・・。映画監督として評価はされているが、特に女性関係での脇の甘さや失礼さ(でもそこそこモテるところがイラっとする)は自虐ギャグなんだろうか。

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『タクシー運転手 約束は海を越えて』

 1980年5月の韓国。民主化を求める大規模な民衆デモが起こり、光州では軍が戒厳令をしき、報道も規制されていた。ドイツ人ジャーナリストのマルゲン・ヒンツペーター(トーマス・クレッチマン)は取材の為光州へ向かう。彼を送迎することになったタクシー運転手キム・マンソプ(ソン・ガンホ)は報酬欲しさに機転を利かせて検問を突破。何とか光州市街へ辿りつくが。監督はチャン・フン。
 近年、光州事件(と当時の時代背景)を題材にした韓国の文学、映画等が目につくようになったが、映画や小説の題材としてがっぷり取り組むことができるくらいに時間がたったということなのだろうが。何にせよ、自国の負の歴史を再検証し、かつエンターテイメント作品に落とし込める所に韓国映画のタフさ、成熟度を見た感がある。本作、本国でも結構な動員数だったそうなので、映画を見る層の厚さとリテラシーがそもそも日本と違う気がする・・・。
 戒厳令下の光州が舞台で、非常にシリアスな背景なのだが、人情ドラマとして、活劇として、まさかのカーアクション映画として面白かった。もうちょっと短くてもいいなとは思ったのだが(マンソプの動線設定に無駄が多いように思う)、サービス精神旺盛なエンターテイメントだと思う。史実(ヒンツペーターは実在の記者)を元にしているが、絶対にここはフィクションだ!という部分がクライマックスにあり、その絶対にフィクションな部分が本作の核になっているように思った。そこでやっていることは映画としてのフィクションなのだが、彼らの気持ちは当時実際にいた市井の人々の気持ちと同じことなのではないだろうか。
 マンソプは政治には興味がなく、光州のデモについても、学生ならデモなんてやらずに勉強しないと親不孝だと言う(そもそも報道規制がされており電話も遮断されていて光州の実情が外部にはわからないのだが)。「韓国は世界一住みやすい国だ」と言う彼が光州で見たものは、その「世界一住みやすい国」が市民に何を強いているのかという現実だった。どこかの変わった人達の反乱ではなく、自分と同じように普通に生きてきた人が、これはおかしいと声を上げていたのだ。一刻も早くソウルに戻りたがっていたマンソプだが、光州の出来事が彼の中で他人事ではなくなっていく。この他人事ではない感覚、映画を見ている側にとっても同じなのではないかと思うし、そこを狙って作られた作品だと思う。



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『ダウンサイズ』

 ノルウェーの科学者によって生物を縮小化する方法が発見され、身長180㎝の人間なら13㎝まで小さくなることが可能になった。環境破壊や食糧問題を解決する方法として注目され、各国で「ダウンサイズ」を選ぶ人々が徐々に増え、ダウンサイズされた人たちが暮らすコロニーも各地に建設されていく。ネブラスカ州オマハに暮らすポール・サフラネック(マット・デイモン)は少ない貯蓄でも豊かに暮らせるというダウンサイズされた世界に魅力を感じ、妻オードリー(クリステン・ウィグ)と共にダウンサイズを決意。しかし土壇場でオードリーは逃げ出してしまう。監督はアレクサンダー・ペイン。
 生物縮小技術によって人口増加による環境破壊を防ごうというのが話の発端なので、SF的な要素を含む話なのかなと思っていたら、予想外の方向に転がっていく。ダウンサイズはあくまで入口であって、そんなに大きい要素ではないと思う。ペイン監督作品の中では最もユーモラスなのでは。
 ポールは目新しい技術を知ったり、有名人に出会ったりすると、てらいなく「すごい!」と感心する単純で直な性格だ。またお人よしで「すごい!」と思った物事や人には影響されやすく流されやすい。ポール自身は平々凡々でこれといった資産もキャリアもなく、医大を退学せざるを得なかったというコンプレックスが少しある。自分は平凡で何者でもないと感じているからこそ、「何者か」である有名人に惹かれるのかもしれない。そこで変にひねくれたりしないところが、ポールのいい所なのだ。相手に流されやすいというのは、相手を肯定しているという側面もあるんだなと彼を見ていると思う。
 また理学療法士をしてたポールはお人よしと揶揄されるくらい、基本的に誰かの役に立ちたい人で、そのために自分のスキルを提供することにためらいがない。それだけで立派だと思うけど、当人としてはそれだけでは「何者かになった」気がしないんだろうなぁ。
 このポールの素直さ、流されやすさが、彼を予想もしなかった境地に連れて行く。彼を引っ張っていくのは東欧から来た商人であるドゥシャン・ミルコヴィッチや、インドネシアの活動家ノク・ラン・トラン(ホン・チャウ)等、アメリカ人ではなく外から来た人たちだ。一旦は文字通りの小さな世界に収まっていたポールが、街を越えコロニーを越え国境を越えていき、どんどん世界が広がるという爽快さ。視野が広くなるというよりも、どう流されても自分は自分であり続けるのだと確認するための旅みたいだ。流されるのも悪くないかもしれない。

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縮みゆく男 (扶桑社ミステリー)
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『ダンシング・ベートーヴェン』

 1964年に初演され、20世紀バレエ史上に残る傑作と謳われた、モーリス・ベジャール率いる20世紀バレエ団による演目。それはベートーヴェンの『第九交響曲』を踊ったものだったが、ベジャール亡き後は再演は不可能と言われてきた。その伝説的な演目が、2014年にモーリス・ベジャール・バレエ団と東京バレエ団の共同制作として再演された。その過酷な練習やリハーサルを追うドキュメンタリー。監督はアランチャ・アギーレ。
 総勢80人余りのダンサーとオーケストラ、ソロ歌手と合唱団という非常にスケールの大きい、加えてダンサーへの要求が過酷な演目の為、なかなか再演が難しい演目だそうなのだが、これは生で見て見たかったとつくづく思う。私はバレエもクラシックも門外漢なのだが、本作で撮影された『第九』はエネルギッシュで美しく、素晴らしい。スペクタクル感が強烈だ。
 ベジャールの振り付けって、やっぱりすごかったんだなと実感した。当然『第九交響曲』をダンスで表現しているわけだが、ダンスを介することで、この曲はこういう構造だったのか、こういう音楽だったのかと再発見したような気持ちになる。こんなに力強く、生命力に満ちた楽曲だったんだなー。『第九』というと年末に必ず聴くよなというイメージしかなく、そんなに好きな楽曲というわけでもなかった(そもそも私はさほどベートーヴェン好きではない)のだが、ダンスを見ていると何だか『第九』を好きになってくる。この「改めて見せる・聞かせる」力を持つダンスであると言う部分が、この演目の非凡さなのだと思う。
 人類の多様性を意識して演出された演目だそうだ。本作中の公演でも、バレエはアジアの東京バレエ団とヨーロッパのモーリス・ベジャール・バレエ団(ベジャール・バレエ団の中だけでも国籍・人種は様々)との合同だし、オーケストラはイスラエル・フィル。実際に総勢350名ほどのアーティストが参加しており、このあたりは「多種多様」を意識したものだろう。とは言え、一般から公募したと思しきダンサー要因(ダンサーとしての技能は素人)たちが皆黒人で、これは多様性を意識して逆に肌の色で括るような感じになっていないか?と疑問に思った。本作だとつかわれている映像が断片的なので、どういう文脈で彼らが選ばれたのかわからないのだ。そのあたり、何か説明して!もやもやしちゃう。

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2010-06-02


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