3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『タレンタイム 優しい歌』

 マレーシアのとある高校で、音楽コンクール「タレンタイム」が開催されつことになった。ピアノの弾き語りで出場するムルーは、彼女の送迎役になった耳の聞こえないマヘシュと恋に落ちる。オリジナル曲をギターの弾き語りで披露するハフィズは、母が末期の脳腫瘍で入院中。二胡奏者のカーホウは、何でも一番になれという父親からのプレッシャーに苦しみ、成績優秀なハフィズがカンニングをしたと嘘をついてしまう。監督はヤスミン・アフマド。
 ロミオとジュリエット的な恋愛、難病、同級生への嫉妬や家族問題等、ベタに泣かせてきそうな要素がてんこ盛りなのだが、不思議とそういう印象を受けない。一歩間違うと下品、通俗的すぎになりそうなところを、品よく踏みとどまっており、ベタだがとても瑞々しい。要素がトゥーマッチなのにそう感じさせないところが、面白いと思う。風通しがいいのだ。マレーシアは多民族、多宗教の多文化国家で特に都市部は様々な文化が入り混じっているようだが、その様々加減が本作に現れているように思う。
 群像劇であり、ムルーとマヘシュの恋愛が中心にあるのだが、強く印象に残るのは様々な家族の姿だった。ムルーの両親は父親が英国人、母はムスリムのマレーシア人で、結構裕福層な家庭だ。そしてとても仲がいい。特に父親と娘たちがダンスを披露しあう姿、足を「挙手」する父親の姿等には、通り一遍の「仲の良さ」演出ではない手応えがある。こういうやりとりが日常的で、関係性が密である様子がよく伝わるのだ。
 一方、マヘシュの家は父親が亡くなっており経済的には厳しいながらも、やはり家族仲はいい。しかし母親はある事件が起きたことで心を閉ざし、更にマヘシュがムスリムのムルーと恋に落ちたことに激怒する(マヘシュの家はヒンドゥー教)。また、ハフィズと母親の間には強い絆があり、ハフィズは本当に献身的なのだが、母親は自分が苦しむ姿を見せたくはない。お互いに愛情はあるが、それゆえに苦しんだりすれ違ったりする。基本的に、仲が険悪な家族は描かれていない為に、そのすれ違いが一層際立つのだ。また、仲がいい家族であっても、親は親、子供は子供であり、子供は保護される存在だが、同時に親子それぞれ独立した人格だという部分は踏まえられており、安心感があった。

『たかが世界の終り』

 作家のルイ(ギャスパー・ウリエル)は自分の死期が近いことを家族に告げる為、10数年ぶりに実家に帰る。母マルティーヌ(ナタリー・バイ)は息子の帰郷にはしゃぐが、兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)や年の離れた妹シュザンヌ(レア・セドゥー)の態度はぎこちない。アントワーヌの妻カトリーヌ(マリオン・コティヤール)は家族と衝突しがちなアントワーヌのフォローでマルティーヌにもルイにも気を遣う。ルイは告白するタイミングを見失っていく。原作は劇作家ジャン=リュック・ラガルスの舞台劇『まさに世界の終り』、監督はグザヴィエ・ドラン。
 相変わらず劇中音楽の選曲が上手い。あまりに嵌めすぎ、ショットの切り替えを音楽に合わせすぎで鼻につくという部分もなきにしもあらずなのだが、音楽と映像のリズムが合っているとそれだけで気分が上がるので、これはこれでいいと思う。ちゃんと物語のシチュエーションに合っている。ただ、それ以外の部分は意外とテンポが悪いのは残念。元々舞台劇だったからか、幕間のように何度か画面が暗転するのだが、それによってリズムが乱れているように思った。あんまり小刻みにしない方がよかったのかな。映像は概ね美しく、鮮やかな色の洗濯物や毛布が風に舞うシーンなどドラン監督が一躍スターダムになった『わたしはロランス』を彷彿とさせる。また、室内に差し込む光のとらえかたが美しい。ただ、本作の場合はその美しさ、スタイリッシュさがあまり機能していないように思った。むしろ、もっと泥臭い映像と演出だったらより印象が深まったかもしれない。
 ルイはゲイで、家族にはカミングアウトしていることがさらっと冒頭に明かされる。とは言え、ゲイだからというだけで家族から受けいられなかったというわけではなさそう。また彼は小説家、しかもそこそこ売れているらしいという文化的背景があるのでよけいに他の家族からすると異物感があるのだろう。そもそもこの家族は、お互いがお互いに対して異文化であり、会話を続けることがとにかく困難そうなのだ。家族として全く愛情がないわけではない。思いやりの心もある。しかしそれがプラスに働くことがないという、家族という泥沼を見てしまった感がある。家族だから理解しあえる、心が通じるというのは幻想で、距離を置いた方が円満に収まる家族もいるのだ。
 マルティーヌ、アントワーヌ、シュザンヌがやたらと大声で話すので、ヒステリックな印象を受ける。マルティーヌはひたすら自分の話を聞いてほしがり、アントワーヌはそれに反発して怒鳴り、さらにそれに反発してシュザンヌがわめくという悪循環。相手の話を聞く態勢が出来ないまま、ここまで来てしまった家族なのだろう。ルイは物静かではあるのだが、彼もまた相手の話に耳を傾けるという風ではない。彼は観察者ではあるが、対話者ではないのだ。彼だって変わる気がないという点では、他の家族と大差ない。自分の人生の終わりが見える時点になってもなお、人は変われないものなのか。

『タンジェリン』

 クリスマス・イブのロサンゼルス。娼婦のシンディは留守にしている間に恋人が浮気したと知り激怒、浮気相手の女を引きずり出すと意気込む。仕事仲間のアレクサンドラはシンディをなだめるが、今夜クラブのステージで歌うことで頭がいっぱい。2人はシンディの恋人とその浮気相手を探して町を行ったり来たりする。監督はショーン・ベイカー。
 全編iPhoneで撮影したことで話題になっている作品だが、そこばかりクローズアップされるのは、ちょっと違うんじゃないかなと思った。本作、スタンダードな娯楽映画として見られるようにかなり配慮されていると思う。意外とドラマ部分に注力しているのだ。特に、キャッチーな(ベタと言ってもいいくらい)音楽のはめ込み方のテンポの良さ、シンディとアレクサンドラの丁々発止なやりとり、下世話なもめごと等、キャッチーな要素が多い。特に音楽と動きのテンポを合わせることをかなり意識している。編集もキレがよくもたつかない。本編中、シンディもアレクサンドラもずっと移動し続けている、動き続けているのだが、動きに音楽が乗ると楽しい、見ていて気分が乗ってくるという単純なことをきちんと踏まえている。なんにせよ、映画を見る側を楽しませようという意欲が旺盛で、インディペンデンスである、低予算であるということを言い訳にしていない。低予算の割に音質、音の調整具合がいいことも、「映画」っぽさを支えている。監督が自分の手腕に酔っていないというか、作品に対して一定の距離感を保ち続けている感じ。
 シンディ、アレクサンドラを筆頭に、トランスジェンダーの娼婦たちのネットワークが描かれるが、トランスジェンダーという要素ばかり取り沙汰されると、トランスジェンダーと言っても色々な層の人がいるだろうし、更にトランスジェンダーの娼婦というくくりでも色々な人がいるだろうしな・・・とやや戸惑う。作中で出てくるトランスジェンダーの人たちがちょっと一様だなという印象だった(いわゆる"立ちんぼ”の娼婦たちのネットワークなので似たり寄ったりになるということかもしれないけど、皆が皆かしましいわけではないだろう)。トランスジェンダーという要素よりも、社会的な保障がなく、非常に不安定な立ち位置の人たちの話という要素の方が大きいのではないかと思った。シンディたちにしろ、常連客のタクシードライバーにしろ、仕事は不安定だしお金もなさそう。ちょっとしたトラブルが起きると一気に生活が崩れていきそうな怖さがある。彼らは表面上にぎやかでエネルギッシュだが、その下には大きな不安を抱えており、陰影が深い。

『退屈な日々にさようならを』

 映画監督の梶原は映画の仕事がろくになく、MV撮影を引き受けるが、予想外の事態に巻き来れていく。一方、父親から継いだ造園業をたたむことにした太郎には、10年近く音信不通の双子の弟がいた。監督・脚本は今泉力哉。
 梶原のパートと太郎のパートが、特に接点もなさそうに進行していく。普通だったら向後に少しずつ進めそうなところ、太郎のパートが延々と続く不思議なペース配分なので、これどうなるの?と心配になってくる。梶原のことを忘れかけたあたりでようやく再登場するので、このやりかたでちゃんと着地させられるというのはすごいなと感心した。だが、やはり太郎パートの方が長すぎてダレていた気がする。尺に画面が耐えられていないというか、映画としての必然性よりもこれを入れたいなという製作側の思いの方が前面に出ているように思った箇所が、いくつかあった。
 全般的に、製作側にとって身近に感じられる存在だからか、梶原のエピソードの方が具体性が高い。梶原の小物感に手応えがあるのだ。「映画以外は撮らない」という拘り(というより単に怠惰かアイディアがないかではないか)で収入もなく、同棲している恋人から愛想をつかされそうになるあたり、あーこういう人いそう!と笑ってしまう。
 友人が監督した映画を、梶原が見に行くというエピソードがある。映画上映の後の飲み会で、梶原は友人にねちねちとダメ出しをする。製作側も観客も知り合いみたいなもので、内輪で褒め合っているだけだ、こんなことやって意味があるのかと。当然梶原もその輪の中にいるわけで(だから飲み会まで誘われているんだし)、その批判は全て自分にブーメランとして戻ってくるわけだが。インディーズシーンに対する批判でもあり、自虐ギャグでもあるのだろう。ただ、本作が上映されていた劇場が、正に本作中の友人の映画が上映されていた劇場として撮影に使われた物件であり、来場していた観客の多くはおそらく業界(というかスタッフや出演者の)関係者、一般客として見に行った私は多分アウェイという雰囲気の中で見たので、自虐ギャグとしては結構(言った本人が)きつい。しかも本作、おそらくそういう「内輪」な環境以外で上映されなさそうな雰囲気なんだよな・・・。批判すら内輪の中で回収されていくしかないのかと若干気の毒にもなった。映画の面白さって、全然関係ない人の所にも届き得るという所にもあると思うので、そういう可能性が低そうだとなんだか切なくなる。

『誰のせいでもない』

 カナダのケベック州モントリオールに住む作家のトーマス(ジェイムズ・フランコ)はスランプ中で、恋人サラ(レイチェル・マクアダムス)との関係にも亀裂が入っていた。大雪の日に車で田舎道を走っていたトーマスは、目の前に飛び出してきた少年に慌ててブレーキをかける。少年が無事なことを確認して自宅に送ると、母親のケイト(シャルロット・ゲンズブール)は血相を変えて飛び出していった。この事故が、トーマスとサラ、その周囲の人たちの人生を変えていく。監督はヴィム・ヴェンダース。
 ヴィム・ヴェンダース監督の『Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』はこういう3Dの使い方があるのか!とすごく新鮮に思えたので、今回も3Dで見た。Pinaはダンスをする身体とそれが存在する空間をより際立たせる3Dの使い方だったが、今回は作中の空間を登場人物の心情や相手との関係性に合わせて操作するような演出だったように思う。
 トーマスとケイトが夜、電話で話すシーンがあるのだが、別々の場所にいた2人が同じ場所にいるのかとふと錯覚させるような瞬間があった(音声の調整による演出も大きいと思うが)。2Dで見たらこれほどはっとはしなかったんじゃないかなと思う。遠い、近い、という感覚が、2Dで見るのと3Dで見るのとだと(観客との距離感も含め)ちょっと違うような気がする。
 トーマスとケイトは物の考え方も生活習慣も随分違い、何も起こらなければ全く接点がなく、出会うこともなかったろうし仮に出会ったとしてもそう親しくはならなかったのではないか。そんな2人の人生がある事故によって交錯してしまう。それを悲劇(事故自体は悲劇としか言いようがないが)とも喜劇とも見せず、2人のその後10数年を断片的に見せていく。夜の電話のシーンは、唯一、2人の心が重なったと思えるもので、人生の不思議さを感じさせ、印象に残った。その他の部分では、トーマスはトーマスで、ケイトはケイトで自分のやり方で事故を乗り越え、人生を続けていく。ケイトの息子は事故とトーマス、そして自分に因果関係があると考え、悩む。確かに事故は彼の人生に起きたことでもあり、因果関係はあるだろう。しかしそこに過度な意味合いを見出そうとするのは、ちょっと違うんじゃないかなと思った。こういうのは、自分なりに何とか折り合いをつけていくしかないんだろう。ケイトの息子からは、トーマスは上手いことやった、ケイトは損をしたと見えるのかもしれないが、ケイトはケイトで、トーマスとは全く別のやり方で上手いことやったのだと思う。
 トーマスは他人に対してあまり共感的ではなく、どちらかというと自分本位。恋人とその娘と遊園地に行った際に事故が起き、トーマスは事故に遭った人を助ける。帰宅後、恋人は「何で動揺しないの、私は手が震えているのに」と彼をなじる。実際の所トーマス自身は危ない目に遭ったわけではないから動揺しない、恋人はもし自分や家族が事故に遭っていたらと想像して動揺するということなのだろうが、つまりトーマスはそういうタイプの人なのだ。それをなじられてもなぁという気もするが、彼の最後の行動は、純粋に相手の為だろう。本作の原題は「Everything Will Be Fine」だが、自分に向けてではなく、相手に向けての言葉なのだ。

『ダゲレオタイプの女』

 ダゲレオタイプを使う写真家ステファン(オリヴィエ・グルメ)の助手として雇われたジャン(タハール・ラヒム)は、ステファンの娘で写真のモデルを務めるマリー(コンスタンス・ルソー)に惹かれる。長時間を露光を必要とする為にモデルの体を拘束するダゲレオタイプは、マリーに負担を与えていた。ジャンはマリーを救い出そうとするが。監督は黒沢清。
 フランスで製作された、黒沢監督初の海外撮影・海外キャスト起用作品。しかし出来上がった作品はどう見ても黒沢清監督作品だし舞台が東京だろうがパリ郊外だろうが関係ないんだな!とある意味感動した。曇天空の下列車が止まるファーストショットで早くもわくわくする。大変美しく、黒沢映画ではおなじみのモチーフが次々と現れる。ドアはゆっくりと見るものを誘い込むように開き、なぜか室内に風が吹き込みカーテンはそよぎ、急に周囲が暗くなる。ロケハンの優秀さにも唸った。もうここしかない、くらいにぴったりとはまる場所を使っている。地下室など、黒沢清っぽすぎて笑ってしまったくらい。
 昔の人は写真は被写体の魂を抜くと信じていたと言うが、等身大のダゲレオタイプには確かにそのような妖気が漂っている。長時間拘束されるというのも、その拘束具の形状も禍々しい。ホラーの小道具としてはとっても優秀だ。とは言え、本作中、ダゲレオタイプの装置や写真自体は、ホラーの要素としてはそれほど大きくは機能しない。死者は勝手に動きだし、死者の世界と生者の世界は入り混じっていく。監督の前作『岸辺の旅』に少し通ずるものがあるかもしれない。扉の向こうを覗くシークエンスが何度か現れるが、往々にして扉は勝手に開き、こちら側よりもあちら側の方が明るく見えるという所が、誘い込まれるようで何とも怖い。死者は、明るいところにも平気で現れ行動する。
 しかし、2つの世界が重なり合い、死者は生きている時のように側にいるものの、生者との意思の疎通は阻害されている。おそらく彼女らには意思はあるのだが、生者のそれとは違い、もう理解することは出来ないしこちらの意思も通じない。そばにいるはずなのにどうしようもなく隔たれている感じが、悲恋(らしきもの)と呼応していく。

『太陽のめざめ』

 16歳の少年マロニー(ロッド・パラド)は幼い頃から何度も母親(サラ・フォレスティエ)と共に裁判所に呼び出されてきた。母親は育児放棄を疑われており、マロニーも問題児として学校から見放されていた。長年彼と対面してきた判事フローレンス(カトリーヌ・ドヌーブ)は教育係のヤン(ボノワ・マジメル)と共に、彼に手を差し伸べ続ける。監督はエマニュエル・ベルコ。
 冒頭、6才のマロニーの必死で周囲を窺う瞳(子役の演技が真に迫っていてすごいのだが、どこまで演技なんだろう)がいたたまれない。16歳のマロニーはうつむいたまま周囲を見ようとはせず、落ち着きがない。ちょっとしたことで怒りをぶちまけ、自分の怒りをコントロールできないのだ。そして、怒りや苛立ちをぶちまけてしまう自分に、彼が一番苛立っているように見える。
 彼の不安定さは、生活の基盤となる家庭の脆弱さから来ているのだろう。母親が母親として振舞っていないのだ。経済的な問題や父親の不在は、おそらくそれほど大きくはないのだと思う。マロニーの母親は若く、「友達感覚で楽しいママ」なのだろうが、母親は友達ではない。子供が子供を育てているようで、彼女もまだ誰かに保護してもらいたい様子が見え隠れし危なっかしい。「子供は親のおもちゃじゃない」と嘯くシーンでは、お前が言うか!と突っ込みたくなった。子供がかわいくないわけではないが、母親としての面倒くさい部分はやりたくない感じが言動のそこかしこに滲んでいる。
 しかしそんな母親でも、子供にとってはたった一人の母親で、むしろ自分が守らないとと思ってしまうのだろう。その思いが報われることがなさそうなのが、何ともやりきれなかった。マロニーは母親と弟との生活を守りたいのだろうが、本作は(というか、おそらくフランスでの児童問題に関する行政の方向性なのだろうが)その方向には進まない。マロニーが立て直さなくてはならないのは、あくまで自分の人生であり、母親と弟はまた別の問題なのだ。フローレンスやヤン、また施設のスタッフたちは子供達のことを考え手を尽くしているが、親や兄弟の代わりにはならないし、一線をひくように注意している。子供達の人生に立ち入りすぎないのだ。彼らの人生は、結局彼ら自身がなんとかしていくしかない。その手助けをするだけなのだという自戒のようでもあった。
 とはいえ、マロニーとフローレンス、マロニーとヤンの間には一種の絆があると言っていいだろう。特にヤンは自身もかつて問題児だったようで、マロニーに入れ込み過ぎだとフローレンスにたしなめられる所もあった。終盤、マロニーがヤンにストレートに思いを伝えるシーンもある。ただ、それでもやはり彼らは親子や友人ではない。あくまで職業上の、お互いの立場を踏まえた上での尊重や敬意なのだと思う。

『ターザン:REBORN』

 生後間もなくコンゴのジャングルに捨てられ、動物に育てられたターザン(アレクサンダー・スカルスガルド)は、研究者の父親を持つジェーン(マーゴット・ロビー)と出会い、イギリスでジョン・クレイトン3世として暮らしていた。英国政府から、コンゴを植民地とするベルギー国王の動向が気になるので視察に行ってほしいと依頼されたジョンは、妻ジェーンを伴いコンゴへ旅立つ。しかし何者かがジェーンをさらってしまう。監督はデビッド・イェーツ。
 原作はエドガー・ライス・バローズの古典小説で過去に何度も映像化されている『ターザン』だが、原典を映画化、あるいは過去作のリメイクではなく、ターザンの「その後」を描いている。大団円でイギリスに渡り、地位も財産も手に入れたジョンだが、イギリス貴族として暮らす冒頭の彼はどこか憂鬱そうだ。ターザンだけでなくジェーンも、貴族の娘としての暮らしにうんざりしている。舞台となるのはおそらく20世紀初頭(南北戦争を体験した登場人物がいるので、19世紀末かも)なので、女性に対する締め付けも厳しかったろう。元々の『ターザン』で想定されるであろう「めでたしめでたし」が、実際はそうでもなかった、むしろジャングルこそが彼らが生きる場所なのかも、という話にしているのはちょっと面白いが、そこをそれほど深く掘り下げるわけではないので、何だかもったいない気もする。
 本作、ストーリーを練っていないわけではないのだが、話の進め方が妙に平坦で、だらだらとした印象を受けた。この内容だったらもうちょっと短くできたんじゃないかという気もする。過去にさかのぼりターザンとジェーンの出会いも見せているので、余計に冗長さを感じた。ここ、説明しないと若い人はやっぱり「ターザンとは何ぞや」ってところがわからないかしら・・・(最後に映画化されたのは多分ディズニーのアニメーション『ターザン(1999)だもんなぁ)。いちいち説明しなくても何となくわかる設定だとは思うんだが。
 ターザンと言えば蔦をロープ代わりにしてジャングルを飛び回るあのシーンのイメージが強いが、本作でももちろん出てくる。多分3D版ではそこが見所になるんだろうけど、『スパイダーマン』シリーズ(サム・ライミ版)の影響って大きかったんだなと実感した。ただ本作よりも『スパイダーマン』の方が気持ちよさそうなんだよね・・・。ジャングルの中というロケーションの問題もあるのだろうが、画面がごちゃごちゃしすぎで何をしているのかよくわからないところも。
 主演のスカルスガルドは相当体を作りこんでいるし、キラッキラした美形っぷりで、初対面でジェーンが気を許してしまうのも何となく説得力がある。そりゃあつい見ちゃうな!と。

『ダーク・プレイス』

 1985年、カンザスで母親と2人の娘が惨殺される事件が起きた。生き残った8歳の娘ビリーの証言により、15歳の長男が逮捕され、終身刑となった。31歳になったビリー(シャリーズ・セロン)の元に、有名な殺人事件について語りあう「殺人クラブ」から招待状が届く。生活費に困っていたビリーは、謝礼金目当てでクラブに出席し、事件の真相を振り返り始める。監督・脚本はジル・パケ=ブレネール。原作はギリアン・フリンの小説『冥闇』。
 ギリアン・フリン原作映画と言えば、デヴィッド・フィンチャー監督による『ゴーン・ガール』が強烈だったが、本作は(原作は読んでいないのだが)意外とあっさりとした見せ方。予告編の方がおどろおどろしいくらいだ。またミステリとしては、『ゴーン・ガール』よりもフェア、というかストレートで、序盤で真相の半分くらいへの道筋が提示されているし、以降も意外と手掛かりを提示してくる。
 31歳のビリーは職もなくお金もなく、切羽詰まった状況なのだが、ほぼ自業自得で、映画を見る側が共感しにくいキャラクターだというところがちょっと面白い。殺人事件の生き残りになった8歳の彼女は有名人になり、多額の義援金と励ましのメッセージが送られてきた。彼女は長年その義援金で生活しており、働いたことがない。その義援金も尽き、生活は荒れる一方。過去の事件を調べ直すことになったのも、嫌々ながらお金の為(しかも当初の提示額よりも上げさせようと苦心する)だ。殺人事件、しかも家族間の殺人の遺族の心情など想像するしかないが、主人公であるビリーの言動に共感しにくい設計にしてあることで、事件の陰惨さのわりには、見ていて意外とストレスを感じない。ほどよい距離感があるのだ。それが迫力を削いでいる(多分、原作小説はもっとひしひしと怖いのではないかと思うので)とも言えるのだが、ストレートなサスペンス映画としてはちょうどいいかなと思う。逆に言うと、この内容で本気で攻められるとかなりしんどい・・・。
 8歳のビリーの証言は、本作の描写を見る限りでは信憑性はいまひとつで、この証言ひとつで兄を有罪にしてしまったというのはかなりとんでもないように思える。殺人クラブのメンバーも当然同じことを考え、ビリーに記憶の掘り起しを促すのだ。当初は、自分の証言は間違っていないと断言するビリーだが、本当にそれが正しかったのか?自分は実際は何を見たのか?そして他の関係者たちの話の信憑性はどの程度だったのか?と何重もの疑わしさが立ち現れてくる。過去と現在とが交互に描かれるのだが、疑わしさをひとつひとつ確認していくような構成になっているのも、「意外とあっさり」とした口当たりの一因かもしれない。

『団地』

 三代続いた老舗漢方薬店をたたみ、団地に越してきた山下ヒナ子(藤山直美)と清治(岸辺一徳)夫妻。ヒナ子がスーパーでバイトを始める一方で、昼間から裏山で散歩ばかりしている清治を見た団地の住民たちは、あることないこと噂する。ところがある日から、清治の姿が見かけられなくなり、殺人事件ではないかという噂が過熱していく。監督・脚本は坂本順治。
 阪本監督、突き抜けたなー!なかなか勇気がないとこっちの方向に振れないだろうなということをしれっとやっている。狭いコミュニティ内の人間関係のいやらしさを描く日常ものかと思ったら、明後日の方向に飛躍していった。わけわからないという人もいるだろうけど、私はこれ好きだなぁ。見終わった直後より、何日も経ってからじわじわと良さがこみ上げてきた。私は多分、本作のようにジャンルやお約束事をひょいと飛び越えていく映画が好きなんだろうな。
 題名の通り、本作の舞台は団地だ。団地って、もう「終わっていく」場所になっちゃったんだなと実感する。作中でも言及されているように空き室が増え、入居者は高齢者ばかり。若者が積極的に住みたい場所では最早ない。未来が感じられないのだ。そういう場所に、ヒナ子と清治はわざわざ引っ越してくる。徐々に明らかになるが、彼らはとある事情により、ある意味「終わってしまった」のだ。客観的にはそんなことなくても、2人の心の中では、やはり何かが終わってしまい、自分達もまた静かに終わりを迎えたい、あるいはヒナ子が言うように「おさらばする」つもりだったのだろう。
 本作はユーモラスでついつい笑ってしまう部分が多々ある。にもかかわらず、ふとした瞬間に深い悲しみや寂寥感が顔を覗かせる。ヒナ子夫妻も団地も共に「終わっていく」感覚をまとっているからだろう。「おさらばする」しか逃れる方法がない(もしかしたらそれでも逃れられない)苦しさや悲しさがあるのだ。裏山で清治が出会う中学生も、そういう苦しさを抱えている。彼のその後がとても気になった。
 藤山と岸辺の息が合っていて、2人がやりとりしているだけで妙に面白い。いわゆる「リアルな映画」の演技とはちょっとずらした、すこしだけ宙に浮いている感じが、逆に手応えを感じる。

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