3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『セールスマン』

 小さな劇団に所属する俳優夫婦、エマッド(シャハブ・ホセイニ)とラナ(タラネ・アリシュスティ)は、アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』に出演中だった。ある日、引っ越したばかりのアパートで、エマッドの留守中にラナが何者かに襲われる。ラナは警察へ届けることを拒み、エマッドは独自に犯人を捜し始める。監督・脚本はアスガー・ファルハディ。
 ファルハディ監督の作品は、『別離』にしろ『ある過去の行方』にしろ、カップル間のすれ違い、溝の開いていく過程のとらえ方が鋭く、毎回ひやりとする。本作も、エマッドとラナが事件が起こったことによって段々すれ違っていく様や、ふとした言葉で決定的な亀裂が入ってしまう様が生々しい。事件によってラナがどういう立場に立たされ、どういう傷を負っているのかということが、エマッドには今一つぴんときていない。あっそれ絶対言っちゃダメなやつー!という言葉が出た瞬間にはぴりついた。例えば、これがひき逃げ等交通事故のようなものだったら、ここまで溝は広がらなかっただろう。性犯罪の被害者は、被害者側にも落ち度があったと往々にして責められがちだが、ラナもそれを恐れて警察に届けない。警察の聴取に耐えられるかどうかも定かではないし、とても話せる状態ではないだろう。世間体が悪くて通報したくないのではなく、世間がどのように自分を見るか予想できるから通報したくないのだ。エマッドはその部分に思いが至らないので妻の態度に困惑し、自分での犯人探しに踏み切る。しかしラナがエマッドに求めているのはそういうことではないんだろうなぁ・・・。
 面白い、良くできた作品なのだが、監督の過去作『彼女の消えた浜辺』や『別離』に比べるときちんとしすぎているきらいがあって、スリリングさはさほどでもない。所定のものが、所定の場所に収まっていくという感じで、物語の枠からはみ出してくる強烈な違和感みたいなものがないのだ。犯人の背景の設定や、いわゆる「悪人」が登場するわけではなくタイミングの食い違いや心の隙等、諸々の連鎖によって悲劇が起きる、しかし誰を責めればいいというわけでもないという構造等、あえてわりきれない話にしていく、意図的な「収まらなさ」はある。しかし、それすら設計通り感が強く、ちょっとお行儀が良すぎるというか、整理されすぎな気がした。
 私が『セールスマンの死』をちゃんと見た(読んだ)ことがないのも、物足りなさの一因かもしれない。おそらく、『セールスマンの死』とリンクしてくる部分があるはずで、そこがわかるとより味わい深く見られるのでは。

別離 [DVD]
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2012-12-04


『聖杯たちの騎士』

 脚本家のリック(クリチャン・ベイル)はセレブとしてあちらこちらのパーティーに招かれ、享楽的な日々を送っていた。美しい女性達との記憶を辿る一方で、父親、弟との記憶もまとわりつく。監督はテレンス・マリック。
 例によってエマニュエル・ルベツキの美麗な撮影なのだが、ルベツキ節が強すぎてここ数作は何見ても似通った印象という部分は否めない。マリックは『ツリー・オブ・ライフ』以降、その変奏曲ばかりを撮っている気がする。本作もやはり、『ツリー~』と根っこは同じだ。女性達との関係がクローズアップされているようでいて、実の所リックの葛藤の大元は、家父長的な父親との関係、そして弟たちに対する罪悪感にある。男性間での関係の方が根の深い問題であって、対女性との問題は、むしろ根本的な問題からの逃避によって生じたもののように見える。また女性たちとの関係は一過性のもので、リックの中では甘美な思い出として処理されている部分も多々あるのではないか(スメタナの楽曲が何度か繰り返されるが、これが流れるシーンはセンチメンタルな思い出らしい)。
 『ツリー~』も父親との関係上の葛藤が延々と描かれていたが、本作もそれと同じ流れにある。加えて、本作ではリックの弟への言及がある。彼には複数の兄弟がいたらしいが、現存しているのは彼と弟のみ。弟は社会的には成功しているリックと異なり、どうやらその日暮らしらしい(享楽的っぽい所はリックと似ていて妙におかしいのだが)。また自殺したらしい弟がいたこともわかってくる。自殺の原因は父親との関係にあったらしく、リックは弟を残して家を出たことを悔やんでいるようだ。とは言え、死んだ弟とはもう対話は出来ず後悔は宙に浮いたまま。父親との対話も出来るんだか出来ないんだかという感じで、リックの葛藤は延々と続きそうでもある。
 近年のマリック監督作を見ていると、社会的に「大人の男」をやっていくことがどうにもこうにもしんどい、という叫びが共通して響いているように思う。そろそろ別のネタを・・・と思わないでもないのだが、監督にとってそれだけ根が深い問題ってことだろうか。

『セトウツミ』

 チャラい天然・瀬戸(菅田将暉)と、地味でクールな内海(池松壮亮)。2人の高校生が放課後に川沿いでただただ喋る75分。原作は大森立嗣。原作は此元和津谷也の同名漫画。
 瀬戸はサッカー部を早々に退部してヒマ、内海は塾に行くまで1時間強の時間をつぶしたい。そんな2人が、たまたま一緒にひまつぶしをするようになる。2人の会話には漫才によくあるシチュエーション「俺~やるからお前~やって」という振りがしばしば入る。これは関西、というか大阪ではスタンダードな日常会話上の振りなのだろうか・・・(本作の舞台は大阪。ロケ地は堺市らしい)。大概瀬戸がボケで内海がしぶしぶの体でツッコミにまわるが、段々内海が(そこはかとなく嬉々として)ボケに回り瀬戸がつっこむシチュエーションも出てくるあたりに、2人の関係性がこなれていく過程が見えてくる。
 瀬戸と内海は対称的なキャラクターだ。元サッカー部で人なつこくお調子者の瀬戸と、勉強は出来るらしいが覚めていて周囲に壁を作っている内海は、あまり接 点がなさそう。同じクラスにいても、多分親しい間柄にはならないだろう。彼らが一緒に遊びに行ったり、校内でつるんでいたりという姿は、あまり想像できない。では2人は友達ではないのかというと、やはり友達としか言いようがない。彼らが共有するのは、隙間の時間とでもいうべきものだ。この時間・場所では、クラス内のポジションからも、家庭からも、ちょっと自由になれるのではないか。2人が学校内でどういう様子なのか、どんな家庭環境なのかということは、あまり示されない(瀬戸は家族のことを話すが内海は一切話さない)。しかし、そういう背景を抜きにした友達というのも、成立するのではないかと思う。
 いくつかの章にわけられており、通してみると1年が過ぎているのだが、2人が出会う前を描く内海メインの章のみ、ちょっと味わいが違う。内海は他の章では内面をあまり見せないが、ここでは内海のモノローグでストーリーが進む。周囲との間に相当分厚い壁を作っているっぽいこと、瀬戸が指摘するように同級生を小馬鹿にしていることが裏付けられるわけだが、同級生に「壁がある」「小馬鹿にしている」と見抜かれる時点でそれほど大人ではないってことだなと妙に微笑ましくなった。同時に、自分の中にあった「内海的なもの」を思い出し赤面せざるをえない。

『世紀の光』

 特集上映「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」にて鑑賞。緑豊かな田舎の病院。新人の男性スタッフは女医に恋心を抱いている。一方、現代的な都会の病院。田舎の病院と同じような出来事が、同じ人たちによって繰り返される。監督・脚本はアピチャッポン・ウィーラセタクン。
 前半と後半で、同じようなことを舞台を変えてやっているような、過去と未来のような、あるいはパラレルワールドのような、なんとも不思議な作品。アピチャッポン監督の前作『ブンミおじさんの森』では、この世とあの世の地続き感が濃厚だったが、本作ではこの世がいくつもあると言ったほうがいいだろう。異界ではなく、どちらもこの世界、ただ位相が違うという感じだ。パラレルワールドなのか過去と未来なのかわからないが、同じような(しかし細部は異なる)人の営みが繰り返され続いていく。そういう意味では、いきなり異界とドッキングしてくる『ブンミおじさんの森』よりも、大分穏やかかもしれない。
 同じ夢のバリエーション違いを見ているような感覚に陥った。私は同じ町が舞台になる夢を度々見るのだが、その感じに似ている。実際、見ているとすごくいい気持ちで眠くなるんだけど・・・。
 光にあふれ穏やかに見えるが、所々、異界に引き込まれるような不穏な気配を感じた。特に終盤、建物の取り壊しが行われているシーンと、それに続く、謎の空調パイプみたいなもの(これに限らず後半の病院の設備は色々と謎だ・・・)に煙が吸い込まれていくシーンは、ビジュアルよりも先に音がフレームの外、ないしは次のショットから時間を越えて聴こえてくるような感じがする。人工物の方が、本作では得体のしれない不気味さを放っていた。そして、そこから脱力させる最後の公園のシーン。ニール&イライザの音楽のポップさも際立っていて笑っちゃう。

『ゼロの未来』

 コンピューターが支配する近未来社会。才能あるコンピュータープログラマーだったが、ある数式を解く為に引きこもっているコーエン・レス(クリストフ・ヴァルツ)。ある日、彼の元にデートサービス業の女性ベインズリー(メラニー・ティエリー)が現れる。最初は警戒していたコーエンだが、彼女に恋するようになる。更に、かつての“ボス”の息子だという天才プログラマーの少年ボブ(ルーカス・ヘッジズ)も出入りするようになり、コーエンの生活は徐々ににぎやかになってくる。監督はテリー・ギリアム。
 本作は何もかもコンピューターでコントロールされた近未来、といった設定のようなのだが、その未来のルックスはかなりレトロ。今時これをやるか?!ある意味新鮮さを感じる。20~30年前くらいの「未来」のイメージはこんなだったかもしれないなぁ。ギリアム監督に感覚が古いというのではなくて、こういうのが好きだから俺にとっての未来は永遠にこれだざ!というような拘りを、美術の細部まで感じる。肝心のコンピューターがTVゲームみたいだったり、変な所が手動だったりで、ちょっと(いまどきこれをやるのかと)あっけにとられた。いやーこういうの昔見たなぁ!というディティールばかり。これを2015年にわざわざやるのって、結構度胸があるよな・・・。
 コーエンはある電話を待ち続けている。その電話が彼に世界の真理を教えてくれると信じているのだ。ならない電話を待ち続ける姿は、『ゴドーを待ちながら』を連想させる。しかしゴドーなのだとしたら、彼の電話は永遠にならないのではないか。もっとも、コーエンは「声」を聞くことは聞く。ただ、その声は彼が期待していたようなものは与えてくれない、むしろ彼の信じていたものを否定してしまう。
 ただ、コーエンはもはや「声」を必要としていなかったのではないだろうか。彼はベインズリーに恋し、ボブによって家の外の世界へ引っ張り出される。1人で完結していた世界は相手のいる世界になり、ベインズリーやボブの窮地を救おうと奮闘までする。彼は最初、一人称が「私たち」だった。しかしふとした拍子に「私」になる。自分以外がいる世界に足を踏み入れるのだ。彼は結局また「待つ」ことになるのだが、今度は正体がわからない何者かではなく、共に何かを分かち合える相手を待つのだ。

『セッション』

 ジャズドラマーとしての成功を夢見て名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)は、伝説の教師と呼ばれるフレッチャー(J・K・シモンズ)に師事する。しかしフレッチャーは理不尽とも思える指導や容赦ない罵倒でプレッシャーを与えてくる。監督はデイミアン・チャゼル。
 面白いと評判だし、確かにつまらないわけではないんだけど、何か違うなーという気分をぬぐえなかった。話のリアリティ云々とかキャラクターが云々というわけではない。フレッチャーはパワハラモラハラセクハラをフル活用する、実際だったら速攻で学生が大学上層部に訴えてクビであろうくそったれだし、ニーマンも自己愛をこじらせたような若者だ。2人ともあまり好感の持てる人ではない。もっとも、それはそういうキャラクター設定にしているのだろうから、それはそれでいい(フレッチャーに関してはすごーく嫌な気分になったけど)。
 ただ、2人が音楽をやっている人なのに、音楽がすごく好きだという感じがしない。音楽そのものと向き合っているのではなくて、自分の面子の為に音楽を使っているように思えた。フレッチャーが終盤で行うある行為は、まさにそういうものだろう。演奏がビッグバンド形式、つまり「合奏」なので、よけいに解せない。フレッチャーの行為はバンド全体をめちゃめちゃにするものだ。すぐれた教師だというのなら、何で自分の教え子たちの音楽をつぶすようなことをするのか。また、音楽を愛しているのならなんで演奏をめちゃめちゃにするようなことをするのか。
 ニーマンにしても、偉大な音楽家になりたいというばかりで、どういう音楽をやりたいのかわからないし、ソリストならともかくバンドの中で演奏しているのに他の人の音を聴いている感じがしない。自分のことばかりなのだ。バンドってそういうものじゃないんじゃないの、全員で音楽を作っていくものなんじゃないのと、すっきりしない。
 では音楽は一旦置いておいて、ニーマンとフレッチャーのバトルものとしてはどうかと思ったのだが、こちらもいただけない。フレッチャーのプレッシャーの与え方がモラルハラスメントすぎるのだ。いきなり相手、しかも自分より立場の弱い者を恫喝し支配権を握り、一方的に痛めつけるというのは、戦い以前の問題になってしまう。私にとっていいバトルものとは、双方が憎しみあっていたとしても、対戦相手としての敬意は持っているようなものだからだ。最後にとってつけたような展開があるが、お互いにお茶を濁したといった程度で、敬意は感じられなかった。
 フレッチャーは、チャーリー・パーカーはけなされたことから奮闘して天才として開花した、パーカーが生まれるならいくらでも生徒を罵倒すると言うが、そもそもパーカーはけなされようが褒められようがパーカーになったと思うんだよね。そこにフレッチャーのような教師は不要だろう。プレッシャー与え続けないと育たない才能なんてその程度のもので、どちらにせよフレッチャーの元にパーカーは現れないんじゃないかな。

『青天の霹靂』

 売れないマジシャンの轟晴夫(大泉洋)はホームレスになっていた父の死を知らされ、人生に絶望する。次の瞬間、雷に打たれ、気づくと昭和48年にタイムスリップしていた。自分が生まれる前の母・悦子(柴崎コウ)、父・正太郎(劇団ひとり)と出会い、正太郎とコンビを組んで浅草の舞台に立つことになる。原作小説・監督は劇団ひとり。
 近年増えてきた芸人監督映画の中では、ちょっと傑出している。こんなに安定感がある作品だとは思わなかった。感動シーンが少々長いなとか、劇団ひとりが演じる役が彼のネタ上のキャラクターに見えてしまうとかいう難点はあるものの、危なげがない。背伸びをしすぎず、オーソドックスなドラマ作りをきちんとやろうという姿勢が感じられた。何より上映時間が約90分という短さなところが素晴らしい。割愛してもいいところはばっさり割愛している(結構作中時間が飛ぶ)という思い切りのよさ。90分にまとまっていてかつ面白いって、手際がいいってことだよなぁ。劇団ひとりの多才ぶりを実感した。映画の素養がこんなにある人だとは思わなかった。
 タイムスリップものの映画にしろ小説にしろ多いと思うが、本作の晴夫は、タイムスリップした先に骨をうずめてしまおうと思いきるところが面白い。現代での晴夫はろくに仕事もなく、家族や友人もいない天涯孤独の身で、自分が生きている意味などないと思い詰めていた。だったら、演芸がまだ盛んだった時代の方がまだしも生きやすいかもしれない。また、晴夫は両親に見捨てられて育ったという思いがあり、若い両親に対しても(相手は何も知らないのでいぶかしむだけだが)つい恨みつらみが出てしまう。彼は自分には居場所がない、自分を必要としている人などいないと思って生きてきた人なのだ。そんな彼が、若い両親と会うことで、本当に自分はひとりだったのか、両親はなぜ自分を捨てたのか見つめなおしていく。
 タイムスリップものにしろ異世界トリップものにしろ、「あっち」に行って、「こっち」に帰ってくる、そして何かを持ち帰ってくる、という展開があると安心するのだが、本作にはそれがちゃんとある。「こっち」での晴夫の境遇は多分変わらないのだが、彼の心持は変わるんだろうなと思えるのだ。
 晴夫と正太郎が、変なところで見栄を張るところが妙に似ていておかしくもやるせなかった。もう意地を張る以外のやり方がわからなくなっちゃう時ってあるんだよなぁと。正太郎がその無駄な見栄を何の為に捨てたのか、というのが本作の泣き所だと思う。

『聖者の午後』

 サンパウロに住む80年代生まれの男女。年金暮らしの祖母と同居しているルカ(31歳)、あと2週間で薬局を解雇されるルイス(29歳)、熱帯魚店で働くルイスの恋人ルアラ(30歳)。ぱっとしない生活に出口は見えず、不安はつのるが動き出せない。監督はフランシスコ・ガルシア。
 ブラジルといえばサッカー!サンバ!という陽気なイメージがあるが、本作にはサッカーもサンバも出てこない。モノクロ画面でどんよりとした空気が漂っている。3人の男女のメンタリティや陥っている状況は、むしろ日本の同年代(全員じゃないだろうけど)とよく似ている。ルアラに対して下心みえみえの中年男性客が、「今の若者には野心がない。私が若いころは~」と話し出したのには、ブラジルのおじさんも日本のおじさんと同じことを言っている!と笑ってしまった。 そもそも時代背景や置かれた環境といった前提条件が違うのに、昔と同じような感覚で言われても困るよなと。若者は確かにどの時代でも若者ではあるのだが、それぞれ違って当然、野心を持つも持たないも自由だし、野心のあり方自体が変わってきているだろう。むしろ、欲望が多様化しすぎてどれが自分にマッチするのかわからないという面もあるかもしれない。
 次のステップへ走り出せない(ドライブに行こうとしたら車すら故障する!)ルカたちの日々を描くので、雰囲気はどんよりとしてはいるものの、彼らに注がれるまなざしはきつくはない。監督の彼らに対するシンパシーもあるのかもしれないし、ルカの祖母に対して3人が見せる優しさによるものかもしれない。祖母もまた、3人とは違った形で世間から取りこぼされているが、彼女の存在が陰鬱さを緩和している。


『青春の殺人者』

 自動車整備工場を営む両親に育てられた斉木順(水谷豊)は、大学進学を反対され、親の援助を受けてスナックの営業を始める。しかし、同棲している幼馴染の常世田ケイ子(原田美枝子)とは別れろと迫られ、父親(内田良平)を刺殺。順をかばおうとした母親(市原悦子)も殺してしまう。原作は中上健次の短編小説『蛇淫』。長谷川和彦監督、1976年のデビュー作となる。
 順のスナックは成田空港近くにあるのだが、まだ空港建設反対デモ等が行われていて、さすがに時代を感じる。順は自分でも具体的な理由がわからないまま両親を殺してしまい、いっそ堕ちるところまで堕ちたいという衝動を抱えつつ、逃亡することも堕ちることすら頓挫してしまう。おかしくも哀しい青春物語だ。順の弱弱しさにもケイ子のずぶとさにもイライラするが、これがあの時代の「若者」という感じだったんだろうか。少なくともケイ子に関しては、今だったらこういう、度直球に無学でエロいという女性描写はないだろうなと思うが。
 今見てみると、出演者がかなり豪華。主演の水谷と原田はいわずもがなだが、母親役が市原だし、順の元同級生役で地井武雄と桃井かおりが出演時間は短いものの登場する。桃井かおりはこの頃から桃井かおりとして完成されてたんだなと妙におかしかった。それにしても、水谷も原田も若い!水谷は今もあんまり雰囲気が変わっていないところがすごいのだが、「青春」の雰囲気をずっと纏っている俳優なのかなと思う。
 最も凄みを見せるのは母親役の市原だろう。息子を溺愛し、独占しようとする母の妄執には鬼気迫るものがあった。市原悦子って美人ではないけどこの頃は妙に色っぽく、息子といても男と女みたいな雰囲気が出てくるところが面白い。こんな母親だったら、そりゃあ殺すくらいしか逃れる方法ないかもね、とうっかり思ってしまうくらいの濃さだった。

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蛇淫 (講談社文芸文庫)
中上 健次
講談社
1996-09-10


『セインツ 約束の果て』

 1970年代のテキサス。窃盗・強盗を繰り返してきたボブ(ケイシー・アフレック)とルース(ルーニー・マーラー)のカップル。ルースが妊娠したことを機に足を洗おうとするが、最後の仕事で警察に追い詰められ、ルースは警官を射殺してしまう。ボブは身代わりとなって刑務所に入った。数年後、ルースまだ見ぬと娘に会う為にボブは脱獄するルースはボブを待ち続けていたが、地元の保安官パトリック(ベン・フォスター)は彼女に思いを寄せていた。監督はデビッド・ロウリー。
 三角関係かと思っていたら、1組の男女プラス1人、しかもその1人はほぼ蚊帳の外という感じで、三角関係未満。ルースとパトリックは惹かれあってはいるし、ルースはパトリックに安らぎを感じるが、それ以上にルースとボブの繋がりが深い。ほどけてしまう方がお互い楽だし幸せ(少なくともルースは)になれるのかもしれないが、いやおうなく結びついており離れられないし、他者が介入できない。メロドラマといえばメロドラマなのだが、運命が歴然としてそこにあり、それにあらがえないという世界観は、より神話に近いものだったと思う。
 アメリカンニューシネマの影響が色濃いと評された作品だが、確かにそんな雰囲気がある。私が見たときはデジタル上映(しかやっていないのか?)だがフィルムで見た見たくなるような風合いがあった。映像は美しく、テキサスのおそらく乾いた、時に殺風景な風土を思わせる。ああ映画だ!という感じが(私にとっては)するし、古いものも新しいものも映画をたくさん見てきた人が撮った作品なんだという気がした。人がただ歩いているだけのシーンがしみじみいい。それだけでいい映画のような気がしてしまう(笑)。舞台となった土地の風土のせいかもしれないが、ちょっとコーマック・マッカーシーの小説を思い出した。ある流れに逆らえない・逆らわない人間のあり方もそう思わせるのか。

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