3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『セールス・ガールの考現学』

 原子工学を学ぶ大学生サロール(バヤルツェツェグ・バヤルジャルガル)は、骨折した同級生からアルバイトの代理を頼まれる。そのバイトとはアダルトショップの店員だった。経歴も年齢も不詳なオーナーのカティア(エンフトール・オィドブジャムツ)と交流するうち、サロールは自分が本当にやりたいことに気付いていく。監督・脚本はジャンチブドルジ・センゲドルジ。
 風変りなアルバイトを通じて若者が変化していくという筋立てはオーソドックスなのだが、舞台がモンゴルの首都ウランバートルだという所が、日本で見る映画の中では珍しい。ただ、ウランバートルは都市部なので他のアジア圏の都市部と人々の生活様式はそんなに変わらない。今のモンゴルの都市部の若者がどういう生活をしているのかという側面が垣間見られることが新鮮だった(私の中のモンゴルのイメージが乏しいという要因が大きいが)。いわゆるエキゾチズムのようなものはなく、私たちと同じような(そしてそれぞれ違う)青春があるんだなと親近感を覚えた。冒頭、「バナナ」に至るまでのリズムの良さで捕まれる。
 年代の離れた女性2人の間に友情めいたものが生まれてくる様が清々しい。2人の間にはジェネレーションギャップ、価値観のギャップもあるが、それを踏まえた上での思いやりもある。若者であるサロールの方が人生観がコンサバだというあたりは、逆に現代的なのかもしれないと思った。サロールはカティアの人生は中身が空っぽだと言うが、それは空っぽなのではなくサロールが思う「人生」にはまらないというだけでは。カティアの過去も内面も実際のところはわからないままそういう指摘をしてしまうあたりが、若いな…という感じで苦笑いをしたくなる。自分や自分の親が送ってきたような人生を否定したくないというのはわかるのだが、そうでない人生にも実も花もある。サロールはやがてそれに気付くから、自分がしたいことへの道を踏み出すことができたのでは。彼女がどんどんすきにやっていくようになる様がよかった。アダルトショップでは最初から意外と落ち着いて接客しているので、元々度胸がある人なのでは?とも思ったが。
 なかなか良い青春映画だが、アダルトショップ=セックスに関わることで一皮むけるというのはあまりに紋切り型で正直少々古臭い。これが新しい・冒険であると思えるような環境にサロールがいたしそういう価値観にはまれる性質だった(そして本作が作られた環境がそういうものだった)ということなのかもしれないが。

ローラーガールズ・ダイアリー (字幕版)
クリステン・ウィグ
2013-05-15


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2022-01-07



『せかいのおきく』

 安政5年。22歳のおきく(黒木華)は武家の娘だが、父親(佐藤浩市)が失脚し今は貧乏長屋暮らしだ。ある日、雨宿りがきっかけで下肥え買いの矢亮(池松壮亮)とその弟分・中次(寛一郎)と言葉を交わすようになる。おきくは中次に密かに恋心を抱くようになる。監督は阪本順治。
 青春と恋愛と糞便という組み合わせが奇妙にも思えるが、本作は元々、プロデューサーを務める美術監督の原田満生が、地球環境を守るための課題を映画で考えるという意図の元に立ち上げた企画「YOIHI PROJECT」の第1作として作られたのだそうだ。江戸時代の糞便を回収して田畑の為の堆肥にするという循環システムを背景においたのはその為だろう。
 ただ確かにそういった社会システムが物語の背景にあるものの、いわゆるエコロジーやリサイクル社会については、見ている間はほぼ意識に上がってこなかった。確かに循環型社会の一部が描かれているわけだが、それが作中の人々(当時の人々)にとってはごく普通のこと、生活の一部で、いちいち再利用だと意識しているわけではないからだろう。それがいいもの、環境に配慮したものだという意識も当然ない。映画を見ている間は彼らの視点で世界を見ていたということかもしれない。下肥え買いという商売の仕組み、やり方を垣間見られるという点では興味深かった。糞便を買い取って堆肥化した後に売るのだが、値段を吊り上げる売り主がいる(排泄物なのに…)とか、畑に堆肥を撒くのも仕事の一環なのかとか、お仕事映画的でもある。ストライキ(と言う言葉は当然出てこないが)してやろかみたいなセリフも出てくるのだが、彼らがストライキしたら本当に町中が困るわけだ。
 文字通り糞にまみれて仕事に励む矢亮と中次の悲喜こもごもはバディものとして味わいもある。矢亮の商売の為なら何を言われてもうけ流せ口が減らない、頭を下げるのも罵倒されるのも商売のうちという態度は一見タフだ。一方で中次はあまりものを考えていなさそうというか、どこかぼんやりしている。そんな中次に、口ばっかりで行動できないのは心の弱さだと指摘される矢亮のピリつきが印象に残った。このシーン自体は唐突に挿入された感があるのだが、矢亮の人柄の一面を指摘しているし、その後の矢亮のある行動がより小気味よく感じられる。
 おきくが恋する様の描写は古典少女漫画的と言ってもいいくらいで、ちょっと笑ってしまうくらい純情。糞便が日常だとすると恋は非日常だ。ただ本作、恋をすると世界が変わる・広がるという話でもなく、世界は常にそこにある。その中で人と人が出会うと、そこにお互いのいる世界がある、ということがより強く意識されるという感じがした。おきくと中次が動作のみで何とか思いを表現しようとする様は、私のいる世界にあなたがいる、と伝えあっているようにも思えた。
 本作はモノクロなのだが、ところどころでカラーになる。糞便が頻繁に出てくる以上、これは確かにモノクロで正解だったかもと思っていたら、ちゃんとカラーで見せるシーンもあった。糞便を仕事にしている人たちを描く以上ここでフィルターかけたらだめだろうという、妙に生真面目な姿勢を感じた。そのほかは主におきくの心情に大きな揺れや華やぎがあった時にカラーになるのだが、それと同列の扱いなのだ。

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2022-12-02


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『セールスマン』

 1960年代末のアメリカ。ミッドアメリカン・バイブル・カンパニーのセールスマンたちは、豪華版「聖書」を売るために、アメリカ全土を車で走り回って訪問販売に奔走している。ポール・ブレナン、通称“アナグマ”が率いるチーム、“ギッパー”チャーリー、“ウサギ”ジェームズ、“ブル”レイモンドは、ボストンからフロリダまで遠征する。監督はアルバート&デヴィッド・メイズルス。
 ジャン=リュック・ゴダールは、『パリところどころ』に撮影監督として参加したアルバートを「アメリカ最高のカメラマン」と評価したそうだ。確かに映像の切れが良い。ドキュメンタリーの場合、フィクションとはまた違った撮影スキルが必要だと思うのだが、撮影対象たちはカメラの前でも自然だし、ここぞというシーンをしっかりとらえている。またショットのつなぎ方が上手く、全編通してリズミカル。決して景気のいいシーンばかりではないのだが不思議と軽やかだ。これは監督の持ち味なんだろうな。
 車で移動する訪問販売=サラリーマンというのは、アメリカの小説や映画を見ていると時々登場するが、こういう働き方なのかと本作を見て腑に落ちた。チームで行動しているというのは意外だったが、これは会社の方針によりまちまちなんだろう。会社の総会のような場でトップがスピーチをするのだが、英語がわからなくてもリズムが良く、キャッチーな話し方だということがわかる(字幕では割と普通の内容なので、話し方が上手いということだと思う)。さすがプロ。訪問販売という手法は全員同じなのだが、セールストークの仕方はそれぞれちょっとづつ違う、個々の流儀があるらしいあたりも面白い。第三者として聞いているとこれは無理そう…という場面もあるのだが、ここからどうひっくり返したの?!という展開も。
 ポールらセールスマン同士の仲間意識が結構しっかりしているのは意外だった。もっとライバル意識バチバチかと思っていたら、道中一緒にカードやプールで遊んだりする。また売り上げが伸びず落ち込んでいる仲間を気遣ったり、全員でシュミレーショントークをしたりもする姿も。趣味レーションの途中から無茶ぶりし始めるあたり、笑ってしまうのだが。
 売る商品が豪華「聖書」、しかも企業として商売できるくらいには売れるというあたり、日本ではちょっと想像しにくい。ただ「売る」という行為自体は聖書だろうが掃除機だろうが自動車だろうが同じ。セールストークされる側は迷惑だったりもするが、セールスマンが邪険に扱われると少々辛い。支払いさせる段になると話さくさく進めすぎて、ちょっと笑ってしまったが。


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『セイント・フランシス』

 レストランの給仕として働く34歳の独身女性ブリジット(ケリー・オサリバン)は、妊娠し中絶を決意。同時に仕事を探していた所、夏の間の短期仕事で子守りを請け負うことになる。子守りを任された6歳の少女フランシス(ラモナ・エディヒス=ウィリアムズ)やその両親との交流するうち、脚本は主演のケリー・オサリバン、監督はアレックス・トンプソン。
 ブリジットだけでなく、フランシスの両親である同性カップルの姿が、等身大の女性たちの物語としてぐっと迫ってくる。女性の生き方や身体の問題、直面しがちな差別意識や意識のギャップでちょっとづつ疲弊する感じがリアルに、しかし重くなりすぎずに描かれている。中絶は肉体的に精神的も大ごとだろうが、そこを過剰にネガティブに描かない所がいい。誰にでも起こり得る一般的な出来事としてフラットに描かれているし、罪悪感を持たせるような見せ方ではない。ブリジットが泣くのは罪悪感や後悔からではなく、「大変だった」ということへの共感や肯定が欲しかったからだろう。自分に非があるとは思わないが世間の「こうであれ」「これが正しいはず」という価値観に非難されている気がするというのは、意外と精神を削られるものだ。
 ブリジットが直面する諸々の不愉快さや面倒さの描写が重くならないからこそ、日常的にこういうシチュエーションが頻発しているんだよなとうんざりもする。冒頭のボーイフレンドの家でシーツ洗うくだりや避妊に関するマイルドな小競り合い等、ユーモラスではあるが当事者としては面倒くさいし結構へこむしきまり悪いだろう。彼は割と自然に接してブリジットを頭ごなしに否定はしない「理解ある」ボーイフレンドだが、それでもブリジットが何に苛立ち、傷ついているのかはぴんときていない。また、ブリジットの子守先の女性カップルも、子育ての中ですれ違っている。こういうすれ違いやギャップのもどかしさをひとつずつすり合わせていくのはしんどいが、彼女たちはなんとかやっていこうとする。そこに勇気が湧いてくる。
 ブリジットは特に子供が好きというわけではないが、フランシスとの間には信頼関係が出来ていく。フランシスを子供として扱いつつ個人として尊重するという、べたべたしない接し方が信頼を得たのではないか。幼い子供からの肯定によって救われるというのは、ちょっと都合が良すぎな気もしたが。

フランシス・ハ [Blu-ray]
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2015-05-02


 

『聖なる犯罪者』

 少年院で熱心なキリスト教徒となった20歳のダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は、前科者は聖職者になれないと知りつつも、神父になることを夢見ていた。仮釈放となり、田舎の製材所で働くことになったダニエルは、立ち寄った教会で新任の司教と勘違いされ、緊急入院した司祭の代理をすることになってしまう。村人たちは聖職者らしからぬダニエルに戸惑うが、徐々に彼の言葉に動かされ、信頼するようになる。監督はヤン・コマサ。
 元犯罪者が司祭になりすましたという実際の事件を元にしているそうだ。そもそも前科者は聖職者になれないという規定は、キリスト教の精神にのっとっているのか微妙なようにも思えるが…。ダニエルは非常に若いし見た目はチンピラだし、振る舞いも年齢相応でいまいち落ち着きがないので、村人は不審の眼で見る。また、信仰に熱心とはいえ説法も祭事も少年院内の礼拝で体験した知識しかないので、スマートフォンでやり方をいちいち検索する(時間が押しているから結構必死)のがおかしいやら心配になるやら。
 いつボロが出るかもわからない状態で、対応しないとならない問題が起きる度に早くとんずらすればいいのに!と思うし、ダニエル自身も最初は逃げようとする。が、その都度思いとどまったり引っ込みがつかなくなったりで、ずるずると居続けてしまう。彼がニセ司祭を辞められないのは自身の夢もあるだろうが、司祭という職業が地域社会内で尊敬されるもの、一目おかれるものだからという側面も大きいだろう。そこに根拠がなくても周囲からの承認や地域内で相応のポジションがあるというのは、おそらく居場所がなかった彼にとってはやみつきになる環境だったのでは。長くいればいるほどリスクは増すのにそこにしがみついてしまうダニエルの姿は、愚かしいと同時に切なくもある。
 ダニエルは交通事故の遺族たちを癒そうとあれこれ模索するが、参考にしているのが少年院内で行われるアンガーマネジメントや説教なので、傍から見ていると奇妙だ。これが不思議と遺族の悲しみにはまりはじめる。ダニエルのパフォーマンスの派手さと、この人は私の苦しみをわかってくれる!と思わせてしまう共感が合わさると、その信憑性とか知識教養の裏付けとは別問題として、説得力を持ってしまう。カルトの誕生みたいでちょっと気持ち悪かった。
 一方、ダニエルが交通事故加害者遺族のことも救済しようとし始めると、村人たちは一気に手のひらを反す。加害者遺族に対する被害者遺族の許せなさはわからなくはないが、執拗な村八分は理解し難い。そういうことをしていても、「この村の人たちは善良」「信仰が支え」と言い切ってしまうメンタリティが気持ち悪いのだ。元犯罪者がニセ聖職者に、と言う切り口のストーリーだが、村社会の閉塞感、ごく普通の人達の狭量さの負のインパクトの方が強烈に残る。

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『声優夫婦の甘くない生活』

 1990年、ソ連からイスラエルへ移住したヴィクトル(ウラジミール・フリードマン)とラヤ(マリア・ベルキン)夫婦。映画の吹替え声優としてのキャリアを活かして再就職しようとするが、需要がなく仕事が見つからない。ラヤはヴィクトルには内緒でテレフォンセックスの仕事を始めるが、意外な才能を発揮し贔屓客も着いてくる。一方ヴィクトルは海賊版ビデオ店で映画吹替えの仕事を得るが。監督はエフゲニー・ルーマン。
 監督自身が旧ソ連圏からの移民だったそうで、ヴィクトルとラヤが体験するカルチャーショックやギャップは、実体験によるものなのだろうか。邦題はフェリーニの『甘い生活』(ヴィクトルはフェリーニを敬愛している)のパロディだが、ヴィクトルとラヤの生活は邦題の通り甘くなく、ほろ苦いししょっぱい。若くはない状態で仕事が見つからないという状況は経済的にもプライド面でもかなりきつい。また、自分たちと同じ民族の国だが言葉は通じない、風土も生活環境もちょっと違うという、生活する中でのストレスが少しずつ溜まっていく。同じだけど違う、という微妙さは、傍で思うよりも結構きついものなのだろうなと思わされる。
 更に、夫婦間の溝も深まっていくのだ。ヴィクトルが新しい環境に馴染めないのに対し、ラヤは早々に仕事を見つけ、ヘブライ語の学習もしていく。語学学校での2人の姿勢の違いが対称的だった。ヴィクトルは自分のキャリアを輝かしいものと自負しているが、ラヤは「その他大勢」扱いだったことに不満があり未練がないからかもしれない。こういう夫婦間のギャップは移民ならずとも、定年退職後等にはありそうだなと思った。妻はそれぞれ自由に暮らしたいと思う一方、夫はようやく夫婦2人で過ごせると思っているという。でも2人で過ごし続けるにはそれまでの積み重ねが必須なんだよなと。ヴィクトルはラヤのことを愛してはいるが、独りよがりで彼女が実際何を考えているのかには思いが及ばない。記念写真の撮り方も、彼にとっては記念なんだろうけどラヤにとってはどうなんだろうと。記念写真は2人で撮るものではないのか?

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『セノーテ』

 メキシコ、ユカタン半島北部にセノーテと呼ばれる洞窟内の泉がある。マヤ文明時代、水源として利用され、生贄が捧げられた場所でもあるという。現世と黄泉とをつなぐというセノーテを巡る言い伝え、人々の記憶が交錯していくドキュメンタリー。監督は小田香。
 セノーテの幻想的な姿と、周辺に暮らす人々の姿と語りから構成されており、ドキュメンタリーではあるが映像詩とでも言った方がふさわしそうなポエジーがある。今現在ここで暮らす人たちの姿、その生活の映像はなぜかぴんぼけな映像、輪郭があやふやで人にしろ場所にしろ個別化できない映像が多い。主体はやはりセノーテという場所であり、そこに暮らす人々の生活は背景として控えている。
 泉の存在、それにまつわる言い伝えや歴史は実際のものだが、映像とナレーションの組み合わせによって、現実から一層向こう側に立ち入ったような風景に見える。水中の風景に音が被されているのだが、水遊びをしている人々の喧騒らしきものが、太古の儀式のようにもの、生贄が泉に投げ入れられた水音のようにも聞こえてくる。時間を超越した不思議な魅力がある。また、水中には細かい塵状のものが舞っている場所もあるのだが、向こう側が見通しにくいことで、空間があるのに平面を追っているような奇妙な錯覚に陥る。自分が見ているのは一体何なのだ?とはっとする瞬間があるのだ。
 こういう絵を撮りたい、というよりも、ここにカメラを置いたらどういう絵になるか、という発想で撮られた作品のように思った。見方、角度がちょっと変わっただけで、全然違う世界が姿を現すという、世界の新鮮さ、豊かさに迫っている。泉自体は大昔からあるもので、その風景が大きく変わったというわけではないというだけに、何か不思議な気持ちになる。映像と音の魅力が大きい(というかほぼ全て)作品なので、音響の良い大画面な環境で見るほうがいいのだろうが、こういう作品を大きな劇場で上映するのはなかなか興行的に厳しそう。でも小さい画面で見るのは勿体ない。

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2016-03-26


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『精神0』

 2008年に製作された『精神』に登場した山本昌知医師は、82歳を迎え引退することに決める。「病気ではなく人を看る」「本人の話に耳を傾ける」「人薬(ひとぐすり)」をモットーに、長年患者と対峙し続けてきた医師の引退に、戸惑い不安を示す患者たち。一方で山本医師には妻・芳子さんとの生活があった。監督は想田和弘。
 前作から12年後、。山本医師が引退を決めても不思議ではないが、どういう形で医師という仕事に幕引きをするのか難しい。患者たちには引退することは伝えてあり、引継ぎ先の医師も紹介しているが、患者側は不安と戸惑いが隠せない。医師と患者の関係が深く信頼が厚いほど他の医師への変更には抵抗があるだろう。2者の関係が長年続きがち(それこそ10年20年なんてざらだろう)、かつ信頼関係が治療に直結している精神科ではその傾向はより顕著なのでは。特に山本医師の患者は症状が重度かつ長期の通院をしている方が多いので、なおいっそうだと思う。山本医師の「病気ではなく人を看る」「本人の話に耳を傾ける」「人薬(ひとぐすり)」という診療方針は個人と個人として相手を尊重するものだが、それは山本医師という一個人と結びついている。同じような姿勢を持った医師であっても、患者にとっては替わりにならない。山本医師の診察でないとだめなのだ。医師も年を取っていつかは引退していく(だけでなく病気や事故等色々な都合があるだろうが)以上、個人の特性に結びつきすぎた医療は危ういのかもしれないが、個として行うからこそ上手くいくというジレンマがある。遠方でも通う、先生でないと困るという患者側の必死さが伝わってきた。これは、他の精神科医、日本の病院の精神科医療に対する不信感の表れかもしれないが。
 精神科医としての山本医師の店じまいが前半だとすると、後半は山本医師と妻である芳子さんとの関係にフォーカスしていく。これは最初からそのつもりで撮影されたわけではなく、お二人の状況の経緯上そうなっていったということなのだと思うが、正直なところ前半をもっと見てみたかった。作品の軸が大分揺らいでしまっている。ただ、その揺らぎが「観察映画」の持ち味でもあるだろう。今回は山本医師も患者も想田監督とは既知の関係であり、そのせいで撮影者も全くの観察者には徹しにくくなっている。話しかけられる頻度は高くなるし、自宅で一緒に寿司を食べようと言われたりするし、ここは踏み込むべきか引くべきかという監督の躊躇があったように思う。被写体が観察者を巻き込む度合いが高くなっているのだ。特に自宅で山本医師がお茶を出そうとするくだりや、墓参りのくだりなど、うっかり手を貸してしまいそうな危うさがある。過去作品を見ると想田監督は相当ハートが強いようだが、本作のようなシチュエーションで踏みとどまるにも別方向でのハートの強さが必要そう。
 山本夫妻の老々介護の生活には、自分の祖父母を思い出した。芳子さんが引き出しを探っていたりテーブルの上のものをいじってみたり、何かしようとする気持ちはあるが何をどうすればいいのか、点と点が繋がっていない感じは痴呆が進みつつあった時期の祖母の行動に重なり切ない。山本医師のゆっくりとした動きと息遣いは、晩年の祖父のものにとても似ていた(祖父は炊事に慣れていたが)。

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2010-07-24


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2019-05-25


『迫りくる嵐』

 1997年、中国の小さな町で、若い女性の連続殺人事件が起きた。古い国営製鋼所で保安部の警備員をしているユィ・グオウェイ(ドアン・イーホン)は、探偵気分で警察の捜査に首を突っ込む。自ら犯人を捕まえようと奔走するユィは、段々事件にのめりこみ、ある行動を起こす。監督・脚本はドン・ユエ。
 ユィはどこにでもいるような、ごく普通の人だ。「名探偵」と呼ばれてその気になってしまうのは、どこにでもいる人ではなく、特別な何者かになりたいからだろう。この「何者かになりたい」という欲望は何なんだろうなと、しばしば思う。「何者か」という認識自体が状況に左右されるもので曖昧なのだ。周囲から評価されたいということなのか、自分のオンリーワン度合いを確認したいということなのか。グオウェイにとっては、世間から評価されたい、社会から軽く扱われたくないということなのかなと思った。グオウェイの恋人は彼のことを大切に思っているし、弟分も彼を慕っている。しかしそれはプライベートな世界での話で、彼にとっては不十分なのだろう。だからこそ、恋人は彼の行動に深く傷つき取り返しのつかないことになっていく。彼にとって生涯の思い出となっているのは、工場で表彰された記憶の方なのだ。
 この「何者か」になりたいという欲望が、グオウェイを犯人探しに駆り立てるのだが、駆り立てられるあまり、徐々に真相を追求するのではなく、自分が見たいものを見る、読み取りたい物語を勝手に読み取るようになっていく。彼が果たして本当に真相に近づいているのか、はたまた彼の中にだけある物語を繰り出しているのか、段々わからなくなっていくのだ。グオウェイの主観が入ることによる足元の不確かさをもっと味わいたかった気もする。個人的な趣味ではあるが、グオウェイの狂気が世界を飲み込むさまが見て見たくなるのだ。とは言え、そこまで「あちら側」に接近することが出来ないからこそ、彼は普通の人であり「何者か」にはなれないということなんだろうけど。
 中国が経済発展に向けて大きく動く最中の時代を舞台にしており、グオウェイの勤め先である国営工場のような文化は、時代に取り残されていく。そこで働いていた人たち、その周囲に暮らす人たちも同様だ。自身が時代に取り残されていく中で、グオウェイにとっての拠り所が殺人事件捜査であり、それにのめり込むことで「迫りくる嵐」から目を背けようとするかのようだ。最後までどこにも行けない彼の姿が痛切。

薄氷の殺人 [Blu-ray]
リャオ・ファン
ポニーキャニオン
2015-05-20


鉄西区 [DVD]
紀伊國屋書店
2013-05-25


『セルジオ&セルゲイ 宇宙からハロー!』

 東西冷戦時代が終わろうとしている1991年。キューバで暮らす大学教授のセルジオ(トマス・カオ)は、無線が趣味。アメリカ人の無線仲間ピーター(ロン・パールマン)が送ってくれた新しい無線機をさっそく試していると、宇宙ステーションに滞在中のソ連人宇宙飛行士セルゲイ(ヘクター・ノア)からの無線を受信する。2人は交信を続け心を通わせていくが、ソ連崩壊に伴い国内が混乱状態になった為、セルゲイは帰還無期限延長を言い渡されてしまう。セルジオはセルゲイを何とか救おうと奇策を思いつく。監督はエルネスト・ダラナス・セラーノ。
 邦題は能天気なサブタイトルが余計なのだが、心温まる好作だった。キューバとロシアの歌謡曲(なのか?)が多用されているのも楽しい。コメディ寄りの軽めの作風ではあるが、時代背景や当時のキューバの情勢、各国の歴史問題が反映されており陰影がある。
 セルジオもセルゲイも、そしてピーターも、自分の意思や思想とは関係なく、国家の都合に翻弄されていく。セルゲイなんて国の混乱で宇宙から帰れず、妻子は食料がなくて困窮しているし自分の命の危険にまでさらされていくのだ。情勢不安定なキューバではセルジオの教員の給与では食って行けず(はっきりわからなかったのだが未払いみたい・・・)、セルジオの母親は葉巻工場で働き始めるし、セルジオ自身も不承不承ながらラム酒の密造を始める。セルジオの隣人は亡命者用ボートに使う資材の調達で稼いでいる。キューバもソ連も国家としては破綻しており未来は不透明、しかし市井の人々は今を生きていくしかないという状況だ。セルジオとセルゲイが心を通わせる背景には、置かれた環境への共感があったとも思える。
 一方、アメリカ人のピーターはマルクスも共産主義もとんでもない、ソ連に肩入れするセルジオには同意しかねると言う。単なる共産主義嫌いというわけではなく、彼の場合は出自がポーランドでソ連に迫害されてきたという事情があるのだ。それでも、主義主張や国を越えて、お互いへの思いやりを示す彼らのやりとりは優しい。分かりあえない部分はわかりあえないまま、それでも相手の命を助けようと尽力するのだ。彼ら、特にセルジオとピーターを繋ぐのは無線愛好家という「同好の士」としての連帯感だろう。同じ趣味の人と気が合うと、とにかくうれしいものなのだ。
 セルジオ役のトマス・カオがとにかく「いい人」感を漂わせており、とても良かった。セルジオはそんなに強い人ではないし立ち回りも下手と言っていいくらいなのだが、真面目さと人柄の良さがある。カオ以外の人が演じたらこんなにいい感じにはならなかったんじゃないかな。

ゼロ・グラビティ [Blu-ray]
サンドラ・ブロック
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2014-12-03


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