3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『スパイダーマン ホームカミング』

 15歳の高校生ピーター・パーカー(トム・ホランド)はクモのような特殊能力を持ち、スパイダーマンとしてご近所の平和を守っていた。アイアンマンことトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr)から特性のスーツをもらい、ベルリンでアベンジャーズ同士の闘いに参加したピーターは、自分もアベンジャーズの一員になれると期待するが、トニーはピーターを子ども扱いして諌める。彼に認められたいピーターは、スターク社を敵視する謎の武器商人バルチャー(マイケル・キートン)を一人で追い始める。監督はジョン・ワッツ。
  私はサム・ライミ監督によるスパイダーマン三部作(ピーター役はトビー・マグワイヤ)が大好きなのだが、本作はそれとはまた違った、非常にティーンエイジャーらしいスパイダーマンで、これはこれですごく楽しかった。実際ピーターの設定年齢は下がっているのだが、言動が実に年相応。頭はいいのに思慮が足りなくて、やる気が空回りし失敗する(だがへこたれない)。注目されたいが自信がない、何者かになりたいが何者になれるのかわからない、誰かに認めてもらいたくてしょうがないというエネルギーが溢れている。ピーターは学校での自分はダサい奴で、スパイダーマンとしての力がなくなったら何もなくなると思っている。しかし実の所、彼の頭の良さは同級生も認める位には際立っており、これだけでも将来有望と言えるだろう。親友だっているし、両親はいないがメイおばさん(マリサ・トメイ)から深く愛されている。スパイダーマン部分なくてもアドバンテージ高いじゃん!と客観的には見える。これが必ずしも自己評価に繋がらない、自分を客観視できていないところがティーンっぽいし、学園ものっぽいなぁと思った。学校でのヒエラルキーって、勉強のでき具合と必ずしも比例しないもんね・・・。まずはルックスがそれなりでコミュニケーション能力高い人が有利だからなぁ・・・。
 スパイダーマンが活躍するのは「地元」であり、「隣人としてのヒーロー」というコンセプトであることが、最後まで一貫している。ピーターの最後の選択は、そういうことなのだ。これはアイアンマンに対するカウンターにもなっており、アベンジャーズシリーズと隣接しつつもちょっとスタンスが異なる作品なんだなとわかる。アイアンマン=スタークやソーは多分、弱い者・持たざる者に寄り添うことは出来ない(何しろ2人とも「持ってる」状態しか経験してないからな・・・)。本作の敵役であるバルチャーはスターク(が象徴・所属するもの)への強い反感・敵意を抱いているが、ピーターはむしろバルチャーと同じ側、市井の人間の側で生きてきた存在だ。だからこその闘いの結末ということだろう。スパイダーマンは彼の「隣人」でもあるのだ。
 今回、スパイダーマンのお目付け役、保護者役的なアイアンマン=スタークだが、裏側から見るとスタークが父親をやろうとする(が頓挫する)物語にも見える。スタークの大人として振舞い、勢いづくピーターを自重させようとする行動は概ね妥当ではあるのだが、どうも扱いあぐねている感が否めない。元々、スタークの対人スキルはあまり高くないということはアイアンマンシリーズで露呈しているが、年少者の振る舞い方のモデルが頭の中にない人なんだろうなと。逆に、相手が子供ではないと認識すればもっと適切な距離の取り方が出来るのかな。

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『スプリット』

 見知らぬ男に拉致され、密室に閉じ込められたケイシー(アニヤ・テイラー=ジョイ)、マルシア(ジェシカ・スーラ)、クレア(ヘイリー・ルー・リチャードソン)。ドアの外で男性と女性が話し合う声を聞いた3人は助けを求めるが、そこに現れたのは女性の服を着て女性のように振舞う誘拐犯だった。彼/彼女である「ケビン」(ジェームズ・マカヴォイ)には23の人格があり、先程の男もそのうちの1人だというのだ。監督・脚本はM・ナイト・シャマラン。
 監禁される恐怖の盛り上げ方、要所要所での小道具の使い方や伏線(フレッチャー医師の振る舞い等)は、ストレートにサスペンスとして面白いのだが、物語の要であろう「出現」シーンで、は?と脱力してしまった。そのまんまじゃん・・・。それまでのやりとりから見ている側が予想するであろうものからさほど外れないことに加え、視覚的にもさほど面白くない。あれ意外と地味・・・?と拍子抜けしてしまった。ケイシーの幼少時代の回想が随所で挿入されるのだが、これも早い段階でこの先何が起きるのかがわかってしまい、予想がつくこと自体はストーリー上の疵ではないが、まあげんなりさせられる内容ではある。
 ある変化がクライマックスとなっているわけだが、その「力」の根拠が、それってちょっとおかしくない?というものだった。私はシャマラン監督の『アンブレイカブル』の面白さがさっぱりわからないのだが、それと同じような納得のいかなさがある。人の傷や辛さってそれを被った本人にしかわからないのではないか、他人が評価するものではないのではないかと。ある人物の物言いに、「お前が言うなよ!何様だよ!」という気分になってくるのだ。そういう考え方が登場人物を救うんだろうなというのはわかるが。
 とは言え、面白いことは面白いし、何よりマカヴォイの1人23役はやはり見事。人格が入れ替わる瞬間がわかる、更に人格Aが人格Bを「演じている」姿まで、やり抜く様には唸った。

『スウィート17モンスター』

 17歳のネイディーン(ヘイリー・スタインフィルド)は家庭でも学校でも浮いた存在で、不満たらたらな日々を送っている。ある日、無二の親友である幼馴染のクリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)がハンサムで社交的な自分の兄・ダリアン(ブレイク・ジェナー)と付き合うことになり、自分とは全くタイプの違う兄を嫌っていたネイディーンは大ショック。クリスタに絶交宣言をし突飛な行動に出てしまう。監督はケリー・フレモン・クレイグ。
 ネイディーンにはクリスタ以外に友達がおらず、彼女を兄にとられたような気分になってすねてしまう。とは言え、ネイディーンは少々浮いてはいるものの、非常に変人であるとか、キャラクターが強烈であるとかいうわけではない。人並みの常識はあるし、やろうと思えば無難に振舞うことは出来る。むしろこのくらいの浮き方は、「普通」の範疇だろう。彼女が担任教師のブルーナー(ウッディ・ハレルソン)曰く「嫌われっ子」なのは、ひとえに普段の彼女の態度がちょっと感じ悪いからだろう。ブルーナーの言葉尻を捕えていちいち指摘し、「いちいち人のあげ足取って楽しいか?」と皮肉交じりで尋ねられるのだが、一考した後「うん」と答えるような子なのだ。
 この、浮いているけど「普通」の範疇で、感じ悪さも突き抜けたものではなく「普通」の範疇、というところが却ってシビアだ。こんなの自分でどうにかしないとどうにもならない!突出した個性がないということは、自分にとってこれだという強固な世界もない、よって逃げ場もないということだ。例えばすごく読書好きであるとか芸術のセンスがあるといった特徴があれば、そこが辛いときの拠り所になるのだが、ネイディーンにはそこまで思い入れのあるものはない。はぐれ者にすらなれない辛さというのもあるんだよなとしみじみとした。ネイディーンは相手とシチュエーションによっては感じよく振舞えるので、単に不器用、かつ人間関係の手間暇を面倒くさがっているんだろうけど・・・。このあたりが気遣いの人であるダリアンとの差異であり、彼女のコンプレックスを増大させている原因でもある。
 ネイディーンのちょっと面倒な青春物語であると同時に、彼女の家族の物語としての側面もある。私はむしろ、家族映画としてとても面白いし、細部に配慮がされていると思った。実は彼女の父親は数年前に死亡しており、その死がいまだに家族に影を落としている。ネイディーンの中では、自分は父親のお気に入り(兄は母親のお気に入り)であり、父親はウマの合わない母親との仲介役でもあった。父親が突然いなくなったことで、家族内が母親&兄 VS ネイディーンになってしまったという思いがある。母親も兄も父親がいなくなって大変ではあるのだが、自分のことでいっぱいいっぱいな彼女にはまだそこが見えていない。
 特に、母親が息子に依存気味でダリアンがいないと家庭崩壊しそうな気配が垣間見えてくるので、ネイディーンの動向よりもむしろ母と兄とのやりとりにハラハラしてしまった。ダリアンはルックス良好、成績も運動神経も良好で一見人生勝ち組だし実際ネイディーンに勝ち組宣言するのだが、ちゃんとした「出来のいい息子」だからこそ、母も妹も見捨てられず逃げ場がない。勝ち組以外の道がそもそも許されないのだ。ネイディーンは周囲に当たり散らす(このあたりは母親も似ている)ことができるが、彼はそれもできない。20歳になるかならないかくらいの若者にとっては荷重が重すぎ相当しんどいのではないかと思う。
 とは言え、なんだかんだ言ってもネイディーンが最終的に自分でなんとかしようとするところには希望がある。彼女に好意を示す同級生のアーウィン(ヘイデン・ゼトー)もブルーナーもバランスの取れた、返しの軽妙な人物なので、彼女が暴投しても荒れないところも良かった。ネイディーン(と母親)以外の人が人間出来すぎな気もするが、周囲の出来がいいから彼女がコンプレックス拗らせたって側面もあるのか・・・。


『スペース金融道』

宮内悠介著
人類が最初に移住・開拓に成功した太陽系外の星、通称、二番街。新生金融の二番街支社に勤務する“ぼく”は、上司ユーセフと共に債権回収に励んでいる。顧客の多くは大手があまり相手にしないアンドロイド。アンドロイドだろうがコンピュータウイルスだろうがバクテリアだろうが返済能力がある奴には貸す、そして核融合炉内だろうと零下190度の惑星だろうと地獄の底だろうと追いかけて取り立てるというのが会社のモットーだ。要領のいいユーセフとは違い、ぼくは貧乏くじばかりをひいていく。
取り立て屋コンビが活躍する連絡短篇集。先日読んだ著者の『彼女がエスパーだったころ』はしっとりとした中にミステリ的なトリックを織り込んでいたが、本作は著者初といっていいくらいの軽いノリ、かつガチなSF。アンドロイドが人間と同じように生活する、しかし人間と対等とは言い難い世界が舞台で、ロボット三原則ならぬアンドロイド三原則も登場する。債務者はアンドロイドだけではなく、それどうやって取り立てるんだよ!そもそも何に金使ったんだよ!という存在ばかり。どういう存在の仕方なら金を貸せる=取り立てられるのか、という問いが、何を持って独立した人格を持つ存在と言えるのか、という問いに繋がっていく。終盤、小説としてはこれは禁じ手なのでは?という演出もあるのだが、アンドロイドがこの先どう進化していくのか、不穏さと期待を感じさせる。

『スター・トレック BEYOND』

 カーク船長(クリス・パイン)はエンタープライズ号に乗り続けるか迷っていた。最後の任務のつもりで、不時着した探査機の捜索に出るが、正体不明の異星人クラール(イドリス・エルバ)率いる賊の襲撃を受け、エンタープライズ号は惑星に墜落、クルーも離れ離れになり、クラールに捕えられてしまう。かろうじて逃げ出したカークは、約100年前に消息を絶った宇宙船フランクリン号を発見する。監督はジャスティン・リン。前2作を監督したJ・J・エイブラムスは製作に回っている。
 J・Jが地ならししてリンに受け渡し、という感じだが、良くも悪くもジャスティン・リン監督作品ぽい。ジャスティン・リンと言えばワイルド・スピードシリーズ。私はワイルド・スピードシリーズは好きなのだが、ほぼ毎回、楽しいのに途中で必ず、しかも派手なアクションの真っ最中で眠くなって一瞬意識が途切れてしまう。見せ場の一つ一つは派手派手しく楽しいのだが、それが大体同じボリューム、同じテンポで続くので、意外とメリハリがなくて眠くなってしまうのだ。本作も同様で、アクションの一つ一つは華やかだが、全体的には平坦な印象になってしまっている。良くも悪くも、アクはなく大味で楽しい作品。
 ただ、スター・トレックらしさというのはこういう所だ!という部分を、すごく大切にしているのではないかとは思った。印象に残ったのは、時々出てくる都市の様子。色々な人たち(人型生物もそうでないものも)がいる世界で、色々な生活様式があり、家族の在り方もそれぞれ(当然家族と言う概念を持たない種族もいるだろう)ということを、ぱっと見てわかるように作られている。映画の撮影技術上、二足歩行の人が多いのはやむを得ないんだろうけど、多分そうじゃない人もいるよなと自然に思えるような「色々いる」感じが出ているのだ。
 色々な人・種族が同じ空間で生活していれば、当然軋轢も起きる。本作冒頭でカークが悪戦苦闘するのが象徴的なのだが、徹底して話し合いで交渉していくというのは、正攻法だがとても面倒くさいし、双方にとって決して愉快とは限らない。「制服は窮屈」でもある。でも、そういう面倒くささを内包した上で現在の世界は成り立っているし、そういう世界にすることを私たちは選択した、というのが、本作の趣旨だろう。カークが言うように「時代が変わった」のだ。
 ただ、「時代が変わった」ということは、その変化を許容できない、ついていけない人は置いていくということでもある。本作の敵は、そういう人なのだ。その気持ちもわからなくはないが、時代は逆回転出来ないし、より良くあれと思って先達が地道に時代を変えてきたんだよね。

『救い出される』

ジェイムズ・ディッキー著、酒本雅之訳
 アウトドア好きでスポーツ万能なルイスの誘いを受け、カヌーで激流の川下りに向かった4人の男たち。しかし2人の無法者に襲われる。負傷者を抱えながら何とか逃げ延び、「川」から脱出しようとする。「村上柴田翻訳堂」シリーズより、『わが心の川』を復刊・改題したもの。
 アメリカ南部怖いよ!なんだよ無法者って!最初は美しく雄大だった自然が、一挙に猛々しく襲ってくる。その様は確かに迫力あるのだが、一番怖いのは人間だよ!見知らぬ人間同士が鉢合わせすることで一気に血なまぐささが生じ、クライムノベル、ノワールのような雰囲気になってくるのだ。その反転具合にはえっそういう話だったの?!とびっくりした。題名は『救い出される』なのだが、最初考えていた遭難・事故から救出とは(もちろんそういう意味合いも大きいのだが)大分事情が違ってくる。そもそも、彼らは本当に救い出されたのか?巻末に収録された柴田元幸と村上春樹の対談では「闇のみなもとから救い出される」のだというが、むしろ闇のみなもとがこの先ずっと自分達と並走することになってしまったのでは。なお、身体の感覚、衝動に関する記述が目立ち、自分の体をもてあますと同時にフル回転させたいという欲求がそこかしこに現れる。しかしフル回転させるシチュエーションが大変な修羅場、かつ修羅場であると同時に高揚感もおぼえる瞬間でもある。身体を自覚するほど「闇のみなもと」に近づいていくようでもあり、だとするとそこから逃れる術はないのでは。

『スーサイド・スクワット』

 世界が崩壊しかねない大惨事にあたり、政府は悪名高い犯罪者たちを、特殊部隊“スーサイド・スクワット”としてスカウトする。ミッションが成功すれば減刑されるが失敗すれば死亡、逃げても殺されるのだ。メンバーはスナイパーのデッドショット(ウィル・フェレル)、ジョーカー(ジャレッド・レト)の恋人ハーレ・クイン(マーゴット・ロビー)、火を操るエル・ディアブロ(ジェイ・ヘルンナンデス)、ブーメランを武器にするキャプテン・ブーメラン(ジェイ・コートニー)ら。寄せ集めの彼らは唯一一般人である軍人フラッグ(ジョエル・キナマン)に率いられ闘いに臨む。監督はデヴィッド・エアー。
 DCコミックの花形悪役が集結したという本作、予告編がなかなか好印象だったので(マーゴット・ロビーの二次元感はすごいと思った)楽しみにしていたのだが、アメコミファンからも映画ファンからも反応はいまひとつ。不安になりつつ見てみたが、確かにこれはなぁ・・・。
 キャラクターのビジュアルの再現度はおそらく高いのだろうが、このキャラクターをどういう絵で見せたいのかということに、あまり意識がいっていないんじゃないかなと思った。同じくDCコミックの映画で時系列上は本作の前作ということになる『バットマンVSスーパーマン』は、映画としては大分退屈ではあったが、絵に関してはこう見せたい!ここを見ろ!という自己主張がはんぱなく、その点では見た甲斐があった。監督はじめスタッフが違うんだろうから当然といえば当然なのだが、本作にはそこまでの執着は感じない。執着がない分普通に退屈になってしまった気がする。
 また、これが最大の問題点だと思うのだが、本作で描かれているようなキャラクターの行動原理だと、悪役を使ってやる意義があんまりないんじゃないかと思う。私はアメコミには詳しくないのだが、デッドショットにしろハーレクインにしろ、コミックではこういう人じゃないんじゃないかなー。特にハーレクインについては絶対に違うという気がする。おそらく彼女はとにもかくにもジョーカーのことが一番なので、他の人たちに対して仲間意識は持たないんじゃないだろうか。悪役であることに理由や葛藤が必要ではない作品もある、ということだと思う。
 とにかく脚本の脇が甘く、世界崩壊の危機に関しても自業自得だろ!認識甘すぎる!と突っ込むしかない。人間ドラマを盛り込むのは悪いことではないし、犯罪者たちを「悪」としているけど一番あくどいのは・・・という含みを持たせたかったんだろうなという推測は出来るが、そういった複雑なドラマに耐えられるほど脚本がしっかりしていないので、取ってつけたように見えて困った。

『ストリート・オーケストラ』

 ヴァイオリニストのラエルチ(ラザロ・ハーモス)はスランプ中で、サンパウロ交響楽団のオーディションでは手が震え、全く演奏できなかった。家賃の支払いに困ったラザロはスラムの学校の生徒たちが結成しているオーケストラの教師をやることになるが、ろくに音を出せない生徒ばかりで途方にくれる。しかし、徐々に生徒たちは音楽の面白さに目覚め、ラエルチもまた立ち直っていく。監督はセルジオ・マチャド。
 例えばTVドラマだったらここぞとばかりに盛り上げるだろうなというポイントを、本作はあっさりとスルーしていく。ラエルチがなぜスランプなのかは語られないし、生徒達が音楽に目覚めていく過程や、ラエルチと生徒の信頼感が築かれる過程はほぼ省略される。音楽が奏でられるようになるからそれでいいだろう、と言わんばかりだ。音楽に語らせるというよりも、ドラマティックさの為のドラマに対する抵抗、照れがあるように思った。この照れが本作を上品(しかし人によってはあっさりすぎると思うだろう)なものにしていると思う。
 ろくに楽器を鳴らせなかった生徒たちが音楽を見事に奏でるようになっていくのだが、本作は音楽にはこんなに力がある!素晴らしい!と声高に訴えることはない。むしろ、音楽に出来ることはごく限られていると言わんばかりだ。音楽によって生徒たちの家庭環境が良くなるわけではないし、スラムが抱える貧困問題、犯罪問題が解決されるわけでもない。序盤、生徒の一人が音楽家ってどのくらい稼げるの?と興味を示すが、ラエルチが稼げるのはほんの一握りの音楽家だと答えると、あっさり興味を失う。生徒たちにとって、音楽は生活の手段にはならないし、音楽よりもまず生活していかなくてはならない。
 しかし、諸々の問題と直面した個人の心が折れそうな時、絶望的な気持ちになった時、音楽が慰めになったり、支えてくれる、それによって踏みとどまれるということはあるのではないか。音楽を聴くこと、奏でることは、一時ではあれ自分を取り囲む諸々からの避難所にはなるのではないか。音楽が役に立つとしたら、そういう所だろうと本作は示す。生徒のうちの何人かが直截に言及するのだ。練習時間が居場所になる、自分の中の野獣が少し静まるというように。
 それにしても、どこの国のどんな階層であれ、子供であることのしんどさは、どういう親の元に生まれたかで大きく左右されるなとしみじもと思った。本作に登場する生徒たちの殆どは家庭に問題を抱えているようだが(そもそも家庭らしき家庭がないらしい子もいる)、家に居づらいというのは、他に行くところがない子供にとっては致命的かもしれない。自分ではどうしようもない不公平さだよなぁと。
 ラエルチは演奏がろくにできないくらい当初追い込まれているのだが、音楽を教える、つまり他人の音楽にかまけているうちに、自分の音楽を再発見する。これは音楽に限ったことではないかもしれない。

『好きにならずにいられない』

 アイスランドのとある町。巨漢のフーシ(グンナル・ヨハンソン)は43歳独身、人づきあいは苦手で恋人なし、母親と同居している。空港の荷物係として働き、趣味はジオラマを使った第二次大戦ゲーム。そんな彼に母親の恋人がダンス教室のチケットをプレゼントした。渋々向かったフーシは、吹雪の為に帰宅できず困っていた女性シェブン(リムル・クリスチャンスドウテイル)に頼まれ家まで送り、恋してしまう。監督・脚本はダーグル・カウリ。
 フーシは空港の地上業務をしているのだが、重い荷物を運ぶことが多いので現場は男性ばかりだし、結構マッチョな雰囲気。こういう環境だと、いわゆる「マッチョ男としてのジョーク」みたいなものを投げてくる人がちょくちょくいるものだが、アイスランドでも同じなのか・・・。そして、恰幅はいい(一見マッチョ)が気性はマッチョに馴染まない男性が、そういう職場で働くのって相当きついんだよなとしみじみ感じた。いわゆる男らしさが過剰に要求されている感じなのだ。酒を飲んで卑猥な冗談を言い合って、というのがスタンダードで、フーシのように内気で他人と騒ぐのが苦手、女性に対しても奥手で童貞なんて人は、とうてい馴染めなさそう。いわゆる「男らしくあれ」という圧力は、男性集団内での方が強いのかもしれない。フーシの同僚たちのからかい方や、女性絡みの余計なおせっかい(当人たちにとっては親切心なのかもしれないが、フーシにしてみたらはた迷惑だろう)も、さもありなんな感じでげっそりした。こういうのって、万国共通なのか・・・嫌なグローバル感だな・・・。
 いわゆる非モテのファンタジー(見た目が冴えない自分でも、内面を理解して愛してくれる人が現れるはずという)でもあるのだが、本作最大のファンタジーは、シェブリンが現れるということよりも、フーシが彼女に尽くし続けるというところにあると思う。フーシも当初は、彼女と付き合いたい、愛し合いたいと願うが、シェブリンにある問題が生じると、ひたすら尽くす。彼の尽くし方が受け入れられる(思いやり故とは言え、やっていることは結構まずいと思う)という点も含めてのファンタジー。この境地に辿りつくのは、普通に煩悩ある人だとなかなか難しいんじゃないかな・・・。

 

『素敵なサプライズ ブリュッセルの奇妙な代理店』

 母の死により巨額の資産を相続すると同時に、天涯孤独の身となったヤーコブ(イェルン・ファン・コーニンスブルッヘ)は、自殺を決意し、ブリュッセルにある「エリュシオン」なる会社を訪れる。社長のジョーンズ氏(ヘンリー・グッドマンは彼に「サプライズ」コースを勧める。それは、本人も知らないうちにあの世への旅立ちを手助けしてくれるというコースだった。契約したヤーコブは、同じく契約者のアンネ(ジョルジナ・フェルバーン)と知り合い親しくなっていく。監督はマイク・ファン・ディム。
 ヤーコブは客観的には少々変わり者ではあるが(特に経済的に)相当恵まれた人だと言えるだろうし、アンネに関しても、はたから見たら何が不幸なのかわからない、ごく順調な人生に見えるだろう(彼女の場合は、また別の事情もあるのだが・・・)。しかし当人にとっては生きていることが耐え難く苦しいということもあるだろう。そしてそういう苦しみは、周囲にはなかなか分かってもらえない。苦しみは、喜びよりもより比較がし難いものではないかと思う。だから、この人にはこの苦しみを理解してもらえる、何か通じ合うものがあることが、奇跡のように感じられるのだろう。ヤーコブがアンネに急速に惹かれていくのにも納得してしまう。
 かわいらしく意外な展開も見せるコメディだが、何しろ自殺代理店が絡んでいるわけで、ブラックな味わいもある。一見めでたしめでたし、な結末にしても、最後に失墜する人へのまなざしなど、結構な意地の悪さだと思う。あそこから「契約」に誘導していくのかしら等と勘繰ってしまう。
 主演のコーニンスブルッヘはベルギーでは有名なコメディ俳優だそうだが、特にハンサムというわけでもなく、かといってアクが強いわけでもないという、変わり者なのに中庸という雰囲気を醸し出している。「ダンスが上手い」というのは自称かと思っていたら、本当に上手いというところがいい。また、アンネ役のフェルバーンも、いわゆる美人とはちょっと違うが、キュート。
 ところで「代理店」の経営者がインド系一家だというのには何か意味があるのだろうか。ブリュッセルはインド系移民が多いってこと?それともベルギーではインド人に対する特定のイメージがあるのかな?

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