3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『スペース金融道』

宮内悠介著
人類が最初に移住・開拓に成功した太陽系外の星、通称、二番街。新生金融の二番街支社に勤務する“ぼく”は、上司ユーセフと共に債権回収に励んでいる。顧客の多くは大手があまり相手にしないアンドロイド。アンドロイドだろうがコンピュータウイルスだろうがバクテリアだろうが返済能力がある奴には貸す、そして核融合炉内だろうと零下190度の惑星だろうと地獄の底だろうと追いかけて取り立てるというのが会社のモットーだ。要領のいいユーセフとは違い、ぼくは貧乏くじばかりをひいていく。
取り立て屋コンビが活躍する連絡短篇集。先日読んだ著者の『彼女がエスパーだったころ』はしっとりとした中にミステリ的なトリックを織り込んでいたが、本作は著者初といっていいくらいの軽いノリ、かつガチなSF。アンドロイドが人間と同じように生活する、しかし人間と対等とは言い難い世界が舞台で、ロボット三原則ならぬアンドロイド三原則も登場する。債務者はアンドロイドだけではなく、それどうやって取り立てるんだよ!そもそも何に金使ったんだよ!という存在ばかり。どういう存在の仕方なら金を貸せる=取り立てられるのか、という問いが、何を持って独立した人格を持つ存在と言えるのか、という問いに繋がっていく。終盤、小説としてはこれは禁じ手なのでは?という演出もあるのだが、アンドロイドがこの先どう進化していくのか、不穏さと期待を感じさせる。

『スター・トレック BEYOND』

 カーク船長(クリス・パイン)はエンタープライズ号に乗り続けるか迷っていた。最後の任務のつもりで、不時着した探査機の捜索に出るが、正体不明の異星人クラール(イドリス・エルバ)率いる賊の襲撃を受け、エンタープライズ号は惑星に墜落、クルーも離れ離れになり、クラールに捕えられてしまう。かろうじて逃げ出したカークは、約100年前に消息を絶った宇宙船フランクリン号を発見する。監督はジャスティン・リン。前2作を監督したJ・J・エイブラムスは製作に回っている。
 J・Jが地ならししてリンに受け渡し、という感じだが、良くも悪くもジャスティン・リン監督作品ぽい。ジャスティン・リンと言えばワイルド・スピードシリーズ。私はワイルド・スピードシリーズは好きなのだが、ほぼ毎回、楽しいのに途中で必ず、しかも派手なアクションの真っ最中で眠くなって一瞬意識が途切れてしまう。見せ場の一つ一つは派手派手しく楽しいのだが、それが大体同じボリューム、同じテンポで続くので、意外とメリハリがなくて眠くなってしまうのだ。本作も同様で、アクションの一つ一つは華やかだが、全体的には平坦な印象になってしまっている。良くも悪くも、アクはなく大味で楽しい作品。
 ただ、スター・トレックらしさというのはこういう所だ!という部分を、すごく大切にしているのではないかとは思った。印象に残ったのは、時々出てくる都市の様子。色々な人たち(人型生物もそうでないものも)がいる世界で、色々な生活様式があり、家族の在り方もそれぞれ(当然家族と言う概念を持たない種族もいるだろう)ということを、ぱっと見てわかるように作られている。映画の撮影技術上、二足歩行の人が多いのはやむを得ないんだろうけど、多分そうじゃない人もいるよなと自然に思えるような「色々いる」感じが出ているのだ。
 色々な人・種族が同じ空間で生活していれば、当然軋轢も起きる。本作冒頭でカークが悪戦苦闘するのが象徴的なのだが、徹底して話し合いで交渉していくというのは、正攻法だがとても面倒くさいし、双方にとって決して愉快とは限らない。「制服は窮屈」でもある。でも、そういう面倒くささを内包した上で現在の世界は成り立っているし、そういう世界にすることを私たちは選択した、というのが、本作の趣旨だろう。カークが言うように「時代が変わった」のだ。
 ただ、「時代が変わった」ということは、その変化を許容できない、ついていけない人は置いていくということでもある。本作の敵は、そういう人なのだ。その気持ちもわからなくはないが、時代は逆回転出来ないし、より良くあれと思って先達が地道に時代を変えてきたんだよね。

『救い出される』

ジェイムズ・ディッキー著、酒本雅之訳
 アウトドア好きでスポーツ万能なルイスの誘いを受け、カヌーで激流の川下りに向かった4人の男たち。しかし2人の無法者に襲われる。負傷者を抱えながら何とか逃げ延び、「川」から脱出しようとする。「村上柴田翻訳堂」シリーズより、『わが心の川』を復刊・改題したもの。
 アメリカ南部怖いよ!なんだよ無法者って!最初は美しく雄大だった自然が、一挙に猛々しく襲ってくる。その様は確かに迫力あるのだが、一番怖いのは人間だよ!見知らぬ人間同士が鉢合わせすることで一気に血なまぐささが生じ、クライムノベル、ノワールのような雰囲気になってくるのだ。その反転具合にはえっそういう話だったの?!とびっくりした。題名は『救い出される』なのだが、最初考えていた遭難・事故から救出とは(もちろんそういう意味合いも大きいのだが)大分事情が違ってくる。そもそも、彼らは本当に救い出されたのか?巻末に収録された柴田元幸と村上春樹の対談では「闇のみなもとから救い出される」のだというが、むしろ闇のみなもとがこの先ずっと自分達と並走することになってしまったのでは。なお、身体の感覚、衝動に関する記述が目立ち、自分の体をもてあますと同時にフル回転させたいという欲求がそこかしこに現れる。しかしフル回転させるシチュエーションが大変な修羅場、かつ修羅場であると同時に高揚感もおぼえる瞬間でもある。身体を自覚するほど「闇のみなもと」に近づいていくようでもあり、だとするとそこから逃れる術はないのでは。

『スーサイド・スクワット』

 世界が崩壊しかねない大惨事にあたり、政府は悪名高い犯罪者たちを、特殊部隊“スーサイド・スクワット”としてスカウトする。ミッションが成功すれば減刑されるが失敗すれば死亡、逃げても殺されるのだ。メンバーはスナイパーのデッドショット(ウィル・フェレル)、ジョーカー(ジャレッド・レト)の恋人ハーレ・クイン(マーゴット・ロビー)、火を操るエル・ディアブロ(ジェイ・ヘルンナンデス)、ブーメランを武器にするキャプテン・ブーメラン(ジェイ・コートニー)ら。寄せ集めの彼らは唯一一般人である軍人フラッグ(ジョエル・キナマン)に率いられ闘いに臨む。監督はデヴィッド・エアー。
 DCコミックの花形悪役が集結したという本作、予告編がなかなか好印象だったので(マーゴット・ロビーの二次元感はすごいと思った)楽しみにしていたのだが、アメコミファンからも映画ファンからも反応はいまひとつ。不安になりつつ見てみたが、確かにこれはなぁ・・・。
 キャラクターのビジュアルの再現度はおそらく高いのだろうが、このキャラクターをどういう絵で見せたいのかということに、あまり意識がいっていないんじゃないかなと思った。同じくDCコミックの映画で時系列上は本作の前作ということになる『バットマンVSスーパーマン』は、映画としては大分退屈ではあったが、絵に関してはこう見せたい!ここを見ろ!という自己主張がはんぱなく、その点では見た甲斐があった。監督はじめスタッフが違うんだろうから当然といえば当然なのだが、本作にはそこまでの執着は感じない。執着がない分普通に退屈になってしまった気がする。
 また、これが最大の問題点だと思うのだが、本作で描かれているようなキャラクターの行動原理だと、悪役を使ってやる意義があんまりないんじゃないかと思う。私はアメコミには詳しくないのだが、デッドショットにしろハーレクインにしろ、コミックではこういう人じゃないんじゃないかなー。特にハーレクインについては絶対に違うという気がする。おそらく彼女はとにもかくにもジョーカーのことが一番なので、他の人たちに対して仲間意識は持たないんじゃないだろうか。悪役であることに理由や葛藤が必要ではない作品もある、ということだと思う。
 とにかく脚本の脇が甘く、世界崩壊の危機に関しても自業自得だろ!認識甘すぎる!と突っ込むしかない。人間ドラマを盛り込むのは悪いことではないし、犯罪者たちを「悪」としているけど一番あくどいのは・・・という含みを持たせたかったんだろうなという推測は出来るが、そういった複雑なドラマに耐えられるほど脚本がしっかりしていないので、取ってつけたように見えて困った。

『ストリート・オーケストラ』

 ヴァイオリニストのラエルチ(ラザロ・ハーモス)はスランプ中で、サンパウロ交響楽団のオーディションでは手が震え、全く演奏できなかった。家賃の支払いに困ったラザロはスラムの学校の生徒たちが結成しているオーケストラの教師をやることになるが、ろくに音を出せない生徒ばかりで途方にくれる。しかし、徐々に生徒たちは音楽の面白さに目覚め、ラエルチもまた立ち直っていく。監督はセルジオ・マチャド。
 例えばTVドラマだったらここぞとばかりに盛り上げるだろうなというポイントを、本作はあっさりとスルーしていく。ラエルチがなぜスランプなのかは語られないし、生徒達が音楽に目覚めていく過程や、ラエルチと生徒の信頼感が築かれる過程はほぼ省略される。音楽が奏でられるようになるからそれでいいだろう、と言わんばかりだ。音楽に語らせるというよりも、ドラマティックさの為のドラマに対する抵抗、照れがあるように思った。この照れが本作を上品(しかし人によってはあっさりすぎると思うだろう)なものにしていると思う。
 ろくに楽器を鳴らせなかった生徒たちが音楽を見事に奏でるようになっていくのだが、本作は音楽にはこんなに力がある!素晴らしい!と声高に訴えることはない。むしろ、音楽に出来ることはごく限られていると言わんばかりだ。音楽によって生徒たちの家庭環境が良くなるわけではないし、スラムが抱える貧困問題、犯罪問題が解決されるわけでもない。序盤、生徒の一人が音楽家ってどのくらい稼げるの?と興味を示すが、ラエルチが稼げるのはほんの一握りの音楽家だと答えると、あっさり興味を失う。生徒たちにとって、音楽は生活の手段にはならないし、音楽よりもまず生活していかなくてはならない。
 しかし、諸々の問題と直面した個人の心が折れそうな時、絶望的な気持ちになった時、音楽が慰めになったり、支えてくれる、それによって踏みとどまれるということはあるのではないか。音楽を聴くこと、奏でることは、一時ではあれ自分を取り囲む諸々からの避難所にはなるのではないか。音楽が役に立つとしたら、そういう所だろうと本作は示す。生徒のうちの何人かが直截に言及するのだ。練習時間が居場所になる、自分の中の野獣が少し静まるというように。
 それにしても、どこの国のどんな階層であれ、子供であることのしんどさは、どういう親の元に生まれたかで大きく左右されるなとしみじもと思った。本作に登場する生徒たちの殆どは家庭に問題を抱えているようだが(そもそも家庭らしき家庭がないらしい子もいる)、家に居づらいというのは、他に行くところがない子供にとっては致命的かもしれない。自分ではどうしようもない不公平さだよなぁと。
 ラエルチは演奏がろくにできないくらい当初追い込まれているのだが、音楽を教える、つまり他人の音楽にかまけているうちに、自分の音楽を再発見する。これは音楽に限ったことではないかもしれない。

『好きにならずにいられない』

 アイスランドのとある町。巨漢のフーシ(グンナル・ヨハンソン)は43歳独身、人づきあいは苦手で恋人なし、母親と同居している。空港の荷物係として働き、趣味はジオラマを使った第二次大戦ゲーム。そんな彼に母親の恋人がダンス教室のチケットをプレゼントした。渋々向かったフーシは、吹雪の為に帰宅できず困っていた女性シェブン(リムル・クリスチャンスドウテイル)に頼まれ家まで送り、恋してしまう。監督・脚本はダーグル・カウリ。
 フーシは空港の地上業務をしているのだが、重い荷物を運ぶことが多いので現場は男性ばかりだし、結構マッチョな雰囲気。こういう環境だと、いわゆる「マッチョ男としてのジョーク」みたいなものを投げてくる人がちょくちょくいるものだが、アイスランドでも同じなのか・・・。そして、恰幅はいい(一見マッチョ)が気性はマッチョに馴染まない男性が、そういう職場で働くのって相当きついんだよなとしみじみ感じた。いわゆる男らしさが過剰に要求されている感じなのだ。酒を飲んで卑猥な冗談を言い合って、というのがスタンダードで、フーシのように内気で他人と騒ぐのが苦手、女性に対しても奥手で童貞なんて人は、とうてい馴染めなさそう。いわゆる「男らしくあれ」という圧力は、男性集団内での方が強いのかもしれない。フーシの同僚たちのからかい方や、女性絡みの余計なおせっかい(当人たちにとっては親切心なのかもしれないが、フーシにしてみたらはた迷惑だろう)も、さもありなんな感じでげっそりした。こういうのって、万国共通なのか・・・嫌なグローバル感だな・・・。
 いわゆる非モテのファンタジー(見た目が冴えない自分でも、内面を理解して愛してくれる人が現れるはずという)でもあるのだが、本作最大のファンタジーは、シェブリンが現れるということよりも、フーシが彼女に尽くし続けるというところにあると思う。フーシも当初は、彼女と付き合いたい、愛し合いたいと願うが、シェブリンにある問題が生じると、ひたすら尽くす。彼の尽くし方が受け入れられる(思いやり故とは言え、やっていることは結構まずいと思う)という点も含めてのファンタジー。この境地に辿りつくのは、普通に煩悩ある人だとなかなか難しいんじゃないかな・・・。

 

『素敵なサプライズ ブリュッセルの奇妙な代理店』

 母の死により巨額の資産を相続すると同時に、天涯孤独の身となったヤーコブ(イェルン・ファン・コーニンスブルッヘ)は、自殺を決意し、ブリュッセルにある「エリュシオン」なる会社を訪れる。社長のジョーンズ氏(ヘンリー・グッドマンは彼に「サプライズ」コースを勧める。それは、本人も知らないうちにあの世への旅立ちを手助けしてくれるというコースだった。契約したヤーコブは、同じく契約者のアンネ(ジョルジナ・フェルバーン)と知り合い親しくなっていく。監督はマイク・ファン・ディム。
 ヤーコブは客観的には少々変わり者ではあるが(特に経済的に)相当恵まれた人だと言えるだろうし、アンネに関しても、はたから見たら何が不幸なのかわからない、ごく順調な人生に見えるだろう(彼女の場合は、また別の事情もあるのだが・・・)。しかし当人にとっては生きていることが耐え難く苦しいということもあるだろう。そしてそういう苦しみは、周囲にはなかなか分かってもらえない。苦しみは、喜びよりもより比較がし難いものではないかと思う。だから、この人にはこの苦しみを理解してもらえる、何か通じ合うものがあることが、奇跡のように感じられるのだろう。ヤーコブがアンネに急速に惹かれていくのにも納得してしまう。
 かわいらしく意外な展開も見せるコメディだが、何しろ自殺代理店が絡んでいるわけで、ブラックな味わいもある。一見めでたしめでたし、な結末にしても、最後に失墜する人へのまなざしなど、結構な意地の悪さだと思う。あそこから「契約」に誘導していくのかしら等と勘繰ってしまう。
 主演のコーニンスブルッヘはベルギーでは有名なコメディ俳優だそうだが、特にハンサムというわけでもなく、かといってアクが強いわけでもないという、変わり者なのに中庸という雰囲気を醸し出している。「ダンスが上手い」というのは自称かと思っていたら、本当に上手いというところがいい。また、アンネ役のフェルバーンも、いわゆる美人とはちょっと違うが、キュート。
 ところで「代理店」の経営者がインド系一家だというのには何か意味があるのだろうか。ブリュッセルはインド系移民が多いってこと?それともベルギーではインド人に対する特定のイメージがあるのかな?

『ズートピア』

 様々な動物が、肉食・草食の垣根を越えて共存するようになった世界。ウサギのジュディ(ジニファー・グッドウィン)は大型動物に交じって警察学校をトップの成績で卒業し、史上初のウサギの警察官になった。田舎を出て大都会ズートピアにやってきたジュディだが、与えられた仕事は駐車違反の取り締まり。何とか認められたいジュディは、とある事情からキツネの詐欺師ニック(ジェイソン・ベイトマン)と共にカワウソの失踪事件を捜査することに。監督はバイロン・ハワード&リッチ・ムーア。
 ジュディは田舎町とは違い、ズートピアでなら「ウサギ」に対する先入観から逃れ、なりたいものになれると喜び勇むが、その夢は早々に出鼻をくじかれる。一方、ズートピア育ちのニックは、ズートピアは決して楽園ではなく、偏見や差別に満ちていることを知っている。ニックはどうせキツネ=ずるがしこいという先入観から逃れられないのなら、いっそイメージそのままに生きようと割り切ってしまうのだ。またジュディはウサギである自分がか弱い、かわいいといったステレオタイプで見られることに怒り、自分は偏見のない目で相手を見られるはずだと考えている。が、彼女もやはり思い込みや偏見から自由ではなく、それによって大変な事態を引き起こしてしまう。ジュディに悪意はないが、意識的な悪意ですらないくらいの自然なレベルでの思い込みだということだから、より問題は根深い。ズートピアは一見平和で平等だが、それは危ういバランスの上に成り立っており、実はもろい。
 ズートピアは言うまでもなく人間社会の写し絵であり、その危うさもまた同様だ。本作、非常に直球かつ剛速球に、危うい世界ではあるがこれを維持するしかない(何しろ「進化」したのだから)、間違いはやりなおしもっと良くできるはずだと提示していく。それを言い切ってしまう、しかもど真ん中のエンターテイメントに落とし込めるところに、ディズニーの剛腕を見た。ちょっとした思い込みが差別やハラスメントに繋がる、それは誰でも当事者(被害者にも加害者にも)になりうるということを、きめこまかく描いていると思う。ジュディが職場でかわいいねと言われた時、「ウサギ同士でならともかく、別の種類の動物に言われるのはちょっと・・・」と返すのだが、このニュアンスをちゃんと映画内で描写しているって、よく配慮されているなぁ・・・。全世界向けにマスを狙うというのはこういうことか。
 ズートピアは「誰でもなりたいものになれる」世界だと言う。が、実際の所、例えばキツネがゾウになれるわけではない。ウサギであるジュディが水牛やライオンと同じスペックを持ちたいと思っても、それはやはり(本作中に出てくるテクノロジー水準を見る限りでは)無理だろう。それは本作を作っている側も重々承知だろう。その上で、それでもなりたいものになれるはずだ、という所に本作の覚悟を見た。ウサギがライオンになることはできなくても、「世間が思っているようなウサギではなくて、自分がこうなりたいというウサギ」にはなれるかもしれない。これまたかなり危ういバランスではあるのだが、そこ言っとかないとだめだろ!という腹のくくり方なのだと思う。
 ビジュアルの作りこみと賑やかさ(これだけ細部まで詰め込んであるのに見やすいというのはすごい)、基本がバディムービーでハードボイルドの味わいすらあることで緩和されている。ジュディとニックの間に恋愛が生まれないところもいい(そもそも異種動物カップルが存在する世界なのかわからないけど・・・)

『スポットライト 世紀のスクープ』

 アメリカ、ボストンの地元紙「The Bostoin Globe」には、独自の極秘取材による特集連載「スポットライト」があった。2001年、新任の編集局長マーティ・バロン(リーヴ・シュレイバー)は、ある神父による児童の性的虐待事件を「スポットライト」で掘り下げる方針を打ち出す。デスクのウォルター“ロビー”ロビンソン(マイケル・キートン)を筆頭に4人の記者は被害者や弁護士らへの取材を続け、同様の罪を犯した神父が他にも大勢いること、その背後に教会の隠蔽体質と巨大なシステムがあることを突き止める。しかしカトリック教会が深く根付いた土地柄故に、様々な妨害が生じる。監督はトム・マッカーシー。
 被害者達は、一様に口を閉ざす。ただでさえ口にすることに抵抗があるだろうが、加害者は地域からの信頼が厚い聖職者で、子供である被害者の証言は往々にして信じてもらえなかった。家族に信じてもらえても、地域ぐるみで家族にプレッシャーが掛けられ事件が揉み消され、犯人は野放し、被害者へのケアもない。バロンらに情報を持ちこむ被害者互助団体の代表は、成人した被害者たちを「サバイバー」と呼ぶ。被害の傷の深さに耐えきれず自殺、自滅してしまう人が多数いるからだと言う。互助会代表にしろ一人で教会と戦い続けてきた弁護士にしろ、記者たちに心を開かない。彼らは自分たちの話を真剣に聞く人がいないことに絶望しているのだ。
 記者たち、特にマイク・レゼンデス(マーク・ラファロ)とサーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムス)の姿勢を見ていて、人の話を聞くってどういうことなんだろうとふと考えた。レゼンデスは精力的で相手の懐にどんどん突っ込んでいく。衝突も辞さず、スクープを取ろうという野心も隠さない。しかし、徐々に相手に寄り添うようになっていく。その時、取材相手は口を開くのだ。また、ファイファーは被害者取材を地道に続けるが、また自分達を見捨てるのではと疑う相手に、決して見捨てないと言い切る。彼らを見捨てないということは、教会と全面的に戦うことで、カソリック信者が半数を占める新聞購読者や地域社会との軋轢は避けられない。また、被害の話を真剣に聞き続けることで、話す側と同じく、聞く側も無傷ではいられない。それくらい本気でないと、相手は心を開いて話してはくれないのだ。ファイファーの、全身を傾けるような真摯な姿が胸を打つ。ラスト、電話がかかりまくってくるのも、そういうことなのだと思う。真剣に聞いてくれる人がいるとわかれば、人は話し出すのだ。
 記者たちは新聞社の命運、自分たちの身の安全まで賭けて記事を書く。それは、彼らにとってはそうすることが職業倫理だからだろう。作中でも言及されるが、「では、記事にしない場合の責任は?」と考えるのだ。対して、神父たちにもカトリック教会にも職業倫理はあったはずだ。彼らの職業倫理は、加害者神父を匿うことだったのだろうか。カトリック教会組織の闇が深すぎて、エンドロール前に提示される字幕の内容はちょっと引くレベル。ただ、新聞記者たちも無罪というわけではない。複数の人が資料を送ったのにと口にする時の、バロンの表情は苦い。気づかなかった、本気で取り合わなかったという点では、当時の記者も他の人たちと同じだった。真剣に見る、聞くことの何と難しいことか。

『過ぎ去りし世界』

デニス・ルヘイン著、加賀山卓朗訳
 第二次世界大戦下のフロリダ州タンパ。ジョー・コグリンは表向きはギャングを引退し実業家になったものの、裏では依然有力者だった。ある日、自分を暗殺しようという計画があると知らされる。ジョーには心当たりがなく、組織のボスである旧友ディオンや子飼いのリコが調べても真偽は定かではなかった。同じころ、黒人ギャングがシマを横取りした白人ギャングの手下を殺害する事件が起き、抗争が勃発する。『運命の日』『夜に生きる』に続くボストン3部作完結編。大戦下ではあるが、極端な物資不足という感じでもなく、日本の戦時下とは大分雰囲気が違いその影もあまり濃くはない。とは言え、ジョーたちにとっては若い有望株は戦地に赴いてしまい人材不足だし、物価も不安定だしでありがたくない状況ではある。それでも、遠くの戦争よりも近くの抗争の方が大問題なのだ。ジョーは一代で現在のポジションにのし上がったやり手で、立ち回りが上手く、積極的な敵がいないという強みがある。それでも、ギャング稼業だったからにはそれなりの汚れ仕事はやっているはずだ(実際、言及されている)し、何らかの恨みをかっている可能性が高い。それでも当人はそうは思っていないという所に、ジョーの人柄がにじみ出ていると思う。彼は良くも悪くも楽天的な青年のままであるように見える。しかし、青年時代はいつか終わる。輝かしい世界は最早過去のもの、あるいはどこにもなかったのだ。ジョーは愛すべき愉快な人としての一面を持つが「良い人間」にはなれないし、ギャングであり続ける。過去は常にまとわりつき、やがてつけを払うことになる。何とも寂寥感に満ちている。

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