3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『シャドウプレイ 完全版』

 2013年、広州の再開発地区では不動産会社の立ち退き要求に対し、賠償金を不服とした住民による暴動が起きた。警察も介入する中、開発の責任者であるタン(チャン・ソンウェン)が建物屋上から転落死した。若手刑事のヤン(ジン・ボーラン)は不動産開発会社の社長ジャン(チン・ハオ)と、彼のビジネスパートナーだった台湾人ユアン(ミシェル・チェン)に着目する。会社幹部だったユアンは謎の失踪を遂げていた。監督はロウ・イエ。
 政府による審査期間の為に映画完成から公開までに2年がかかり、更に日本公開用として再編集され完全版として公開されたという、紆余曲折があった作品だそうだ。検閲をクリアする為に編集には相当難儀したようなので、当初の監督の意図に近いのは恐らく完全版の方だろう。社会的な背景を打ち出した作品なのかと思っていたら、むしろミステリとして、エンターテイメントとしてとても面白かった。暴動が起きヤンが事件を捜査する2013年以降と、ジャン、タン、タンの妻リンが出会った1989年から2013年に至るまでの過去を行ったり来たりするというかなり複雑な構成なのだが、見る側をさほど混乱させない巧みな組み立てになっている。時系列が切り替わる時の繋げ方がシームレスで非常に上手い。時系列が行ったり来たりすることが、「誰が何をして何がどうなったのか」という経緯を行動の連鎖として見せる仕掛けとして機能しているのだ。
 金や地位への欲望と男女間の欲望が両輪となって、どんどん取り返しのつかない方向へと事態が転がっていくのだが、最終的にはやはり金だ!という所が身も蓋もない。登場人物たちは、ことに男性たちはそれに乗っかっていくのだが、一方で乗っかりつつも消費されていく女性たちの姿が痛ましかった。ジャンとユアンの一目ぼれのような出会いや、当初の野心のきらめきはいっそ清々しいくらいなのだが、そのきらめきはあえなく消えていく。
 実業家としてのし上がっていくジャンやタンに対し、ヤン刑事の振る舞いはしばしば軽率で笑ってしまうくらいだ。しかし、危なっかしくはあるがまともに正しいことをやろうとしているのは実は彼だけだ。しかしそんな彼は警察組織内では浮いてしまうというのがまた辛い。最終的にヤンがある道を選ぶのも、もうそこにはまともさが期待できないということだろう。癒着と忖度が当たり前のように横行する世界がここにもある。

二重生活
ジョウ・イエワン
2019-09-10






 

『SHE SAID シー・セッド その名を暴け』

 ニューヨーク・タイムズ紙の記者ミーガン・トゥーイー(キャリー・マリガン)とジョディ・カンター(ゾーイ・カザン)は、大物映画プロデューサーのワインスタインが長年にわたって続けてきた性的暴行について取材を始める。しかし被害女性の多くは示談に応じており、事件はもみ消されていた。彼女らは証言すれば訴えられるという恐怖や暴力を受けたトラウマによって声を上げられなかったのだ。トゥイーとカンターは関係者から取材を断られ続け、ワインスタイン側からの妨害を受けながらも、取材に奔走する。原作はカンターとトゥイーによる回顧録。監督はマリア・シュラーダー。
 #MeToo運動の盛り上がりのきっかけとなったワインスタインの性的暴行に関する報道、その記事が日の目を見るまでの事実を元にしたドラマ。テンポがよくてとても面白い。また時代背景や当時のニューヨーク・タイムズが自社の体質を変えようとしていた(それまではむしろハラスメントで訴えられる側の保守的な体質)ことが垣間見えた。ハラスメント報道に対する記者の意識もまだ遅れているところがあり、トゥーイーですら女優たちへ取材しようという話に、彼女らは(ネームバリューがあり)話す場があるんだから必要ないだろうとあまり乗り気ではない。ハラスメントの問題が組織、社会の構造に根差すものであり、ネームバリューがあろうとなかろうと、強者によって恐怖で支配されてしまうという面では同じなのだ。多少有名な俳優であっても、映画会社に「雇われる」身である以上、決して立場は強いものではない。そしてワインスタインがやったことは特殊なことではなく、この社会の様々な局面で発生していることなのだ。記者たちは、徐々に彼女らの恐怖を理解し、そこに寄り添っていく。そうすると、取材に応じようという人も出てくるのだ。
 記者2人の奮闘が清々しい。2人とも幼い子供がいてパートナーとは共働き。非常に多忙だが、職場にくるとようやく解放された!という顔をする。もちろん家族に対する愛情はあるが、仕事の方が自分が事態をコントロールできている実感があるんだろうなぁ。仕事が好きな人ってすごいなと、労働が嫌いな者としては思わざるを得ない。記者たちの原動力は正義感や取材対象たちに報いなければという使命感だろうから、いわゆる仕事とはまた違う意味合いがあるのだろうが。
 記者たちの取材は誠実なのだが、一か所これはまずいと思った点がある。カンターが取材対象の夫に、取材対象が過去に受けた性暴力について、夫に問い詰められ話してしまったこと。取材対象が夫にどこまで打ち明けていたかわからない状況でだったので、無理やりでもしらばっくれておくべきだったと思う。ここで嘘をつけないのがカンターの人柄なのかもしれないが、取材のアプローチとしては致命的だろう。なお、記者たちがそこそこいい家(アパートメントであっても都市部)に住んでいるし野菜たっぷりのヘルシーそうな食事をしているので、NYタイムズの記者ってやっぱり給料いいんだな…と妙な所で納得してしまった。


スポットライト 世紀のスクープ[Blu-ray]
スタンリー・トゥッチ
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2016-09-07


『7月の物語』

 7月の日曜日、職場の同僚のミレナとリュシーは、パリ郊外のレジャーセンターへと遊びに行く、スタッフの青年に誘われ一緒にアクティビティに参加するが、ちょっとしたことで2人の関係はこじれてしまう(第一部「日曜日の友だち」)。7月14日、革命記念日のイベントでにぎやかなパリ。国際大学都市に暮らすスイス留学生のハンネは、明日帰国する予定だ。パリ最後の夜に一緒に花火を見ようとたまたま知り合った青年に誘われるが(第二部「ハンネと革命記念日」)。パリとその郊外を舞台にした二部構成の作品。監督はギョーム・ブラック。
 ブラック監督がフランス国立高等演劇学校の学生たちと製作した作品だそうだ。撮影機関はそれぞれ5日間、技術スタッフは3人というコンパクトな体制での製作だったそうだが、ちゃんと「映画」の顔をしているし、俳優たちの演技もいい。
 「日曜日の友だち」は、「友だち」である女性2人の性格の違いと距離感の見せ方が上手い。最初は職場の同僚というだけ(名前も正確に覚えていないくらい)で、レジャーセンターへ向かう電車の中での会話のぎこちなさが気まずい。うっかり同僚と遊びに行っちゃうと、たしかにこういう瞬間があるわ…という妙な共感を感じた。アクティビティの好みもそれぞれだし、異性との距離感も違う。そんな2人が帰りの道ではお互いリラックスしている。2人で一緒に何かをしたからと言うよりも、別個で体験したことにより女性同士の距離が縮まるという面白さがあった。
 一方、「ハンネと革命記念日」は、ハンネの寝覚めシチュエーションが最悪すぎてひいた。これはないわ!そりゃあ激怒するよ!と。危機感を持てと言われても、信頼している相手にそういうことをされていいわけがない。この冒頭から一貫して、ハンネにアプローチしてくる男性2人の振る舞いや距離の詰め方がなかなか気持ち悪い。特に同級生の彼氏気取りと思い込みの激しさは見ていてイラつくものだ。この相手との関係性の読み違え加減、『みんなのヴァカンス』のフェリックスに繋がっているように思う。男性はこういう間違いをしがち、という監督の認識なのだろうか。とは言えハンネも救急隊員に対してはちょっとぶしつけすぎる(相手がひいている)接し方なので、全員人との距離感をちょっと間違いがちな話ではあった。
 「ハンネと革命記念日」は若者たちの小さいサークル内でのすったもんだの話ではあるのだが、その輪の外側で何が起きていたのか、最後に突然提示される。ハンネも一歩間違えたら事件に巻き込まれていたかもしれない。運命の乱暴さに冷や水浴びせられる。

ギヨーム・ブラック監督『女っ気なし』DVD
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2019-06-08


若い女 [DVD]
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『GのレコンギスタⅤ 死線を越えて』

 ベルリ(石井マーク)たちを乗せたメガファウナは、地球へ向かうジット団を追ってビーナス・グロゥブを発つ。地球圏ではキャピタル・アーミィとアメリア軍、ドレット艦隊が衝突していた。アイーダ(嶋村侑)はアメリア軍総監である父グシオン・スルガン(木下浩之)とは別の道を行くことを決意。キャピタル・アーミィはジット団と共闘、アメリア軍はドレッド艦隊と手を結んだことで戦火は広がっていく。ベルリとメガファウナは戦闘を終わらせる道を探るが。富野由悠季監督によるTVシリーズを再構築した劇場版5部作の第5部。総監督・脚本は富野由悠季。
 富野監督によるガンダムシリーズを見ると、人類に宇宙生活はまだ早かったんではという気分に毎回なりますね。かつての世界大戦の後、なんとかかんとかして戦争が起きないようヘルメス財団により調整・管理されてきたという本作の世界でも、戦争は起きる。芽を摘んでも摘んでもきりがない!という人間の性か。本作の勢力図式はかなりわかりにくい(特に5部では五つ巴みたいな戦闘になるので)のだが、この管理されているという状況に対する各派閥のスタンスの差異、また宗教の影響の度合い(法王との距離感とか)への言及が少なく少々捉えにくいからではないか。私の理解力が低いだけかもしれないけど…。ともあれ、宗教国家下での派閥関係とか、テクノロジーへの忌避と距離感等、独特の雰囲気があって面白かった。宗教的な禁忌が管理する側にとっては合理的な抑止力になっているのにはなるほどなと。こういう世界背景をもうちょっと見たかったのだが、劇場版の尺では難しかったか(とはいえTVシリーズでもそれほどはっきり説明はされなかった気がするけど…)。
 完結編ということでかなりエピソードはぱんぱん気味。モビルスーツ戦が盛りだくさんなのは楽しいのだが、何がどうしてこうなった、という部分がかなり圧縮されているので少々混乱する。特に終盤、戦闘を終結させる流れは、ここまでもつれているところいきなりこうはならんだろ!と突っ込みたくなる。いくら大団円とは言え、何段階からすっ飛ばしているように見える(実際、略!ということにしちゃったのかもしれないけど)。この時点でのアメリアにもアイーダ個人にも、事態を大きく動かすだけの力はないと思うのだが。
 ともあれ無事に5部作でまとまってよかった。アニメーションとしてはメインキャラクター以外も顔の造形がしっかり固まっており、個人個人の特性のあるデザインと演技のつけ方がとても良かった。特に女性キャラクターの都合の良くなさというか、こっちが思っている通りには動いてくれない感じには魅力がある。こういう部分、富野監督は若手より全然感覚が更新されている。若手は危機感持った方がいいのでは…。


『Gのレコンギスタ IV  激闘に叫ぶ愛』

 全てのもののエネルギー源で、地球では生産できないためにヘルメス財団から供給される「フォトン・バッテリー」。その供給源へと向かうため、ベルリ(石井マーク)らが乗るメガファウナは、金星宙域にあるスペースコロニー「ビーナス・グロゥブ」へ向かうが、地球への帰還=レコンギスタをもくろむジット団が彼らを襲う。アイーダ(嶋村侑)はフォトン・バッテリーの生産と供給を独占する「ヘルメス財団」のラ・グー総裁(子安武人)との会談の機会を得る。富野由悠季監督によるTVシリーズを再構築した劇場版5部作の第4部。総監督・脚本は富野由悠季。
 TVシリーズよりも圧縮されているのに、より分かりやすくなっている劇場シリーズだという点が素晴らしい。映像は基本はTVシリーズだが新規カットも加えられ、スクリーンに耐える見ごたえ。レイアウトやキャラクターの演技・演出が、最初から「映画」として耐えるものだったのだろうと思うが、アクションはブラッシュアップされて更にすごいことになっている。一方で、冒頭のランニングシーンでバテる中年たちのへっぴり腰や、宇宙服をいちいち着脱するカットがちゃんと入っているあたり、ああいい芝居しているなぁ!とうれしくなってしまった。
 本シリーズは一貫して、ベルリもアイーダも半ば子供である、未完成であるという要素が協調されている。今回はベルリはアイーダが姉であることを受け入れるくらいには成熟するが、同時に「アイーダさんが姉さんか…!」と今だ煩悶するくらいには青い。またGセルフのパイロットとして、今回はっきりとは意図せず大変なことをしてしまうのだが、やってしまった後の葛藤、拒絶が痛々しい。少年少女がMSに乗るというガンダムシリーズの定型に反して、子供に武器を持たせてはならないという基本姿勢が見えてほっとする。一方でアイーダは、自分の出自・育成環境から得たものを活用する責任があると覚悟を決める。2人が成長し、それぞれの「親」を許容していく様子が見えた回だったと思う。
 なお、宗教国家的な世界設定だと思うのだが、宗教上のタブーは一見理不尽だが、合理的な理由も結構あるというエピソードがちょこちょこ見受けられるあたりが面白い。






『シン・ウルトラマン』

 禍威獣(カイジュウ)と呼ばれる謎の巨大生物が次々と現れ人間の住む世界を破壊するようになった日本。未知の力を持った禍威獣に対抗するため、政府は各分野のスペシャリストを集めて禍威獣特設対策室専従班、通称「禍特対(カトクタイ)」を設立した。班長の田村君男(西島秀俊)、作戦立案担当官の神永新二(斎藤工)らに加え、新たに公安出身の分析官・浅見弘子(長澤まさみ)が配属され、神永とバディを組むことになる。ある時、銀色の巨人が突如出現し禍威獣と対峙する。監督は樋口真嗣、企画・脚本は庵野秀明。
 日本を代表する特撮作品「ウルトラマン」を、舞台を現代に置き換えつつ、過去作のテイストを(多分)盛り込んだ新作。私はウルトラマンは昭和、平成、令和を通して全然見ていないのでわからないのだが、初代ウルトラマンから見ているファンにはわかる小ネタが色々とあるのではないか。序盤の禍威獣たちの着ぐるみっぽい造形・動きの演出や、ざらっとした映像の質感、字幕のフォントは「あの頃」へのサービスなのだろう。ただ、それが映画単体として面白くなっているのか、ウルトラマンファン以外に訴求するのかというと、少々微妙なように思う。後半だと、禍威獣の着ぐるみ感は希薄になるしジオラマを使った特撮的アクションシーンもないので、前半の着ぐるみ特撮演出は何だったんだという気も。どの辺に軸を置いているのかよくわからない。ただ、ウルトラマンのデザインや動き、空中戦は美しいし、ウルトラマンに愛着がなくても楽しめるのではないかと思う。昭和への阿りみたいなのは個人的にはノイズになってしまい、今作るなら「今」のウルトラマンが見たいと思った。
 「禍威獣」というワードのこけおどし感がダサいんじゃないかな…と冒頭の禍威獣襲撃経緯をスピーディーに見せていく説明パートで不安になったのだが、ウルトラマンに思い入れがない人が見ると、全体的にこれはダサいのでは?と思うかもしれない。ちょっと趣旨がわからない演出が多いように思う。なぜこのショットなのか?ウルトラマンシリーズではこういう角度のショットに何か意味があったり多用されているのか?と疑問に思う所が多々あった。人物の正面アップばかりだと画面がうるさいし、その割には人物描写にはあまり興味なさそうなキャラクター造形や会話の組み立てだし、趣旨がよくわからないんだよな…。ドラマとしてはエピソードのブツ切り感があって映画1本通しての盛り上がりには欠けるので、色々盛り込んでいる割には印象に残らない。

ULTRAMAN(1) (ヒーローズコミックス)
下口智裕
ヒーローズ
2020-02-28


野生の思考
クロード・レヴィ=ストロース
みすず書房
1976-03-31




『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』

 ブリュッセルのアパートで学生の息子と暮らしているジャンヌ(デルフィーヌ・セイリグ)。家の中を片付け、買い物に出かけ、料理をし、息子の帰りを待つ。毎日平凡な暮らしを繰り返す彼女の生活を映し続ける。監督・脚本はシャンタル・アケルマン。
 シャンタル・アケルマン映画祭にて鑑賞。アケルマン作品を見るのは初めてなのだが、世界に衝撃を与えたというのもわかる。200分という長尺なのだが凄みがあって目が離せない。定点カメラ的にアパートの中に複数カメラを設置して、固定カメラのまま全編撮影している。そのせいか、ジャンヌを観察しているという感じが濃厚で、対象との距離感、クールさを保っている。ただ、観察している=対象の内面が説明されることはないので、ちょっとした行動や身振りから内的な状況を推し量ることになり、日常のルーティンワークが繰り返されているだけなのに妙に不安・不穏なのだ。多分こうだろう、という鑑賞者の推測を拒むところがあるのだ。この時間帯は多分あれをやっているだろう、という思わせぶりな部分も、終盤でやっと明示され、一気にラストへなだれ込む。
 ジャンヌは毎朝定時に起きて、部屋の空気を入れ替え、コーヒーを淹れて朝食をとり、昼食の後に買い物に出かけて、帰ったら夕食を作り、食後は息子と一緒に散歩に行く。毎日同じルーティンで生活しており、ご近所との会話で1週間の夕食のメニューのルーティンも決まっている様子がわかる。基本的にイレギュラーなことはやろうとしないし得意ではないらしい。そんな彼女の行動に乱れが出ると、妙に気になる。コーヒーがなぜか不味い、ジャガイモのゆで方に失敗したなど些細な事ではあるが、何か不穏な予兆を感じてしまうのだ。ジャンヌの料理する様、室内を移動する様が毎日こういうことをこなしている人としてのもの、動きが身に染みついた感じのするもの(逆に赤子のあやし方は様になっていないので印象残る)なので、余計にそう思うのだろう。繰り返しとその中でのちょっとしたずれの積み重ねの果てにあるものがあれか!という最後の驚きを引き出すのだ。動きの積み重ねと長さが生む効果の計算が非常に上手いと思う。映画は時間の芸術だということを実感した。
 日常が日常のまま唐突にとんでもないことが起きるというのは、不条理劇のようでもあるが、よくあることだという気もする。人間、それぞれに自分の中の域値みたいなものがあって、たまっていくものがその値を超えると何が起きる自分でもわからないのだ。

囚われの女 [DVD]
クロード・ピエプリュ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2013-11-22


ブルジョワジーの秘かな愉しみ [Blu-ray]
フェルナンド・レイ
KADOKAWA / 角川書店
2018-07-27



『SING シング:ネクストステージ』

 取り壊し寸前の劇場を見事復活させた劇場支配人バスター・ムーン(内村光良)。ニュー・ムーン劇場は連日大入りだが、彼は次の目標を目指す。エンターテイメントの聖地であるレッドショア・シティでの公演だ。ショービズ界の大物ジミー・クリスタル(大塚明夫)から契約を取り付けるが、その条件は15年間隠遁している大物歌手クレイ・キャロウェイ(稲葉浩志)の出演だった。監督・脚本はガース・ジェニングス。
 吹き替え版で鑑賞。1作目は日本語吹き替えも好評だったが、2作目の本作も吹き替えキャストは連投している。稲葉浩志の起用にはかなり驚いた、かつ少々心配だった(演技の専門家ではないから…)が、意外と悪くない。やはり歌ありきの作品なので、しっかり歌えるキャストがそろっている点は安心。
 劇場のメンバーたちは前作で既に自分内の課題を一つ越えているので、個々の成長ドラマについては今回はやや控えめ。一方で、ショーの脚本が二転三転して決まらないとか、出資者の無茶ぶりをどうかわして懐柔するのかとか、大道具らスタッフに足元見られて舐められるとか、興行主であるムーンの一難去ってまた一難状態は前作以上。しかもその難、ほとんどムーンのお調子者ぶりと安請け合いが生み出したもので自業自得といえば自業自得なのだが…。それでも自分が正しいと思うショーのあり方を追い続ける姿は応援したくなる。無計画ぶりには大分イラっとするけど…。
 本シリーズ、舞台芸術の舞台装置はどうなっているのか、という部分をかなりしっかり見せているように思う。劇場という場への思い入れがある人たちが主人公だからか。今回は箱がかなり大きくなって舞台装置も大がかりだ。ショーの中でファンタジックなシーンも色々とあるのだが、それらがイマジネーション内のファンタジーではなく(一部そういうものもあるが)、舞台装置・舞台効果の技術によってそう見える、というビジュアルになっているところが面白かった。ちゃんとワイヤーとかついているし、空中に浮いているように見えても透明な足場が描かれている。舞台芸術に対する愛情が深い作品ではないかと思う。


『鹿の王 ユナと約束の旅』

 かつては最強の騎士団「独角」の頭だった戦士ヴァン(堤真一)は強大な帝国・東乎瑠(ツオル)に捕らえられ、奴隷として岩塩鉱で働かされていた。ある日山犬の群れが岩塩鉱を襲い、死の病「黒狼熱(ミツツァル)」の蔓延により多数の死者が出る。それに乗じてヴァンは幼い少女ユナ(木村日翠)を連れ逃げだす。一方、王幡領では医師ホッサル(竹内涼真)が黒狼熱の治療法を探していた。原作は上橋菜穂子の同名小説。監督は安藤雅司。
 専業声優ではなく俳優を起用したキャスティングだが、違和感はない。アニメファンからはタレントの声優起用は嫌がられる傾向があるが、うまい俳優だったらふつうに上手いんだよな…。竹内が意外と声がいいしこなれているのは予想外だった。
 原作にボリュームがあるので仕方ないのかもしれないが、ストーリー展開にダイジェスト感が少々ある。また、ヴァン中心のエピソードではモノローグがほぼないところ、中盤から病の治療法を探すホッサルの一人称に移行しモノローグが頻繁に入るのも唐突に感じられた。原作未読なのだが、ヴァン・ユナにとっての狼の謎と、ホッサルにとっての黒狼病の謎とは別の語り口になっているのだろうか。映画化された本作では、仕組みのわかっていない病や医療は、スピリチュアルやオカルトと同じように見えるという面を意識した演出になっていたと思う。狼たちと一緒に襲ってくる波、もしかすると時には狼たちも一般の人たちの目には映っていないのでは、と思わせる見せ方がしばしばあった。それと同時に、超自然的なものに見えるヴァンの力も、あくまで科学の徒であるホッサルの医術の世界とが、両立している世界としてとらえられているのでは。どちらか一方が本来的なものというわけではなく、隣接したり交差したりする。
 Production I.Gがアニメーション制作ということで、人体の表現が手堅く厚みがある。華やかではないが、肉体の骨太さを感じさせる作画だ。いわゆる整っているわけではない顔のバリエーションが老若男女バリエーションがあるのもよかった。その中でホッサルだけはこの人顔がいいよ!という主張のある作画なのが逆に面白い。一方、背景美術は端正だが今一つさえない。生き生きとした息吹みたいなものが感じられなかった。動かすための労力はキャラクターに集中させるという方針だったのかもしれないが、人物の演技は生き生きとしているだけにもったいないように思う。

鹿の王 1 (角川文庫)
上橋 菜穂子
KADOKAWA
2017-06-17


精霊の守り人 Blu-ray BOX [初回限定版]
ジェネオン・ユニバーサル
2012-09-05


『シチリアを征服したクマ王国の物語』

 昔々、シチリアのクマたちは山で静かに暮らしていた。ある日、クマの王レオンス(堀内賢雄)の息子トニオ(伊藤沙莉)が姿を消した。レオンス王は息子を救うためにクマたちを引き連れ、山を下りて人間たちが暮らす谷へ向かった。人間たちはクマが襲ってきたと勘違いし総攻撃をかけ、クマたちも総力戦で立ち向かう。原作はディーノ・ブッツァーティの同名児童文学。監督はロレンツォ・マトッティ。
 吹き替え版で見たがなかなかいい。柄本佑と伊藤沙莉が2役ずつこなしており大活躍なのだが、特に伊藤ははまっておりいいキャスティングだった。柄本はジェデオン役にもデ・アンブロジス役にもちょっと声が若すぎる気がした。とはいえ聞いているうちに違和感はなくなっていく。レオンス役が大ベテランの堀内なので、ここで安定感がぐっと増している。
 ビビッドな色味の美しさと、生地のような質感の肌合いや立体感のあるフォルムが魅力的なアニメーション。日本版ポスターはデザインがとてもいいのだが、このデザインを見て気になった方はイメージを裏切らないので本編もぜひ見てほしい。特に戦争の情景とサーカスの情景が交互に繰り返されるシーンは、リズム感と動きのデザイン、色彩デザインの組み合わせがとても楽しくユーモラス。結構人もクマも死んでいるはずのシーンなので単純に明るく楽しくもないはずなのだが。また街中のシーンもキリコの絵画を意識したのかな?というショットもあり、魅力的。アニメーション製作は『レッドタートル ある島の物語』を手掛けたプリマ・リネア・プロダクションズだが、クオリティ高い。
 クマたちは基本的に素朴でのんきだ。テンション上がって踊りだすシーンは民族舞踏のようで愉快。しかし人間の文化に触れることで、彼らの素朴さは失われていく。それはクマなのか?という生活に染まっていくのだ。単純に素朴さ礼讃、自然回帰賞賛ということではなく、自分たちに不釣り合い・不向きなものにはまってしまったという物悲しさがある。クマはクマ、人は人、という区切りのつけ方はともすると冷たくも見えるが、この距離の取り方がおとぎ話としての折り目正しさなのかもしれない。
旅芸人のジェデオンとアルメリーナの語りにより物語られるという構成だが、おとぎ話は人に語られて続くものだろう。語りが途中で人間側からクマ側に交代する、そして最後にまた人間へと託されるという語りのリレーも、昔話らしくていい。

シチリアを征服したクマ王国の物語 (福音館文庫 物語)
ディーノ・ブッツァーティ
福音館書店
2008-05-20


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