3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

 ミサト(三石琴乃)率いる反ネルフ組織ヴィレは、パリ市街地であるミッションを開始していた。コア化で赤く染まったパリを復元し、エヴァ修復に必要なパーツをかつてのネルフ支部から回収するのだ。復元オペの作業時間はわずか720秒。その時間を確保するため、マリ(坂本真綾)の改8号機がネルフのEVA大群を迎え撃つ。一方、シンジ(緒方恵美)、アスカ(宮村優子)、(仮)アヤナミレイ(林原めぐみ)は日本のどこかをさまよっていた。脚本・総監督は庵野秀明。
 3時間近い長尺なのだが、あー終わった!お疲れ!解散!これで本当に終了、もう続きはないだろう。本作を見てから先日放送されたNHKのドキュメンタリー『プロフェッショナル仕事の流儀』庵野監督回を見たのだが、本当にお疲れ様ですねとしか言えない。監督もスタッフも何年にもわたって心身削ってここまで来たんだなとしみじみた。シリーズに強い思い入れがある人はまた違った感慨や不満があるのかもしれないが、さほどコアなファンではなく一応リアルタイムで並走してきたという程度の視聴者(私にとってのエヴァはやはりTVの延長線なので)にとっては、まあこの終わり方でいいかなと思う。
 ただ、エヴァはもう新しいコンテンツではなくなったんだなということも強く感じた。TVシリーズ放送が1995年~1996年だから最先端でいろというのが無理な話ではあるのだが、ここ20年近く「エヴァ以降」のものを見続けてしまったので、もう本家で何やってもそれを越えた新しさというのは感じないんだろうなと。『プロフェッショナル仕事の流儀』の中で庵野監督は、自分の頭の中にあるものだけでは新しいものは出てこない、自分の外側のものが必要なのだと言う。スタッフを追い込むのも何か予想外のものが出てくることを期待してのことだ。しかし完成したものにそんなに新しさは感じられない(これは私が映像表現の「新しさ」に疎いという面もあるが)、また逆に庵野監督のパーソナルな部分の反映が色濃いのではと思えてしまうというのは皮肉だ。やはり20年前に終わらせておく(本作のようなラストにたどり着いておく)べき作品だったと思う。もっと早くにエヴァの幕引きができていれば、庵野監督によるアニメーション作品をもっと見られたかもなぁという、アニメファンとしての惜しさもある。
 また本作、地に足をつけて現実を生きろ、成熟しとというメッセージ(多分)はこれまでの劇場版と変わらないのだが、生き方・成熟のモデルがかなりコンサバなのではという印象受けた。それを今更やられてもなぁ…先人が散々やった後では拍子抜けだ。とは言え庵野監督も還暦と思うと、年齢的な限界なんだろうかとも。














 

『シカゴ7裁判』

 配信で鑑賞。1968年、鹿安護で開かれた民主党全国大会の会場近くの公園に、ベトナム戦争に反対する大勢の市民・学生らが集まった。警察との間で激しい衝突が起き、デモの首謀者としてアビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)、トム・ヘイデン(エディ・レッドメイン)ら7人が起訴される。監督はアーロン・ソーキン。
 ソーキンは実際の事件を元にした作品を得意としているが、本作は陪審員の買収・盗聴が相次ぎ悪名を残すことになった「シカゴ7裁判」をドラマ化したもの。勝ち目の薄い裁判で正義を問うというハードな題材だが、導入部分が結構ポップでテンポがいい。登場人物の氏名テロップが表示され、どの組織のどういう立場の人か初登場時にぱっと見せていくという親切設計だが、説明過剰ではなくさらっと処理していく。全体的に手さばきがいい、構成が整理された作品だ。公園で実際に誰が何をやってどういうことが起きたのか、という部分は終盤まで映像としては見せられず、関係者の証言から部分的に語られるのみだ。それが集約されて終盤で全体像が見えてくる。そこでつい失言したかに思えたヘイデンの言葉を、彼とはそりが合わず反発していたホフマンが正しく文脈を理解し読み解く。ライバルと書いて友と読む的な、少年漫画的シチュエーションも熱い。ストーリーの山の作り方が上手いのだ。
 陪審員の構成を操作し、検察側の証言者は警官ばかりで客観的な証言とは言い難く、被告側の証人の証言は様々な理由をつけて却下され、そもそも判事が最初から実刑ありきで裁判に臨んでいるという、被告側にとっては非常に不利な裁判。法律はどういう立場の人にも等しく働くように作られているものだが、司法側にその気がなければ法の公正さは失われてしまう。力を持つものが自分の都合のいいように司法をコントロールしようとすると、司法のそもそもの土台が崩れてしまうという話で、今(というか2020年)のアメリカでこの話を映画化しなければ!という意志を感じた。「世界が見ている」という言葉が何度も出てくる。私たちが見ている、だから不正はするなということだろう。デモにはそもそもそういう(お前たちを見ているぞ、異議があるぞと知らせる)ものだと思うが、映画もまたそういうことができるのだと。 


モリーズ・ゲーム(字幕版)
マイケル・セラ
2018-10-17


『粛清裁判』

 1930年、8名の科学者・技術者らが西側諸国と結託しクーデターを企てたとして、モスクワで裁判にかけられた。被告らが所属したとされるグループ名にちなみ、いわゆる「産業党裁判」と呼ばれるものだが、実はスターリンによる見せしめ裁判だった。無実の被告ら、彼らを裁く権力側、そして熱狂する群衆の姿を記録したアーカイブ映像を再構築した記録映画。セルゲイ・ロスニツァ監督による「群衆」三部作のうちの1作。2018年の作品。
 裁判ってこんなに皆ペラペラしゃべるものだったか?というくらい被告も検察も流暢にしゃべる。まるで芝居のように仕上がったしゃべりなのだ。被告らが一様にすんなりと罪を認め、反省の言葉をとうとうと述べ始める様は、証言も反省への道筋も一様すぎてあまりに不自然だ。実際、この裁判自体が政府によるやらせであり、被告らは無実で、見せしめの為に虚偽の告発をされた。嘘のものがその通り嘘らしく見えているというわけなのだが、誰もそこを突っ込まない。その突っ込み不在さがうっすらと気持ち悪いのだ。
 本作は被告と検察・裁判官側とを映し続けるが、同時に裁判を傍聴している多数の人々(ご時世柄、密!密すぎる!と気になってしまった)、裁判を撮影する撮影スタッフたち、そして町に溢れる民衆の姿を映す。当時の映像アーカイブに保管されていた映像を編集したものなので、裁判の現場と、町で赤軍万歳とパレードに湧く民衆の姿は、直接的には関係はない。しかしこの裁判が生じた背景にはこの民衆の熱狂があるのだろう。この熱狂を起こす為の見世物としての裁判であり、一大見世物を受けて更に民衆は熱狂する。裁判を傍聴していた人々が、被告らの死刑が決まった瞬間に拍手喝采するのにはぞっとした。全くショーとして見ているのだなと。そこに被告ら個々の人生や振る舞いの不自然さは抜け落ちており、完成した見世物としてのみ捉えられているように思えた。
 見世物を見ている側は自分たちは安全圏にいると思っているのだろうけど、なぜそう思っていられるのか。熱狂は批判精神を失わせるということか。独立政権の確立され方の一面を提示している映像作品になっているが、これはロスニツァ監督の批判精神と編集力によって成立しているものだろう。


ソヴィエト旅行記 (光文社古典新訳文庫)
ジッド,アンドレ
光文社
2019-03-08




『少女ムシェット』

 14歳の少女ムシェット(ナディーヌ・ノルティエ)は酒飲みの父の暴力に耐え、病の母に代わって赤ん坊の世話をしている。貧しく孤独な生活で、家にも学校にも居場所がない。ある夜、嵐の中森で道に迷い、密猟者のアルセーヌに遭遇する。原作はジョルジュ・ベルナノスの小説「新ムシェット物語」。ロベール・ブレッソン監督、1967年の作品。
 『バルタザールどこへ行く』もなかなか辛気臭い話だが本作は更に辛気臭いし更に救いがない。ムシェットの人生って何だったんだよ!とキレたくなる勢いだ。しかし辛気臭さの強度が異常に高い、というか強い。最小限に抑えた俳優の演技と余剰な演出を排したショットの組み立てで冷酷さが際立つ。安易な共感や同情を寄せ付けない。
 ムシェットは悲惨な環境にいる少女だが、彼女の悲惨さは貧しさそのものよりも、子供として扱われない、保護されていないという所にある。両親も、周囲の大人たちも彼女をケアしないし、彼女の話を聞かない。信用できる大人が一切いないのだ。母親が死んだ時に彼女を気遣う大人はいるが、一方的なものであり彼女に気持ちは届かない。ムシェットはほとんどしゃべらないのだが、自分の話をまともに聞こうとする人がいないから喋らないのだ。彼女の心がこの世からどんどん離れていくのもしょうがないと思えてくる。原作者のベルノナスはカトリックの作家として知られているそうだが、本作はむしろ神の不在を感じさせるという所が面白い。悲惨さの質が宗教的なものとはちょっと違うように思ったのだが、これはブレッソンの特質なのだろうか。
 ムシェットを演じたノルティエの佇まいがとても良い。ムシェットは辛抱強いがいわゆる健気が少女というわけではなく、貧しさへの怒り、他の子供たちへの妬みや苛立ちを隠さない。ノルティエは不機嫌そうな表情、むっとした表情が似合う。ムシェットの靴と靴下に貧しさが象徴されているところがなんだかやりきれなかった。

少女ムシェット ロベール・ブレッソン [Blu-ray]
ナディーヌ・ノルティエ、ポール・エベール、マリア・カルディナール、ジャン=クロード・ギルベール、ジャン・ヴィムネ、マリーヌ・トリシェ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2017-06-30


田舎司祭の日記 [Blu-ray]
ニコル・ラドラミル
KADOKAWA / 角川書店
2019-07-05




『死霊魂』

 1950年代後半、人民の自由な発言を歓迎するという中国共産党主導の「百家争鳴」キャンペーンが行われた。これに乗って自由にものを言ったところ「右派」と呼ばれ、55万人の人びとが収容所に送られた。この「反右派闘争」の全容はいまだ明らかになっていないという。これに大飢饉が重なり、収容所は地獄と化した。2005年から2017年にかけて撮影した、収容者全体の10%と言われる生存者の証言から構成した一大ドキュメンタリー。監督はワン・ビン。
 何と8時間26分におよぶ超大作(劇場上映だとおおよそ9時間強)しかし密度が異常に高く、長いことは長いのだがダレた感じはしない。この点だけでも凄まじい作品だと思う。生存者の語り口は淡々としていたり時に強い感情を見せたりと様々な表情を見せるのだが、どの話からも極度の飢餓がどのようなものなのか、ひしひしと伝わってくる。語り口はあっさりとしており、普通のことのように語られている所に更に凄みがある。人間は飢えすぎるといきなり死ぬ(寝ている間に死ぬ人が多かったそうだ)とか、人肉を食べた噂とか、白いはずの布団が黒っぽいのでよく見るとシラミが全面にたかっている、シラミを叩き落とす力さえなくなるという具体的すぎるシチュエーションの数々。人間が人間でいられる域を軽く超えるような状況を体験した人たちが、一体どういうスタンスでその体験を語っているのかと思うと、ちょっと想像を絶するものがある。
 中国を襲った大飢饉は天災であり、元々環境が良くなかった収容所の状態が更に悪化したという面はあるが、国の失策という面も大きそうだ。地方の農家の飢餓は政府が作物を徴収しすぎたから、ノルマを達成するプレッシャー故に各自治体が収穫量の虚偽申告をしたから、という人為的な要素もあった様子が垣間見えてくる。また収容所に送られた人たちも明確な「右派」ではなかった人が多く、「人数合わせ」として選ばれたに過ぎなかったりする。右派は集団全体に特定の割合含まれているから、その割合に見合う人数を送らないとならないという、馬鹿馬鹿しい理屈がまかり通っていたそうだ。国が作った仕組みに振り回され生命まで奪われた人たちが何と多かったことかと気が遠くなる。収容所の跡地には、今でも人骨が大量に放置されているのだ。そういった経緯が順序だてて説明されるわけではないが、生存者たちの語り、また収容所を管理する側だった人達の話によって、断片が徐々につながり、一つの絵が見えてくる。
 ワン・ビン監督の作品を見る度、監督の聞き手としての力、粘り強さに唸ってしまう。よくこの場にカメラを置き続けさせてくれるなという作品ばかりだ。人との信頼関係の作り方、距離の縮め方が抜群に上手いのだろうが、このやり方で作り続けられるという所が凄い。

無言歌(字幕版)
シュー・ツェンツー
2015-02-04


苦い銭 [DVD]
紀伊國屋書店
2019-01-26


 

『幸せへのまわり道』

 記者のロイド・ボーゲル(マシュー・リス)は華々しいキャリアを積んできた。今は有名雑誌の編集部に勤め、弁護士だが育児の為休職中の妻と、幼い息子と3人暮らし。ある日、姉の結婚式で絶縁状態だった父ジェリー(クリス・クーパー)と再会し、大ゲンカしてしまう。数日後、ロイドは仕事でインタビューをすることになる。相手は子供番組の司会者で国民的スターのフレッド・ロジャース(トム・ハンクス)。フレッドは会うなり、ロイドが抱えている問題を察知する。監督はマリエル・ヘラー。
 スタジオ見学に来たがなかなか言葉を発さない子供に対して、フレッドが子供の発語をずっと待ち続けるシーンが印象に残った。フレッドは「聞く」力の鍛え方、胆力が半端ない人物なのだ。相手の話を本気で聞く姿勢を保ち続けるというのは、実は相当努力と技術がいる。そして聞く姿勢が本気でない場合、往々にして相手にバレる。フレッドは初対面の相手に結構立ち入ったことを聞いてくるのだが、そこで関係がいきなり拗れるという風でもない。この人は本気で聞く気があるなと思わせる何かがあるからだろうし、そういう人に対しては、相手も自分のデリケートな部分を開示してもいいと思える。
 一方ロイドは記者という職業にも関わらず、今一つ聞く態勢がとれていない人だ。彼が用意している質問は答えが予測されている、あるいはこう答えてほしいというシナリオが前提になっているもので、フレッドには「期待通りの答えじゃなかったかな?」と言われてしまう。また、相手を怒らせて本音を引き出すといった手法を取る様子も垣間見え、インタビューした相手からは嫌われているという。ロイドの聞き方は対話にならないのだ。彼のこの姿勢は家族に対しても同様で、関係がこじれている父親はともかく、妻に対しても今一つ上の空。子供の世話は一緒にやっているし決して不仲ではないのだが、妻は本当は復職したいのでは(保育所が決まらなくて、という会話がある)、ロイドにも家にいてほしいのではといった事情が垣間見えてくる。ロイドが取材に打ち込むのは、そういった対話をせざるを得ない状況から逃げ出すためでもあるのだろう。
 相手の話を本気で聞くのは、気力体力を使うし、自分をある程度律していなければできないことだ。フレッドが感情、特に怒りをコントロールするように努めているというのもそのためだろう。ロイドに一番出来ていないのはここだ。プレッシャーが重なっていく様が、耳鳴りや話が聞こえなくなるといった演出で表されているのだが、徐々に周囲が見えなくなり頭が飽和状態になる様子が伝わってくる。こういうキレ方をする人は結構多いと思うのだが、弱みを見せてはいけない、強くあらねばというプレッシャーが根底にあるのかなという気がする。だから悲しみや辛さで泣いたりできないし、間違いや弱さを指摘されるとキレるのではないか。
 そういった感情は言語化して整理する、またフラストレーションを何かで発散してバランスを保つのだとフレッドは言う。しかし彼にとっても決して簡単というわけではない、素の彼が垣間見えるラストに異様な迫力があった。それまではフレッドの番組というフレーム、その中で紹介されるロイドの物語という複数のフレームで構成されているのだが、ここだけフレームがなくなるのだ。実は構成に結構凝った作品だ。

それでも、愛してる スペシャル・エディション [Blu-ray]
チェリー・ジョーンズ
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2012-11-09









『シチリアーノ 裏切りの美学』

 1980年初頭のシチリアでは、マフィアの全面戦争が激化していた。パレルモ派のトンマーゾ・ブシェッタ(ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ)はブラジルに逃れるが、仲間や家族は次々と敵対するコルリオーネ派に殺されていく。ブラジルで逮捕されイタリアに引き渡されたブシェッタは、ファルコーネ判事から捜査への協力を求められる。監督はマルコ・ベロッキオ。実在したマフィアの一大摘発事件をドラマ化した作品。
 俳優たちの面構えにアクがあり、映像も色彩鮮やかでテンポよくエネルギッシュ。冒頭の死人カウント表示も抗争の規模が一目でわかり景気がいい。ベロッキオ監督は既には80歳越えていたと思うが、元気だなー。なかなかのくどさだった。
 シチリアはイタリアの中でも大分独特な土地柄なのだろうか。どうもかなり方言がきついらしいというだけでなく、1980年代の話ではあるが、更にひと昔前の世界みたいだ。法律と行政ではなく、マフィア同士の関係とローカルルールが支配する世界なのだ。法を守る側に協力したブシェッタは激しいバッシングを受け、地元では「雇用を守るマフィアを守れ!」というデモが起きていたりする。マフィアが経済を回す、犯罪が一大産業になっているのだ。そんな世界ではブシェッタは組織だけではなく土地全体に対しての裏切り者、卑怯者ということになる。このあたりの過剰な地元愛は外様から見るとなんとも不思議。ブシェッタと他のマフィアたちは双方卑怯者、裏切り者(ブシェッタからすると昔からのルールを無視し私欲に走ったマフィアたちは裏切り者というわけ)とののしりあうが、いずれにせよどちらも犯罪で飯を食っているわけで、どっちもどっちな気がしなくもなかったが…。その文化の中にいないとわからない理屈があるんだろうなという異文化を垣間見るような作品だった。
 異文化と言えば、本作で行われる裁判は、私が映画やTVドラマで見知ってきたものとは大分様相が違う。証人であるブシェッタと被告であるマフィアがその場で直接「対決」を出来る、更に他の被告(マフィア組織を摘発したので被告が大勢いる)もギャラリーとして待機しておりやんやと野次を浴びせることができるという、見世物的な状況だった。ブシェッタと「対決」相手も裁判官そっちのけで罵倒しあい、弁護士が介入する余地がない。具体的な証拠や証言の裏付け等は一切出てこない(実際の裁判ではあったのだろうが、作中には出てこない)ので、これは一体何を見せられているんだ…と謎の時間が流れた。

夜よ、こんにちは [DVD]
ジョヴァンニ・カルカーニョ
スタイルジャム
2007-01-12




『ジョゼとピラール』

 EUフィルムデーズにて配信で鑑賞。ポルトガル語圏唯一のノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴと、彼のパートナーであるピラールを追ったドキュメンタリー。2010年製作、監督はミゲル・ゴンサルヴェス・メンデス。
 サラマーゴといえばパンデミック小説とも言える『白の闇』(映画化された『ブラインドネス』も佳作だった)、そして今年はサラマーゴ没後10周年。半分は予期せずだがタイムリーな作品になってしまった。本作は晩年、80代のサラマーゴの活動を追うが、非常に若々しく精力的だ。執筆はもちろんだが、各種講演、シンポジウム、サイン会(時間と体力温存の為に献辞は遠慮願うというやり方)、はたまた次作の芝居に出演までという幅広い活動ぶり。しかもそれがスペイン(サラマーゴはスペインのランサローテ島にに移住)だけでなく様々な国で開催されるので、かなりあわただしく海外を飛び回ることになる。講演にもサイン会にも大勢の人が訪れ、文化や政治に関する発言も注目を集める。その注目度は日本における「作家」のあり方とは大分様子が違う。作家という立場のプライオリティの高さや、実際に彼の作品を読んでいる読者の多さが垣間見える。
 サラマーゴのあわただしい活動をマネージャー的にサポートするのがピラール。日常生活はもちろん、仕事のスケジュール管理やイベントの手配、マスコミ対応等、こちらもまた大変な仕事量。サラマーゴの絵画遠征にももちろん同行するし、一方で彼女自身の仕事もばりばりこなす。やたらとエネルギッシュなカップルなのだ。2人の会話の掛け合い、ぶつかり合いも小気味良い。ピラールがインタビュー内でプレジテントと呼ばれ「プレジデンテです」と訂正する(プレジデントは男性名詞、プレジデンテは女性名詞。プレジデンテという名詞が定着していないのはそのポジションが男性ばかりだからという文脈)様や、「セクシャルマイノリティに対して寛容ですよね」というな質問を投げかけられて寛容とかそういう問題でなくて(彼らは現に存在するわけだから)人権問題だと怒る様が彼女の人となり、立ち位置を示していた。
 とはいえば、サラマーゴも高齢は高齢なので、ある時点でがたっと調子を崩す。これが生々しくて(ドキュメンタリーだから当然「生」なんだけど)心がざわつく。彼の最晩年の映像だとわかっているだけに。それを支え続けるピラールの姿は、献身というよりも、チームの一員としての責務としてやっているように思えた。それが2人にとっての愛の形なのだろう。
 サラマーゴはポルトガルで生まれ育って、作家として成功した後にスペインで暮らすようになったという背景がある(当時のポルトガル政府の方針に同意できなかったらしい)。彼とポルトガル、スペインという2つの国の関係への言及が作中でやはり出てくるのだが、なかなか微妙。サラマーゴ展の開幕にポルトガル政府の関係者は出席しなかったというし、ポルトガルからは裏切り者扱いされている向きもあるのだろう。本人のアイデンティティはおそらくポルトガルにあり、祖国への愛もあるのだろうが、そこで生きやすいかどうかはまた別問題だ。

白の闇 (河出文庫)
ジョゼ・サラマーゴ
河出書房新社
2020-03-16


ブラインドネス スペシャル・エディション(初回限定生産2枚組) [DVD]
ガエル・ガルシア・ベルナル
角川エンタテインメント
2009-04-03


『白い暴動』

 配信で鑑賞。経済が破綻状態にあり、働き口と福祉を奪われる不満から移民排斥主義運動が高まっていた、1970年代後半のイギリス。イギリス国民戦線(NF)を中心に排斥運動の過激化が進む中、芸術家のレッド・ソーンダズらは差別に対してロックで対抗する組織「ロック・アゲインスト・レイシズム(ARA)」を発足。ザ・クラッシュ、スティール・パルスらパンクやレゲエミュージシャンのライブを開催し反レイシズムを訴える彼らの活動は、多くの若者たちに支持されていく。監督はルビカ・シャー。
 RARの活動を追ったドキュメンタリーだが、レッドにしろ中心的スタッフのケイト・ウェブにしろ、表現は政治活動であるという認識は一貫している。これは日本だとなかなか抵抗を感じる人が多いし反感をかいそう。とは言え、社会の中で生きている以上政治にかかわらない活動というものはない(政治的主張を表現活動として表現するかどうかはまた別の話だし、やってもやらなくてもいい)。アーティストが政治を語ると「がっかりした」等の声が湧き出る今の日本とは大分様子が違う。当時はデビッド・ボウイやエリック・クラプトンまでNF支持を表明していたというから、そこに反対していったレッドらの覚悟は相当なものだったろう。実際、激しい嫌がらせにあったり知人から身辺に気を付けるよう忠告されたと言う。
 ARAのユニークな所は、NFの支持層である白人青年たちに人気のパンクバンドをイベントに起用して、そのファンとの対話を試みたという所だろう。ある意味、人間に対する信頼があるからできることではないかと思う。また、人種差別だけでなく性差別、LGBT差別、宗教や経済格差等、様々な差別問題を不公正なものとして包括的に反対運動が進められていた点も面白い。不公正・不正義には声を上げろという姿勢が一貫している。1978年のデモとフェスには10万人以上の人が集まったというから、その姿勢が様々な人々の共感を呼び行動されたということになる。相当数の人びとが声を上げたという所に健全さと言うか、救いがある。正直羨ましい。インタビューされた若者が「NFは国の問題を個人の問題にしている」と話していたのも印象に残った。国の経済状況が落ち目になると排斥運動は起こりやすく、それは経済問題だし、レイシズムへの流れを押し止めるのは「差別をやめましょう」という道徳よりも、国の経済政策やアナウンス、教育によるものだということだろう。
 RARの広報誌の紙面が結構かっこよく、何かを訴える為にはデザイン、ビジュアルも大事なんだなと改めて感じた。若い層の支持を得たというのはこういう要素もあったからだろう。なお、ザ・クラッシュは右翼的な白人男性の支持が強かったそうだが、バンドメンバーは「歌詞ちゃんと読めよ!(レイシズム要素はないから)」と話しているのがおかしかった。

白い暴動 (字幕版)
スティール・パルス


白い暴動
ザ・クラッシュ
SMJ
2013-03-06


『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』

 2006年。人気俳優のジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)が29歳で突然死した。10年後、若手俳優のルパート・ターナー(ベン・シュネッツァー)は著書出版に際したインタビューを受けていた。ジョンの大ファンだったルパート(ジェイコブ・トンブレイ)は、11歳の頃、彼と文通しており100通以上の手紙を交わした。その内容を本に記したのだ。監督はグザヴィエ・ドラン。
 ドラン監督の作品は常に感情の圧が高く、そこで好き嫌いが分かれそうな気がするが、本作は割と間口が広いように思う。青年ルパートの目を通したジョンの生涯という入れ子構造の立て付けなので、感情にフィルターがかかっている。「私の声」としての生々しさやどぎつさは若干和らぐのだ。また、これまでのドラン作品と同じようにジョンと母親との間、またルパートと母親との間には愛があると同時に大きな拗れ、わだかまりがある。ただ、その描写もさほどとげとげしいものではない(とは言え実家帰省のシーンなどを見ると、こんな親子関係・親戚関係だったらちょっとしんどいなとは思わせるけど)。根底には愛があり共感が生まれる瞬間もある。加えて少年ルパートの母親(ナタリー・ポートマン)は息子の為に本気で奔走し、それがルパートの心を再び動かす。2人の心が通う感動的な瞬間があるが、この瞬間がなければ後のルパートはいなかったかもしれない。これはおそらくジョンが得られなかった体験で、あったかもしれないジョンの人生をルパートがやりなおしているようにも見えるのだ。親子関係の運任せな部分を垣間見たようで切なくもあるのだが。
 とは言え、本作に出てくるジョンのエピソードは、ルパートが語るものという側面が強い。実際の彼がこのようだったかどうかはわからない。ルパートは信用できない語り手でもあるのだ。彼が必要とした物語が本作におけるジョンの物語であり、彼がジョンに自分を重ねることで生まれた物語とも考えられる。憧れのスターに自分を重ねる、共感を重ねるという気持ちは個人的にはあまりわからないのだが、こういう物語の在り方を必要とする人はいるし、スターはそれを許容するからこそスターなのかなとも思えた。
 それにしても、ジョンが生きていた2006年は思った以上に窮屈そうで、意外だった。セクシャリティに対する許容度ってアメリカでもこんなものだったのかな?対して、2016年を舞台とするラストシーンの幸福感がまぶしい。ある映画へのオマージュになっているのだが、ここで堂々とハッピーエンド感を出せる所が2020年(作中は2016年、製作は2018年だが)なのだと思う。

たかが世界の終わり 完全数量限定豪華版【500セット限定】 [Blu-ray]
ヴァンサン・カッセル
PONY CANNYON Inc(JDS) = DVD =
2017-09-06


マイ・プライベート・アイダホ [Blu-ray]
ウィリアム・リチャート
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2017-12-16


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