3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』

 19世紀半ばのアメリカ、マサチューセッツ州で、豊かな家庭に生まれたエミリ・ディキンスン(少女時代のエミリ/エマ・ベル)は、マウント・ホリヨーク女子専門学校に通っていた。しかし学校の福音主義的な方針に背き、アマストの家に戻る。詩作を続けていたエミリ(シンシア・ニクソン)は父エドワード(キース・キャラダイン)の介添えを得て新聞に作品を掲載されるが、編集者の反応は芳しくなかった。進歩的なヴライリング・バッファム(キャサリン・ベイリー)との友情やワズワース牧師への思慕を抱くが、彼らは去っていき、エミリは家に閉じこもるようになる。生前は無名だったが1800篇近い詩稿を残し、後に伝説的な詩人となったエミリ・ディキンスンの伝記映画。監督はテレンス・デイヴィス。
 エミリが学校で自身の信仰を問われるシーンから始まるのだが、ここでの発言で、(この映画の登場人物としての)彼女のことをぐっと好きになった。エミリは自分に信仰があるかどうかはまだわからない、見たことのない物を信じることは出来ないと言う。他の生徒たちは信仰の道を進む、ないしは今は保留しているけど後に進むという返答で、この場では信仰があるのかどうかわからないという返答はあり得ないのだ。エミリが無神論者だというわけではない。よくよく考えた結果、学校の不興を買うことは承知でわからないと答える。波風立たせぬ様適当な答えを言うことも出来るだろうが、それは自分に嘘をつくことになる。またエミリは教会に行くことや牧師の前で膝をつくことを拒むが、当時の良家の子女としては型破りで非難もされる。しかし、信仰があるとしたらエミリ自身の中にあるのであって、教会や牧師が関与することではない。教会や牧師は型にすぎないというのが彼女の考えだったのではないか。
 エミリは非常に正直で率直でもあり、特に自分の魂に関わること(信仰や創作等)については、自分に忠実に振舞う。その正直さは時に周囲を、時には自分をも傷つけもするし、本人もそれはわかっているのだが、やめられない。この姿勢にとても共感した。周囲に合わせておけば波風立たないとわかっている、でも自分の中の何かがそれに強く抵抗するのだ。そこで流されると、自分が最も大切にしている部分が損なわれるように思うのだ。周囲から見たらエゴイスティックなのかもしれないが、自分の魂に忠実であり続けようという、ある意味非常に誠実な姿勢が一貫している。詩作という、自分の中へ深く潜るような行為を続けるには、この誠実さを手放すわけにはいかないのだろう。真剣になればなるほど、周囲からは孤立してしまう。
 エミリは生涯引きこもっていたと「伝説」化しているし晩年は確かに引きこもっていたようだが、まったくもって孤独だったかというと、そうでもない。彼女は家族に恵まれており、特に妹・ラヴィニア(ジェニファー・イーリー)とは親密な信頼関係があった。弁護士だった父親はエミリを理解したとは言い難いのだろうが、それはそれとして彼女のやり方を尊重する。姉妹と兄が、そりの合わない伯母を見送る際の「チック・タック・・・」が微笑ましい。この伯母も、エミリとは価値観が違うのだが、それはそれとして、皮肉の応酬でやりあえるような情愛があるのだ。エミリは家族と家を愛し、ここ以外にいるなんて想像できないと漏らす。彼女が生涯家から離れなかったのには、そういう背景もあったように思う。
 エミリは美男の兄、美人のラヴィニアに対するコンプレックスを垣間見せるが、この気持ちもよくわかるなとしみじみと見た。彼女は内面を非常に重視しているが、かといって自分や他人の外面から自由になれるわけではない。詩人としての彼女に会いに来た男性から姿を隠し、声だけでつっけんどんなやりとりをする様は痛々しくもある。姿を見せて失望されるのが怖いわけだが、そんなに気にすることないのに!とは言え気になるもんなぁと。



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『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』

 海辺の町・杜王町に母と祖父と住む高校生の東方仗助(山崎賢人)は触れることで他人のけがや壊れた物を修復する特殊能力を持っていた。彼を訪ねてきた「甥」で同じような能力を持つ空条承太郎(伊勢谷友介)によれば、その力は「スタンド」だと言う。仗助と承太郎は、杜王町で続発している変死事件はスタンドによるものではないかと気づく。原作は荒木飛呂彦の大ヒット漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の第四部。監督は三池崇史。
 漫画原作映画ブームなのかもしれないが、いくらなんでもハードル高すぎないか、誰も幸せになれなさそうな気配がぷんぷんするわ・・・と思っていたのだが、予想より全然面白かった。侮りまくって申し訳ない・・・。原作に沿った登場人物のビジュアルは実写にするとなかなか素っ頓狂だし、スタンドという漫画ならではの設定はあるのだが、映画としての見せ方は意外とスタンダードで、案外奇をてらっていない印象。なので、原作をなんとなく知っている程度なら十分楽しめるのでは(とりあえずスタンドの概念を知っていれば大丈夫)。また、CGのスタンドにしろ、衣装にしろ、あんまり安っぽくない。ちゃんと「映画」をやるぞ!という意気込みが感じられる。ただ、わざわざイタリアでロケをした意味はあまりなかった気がする。いかにも観光地という絵にかいたような街並みなので逆に嘘っぽい。なんだったら舞浜とか熱海とかのほうが説得力あったかもなぁ・・・。
 本作、原作のうち片桐のエピソードと虹村兄弟のエピソードを映画化しているのだが、エピソードの分量と内容、組み合わせ方が映画のボリュームにちょうど良かったというのも勝因かと思う。また、片桐編で仗助の家庭と家族に対する思いが表明され、虹村兄弟編がその反転になっている。仗助は言動は不良だが、家族に愛されいい環境で育っていることが言動の端々からわかる。虹村兄弟はそういう家族になる可能性を奪われてしまった人たちだ。しかしそれでも「家族」だった時間がある。兄・億泰(岡田将生)の行動は非情で利己的ではあるが、悲哀も漂うのだ。演じた岡田は、本作出演者の中では一番好演だったのではないかな。セリフの発声が案外しっかりしているので、聞き取りやすい。
 このシリーズ、問題は二章以降だろう。登場人物が結構増えるし、枝葉のエピソードも多いので、原作をどの程度アレンジしてくるか気になる。ちょっと大変そうだよね・・・。

『ジョン・ウィック チャプター2』

 ロシアン・マフィアへの復讐劇から5日後。ジョン・ウィック(キアヌ・リーブス)の元へイタリアン・マフィアのサンティーノ(リッカルド・スカマルチョ)が訪れる。実の姉である組織のトップの殺害依頼をもちかけてきたが、ジョンは断り、見せしめとして自宅を爆破されてしまう。かつての盟約により依頼を受けざるを得ないジョンだが、依頼遂行の後にはサンティーノへ復讐すると宣言。命の危機を感じたサンティーノは高額の懸賞金をジョンに掛け、世界中の殺し屋が動き始める。監督はチャド・スタエルスキ。
 キアヌ・リーブスって演技派かというと正直いまだに微妙だし、ハンサムではあるがトム・クルーズのような「ザ・スター」感もいまひとつだし、個性が薄い割に、決してどんな役柄にでも適応できる使い勝手の良さがあるわけでもないと思う。しかし本作のように彼にハマる役柄を演じると、やっぱりスター感あるし魅力的だ。メジャーど真ん中の大ヒット主演作を持っているにも関わらず、何となくカルトスター感がいつまでも漂っている、不思議な俳優だと思う。ちょっと浮世離れした感じというか、実体感が薄い役柄だとハマるなぁと改めて思った。
 前作の5日後という設定で、ストーリーは直接つながっており、前作でのエピソードは特に説明されない。とは言え、そんなに入り組んだ話ではないので、単品で見ても大丈夫そうではある。前作よりも世界観のスケールが広がっているが、これは良し悪しだな・・・。殺し屋専用ホテルは今回も登場するが、更にその背後にある殺し屋ビジネスの存在も垣間見える。これはホテルが総元締めってことなんだろうけど、だとすると完全な中立って難しいんじゃないのかな?そしてなぜそのレトロな電信・・・スマホとタイプライターが並立する世界・・・単にビジュアル的にやりたかったんだろうけど。「やりたい」が先に立ちすぎて設定が色々とちぐはぐな気もするが、ビジュアルは確かに良いので眺めていて楽しい。
 アクションも前作より更に多く、長く、増量している。本作、冒頭から常にベース音がなっているような、一定のリズムで進行しようとしている気がした。アクションはふんだんにあるが、意外とめりはりがない。ペースが一定なので気持ち良く眠くなってきてしまった。だからつまらない、というわけではなく、体感として気持ちがいい。遠距離射撃系の武器が出てこないのは、リズムが崩れるからじゃないだろうか。基本的に、近距離の射撃と格闘による殺し合い(ジョンがいちいち相手をしとめるあたり、プロ殺し屋感ある)で殺すという目的のみで考えると不自然は不自然なのだが、これが殺し屋の美学なんだろうな・・・。
 ジョンは生きた伝説になるレベルの凄腕の殺し屋なのだが、意外とすぐに怪我をするし、攻撃されればちゃんとダメージを受けるし、痛そうな顔もするし、なかなか回復しない。今回、かなり早い時点でフラフラになっており、ほぼ全編ヨロヨロしつつ闘い続けるところが、キャラクター性として面白く味がある。死にそうで死なない、というよりも今にも死にそうなままで居続ける存在なのかなと。また、前作から引き続き、一貫して怒っているキャラクターでもある。自分にとってかけがえのないものを侵されたら怒るし、その怒りは消えないという主張がすごくはっきりしているのだ。

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『しあわせな人生の選択』

 カナダに妻子と暮らすトマス(ハビエル・カマラ)はスペインに住む長年の親友、フリアン(リカルド・ダリン)を突然訪ねる。フリアンは余命わずかと宣告され、治療を諦め身辺整理を始めたとフリアンの従妹パウラ(ドロシス・フォンシ)から聞いたのだ。フリアンはトマスと一緒に愛犬トルーマンの引き取り手を探し、アムステルダムに留学中の息子に会いに行く。2人の4日間を描く作品。監督はセスク・ゲイ。
 トマスとフリアンは長らく(おそらくトマスがカナダに移住してから)会っていなかったようだが、再会すると徐々に昔と変わらないであろうやりとりを始める。フリアンがぶつくさ言い、トマスが受け流すという関係性が確立しているようで、この2人は若い頃からずっとこの調子だったんだろうなと思わせる、深い部分での友達というのは、何年も直接会わなくてもやっぱり友達なのだと思う。ただ、この2人のように、自分の一部を相手に委ねられるかどうかというと、なかなかこの域にいくのは難しいなとも。最後のフリアンの行動は、(多分こうなるんだろうなという予感はずっとするものの)自分の一部を相手に渡す、自分の死後もそれが残るようにするということにほかならず、結構な重さだ。相手がそれに耐えうる人だと信じてやるわけだけど、信じられる側の責任も重い。
 フリアンは犬の引き取り手に会って回ったり、自分の葬式の手続きをしに行ったり、(自業自得なのだが)絶縁状態だった旧友に挨拶をしたりと自分の「始末」をつけていこうとする。彼はそういった作業を出来るくらいには自分の死期を受け入れているかのように見えるが、折に触れて、そんなことはないのだとわかってくる。特に葬儀社で説明を受けるが頭に入っていないような様子で、結局トマスが担当者の話を受けるという流れには、そりゃあそうだよあなとしみじみした。そこまで達観できないよなと。いくら「そのつもり」でいても、いざ具体的な話になるとすくんでしまう。
 なお、葬儀社の担当者が、「私の葬式です」と言われて一瞬止まるもののすぐ通常運転になるあたりは、プロの仕事!と妙に面白さがあった。フリアンが動揺しているのを察してトマスに話を振るあたりも、「普通」の振る舞いに徹している。普通に徹すると言う意味では、トマスの振る舞いも正に普通で、過度に心配したり干渉したりしない、平熱感がある。そう振る舞い続けるには結構な意思の力が必要ではないかと思う。フリアンにとっては、トマスの平熱感がありがたかったのではないか。

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『ジーサンズ はじめての強盗』

 ジョー(マイケル・ケイン)、ウィリー(モーガン・フリーマン)、アルバート(アラン・アーキー)は長年の親友同士。ある時、40年以上勤めた会社の合併が決まり、仕事場の工場は閉鎖、年金も打ち切られてしまう。更にジョーは住宅ローンを延滞しており、家を失いそうになる。たまたま銀行強盗の現場に出くわしたジョーは、自分も銀行強盗をしようと思い立ち、ウィリーとアルバートを誘う。監督はザック・ブラフ。マーティン・ブレスト監督『お達者コメディ シルバーギャング』(1979)のリメイク作品。
 他愛ないと言えば他愛ないのだが、気負わず気楽に見られる作品で、空いた時間にぷらっと楽しむには最適だと思う。正直それほど期待していなかったので、得した気分になった。なぜこの名優3人を?!という疑問はあるのだが(彼らが演じる必然性はそれほど感じないので)さすがの安定感で全く危なげがない。マイケル・ケインがブルーカラーを演じるというのは結構珍しい気がするが、孫娘と「親友」な素敵おじいちゃん感がいい。フリーマン演じるウィリーのマイナス思考とぼやき、アーキー演じるアルバートのぱっと見口は悪いが結構常識人で慎重な所もチャーミングだった。この3人はもちろん、彼らの家族や銀行強盗の「先生」となるペットショップオーナー、またいきつけのダイナーのウェイトレスやスーパーの店長に至るまで、脇役が全員いい感じだった。「こういう人」感がちゃんと出ており、愛嬌がある。「イヤな奴」ポジションの銀行員もどこか憎めない。
 3人が銀行強盗を決意する経緯には、アメリカの労働者は本当に銀行が嫌いなんだろうなと妙なインパクトがあった。本作だけでなく、銀行に抗議に行くけど鼻であしらわれてどうにもならない、というシチュエーションはアメリカ映画には頻繁に出てくる。私はこういうシチュエーションが苦手で見ていて辛くなってしまうので、そんな時に銀行強盗がやってきたらやったー!って思っちゃうけど・・・。また、企業年金がなくなるというのもインパクトあり、そりゃあ銀行強盗でもかますしかないよな!と見ているこっちも俄然やる気になってきた。
 3人の「特訓」とか「アリバイ工作」とかかなり詰めが(特に時間的に)甘いところもあるのだが、パタパタとパーツが組み合わさっていく様は愉快だった。最後の「彼女」と「彼女」の視線のやりとりも、出来すぎなんだけどそれが嫌みにならない。
 なお、デザート代を節約しようとした3人にウェイトレスが「パイがないなんてダメよ!」とサービスしてくれたり、3人からの老人クラブへの差し入れがパイだったりと、なぜかパイ推しが目立つ。パイを食べることが、ちょっとした心のゆとり、財布のゆとりの象徴みたいだった。

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『ジェーン・ドゥの解剖』

 バージニア州の田舎町。ベテラン検視官のトミー(ブライアン・コックス)が息子のオースティン(エミール・ハーシュ)と経営している遺体安置所兼火葬場に、身元不明の女性の遺体“ジェーン・トゥ”(オルウェン・ケリー)が運び込まれてきた。一家3人が惨殺された家の地下室に裸で埋まっていたというのだ。トミーとオースティンは解剖を進めるが、次々と奇妙な点を発見する。監督はアンドレ・ウーブレダル。
 ほぼワンシチュエーションの設定で、いかに緩急つけて観客を引き込むか一生懸命考えたんだろうなぁという作品。低予算映画でありつつ安っぽくならない、下品にならない為にはどうすればいいか、という工夫が随所に見受けられた。その工夫が、本作のユニークな部分になっていると思う。コンパクトで面白い作品だった。
 解剖に伴い怪奇現象が起きるが、その怪奇現象をどう見せるか、何を見せないかという部分で、予算と怖さの調節をしている。具体的な「それ」が見えなくてもちゃんと怖いあたりは演出の上手さだろう。また、怖さの部分よりも、ジェーン・ドゥは何者なのか、彼女に何があったのかという謎解き部分に興味を引かれた。トミーとオースティン親子は解剖の知識だけではなく、色々と博学かつプロ気質で、特にトミーは彼女に何があったのか何とか解明しようとする。その背景に、ある事件が存在するという設定が上手い。その事件のせいで、トミーはジェーン・ドゥに対して過剰な責任感、使命感を抱いてしまうのだ。
 ただ、その熱意や誠意の顛末の在り方は、こちらとあちらは全く別のものである、コミュニケーションは不可能と感じさせるもの。この突き放し方が、実に「呪い」っぽいなと思った。こちら側の意思は知ったこっちゃない、という存在の仕方なのだ。

『人生タクシー』

 政府から映画監督としての活動を禁じられたジャファル・パナヒは、テヘランの町でタクシー運転手をしていた。ダッシュボードに設置されたカメラには、教師や海賊版ソフト業者、交通事故に遭った夫婦、そして監督の姪ら、様々な人たちを映し出す。監督・脚本はジャファル・パナヒ。
 『これは映画ではない』の延長線上にあるような、フェイクドキュメンタリー風の作品だが、今回は舞台が移動しつつ話が進むので『これは~』のような閉塞感はない。人の出入りが頻繁で案外風通しがいいのだ。タクシーの乗客たちは皆好き勝手によく喋るのだが、パナヒ監督の境遇を知っている乗客は「あっこれも映画にするんでしょ?!」とあれこれ聞いてきたりもする。
 また、学校の課題でドキュメンタリー映画を撮っているのだという姪が、イラン国内で上映できない映画の条件を読み上げると、パナヒが「読まなくていいよ」と朗読をやめさせる。確かに、もう耳にタコができるくらい言われただろうしな・・・。姪は、なぜそういう条件が定められているのかは考えていないようで、「上映できないシーンは入れなければいい」「上映出来ない部分があるなら、変えればいい」と言う。それが映画=フィクションということなのだと言わんばかりだ。彼女は、自分が撮影していたゴミ拾いの少年が、映画として少々都合の悪いことをすると、彼にやり直しをさせる。その時点で「ドキュメンタリー」って何だ?という疑問が沸いてくるが、映画の演出と言えばそうも言えるし、何より彼女らの国で上映できる映画にする為には、そのシーンを「訂正」しなければならないのだ。しかし、「訂正」したら零れ落ちてしまうものもある。
 映画ってどんなものなんだろう、とふと考えてしまうシチュエーションがいくつも重ねられており、やはりこれは映画についての映画でもあるんだろう。「映画」と「記録」の線引きは出来るものなのか、トライし続けているように見える。パナヒが今現在映画制作を禁止されていることを忘れそうになるが、彼が急にそわそわし出し、車を出て行った理由がわかると、さっと体温が下がる。そういう世界があって、そういう世界で映画を作り続けるというのは、こういうことなんだと。

『ジャッキー ファーストレディ最後の使命』

 1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ大統領はダラスでのパレードの最中銃撃され死亡。ジョンソンが新大統領に就任し、ホワイトハウス内が急速に次期政権に移行する中、ケネディの妻ジャッキー(ナタリー・ポートマン)は夫の名前を後世に残すべく葬儀に全てを賭ける。監督はパブロ・ラライ。プロデューサーはポートマンと『ブラック・スワン』で組んだダーレン・アロノフスキー。
 プロデューサーとは言え、アロノフスキーの味わいが強く出ているように思う。『ブラック・スワン』と同様、ポートマンが演じるのは自分自身(ジャッキーの場合は夫の付属品としての自分)を虚構として完璧に作り上げようとする女性だ。本作は、記者がジャッキーの元に取材に来て、取材の中でジャッキーが事件を振り返り語るという構成になっている。ジャッキーは記者に度々、ここは書かないで、こう書いて、と指示を出す。彼女が語るのは国民が知るべき真実であって、事実ではないと言える。ケネディは政治上の大きな功績は残していないというのが、 ジャッキーも認める政界の共通認識だった。それを越えて人々の記憶に残る歴史になるには、一種の伝説、神話を作り上げるしかない。ジャッキーが参考にするのがリンカーンの葬儀だというのには、彼女の並々ならぬ本気度が窺える。彼女はメディアの力も良く理解しており、映像として強力な記憶を作る事がケネディを、ひいては自分や子供達を守ることになると考える。先見の明があるのだ。
 しかし夫と共にアメリカの神話になるということは、生身の自分を葬るということにもなりかねない。本作には死の影が常にまとわりつく。冒頭から重低音の不協和音が響いて不穏この上ないのだが、これはケネディが暗殺されるということと同時に、ジャッキーが既に死者、死んで「神話」になったものとして振舞うからであるからのようにも思った。
 ポートマンの演技に凄みがあり、ジャッキーという人間を様々な面から見せる。ホワイトハウス紹介番組出演時のいかにも「ファーストレディ」的な振舞や、夫の暗殺でショックを受け憔悴する姿、葬儀の手筈を整える行動力、そして記者と対峙する強かさ等、これまでのジャッキーのオフィシャルイメージとは一線を画しているように思う。アカデミー賞主演女優賞はポートマンの方がふさわしかったのではないか。

『しゃぼん玉』

 女性や老人ばかりを狙ってひったくりや強盗を繰り返してきた青年・伊豆見(林遣都)は、とうとう人を刺してしまう。逃亡の末に、宮崎県の椎葉村(しいばそん)に辿りついたところ、交通事故で怪我をし動けなくなっている老女スマ(市原悦子)を助ける羽目になる。なりゆきで彼女の家に寝泊まりすることになった伊豆見は金を盗んで逃げる気だったが、スマは彼を「ぼん」と呼び深く詮索することはなかった。原作は乃南アサの同名小説。監督・脚本は東伸児。
 ロケ地である椎葉村の風景や祭りの情景、地元の伝統料理(というよりもおばあちゃんたちが日常的に食べているお惣菜。大変おいしそう)等を織り込んだ、いわゆるご当地映画的な側面も強い。とは言え、原作の力もあるのだろうが、ドラマとしてなかなかよかった。ご当地要素が上手くドラマの装置として組み込まれているように思う。お祭りの時期だけどっと観光客が来るが、基本的に過疎地かつ高齢者ばかりなので祭りの準備の人出が足りない、だからよそ者の伊豆見でも、さしあたって労働力としてありがたがられ、素性についてさほど突っ込まれないという理由づけが出来るのだ(具体的にそう説明されるわけではないが、見ている側にとってまあまあ納得がいく)。
 伊豆見は親のケアをろくに受けられないまま大人になってしまった人間だ。彼の言動、所作からは、親はもちろん、身近に一緒に生活してあれこれ教えてくれる人がいなかった様子が窺える。スマからも注意される箸の持ち方だけでなく、食事の作法や水道の使い方、煙草の吸い方も、いわゆるマナーが悪いものだ。伊豆見がだらしないというよりも、だらしないと指摘する人がいなくてやり方がわからないんだろうなという面持。誰かとずっと一緒に生活するという経験に乏しい人なんだろうなとわかってくるのだ。
 スマとの生活で、伊豆見はもう一度育ち直すことになる。ではスマは理想の親・祖母・保護者なのかというと、そういうわけではない。彼女は彼女で、実子との関係は破綻している。2人とも家族関係には失敗(伊豆見は彼が失敗したわけではなく不運なわけだが)しており、失敗した人同士がお互いに育て合いやり直すという構図なのだ。スマの、実の息子に対する言葉は悔恨に満ちているが同時に恐ろしくもあり、うすら寒くなる。親のエゴ、息子が故郷に戻らなかった一因(概ね彼本人の失敗のせいではあるが)を垣間見た気もするのだ。この凄みは市原が演じたからこそで、他の俳優だったら単に気の毒な母親に見えてしまったかもしれない。市原が主演していることで、確実に映画の格が上がっている。


『SING/シング』

 コアラのバスター・ムーン(マシュー・マコノヒー/内村光良)が支配人として運営する劇場は、赤字続きで危機に陥っていた。バスターは劇場をよみがえらせようと、街の人たちに歌唱コンテストの参加を募る。しかし秘書のミス・クローリー(ガース・ジェニングス/田中真弓)が賞金の桁数を間違えて広告を作ったせいで、高額賞金目当ての応募者が殺到する。監督はガース・ジェニングス。
 手際よくコンパクトに纏めた、ちょうどいい感じのエンターテイメント。老若男女で楽しめそうなところがいい。私は2D・吹替え版で鑑賞したが、吹替えセリフの翻訳、歌の歌詞の翻訳(こちらは一部苦戦しているなーという印象はあったが)はかなり頑張っていると思う。楽曲は翻訳許可が出たものと出なかったものがあるようで、日本語版と英語版が混じっているのだが、それほど気にならない。なお、演技は素人なMISIA(ミーナ役)と大橋卓弥(ジョニー役)が意外と好演で意表を突かれた(つたないが気になるほどではない)。2人とももちろんプロの歌手なので、セリフのぎこちなさと歌の流暢さ・エモーショナルさがちょうどいい対比になっているのだ。ミーナは極端に内気であがり症なのでそもそも喋りが得意でないキャラクターだし、ジョニーもギャングの父親からのプレッシャーで萎縮気味なので、キャラクターと演技のつたなさとのマッチングが良かったのかもしれない。
 信じれば夢は叶う、という言葉は出てくる(そしてバスターが自分の境遇を顧みてがっくりしたりする)が、そんなに大上段に構えた姿勢ではなく、歌が好き、だから歌うんだというシンプルさに貫かれているところが良かった。本作に登場するキャラクターたちは当然歌の才能があるわけだが、仮に才能がそれほどではなかったとしても、好きなことを好きなままでいていいんだという肯定感の方が強い。ミーナにバスターが「歌えばいいんだ」と励ますシーンにはぐっとくる。、また出場者の中でも、ロジーナ(リース・ウィザースプーン/坂本真綾)などはスターになりたいわけではなく、自分が好きなことを思いっきりやってみたい、その「好き」を家族にもわかってほしいという気持ちなんだろうし。
 このキャラクターはこういう性格で、こういうバックグラウンドがあって、といちいち説明せずに、物語の流れの中で提示していく序盤の手際がいい。また、ステージで歌われる以外の、サウンドトラックとしての楽曲の選び方が上手いなと思った。このキャラクターは今こういう気分だよ、こういうシチュエーションなんだよといういい補足になっている。特に「True Colors」には、なるほどここでか!と。

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