3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ジャッキー ファーストレディ最後の使命』

 1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ大統領はダラスでのパレードの最中銃撃され死亡。ジョンソンが新大統領に就任し、ホワイトハウス内が急速に次期政権に移行する中、ケネディの妻ジャッキー(ナタリー・ポートマン)は夫の名前を後世に残すべく葬儀に全てを賭ける。監督はパブロ・ラライ。プロデューサーはポートマンと『ブラック・スワン』で組んだダーレン・アロノフスキー。
 プロデューサーとは言え、アロノフスキーの味わいが強く出ているように思う。『ブラック・スワン』と同様、ポートマンが演じるのは自分自身(ジャッキーの場合は夫の付属品としての自分)を虚構として完璧に作り上げようとする女性だ。本作は、記者がジャッキーの元に取材に来て、取材の中でジャッキーが事件を振り返り語るという構成になっている。ジャッキーは記者に度々、ここは書かないで、こう書いて、と指示を出す。彼女が語るのは国民が知るべき真実であって、事実ではないと言える。ケネディは政治上の大きな功績は残していないというのが、 ジャッキーも認める政界の共通認識だった。それを越えて人々の記憶に残る歴史になるには、一種の伝説、神話を作り上げるしかない。ジャッキーが参考にするのがリンカーンの葬儀だというのには、彼女の並々ならぬ本気度が窺える。彼女はメディアの力も良く理解しており、映像として強力な記憶を作る事がケネディを、ひいては自分や子供達を守ることになると考える。先見の明があるのだ。
 しかし夫と共にアメリカの神話になるということは、生身の自分を葬るということにもなりかねない。本作には死の影が常にまとわりつく。冒頭から重低音の不協和音が響いて不穏この上ないのだが、これはケネディが暗殺されるということと同時に、ジャッキーが既に死者、死んで「神話」になったものとして振舞うからであるからのようにも思った。
 ポートマンの演技に凄みがあり、ジャッキーという人間を様々な面から見せる。ホワイトハウス紹介番組出演時のいかにも「ファーストレディ」的な振舞や、夫の暗殺でショックを受け憔悴する姿、葬儀の手筈を整える行動力、そして記者と対峙する強かさ等、これまでのジャッキーのオフィシャルイメージとは一線を画しているように思う。アカデミー賞主演女優賞はポートマンの方がふさわしかったのではないか。

『しゃぼん玉』

 女性や老人ばかりを狙ってひったくりや強盗を繰り返してきた青年・伊豆見(林遣都)は、とうとう人を刺してしまう。逃亡の末に、宮崎県の椎葉村(しいばそん)に辿りついたところ、交通事故で怪我をし動けなくなっている老女スマ(市原悦子)を助ける羽目になる。なりゆきで彼女の家に寝泊まりすることになった伊豆見は金を盗んで逃げる気だったが、スマは彼を「ぼん」と呼び深く詮索することはなかった。原作は乃南アサの同名小説。監督・脚本は東伸児。
 ロケ地である椎葉村の風景や祭りの情景、地元の伝統料理(というよりもおばあちゃんたちが日常的に食べているお惣菜。大変おいしそう)等を織り込んだ、いわゆるご当地映画的な側面も強い。とは言え、原作の力もあるのだろうが、ドラマとしてなかなかよかった。ご当地要素が上手くドラマの装置として組み込まれているように思う。お祭りの時期だけどっと観光客が来るが、基本的に過疎地かつ高齢者ばかりなので祭りの準備の人出が足りない、だからよそ者の伊豆見でも、さしあたって労働力としてありがたがられ、素性についてさほど突っ込まれないという理由づけが出来るのだ(具体的にそう説明されるわけではないが、見ている側にとってまあまあ納得がいく)。
 伊豆見は親のケアをろくに受けられないまま大人になってしまった人間だ。彼の言動、所作からは、親はもちろん、身近に一緒に生活してあれこれ教えてくれる人がいなかった様子が窺える。スマからも注意される箸の持ち方だけでなく、食事の作法や水道の使い方、煙草の吸い方も、いわゆるマナーが悪いものだ。伊豆見がだらしないというよりも、だらしないと指摘する人がいなくてやり方がわからないんだろうなという面持。誰かとずっと一緒に生活するという経験に乏しい人なんだろうなとわかってくるのだ。
 スマとの生活で、伊豆見はもう一度育ち直すことになる。ではスマは理想の親・祖母・保護者なのかというと、そういうわけではない。彼女は彼女で、実子との関係は破綻している。2人とも家族関係には失敗(伊豆見は彼が失敗したわけではなく不運なわけだが)しており、失敗した人同士がお互いに育て合いやり直すという構図なのだ。スマの、実の息子に対する言葉は悔恨に満ちているが同時に恐ろしくもあり、うすら寒くなる。親のエゴ、息子が故郷に戻らなかった一因(概ね彼本人の失敗のせいではあるが)を垣間見た気もするのだ。この凄みは市原が演じたからこそで、他の俳優だったら単に気の毒な母親に見えてしまったかもしれない。市原が主演していることで、確実に映画の格が上がっている。


『SING/シング』

 コアラのバスター・ムーン(マシュー・マコノヒー/内村光良)が支配人として運営する劇場は、赤字続きで危機に陥っていた。バスターは劇場をよみがえらせようと、街の人たちに歌唱コンテストの参加を募る。しかし秘書のミス・クローリー(ガース・ジェニングス/田中真弓)が賞金の桁数を間違えて広告を作ったせいで、高額賞金目当ての応募者が殺到する。監督はガース・ジェニングス。
 手際よくコンパクトに纏めた、ちょうどいい感じのエンターテイメント。老若男女で楽しめそうなところがいい。私は2D・吹替え版で鑑賞したが、吹替えセリフの翻訳、歌の歌詞の翻訳(こちらは一部苦戦しているなーという印象はあったが)はかなり頑張っていると思う。楽曲は翻訳許可が出たものと出なかったものがあるようで、日本語版と英語版が混じっているのだが、それほど気にならない。なお、演技は素人なMISIA(ミーナ役)と大橋卓弥(ジョニー役)が意外と好演で意表を突かれた(つたないが気になるほどではない)。2人とももちろんプロの歌手なので、セリフのぎこちなさと歌の流暢さ・エモーショナルさがちょうどいい対比になっているのだ。ミーナは極端に内気であがり症なのでそもそも喋りが得意でないキャラクターだし、ジョニーもギャングの父親からのプレッシャーで萎縮気味なので、キャラクターと演技のつたなさとのマッチングが良かったのかもしれない。
 信じれば夢は叶う、という言葉は出てくる(そしてバスターが自分の境遇を顧みてがっくりしたりする)が、そんなに大上段に構えた姿勢ではなく、歌が好き、だから歌うんだというシンプルさに貫かれているところが良かった。本作に登場するキャラクターたちは当然歌の才能があるわけだが、仮に才能がそれほどではなかったとしても、好きなことを好きなままでいていいんだという肯定感の方が強い。ミーナにバスターが「歌えばいいんだ」と励ますシーンにはぐっとくる。、また出場者の中でも、ロジーナ(リース・ウィザースプーン/坂本真綾)などはスターになりたいわけではなく、自分が好きなことを思いっきりやってみたい、その「好き」を家族にもわかってほしいという気持ちなんだろうし。
 このキャラクターはこういう性格で、こういうバックグラウンドがあって、といちいち説明せずに、物語の流れの中で提示していく序盤の手際がいい。また、ステージで歌われる以外の、サウンドトラックとしての楽曲の選び方が上手いなと思った。このキャラクターは今こういう気分だよ、こういうシチュエーションなんだよといういい補足になっている。特に「True Colors」には、なるほどここでか!と。

『シンクロナイザー』

 大学勤務の研究者・長谷川(万田祐介)は人間と動物の脳派を同期させる実験を無許可で続けていた。同僚の木下(宮本なつ)の手を借りて研究を続けるうち、この実験が脳機能障害の改善につながる可能性に気付く。長谷川は認知症の母・春子(美谷和枝)の治療になるのではと、倫理を踏み越えて人体実験に踏み切る。監督は万田邦敏。立教大学心理学部の映像生態学プロジェクトの一環として製作された。
 入口と出口が違うような不思議な作品だった。一見、SFサンペンスぽいのに、どんどん土着的なホラーっぽい世界へ進んでいく。春子の存在、母と息子との関係に物語全体が引っ張られていくようだった。長谷川の二男としてのコンプレックスと、痴呆が始まってからは自分のことは忘れてしまい、長男の名前ばかり呼ぶ母親への執着は一応提示されているので不自然というほどではないのだが、物語のモチーフとしての母息子関係の強力さに、少々たじろんだ。最初は、他者(人間であれ動物であれ)とリンクすることへの違和感、恐怖が描かれていたように思うのだが、親子間だと何かしら同質なものが含まれる。含まれていないとしてもそのように見てしまう。そこに近親相姦的なタブー感が重なり、どんどんそちらの方向に引っ張っていかれてしまった気がした。素材の引力の抗いがたさみたいなものがあるのかなと(キャッチーというより、そこに据えておくと恰好がつくというか)思う。
 長谷川と二人三脚状態だった木下の存在が、徐々に長谷川を引き留められなくなり、彼はどんどん母親との「実験」にのめり込んでいくというのも、長谷川の研究者としての業というよりは、母に対する執着、また母の子に対する執着のように見えてくる。終盤の展開は欲望がだだ漏れになってくるようでちょっとぞっとする。
ただ、こうなってしまうと、脳派の同調設定って必要だったか・・・?という気になってくる(特にオチの部分)のだが。最初からホラーだよと言われていればそんなに違和感感じなかったのかもしれないけど。

『ショコラ 君がいて、僕がいる』

 1897年のフランス北部。小さなサーカスで職探しをしていたベテラン道化師のジョルジュ・フティット(ジェームス・ティエレ)は黒人芸人ラファエル・パディーヤ(オマール・シー)と出会い、彼と名付けコンビを組むことを思いつく。ショコラと名乗るようになったラファエルとフティットは一躍人気芸人となり、パリの劇場と専属契約を結ぶ。スターとして名声を手に入れた2人だが、ショコラはギャンブルにおぼれていく。監督はロシュディ・ゼム。
 ちょっとストーリー展開の起伏がゆるくてだらだらしているかなぁ・・・。淡々としていると言えば聞こえはいいのだが。もっとも、そんなにエモーショナルに盛り上げる類の話ではないというのも確かだ。なんとなく、白人と黒人の感動バディもの的な雰囲気を漂わせた宣伝だったが、実際の所はバディになりきれなかった哀しみの方が濃くにじむ。
 フティットとショコラの芸は、今見ると明らかに人種差別意識があるものだし、当時はそれが普通だった。フティットはショコラとコンビを組もうと思うくらいなので黒人に対する嫌悪感はないが、真に同等だとは思っていなかったのではないか。そもそも差別意識にも無自覚だったろう。作中でも描写はあるが、愚か者役がフティットで、黒人が白人の尻を蹴る芸であっても、芸として完成されていれば笑いは起きる。ただ、役割の入れ替わりという発想がフティットにはなかった。彼はショコラを一人前の芸人にしようとしてはいるのだが、その前提として2人は対等であるという認識がいまひとつなく、だからショコラに彼の熱意は伝わらなかったのかもしれない。
 一方、ショコラはスターとして振舞うようになるが、彼に求められるのは依然として「白人に尻を蹴られる黒人」役で、フティットと対等な芸人だからでもアーティストだからでもない。これはショコラの技能・才能とは関係ないことだ。白人と同等のアーティストとして振舞えば、彼に才能があろうがあるまいがブーイングを受ける。ショコラはこの理不尽に打ちのめされていく。彼に出来ることやりたいことと、世間が彼に許すことがどんどんずれていってしまうのだ。万国博覧会の(悪名高い)「野蛮人」展示をまのあたりにする様は痛ましい。黒人としてのアイデンティティも、芸人としての自覚も中途半端なまま、どんどん崩れていくのだ。
 とは言え、苦しむのはショコラだけではなく、フティットにはフティットの苦しさがある。あるシーンで彼はゲイであることが示唆されるが、彼はそれをオープンにすることはできないし、公的にパートナーを持つことも出来ない。彼はおそらくショコラを愛しているが、相手が同性である、黒人であるという二重のタブーとなってしまう。生まれる時代を選ぶことは出来ないが、生まれた時代による運不運というのを痛感せずにはいられない。

『静かなる叫び』

 1989年12月6日、モントリオール理工科大学の学生らはごく普通の日常を送っていた。バレリーはインターンシップの面接を受け、ジャン=フランソワは課題に追われていた。しかし1人の男子学生がライフル銃を校内に持ち込み、女子学生を狙って発砲し始める。犯人は14人の女子学生を殺害した後自殺し、バレリーは重傷を負ったものの生還。しかし生き残った人達にも深い傷が残った。1989年にモントリオール理工科大学で起きた銃乱射事件をモチーフに作られた作品。監督はドゥニ・ヴィルヌーブ。
 犯人の少年、被害にあった学生たち、それぞれの1日を静かなトーンで追っていくが、見ていてどんどんいたたまれなくなってくる。犯人が何をするつもりか、映画を見ている側には最初からわかっているわけだが、何かタイミングがちょっと違えば彼が思い直す機会があったのでは、あるいは被害をもっと小さくできたのではと思わずにはいられないからだ。犯行はそれほど計画的にも見えず、むしろ行き当たりばったりだし射撃の腕がすごくいいというわけでもない。なんとかできたのではと思えてしまうと言う所が辛いのだ。事件で無事だったとしても、助かった者は強い後悔に駆られ、ジャン=フランソワは自責の念に押しつぶされてしまう。生き残った人達がずっと苦しむというのがまた辛い。
 犯人は、女性が、フェミニストが憎い(彼は就職に失敗しており、女子学生が就職先を奪ったという思いがある様子)とメッセージを残す。彼の憎しみは何だったのだろうと茫然とする。自分と因縁のある誰かならともかく、漠然とある属性を憎むというのは、何なのだろうと。ヴィルヌーブ監督は一貫してその疑問と向き合っている気がする。
 バレリーは面接の際、面接官から「女性は妊娠したら(仕事を)辞めてしまうから正直採用したくない」と言われる。彼女はその場では何も言わないが、その言葉にとても傷ついたということがわかる。面接官の言葉の延長線上に、犯人の憎しみがあるようにも思った。終盤、ある選択を迫られるであろうバレリーが、それでも力強い表情であることにほのかな希望がある。 
                                                                 

『疾風スプリンター』

 自転車ロードレースチームに加入したチウ・ミン(エディ・ポン)とティエン(ショーン・ドウ)はチームのエース、チョン・ジウォン(チェ・シウォン)のアシストをすることになる。2人はチームメイトとして、ライバルとして友情を深め、チームは台湾各地のレースで好成績を残す。しかし資金難でチームは解散することになり、チウ・ミン、ティエン、ジウォンはそれぞれ別のチームに移籍し、競い合うことに。監督はダンテ・ラム。
 序盤は紋切型でどこか古臭い。監督の娘がポニーテールにサロペット姿なのは、80年代の少年マンガのヒロインかよ!と突っ込みたくなった。しかし尻上がりに面白くなっていく。俳優たち自ら走っている(スタントも使っていると思うが、かなりの部分自分で走っているみたい)レースシーンに迫力があり、俳優たちが必死すぎて変顔になるのも厭わないという気合の入り方。ここは本当に見応えがあるし、このレースシーンがあるから映画として引き込まれる。他が若干大雑把で盛りだくさんすぎるのだが、レースシーンを見るといいものを見た!と納得してしまうのだ。
 チウ・ミンとティエンは、最初はとんとん拍子で実績を積んでいく。しかしチームを移籍し、スターとしてもてはやされたりエースとしての重圧に苦しんだりするうちに、人生に躓いてしまう。そこからの再起を賭けた展開が熱い!チウ・ミンとティエンは性格的に決して馬が合うというというわけではないが、レーサーとしての技量は認め合っており、共闘していく様が清々しい。強敵(ライバル)と書いて友と呼ぶ、という少年漫画王道の関係性が見られるのがうれしい。また、彼らの先輩でもあるエースのジウォンがちゃんとした模範的な人というか、エースとしてのお手本のようでもあり、彼を後輩の2人がアシストし、やがて追うようになるという構造も王道感あってよかった。
 なお、韓国で競輪に出場するというエピソードで、2人1組で行うレースが出てくるのだが、こういうシステムのレースって韓国には本当にあるの?物語の演出の一部としてすごくいい機能なんだけど、実際のレースとしては結構大変そう。

『幸せなひとりぼっち』

 59歳のオーヴェ(ロルフ・ラスゴード)は愛する妻を亡くし、仕事もクビになってしまった。妻の後を追って自殺を図るものの毎回邪魔が入って実行できない。特に隣に越してきた一家の主婦パルヴァネは何かとオーヴェに声をかけてくる。彼女に車の運転を教えたり、子供たちの面倒を見たりするうち、オーヴェの日常も変化していく。原作はフレドリック・バックマンの小説。監督・脚本はハンネス・ホルム。
 原作を上手にまとめており、さらりと楽しめ、ほろ苦さもじんわりとした温かみも感じさせる、いい映画化だったと思う。原作通り、猫がちゃんとふてぶてしくもかわいらしく活躍しているところもいい。“おじいちゃん”扱いされているオーヴェが59歳というのは違和感があるが、これはお国柄なのだろうか。個人差もかなりあるのだろうけど。
 スウェーデンといえば福祉が行きとどいた、公共サービスの充実した国というイメージがあるが、オーヴェは福祉を提供する側の“白シャツ”(市区町村の都市開発担当とか福祉サービス業者とか)を敵視している。彼は規則に厳密に従う頑固さと几帳面さを持つが、それは自分が納得いった規則に対してであって、一方的によかれと思って提供されるものには反感を示す。彼のように何でも自分でやりくりしたい人にとっては、公的サービスの充実は必ずしもプラス(客観的にはプラスなのだが本人的には抵抗があるという意味で)ではないのかもしれないなとも思った。
 オーヴェは几帳面かつ四角四面でチェック魔なところがあり、周囲からは偏屈、変人と見られている。オーヴェの父も妻も、彼がちょっと目を離した隙に悲劇に見舞われた。彼がチェック魔でやたらと用心深いのは、過去の体験からきているものなのかもしれない。とはいえ、どんなに用心していても避けられないものはあり、容赦なく襲ってくる。彼の癇癪は、そういった不可避のものに向けられているようにも思った。
 オーヴェは偏屈だし保守的だが、どこもかしこも偏狭というわけではなく、このバランスが面白かった。彼がカフェ店員に「ゲイなのか」と尋ねるシーンがあるのだが、ゲイだからどうこうという含みがなく(初対面の人にセクシャリティを問うという不躾さはあるが)、単なる質問としてしている。自分には理解できないがだからといって相手を差別しようとか非難しようという意図はなさそう。また移民であるパルヴァネに対しても、おせっかいだとかおしゃべりだとかという彼女のパーソナリティに対する文句は言うが、彼女の民族、人種に対する差別はない。意外とフラットなのだ。偏見を持っているようでいて持っていない所は、彼の妻によって培われたものかもしれない。オーヴェの妻が登場する時間はそう長くないのだが、そんな人だったじゃないかと思わせる雰囲気がある。こういう人だから、オーヴェの美点を見抜き彼を愛したんじゃないかなと。その説得力がよく出ていたと思う。

『シークレット・オブ・モンスター』

 1918年、第一次世界大戦後のフランス。ヴェルサイユ条約締結の為にフランスに駐在中のアメリカ政府高官には、美しい妻と息子がいた。息子は依怙地で教会での投石や自室での籠城など、両親の手を焼かせていた。家庭教師にはかろうじて懐くものの、彼の言動は更に手の付けられないものになっていく。監督はブラディ・コーベット。
 冒頭で第一次世界大戦前後の世界情勢が解説されるのだが、これは日本オリジナルの字幕解説だそうだ。このあたりの経緯はうろ覚えだったのでかなり助かった。逆に言うと、全く事前知識がない状態で見るとあまり面白くない作品ということになる。色々と仕掛けがある作品らしいのだが、私は漫然と見てしまったので色々と気づかず、勿体ない事をした。ただ、作品公式サイトのネタバレ解説を読んでも、思わせぶりすぎてあまり意味なかったんじゃないか?という気もしてくる。インパクトあるとすれば、キャストに関することくらいかな・・・。雰囲気だけで乗り切っている作品な気がしなくもない。
 少年がやがて独裁者=モンスターになっていくことが示唆されるのだが、「モンスター」と言うほど奇妙ではないように思った。扱いにくい厄介な子供ではあるが、まあ想定内の厄介さ。この家庭で問題がありそうなのはむしろ両親、特に母親だろう。父親は典型的な仕事にかかりきりで子供に無関心な人。一方母親は、子供そもそも母親になりたくなかったのではないか。家庭教師を解雇する時に話す内容から、まだ結婚も出産もしたくなかった(そしてせずに済む環境で生きていた)らしいが、父親に粘り強く口説かれて承諾したのだ。息子に対して母親として振舞おうという意欲はあるが、双方の相性がいまひとつ悪く、一緒にいればいるほど関係が悪化していきそう。子供を産んだら即母親として振舞えるわけではないし、親子が必ずしも情愛にあふれているわけでもない。2人とってはこの母とこの子供の組み合わせは運が悪かったとしか言いようがない。なぜ独裁者が生まれたのか、具体的に説明せずにただ子供時代を見せるという形だが、それだけでもあーこの状況はきついな・・・という気分にはなる。
 なお、父親はアメリカの高官なので子供も国籍としては(少なくとも劇中で描かれる少年時代では)アメリカ国民ということになるのだろうが、そこから独裁者が生まれるというところが皮肉だ。

『灼熱』

 1991年、クロアチア紛争勃発前夜に敵同士となり悲しい運命をたどるイェレナ(ティハナ・ラゾヴィッチ)とイヴァン(ゴーラン・マルコヴィッチ)。2001年、紛争終結後、母と共に荒れ果てた故郷の家に戻ってきたナタシは大工のアンテと惹かれあう。2011年、平和を取り戻した現代で、過去のしがらみに苦しむマリヤとルカ。クロアチアの3つの時代を生きる別々の男女を、同じ俳優が演じる。監督・脚本はダリボル・マタニッチ。
 別人を同じ俳優が演じるということで、俳優の技量がとてもよくわかる作品だった。本作の中で描かれる感情には、言葉に出来ない部分が大きすぎる。何を言っても嘘っぽくなる、あるいは言葉にするとその意味合いがずれてしまうところを、人の表情、動作の微妙な差異で読み取らせる。時に鬼気迫る表情があり、そこに言葉に出来ない強烈な葛藤があることがわかるのだ。
 どの時代も、男女の間には民族、そして歴史という壁が立ちはだかる。クロアチア紛争が今まさに勃発しようとしている1991年や、戦争の記憶が生々しい2001年はともかく、既に復興を遂げた2011年でも、当人たちというよりもその両親や周囲の記憶が彼らを苛む。家族がセルビア人/クロアチア人に殺された、故郷を奪われたという記憶は、そう簡単には薄れない。直接戦争で傷つくことはなくても、周囲の記憶により相手を憎む、同時に自分にその記憶を与えた親を(愛すると同時に)憎むという、戦争直前直後とはまた違った苦しみがあり、痛ましい。
 なぜ自分たちはこんなことになったのか、この状況は何なのかということを、どの時代の男女も問い続けているように思えた。それは答えのない問いであり、そもそも誰に尋ねればいいのかもわからないものだ。そんな膠着状態の中、相手に対して扉を開ける人もいる。葛藤しつつも、そこに希望がある、というよりもそこにしか希望はないのだろう。
 男女の関係も彼らの背後にあるものも苦しく辛いのだが、それを取り巻く風景はとても美しく穏やかだ。鳥のさえずりから始まり、鳥のさえずりで終わる。人間が憎しみ争っても、そこに変わりはないところが、救いでもあるが空しくもあった。血で血を洗うようなあれこれがあって多くの人が死んでも、この風景には関係ないんだよなぁと。
 
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