3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ジョン・ウィック チャプター2』

 ロシアン・マフィアへの復讐劇から5日後。ジョン・ウィック(キアヌ・リーブス)の元へイタリアン・マフィアのサンティーノ(リッカルド・スカマルチョ)が訪れる。実の姉である組織のトップの殺害依頼をもちかけてきたが、ジョンは断り、見せしめとして自宅を爆破されてしまう。かつての盟約により依頼を受けざるを得ないジョンだが、依頼遂行の後にはサンティーノへ復讐すると宣言。命の危機を感じたサンティーノは高額の懸賞金をジョンに掛け、世界中の殺し屋が動き始める。監督はチャド・スタエルスキ。
 キアヌ・リーブスって演技派かというと正直いまだに微妙だし、ハンサムではあるがトム・クルーズのような「ザ・スター」感もいまひとつだし、個性が薄い割に、決してどんな役柄にでも適応できる使い勝手の良さがあるわけでもないと思う。しかし本作のように彼にハマる役柄を演じると、やっぱりスター感あるし魅力的だ。メジャーど真ん中の大ヒット主演作を持っているにも関わらず、何となくカルトスター感がいつまでも漂っている、不思議な俳優だと思う。ちょっと浮世離れした感じというか、実体感が薄い役柄だとハマるなぁと改めて思った。
 前作の5日後という設定で、ストーリーは直接つながっており、前作でのエピソードは特に説明されない。とは言え、そんなに入り組んだ話ではないので、単品で見ても大丈夫そうではある。前作よりも世界観のスケールが広がっているが、これは良し悪しだな・・・。殺し屋専用ホテルは今回も登場するが、更にその背後にある殺し屋ビジネスの存在も垣間見える。これはホテルが総元締めってことなんだろうけど、だとすると完全な中立って難しいんじゃないのかな?そしてなぜそのレトロな電信・・・スマホとタイプライターが並立する世界・・・単にビジュアル的にやりたかったんだろうけど。「やりたい」が先に立ちすぎて設定が色々とちぐはぐな気もするが、ビジュアルは確かに良いので眺めていて楽しい。
 アクションも前作より更に多く、長く、増量している。本作、冒頭から常にベース音がなっているような、一定のリズムで進行しようとしている気がした。アクションはふんだんにあるが、意外とめりはりがない。ペースが一定なので気持ち良く眠くなってきてしまった。だからつまらない、というわけではなく、体感として気持ちがいい。遠距離射撃系の武器が出てこないのは、リズムが崩れるからじゃないだろうか。基本的に、近距離の射撃と格闘による殺し合い(ジョンがいちいち相手をしとめるあたり、プロ殺し屋感ある)で殺すという目的のみで考えると不自然は不自然なのだが、これが殺し屋の美学なんだろうな・・・。
 ジョンは生きた伝説になるレベルの凄腕の殺し屋なのだが、意外とすぐに怪我をするし、攻撃されればちゃんとダメージを受けるし、痛そうな顔もするし、なかなか回復しない。今回、かなり早い時点でフラフラになっており、ほぼ全編ヨロヨロしつつ闘い続けるところが、キャラクター性として面白く味がある。死にそうで死なない、というよりも今にも死にそうなままで居続ける存在なのかなと。また、前作から引き続き、一貫して怒っているキャラクターでもある。自分にとってかけがえのないものを侵されたら怒るし、その怒りは消えないという主張がすごくはっきりしているのだ。

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『しあわせな人生の選択』

 カナダに妻子と暮らすトマス(ハビエル・カマラ)はスペインに住む長年の親友、フリアン(リカルド・ダリン)を突然訪ねる。フリアンは余命わずかと宣告され、治療を諦め身辺整理を始めたとフリアンの従妹パウラ(ドロシス・フォンシ)から聞いたのだ。フリアンはトマスと一緒に愛犬トルーマンの引き取り手を探し、アムステルダムに留学中の息子に会いに行く。2人の4日間を描く作品。監督はセスク・ゲイ。
 トマスとフリアンは長らく(おそらくトマスがカナダに移住してから)会っていなかったようだが、再会すると徐々に昔と変わらないであろうやりとりを始める。フリアンがぶつくさ言い、トマスが受け流すという関係性が確立しているようで、この2人は若い頃からずっとこの調子だったんだろうなと思わせる、深い部分での友達というのは、何年も直接会わなくてもやっぱり友達なのだと思う。ただ、この2人のように、自分の一部を相手に委ねられるかどうかというと、なかなかこの域にいくのは難しいなとも。最後のフリアンの行動は、(多分こうなるんだろうなという予感はずっとするものの)自分の一部を相手に渡す、自分の死後もそれが残るようにするということにほかならず、結構な重さだ。相手がそれに耐えうる人だと信じてやるわけだけど、信じられる側の責任も重い。
 フリアンは犬の引き取り手に会って回ったり、自分の葬式の手続きをしに行ったり、(自業自得なのだが)絶縁状態だった旧友に挨拶をしたりと自分の「始末」をつけていこうとする。彼はそういった作業を出来るくらいには自分の死期を受け入れているかのように見えるが、折に触れて、そんなことはないのだとわかってくる。特に葬儀社で説明を受けるが頭に入っていないような様子で、結局トマスが担当者の話を受けるという流れには、そりゃあそうだよあなとしみじみした。そこまで達観できないよなと。いくら「そのつもり」でいても、いざ具体的な話になるとすくんでしまう。
 なお、葬儀社の担当者が、「私の葬式です」と言われて一瞬止まるもののすぐ通常運転になるあたりは、プロの仕事!と妙に面白さがあった。フリアンが動揺しているのを察してトマスに話を振るあたりも、「普通」の振る舞いに徹している。普通に徹すると言う意味では、トマスの振る舞いも正に普通で、過度に心配したり干渉したりしない、平熱感がある。そう振る舞い続けるには結構な意思の力が必要ではないかと思う。フリアンにとっては、トマスの平熱感がありがたかったのではないか。

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『ジーサンズ はじめての強盗』

 ジョー(マイケル・ケイン)、ウィリー(モーガン・フリーマン)、アルバート(アラン・アーキー)は長年の親友同士。ある時、40年以上勤めた会社の合併が決まり、仕事場の工場は閉鎖、年金も打ち切られてしまう。更にジョーは住宅ローンを延滞しており、家を失いそうになる。たまたま銀行強盗の現場に出くわしたジョーは、自分も銀行強盗をしようと思い立ち、ウィリーとアルバートを誘う。監督はザック・ブラフ。マーティン・ブレスト監督『お達者コメディ シルバーギャング』(1979)のリメイク作品。
 他愛ないと言えば他愛ないのだが、気負わず気楽に見られる作品で、空いた時間にぷらっと楽しむには最適だと思う。正直それほど期待していなかったので、得した気分になった。なぜこの名優3人を?!という疑問はあるのだが(彼らが演じる必然性はそれほど感じないので)さすがの安定感で全く危なげがない。マイケル・ケインがブルーカラーを演じるというのは結構珍しい気がするが、孫娘と「親友」な素敵おじいちゃん感がいい。フリーマン演じるウィリーのマイナス思考とぼやき、アーキー演じるアルバートのぱっと見口は悪いが結構常識人で慎重な所もチャーミングだった。この3人はもちろん、彼らの家族や銀行強盗の「先生」となるペットショップオーナー、またいきつけのダイナーのウェイトレスやスーパーの店長に至るまで、脇役が全員いい感じだった。「こういう人」感がちゃんと出ており、愛嬌がある。「イヤな奴」ポジションの銀行員もどこか憎めない。
 3人が銀行強盗を決意する経緯には、アメリカの労働者は本当に銀行が嫌いなんだろうなと妙なインパクトがあった。本作だけでなく、銀行に抗議に行くけど鼻であしらわれてどうにもならない、というシチュエーションはアメリカ映画には頻繁に出てくる。私はこういうシチュエーションが苦手で見ていて辛くなってしまうので、そんな時に銀行強盗がやってきたらやったー!って思っちゃうけど・・・。また、企業年金がなくなるというのもインパクトあり、そりゃあ銀行強盗でもかますしかないよな!と見ているこっちも俄然やる気になってきた。
 3人の「特訓」とか「アリバイ工作」とかかなり詰めが(特に時間的に)甘いところもあるのだが、パタパタとパーツが組み合わさっていく様は愉快だった。最後の「彼女」と「彼女」の視線のやりとりも、出来すぎなんだけどそれが嫌みにならない。
 なお、デザート代を節約しようとした3人にウェイトレスが「パイがないなんてダメよ!」とサービスしてくれたり、3人からの老人クラブへの差し入れがパイだったりと、なぜかパイ推しが目立つ。パイを食べることが、ちょっとした心のゆとり、財布のゆとりの象徴みたいだった。

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『ジェーン・ドゥの解剖』

 バージニア州の田舎町。ベテラン検視官のトミー(ブライアン・コックス)が息子のオースティン(エミール・ハーシュ)と経営している遺体安置所兼火葬場に、身元不明の女性の遺体“ジェーン・トゥ”(オルウェン・ケリー)が運び込まれてきた。一家3人が惨殺された家の地下室に裸で埋まっていたというのだ。トミーとオースティンは解剖を進めるが、次々と奇妙な点を発見する。監督はアンドレ・ウーブレダル。
 ほぼワンシチュエーションの設定で、いかに緩急つけて観客を引き込むか一生懸命考えたんだろうなぁという作品。低予算映画でありつつ安っぽくならない、下品にならない為にはどうすればいいか、という工夫が随所に見受けられた。その工夫が、本作のユニークな部分になっていると思う。コンパクトで面白い作品だった。
 解剖に伴い怪奇現象が起きるが、その怪奇現象をどう見せるか、何を見せないかという部分で、予算と怖さの調節をしている。具体的な「それ」が見えなくてもちゃんと怖いあたりは演出の上手さだろう。また、怖さの部分よりも、ジェーン・ドゥは何者なのか、彼女に何があったのかという謎解き部分に興味を引かれた。トミーとオースティン親子は解剖の知識だけではなく、色々と博学かつプロ気質で、特にトミーは彼女に何があったのか何とか解明しようとする。その背景に、ある事件が存在するという設定が上手い。その事件のせいで、トミーはジェーン・ドゥに対して過剰な責任感、使命感を抱いてしまうのだ。
 ただ、その熱意や誠意の顛末の在り方は、こちらとあちらは全く別のものである、コミュニケーションは不可能と感じさせるもの。この突き放し方が、実に「呪い」っぽいなと思った。こちら側の意思は知ったこっちゃない、という存在の仕方なのだ。

『人生タクシー』

 政府から映画監督としての活動を禁じられたジャファル・パナヒは、テヘランの町でタクシー運転手をしていた。ダッシュボードに設置されたカメラには、教師や海賊版ソフト業者、交通事故に遭った夫婦、そして監督の姪ら、様々な人たちを映し出す。監督・脚本はジャファル・パナヒ。
 『これは映画ではない』の延長線上にあるような、フェイクドキュメンタリー風の作品だが、今回は舞台が移動しつつ話が進むので『これは~』のような閉塞感はない。人の出入りが頻繁で案外風通しがいいのだ。タクシーの乗客たちは皆好き勝手によく喋るのだが、パナヒ監督の境遇を知っている乗客は「あっこれも映画にするんでしょ?!」とあれこれ聞いてきたりもする。
 また、学校の課題でドキュメンタリー映画を撮っているのだという姪が、イラン国内で上映できない映画の条件を読み上げると、パナヒが「読まなくていいよ」と朗読をやめさせる。確かに、もう耳にタコができるくらい言われただろうしな・・・。姪は、なぜそういう条件が定められているのかは考えていないようで、「上映できないシーンは入れなければいい」「上映出来ない部分があるなら、変えればいい」と言う。それが映画=フィクションということなのだと言わんばかりだ。彼女は、自分が撮影していたゴミ拾いの少年が、映画として少々都合の悪いことをすると、彼にやり直しをさせる。その時点で「ドキュメンタリー」って何だ?という疑問が沸いてくるが、映画の演出と言えばそうも言えるし、何より彼女らの国で上映できる映画にする為には、そのシーンを「訂正」しなければならないのだ。しかし、「訂正」したら零れ落ちてしまうものもある。
 映画ってどんなものなんだろう、とふと考えてしまうシチュエーションがいくつも重ねられており、やはりこれは映画についての映画でもあるんだろう。「映画」と「記録」の線引きは出来るものなのか、トライし続けているように見える。パナヒが今現在映画制作を禁止されていることを忘れそうになるが、彼が急にそわそわし出し、車を出て行った理由がわかると、さっと体温が下がる。そういう世界があって、そういう世界で映画を作り続けるというのは、こういうことなんだと。

『ジャッキー ファーストレディ最後の使命』

 1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ大統領はダラスでのパレードの最中銃撃され死亡。ジョンソンが新大統領に就任し、ホワイトハウス内が急速に次期政権に移行する中、ケネディの妻ジャッキー(ナタリー・ポートマン)は夫の名前を後世に残すべく葬儀に全てを賭ける。監督はパブロ・ラライ。プロデューサーはポートマンと『ブラック・スワン』で組んだダーレン・アロノフスキー。
 プロデューサーとは言え、アロノフスキーの味わいが強く出ているように思う。『ブラック・スワン』と同様、ポートマンが演じるのは自分自身(ジャッキーの場合は夫の付属品としての自分)を虚構として完璧に作り上げようとする女性だ。本作は、記者がジャッキーの元に取材に来て、取材の中でジャッキーが事件を振り返り語るという構成になっている。ジャッキーは記者に度々、ここは書かないで、こう書いて、と指示を出す。彼女が語るのは国民が知るべき真実であって、事実ではないと言える。ケネディは政治上の大きな功績は残していないというのが、 ジャッキーも認める政界の共通認識だった。それを越えて人々の記憶に残る歴史になるには、一種の伝説、神話を作り上げるしかない。ジャッキーが参考にするのがリンカーンの葬儀だというのには、彼女の並々ならぬ本気度が窺える。彼女はメディアの力も良く理解しており、映像として強力な記憶を作る事がケネディを、ひいては自分や子供達を守ることになると考える。先見の明があるのだ。
 しかし夫と共にアメリカの神話になるということは、生身の自分を葬るということにもなりかねない。本作には死の影が常にまとわりつく。冒頭から重低音の不協和音が響いて不穏この上ないのだが、これはケネディが暗殺されるということと同時に、ジャッキーが既に死者、死んで「神話」になったものとして振舞うからであるからのようにも思った。
 ポートマンの演技に凄みがあり、ジャッキーという人間を様々な面から見せる。ホワイトハウス紹介番組出演時のいかにも「ファーストレディ」的な振舞や、夫の暗殺でショックを受け憔悴する姿、葬儀の手筈を整える行動力、そして記者と対峙する強かさ等、これまでのジャッキーのオフィシャルイメージとは一線を画しているように思う。アカデミー賞主演女優賞はポートマンの方がふさわしかったのではないか。

『しゃぼん玉』

 女性や老人ばかりを狙ってひったくりや強盗を繰り返してきた青年・伊豆見(林遣都)は、とうとう人を刺してしまう。逃亡の末に、宮崎県の椎葉村(しいばそん)に辿りついたところ、交通事故で怪我をし動けなくなっている老女スマ(市原悦子)を助ける羽目になる。なりゆきで彼女の家に寝泊まりすることになった伊豆見は金を盗んで逃げる気だったが、スマは彼を「ぼん」と呼び深く詮索することはなかった。原作は乃南アサの同名小説。監督・脚本は東伸児。
 ロケ地である椎葉村の風景や祭りの情景、地元の伝統料理(というよりもおばあちゃんたちが日常的に食べているお惣菜。大変おいしそう)等を織り込んだ、いわゆるご当地映画的な側面も強い。とは言え、原作の力もあるのだろうが、ドラマとしてなかなかよかった。ご当地要素が上手くドラマの装置として組み込まれているように思う。お祭りの時期だけどっと観光客が来るが、基本的に過疎地かつ高齢者ばかりなので祭りの準備の人出が足りない、だからよそ者の伊豆見でも、さしあたって労働力としてありがたがられ、素性についてさほど突っ込まれないという理由づけが出来るのだ(具体的にそう説明されるわけではないが、見ている側にとってまあまあ納得がいく)。
 伊豆見は親のケアをろくに受けられないまま大人になってしまった人間だ。彼の言動、所作からは、親はもちろん、身近に一緒に生活してあれこれ教えてくれる人がいなかった様子が窺える。スマからも注意される箸の持ち方だけでなく、食事の作法や水道の使い方、煙草の吸い方も、いわゆるマナーが悪いものだ。伊豆見がだらしないというよりも、だらしないと指摘する人がいなくてやり方がわからないんだろうなという面持。誰かとずっと一緒に生活するという経験に乏しい人なんだろうなとわかってくるのだ。
 スマとの生活で、伊豆見はもう一度育ち直すことになる。ではスマは理想の親・祖母・保護者なのかというと、そういうわけではない。彼女は彼女で、実子との関係は破綻している。2人とも家族関係には失敗(伊豆見は彼が失敗したわけではなく不運なわけだが)しており、失敗した人同士がお互いに育て合いやり直すという構図なのだ。スマの、実の息子に対する言葉は悔恨に満ちているが同時に恐ろしくもあり、うすら寒くなる。親のエゴ、息子が故郷に戻らなかった一因(概ね彼本人の失敗のせいではあるが)を垣間見た気もするのだ。この凄みは市原が演じたからこそで、他の俳優だったら単に気の毒な母親に見えてしまったかもしれない。市原が主演していることで、確実に映画の格が上がっている。


『SING/シング』

 コアラのバスター・ムーン(マシュー・マコノヒー/内村光良)が支配人として運営する劇場は、赤字続きで危機に陥っていた。バスターは劇場をよみがえらせようと、街の人たちに歌唱コンテストの参加を募る。しかし秘書のミス・クローリー(ガース・ジェニングス/田中真弓)が賞金の桁数を間違えて広告を作ったせいで、高額賞金目当ての応募者が殺到する。監督はガース・ジェニングス。
 手際よくコンパクトに纏めた、ちょうどいい感じのエンターテイメント。老若男女で楽しめそうなところがいい。私は2D・吹替え版で鑑賞したが、吹替えセリフの翻訳、歌の歌詞の翻訳(こちらは一部苦戦しているなーという印象はあったが)はかなり頑張っていると思う。楽曲は翻訳許可が出たものと出なかったものがあるようで、日本語版と英語版が混じっているのだが、それほど気にならない。なお、演技は素人なMISIA(ミーナ役)と大橋卓弥(ジョニー役)が意外と好演で意表を突かれた(つたないが気になるほどではない)。2人とももちろんプロの歌手なので、セリフのぎこちなさと歌の流暢さ・エモーショナルさがちょうどいい対比になっているのだ。ミーナは極端に内気であがり症なのでそもそも喋りが得意でないキャラクターだし、ジョニーもギャングの父親からのプレッシャーで萎縮気味なので、キャラクターと演技のつたなさとのマッチングが良かったのかもしれない。
 信じれば夢は叶う、という言葉は出てくる(そしてバスターが自分の境遇を顧みてがっくりしたりする)が、そんなに大上段に構えた姿勢ではなく、歌が好き、だから歌うんだというシンプルさに貫かれているところが良かった。本作に登場するキャラクターたちは当然歌の才能があるわけだが、仮に才能がそれほどではなかったとしても、好きなことを好きなままでいていいんだという肯定感の方が強い。ミーナにバスターが「歌えばいいんだ」と励ますシーンにはぐっとくる。、また出場者の中でも、ロジーナ(リース・ウィザースプーン/坂本真綾)などはスターになりたいわけではなく、自分が好きなことを思いっきりやってみたい、その「好き」を家族にもわかってほしいという気持ちなんだろうし。
 このキャラクターはこういう性格で、こういうバックグラウンドがあって、といちいち説明せずに、物語の流れの中で提示していく序盤の手際がいい。また、ステージで歌われる以外の、サウンドトラックとしての楽曲の選び方が上手いなと思った。このキャラクターは今こういう気分だよ、こういうシチュエーションなんだよといういい補足になっている。特に「True Colors」には、なるほどここでか!と。

『シンクロナイザー』

 大学勤務の研究者・長谷川(万田祐介)は人間と動物の脳派を同期させる実験を無許可で続けていた。同僚の木下(宮本なつ)の手を借りて研究を続けるうち、この実験が脳機能障害の改善につながる可能性に気付く。長谷川は認知症の母・春子(美谷和枝)の治療になるのではと、倫理を踏み越えて人体実験に踏み切る。監督は万田邦敏。立教大学心理学部の映像生態学プロジェクトの一環として製作された。
 入口と出口が違うような不思議な作品だった。一見、SFサンペンスぽいのに、どんどん土着的なホラーっぽい世界へ進んでいく。春子の存在、母と息子との関係に物語全体が引っ張られていくようだった。長谷川の二男としてのコンプレックスと、痴呆が始まってからは自分のことは忘れてしまい、長男の名前ばかり呼ぶ母親への執着は一応提示されているので不自然というほどではないのだが、物語のモチーフとしての母息子関係の強力さに、少々たじろんだ。最初は、他者(人間であれ動物であれ)とリンクすることへの違和感、恐怖が描かれていたように思うのだが、親子間だと何かしら同質なものが含まれる。含まれていないとしてもそのように見てしまう。そこに近親相姦的なタブー感が重なり、どんどんそちらの方向に引っ張っていかれてしまった気がした。素材の引力の抗いがたさみたいなものがあるのかなと(キャッチーというより、そこに据えておくと恰好がつくというか)思う。
 長谷川と二人三脚状態だった木下の存在が、徐々に長谷川を引き留められなくなり、彼はどんどん母親との「実験」にのめり込んでいくというのも、長谷川の研究者としての業というよりは、母に対する執着、また母の子に対する執着のように見えてくる。終盤の展開は欲望がだだ漏れになってくるようでちょっとぞっとする。
ただ、こうなってしまうと、脳派の同調設定って必要だったか・・・?という気になってくる(特にオチの部分)のだが。最初からホラーだよと言われていればそんなに違和感感じなかったのかもしれないけど。

『ショコラ 君がいて、僕がいる』

 1897年のフランス北部。小さなサーカスで職探しをしていたベテラン道化師のジョルジュ・フティット(ジェームス・ティエレ)は黒人芸人ラファエル・パディーヤ(オマール・シー)と出会い、彼と名付けコンビを組むことを思いつく。ショコラと名乗るようになったラファエルとフティットは一躍人気芸人となり、パリの劇場と専属契約を結ぶ。スターとして名声を手に入れた2人だが、ショコラはギャンブルにおぼれていく。監督はロシュディ・ゼム。
 ちょっとストーリー展開の起伏がゆるくてだらだらしているかなぁ・・・。淡々としていると言えば聞こえはいいのだが。もっとも、そんなにエモーショナルに盛り上げる類の話ではないというのも確かだ。なんとなく、白人と黒人の感動バディもの的な雰囲気を漂わせた宣伝だったが、実際の所はバディになりきれなかった哀しみの方が濃くにじむ。
 フティットとショコラの芸は、今見ると明らかに人種差別意識があるものだし、当時はそれが普通だった。フティットはショコラとコンビを組もうと思うくらいなので黒人に対する嫌悪感はないが、真に同等だとは思っていなかったのではないか。そもそも差別意識にも無自覚だったろう。作中でも描写はあるが、愚か者役がフティットで、黒人が白人の尻を蹴る芸であっても、芸として完成されていれば笑いは起きる。ただ、役割の入れ替わりという発想がフティットにはなかった。彼はショコラを一人前の芸人にしようとしてはいるのだが、その前提として2人は対等であるという認識がいまひとつなく、だからショコラに彼の熱意は伝わらなかったのかもしれない。
 一方、ショコラはスターとして振舞うようになるが、彼に求められるのは依然として「白人に尻を蹴られる黒人」役で、フティットと対等な芸人だからでもアーティストだからでもない。これはショコラの技能・才能とは関係ないことだ。白人と同等のアーティストとして振舞えば、彼に才能があろうがあるまいがブーイングを受ける。ショコラはこの理不尽に打ちのめされていく。彼に出来ることやりたいことと、世間が彼に許すことがどんどんずれていってしまうのだ。万国博覧会の(悪名高い)「野蛮人」展示をまのあたりにする様は痛ましい。黒人としてのアイデンティティも、芸人としての自覚も中途半端なまま、どんどん崩れていくのだ。
 とは言え、苦しむのはショコラだけではなく、フティットにはフティットの苦しさがある。あるシーンで彼はゲイであることが示唆されるが、彼はそれをオープンにすることはできないし、公的にパートナーを持つことも出来ない。彼はおそらくショコラを愛しているが、相手が同性である、黒人であるという二重のタブーとなってしまう。生まれる時代を選ぶことは出来ないが、生まれた時代による運不運というのを痛感せずにはいられない。

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