3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『叫びとささやき』

 ベルイマン生誕100年映画祭にて。19世紀末のスウェーデン。大邸宅で生まれ育った三姉妹のうち、病身の二女アグネス(ハリエット・アンデルセン)は召使のアンナ(カリ・シルヴォン)と屋敷に留まっていた。結婚した長女カーリン(イングリッド・チューリン)と三女マリア(リヴ・ウルマン)はそれぞれ自分の家庭を持っているが、折に触れて実家に帰省する。カーリンと夫の仲は冷め切っており、マリアはアグネスの主治医と愛人関係にあった。そしてアグネスの死期は近づきつつある。監督はイングマール・ベルイマン。1973年の作品。
 登場人物の顔のアップを挟んでエピソードが切り替わる。これは誰のパートであるか大変わかりやすいのだが、人の顔のアップをじっと見るのって結構ストレかかるんだな・・・。パート切り替え部分以外でも顔のアップが多く、特に不穏な雰囲気が漂ってくる緊迫したシーンで多用されるので、見ているとかなり疲れた。赤を基調とした美術は美しく華やかなのだが、あまりに赤の主張が強くてこれもまた緊張感を強いられる。見ている側を安心させない設計になっているのだ。
 病気を患うアグネスの苦しみは具体的な「叫び」として表れる。しかしカーリンとマリアもまた、それぞれの「叫び」を抱えている。2人とも違った形で愛、生きがいを求めているが満たされない。特に、カーリンの内圧の強さは痛々しいくらい。官能的な描写も多く、特にマリアは官能のおばけのような造形なのだが、それと苦しみが抱き合わせになっている。
 冷徹に振舞うカーリンにマリアは「仲良くなりたい」と訴え、その願いはかなったかのように見える。が、その後の展開が非常に残酷だった。カーリンにとっての「仲良くする」とマリアのそれとは深度が異なる。生真面目なカーリンと「空気読む」タイプのマリアの違いが如実に出ておりまあ切ないの何のって・・・。カーリンが今までいかに孤独だったかがむき出しになるシーンでもあり、痛切だ。3姉妹もその夫も、一見円満だがお互いを理解しているわけでも深く愛しているわけでもない。お互いに他人であることがどんどんむき出しになっていく。精神的に深いつながりを持っているのはアグネスと召使のアンナだけなのだ。


ワーニャ伯父さん/三人姉妹 (光文社古典新訳文庫)
アントン・パーヴロヴィチ チェーホフ
光文社
2009-07-09


『ザ・ビッグハウス』

 収容人数10万人以上、全米最大のアメリカンフットボール・スタジアム、通称「ザ・ビッグハウス」。ミシガン大学のアメフトチーム、ウルヴァリンズの本拠地だ。そのビッグハウスで繰り広げられるゲーム、押し寄せる観衆、怒涛のバックヤードまで、17人の映像作家たちが次々と追っていく。想田和弘監督による「観察映画」第8弾。
 観察映画8作目にして、ついに海外(と言っても監督の本拠地はアメリカなわけだが)での撮影、そして複数カメラマンによる撮影の作品が登場。複数名で撮影することで観察映画としての方向性にはどのような影響が出るのだろうと思っていたのだが、観察映画は観察映画だった。最終的な編集は想田監督なのだろうから、監督の作家性は編集に色濃く表れているということだろうか。撮影のスタンスさえ意思統一されていれば、想田監督作品としての特質、キャラクター性は維持されるんだなとわかる。
ファーストショットで、あっ予算と人力が増えている!と思った。なかなか意表を突いた始まり方なのだが、これまでの観察映画と比べて、いきなり観察対象が大きくなっていることは一目瞭然。複数名でのプロジェクトにしたからこそできた作品と言えるだろう。
 ザ・ビッグハウスでのゲームは日本の大学スポーツとは想像できない規模で、とにかく圧倒される。物量が違うし動くお金の額も全く違う。日本のプロスポーツより全然盛り上がっているのではないだろうか(チケット収入、グッズのライセンス収入などの総額売上は年間170億円以上だそうだ)。スアジアムになだれ込み客席を埋め尽くす人の数、そしてバックヤードで供給され続けるフード類の量と延々と続く流れ作業を見ているだけで気が遠くなりそう。「びっくりするような値段」だというVIP席で観戦する人がいる一方で、スタジアム内で(多分勝手に)水を売っている人がいたり、スタジアムの外でチョコレートを売っている子供がいたりもする。カメラに映る人たちも様々で、富裕層、ホワイトカラー、ブルーカラー、失業者と、社会のあらゆる層の縮図といった感じ。
 更に圧倒されると同時に強い違和感を感じるのは、客席の熱気と一体感。私が普段スポーツ観戦をしないからかもしれないが、大勢の人間の意識のベクトルが一方向を向いて大変な熱量を孕んでいる様。非常に様々な人が来ているはずなのに、なぜか一様なのっぺりとした風景にも見える。有無を言わせない迫力があるが、同時に怖くもある。また、オープニングショーが軍によるものだったり、試合の合間に軍人への追悼式があったりと、国・軍隊・スポーツががっしりとタッグを組んでいる様も不思議だった。あの中で胸に手を当てて全員で国歌斉唱する(マスコミ、ジャーナリストもする)ことに、違和感を感じない国(土地柄なのかそういう層が集まるのか)なんだなと妙に感心した。混ざりたくはないが・・・。なお本作、2016年の大統領選挙の時期に撮影されており、スタジアムの背後にトランプの宣伝車が映りこんでいたりする。こういう瞬間を撮影できるのが映画作家として「持ってる」ってことなんだろうな。


選挙2 [DVD]
紀伊國屋書店
2015-01-31


『30年目の同窓会』

 バーを営むサル(ブライアン・クランストン)の元を、30年ぶりに軍で同僚だった旧友ドク(スティーブ・カレル)が訪ねてきた。同じく悪友だったが今は牧師になっているミューラー(ローレンス・フィッシュバーン)と合流する。戦死して母国に送り返されてきたドクの息子の遺体を、故郷ポーツマスへ連れ帰ろうというのだ。監督はリチャード・リンクレイター。
 2003年が舞台なのだが、ドクら3人はベトナム戦争で従軍した同期。ドクの息子は中東に派遣されて死んだ。時代設定の妙があるが、2010年代になったから距離感を持って見ることが出来る話でもある。2000年代一桁だったら生々しくてちょっと辛かったかもしれない。
 ドク、サル、ミューラーは海軍で共に戦い生き残った仲間だ。しかしそれだけではなく、ある秘密への後ろめたさが彼らを繋いでいることが徐々にわかってくる。この秘密の関する情報の出し方がさりげなくて上手い。そしてその秘密の性質と、ドクの息子の死とが重なっていく。広い意味での戦争映画とも言える。戦争により戦地に赴いた当事者が、その家族がどのように傷つくのかという話でもあるのだ。
 ドクは息子の死に方にも、軍や政府の対応にも納得できず、彼らへの反感から戦死者墓地への埋葬を拒否して遺体を地元に連れ帰ろうとする。また彼らは、ベトナムでの体験は最低だったと言う。にもかかわらず、軍への帰属意識や仲間とのバカ騒ぎの記憶は、おそらくかけがえのないものとして彼らの中にある。その矛盾が面白い。言うこととやることの裏腹さという点では、サルとミューラーの「嘘」を巡る言い合いとその顛末も同様だ。矛盾を否定せず、どちらも成立するものとして本作は描いているのだ(構成が良くできている)。正しいことと思いやりとは必ずしも一致しない。このあたりは、中年の主人公だからこそ出た味わいではないかと思う。
 脱線しまくりのロードムービー的だが、ラストは意外とすぱっと終わる。最近の映画だとこの後ひとくだり作って肩の力抜いた感を出しそうなところ、あっさり終わるところが逆に新鮮だった。




『サバービコン 仮面を被った街』

 アメリカンドリームを絵に描いたような、美しい郊外住宅地サバービコン。そこにガードナー(マット・デイモン)と足の不自由なローズ(ジュリアン・ムーア)夫婦のロッジ家の生活は、強盗に入られたことで一変した。一家の幼い息子ニッキー(ノア・ジュプ)の世話を、ローズの姉マーガレット(ジュリアン・ムーア)がすることになる。同じころ、ロッジ家の隣に黒人一家が引っ越してきた。街の住人達は黒人一家の転入に猛反発する。監督はジョージ・クルーニー。脚本はクルーニー&コーエン兄弟。
 1950年代に実際に起きた人種差別暴動が背景にあるが、主軸となるのはロッジ家内で起きるある事件。2つの出来事は関係ないようではあるが、黒人排斥運動に見られる異物(そもそも異物と見るのがおかしいわけだけど・・・)に対する排他性も、ロッジ家の事件のような、一見理想的な家庭の中でも実際は何が起きているかわからないという部分も、サバービアの特性と言えるのかもしれない。そういう面では直球のサバービア映画。
 というよりも、サバービア映画のパロディと言った方がいいのか。サバービコンがテーマパーク的な、作りものっぽい整えられ方をしているのも、絵にかいたような「豊かで幸せな生活」なのも、多分にパロディ的で誇張されている。今更このネタをやるの?(郊外の憂鬱と欺瞞を描いた作品は多々あるし、そもそも今では郊外という概念が廃れつつあるのではないかと思う)と思ったけれど、パロディとしてのサバービアを背景にしたぽんこつ犯罪映画として見ると、なんだか味が出てくる。犯罪の出来がとにかく悪くて脇が甘い(関係者全員の頭が悪すぎる!)のも、ここまでくると却って新鮮だった。そもそもなぜその犯罪、成功すると思ったんだ!と問い詰めたくなる。申告な社会問題が目の前にあるのに、それとは別物のしょぼい犯罪が二転三転していくところが実にコーエン兄弟っぽい。背景は大きいが前景はちっちゃいのだ。
 それにしても、黒人一家に対するヘイトがどんどんエスカレートしていく様が気持ち悪くてならなかった。街全体でプレッシャーをかけていくんだから始末が悪いし、それまずいんじゃない?というG人が誰もいない所も怖い。でも差別をしているという意識は、住民たちには多分ないんだよなぁ。「差別意識はないわ、でも白人だけの街だと聞いたから越してきたのに」というような言葉が出てくるのだ。





『さよなら、僕のマンハッタン』

 大学を卒業したものの進路が定まらないトーマス(カラム・ターナー)のアパートの隣室に、W・F・ジェラルドと名乗る中年男性(ジェフ・ブリッジス)が越してきた。トーマスはどこか風変りなジェラルドと親しくなり、人生のアドバイスも受けていく。ある日、トーマスは父イーサン(ピアース・ブロスナン)がフリー編集者のジョハンナ(ケイト・ベッキンセール)と浮気していると知ってしまう。トーマスはジェラルドに背中を押されてジョハンナに近づく。監督はマーク・ウェブ。
 冒頭、ガールフレンドのミミ(カーシー・クレモンズ)に海外留学すると告げられた時のトーマスの反応に、こいつしょうもないな!と思ってしまった。自分のことばっかりで、ミミがどう思っているのかは後回しなのかと。彼女との関係を曖昧なままにしていたり、父親に浮気をやめろと切り出せなかったり、ジョハンナにも父と別れろと言いきれなかったりと、彼の行動は煮え切らない。そんなのさっさと言っちゃえばいいのに!と少々呆れるが、彼にとっては扱いあぐねる問題ばかりなのだろう。彼が抱える問題をどうにかしようとすると、他人の領域に踏み込むことになる。その領域に踏み込む勇気が彼にはまだない。いかにも若造なのだ。
 そんな若造が大きく成長する、自主的変化するというわけでもなく、周囲の変化に巻き込まれていく、流されていくことにより人生が変化していく。人生ってそんなものじゃないかな、という気分がする。本作、思いがすれ違う人たちがしばしば登場するが、そこはすれ違ったまま、流されていく。でもそれによって個々の人生がダメになるかというと、そんなことないだろう。
 トーマスの青春というよりも、トーマスと父親の物語としてとてもよかった。イーサンは一見、若い美女と浮気するチャラい中年。しかし、彼は大きな勇気をもって今の生き方を選んだとわかってくる。これはブロスナンが演じているというのが一つのフェイクになっていて、いいキャスティングだった。問答無用でチャラさを感じさせるブロスナンもすごいのだが。ここぞという時に逃げてしまう人、踏みとどまれる人がいるが、トーマスは今まで逃げてしまう人だったんだろう。もちろん逃げていい時もある。どこで逃げないか、という所にその人の人となりが見えるのかもしれない。
 トーマスとジョハンナの顛末は出来すぎに見えるのだが、本作が誰によって、どのような形で語られているか考えると、そのファンタジー性(というかムシの良さ)も頷ける。現代が舞台だがスマホが殆ど出てこない所が面白かった。サイモン&ガーファンクルやルー・リード、ボブ・ディランの音楽と相まって60年代、70年代的な雰囲気を感じる。これも語り手の属性故か。なお選曲がとてもいい。マーク・ウェブ監督はどの作品でも音楽の趣味がいいな。

gifted/ギフテッド 2枚組ブルーレイ&DVD [Blu-ray]
クリス・エヴァンス
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2018-06-02


青白い炎 (岩波文庫)
ナボコフ
岩波書店
2014-06-18




『坂道のアポロン』

 1960年代、東京から佐世保の高校に転校してきた西見薫(知念侑李)は、校内はおろか他校の生徒からも恐れられる不良の川渕千太郎(中川大志)と出会う。ジャズ好きでドラムを叩く千太郎と、幼い頃からピアノをひいていた薫、そして千太郎の幼馴染で、転校生である薫のことを何かと気に掛ける迎律子(小松菜奈)は、距離を縮め仲良くなっていく。やがて薫は律子に恋心を抱くようになるが、律子はずっと千太郎のことを想っていることにも気づく。原作は小玉ユキの同名漫画。監督は三木孝浩。
 普段あまり見ないタイプの(いわゆる少女漫画原作のキラキラしているっぽい)映画だし、アニメ版が傑作レベルなので実写の本作にはさほど期待していなかったんだけど、予想外に良かった。キラキラで目が潰れそうになったけどそれも含めて良かった。たまにこういうシンプルな映画みるのっていいな。
 千太郎と薫を繋ぐものは音楽なので、ジャズ演奏のシーンは当然とても重要。演奏を俳優本人にさせる(音はプロ演奏家の音を乗せている)ってハードル高すぎで不自然に見えるんじゃないかなと心配だったが、俳優陣が皆健闘している。特に千太郎役の中川のドラムは、動きが本当にドラマーっぽいグルーヴ感のあるものだった。冒頭のケンカシーンの体の動きの方が、絶対拳当たってないな!という不自然さ。映画やTVドラマにおける楽器演奏シーンって、動きと音がぴったりと合っていることよりも、演奏している「ぽさ」、演奏者が音に乗っているように見える「ぽさ」が大事だと思っているのだが、本作にはそれがあった。薫役の知念はどうも左利きのようなので(ペンは左手で持って書いていたので)、ピアノ演奏演技は結構大変だったんじゃないかと思うが、よく頑張っていると思う。あまりピアニストっぽい手ではないんだけど(笑)。音楽は人を自由にする、人と人の魂を結びつけるという、高揚感あふれるライブシーンになっていた。
 千太郎と薫は居場所のない者同士で、そこに連帯感と友情が生まれる。律子が千太郎への、あるいは薫への思いを口にしようとすると、それは毎回中断される。はっきりと意識的に、「言わせない」ことを意図した演出だと思う。本作は3人の友情を少し超えた感情、その支え合いを主軸にしており、そのバランスを崩さない為の意図なのだろう。ちょっと意図が前に出過ぎてしまっている気がするが。ラストで律子が声を出す(正確には声を出す直前で終わるのだが)シチュエーションは、これが3人のハーモニーを描き、そこに帰結していく物語なのだとはっきり示している。




『ザ・シークレットマン』

 1972年、FBI副長官のマーク・フェルト(リーアム・ニーソン)は、ワシントンD.Cの民主党本部での登頂侵入事件の進展がないのは、もみ消し工作によるもので、黒幕はホワイトハウスだと確信する。捜査妨害を止めるには世間の注目を集めることが必要と判断したフェルトは、ワシントン・ポストに内部情報を提供し、記事を書くよう指示する。監督・脚本はピーター・ランデズマン。
 ウォーターゲート事件を題材にした作品。この事件のあらましを押さえていないと、事件のどの辺の部分の話で何が起きているのかフェルトは2005年に自分が密告者「ディープ・スロート」だったと告白、2008年に95歳で亡くなっている。監督のランデズマンはジャーナリスト出身だが、晩年のフェルトに取材しており、その時の取材内容と彼の印象を元に本作におけるフェルトを造形している。
 フェルトの行為はFBI内部から見たら密告であり裏切り行為と言えるのだろうが、フェルト自身は密告に対する葛藤はあったろうが、裏切りとはちょっと違うというつもりだったろう。フェルトが何度も口にするのは「FBIは独立した組織です」ということだ。FBIはホワイトハウスに隷属する組織ではなく、相手が大統領であろうが疑わしい所があれば捜査できる組織でなければならない。彼が考えるFBIという組織の機能はそういうもので、もしホワイトハウスの要求を呑んでしまったら、組織の存在意義自体が失われる。それはひいては自国を腐敗させることになる。国の長になんでも従うことと愛国とは違うのだ。フェルトはFBI長官への道を絶たれたことを恨んで内部情報をリークしたという説もあるそうだが、本作ではその要素は希薄。ショックではあるが、もっと重大な問題に直面し、それを何とかしようとするのだ。
 フェルトにとっては非常に危険な行為だったはずだが、本作、流れがなんとなくのったりとしており起伏があまりないので、それほど危機感が感じられない。映像の質感と色合いも冷ややか(映像が美しいのが意外だった)、かつニーソンが基本無表情なので(まあ表情豊かなFBI副長官というのも考えにくいけど・・・)、どうも茫漠とした印象。ただそれがつまらないというのではなく、大きな事件の一部としてのフェルトの姿のとらえ方なのかなと思う。

大統領の陰謀 [DVD]
ダスティン・ホフマン
ワーナー・ホーム・ビデオ
2011-11-02


コンカッション [SPE BEST] [DVD]
ウィル・スミス
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2017-07-05

『殺人者の記憶法』

 獣医のビョンス(ソル・ギョング)はアルツハイマー病を発症し、記憶が時々途切れるようになる。不安を感じたビョンスは、毎日の出来事を日記に記し、娘の勧めでレコーダーにも吹き込むようになった。ある日、ビョンスは霧の中で追突事故を起こす。事故の相手、ミン・テジュ(キム・ナムギル)と対面したビョンスは、彼が世間を騒がしている連続殺人犯であると確信する。ビョンス自身、かつて連続殺人を犯した過去があり、テジュの中に自分と同じものを見たのだ。監督はウォン・シニョン。
 元殺人鬼VS現役殺人鬼という奇跡の対決なのだが、ビョンスの記憶はいきなり途切れるので、肝心な所で相手に先手を打たれてしまう。しかも彼は先手を取られたことに気付けない(忘れてしまう)。これがビョンスにとって大きなハンデとなっており、彼の行動をどんどん危うくしていく。自分が知らないうちに自分の過去が書き換えられていく、しかも自分ではそれに気付けないという部分が一番怖かった。ビョンスは自分を保つ最後の砦として娘を信じるが、それすらも危うくなっていく。
 ビョンスの記憶がキーになっている物語なのだが、この手の記憶の改ざんを扱った作品でよく見られるような、記憶というもののそもそものあやふやさ、不確かさは見ていてあまり感じない。ビョンスの「今」の記憶ひとつひとつははっきりとしているように見えるのだ。ビョンス視点が主なので「今」に関してははっきりしているということなのだろうが。本作、記憶のすり替えは描くが、記憶そのものの曖昧さはあまり見えてこない。そこが物足りなかった。
 面白い作品ではあるのだが、ビョンスの遅れて笑う癖とか、テジュの「頭」とか、これ必要あるのかな?という細かいネタが過剰な気がして気になってしまった。

殺人の追憶 [Blu-ray]
ソン・ガンホ
KADOKAWA / 角川書店
2014-06-27



手紙は憶えている [DVD]
クリストファー・プラマー
ポニーキャニオン
2017-05-03

『サイコノータス』

 特集上映「長編アニメーションの新しい景色」にて鑑賞。アルベルト・バスケス監督、2015年の作品。過去の大参事により多数の死者が出て、今なお環境が汚染され荒廃したある島。閉塞された島の暮らしにうんざりした少女ディンキは、友人たちと島を脱出する決意をする。彼女が気に掛けているのは、ボーイフレンドのバードボーイが一緒に来るかどうかということだ。
 登場するキャラクターは可愛らしい動物たち(ディンキはネズミ、バードボーイは名前の通り鳥、ディンキの友人はキツネとウサギだ)だが、世界観は結構ハードなディストピア。未来の見えなさからか、大人も子供もドラッグ漬け。海に囲まれているが魚は獲れず、廃墟にはストリートチルドレンやホームレスがたむろっている。警察官はいるものの、拳銃を見せびらかすような奴らで、容疑者の逮捕ではなく射殺が目的だ。空を飛べるバードボーイは、ドラッグの運び屋と思われており、警察からずっと狙われているのだ。またビジュアル面もポップでとっつきやすく、水中や森の中の描写などは絵本のように美しいのだが、その一方で血や肉体破損の描写も意外とある。ポップな絵柄の中にも不穏な空気が満ちており、グロテスクなものが立ち現れてくる。
 バードボーイには一切台詞がないのだが、彼が心身ともに弱っていることはよくわかる。飛ぶ恐怖から逃れる為にドラッグを手放せず、ドラッグにより更に衰弱していく。彼が囚われているのは飛ぶことそのものへの恐怖というよりも、自分の父親が起こしたとされる事件への恐怖、ひいては自分の中にも同じような魔物(的な何か)が潜んでいるのではないかという恐怖だ。
 魔物的なものとの戦いは、バードボーイだけではなく、漁師をしている子ブタや、ディンキの友人のウサギも直面する。魔物が一線を越えさせようとする時、踏みとどまる強さを一人一人が見せてくれることが、未来などなさそうな世界に少しだけ光を注ぐ。
 バードボーイは島の秘密(この部分、ちょっと『風の谷のナウシカ』的な世界観だと思った。こういうのが最早スタンダードということかな)、鳥たちの秘密を知り、恐怖と立ち向かう。彼はディンキたちを、ひいては父親との思い出や島そのものを守ろうとするのだ。ラストは切なくも美しい。



21世紀のアニメーションがわかる本
土居伸彰
フィルムアート社
2017-09-25

『ザ・サークル』

 派遣社員をしていたメイ・ホランド(エマ・ワトソン)は親友アニー(カレン・ギラン)の尽力を得て、世界最大手の巨大SNS企業「サークル」に就職する。新サービス「シーチェンジ」のモデルケースに抜擢されたメイは、サークル社が新たに開発した超小型カメラによって自身の生活を24時間公開する。コンテンツは大人気でフォロワーは1000万人越え、メイは世界中の人気者になる。やがてサークル社は、世界中に設置したカメラとフォロワーの力によって、会いたい人をすぐに探し出せるというサーチサービスを発表する。原作はデイヴ・エガーズの同名小説。監督はジェームズ・ポンソルト。
 見ている間は退屈というわけではないが、見終わった後の印象が薄い。サークル社やそのサービスの設定には既視感がある(実際に類似した設定が出てくる過去のSF作品は色々とあるだろう)。そのもう一歩先へ、というほどの踏込みは感じられなかった。現実の世界もこれに似た状況に近づきつつある(私に実感がないだけでかなり近いのかもしれないけど)んだろうし、新しさみたいなものはあまり感じない。少し未来の世界設定を描きたいのか、メイという人間とその周囲の人間を描きたいのか、どっちつかずでどちらも薄味に思えた。あまり人間ドラマに寄って行っても面白くない類の話ではあるのだが、少し未来の世界を見せるには実際の現状に近すぎるのかな。また、サスペンス部分が少々大味(チートキャラを出すとシステム上簡単に話終わっちゃう・・・)。
 現実的にも、諸々可視化され、記録され、その引換として利便さ・安全さが提供されるという社会への違和感は、10数年前に比べると大分薄くなっているように思う。作中、子供にチップを埋めて犯罪被害に遭わないか監視するという社員に対して、メイは最初冗談かと思う。しかし社員は大真面目だ。プライバシーと安全・利便を天秤にかけると、安全・利便の方が(特にテロが頻発するようになった世の中では)重く見られるのはしょうがないのかもしれない。とは言え、実際には現状ではまだ気持ち悪さを感じる人の方が多いのかなと思う。本作はそのもう少し先を描いているのだ。
 作中の世界では、個人、プライベートの有り方が従来とはどんどん変質してきている。ここは他人に見られたくない、明かしたくないという領域は誰しもあるだろう。しかしなぜ見られたくないのか、明かしたくないのかという部分は、合理的な説明がしにくい。サークルはそこに付け込んでいるとも言える。これは人間個々の感性・環境によって違うとしか言いようがなく、それを統一されたらすごくストレス感じる人も多いだろう。サークルに入社したばかりのメイに同僚2人が「ガイダンス」に来るのだが、この2人の胡散臭さ(そう思わない人ももちろんいるだろう)たるや。他の社員との「繋がり」、社内のアクティビティーへの参加をやんわりと強要されるのだが、もうこの部分だけで御社悪い意味でやばいです・・・という気分に。オフィシャルとパーソナルの領域の切り分けを許さない社風なのね。サークル社が目指すのがそういった「繋がる」社会だというのなら、私にとっては地獄だわ・・・。


ザ・サークル (上) (ハヤカワ文庫 NV エ 6-1)
デイヴ エガーズ
早川書房
2017-10-14


ザ・サークル 下 (ハヤカワ文庫 NV エ 6-2)
デイヴ エガーズ
早川書房
2017-10-14



ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ