3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『坂道のアポロン』

 1960年代、東京から佐世保の高校に転校してきた西見薫(知念侑李)は、校内はおろか他校の生徒からも恐れられる不良の川渕千太郎(中川大志)と出会う。ジャズ好きでドラムを叩く千太郎と、幼い頃からピアノをひいていた薫、そして千太郎の幼馴染で、転校生である薫のことを何かと気に掛ける迎律子(小松菜奈)は、距離を縮め仲良くなっていく。やがて薫は律子に恋心を抱くようになるが、律子はずっと千太郎のことを想っていることにも気づく。原作は小玉ユキの同名漫画。監督は三木孝浩。
 普段あまり見ないタイプの(いわゆる少女漫画原作のキラキラしているっぽい)映画だし、アニメ版が傑作レベルなので実写の本作にはさほど期待していなかったんだけど、予想外に良かった。キラキラで目が潰れそうになったけどそれも含めて良かった。たまにこういうシンプルな映画みるのっていいな。
 千太郎と薫を繋ぐものは音楽なので、ジャズ演奏のシーンは当然とても重要。演奏を俳優本人にさせる(音はプロ演奏家の音を乗せている)ってハードル高すぎで不自然に見えるんじゃないかなと心配だったが、俳優陣が皆健闘している。特に千太郎役の中川のドラムは、動きが本当にドラマーっぽいグルーヴ感のあるものだった。冒頭のケンカシーンの体の動きの方が、絶対拳当たってないな!という不自然さ。映画やTVドラマにおける楽器演奏シーンって、動きと音がぴったりと合っていることよりも、演奏している「ぽさ」、演奏者が音に乗っているように見える「ぽさ」が大事だと思っているのだが、本作にはそれがあった。薫役の知念はどうも左利きのようなので(ペンは左手で持って書いていたので)、ピアノ演奏演技は結構大変だったんじゃないかと思うが、よく頑張っていると思う。あまりピアニストっぽい手ではないんだけど(笑)。音楽は人を自由にする、人と人の魂を結びつけるという、高揚感あふれるライブシーンになっていた。
 千太郎と薫は居場所のない者同士で、そこに連帯感と友情が生まれる。律子が千太郎への、あるいは薫への思いを口にしようとすると、それは毎回中断される。はっきりと意識的に、「言わせない」ことを意図した演出だと思う。本作は3人の友情を少し超えた感情、その支え合いを主軸にしており、そのバランスを崩さない為の意図なのだろう。ちょっと意図が前に出過ぎてしまっている気がするが。ラストで律子が声を出す(正確には声を出す直前で終わるのだが)シチュエーションは、これが3人のハーモニーを描き、そこに帰結していく物語なのだとはっきり示している。




『ザ・シークレットマン』

 1972年、FBI副長官のマーク・フェルト(リーアム・ニーソン)は、ワシントンD.Cの民主党本部での登頂侵入事件の進展がないのは、もみ消し工作によるもので、黒幕はホワイトハウスだと確信する。捜査妨害を止めるには世間の注目を集めることが必要と判断したフェルトは、ワシントン・ポストに内部情報を提供し、記事を書くよう指示する。監督・脚本はピーター・ランデズマン。
 ウォーターゲート事件を題材にした作品。この事件のあらましを押さえていないと、事件のどの辺の部分の話で何が起きているのかフェルトは2005年に自分が密告者「ディープ・スロート」だったと告白、2008年に95歳で亡くなっている。監督のランデズマンはジャーナリスト出身だが、晩年のフェルトに取材しており、その時の取材内容と彼の印象を元に本作におけるフェルトを造形している。
 フェルトの行為はFBI内部から見たら密告であり裏切り行為と言えるのだろうが、フェルト自身は密告に対する葛藤はあったろうが、裏切りとはちょっと違うというつもりだったろう。フェルトが何度も口にするのは「FBIは独立した組織です」ということだ。FBIはホワイトハウスに隷属する組織ではなく、相手が大統領であろうが疑わしい所があれば捜査できる組織でなければならない。彼が考えるFBIという組織の機能はそういうもので、もしホワイトハウスの要求を呑んでしまったら、組織の存在意義自体が失われる。それはひいては自国を腐敗させることになる。国の長になんでも従うことと愛国とは違うのだ。フェルトはFBI長官への道を絶たれたことを恨んで内部情報をリークしたという説もあるそうだが、本作ではその要素は希薄。ショックではあるが、もっと重大な問題に直面し、それを何とかしようとするのだ。
 フェルトにとっては非常に危険な行為だったはずだが、本作、流れがなんとなくのったりとしており起伏があまりないので、それほど危機感が感じられない。映像の質感と色合いも冷ややか(映像が美しいのが意外だった)、かつニーソンが基本無表情なので(まあ表情豊かなFBI副長官というのも考えにくいけど・・・)、どうも茫漠とした印象。ただそれがつまらないというのではなく、大きな事件の一部としてのフェルトの姿のとらえ方なのかなと思う。

大統領の陰謀 [DVD]
ダスティン・ホフマン
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2011-11-02


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ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
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『殺人者の記憶法』

 獣医のビョンス(ソル・ギョング)はアルツハイマー病を発症し、記憶が時々途切れるようになる。不安を感じたビョンスは、毎日の出来事を日記に記し、娘の勧めでレコーダーにも吹き込むようになった。ある日、ビョンスは霧の中で追突事故を起こす。事故の相手、ミン・テジュ(キム・ナムギル)と対面したビョンスは、彼が世間を騒がしている連続殺人犯であると確信する。ビョンス自身、かつて連続殺人を犯した過去があり、テジュの中に自分と同じものを見たのだ。監督はウォン・シニョン。
 元殺人鬼VS現役殺人鬼という奇跡の対決なのだが、ビョンスの記憶はいきなり途切れるので、肝心な所で相手に先手を打たれてしまう。しかも彼は先手を取られたことに気付けない(忘れてしまう)。これがビョンスにとって大きなハンデとなっており、彼の行動をどんどん危うくしていく。自分が知らないうちに自分の過去が書き換えられていく、しかも自分ではそれに気付けないという部分が一番怖かった。ビョンスは自分を保つ最後の砦として娘を信じるが、それすらも危うくなっていく。
 ビョンスの記憶がキーになっている物語なのだが、この手の記憶の改ざんを扱った作品でよく見られるような、記憶というもののそもそものあやふやさ、不確かさは見ていてあまり感じない。ビョンスの「今」の記憶ひとつひとつははっきりとしているように見えるのだ。ビョンス視点が主なので「今」に関してははっきりしているということなのだろうが。本作、記憶のすり替えは描くが、記憶そのものの曖昧さはあまり見えてこない。そこが物足りなかった。
 面白い作品ではあるのだが、ビョンスの遅れて笑う癖とか、テジュの「頭」とか、これ必要あるのかな?という細かいネタが過剰な気がして気になってしまった。

殺人の追憶 [Blu-ray]
ソン・ガンホ
KADOKAWA / 角川書店
2014-06-27



手紙は憶えている [DVD]
クリストファー・プラマー
ポニーキャニオン
2017-05-03

『サイコノータス』

 特集上映「長編アニメーションの新しい景色」にて鑑賞。アルベルト・バスケス監督、2015年の作品。過去の大参事により多数の死者が出て、今なお環境が汚染され荒廃したある島。閉塞された島の暮らしにうんざりした少女ディンキは、友人たちと島を脱出する決意をする。彼女が気に掛けているのは、ボーイフレンドのバードボーイが一緒に来るかどうかということだ。
 登場するキャラクターは可愛らしい動物たち(ディンキはネズミ、バードボーイは名前の通り鳥、ディンキの友人はキツネとウサギだ)だが、世界観は結構ハードなディストピア。未来の見えなさからか、大人も子供もドラッグ漬け。海に囲まれているが魚は獲れず、廃墟にはストリートチルドレンやホームレスがたむろっている。警察官はいるものの、拳銃を見せびらかすような奴らで、容疑者の逮捕ではなく射殺が目的だ。空を飛べるバードボーイは、ドラッグの運び屋と思われており、警察からずっと狙われているのだ。またビジュアル面もポップでとっつきやすく、水中や森の中の描写などは絵本のように美しいのだが、その一方で血や肉体破損の描写も意外とある。ポップな絵柄の中にも不穏な空気が満ちており、グロテスクなものが立ち現れてくる。
 バードボーイには一切台詞がないのだが、彼が心身ともに弱っていることはよくわかる。飛ぶ恐怖から逃れる為にドラッグを手放せず、ドラッグにより更に衰弱していく。彼が囚われているのは飛ぶことそのものへの恐怖というよりも、自分の父親が起こしたとされる事件への恐怖、ひいては自分の中にも同じような魔物(的な何か)が潜んでいるのではないかという恐怖だ。
 魔物的なものとの戦いは、バードボーイだけではなく、漁師をしている子ブタや、ディンキの友人のウサギも直面する。魔物が一線を越えさせようとする時、踏みとどまる強さを一人一人が見せてくれることが、未来などなさそうな世界に少しだけ光を注ぐ。
 バードボーイは島の秘密(この部分、ちょっと『風の谷のナウシカ』的な世界観だと思った。こういうのが最早スタンダードということかな)、鳥たちの秘密を知り、恐怖と立ち向かう。彼はディンキたちを、ひいては父親との思い出や島そのものを守ろうとするのだ。ラストは切なくも美しい。



21世紀のアニメーションがわかる本
土居伸彰
フィルムアート社
2017-09-25

『ザ・サークル』

 派遣社員をしていたメイ・ホランド(エマ・ワトソン)は親友アニー(カレン・ギラン)の尽力を得て、世界最大手の巨大SNS企業「サークル」に就職する。新サービス「シーチェンジ」のモデルケースに抜擢されたメイは、サークル社が新たに開発した超小型カメラによって自身の生活を24時間公開する。コンテンツは大人気でフォロワーは1000万人越え、メイは世界中の人気者になる。やがてサークル社は、世界中に設置したカメラとフォロワーの力によって、会いたい人をすぐに探し出せるというサーチサービスを発表する。原作はデイヴ・エガーズの同名小説。監督はジェームズ・ポンソルト。
 見ている間は退屈というわけではないが、見終わった後の印象が薄い。サークル社やそのサービスの設定には既視感がある(実際に類似した設定が出てくる過去のSF作品は色々とあるだろう)。そのもう一歩先へ、というほどの踏込みは感じられなかった。現実の世界もこれに似た状況に近づきつつある(私に実感がないだけでかなり近いのかもしれないけど)んだろうし、新しさみたいなものはあまり感じない。少し未来の世界設定を描きたいのか、メイという人間とその周囲の人間を描きたいのか、どっちつかずでどちらも薄味に思えた。あまり人間ドラマに寄って行っても面白くない類の話ではあるのだが、少し未来の世界を見せるには実際の現状に近すぎるのかな。また、サスペンス部分が少々大味(チートキャラを出すとシステム上簡単に話終わっちゃう・・・)。
 現実的にも、諸々可視化され、記録され、その引換として利便さ・安全さが提供されるという社会への違和感は、10数年前に比べると大分薄くなっているように思う。作中、子供にチップを埋めて犯罪被害に遭わないか監視するという社員に対して、メイは最初冗談かと思う。しかし社員は大真面目だ。プライバシーと安全・利便を天秤にかけると、安全・利便の方が(特にテロが頻発するようになった世の中では)重く見られるのはしょうがないのかもしれない。とは言え、実際には現状ではまだ気持ち悪さを感じる人の方が多いのかなと思う。本作はそのもう少し先を描いているのだ。
 作中の世界では、個人、プライベートの有り方が従来とはどんどん変質してきている。ここは他人に見られたくない、明かしたくないという領域は誰しもあるだろう。しかしなぜ見られたくないのか、明かしたくないのかという部分は、合理的な説明がしにくい。サークルはそこに付け込んでいるとも言える。これは人間個々の感性・環境によって違うとしか言いようがなく、それを統一されたらすごくストレス感じる人も多いだろう。サークルに入社したばかりのメイに同僚2人が「ガイダンス」に来るのだが、この2人の胡散臭さ(そう思わない人ももちろんいるだろう)たるや。他の社員との「繋がり」、社内のアクティビティーへの参加をやんわりと強要されるのだが、もうこの部分だけで御社悪い意味でやばいです・・・という気分に。オフィシャルとパーソナルの領域の切り分けを許さない社風なのね。サークル社が目指すのがそういった「繋がる」社会だというのなら、私にとっては地獄だわ・・・。


ザ・サークル (上) (ハヤカワ文庫 NV エ 6-1)
デイヴ エガーズ
早川書房
2017-10-14


ザ・サークル 下 (ハヤカワ文庫 NV エ 6-2)
デイヴ エガーズ
早川書房
2017-10-14



『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』

 高度な知能を得た猿=エイプたちと人類が全面戦争に突入して2年。エイプたちのリーダー、シーザー(アンディ・サーキス)は砦の奇襲を受け、妻子を殺される。砦を襲った軍のリーダー・大佐(ウッディ・ハレルソン)への復讐心に駆られ、シーザーは数名の仲間と共に大佐を追う。監督はマット・リーブス。
 『猿の惑星:創世記』、『猿の惑星:新世紀』に続く3作目で完結編。私は創世記も新世紀も見ていない(さらに言うと元祖『猿の惑星』も細部は記憶にない)のだが、本作単品でも設定はわかるし結構面白かった。もう少し短ければもっと良かったかなと思う。本作、かなり重厚な雰囲気がベースにあるので、所々で挿入されるコメディ的部分が浮いており、余分な部分に見えるのだ。
 このシリーズ、SFというよりも神話的な側面の方が強いんだなと本作を見て感じた。前2作はについてはわからないが、本作はエイプたちのエクソダスであり、建国神話だ。人類の話を猿に置き換えました、という感じ。シーザーの思考方法や内面は全く「人」としてのものなので、人類とは別の種の進化過程という感じには見えない。なので、エイプたちもこのまま進化を続けると人類と同じような道を辿るのでは、とも思える。シーザーを特権的な存在にしているのが明瞭な音声を使った言語の習得であり、人類がそれを失いつつあるというのも象徴的。しかし、人間と同じような言語の習得がエイプたちを進化の次の段階に推し進めるのだったら、やはり人類の別バージョンにすぎないのでは?ともやもやした。そういう部分のおおらかさというか、あまり細部を詰めていない感じは、やはり「神話」だからだろうなぁ。エイプたちの食糧事情とかもかなり気になったし・・・。
 シーザーの敵として立ちはだかる大佐が、分かりやすく悪人というわけではないところが、作品の厚みを加えている。大佐の造形は、コンラッドの小説『闇の奥』のクルツや、フランシス・フォード・コッポラ監督『地獄の黙示録』のカーツ大佐(そもそも『地獄の黙示録』は『闇の奥』を下敷きにしているので当然ではある)に通じるものがある。カリスマのあるイカれた人に見えるが、イカれた人なりの理論があってそこは筋道が通っている。ハレルソン、最近ちょいちょいいい味を出してくるが、本作の役はかなり怖かった。

猿の惑星:新世紀(ライジング) [Blu-ray]
アンディ・サーキス
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2015-11-25

猿の惑星:創世記(ジェネシス) [Blu-ray]
ジェームズ・フランコ
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2014-09-03

『サーミの血』

 1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族サーミ人の少女エレ・マリャ(レーネ・セシリア=スパルロク)は、妹と共に寄宿学校に通っていた。エレ・マリャが進学を望むが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と取り合わない。当時、サーミ人は差別的な扱いを受けており、部族の伝統的な生活以外の人生は認められなかった。エレ・マリャは今の生活から抜け出す為、クリスティーナと名乗りダンスパーティーで知り合った青年ニクラスの家を頼って街へ向かう。監督はアマンダ・ケンネル。
 サーミ人の子供たちにたいして行われる「身体測定」がショックだった。何の目的か、何をするのか説明されず、おもむろに身体や顔のパーツを図られ、裸にさせられ写真を撮られる。同等な人間ではなく、保護すべき動物のような扱いなのだ。教師が「あなたたちの脳は文明に適応できない」と言うのもショックだったが、当時の先住民に対する理解はそんなものだったのだ。衣服や顔を触られるのも、相手に悪意はないのだろうが(だからなおさら。断りなく触っていい対象だと思っているってことだから)非常に不愉快。見世物の動物みたいに「観賞」されるのだ。サーミ族が伝統的な生活を送れるよう保護していると言えば聞こえはいいが、それ以外の道を閉ざすという差別をしているわけだ。エレ・マリャが都会で出会った学生たちは無邪気に民謡を歌ってとねだるが、その民謡が本来どういう場で歌われる、彼女にとってどういう意味を持つものなのかは全く考慮されていない。やはり見世物扱いなのだ。
 エレ・マリャは自分たちが見世物として扱われていると感じており、見世物としてではない人生を選ぼうとする。彼女はそのために家族も伝統も故郷も捨てる。自分のルーツを否定して「クリスティーナ」としての人生を選ぶのだ。彼女の取った方法は極端で、現代の目で見ると(当時としてもか)色々と問題がある。そのやり方だと、差別される側からする側への移動にすぎず、差別や無理解はそのままだ。実際、年を取ったエレ・マリャ=クリスティーナは、かつて自分が侮蔑されたのと同じような言葉を、サーミ族に対して投げかける。ただ、当時他にやり方があったかというと、多分なかったのだろう。欲しい物を手に入れるために自分の出自やそれまでの生活を否定しなければならない、ある意味嘘の人生を歩むことになるというのは、あまりに理不尽だ。
 とは言え、エレ・マリャ=クリスティーナの家族を捨てても自分の道を歩もうとする頑固さ、タフさは心を打つ。初めて街に出てきた時の、新しい世界を見た!これが見たかったんだ!というような表情が清々しかった。



サーミ人についての話 (東海大学文学部叢書)
ヨハン トゥリ
東海大学出版会
2002-03-01

『散歩する侵略者』

 数日間行方不明になっていた夫・加瀬真治(松田龍平)が別人のようになって帰ってきたことに妻・鳴海(長澤まさみ)は戸惑う。同じ頃、一家惨殺事件が発生し、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)は事件の生き残りである少女・立花あきら(恒松祐里)を追っていた。そんな桜井に天野(高杉真宙)が声を掛けてくる。自分とあきらは地球を侵略しにきた宇宙人で、桜井にガイドを頼みたいというのだ。一方、鳴海も真治に自分は地球を侵略しにきたと告げられる。原作は前川知大による劇団イキウメの舞台。監督は黒沢清。
 宇宙からの侵略者たちは、人間の「概念」を奪うことで人間らしい振る舞いを獲得していく。概念を奪われた人間はどこか崩れていく。この「概念を奪う→奪われた人はまともでなくなる」という設定はわりとふんわりとしていて、奪われた後どういう影響が出るのかも、人によって違う。なぜこの人のこの概念を?役に立つの?と思う所もあり、なかなか扱いが難しい設定だったのでは。これは映画というよりも、原作の舞台の難点と言った方がいいのかもしれない。同じくイキウメの舞台が原作の映画『太陽』を見た時も私はあまりぴんとこなかったので、もしかしたらイキウメと相性が悪いのかもしれないなぁ・・・。SF的設定の扱いとか終末感の演出が自分と相いれない感じがする(ただ、本作はそういう部分の精密さが求められる類の作品ではない)。
 ただ、真治が牧師(東出昌大)から「愛」の概念を取ろうとする件には笑ってしまったので、このシーンの為だけにでもこの設定でよかったな!と思えた。東出の存在が最早出オチのようだった。彼は決して演技が達者というわけではないんだろうけど、ハマるとものすごい効果を発揮するなぁ。
 脇役の東出のみならず、個々の俳優の存在感、特異さで成立しているような作品だった。主演の松田もまた演技が達者というよりも存在感で魅せる、画面内にいるだけでいい系の俳優という印象だったが、本作を見て、あっこの人しっかりスキルあるんだな!と再発見した感があった。概念を獲得していく度にちょっとづつ立ち居振る舞いが変わっていくのがちゃんとわかる。また、長谷川博己のいるだけで何となくおかしい感じになっていく独自の存在感と身体能力(今回、結構走らされている)も素晴らしい。シリアスなやりとりのはずなのに、彼がやるとどこかユーモラスに見えてくる(声質のせいかなーという気もする)。また、引きこもり青年役の満島真之介のインパクトがすごかった。怪演とも言える。
 身近な人がふっと見知らぬ人になる、あるいは圧倒的な他者が現れるというパターンは黒沢監督作品によく見られるが、本作では全くの異物であった侵略者との間に、何となく親密さのようなもの、何らかの繋がりが生まれていくという所が面白い。夫にある意味擬態している真治と鳴海の組み合わせよりも、そもそも全くの他人でたまたま出会った桜井と天野の組み合わせの方がそれが顕著だった。いやいや相手侵略者だから!と突っ込みたくなるし、桜井も人類が滅べばいいと思っているわけでもない。それでもそこには何らかの繋がりがある。もう損得越えちゃっていると言ってもいいだろう(少なくとも桜井に得はない)。これは、真治が最後に獲得した概念に近いものでもあるような気がするのだ。



ダゲレオタイプの女[Blu-ray]
タハール・ラヒム
バップ
2017-05-03

『三度目の殺人』

 弁護士の重盛(福山雅治)は、殺人前科があり、勤務先の社長を殺したという新たな容疑がかかっている三隅(役所広司)の弁護を担当することになる。社長を殺害後、火をつけたと三隅は自供しており、このままでは死刑は免れないが、動機は曖昧なままだった。重盛は面会と調査を重ねるが、三隅の自供は二転三転していく。監督・脚本は是枝裕和。
 是枝監督は、主語が大きい話を描くのは苦手なんじゃないかなと思った。本作の主人公は重盛だと言っていいし、重要人物はもちろん三隅と言えるだろう。しかし、重盛という個人、三隅という個人の物語になっているかというと、ちょっと違うのではないかと思った。彼らはある思想、観念を表現するための道具であり、手足の代わりのようなものなのではないだろうか。そのせいか、台詞は紋切型が目立ち、「こういう人」というバックグラウンドや人間のディティールには、他の是枝監督作に比べて少々乏しいように思った。会話シーンは概ね退屈なのだが、その中で面白いと思った部分は、重盛と元裁判官である父親のやりとり。距離と不躾さとが混在している感じに、ああ老年の父親と成人した息子のやりとりってこんな感じだろうなという説得力がある。是枝監督の良さ、得意なものは、こういうディティールの部分にあるのだろう。
 本作では真実が曖昧であること、そして司法のシステムの(外部から見た際の)奇妙さが描かれる。真実の曖昧さについては、ご丁寧に「盲人と象」の例えが持ち出され、そういう所はやたらとわかりやすくするんだ・・・とちょっとおかしくなってしまった。しかし、三隅の真実を追求するという部分と、司法システムの奇妙さ・限界を見せる部分とが、一つの映画として意外と噛み合っていないように思った。三隅を巡る部分は多分に不条理劇のようなのだが、司法の不条理とは質が違う。司法の不条理は、物事を処理していく上での合理性が逆に司法の本来の目的から逸れていくという所にあるのだろう。原因がまあわかっていると言える。しかし、三隅の不条理さはそれとは違う。そもそも原因などわからない類のものだ。この2種の不条理さを一緒にしたことで、何とも座りの悪い作品になっているように思った。意図した座りの悪さ(「藪の中」的な座りの悪さは意図したものだろう)ではなく、監督の意図しない部分での噛み合っていなさなのではないか。すっきりしない、ではなく設計されきれていない、という印象だった。絵の魅力に乏しいのも残念。やはり紋切型で、ラストシーンなどなぜそんなベタなメタファーを・・・といっそ不思議なくらい。面白いことは面白かったのだが、あとちょっとでもっと面白くなるはずなのにそれがどこだかわからない、というもどかしさが拭えなかった。



DISTANCE(ディスタンス) [DVD]
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2002-06-25

『ザ・マミー』

 
(一部訂正しました)
古代エジプトの王女アマネット(ソフィア・ブテラ)は、次期女王にするという約束を破った父王を恨み、死の神セトと契約して父王とその妃、生まれたばかりの王子を殺害。その報いとして生きたまま棺に葬られ封印された。そして2000年後、米軍兵のニック・モートン(トム・クルーズ)と考古学者ジェシー・ハルジー(アナベル・ウォーリス)は古代メソポタミアにあたる現代の中東地域で石棺を発見。輸送機でイギリスに持ち返ろうとするが、トラブルにより墜落し、石棺は行方不明になってしまう。監督はアレックス・カーツマン。
 なんだか大味なストーリーだなー、第一これは「マミー」ではないんじゃ・・・(言うほどミイラが活躍しない。そもそもミイラというよりもゾンビなのでは)と思っていたら、監督はトランスフォーマーシリーズ(『トランスフォーマー』『トランスフォーマー/リベンジ』)の脚本書いた人だったのね・・・うん、じゃあしょうがない!世間ではあまり評判芳しくない本作、確かにストーリーが直線的でキレには乏しいのだが、私はそんなに悪いとは思わなかった。全ての映画を気合入れてすごく楽しみにして見に行くわけではないので、空き時間にぷらっと見に行って何も考えずに見られる娯楽作って、それなりに価値があると思う。非難されているとしたら、本作がミイラが出てくるホラー映画ではない、あまりドキドキしない(だからぼーっと見るにはちょうどいいんだけど)という所ではないか。
 とは言え、トム・クルーズが主演していると他の部分がぐだぐだでも「トム・クルーズ映画」として立ち位置が定まるので、やはりトム・クルーズは偉い。本作ではヌードまで披露して頑張っている。近年はコミカルな顔芸も見せているトムだが、本作もコメディっぽい演出が結構多い(劇場内で殆ど笑いが起きていなかったのが痛いが・・・)。冒頭のドタバタ展開はジャッキー・チェンの映画みたいだった。演じるニックというキャラクターは、取り柄が顔だけなくそったれとして登場するので、最近のトム主演作としては珍しいパターンなのかもしれない。
しかしトム・クルーズがかすむ勢いでソフィア・ブテラが最高だった。アマネットは悪い!強い!美しい!の三拍子が揃った悪役なのでもっと見たかったなぁ。絶対後悔してなさそうなところがいい。

ミイラ再生 [DVD]
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2012-10-24

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2007-05-25


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