3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『3人の夫』

 配信で鑑賞。船の上で年老いた「父」と暮らす娼婦のムイ(クロエ・マーヤン)は、情人離れした性欲で次々と客を取っていた。彼女に恋した青年は彼女の「父」を口説き落として結婚し、陸上で新婚生活を始める。しかしムイの性欲は留まることがなく、また地上での生活にもなじめない様子だった。監督はフルーツ・チャン。
 とにかく男女が頻繁にセックスしている作品なのだが、ムイにとってはやらないと体調が悪くなる、死ぬくらいの必死さなので、あまりハッピーな感じではない。ムイにとっての自然な生き方は一般的な社会の中では不自然と捉えられる。また、彼女をとりまく3人の「夫」は協力して売春ビジネス(当然ムイを売るわけだが)を始め、ファミリービジネスとして勝手に盛り上がっていく。その盛り上がりはコミカルではあるが、ムイの意思を確認しようという様子が全然ないので少々気持ち悪い。
 とは言え、ムイの意思、彼女が自分をどう位置付けて何を感じているのかということは、一貫して示されない。もちろん彼女にも意思はあるのだが、それを他の人間がうかがい知ることが難しい。別の言語、別のルールで生きている存在のように見える。青年は彼女を伝説の人魚と重ねるが、まさに人魚のような異界の存在で、普通の人間社会からははみ出ている。海の上ではあんなに妖艶だったのに、陸で生活するうちどんどん色あせていく(撮影と演じるマーヤンの上手さが映える)のも人魚のようだ。海に帰りたくて彼女は暴れるのかもしれない。終盤、3人の夫たちは、彼女と共に異界に入っていくようにも思えた。最初はカラフルだった映像がどんどんモノクロに近づいていくのも、異界に近づいていく過程のようだった。
 ただ、ムイが「夢の女」すぎて今時これかと鼻につくところはある。意思疎通のできない、勝手に動いていく女という点では古典的な夢の女ではないと言えるが、性的な存在として都合がよすぎるようには思う。

三人の夫(字幕版)
チン・マンライ
2019-10-19


ハリウッド★ホンコン [DVD]
ウォン・ユーナン
レントラックジャパン
2003-12-19


『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』

 ダウン症の青年ザック(ザック・ゴッツァーゲン)は長年の夢だったプロレスラーの養成学校に入る為、施設を脱走する。その道中で漁師のタイラー(シャイア・ラブーフ)と出会い旅を共にするが、彼は漁師仲間の獲物を盗み網に火をつけたことで追われる身だった。ザックを追ってきた介護士のエレノア(ダコタ・ジョンソン)も加わり、ザックを目的地に送り届けようとする。監督はタイラー・ニルソン&マイケル・シュワルツ。
 ザックが暮らしているのはどうやら老人ホームらしいのだが、高齢者介護と障碍者支援とは別のスキルを必要とするものだろう。多分、他に手近な施設がないから無理やり入れられているんだろうが、ザックに適切な手助けをしてくれる、あるいは適切な施設を手配してくれる家族が介助者がいないということなのだろう。エレノアはザックのことを気にかけてはいるが、過保護すぎて彼に出来ることを見落としている。見た限りではザックは身の回りのことはそこそこ自分で出来るし、つきっきりでケアをしなければならないというわけでもない。ザックは自分が本来がいるべきではない場所から脱出したのだと言える。
 タイラーも同様で、地元の漁師仲間との関係は修復しようがない。彼の自暴自棄な振る舞いは兄の死によるものだとわかってくる。兄がタイラーにとってのいるべき場所で、彼はその場所を失ってしまったのだ。エレノアについても、タイラーと同様に大切な人と離別している。居場所をなくした人たちが自分がいるべき場所を見つけにいくロードムービーだと言える。いるべき場所とは具体的な場があるというよりも、ここは自分がいるべき場所だと思わせてくる人がいるかどうかなのだろう。
 心温まるストーリーではあるのだが、話の軸もディティールもわりとぼんやりしている。3人の間に何で信頼関係が成立したのかという描写が大分ふわっとしており、多分にご都合主義的だ。そんな簡単に流されちゃうの?!という感じは否めない。全体的に散漫な所が残念だ。音楽も含め、アメリカ南部の風土には魅力があるので勿体ない。なお、シャイア・ラブーフ出演作を久々に見たのだが、年齢重ねて痩せてきたらクリスチャン・ベールに似てきた気がする。

ザ・ピーナッツバター・ファルコン [Blu-ray]
トーマス・ヘイデン・チャーチ
Happinet
2020-08-05



ハックルベリー・フィンの冒けん
マーク・トウェイン
研究社
2017-12-19


『PSYCO-PASS3 FIRST INSPECTOR』

 2120年、シビュラシステムによって管理された社会。刑事の慎導灼(梶裕貴)と炯・ミハイル・イグナトフ(中村悠一)は連続テロ事件の背後にある陰謀、そして過去の灼の父の死の謎と炯の兄の死の謎を追い続けていた。ある陰謀の為に暗躍する梓澤廣一(堀内賢雄)は、刑事課職員たちを人質にとり公安局ビルを占拠。人質を解放する条件として都知事・小宮カリナ(日笠陽子)の辞任を求めてくる。監督は塩谷直義。脚本はTVシリーズから引き続き冲方丁・深見真。
 TVシリーズの3シーズン目最終回から直接つながっているストーリーなので、基本的にシリーズを追ってきた人向け。そういう意味では劇場版作品というよりシリーズの一環としてイベント的に劇場上映したという体なのだろう(実際、劇場では2週間限定上映でメインは配信だし)。でも、だったら全部ちゃんとTVシリーズとして放送してほしかったな…。しかもきれいに完結するわけではなく、もうちょっと続くよ!アピールを残した終わり方なので。どちらにしろ続きがリリースされれば見るつもりだけど、メディア・形態を変えつつずるずる続けるというのは個人的にはあまり好きではない。とは言え、それと本作が面白いかどうかは別問題だが(面白いです)。またシリーズを見続けてきた人にとっては、この人はこういう風に変化したのか等、感慨深い部分も多いと思う。
 とは言えこのシリーズ、作品のクオリティとは別問題として本来は自分の嗜好にはそんなに沿っていないんだなということの確認にもなった。本シリーズはシビュラという高クオリティ管理社会システムとでもいうべきものの管理下にある社会と、そのシステムの中で適応する、あるいは適応しきれなかったりすり抜けたりする人々を描いてきた。そしてシリーズ3ではシュビラの盲点をついて「ゲーム」を行い勝ち残ろうとするグループが登場する。ディストピアSFとして王道と言えば王道、それなりに面白いが、私個人はシステムの中で生き残ることやシステムを出し抜くこと、ゲームをする・ゲームに勝ち抜くことにあんまり興味がない。本作に限らずゲームのルールを掌握することやシステムの穴を突くストーリー、特権的な視点が物語世界を俯瞰する構造に一種の全能感を持つ観客は多そうだが、個人的にははまらない。なので、作中で梓澤が持っている願望は随分と退屈なものに思えた。それ、何か楽しい…?
 では自分が本シリーズ(特にSinners of the System以降)の何が好みと言ったら、やはりアニメーション表現の部分、特にアニメーションで実写的な組み立てのアクション演技をどう見せるかという部分だ。一連のアクションがどうつながっているのかわかるよう、キャラクターの全身を見せてくれるあたりが楽しい。この点は、俳優(ないしはスタントマン)の身体能力に依存する実写よりも有利かもしれない。ヘリや宜野座の義手を使ったアクションシーン等、やりたかったんだろうなぁ。ストーリー上そんなに必然性ないから。


『37セカンズ』

 ユマ(桂山明)は出生時に37秒間呼吸ができなかった為、脳性麻痺を患い、車椅子生活をしている。幼馴染の漫画家のゴーストライターをする傍ら、自分の作品をアダルト漫画専門誌に持ち込むが、リアルな体験がないと良い作品は描けないと編集長に言われてしまう。実際にセックスを体験しようと街に出たユマは、障碍者専門の娼婦・舞(渡辺真起子)やヘルパーの俊哉(大東駿介)と出会い世界を広げていく。しかし母・恭子(神野三鈴)は激怒する。監督・脚本はHIKARI。
 最初、ユマに対する恭子の接し方が、娘が身障者で介助が必要とは言え、22歳の人間相手にちょっと子ども扱いしすぎではないか?とひっかかったのだが、彼女の過保護さがこの後どんどん示されていく。ユマは実は時間がかかるけど一人で着替えはできるし、シャワーも浴びられるということが一方で提示されるのだ。彼女はおそらく、恭子が思っているよりもしっかりしているし自分の考えを持っている。漫画を描くためにセックスをしたいと即行動に移すユマの思い切りの良さ、舵の切り方の極端さにはハラハラするし、「私のことなんか誰も見ない」という彼女の言葉には、そういうことじゃないんだよ!(性的な側面以外からも加害する人はいるし事故だってある)と母親ならずとも言いたくもなる。
 とは言え大事なのは、ユマがしたいのであればセックスなりなんなりしてみていいし、身体的な問題を理由に選択肢を狭められる、世界を狭められる筋合いはないじゃないかということだ。そのために手助けを頼んだっていい。舞や俊哉のような人はそのためにいるのだから。もちろん難しいこともあるだろうけど、最初から無理だと言われるのはちょっと違うよなと。これは障碍だけでなく全ての人に言えることだろう。あなたはこのカテゴリーに入っているからこれをやるべきではない、という決めつけはおかしいのだ。「ためにならない」ことをやっても別にいいだろう。
 ユマは自分にもう一つの人生、障碍のない人生があったのではと思わざるを得ないし、その上で「私でよかった」と言うに至る。しかしもう一人の「彼女」にとっては、自分こそが選ばれなかった側、ある人から捨てられた側だという思いがあるのではないだろうか。もう一つの人生は、彼女にとっても思いを巡らさざるを得ないものだったのではないかと。
 なお作中、エンドロールでCHAIの楽曲が使用されているが、これは圧倒的に正しい!本作が目指すところが明示されている、いい選曲だと思った。


『囀る鳥ははばたかない The clouds gather』

 被虐趣味を持ち様々な男と関係を持ってきた真誠会若頭の矢代(新垣樽助)の配下に、雑用係として百目鬼(羽田野渉)がやってくる。矢代は百目鬼をなんとなく気にいり、からかいつつ傍に置くものの、距離を保つ。百目鬼は愚直に矢代に従いながら、自己矛盾を抱える彼に惹かれていく。原作はヨネダコウの同名漫画。監督は牧田佳織。
 超人気かつ名作BL漫画のアニメ化。私は原作は読んでいるものの、アニメ化された本作について事前情報をあまり入れていなかったので(ネタバレというわけではないので書いてしまうが)、最後の最後であっこれ続くんだ!と気付いた(原作連作中だからそりゃそうだろうという話なのだが)。まあ次作も見ますけれども…。
 原作と原作ファンを尊重した丁寧な映像化だと思うのだが、それが映像化として面白くなっているのかというと、ちょっと微妙な所だと思う。もちろん原作のストーリーが面白いからそれに沿って作って作っている以上一定水準の面白さはあるのだが、絵が動くという、アニメーションならではの面白みみたいなものはあまり感じない。原作の絵の通りですね、このシーンはあのコマですねという感想になってしまう。そもそも原作は物理的な動き=運動の多い作品ではないから、アニメーション化に向いているかというと、ちょっと微妙なのでは。コマ内が割と静止画寄りというか、コマとコマとの間にあまりダイナミックな動きの演出はないように思う。それが整理された読みやすさに繋がっているのだが。原作の魅力であるモノローグも、映像化した時にはもっと削っていいのではとも思った。そのモノローグが表現するものを映像として見せてほしいんだよな。
 とは言え、映像化されて本作が持つメロドラマ要素が際立ってきたところは面白い。メロウ寄りな音楽の効果もあるのだろうが、言葉を音声化することで強調されるものがあるんだなと再認識した。百目鬼は矢代のことをきれいだと言うのだが、BL漫画だとこれは常套句なので読者側はわりと流してしまいがちなように思う。しかし映像と音声で表現されると、男性に対してこの表現を使うことってあまりないなと(使って全然良いと思うけど)現実に引き戻される。と同時に、百目鬼にとってこの「きれいだ」という表現は非常に特別なもの、彼にとって矢代は何か代えがたいものなんだなと伝わってくるのだ。


どうしても触れたくない [DVD]
米原幸佑
ポニーキャニオン
2014-09-17



『サヨナラまでの30分』

 バンド「ECHOLL」でのデビューを目前に事故死したアキ(新田真剣佑)。彼が残したカセットレコーダーを拾った大学生の颯太(北村匠海)は、中のカセットテープを再生してみる。すると30分だけアキが颯太の体を借りて入れ替わる。2人は颯太の体を共有し、ECHOLL再結成の為に奔走する。しかし2人が入れ替われる時間は段々短くなっていく。監督は萩原健太郎。
 予想外の良さでびっくりした。若手人気俳優を起用した、さわやかな若年層向け作品ではあるのだろうが、カセットテープというレトロ(最近復権してきたけど)なモチーフを使っているところが面白い。再生時間の制限や「巻き戻し」という仕組みが入れ替わりシステムとリンクしており、カセット世代にはイメージとしても懐かしいのでは。
 一人でいるのが好きな颯太は、アキによって生活を引っ掻き回される。迷惑がる颯太だが、誰かと一緒に音楽をやる楽しさに目覚め新しい世界に心を開いていく。一方でアキも、颯太を通してかつての仲間や恋人を見ることで、自分の時間が止まっていたことに気付き認識を改めるのだ。颯太が就職活動中というのも要素として利いている。本来の自分を偽装してウケがいいように演じなければならない(と思わされている)から、面接だけ「ウケ」のいいキャラに交代できればなと思ったり、本来の自分の良さを見失ったりしがちな時期で、「入れ替わり」のハードルが下がるのだ。
 2人が変化し一歩を踏み出す物語だが、アキの恋人カナ(久保田紗友)の喪の仕事という側面も踏まえられており、彼女が添え物に甘んじていない所がよかった。バンド内での存在感はそんなにない(彼女のパートがなくても成立しそうな曲だ)ところがちょっと辛かったが。
 作中の楽曲がしっかりしており、「デビュー間近だったバンド」という設定に説得力が出ている。エンドロール曲もストーリーの内容をきちんと踏まえたものにしているあたりにもこだわりを感じた。ライブハウスの集客度合いや地方のフェスの規模感もわりとリアルなのでは。音楽面の演出をちゃんとしようという意欲が感じられた。


[新版]幽霊刑事 (幻冬舎文庫)
有栖川 有栖
幻冬舎
2018-10-10


『さらば青春の光』

 1964年ロンドン。オフィスのメッセンジャーとして働くジミー(フィル・ダニエルズ)は、毎晩ドラッグをキメてクラブで騒ぎ、改造スクーターを乗り回す日々を送っていた。週末に訪れたブライトンで、リーゼントに皮ジャンできめたロッカーズたちとの全面対決が勃発する。監督はフランク・ロッダム。THE WHOの1973年のアルバム「四重人格」を元に、彼らの音楽をふんだんに使い、メンバーもエグゼクティブ・プロデューサーとして参加している。
 ジミーを見ていると、定職についているとはいえそんなに高い給料はもらっていなさそうだし、この人どうやって生活しているんだろう、いくら実家暮らしだとは言え…と思ってしまった。超スリムな(テーラーに無理ですよ!と言われても無理やり細身にする)ジャケットを着てばっちり決め、夜通し遊びまわる生活は、ずいぶんきままで明日のことなど考えていないように見える。ただ、そのきままさは、現状への不安・不満の裏返しなのかもしれない。明日のことは考えないのではなく、考えられないのではとも思えた。
 ジミーは自分自身が何になりたいのか、何が欲しくて何をやりたいのか迷走し続けているように見える。モッズとしてかっこよくありたいのも、女の子といちゃいちゃしたいのも、暴動に乗っかり盛り上がるのも、ふわふわしたイメージ的な願望で頼りない。あまりに刹那的だ。それが当時の時代の雰囲気であり、青春らしさというものなのかもしれないが、現代の若者が見てもあまり共感しなさそうだなとは思った。そもそもモッズとロッカーズの違いがよくわからないだろうし…。あくまで当時の風俗に根差した青春映画。映画ではなく、映画に使われた音楽の方が生き残っている感じがする。

さらば青春の光 [Blu-ray]
フィル・ダニエルズ
ジェネオン・ユニバーサル
2012-12-05


THIS IS ENGLAND [DVD]
トーマス・ターグース
キングレコード
2009-12-09


『サタンタンゴ』

 経済的に行き詰ってうらさびれた、ハンガリーのとある村。死んだはずのイリミアーシュが村に帰ってくるという噂が流れ始める。村人たちは彼が現状を変えてくれるのではと、期待と不安に駆られる。彼は救世主なのか詐欺師なのか。原作はクラスプホルカイ・ラースターの小説。監督・脚本はタル・ベーラ。
 438分という超長尺かつ全約150カットという長回しの連打。だいぶどうかしている、なぜやろうと思った⁈というくらいの力業だが、無理やり感がない、かつエネルギーが途切れないところがすごい。全12章から成る構成は、一見ゆるゆると進むようでいて、あの時実はこういうことが、というパズルのような部分もある。意外とタイト(というには上映時間的に語弊があるんだけど…)だ。モノクロ映画なのだが、4Kデジタルレストア版だと非常にクリアで美しい。白黒なのにどことなく色づいて見えてくるのが不思議だ。
 不思議といえば、構成も撮影も厳密に練りこまれていると思われる(でないとあんなに長回しばかりできないだろう)のに、大雨の後のシーンなのに地面が乾いていたり、ナレーションでは暗闇と言っているのに映像は昼間のようだったりと、整合性のないおおざっぱなところもある。どこを精緻にしてどこをおおらかにするのかという判断基準が見えそうで見えない。
 長時間という体力的な負荷よりも、精神的な負荷の方がきつかった。とにかく精神を削られる。冬の雨が降り続き、町へ出るバスもなくなり、経済も人間関係もどん詰まり、どうにもならない世界なのだ。降り続く雨には世界の終末の気配さえ漂い、神話的な雰囲気が濃厚なのに、どうかすると泥臭くちっぽけな人間同士のいさかいや欲が転がりだす。壮大さと卑小さが同居している。いわゆる人間固有の美点とされるもの、知性や倫理、理性や善良さといったものにあまり信頼をおいていない(本作のような作品を作るという点で観客の知性・感性は信用しているんだろうけど)作品内世界なので、なんとも気が滅入る。気が滅入る話を大変な強度と美しさで見せてくるので破壊力がなんだかすごい。

ニーチェの馬 [DVD]
ボーク・エリカ
紀伊國屋書店
2012-11-24





Satantango
Laszlo Krasznahorkai
Atlantic Books
2013-07-04


『サウナのあるところ』

 自宅や別荘などプライベートなサウナから、街中の公衆サウナまで、様々なサウナが息づく国フィンランド。その様々なサウナで語らう人たちの会話を追ったドキュメンタリー。監督はヨーナス・バリヘル&ミカ・ホタカイネン。
 フィンランドはサウナが盛んという話は聞いていたが、サウナの形態が本当にそれぞれでバラエティに富んでいる。いわゆる北欧の「サウナ」と聞いて連想するようなウッディでこじんまりとした個人宅のものから、森の中の小屋、テント風、キャンピングカーや電話ボックスを改造したもの、街中にある公衆サウナや軍や企業の設備まで。日本のお風呂みたいな感覚で使っているんだろうな。中の温度湿度もまちまちみたいで、サウナといえば汗!というわけでもないみたい。サウナの中では暑すぎ湿度高すぎでゆっくり語らうなんて無理では?と思っていたけれど、これなら大丈夫かなと納得。あまり汗をかいていない人もいる。
 最初に登場する夫婦を除き、登場するのは男性ばかり。そして、かなり立ち入った、その人にとってデリケートなものであろう話をする人が多い。映画の構成として編集時にそういうエピソードをピックアップしているのかもしれないが、サウナだとそれこそ裸の付き合いで話しやすいのだろうか。他にすることないしな…。家族との死別や、子供に会えない(親権を取り上げられた)という話が多い。皆普通の人だし意識してうまく話そうとしているわけではないから、ぽつぽつとエピソードが出てくるという感じなんだけど、ぎこちないからこそダメージの深さの深刻度がわかる気がした。
 北欧は男女平等、ジェンダーのフラット化が進んでいるというイメージがあるが、フィンランドでは男は男らしく、人前で泣くなんてみっともない、弱音をはくな、という文化が根強く残っているようだ。喪失による痛み、悲しみなど心のやわらかい部分を明かせる場がないのだろう。サウナのような密閉空間だと、かろうじてそういう話がしやすいのかもしれない。


旅人は夢を奏でる [DVD]
ヴェサ・マッティ・ロイリ
エプコット
2015-03-06



『サマーフィーリング』

 真夏のベルリンで、30歳のサシャが突然亡くなった。パートナーのロレンス(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)とサシャの妹ゾエ(ジュディット・シュムラ)は茫然とする。それぞれの生活が続くものの、悲しみはなかなか癒えない。監督はミカエル・アース。
 同監督の『アマンダと僕』と同じく、喪の仕事を描く物語だ。舞台は夏のまぶしい光の中だが、どこか寂しい。ロレンスにとってもゾエにとっても異国であるベルリンから、ゾエの故郷であるパリ、ロレンスの故郷であるニューヨークへと1年ごとに舞台は変わる。2人を照らす夏の光も雰囲気もその都度異なる。そして、2人とサシャとの距離、ロレンスとゾエの距離も変わっていく。
 それは少し楽になっていく、日常に立ち返っていくことだが、元に戻るということではない。失われたものはやはり失われたものにほかならず、そこを埋めるものはないのだ。時間がたつにつれ、それがありありと立ち現われてくる。悲しみは薄れるのではなく、距離を取るのが上手くなるだけで依然としてそこにある。ニューヨークでゾエが泣くのは、(現状自分が幸せかどうかとは関係なく)失ったもの、変わってしまったものの動かせなさ、時間の止まらなさを再確認してしまったからではないだろうか。夏の光はいつもまぶしいのだが、どこか寂しい。
 ロレンスとゾエ(とゾエの家族)の関係の微妙さが印象に残った。仲がいい悪いではなく、そもそも面識がろくにない状態からサシャの訃報がきっかけで対面するというのは、お互いどう振る舞うのが正解なのかわからないだろう。会食の席でのロレンスの居心地が悪そうな表情が忘れられない。こういう時って何かしら言い訳を造って帰りたくなっちゃうよな・・・。
 なお、ロレンスには姉がいるのだが、姉弟の関係はかなり親密そう。『アマンダと僕』の主人公にも親密な姉がおり、どちらの作品でも親とは疎遠、というよりも親からのケアが希薄だから姉弟の絆が強固になったという設定が透けて見えた(本作では、父親が仕事で不在がちで、いなくなった母の代りに姉がロレンスの世話をしていたと明言されている)。この設定は監督(ないしは身近な人)の実体験が反映されているのかなとちょっと気になった。

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2004-07-02




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2019-03-06
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