3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ザ・サークル』

 派遣社員をしていたメイ・ホランド(エマ・ワトソン)は親友アニー(カレン・ギラン)の尽力を得て、世界最大手の巨大SNS企業「サークル」に就職する。新サービス「シーチェンジ」のモデルケースに抜擢されたメイは、サークル社が新たに開発した超小型カメラによって自身の生活を24時間公開する。コンテンツは大人気でフォロワーは1000万人越え、メイは世界中の人気者になる。やがてサークル社は、世界中に設置したカメラとフォロワーの力によって、会いたい人をすぐに探し出せるというサーチサービスを発表する。原作はデイヴ・エガーズの同名小説。監督はジェームズ・ポンソルト。
 見ている間は退屈というわけではないが、見終わった後の印象が薄い。サークル社やそのサービスの設定には既視感がある(実際に類似した設定が出てくる過去のSF作品は色々とあるだろう)。そのもう一歩先へ、というほどの踏込みは感じられなかった。現実の世界もこれに似た状況に近づきつつある(私に実感がないだけでかなり近いのかもしれないけど)んだろうし、新しさみたいなものはあまり感じない。少し未来の世界設定を描きたいのか、メイという人間とその周囲の人間を描きたいのか、どっちつかずでどちらも薄味に思えた。あまり人間ドラマに寄って行っても面白くない類の話ではあるのだが、少し未来の世界を見せるには実際の現状に近すぎるのかな。また、サスペンス部分が少々大味(チートキャラを出すとシステム上簡単に話終わっちゃう・・・)。
 現実的にも、諸々可視化され、記録され、その引換として利便さ・安全さが提供されるという社会への違和感は、10数年前に比べると大分薄くなっているように思う。作中、子供にチップを埋めて犯罪被害に遭わないか監視するという社員に対して、メイは最初冗談かと思う。しかし社員は大真面目だ。プライバシーと安全・利便を天秤にかけると、安全・利便の方が(特にテロが頻発するようになった世の中では)重く見られるのはしょうがないのかもしれない。とは言え、実際には現状ではまだ気持ち悪さを感じる人の方が多いのかなと思う。本作はそのもう少し先を描いているのだ。
 作中の世界では、個人、プライベートの有り方が従来とはどんどん変質してきている。ここは他人に見られたくない、明かしたくないという領域は誰しもあるだろう。しかしなぜ見られたくないのか、明かしたくないのかという部分は、合理的な説明がしにくい。サークルはそこに付け込んでいるとも言える。これは人間個々の感性・環境によって違うとしか言いようがなく、それを統一されたらすごくストレス感じる人も多いだろう。サークルに入社したばかりのメイに同僚2人が「ガイダンス」に来るのだが、この2人の胡散臭さ(そう思わない人ももちろんいるだろう)たるや。他の社員との「繋がり」、社内のアクティビティーへの参加をやんわりと強要されるのだが、もうこの部分だけで御社悪い意味でやばいです・・・という気分に。オフィシャルとパーソナルの領域の切り分けを許さない社風なのね。サークル社が目指すのがそういった「繋がる」社会だというのなら、私にとっては地獄だわ・・・。


ザ・サークル (上) (ハヤカワ文庫 NV エ 6-1)
デイヴ エガーズ
早川書房
2017-10-14


ザ・サークル 下 (ハヤカワ文庫 NV エ 6-2)
デイヴ エガーズ
早川書房
2017-10-14



『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』

 高度な知能を得た猿=エイプたちと人類が全面戦争に突入して2年。エイプたちのリーダー、シーザー(アンディ・サーキス)は砦の奇襲を受け、妻子を殺される。砦を襲った軍のリーダー・大佐(ウッディ・ハレルソン)への復讐心に駆られ、シーザーは数名の仲間と共に大佐を追う。監督はマット・リーブス。
 『猿の惑星:創世記』、『猿の惑星:新世紀』に続く3作目で完結編。私は創世記も新世紀も見ていない(さらに言うと元祖『猿の惑星』も細部は記憶にない)のだが、本作単品でも設定はわかるし結構面白かった。もう少し短ければもっと良かったかなと思う。本作、かなり重厚な雰囲気がベースにあるので、所々で挿入されるコメディ的部分が浮いており、余分な部分に見えるのだ。
 このシリーズ、SFというよりも神話的な側面の方が強いんだなと本作を見て感じた。前2作はについてはわからないが、本作はエイプたちのエクソダスであり、建国神話だ。人類の話を猿に置き換えました、という感じ。シーザーの思考方法や内面は全く「人」としてのものなので、人類とは別の種の進化過程という感じには見えない。なので、エイプたちもこのまま進化を続けると人類と同じような道を辿るのでは、とも思える。シーザーを特権的な存在にしているのが明瞭な音声を使った言語の習得であり、人類がそれを失いつつあるというのも象徴的。しかし、人間と同じような言語の習得がエイプたちを進化の次の段階に推し進めるのだったら、やはり人類の別バージョンにすぎないのでは?ともやもやした。そういう部分のおおらかさというか、あまり細部を詰めていない感じは、やはり「神話」だからだろうなぁ。エイプたちの食糧事情とかもかなり気になったし・・・。
 シーザーの敵として立ちはだかる大佐が、分かりやすく悪人というわけではないところが、作品の厚みを加えている。大佐の造形は、コンラッドの小説『闇の奥』のクルツや、フランシス・フォード・コッポラ監督『地獄の黙示録』のカーツ大佐(そもそも『地獄の黙示録』は『闇の奥』を下敷きにしているので当然ではある)に通じるものがある。カリスマのあるイカれた人に見えるが、イカれた人なりの理論があってそこは筋道が通っている。ハレルソン、最近ちょいちょいいい味を出してくるが、本作の役はかなり怖かった。

猿の惑星:新世紀(ライジング) [Blu-ray]
アンディ・サーキス
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2015-11-25

猿の惑星:創世記(ジェネシス) [Blu-ray]
ジェームズ・フランコ
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2014-09-03

『サーミの血』

 1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族サーミ人の少女エレ・マリャ(レーネ・セシリア=スパルロク)は、妹と共に寄宿学校に通っていた。エレ・マリャが進学を望むが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と取り合わない。当時、サーミ人は差別的な扱いを受けており、部族の伝統的な生活以外の人生は認められなかった。エレ・マリャは今の生活から抜け出す為、クリスティーナと名乗りダンスパーティーで知り合った青年ニクラスの家を頼って街へ向かう。監督はアマンダ・ケンネル。
 サーミ人の子供たちにたいして行われる「身体測定」がショックだった。何の目的か、何をするのか説明されず、おもむろに身体や顔のパーツを図られ、裸にさせられ写真を撮られる。同等な人間ではなく、保護すべき動物のような扱いなのだ。教師が「あなたたちの脳は文明に適応できない」と言うのもショックだったが、当時の先住民に対する理解はそんなものだったのだ。衣服や顔を触られるのも、相手に悪意はないのだろうが(だからなおさら。断りなく触っていい対象だと思っているってことだから)非常に不愉快。見世物の動物みたいに「観賞」されるのだ。サーミ族が伝統的な生活を送れるよう保護していると言えば聞こえはいいが、それ以外の道を閉ざすという差別をしているわけだ。エレ・マリャが都会で出会った学生たちは無邪気に民謡を歌ってとねだるが、その民謡が本来どういう場で歌われる、彼女にとってどういう意味を持つものなのかは全く考慮されていない。やはり見世物扱いなのだ。
 エレ・マリャは自分たちが見世物として扱われていると感じており、見世物としてではない人生を選ぼうとする。彼女はそのために家族も伝統も故郷も捨てる。自分のルーツを否定して「クリスティーナ」としての人生を選ぶのだ。彼女の取った方法は極端で、現代の目で見ると(当時としてもか)色々と問題がある。そのやり方だと、差別される側からする側への移動にすぎず、差別や無理解はそのままだ。実際、年を取ったエレ・マリャ=クリスティーナは、かつて自分が侮蔑されたのと同じような言葉を、サーミ族に対して投げかける。ただ、当時他にやり方があったかというと、多分なかったのだろう。欲しい物を手に入れるために自分の出自やそれまでの生活を否定しなければならない、ある意味嘘の人生を歩むことになるというのは、あまりに理不尽だ。
 とは言え、エレ・マリャ=クリスティーナの家族を捨てても自分の道を歩もうとする頑固さ、タフさは心を打つ。初めて街に出てきた時の、新しい世界を見た!これが見たかったんだ!というような表情が清々しかった。



サーミ人についての話 (東海大学文学部叢書)
ヨハン トゥリ
東海大学出版会
2002-03-01

『散歩する侵略者』

 数日間行方不明になっていた夫・加瀬真治(松田龍平)が別人のようになって帰ってきたことに妻・鳴海(長澤まさみ)は戸惑う。同じ頃、一家惨殺事件が発生し、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)は事件の生き残りである少女・立花あきら(恒松祐里)を追っていた。そんな桜井に天野(高杉真宙)が声を掛けてくる。自分とあきらは地球を侵略しにきた宇宙人で、桜井にガイドを頼みたいというのだ。一方、鳴海も真治に自分は地球を侵略しにきたと告げられる。原作は前川知大による劇団イキウメの舞台。監督は黒沢清。
 宇宙からの侵略者たちは、人間の「概念」を奪うことで人間らしい振る舞いを獲得していく。概念を奪われた人間はどこか崩れていく。この「概念を奪う→奪われた人はまともでなくなる」という設定はわりとふんわりとしていて、奪われた後どういう影響が出るのかも、人によって違う。なぜこの人のこの概念を?役に立つの?と思う所もあり、なかなか扱いが難しい設定だったのでは。これは映画というよりも、原作の舞台の難点と言った方がいいのかもしれない。同じくイキウメの舞台が原作の映画『太陽』を見た時も私はあまりぴんとこなかったので、もしかしたらイキウメと相性が悪いのかもしれないなぁ・・・。SF的設定の扱いとか終末感の演出が自分と相いれない感じがする(ただ、本作はそういう部分の精密さが求められる類の作品ではない)。
 ただ、真治が牧師(東出昌大)から「愛」の概念を取ろうとする件には笑ってしまったので、このシーンの為だけにでもこの設定でよかったな!と思えた。東出の存在が最早出オチのようだった。彼は決して演技が達者というわけではないんだろうけど、ハマるとものすごい効果を発揮するなぁ。
 脇役の東出のみならず、個々の俳優の存在感、特異さで成立しているような作品だった。主演の松田もまた演技が達者というよりも存在感で魅せる、画面内にいるだけでいい系の俳優という印象だったが、本作を見て、あっこの人しっかりスキルあるんだな!と再発見した感があった。概念を獲得していく度にちょっとづつ立ち居振る舞いが変わっていくのがちゃんとわかる。また、長谷川博己のいるだけで何となくおかしい感じになっていく独自の存在感と身体能力(今回、結構走らされている)も素晴らしい。シリアスなやりとりのはずなのに、彼がやるとどこかユーモラスに見えてくる(声質のせいかなーという気もする)。また、引きこもり青年役の満島真之介のインパクトがすごかった。怪演とも言える。
 身近な人がふっと見知らぬ人になる、あるいは圧倒的な他者が現れるというパターンは黒沢監督作品によく見られるが、本作では全くの異物であった侵略者との間に、何となく親密さのようなもの、何らかの繋がりが生まれていくという所が面白い。夫にある意味擬態している真治と鳴海の組み合わせよりも、そもそも全くの他人でたまたま出会った桜井と天野の組み合わせの方がそれが顕著だった。いやいや相手侵略者だから!と突っ込みたくなるし、桜井も人類が滅べばいいと思っているわけでもない。それでもそこには何らかの繋がりがある。もう損得越えちゃっていると言ってもいいだろう(少なくとも桜井に得はない)。これは、真治が最後に獲得した概念に近いものでもあるような気がするのだ。



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『三度目の殺人』

 弁護士の重盛(福山雅治)は、殺人前科があり、勤務先の社長を殺したという新たな容疑がかかっている三隅(役所広司)の弁護を担当することになる。社長を殺害後、火をつけたと三隅は自供しており、このままでは死刑は免れないが、動機は曖昧なままだった。重盛は面会と調査を重ねるが、三隅の自供は二転三転していく。監督・脚本は是枝裕和。
 是枝監督は、主語が大きい話を描くのは苦手なんじゃないかなと思った。本作の主人公は重盛だと言っていいし、重要人物はもちろん三隅と言えるだろう。しかし、重盛という個人、三隅という個人の物語になっているかというと、ちょっと違うのではないかと思った。彼らはある思想、観念を表現するための道具であり、手足の代わりのようなものなのではないだろうか。そのせいか、台詞は紋切型が目立ち、「こういう人」というバックグラウンドや人間のディティールには、他の是枝監督作に比べて少々乏しいように思った。会話シーンは概ね退屈なのだが、その中で面白いと思った部分は、重盛と元裁判官である父親のやりとり。距離と不躾さとが混在している感じに、ああ老年の父親と成人した息子のやりとりってこんな感じだろうなという説得力がある。是枝監督の良さ、得意なものは、こういうディティールの部分にあるのだろう。
 本作では真実が曖昧であること、そして司法のシステムの(外部から見た際の)奇妙さが描かれる。真実の曖昧さについては、ご丁寧に「盲人と象」の例えが持ち出され、そういう所はやたらとわかりやすくするんだ・・・とちょっとおかしくなってしまった。しかし、三隅の真実を追求するという部分と、司法システムの奇妙さ・限界を見せる部分とが、一つの映画として意外と噛み合っていないように思った。三隅を巡る部分は多分に不条理劇のようなのだが、司法の不条理とは質が違う。司法の不条理は、物事を処理していく上での合理性が逆に司法の本来の目的から逸れていくという所にあるのだろう。原因がまあわかっていると言える。しかし、三隅の不条理さはそれとは違う。そもそも原因などわからない類のものだ。この2種の不条理さを一緒にしたことで、何とも座りの悪い作品になっているように思った。意図した座りの悪さ(「藪の中」的な座りの悪さは意図したものだろう)ではなく、監督の意図しない部分での噛み合っていなさなのではないか。すっきりしない、ではなく設計されきれていない、という印象だった。絵の魅力に乏しいのも残念。やはり紋切型で、ラストシーンなどなぜそんなベタなメタファーを・・・といっそ不思議なくらい。面白いことは面白かったのだが、あとちょっとでもっと面白くなるはずなのにそれがどこだかわからない、というもどかしさが拭えなかった。



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『ザ・マミー』

 
(一部訂正しました)
古代エジプトの王女アマネット(ソフィア・ブテラ)は、次期女王にするという約束を破った父王を恨み、死の神セトと契約して父王とその妃、生まれたばかりの王子を殺害。その報いとして生きたまま棺に葬られ封印された。そして2000年後、米軍兵のニック・モートン(トム・クルーズ)と考古学者ジェシー・ハルジー(アナベル・ウォーリス)は古代メソポタミアにあたる現代の中東地域で石棺を発見。輸送機でイギリスに持ち返ろうとするが、トラブルにより墜落し、石棺は行方不明になってしまう。監督はアレックス・カーツマン。
 なんだか大味なストーリーだなー、第一これは「マミー」ではないんじゃ・・・(言うほどミイラが活躍しない。そもそもミイラというよりもゾンビなのでは)と思っていたら、監督はトランスフォーマーシリーズ(『トランスフォーマー』『トランスフォーマー/リベンジ』)の脚本書いた人だったのね・・・うん、じゃあしょうがない!世間ではあまり評判芳しくない本作、確かにストーリーが直線的でキレには乏しいのだが、私はそんなに悪いとは思わなかった。全ての映画を気合入れてすごく楽しみにして見に行くわけではないので、空き時間にぷらっと見に行って何も考えずに見られる娯楽作って、それなりに価値があると思う。非難されているとしたら、本作がミイラが出てくるホラー映画ではない、あまりドキドキしない(だからぼーっと見るにはちょうどいいんだけど)という所ではないか。
 とは言え、トム・クルーズが主演していると他の部分がぐだぐだでも「トム・クルーズ映画」として立ち位置が定まるので、やはりトム・クルーズは偉い。本作ではヌードまで披露して頑張っている。近年はコミカルな顔芸も見せているトムだが、本作もコメディっぽい演出が結構多い(劇場内で殆ど笑いが起きていなかったのが痛いが・・・)。冒頭のドタバタ展開はジャッキー・チェンの映画みたいだった。演じるニックというキャラクターは、取り柄が顔だけなくそったれとして登場するので、最近のトム主演作としては珍しいパターンなのかもしれない。
しかしトム・クルーズがかすむ勢いでソフィア・ブテラが最高だった。アマネットは悪い!強い!美しい!の三拍子が揃った悪役なのでもっと見たかったなぁ。絶対後悔してなさそうなところがいい。

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『裁き』

 ムンバイの下水道で、下水清掃人の死体が発見された。逮捕されたのは民謡歌手のカンブレ(ヴィーラー・サーティダル)。歌の歌詞が自殺を駆り立てるものだったと容疑を掛けられたのだ。弁護士のヴォーラー(ヴィヴェーク・ゴーンバル)、検察官のヌータン(ギータンジャリ・クルカルニー)、裁判官のサダーヴァルテー(プラディープ・ジョシー)が法廷に集い、裁判が進んでいく。監督はチャイタニヤ・タームハネー。
 法廷という限られた場で、現代のインドの様々な側面が垣間見られとても面白かった。カンブレが逮捕される理由や彼を有罪とする根拠だと検察が主張する法律の解釈などは、えっ冗談でしょ?と言いたくなるものなのだが、インドではこれも司法の一つの姿なんだろうなぁ。法律の「どうとでも解釈出来る」領分にはひやりと寒くなった。司法が人の心のあり方にまで踏み込んでくるというのは、やはり恐ろしい。警察の捜査のずさんさ、有罪確定ありきで捜査は後付にすぎないのではという投げやりさは、インドに限らず往々にしてあることだろうが、ちょっと勘弁してほしいよな・・・とため息をつきたくなるもの。弁護士とのいたちごっこのようでもある。
 弁護士のヴォーラーと検察官のヌータンは、法廷外での私生活が映し出される。弁護士と検察官という職業上の立場の違いもあるが、この2人はそもそも住んでいる世界が違う。ヴォーラーは親が不動産を持っている裕福な家の息子で独身、もちろんインテリ層だし友人も同じような階層の人たち。ヌータンはおそらく中流層で、夫と2人の子供と暮らしている。ヴォーラーは自家用車で通勤し、ヌータンは電車。2人とも娯楽で音楽や芝居を楽しみ、家族と外食をするが、その方向性も全然違う。カンブレや死亡した下水清掃人はさらに貧しく異なる階層にいるが、ヴォーラーとヌータンの階層の違い、考え方の違いは特に強調されている。それぞれ似たような行動をしているがその中身が違う、という照らし合わせるような見せ方だった。法廷でやりとりされる言語の差異(ヴォーラーはローカルな言語はよくわからない様子で、英語で話してくれというシーンがある)も、それぞれが違う世界で生きていることを感じさせた。そして、その世界はなかなか重ならないし、歩み寄ろうという意思もあまり感じない。この人たちが法廷以外で交流することはないのではないかなという気がするのだ。
 異なる世界を生きているという点では、ヴォーラーと両親との間にある文化の差も強く感じた。これはインドに限ったことではないだろうが、両親が思っている「普通」と、ヴォーラーが生きる「普通」は違うんだなと。そして、その違いは両親にはなかなか理解されない。ヴォーラーは高級スーパーでワインやデリを買い、ジャズを好み、バーでポルトガルのファドを聞くような趣味嗜好の人なので、両親との価値観の違いは、結構大きそう。実家で食事しているシーンからも、あー色々苦労してそう・・・と同情してしまった。

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『サラエヴォの銃声』

 2014年6月28日、第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件から100周年の記念式典を控えたサラエヴォ。式典が行われるホテル・ヨーロッパでは、ホテル支配人やフロントマネージャーが準備に余念がない。同時に、従業員の間では賃金未払いに対するストライキが計画されていた。演説の練習をするVIPや、サラエヴォ事件について対談企画を収録中のTVスタッフとジャーナリスト等、様々な人々が行きかう群像劇。監督はダニス・タノヴィッチ。
 舞台をホテル内に限定した群像劇なのだが、屋上からの街の景色が挿入されるからか、意外と閉塞感はない。職業上のポジションとしても、経済格差としても、民族的な背景としても、様々な人たちが交錯していくが、それぞれの物語、物理的な動線のさばき方の手際がいい。もっとコンパクトにできたんじゃないかなと(本作も90分程度なので相当コンパクトではある)思うくらい。こんなにスピーディかつ整理された映画を撮る監督だったのか!と驚いた。先日見た『汚れたミルク あるセールスマンの告発』は語りの方法のユニークさに目がいったが、手際がいいという印象ではなかったので。物語の内容によって見せ方をどんどん変えてくるタイプなのか。そういえば、一貫した作風というものはあまり強くない作家性ではあると思う。
 登場する人たちはホテルの中を行ったり来たりするが、それぞれが何かしらの問題を抱えており、その多くは自分では如何ともし難い。その問題故に、対立する人たちもいる。そして対立の焦点となっている問題は、そうそう解決しそうにないし双方が妥協する接点も見えてこない。ホテル支配人と従業員の意見は平行線をたどるだろうし、TVキャスターとジャーナリストも、お互いに許せない部分がある。危ういバランスで全てが推移していくのだ。
 こういった、お互いに相入れない部分を孕みつつも、様々な集団が同じ場で何とか生活している、というのが現在のこの地域ということなのだろう。サラエボ事件以降(いやそれ以前からか)、ずっとバランスがぐらつきつつ(時に大きく乱れるが)なんとかかんとやっている、という感じなのだ。ホテルの中の人の行き来は、外の世界の影絵のようでもある。

『ザ・コンサルタント』

 会計士のクリスチャン・ウルフ(ベン・アフレック)は田舎町で小さい事務所を構える一方、大企業やマフィアの裏帳簿を管理する凄腕で、年間10億円を稼ぎ出していた。ある日、大手精密機械メーカーから財務調査依頼が舞い込む。経理担当のカミングス(アナ・ケンドリック)が帳簿に不審な点を発見したというのだ。ウルフは不正を発見するが、依頼は社長によって一方的に打ち切られ、ウルフもカミングスも何者かに襲撃される。監督はギャビン・オコナー。
 冒頭、パズルが印象的な使われ方をするが、伏線回収もパズル的で、精緻ではないがピースがはまった瞬間の快感を味わえるように作ってあると思う。 ウルフは高機能自閉症という設定なのだが、彼の立ち居振る舞い、仕事も含めての行動原理がその設定に基づいており、かなり丁寧に調べて作っていることがわかる。生活のルーティンやルールがかっちりと決まっていることや、いわゆる世間話のようなやりとりが苦手であること、何かを始めると最後までやらなければ気が済まないことといった特徴がよく描かれており、それがストーリーの一部としてちゃんと機能している。むしろ、ウルフがこういう特徴を持った人だからこういう展開(特に後半)になったということがわかるのだ。
  ウルフにとっての「普通」は世間一般での「普通」ではなく、それが彼をどこかピントのずれた(ウルフ当人にとってはずれていないのだが)存在にしている。彼は父親からは肉体の制御の仕方と闘い方、刑務所で同室だった元会計士からは世間一般でのコミュニケーションの「型」を教え込まれており、その「型」をなぞることでかろうじて社会人として生活をおくることが出来ている。会話がちぐはぐになるのは「型」ではカバーできないからだろう。彼は度々「冗談だ」と言う言葉を口にするが、別に冗談を言っているわけではなく、自分の言葉に相手が困惑したらそう言いなさいよって教えられたってことなのだと思う。業務以外でのコミュニケーションは、彼にとっては大概愉快ではないのだろう。事務所に相談に来た老夫婦が長々とお礼を言う時、ランチ中にカミングスが話しかけてきた時、あー早く立ち去って・・・と思ってるんだろうなぁとじわじわ伝わってくるあたりがおかしかった。
 とは言え、ウルフにも当然人間らしい感情はある。表現の仕方が人とは違うだけだ。数字という共通の関心を通してだったらカミングスと興奮を分かち合える。カミングスは自閉症ではないが、やはり周囲から浮いている所があり(プロムにまつわるエピソードから察せられるように)、ウルフはおそらくそこにも共感している。だからこそ、彼女にメモを残すのだ。メモの文面は、それまでの2人のやりとりやウルフの人となりを考えるとちょっと泣けるものだ。
 ウルフが感情を表に出さないので分かりやすく表出はしていないのだが、熱く、ある意味粘着質な家族愛が根底に流れている。兄を見つめる弟のまなざしも、実の父親だけではなくキング(J・K・シモンズ)や元会計士、精神科医に分散された父性も印象に残った。終盤はまさかここでそういうネタ投げ入れる?!と驚いたが。

『裁かるゝジャンヌ』

 宗教映画祭にて鑑賞。1927年、カール・ドライヤー監督のサイレント映画。神のお告げに従い、兵を率いてイギリス軍と闘ったジャンヌ・ダルク(ノルネ・ファルコネッティ)は捕えられ、異端審問をうける。審問官たちはジャンヌの答えを誘導し、異端放棄の宣誓書に署名させようとする。死の恐怖から一度は署名したものの、ジャンヌはこれを撤回、火刑に処される。
 ジャンヌ・ダルクの伝説の中から異端審問のみにスポットを当てた作品。実際には異端審問は何度も行われたそうだが、本作ではそれを1回、ほぼ1日の出来事として凝縮している。シンプルな話ながら、濃度がすごい。傑作と名高い作品だそうだが、納得だ。人の顔のクロースショットの連続と言っていいほどクロースが多く、ロングショットが殆どないという、個人的にはすごく苦手なタイプの作品なのだが、圧力がありすぎて苦手さが吹っ飛んだ。サイレントなので台詞は字幕で出るのだが、すべての口の動きに対して台詞が表示されるわけではなく、ここ何か言ってるな、くらいのことしかわからない部分も多い。にも関わらず、どういうやりとりがあったのか何となく流れがわかる。俳優の表情の作り方、その撮り方が的確すぎるのだ。
 特にファルコネッティの演技が素晴らしい。目の色が薄い人なので、顔の角度が変わるだけで光の入り方によって目の表情が変わる。これをフル活用して顔のアップだけで持たせてしまう。顔の微細な表情の変化が見事。ファルコネッティは元々舞台俳優で主演映画はこれ一本くらいだそうだが(本作の撮影があまりに大変で嫌になってしまったらしい)、こういう作品を残せたなら十分かなと思ってしまう。
 一環してジャンヌは高潔であり、審問官たちは悪辣な表情で撮られている。しかしジャンヌの信仰心の篤さは、理屈が通らない狂気と紙一重のようにも見える。神への信仰を再確認した後の目つきは、澄んだ瞳というよりも恍惚とした表情だ。更に、彼女の信仰あるいは狂気に誘発され、火刑を見に来た民衆もまた、ファナティックになっていく。何かが伝染していくような不穏な終わり方だ。

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