3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『散歩する侵略者』

 数日間行方不明になっていた夫・加瀬真治(松田龍平)が別人のようになって帰ってきたことに妻・鳴海(長澤まさみ)は戸惑う。同じ頃、一家惨殺事件が発生し、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)は事件の生き残りである少女・立花あきら(恒松祐里)を追っていた。そんな桜井に天野(高杉真宙)が声を掛けてくる。自分とあきらは地球を侵略しにきた宇宙人で、桜井にガイドを頼みたいというのだ。一方、鳴海も真治に自分は地球を侵略しにきたと告げられる。原作は前川知大による劇団イキウメの舞台。監督は黒沢清。
 宇宙からの侵略者たちは、人間の「概念」を奪うことで人間らしい振る舞いを獲得していく。概念を奪われた人間はどこか崩れていく。この「概念を奪う→奪われた人はまともでなくなる」という設定はわりとふんわりとしていて、奪われた後どういう影響が出るのかも、人によって違う。なぜこの人のこの概念を?役に立つの?と思う所もあり、なかなか扱いが難しい設定だったのでは。これは映画というよりも、原作の舞台の難点と言った方がいいのかもしれない。同じくイキウメの舞台が原作の映画『太陽』を見た時も私はあまりぴんとこなかったので、もしかしたらイキウメと相性が悪いのかもしれないなぁ・・・。SF的設定の扱いとか終末感の演出が自分と相いれない感じがする(ただ、本作はそういう部分の精密さが求められる類の作品ではない)。
 ただ、真治が牧師(東出昌大)から「愛」の概念を取ろうとする件には笑ってしまったので、このシーンの為だけにでもこの設定でよかったな!と思えた。東出の存在が最早出オチのようだった。彼は決して演技が達者というわけではないんだろうけど、ハマるとものすごい効果を発揮するなぁ。
 脇役の東出のみならず、個々の俳優の存在感、特異さで成立しているような作品だった。主演の松田もまた演技が達者というよりも存在感で魅せる、画面内にいるだけでいい系の俳優という印象だったが、本作を見て、あっこの人しっかりスキルあるんだな!と再発見した感があった。概念を獲得していく度にちょっとづつ立ち居振る舞いが変わっていくのがちゃんとわかる。また、長谷川博己のいるだけで何となくおかしい感じになっていく独自の存在感と身体能力(今回、結構走らされている)も素晴らしい。シリアスなやりとりのはずなのに、彼がやるとどこかユーモラスに見えてくる(声質のせいかなーという気もする)。また、引きこもり青年役の満島真之介のインパクトがすごかった。怪演とも言える。
 身近な人がふっと見知らぬ人になる、あるいは圧倒的な他者が現れるというパターンは黒沢監督作品によく見られるが、本作では全くの異物であった侵略者との間に、何となく親密さのようなもの、何らかの繋がりが生まれていくという所が面白い。夫にある意味擬態している真治と鳴海の組み合わせよりも、そもそも全くの他人でたまたま出会った桜井と天野の組み合わせの方がそれが顕著だった。いやいや相手侵略者だから!と突っ込みたくなるし、桜井も人類が滅べばいいと思っているわけでもない。それでもそこには何らかの繋がりがある。もう損得越えちゃっていると言ってもいいだろう(少なくとも桜井に得はない)。これは、真治が最後に獲得した概念に近いものでもあるような気がするのだ。



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『三度目の殺人』

 弁護士の重盛(福山雅治)は、殺人前科があり、勤務先の社長を殺したという新たな容疑がかかっている三隅(役所広司)の弁護を担当することになる。社長を殺害後、火をつけたと三隅は自供しており、このままでは死刑は免れないが、動機は曖昧なままだった。重盛は面会と調査を重ねるが、三隅の自供は二転三転していく。監督・脚本は是枝裕和。
 是枝監督は、主語が大きい話を描くのは苦手なんじゃないかなと思った。本作の主人公は重盛だと言っていいし、重要人物はもちろん三隅と言えるだろう。しかし、重盛という個人、三隅という個人の物語になっているかというと、ちょっと違うのではないかと思った。彼らはある思想、観念を表現するための道具であり、手足の代わりのようなものなのではないだろうか。そのせいか、台詞は紋切型が目立ち、「こういう人」というバックグラウンドや人間のディティールには、他の是枝監督作に比べて少々乏しいように思った。会話シーンは概ね退屈なのだが、その中で面白いと思った部分は、重盛と元裁判官である父親のやりとり。距離と不躾さとが混在している感じに、ああ老年の父親と成人した息子のやりとりってこんな感じだろうなという説得力がある。是枝監督の良さ、得意なものは、こういうディティールの部分にあるのだろう。
 本作では真実が曖昧であること、そして司法のシステムの(外部から見た際の)奇妙さが描かれる。真実の曖昧さについては、ご丁寧に「盲人と象」の例えが持ち出され、そういう所はやたらとわかりやすくするんだ・・・とちょっとおかしくなってしまった。しかし、三隅の真実を追求するという部分と、司法システムの奇妙さ・限界を見せる部分とが、一つの映画として意外と噛み合っていないように思った。三隅を巡る部分は多分に不条理劇のようなのだが、司法の不条理とは質が違う。司法の不条理は、物事を処理していく上での合理性が逆に司法の本来の目的から逸れていくという所にあるのだろう。原因がまあわかっていると言える。しかし、三隅の不条理さはそれとは違う。そもそも原因などわからない類のものだ。この2種の不条理さを一緒にしたことで、何とも座りの悪い作品になっているように思った。意図した座りの悪さ(「藪の中」的な座りの悪さは意図したものだろう)ではなく、監督の意図しない部分での噛み合っていなさなのではないか。すっきりしない、ではなく設計されきれていない、という印象だった。絵の魅力に乏しいのも残念。やはり紋切型で、ラストシーンなどなぜそんなベタなメタファーを・・・といっそ不思議なくらい。面白いことは面白かったのだが、あとちょっとでもっと面白くなるはずなのにそれがどこだかわからない、というもどかしさが拭えなかった。



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『ザ・マミー』

 
(一部訂正しました)
古代エジプトの王女アマネット(ソフィア・ブテラ)は、次期女王にするという約束を破った父王を恨み、死の神セトと契約して父王とその妃、生まれたばかりの王子を殺害。その報いとして生きたまま棺に葬られ封印された。そして2000年後、米軍兵のニック・モートン(トム・クルーズ)と考古学者ジェシー・ハルジー(アナベル・ウォーリス)は古代メソポタミアにあたる現代の中東地域で石棺を発見。輸送機でイギリスに持ち返ろうとするが、トラブルにより墜落し、石棺は行方不明になってしまう。監督はアレックス・カーツマン。
 なんだか大味なストーリーだなー、第一これは「マミー」ではないんじゃ・・・(言うほどミイラが活躍しない。そもそもミイラというよりもゾンビなのでは)と思っていたら、監督はトランスフォーマーシリーズ(『トランスフォーマー』『トランスフォーマー/リベンジ』)の脚本書いた人だったのね・・・うん、じゃあしょうがない!世間ではあまり評判芳しくない本作、確かにストーリーが直線的でキレには乏しいのだが、私はそんなに悪いとは思わなかった。全ての映画を気合入れてすごく楽しみにして見に行くわけではないので、空き時間にぷらっと見に行って何も考えずに見られる娯楽作って、それなりに価値があると思う。非難されているとしたら、本作がミイラが出てくるホラー映画ではない、あまりドキドキしない(だからぼーっと見るにはちょうどいいんだけど)という所ではないか。
 とは言え、トム・クルーズが主演していると他の部分がぐだぐだでも「トム・クルーズ映画」として立ち位置が定まるので、やはりトム・クルーズは偉い。本作ではヌードまで披露して頑張っている。近年はコミカルな顔芸も見せているトムだが、本作もコメディっぽい演出が結構多い(劇場内で殆ど笑いが起きていなかったのが痛いが・・・)。冒頭のドタバタ展開はジャッキー・チェンの映画みたいだった。演じるニックというキャラクターは、取り柄が顔だけなくそったれとして登場するので、最近のトム主演作としては珍しいパターンなのかもしれない。
しかしトム・クルーズがかすむ勢いでソフィア・ブテラが最高だった。アマネットは悪い!強い!美しい!の三拍子が揃った悪役なのでもっと見たかったなぁ。絶対後悔してなさそうなところがいい。

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『裁き』

 ムンバイの下水道で、下水清掃人の死体が発見された。逮捕されたのは民謡歌手のカンブレ(ヴィーラー・サーティダル)。歌の歌詞が自殺を駆り立てるものだったと容疑を掛けられたのだ。弁護士のヴォーラー(ヴィヴェーク・ゴーンバル)、検察官のヌータン(ギータンジャリ・クルカルニー)、裁判官のサダーヴァルテー(プラディープ・ジョシー)が法廷に集い、裁判が進んでいく。監督はチャイタニヤ・タームハネー。
 法廷という限られた場で、現代のインドの様々な側面が垣間見られとても面白かった。カンブレが逮捕される理由や彼を有罪とする根拠だと検察が主張する法律の解釈などは、えっ冗談でしょ?と言いたくなるものなのだが、インドではこれも司法の一つの姿なんだろうなぁ。法律の「どうとでも解釈出来る」領分にはひやりと寒くなった。司法が人の心のあり方にまで踏み込んでくるというのは、やはり恐ろしい。警察の捜査のずさんさ、有罪確定ありきで捜査は後付にすぎないのではという投げやりさは、インドに限らず往々にしてあることだろうが、ちょっと勘弁してほしいよな・・・とため息をつきたくなるもの。弁護士とのいたちごっこのようでもある。
 弁護士のヴォーラーと検察官のヌータンは、法廷外での私生活が映し出される。弁護士と検察官という職業上の立場の違いもあるが、この2人はそもそも住んでいる世界が違う。ヴォーラーは親が不動産を持っている裕福な家の息子で独身、もちろんインテリ層だし友人も同じような階層の人たち。ヌータンはおそらく中流層で、夫と2人の子供と暮らしている。ヴォーラーは自家用車で通勤し、ヌータンは電車。2人とも娯楽で音楽や芝居を楽しみ、家族と外食をするが、その方向性も全然違う。カンブレや死亡した下水清掃人はさらに貧しく異なる階層にいるが、ヴォーラーとヌータンの階層の違い、考え方の違いは特に強調されている。それぞれ似たような行動をしているがその中身が違う、という照らし合わせるような見せ方だった。法廷でやりとりされる言語の差異(ヴォーラーはローカルな言語はよくわからない様子で、英語で話してくれというシーンがある)も、それぞれが違う世界で生きていることを感じさせた。そして、その世界はなかなか重ならないし、歩み寄ろうという意思もあまり感じない。この人たちが法廷以外で交流することはないのではないかなという気がするのだ。
 異なる世界を生きているという点では、ヴォーラーと両親との間にある文化の差も強く感じた。これはインドに限ったことではないだろうが、両親が思っている「普通」と、ヴォーラーが生きる「普通」は違うんだなと。そして、その違いは両親にはなかなか理解されない。ヴォーラーは高級スーパーでワインやデリを買い、ジャズを好み、バーでポルトガルのファドを聞くような趣味嗜好の人なので、両親との価値観の違いは、結構大きそう。実家で食事しているシーンからも、あー色々苦労してそう・・・と同情してしまった。

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『サラエヴォの銃声』

 2014年6月28日、第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件から100周年の記念式典を控えたサラエヴォ。式典が行われるホテル・ヨーロッパでは、ホテル支配人やフロントマネージャーが準備に余念がない。同時に、従業員の間では賃金未払いに対するストライキが計画されていた。演説の練習をするVIPや、サラエヴォ事件について対談企画を収録中のTVスタッフとジャーナリスト等、様々な人々が行きかう群像劇。監督はダニス・タノヴィッチ。
 舞台をホテル内に限定した群像劇なのだが、屋上からの街の景色が挿入されるからか、意外と閉塞感はない。職業上のポジションとしても、経済格差としても、民族的な背景としても、様々な人たちが交錯していくが、それぞれの物語、物理的な動線のさばき方の手際がいい。もっとコンパクトにできたんじゃないかなと(本作も90分程度なので相当コンパクトではある)思うくらい。こんなにスピーディかつ整理された映画を撮る監督だったのか!と驚いた。先日見た『汚れたミルク あるセールスマンの告発』は語りの方法のユニークさに目がいったが、手際がいいという印象ではなかったので。物語の内容によって見せ方をどんどん変えてくるタイプなのか。そういえば、一貫した作風というものはあまり強くない作家性ではあると思う。
 登場する人たちはホテルの中を行ったり来たりするが、それぞれが何かしらの問題を抱えており、その多くは自分では如何ともし難い。その問題故に、対立する人たちもいる。そして対立の焦点となっている問題は、そうそう解決しそうにないし双方が妥協する接点も見えてこない。ホテル支配人と従業員の意見は平行線をたどるだろうし、TVキャスターとジャーナリストも、お互いに許せない部分がある。危ういバランスで全てが推移していくのだ。
 こういった、お互いに相入れない部分を孕みつつも、様々な集団が同じ場で何とか生活している、というのが現在のこの地域ということなのだろう。サラエボ事件以降(いやそれ以前からか)、ずっとバランスがぐらつきつつ(時に大きく乱れるが)なんとかかんとやっている、という感じなのだ。ホテルの中の人の行き来は、外の世界の影絵のようでもある。

『ザ・コンサルタント』

 会計士のクリスチャン・ウルフ(ベン・アフレック)は田舎町で小さい事務所を構える一方、大企業やマフィアの裏帳簿を管理する凄腕で、年間10億円を稼ぎ出していた。ある日、大手精密機械メーカーから財務調査依頼が舞い込む。経理担当のカミングス(アナ・ケンドリック)が帳簿に不審な点を発見したというのだ。ウルフは不正を発見するが、依頼は社長によって一方的に打ち切られ、ウルフもカミングスも何者かに襲撃される。監督はギャビン・オコナー。
 冒頭、パズルが印象的な使われ方をするが、伏線回収もパズル的で、精緻ではないがピースがはまった瞬間の快感を味わえるように作ってあると思う。 ウルフは高機能自閉症という設定なのだが、彼の立ち居振る舞い、仕事も含めての行動原理がその設定に基づいており、かなり丁寧に調べて作っていることがわかる。生活のルーティンやルールがかっちりと決まっていることや、いわゆる世間話のようなやりとりが苦手であること、何かを始めると最後までやらなければ気が済まないことといった特徴がよく描かれており、それがストーリーの一部としてちゃんと機能している。むしろ、ウルフがこういう特徴を持った人だからこういう展開(特に後半)になったということがわかるのだ。
  ウルフにとっての「普通」は世間一般での「普通」ではなく、それが彼をどこかピントのずれた(ウルフ当人にとってはずれていないのだが)存在にしている。彼は父親からは肉体の制御の仕方と闘い方、刑務所で同室だった元会計士からは世間一般でのコミュニケーションの「型」を教え込まれており、その「型」をなぞることでかろうじて社会人として生活をおくることが出来ている。会話がちぐはぐになるのは「型」ではカバーできないからだろう。彼は度々「冗談だ」と言う言葉を口にするが、別に冗談を言っているわけではなく、自分の言葉に相手が困惑したらそう言いなさいよって教えられたってことなのだと思う。業務以外でのコミュニケーションは、彼にとっては大概愉快ではないのだろう。事務所に相談に来た老夫婦が長々とお礼を言う時、ランチ中にカミングスが話しかけてきた時、あー早く立ち去って・・・と思ってるんだろうなぁとじわじわ伝わってくるあたりがおかしかった。
 とは言え、ウルフにも当然人間らしい感情はある。表現の仕方が人とは違うだけだ。数字という共通の関心を通してだったらカミングスと興奮を分かち合える。カミングスは自閉症ではないが、やはり周囲から浮いている所があり(プロムにまつわるエピソードから察せられるように)、ウルフはおそらくそこにも共感している。だからこそ、彼女にメモを残すのだ。メモの文面は、それまでの2人のやりとりやウルフの人となりを考えるとちょっと泣けるものだ。
 ウルフが感情を表に出さないので分かりやすく表出はしていないのだが、熱く、ある意味粘着質な家族愛が根底に流れている。兄を見つめる弟のまなざしも、実の父親だけではなくキング(J・K・シモンズ)や元会計士、精神科医に分散された父性も印象に残った。終盤はまさかここでそういうネタ投げ入れる?!と驚いたが。

『裁かるゝジャンヌ』

 宗教映画祭にて鑑賞。1927年、カール・ドライヤー監督のサイレント映画。神のお告げに従い、兵を率いてイギリス軍と闘ったジャンヌ・ダルク(ノルネ・ファルコネッティ)は捕えられ、異端審問をうける。審問官たちはジャンヌの答えを誘導し、異端放棄の宣誓書に署名させようとする。死の恐怖から一度は署名したものの、ジャンヌはこれを撤回、火刑に処される。
 ジャンヌ・ダルクの伝説の中から異端審問のみにスポットを当てた作品。実際には異端審問は何度も行われたそうだが、本作ではそれを1回、ほぼ1日の出来事として凝縮している。シンプルな話ながら、濃度がすごい。傑作と名高い作品だそうだが、納得だ。人の顔のクロースショットの連続と言っていいほどクロースが多く、ロングショットが殆どないという、個人的にはすごく苦手なタイプの作品なのだが、圧力がありすぎて苦手さが吹っ飛んだ。サイレントなので台詞は字幕で出るのだが、すべての口の動きに対して台詞が表示されるわけではなく、ここ何か言ってるな、くらいのことしかわからない部分も多い。にも関わらず、どういうやりとりがあったのか何となく流れがわかる。俳優の表情の作り方、その撮り方が的確すぎるのだ。
 特にファルコネッティの演技が素晴らしい。目の色が薄い人なので、顔の角度が変わるだけで光の入り方によって目の表情が変わる。これをフル活用して顔のアップだけで持たせてしまう。顔の微細な表情の変化が見事。ファルコネッティは元々舞台俳優で主演映画はこれ一本くらいだそうだが(本作の撮影があまりに大変で嫌になってしまったらしい)、こういう作品を残せたなら十分かなと思ってしまう。
 一環してジャンヌは高潔であり、審問官たちは悪辣な表情で撮られている。しかしジャンヌの信仰心の篤さは、理屈が通らない狂気と紙一重のようにも見える。神への信仰を再確認した後の目つきは、澄んだ瞳というよりも恍惚とした表情だ。更に、彼女の信仰あるいは狂気に誘発され、火刑を見に来た民衆もまた、ファナティックになっていく。何かが伝染していくような不穏な終わり方だ。

『聖の青春』

 子供の頃に腎臓の病気・腎ネフローゼを患った村山聖(松山ケンイチ)は、入院中に将棋に夢中になる。大阪でプロ棋士・森信雄(リリー・フランキー)の弟子になり、上京して同世代の天才・羽生善治(東出昌大)との対戦を目指すが、難病は村山の体を蝕んでいく。29歳で亡くなった棋士・村山聖の生涯を追った大崎善生の同名ノンフィクションが原作。監督は森義隆。
 序盤、説明的な台詞が続き、また日本映画の悪い癖が・・・とげんなりしそうになったが、どんどん削ぎ落され作品のスピード感が増していった。省略するところは大幅に省略し、羽生とのライバル関係に焦点を絞った構成にしている。実在の人物が主人公、しかも羽生を筆頭に現在存命どころか第一線で活躍している人が登場するわけで、脚本演出は(かなりフィクションとして脚色しているのではと思うが)色々とやりにくいところもあっただろう。しかし、脚本も役者も健闘しており、さほど期待していなかっただけに満足度が高かった。普遍的な青春物語、一種の「競技」ものとして楽しめるように作られていると思う。私も将棋の知識には乏しいが、とても面白かった。特に序盤、村山が上京してマンションの下見をして回ったり、東京でも徐々に仲間が増えて将棋会館で話し込んだりという小さなエピソードの端々に、青春ぽさを感じる。また将棋の対局シーンは当然多いが、将棋を知らなくても、役者の演技やショットの積み重ねで今どんな感じなのか雰囲気が伝わってきて、見ていて飽きない。作品の間口を広げようという配慮がほどよくされていたと思う。
 全編通して、村山の生き方の一途さと同時に、どろどろとしたもの、人間としての弱さも描いている。(本作で描かれる)村山は愛すべき所が多々ある人だが、友人として、ライバルとして付き合うのが相当厄介そうな人でもある。不器用だがかまってほしがりな感じは、愛されもし、鬱陶しがられたりもしたんじゃないだろうかと思わせるものだ。将棋に関しては妥協がなく率直すぎる。染谷将太演じる後輩の江川との感情のぶつけあいが印象に残った。(お互いに別の意味で)持っている人には持っていない人のことはわからないのだ。また、将棋に全てを注ぎ込んで命を削る彼の生き方も、将棋に対する真摯さ・率直さも、鬼気迫ると言えばそうなのだが、親しい人(特に家族)にとっては大分残酷なものだったのではないかと思う。病気の苦しさは本人にしかわからないとは言え、将棋に打ち込める体を保持するために不摂生をなんとかして!と言いたくもなる。そこに注意を払う手間すら、将棋にうちこむエネルギーに代えたかったのかもしれないが。
 羽生は村山にとってライバルであり憧れであるのだが、2人の間には将棋以外の共通の話題がない。差しで飲む(このエピソードは創作らしいが)時のお互いの趣味の合わなさは、村山の片思い感も相まってユーモラスでもある。しかし、むしろ将棋しかない、棋士同士としてなら深い所まで分かり合える(し、他にはおそらく必要ではない)というところには、少年漫画の宿命のライバル感あってぐっときた(この対話はフィクションらしいので、多分宿命感は意識して作ったんだろうな)。村山は少女漫画好きだから不本意かもしれないけど・・・。

『彷徨える河』

 20世紀初頭のアマゾン川流域。白人たちはゴム採取の為に農園を作り、先住民を働かせていた。先住民の村の唯一の生き残りとして孤独に生きているカラマカテの元へ、ドイツ人民俗学者が訪ねてきた。自分の病には幻の植物ヤクルナが効くと知り、カラマカテに道案内を頼みたいというのだ。自分達の故郷を荒らした白人を憎むカラマカテだが、民俗学者に同行し、ジャングルの奥へとカヌーを漕ぎだす。監督・脚本はシーロ・ゲーラ。
 密林の奥地に向かうというと、ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』やヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画『フィッツカラルド』(ゴムを取りに行く話でもあるし)を連想する。実際、密林は神秘的でもあり、その奥には狂気じみた集団がいたり、民俗学者が幻覚に脅かされたりする。とは言え、本作のスタンスは2作とはだいぶ異なると思う。
 密林は神秘的だが、神秘的なものの象徴としてそこにあるわけではない。密林に入っていくから人間が狂っていくというわけでもない。密林は単に密林だ。白人たちにとっては非日常だが、カラマカテにとっては日常を送る場で、当然特別なものではない。安易に「神秘」としてしまうことへの距離感が図られていると思う。同時に、先住民の文化を白人が神秘化、オリエンタリズム的な視点で見ることも抑制されている。民族学者は先住民が白人たちが使っていた道具を手に入れることを、伝統的な文化が失われると危惧する。しかし先住民側からは、私たちが知識欲を持つこと、便利な生活を手に入れることに反対するのかという反論が返ってくる。民族学者側(白人側)からの視線とカラマカテたち(先住民側)からの視線、どちらかに偏らないようにという配慮がかなりされているように思った。こういう所が、やはり現代の映画らしい。
 本作において最も狂気じみているのは、密林という場によるものではなく、ある条件下で形成された集団が孕むものだ。宣教師がもたらしたものが、現地の文化を結びついていびつな化学変化を起こす。あまりにもあまりなので、完全にフィクションだろうと思っていたら(他の部分は当時の手記や写真を材料にしているそうだ)、エンドロールで出てくる当時の写真に、それらしき人々が出てきてぎょっとした。怖いものは、常に人と人との間にあるのだろうか。

『サウスポー』

 世界ライトへビュー級王者のボクサー、ビリー・“ザ・グレート”・ホープ(ジェイク・ギレンホール)はマディソン・スクエア・ガーデンでの試合で逆転KOを決め、もてはやされていた。しかし妻のモーリーン(レイチェル・マクアダムス)は、パワー一辺倒なビリーのスタイルを心配していた。試合の後、ビリーはパーティーでライバルにあおられて乱闘を起こし、モリーが巻き添えになり志望してしまう。自暴自棄になったビリーはボクサーのライセンスを停止され、最愛の娘レイラ(ウーナ・ローレンス)からも引き離されてしまう。娘を取り戻したい一心でビリーが向かったのは、ティック・ウィルズ(フォレスト・ウィテカー)が営む古いジムだった。ウィルズはビリーが唯一負けたボクサーを育てたトレーナーだったのだ。監督はアントワーン・フークア。
 日本版ポスターだとビリーとモーリーンの夫婦がクローズアップされているが、本作の軸になっているのはむしろビリーとレイラの親子の関係であり、ビリーが父親としてどう成長していくかという部分だ。ボクサーとしての成長と、父親としての成長が重なっているのだ。ビリーはレイラを愛しているが、モーリーン亡き後、父親として、というよりも大人としてどのように振舞えばいいのか見失ってしまう。作中自分でも話すように、「難しいことは苦手」で、試合や財産の管理、娘の教育や家のきりもりなど、全てモーリーンが取り仕切っていたのだ。モーリーンを失ったことでビリーは精神的にも生活の上でも支えを無くし、レイラの前で自殺まがいの事故を起こす。レイラはショックを受け、ビリーは児童相談所に保護者として不適切と見なされてしまう。
 ただ、ビリーは父親としても大人としても大分至らないものの、父親であることをやめようとはしない。やり方がわからないだけで、レイラに対する愛情と責任感はあるのだ。本作、親=大人は子供を守らなければならないという姿勢が首尾一貫していた。ビリーがジムの常連である少年の異変に気付くエピソードがあるが、ウィルズは異変に気付かない。子供の親であると、他人であっても「子供」として意識するようになるのかなと思った。
 一方、子供に対して必要以上に大人びた言動や能力を盛らない点にはほっとした。レイラは聡明な子だが、やはり幼い。父親が苦しんでいるのを知っており、支えたいと思っている。親が苦しんでいる、あるいは苦しんでいるが平気な振りをしている姿を見ることは、親が思っている以上に子供にとっては辛いんだろうな。だが、同時に自分も母親が恋しく、自分を十分に守れなかった父親に対して怒っている。そこで怒っておくことで、もう一度親子の関係を築き直せるのだ。児童相談所職員(ナオミ・ハリス)のほどよい距離感にも安心する。このあたりの、保護者と子供、そして支援機関の関係は大分配慮して描いているように思った。
 ギレンホールは相当体を作っており、試合シーンは迫力があった。クライマックスは鮮やかな試合というよりも、双方削りあう感じで手に汗握る。ただ、ボクサー目線のPOV風なショットは正直あまり必要ない気がした。より臨場感を、ということなのだろうが、双方のボクサーがどう動いているのかがちゃんとわかる方が、迫力あると思うんだけどなぁ・・・。

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