3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『5パーセントの奇跡 嘘から始まる素敵な人生』

 先天性疾患により視力の95%を失ってしまったサリヤ(コスティア・ウルマン)は、ホテルで働きたいという夢を諦めきれず、目が見えないことを隠して一流ホテルの研修生になる。姉や同僚のマックス(ヤコブ・マッチェンツ)らの助けを借りて研修課題をこなしていく中、ホテルに品物を下している野菜農家のラウラ(アンナ・マリア・ミューエ)に恋をする。監督はマルク・ローテムント。
 サリヤはホテルで働きたい一心で、障害を隠す為に全力で努力する。障害を克服した!すごい!という話とはちょっと違う(予告編ではそういう話に見えるけど)所が面白いし、誠実だと思う。彼にとって一番の「奇跡」であり「素敵な人生」であるのは、自分の障害をカバーするために尽力する家族や友人に恵まれたことではないか。
 序盤、ホテルの面接に合格するためにサリヤは姉と何度もリハーサルをする。この時の姉の指導の仕方が具体的で理にかなっているもので、とてもいい。サリヤは視力には不自由しているが、出来ることはたくさんある。姉は不自由な部分「だけ」を補助しようとするのだ。これはマックスも同様で、この2人のサポートの仕方、教え方は常に実践的だ。何か障害があってもやりたいこと、得意なことがあるのなら助けを借りればいい、周囲はサポートをするという姿勢が徹底している。サリヤは記憶力と聴覚に優れ、サービス業への適性は高い。一つの特徴によってその適性がないものにされてしまうのは、やはり勿体ない。これは、ホテルで皿洗いをしている難民男性にも言えることだ。彼は祖国では医者だったが、難民としての滞在ビザでは皿洗いしか仕事がない。これもまた勿体ない話だ。その解消の為に人の力を借りて何が悪いんだ?という話でもある。
 サリヤは障害がないかのように振舞うが、これは克服したというのとはちょっと違うだろう。視力によるハンデ、不得意は依然としてあるし、それによって一歩間違うと取り返しのつかない事態にまで追い込まれてしまう。「見える」ように振舞う必要がない社会が本当に豊かな社会と言えるのだろう。いい人ばかり出てくるけれど美談すぎるようには見えないのは、サリヤの限界も描いているからだ。彼は自分のことを理解して、最終的な選択をする。そして、サリヤの父親の姿を通して、家族・身近な人が必ずしも強いとは限らないということも描いている。これは運不運みたいなものなんだろうけど、家族・パートナーが強くいられるかどうかで当人の人生もだいぶ変わってしまうのかもしれない。

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2001-04-27


白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々- [DVD]
ユリア・イェンチ
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2006-09-22


『婚約者の友人』

 1919年、ドイツの田舎町に暮らすアンナ(パウラ・ベーア)は、フランスとの戦いで死んだ婚約者フランツ(アントン・フォン・ルケ)の墓に通っていた。アンナには両親がおらず、フランツの両親と共に暮らしていたが、医者であるフランツの父ハンス(エルンスト・ストッツナー)と母マグダ(マリエ・グルーバー)もまた、息子の死から立ち直れずにいた。ある日アンナはフランツの墓に花を手向ける男性を見かける。フランスから来た彼の名はアドリアン(ピエール・ニネ)。戦前のパリでフランツと知り合ったと言う。監督はフランソワ・オゾン。
 一見、死んだ婚約者の友人に徐々に惹かれていく主人公という、王道メロドラマのように見える。アンナを演じるベーアの素朴さが残る美しさ、アドリアンを演じるニネの繊細な美男ぶりも、いかにもメロドラマ風。しかし、予想していたのとは相当違う方向に反転していく。このハンドルの切り返しが見事だった。オゾン監督はたまに迷走するけど、本作ではばっちり狙った所に球が入ったな!という感じ。
 本作を見ていて、映画の作風としては全く違うが、先日見た『人生はシネマティック!』を思い出した。フィクション、物語が人の心を助ける話だからだ。しかし本作はその更に先、彼岸まで行ってしまったように思う。くそみたいな現実よりも、美しい嘘を生きて何が悪い、生きれば嘘も現実も同じではないか。だったら自分が生きていると実感できる方を生きてみたい。この世への諦念みたいなものに、どうにも身につまされる所があり、少々辛かった。
 戦争(後)映画としても、ドイツとフランス双方の意識が垣間見られて興味深かった。実際こういう感じだったんだろうなという説得力がある。ドイツは敗戦国、フランスが戦勝国ということになるのだが、勝った負けたというよりも、自国民を殺されたというお互いへの敵意がぴりぴりとまとわりつく。互いに自分が被害者、相手が加害者という意識が拭えない。おそらくアドリアンはドイツにいる間は居心地が悪かったろうし多少危うさを感じたろうが、アンナもまた、それを感じることになる。同じ立場に立ってみないとわからないのだ。この点も含めて反転具合が見事だった。



やさしい嘘 デラックス版 [DVD]
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ジェネオン エンタテインメント
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なぞの娘キャロライン (岩波少年文庫)
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岩波書店
1990-07-02




『GODZZIRA 怪獣惑星』

 20世紀末、巨大怪獣が出現し人類を脅かすようになった。その中でも特に強大なゴジラにより、住む場所を失った人類は宇宙船で地球を脱出する。しかし20年後、移住先惑星は見つからず船内の物資も乏しくなっていた。船内での生活に耐えきれず、ゴジラへの復讐に萌えるハルオ・サカキ(宮野真守)を中心とする地球帰還派の声が大きくなっていた。リスクを侵し長距離亜空間航行で地球に帰還した一同だが、地球上では2万年が経過し、ゴジラの影響下で生態系は激変していた。監督は静野孔文・瀬下寛之。脚本は虚淵玄。なお全3部作。
 サカキのテンションの高さ、ゴジラへの強烈な粘着片思いにややひきつつも、面白く見た。思い込み激しいクレイジー系主人公は、『進撃の巨人』に始まり近年のスタンダードになっているのだろうか。圧倒的に巨大なものに脅かされ絶望的な状況というもの『進撃~』ぽいが、こういうシチュエーションが一つの定番になっているということだろう。
 とは言え、本作のゴジラはちょっとゴジラのインフレ化がすぎるように思う。いくらなんでも強すぎ、大きすぎだろう。『シン・ゴジラ』どころではなく勝てる気がしない。これ、本当にちゃんとオチがつくのかな・・・。作中設定ではわずかながらも弱点が!ということになっているのだが、その説明が結構雑というか、説得力がない(あえて説得力がない演出にしている可能性が高いが)ので、人類が見切り発車で無謀な賭けに出たようにしか見えない。そもそも過去映像のみからそんな解析可能なの?!とかそんなに充実したアーカイブあるの?!とか色々と突っ込みたくなるのだが、どこまでが脚本上の演出でどこまでが単に大雑把なのか現状よくわからない。
 アニメーション制作を手掛けたポリゴンピクチュアズの仕事を見ると言う面でも、とても面白かった。ポリゴンピクチュアズと言えば3DCGアニメーション制作だが、一つの作品でトライしたことを必ず次の作品に活かしてくるという印象なので、作品を続けて見ているとどんどん進化していることがわかる。本作は予算も比較的潤沢なのか、結構豪華な絵の作りだと思う。

シン・ゴジラ DVD2枚組
長谷川博己
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2017-03-22


『BLAME!』Blu-ray(初回限定版)
櫻井孝宏
キングレコード
2017-11-01


『50年後のボクたちは』

 14歳のマイク(トリスタン・ゲーベル)は同級生からは変人扱いされ、母親はアルコール依存症、父親は浮気中で、悩みが尽きない。ある日、ロシアからの移民だという転校生チック(アナンド・バトビレグ・チョローンパータル)と出会う。2人は夏休みを利用し、古びた車に乗って旅に出る。原作はヴォルフガング・ヘルンドルフ『14歳、ぼくらの疾走』。監督はファティ・アキン。
 2輪車二人乗りシーンがある映画は当たり率が高いというのが持論なのだが、本作も該当した。マイクとチックではなく、マイクと母親の2人乗りなのだが。いいシーンではあるが、背景を考えるとなかなか辛いものがある。一見微笑ましいけど、酔いつぶれた母親を回収しての2人乗りなのだ。マイクの母親はアルコール依存症で治療の為施設に入らなければならないくらいなのだが、マイクは母親のことを疎んではおらず、父親よりは心が通じ合っている。マイクにとっては(困ってはいるが)ユニークで楽しい母親ではある。だからこそ、2人乗りシーンが切ない。親のことは子供にはどうしようもないのだ。マイクの父親は父親で、若い女性と浮気していることを息子に隠そうともしない。せめて見えない所で手繋げよ!
 チックはチックで結構大変な暮らしをしていた雰囲気がある(だから運転やら何やら、自分で出来るようになったんだろうし)が、彼の背景については殆ど言及されない。あくまで、マイクにとっての不可思議であり憧れでもある親友・チックとして存在する。エンドロールのアニメーションは正にマイクにとってのチックなのだろうし、映画を観ている側も、こうであれ!と願わずにはいられない。2人は無謀だが、世の中のあれこれを知らない故の勢いや強さがある。なんだかんだ言って自分たちでなんでもやろうとする、創意工夫があるところも楽しかった。
 2人の旅は、大人びたチックに連れまわされ、マイクが解放されていくように見える。しかし、チックもまた解放されていったのだろう。マイクと一緒の時は10代の少年としてバカ騒ぎできるし、突っ張らずにいられる。終盤、ある告白をするのも、ここでは素を出していいと安心できたからだろう。
 旅によって、彼らの人生で何かが解決したわけではないし、何かが好転するわけでもない。しかし、自分たちはこの先も大丈夫なんじゃないかと2人は思えたのではないか。少なくとも、今いる場所だけが世界ではなく、世界にはもっと広がりがあることが垣間見えたのだ。

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『ゴールド 金塊の行方』

 1980年代、傾きかけた会社を立て直そうと新たな金鉱探しに賭けた探鉱者ケニー・ウェルス(マシュー・マコノヒー)は、地質学者のマイケル・アコスタ(エドガー・ラミレス)の協力を得て、インドネシアの山奥で過去最大と見られる巨大金脈を発見する。倒産しかけていた会社の株価は急上昇し、世界中の投資家の注目を集めた。ウェルスは一躍時の人となり富と名声を手にするが。監督はスティーヴン・ギャガン。
 ウェルスの語りによる構成で、今ある状況に陥っているがなぜこうなったか、という流れを見せていく。最後の最後で「語り」の効果が効いており、えっこれってどっち?というどうとでもとれる、あやふやさを投げかけてくる。この、彼=ウェルスにしか本当のところはわからない、という造り方が彼を突き動かすモチベーションと重なり合ってくるので、こういう見せ方にしたのは正解なんだろう。
 ウェルズにとって「金」とは正に金、ゴールドであって、マネーとは限らない。もちろんウェルズはお金が欲しいし急にセレブ扱いされて有頂天になる。しかし、彼にとって一番大事なのは自分で金(ゴールド)を掘るということなのだ。経済的な問題だけで考えたら、投資会社の提案通り、事業を大手に売って収益を得る方がローリスクハイリターンと言える。しかし、ウェルスは頑として拒む。
 彼のアイデンティティは探鉱者であること、彼の夢は父親のような立派な探鉱者となって名を上げることだ。それを取り上げられたら、いくら金(マネー)があっても彼にとっては意味がない。このこだわりや「当てた」時の快感は、体験した人でないとわからないのだろう。彼がなぜかたくなに事業売却を拒むのか、投資銀行のアナリスト には理解できないままだ。
 しかし、探鉱者としての夢を追い続けたからこそ、そこに付け込まれ裏をかかれもする。熱烈に夢を見る人は、本当に「夢」しか見ないんだなと妙に納得した。ストーリー中、ここで別の選択をしていれば少なくとも穏やかな暮らしができたのでは、という分岐点がいくつかあるが、ウェルスは毎回夢に掛ける選択をし、同時に諸々を失っていく。本作はウェルスの語りによる構成だと前述したが、彼の語りとは夢を語ること、それ以外を語らないことでもあるのだ。パートナーであるラミレスもまた、夢の相棒として出来すぎな感もあり、だとするとこういう結末になるのも頷ける。
 なお本作、金の採掘場所がインドネシアなのだが、スハルト政権下のインドネシアでないとありえないような展開(いかに無茶苦茶やってたかがわかる・・・怖すぎる・・・)が多々あり、時代背景も上手く組み込まれている。また、80年代の音楽も多用されており楽しい。JoyDivisionやNewOrderが似合う映画かというと、ちょっと微妙なんだけど。

ニュートン・ナイト/自由の旗をかかげた男 [DVD]
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TCエンタテインメント
2017-07-21

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド [Blu-ray]
ダニエル・デイ=ルイス
ワーナー・ホーム・ビデオ
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『午後8時の訪問者』

診察時間終了1時間後、診療所の玄関ベルが鳴った。医師ジェニー(アデル・エネル)は玄関に向かおうとした研修医を、業務時間外だからと制止する。翌日、身元不明の少女の遺体が発見され、警察が診療所の監視カメラを確認しにきた。録画された映像の中には、彼女が診療所のベルを鳴らす姿があった。責任を感じるジェニーは、少女の身元を判明させようとあちこち聞きまわる。監督はジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。
ジェニーが診療所のドアを開けなかったのは、診療時間が過ぎていたからということもある。しかし同時に、研修医に対して自分がここのボスであるということを示したかったからでもあると、彼女自身が漏らす。もし彼女が一人で残業していたら、ドアを開けたかもしれないのだ。彼女の行動は強く責められるものではないだろうし(実際の所、業務時間終了後いつまでも診察を受け付けていたら仕事として維持できないだろう)、少女が死んだのは直接的には彼女のせいではない。しかし、ジェニーにとっては医師という職業を仕事として割り切るのかどうか、自分の迷いに突き刺さる出来事になってしまったのだと思う。彼女は大学病院(研究センターのようなものか?)への就職が決まっていたのだが、自分の人生を大きく変える決断をしてしまう。これはぱっと見衝動的なのだが、ずっと迷っていたものが噴出して踏ん切りがついたと言うことなのだと思う。
少女の死に対するジェニーの責任感、少女の名前を知る事への執念は少々行き過ぎ、警察にもたしなめられるほどだ。しかし、その責任感を失くしてしまっては自分はおしまいだ、これをちゃんとしておかないと人としてダメだ、というような焦燥感に突き動かされているようでもあり、彼女が医師という仕事に対して保持し続ける矜持のようにも思えた。匿名の誰かではなく、名前のある個人の為に自分は働いているし、誰でも名前を持った存在として扱われるべきなのだと。ジェニーは往診にも駆けずり回るが、徐々に患者の信頼を得ているように見える。彼女が、個人対個人として相対するようになったからではないか。
あの時、あの場でこうしていれば、ああしていればという後悔に突き動かされる人たちの物語でもある。自分の行動を悔いているのはジェニーだけではない。皆、魔がさすというか、ちょっとした倫理観のゆらぎ、嫉妬や欲望により、判断を誤ってしまうのだ。そしてその判断が誤っていたということは、後からでないとわからない。これがどうしようもなくやりきれない。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』

 生身の肉体の「義体」への置き換えが進む未来。全身義体化する技術の成功例だが自身の記憶の殆どを失くした「少佐」(スカーレット・ヨハンソン)は、公安9課の捜査官。サイバーテロ事件を追う中で、義体化前の記憶が少しずつ呼びさまされてくる。監督はルパート・サンダース。
 士郎正宗の『攻殻機動隊』を原作とした押井守監督のアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のハリウッド版リメイク。原作漫画は知らなくても問題ないが、押井版は見ておいた方がいいかもしれない。ストーリー上云々というよりも、本作、押井版攻殻が好きでたまらない人があのシーンやこのシーンを実写で再現したい!という一念で作ったように見える。あまりにそのまんまでびっくりしたシーンがいくつかあった。原作へのリスペクトってそういうことか?映画としてそれでいいのか?と疑問には思うが、てらいながさすぎて強く非難する気にもならないんだよな・・・。あー本当に押井監督作品好きなんだなってことはよくわかる。アパートの名前とか、犬の名前とか、そこまで目配せしなくてもいいんですよ!って気分にはなったが。ある種のファンレターと言えなくもないが、これ貰った方も微妙だよな・・・。
 本作中の日本の都市の造形は、今のSF映画(や小説など)の傾向からするといわゆる「なんちゃってTOKYO」風で古臭くもある。巨大な広告ホログラムやゲイシャロボット等、あえて悪趣味、キッチュな方向に振った造形なのだろうが、こういういかがわしさ、怪しさが好きな層は一定数いると思う。私もヘンテコな漢字とか蛍光色のネオンサインとかスラム風の市場とか、嫌いではない。リドリー・スコット監督『ブレード・ランナー』の影響が今現代まで続いているということを実感した。あれが一つの型になっているんだろうなぁ(押井版ももちろん、その影響下にあるわけだし)。
 ストーリーは押井版に則った上でオリジナルの設定、展開を入れたものだが、人間の身体、記憶に対する価値観は真逆と言ってもいい。本作では、この身体を通した体験・記憶にこそ価値があるという方向性で、押井版ほど抽象的な方向にはいかない。本作の作家性なのか、それともハリウッドのエンターテイメントとしてはこのあたりが妥当だという判断なのだろうか。本作の時代設定が、おそらく押井版よりももうちょっと前になっていて、全身義体に付加価値が高いというのもポイントか。義体のオンリーワン性が高い(だからわざわざ美しいスカーレット・ヨハンソンのボディなのかと)。義体開発者のオウレイ博士(ジュリエット・ビノシュ)が少佐の義体に愛着心を持つのも、そういった背景があるからだろう。まだ、(人工のものであれ)「身体」に対する信頼、執着が強い世界なのだ。
 ストーリーは大分ユルいし、SFとしても作品世界の科学技術の度合いとか組織の構成とか、行き当たりばったり感は否めない。もうちょっと頑張ればいいのに(特に少佐の元の体を巡る経緯は、より掘り下げられそうな部分ではある)と思わずにはいられない。ちょっと色物っぽい作品ではあるが、カルト的に一部で愛される、というか嫌われなさそうな気がする。なお日本人キャストについて、ビートたけしの佇まいは見ていてちょっと笑っちゃいそうになったが、桃井かおりが好演していて、予想外の良さがあった。

『哭声/コクソン』

 山間の村コクソンで、村人が自分の家族を殺害するという事件が相次いで起きていた。殺人者たちには、肌が原因不明の湿疹でただれ、目はうつろ、会話も出来ないような茫然自失の状態で発見されたという共通点があった。事件を担当することになった警官ジョング(クァク・ドウォン)は、村の噂から、山の中に住む、どこからか来たよそ者の日本人(國村隼)が事件の背後にいると推理。しかし同じころ、自分の娘にも殺人犯たちと同じ湿疹が出ていることに気付く。娘を救いたい一心でよそ者を追い詰めるが。監督・脚本はナ・ホンジン。
 ミステリであったりホラーであったり犯罪ものであったりという、複数のジャンルをさらっと横断しなおかつどのジャンルにも属さない、オンリーワンの凄みを見せる怪作。いや怪作というと語弊があるかな・・・。奇妙な映画ではあるのだが、映画としての強度は異常に高い。監督の過去作『チェイサー』『哀しき獣』よりもよりも個人的には好きだ。
 冒頭、聖書の一節が引用される。イエスの復活を信じられない人たちに、自分に触れてみよとイエスが告げるくだりだ。この引用は、終盤の2人の人物のやりとりと呼応してくる(手に痕があるあたり、少々やりすぎじゃないかという気もしたが)。目の前にあるものをなぜ疑うのか?と。しかし同時に、人間は目の前にあるものそのものを見ているのではなく、自分の頭の中に既にあるもの、自分内の既存の概念に基づくものしか見ることが出来ない、信じられないのではないかと問いかけられているように思った。終盤、よそ者がある姿に見えるのも、彼の正体がその姿だというのではなく、彼と相対する人にとっては、正体のよくわからないよそ者はこういう姿に見える、こういう先入観でしか見られないと言うことなのだと思う。
 作中ではしばしば、この人、この言葉を信じられるのか、どちらを信じるのかとジョングが問われる。彼は概ね、どちらが正しいという確信を持つことはできないし、頻繁に迷う。殺人者たちはキノコの中毒で錯乱状態になったのかもしれないし、祈祷師の呪いで操られたのかもしれない。ないしは、ジョングらの想像もつかない他の理由があるのかもしれない。結局のところ、信じたいものを信じるしかないのだ。彼はある「答え」を導き出し、それを信じて娘を助けようと暴走するが、それが正しかったのかどうかも最後まではぐらかされていく。これが正解かと思うと、それを疑わしくするものが立ち現れる。むいてもむいても真相には辿りつかず、中空状態が常にあるのだ。自分が見ているものを裏付けてくれるものがないという不安、気持ちの悪さをジョングらと共に味わうような鑑賞だった。

『こころに剣士を』

 1950年代初頭、第二次大戦終結によりドイツによる支配からは脱したものの、今度はソ連占領下に入り、スターリン政権下にあったエストニア。エンデル(マルト・アバンディ)はソ連の秘密警察から逃れ、田舎町の小学校教師として身をひそめていた。フェンシング選手だった彼は子供達にフェンシングを教えるが、校長は彼の素性を怪しむ。着実に上達していく子供達はレニングラードで開催される全国大会に出たいとせがむが、エンデルにとってレニングラードに出ることは、逮捕されかねない危険な行為だった。監督はクラウス・ハロ。
淡々と進む作品なのだが、終盤でいきなりスポ根的な演出が見られ、気分が一気に盛り上がる。子供達の勇気が発揮される場面であると同時に、エンデルにとっても自分の人生を賭け勇気を振り絞る、彼が自分の人生を選ぶシーンなのだ。
 エンデルはそもそも、教師になろうと思っていたわけではない。なりゆきで小学校に勤めるようになっただけで、子供は苦手だし教え方もわからない。序盤、子供達が授業で跳び箱を飛んでいる。上手に飛べた子供がぱっとエンデルの方を見るのだが、エンデルは他所を見ていて気付かない。子供が微妙にがっかりした顔をするのだ。子供達の見てほしい、気にかけてほしいという欲求や不安感を、彼はいまひとつわかっていないのだ。加えて戦争で若い男性が駆り出されていた為、父親のいない子供が多い。父親的な存在に飢えているので、よけいにエンデルを慕うのだろう。フェンシングによって彼らの苦しさが減るわけではないが、一生懸命学ぶこと、何かに夢中になることが、気持ちを支えていくことにもなるのだ。
 最初は子供は嫌いだと言っていたエンデルも、子供達と接するうちに、本気で教師として振舞うようになってくる。子供達にとって「教師」であり、模範とすべき「剣士」である為、自分の人生を賭けるまでになる。町にやってきた時からしたら予想外の方向に彼の人生が進む、そういう人生を彼自身が選び取る。おそらく彼にしろ子供達にしろ、抑圧された時代の中で選択できるものがごく少ない状況だ。そんな中での選択がこれである、という所に何だかぐっときた。希望が残るラストもいい。

 

『ゴッド・ガン』

バリントン・J・ベイリー著、大森望・中村融訳
発明家の友人が、自分は神を殺せると言いだした。表題作の他、題名の意味にぞっとする「ブレイン・レース」、空間の概念がよじれる「空間の海に帆をかける船」、不死の異星人と不死の秘密への執念を燃やす地球人研究者との長年にわたる攻防を描く「邪悪の種子」等、10作品を収録。
ベイリー初挑戦なのでまずは短編から。がっつりSFなものから、エルフが登場するファンタジー風味のものまで幅広い作風で意外と読みやすい。この世界観だとセオリーとしてはこうだけど、こうしてみたらどうかな?という発想がベースにあるように思った。前述の「空間の海に~」も「ブレイン・レース」もそんな感じ。またグロテスクだったり陰惨だったりするシチュエーションの中にも、どことなくユーモアが混じる。「ブレイン~」は情景としてはかなり怖い、グロテスクなものなのだが、登場人物に絶妙なマヌケさがある。「蟹は試してみなきゃならない」もユーモラスさと寂寥感が尾を引く。か、蟹も辛いんだな・・・。また「ロモー博士の島」は時代を先取りしすぎている感がある(笑)。

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