3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ゴールド 金塊の行方』

 1980年代、傾きかけた会社を立て直そうと新たな金鉱探しに賭けた探鉱者ケニー・ウェルス(マシュー・マコノヒー)は、地質学者のマイケル・アコスタ(エドガー・ラミレス)の協力を得て、インドネシアの山奥で過去最大と見られる巨大金脈を発見する。倒産しかけていた会社の株価は急上昇し、世界中の投資家の注目を集めた。ウェルスは一躍時の人となり富と名声を手にするが。監督はスティーヴン・ギャガン。
 ウェルスの語りによる構成で、今ある状況に陥っているがなぜこうなったか、という流れを見せていく。最後の最後で「語り」の効果が効いており、えっこれってどっち?というどうとでもとれる、あやふやさを投げかけてくる。この、彼=ウェルスにしか本当のところはわからない、という造り方が彼を突き動かすモチベーションと重なり合ってくるので、こういう見せ方にしたのは正解なんだろう。
 ウェルズにとって「金」とは正に金、ゴールドであって、マネーとは限らない。もちろんウェルズはお金が欲しいし急にセレブ扱いされて有頂天になる。しかし、彼にとって一番大事なのは自分で金(ゴールド)を掘るということなのだ。経済的な問題だけで考えたら、投資会社の提案通り、事業を大手に売って収益を得る方がローリスクハイリターンと言える。しかし、ウェルスは頑として拒む。
 彼のアイデンティティは探鉱者であること、彼の夢は父親のような立派な探鉱者となって名を上げることだ。それを取り上げられたら、いくら金(マネー)があっても彼にとっては意味がない。このこだわりや「当てた」時の快感は、体験した人でないとわからないのだろう。彼がなぜかたくなに事業売却を拒むのか、投資銀行のアナリスト には理解できないままだ。
 しかし、探鉱者としての夢を追い続けたからこそ、そこに付け込まれ裏をかかれもする。熱烈に夢を見る人は、本当に「夢」しか見ないんだなと妙に納得した。ストーリー中、ここで別の選択をしていれば少なくとも穏やかな暮らしができたのでは、という分岐点がいくつかあるが、ウェルスは毎回夢に掛ける選択をし、同時に諸々を失っていく。本作はウェルスの語りによる構成だと前述したが、彼の語りとは夢を語ること、それ以外を語らないことでもあるのだ。パートナーであるラミレスもまた、夢の相棒として出来すぎな感もあり、だとするとこういう結末になるのも頷ける。
 なお本作、金の採掘場所がインドネシアなのだが、スハルト政権下のインドネシアでないとありえないような展開(いかに無茶苦茶やってたかがわかる・・・怖すぎる・・・)が多々あり、時代背景も上手く組み込まれている。また、80年代の音楽も多用されており楽しい。JoyDivisionやNewOrderが似合う映画かというと、ちょっと微妙なんだけど。

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2017-07-21

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『午後8時の訪問者』

診察時間終了1時間後、診療所の玄関ベルが鳴った。医師ジェニー(アデル・エネル)は玄関に向かおうとした研修医を、業務時間外だからと制止する。翌日、身元不明の少女の遺体が発見され、警察が診療所の監視カメラを確認しにきた。録画された映像の中には、彼女が診療所のベルを鳴らす姿があった。責任を感じるジェニーは、少女の身元を判明させようとあちこち聞きまわる。監督はジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。
ジェニーが診療所のドアを開けなかったのは、診療時間が過ぎていたからということもある。しかし同時に、研修医に対して自分がここのボスであるということを示したかったからでもあると、彼女自身が漏らす。もし彼女が一人で残業していたら、ドアを開けたかもしれないのだ。彼女の行動は強く責められるものではないだろうし(実際の所、業務時間終了後いつまでも診察を受け付けていたら仕事として維持できないだろう)、少女が死んだのは直接的には彼女のせいではない。しかし、ジェニーにとっては医師という職業を仕事として割り切るのかどうか、自分の迷いに突き刺さる出来事になってしまったのだと思う。彼女は大学病院(研究センターのようなものか?)への就職が決まっていたのだが、自分の人生を大きく変える決断をしてしまう。これはぱっと見衝動的なのだが、ずっと迷っていたものが噴出して踏ん切りがついたと言うことなのだと思う。
少女の死に対するジェニーの責任感、少女の名前を知る事への執念は少々行き過ぎ、警察にもたしなめられるほどだ。しかし、その責任感を失くしてしまっては自分はおしまいだ、これをちゃんとしておかないと人としてダメだ、というような焦燥感に突き動かされているようでもあり、彼女が医師という仕事に対して保持し続ける矜持のようにも思えた。匿名の誰かではなく、名前のある個人の為に自分は働いているし、誰でも名前を持った存在として扱われるべきなのだと。ジェニーは往診にも駆けずり回るが、徐々に患者の信頼を得ているように見える。彼女が、個人対個人として相対するようになったからではないか。
あの時、あの場でこうしていれば、ああしていればという後悔に突き動かされる人たちの物語でもある。自分の行動を悔いているのはジェニーだけではない。皆、魔がさすというか、ちょっとした倫理観のゆらぎ、嫉妬や欲望により、判断を誤ってしまうのだ。そしてその判断が誤っていたということは、後からでないとわからない。これがどうしようもなくやりきれない。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』

 生身の肉体の「義体」への置き換えが進む未来。全身義体化する技術の成功例だが自身の記憶の殆どを失くした「少佐」(スカーレット・ヨハンソン)は、公安9課の捜査官。サイバーテロ事件を追う中で、義体化前の記憶が少しずつ呼びさまされてくる。監督はルパート・サンダース。
 士郎正宗の『攻殻機動隊』を原作とした押井守監督のアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のハリウッド版リメイク。原作漫画は知らなくても問題ないが、押井版は見ておいた方がいいかもしれない。ストーリー上云々というよりも、本作、押井版攻殻が好きでたまらない人があのシーンやこのシーンを実写で再現したい!という一念で作ったように見える。あまりにそのまんまでびっくりしたシーンがいくつかあった。原作へのリスペクトってそういうことか?映画としてそれでいいのか?と疑問には思うが、てらいながさすぎて強く非難する気にもならないんだよな・・・。あー本当に押井監督作品好きなんだなってことはよくわかる。アパートの名前とか、犬の名前とか、そこまで目配せしなくてもいいんですよ!って気分にはなったが。ある種のファンレターと言えなくもないが、これ貰った方も微妙だよな・・・。
 本作中の日本の都市の造形は、今のSF映画(や小説など)の傾向からするといわゆる「なんちゃってTOKYO」風で古臭くもある。巨大な広告ホログラムやゲイシャロボット等、あえて悪趣味、キッチュな方向に振った造形なのだろうが、こういういかがわしさ、怪しさが好きな層は一定数いると思う。私もヘンテコな漢字とか蛍光色のネオンサインとかスラム風の市場とか、嫌いではない。リドリー・スコット監督『ブレード・ランナー』の影響が今現代まで続いているということを実感した。あれが一つの型になっているんだろうなぁ(押井版ももちろん、その影響下にあるわけだし)。
 ストーリーは押井版に則った上でオリジナルの設定、展開を入れたものだが、人間の身体、記憶に対する価値観は真逆と言ってもいい。本作では、この身体を通した体験・記憶にこそ価値があるという方向性で、押井版ほど抽象的な方向にはいかない。本作の作家性なのか、それともハリウッドのエンターテイメントとしてはこのあたりが妥当だという判断なのだろうか。本作の時代設定が、おそらく押井版よりももうちょっと前になっていて、全身義体に付加価値が高いというのもポイントか。義体のオンリーワン性が高い(だからわざわざ美しいスカーレット・ヨハンソンのボディなのかと)。義体開発者のオウレイ博士(ジュリエット・ビノシュ)が少佐の義体に愛着心を持つのも、そういった背景があるからだろう。まだ、(人工のものであれ)「身体」に対する信頼、執着が強い世界なのだ。
 ストーリーは大分ユルいし、SFとしても作品世界の科学技術の度合いとか組織の構成とか、行き当たりばったり感は否めない。もうちょっと頑張ればいいのに(特に少佐の元の体を巡る経緯は、より掘り下げられそうな部分ではある)と思わずにはいられない。ちょっと色物っぽい作品ではあるが、カルト的に一部で愛される、というか嫌われなさそうな気がする。なお日本人キャストについて、ビートたけしの佇まいは見ていてちょっと笑っちゃいそうになったが、桃井かおりが好演していて、予想外の良さがあった。

『哭声/コクソン』

 山間の村コクソンで、村人が自分の家族を殺害するという事件が相次いで起きていた。殺人者たちには、肌が原因不明の湿疹でただれ、目はうつろ、会話も出来ないような茫然自失の状態で発見されたという共通点があった。事件を担当することになった警官ジョング(クァク・ドウォン)は、村の噂から、山の中に住む、どこからか来たよそ者の日本人(國村隼)が事件の背後にいると推理。しかし同じころ、自分の娘にも殺人犯たちと同じ湿疹が出ていることに気付く。娘を救いたい一心でよそ者を追い詰めるが。監督・脚本はナ・ホンジン。
 ミステリであったりホラーであったり犯罪ものであったりという、複数のジャンルをさらっと横断しなおかつどのジャンルにも属さない、オンリーワンの凄みを見せる怪作。いや怪作というと語弊があるかな・・・。奇妙な映画ではあるのだが、映画としての強度は異常に高い。監督の過去作『チェイサー』『哀しき獣』よりもよりも個人的には好きだ。
 冒頭、聖書の一節が引用される。イエスの復活を信じられない人たちに、自分に触れてみよとイエスが告げるくだりだ。この引用は、終盤の2人の人物のやりとりと呼応してくる(手に痕があるあたり、少々やりすぎじゃないかという気もしたが)。目の前にあるものをなぜ疑うのか?と。しかし同時に、人間は目の前にあるものそのものを見ているのではなく、自分の頭の中に既にあるもの、自分内の既存の概念に基づくものしか見ることが出来ない、信じられないのではないかと問いかけられているように思った。終盤、よそ者がある姿に見えるのも、彼の正体がその姿だというのではなく、彼と相対する人にとっては、正体のよくわからないよそ者はこういう姿に見える、こういう先入観でしか見られないと言うことなのだと思う。
 作中ではしばしば、この人、この言葉を信じられるのか、どちらを信じるのかとジョングが問われる。彼は概ね、どちらが正しいという確信を持つことはできないし、頻繁に迷う。殺人者たちはキノコの中毒で錯乱状態になったのかもしれないし、祈祷師の呪いで操られたのかもしれない。ないしは、ジョングらの想像もつかない他の理由があるのかもしれない。結局のところ、信じたいものを信じるしかないのだ。彼はある「答え」を導き出し、それを信じて娘を助けようと暴走するが、それが正しかったのかどうかも最後まではぐらかされていく。これが正解かと思うと、それを疑わしくするものが立ち現れる。むいてもむいても真相には辿りつかず、中空状態が常にあるのだ。自分が見ているものを裏付けてくれるものがないという不安、気持ちの悪さをジョングらと共に味わうような鑑賞だった。

『こころに剣士を』

 1950年代初頭、第二次大戦終結によりドイツによる支配からは脱したものの、今度はソ連占領下に入り、スターリン政権下にあったエストニア。エンデル(マルト・アバンディ)はソ連の秘密警察から逃れ、田舎町の小学校教師として身をひそめていた。フェンシング選手だった彼は子供達にフェンシングを教えるが、校長は彼の素性を怪しむ。着実に上達していく子供達はレニングラードで開催される全国大会に出たいとせがむが、エンデルにとってレニングラードに出ることは、逮捕されかねない危険な行為だった。監督はクラウス・ハロ。
淡々と進む作品なのだが、終盤でいきなりスポ根的な演出が見られ、気分が一気に盛り上がる。子供達の勇気が発揮される場面であると同時に、エンデルにとっても自分の人生を賭け勇気を振り絞る、彼が自分の人生を選ぶシーンなのだ。
 エンデルはそもそも、教師になろうと思っていたわけではない。なりゆきで小学校に勤めるようになっただけで、子供は苦手だし教え方もわからない。序盤、子供達が授業で跳び箱を飛んでいる。上手に飛べた子供がぱっとエンデルの方を見るのだが、エンデルは他所を見ていて気付かない。子供が微妙にがっかりした顔をするのだ。子供達の見てほしい、気にかけてほしいという欲求や不安感を、彼はいまひとつわかっていないのだ。加えて戦争で若い男性が駆り出されていた為、父親のいない子供が多い。父親的な存在に飢えているので、よけいにエンデルを慕うのだろう。フェンシングによって彼らの苦しさが減るわけではないが、一生懸命学ぶこと、何かに夢中になることが、気持ちを支えていくことにもなるのだ。
 最初は子供は嫌いだと言っていたエンデルも、子供達と接するうちに、本気で教師として振舞うようになってくる。子供達にとって「教師」であり、模範とすべき「剣士」である為、自分の人生を賭けるまでになる。町にやってきた時からしたら予想外の方向に彼の人生が進む、そういう人生を彼自身が選び取る。おそらく彼にしろ子供達にしろ、抑圧された時代の中で選択できるものがごく少ない状況だ。そんな中での選択がこれである、という所に何だかぐっときた。希望が残るラストもいい。

 

『ゴッド・ガン』

バリントン・J・ベイリー著、大森望・中村融訳
発明家の友人が、自分は神を殺せると言いだした。表題作の他、題名の意味にぞっとする「ブレイン・レース」、空間の概念がよじれる「空間の海に帆をかける船」、不死の異星人と不死の秘密への執念を燃やす地球人研究者との長年にわたる攻防を描く「邪悪の種子」等、10作品を収録。
ベイリー初挑戦なのでまずは短編から。がっつりSFなものから、エルフが登場するファンタジー風味のものまで幅広い作風で意外と読みやすい。この世界観だとセオリーとしてはこうだけど、こうしてみたらどうかな?という発想がベースにあるように思った。前述の「空間の海に~」も「ブレイン・レース」もそんな感じ。またグロテスクだったり陰惨だったりするシチュエーションの中にも、どことなくユーモアが混じる。「ブレイン~」は情景としてはかなり怖い、グロテスクなものなのだが、登場人物に絶妙なマヌケさがある。「蟹は試してみなきゃならない」もユーモラスさと寂寥感が尾を引く。か、蟹も辛いんだな・・・。また「ロモー博士の島」は時代を先取りしすぎている感がある(笑)。

『この世界の片隅に』

 昭和19年、広島市江波から20キロ離れた呉の北條家の周作(細谷佳正)の元に嫁いできたすず(のん(能年怜奈))は、新しい環境に慣れないながらも日々の生活をこなしていた。戦争が進むにつれ物資は更に乏しくなり、日本海軍の拠点である呉は大規模な空襲に襲われる。原作はこうの史代の同名漫画。監督・脚本は片淵須直。
 私は数年前から本作に関わる片淵監督のコラムを読み続けていたので、取材と製作にどのくらいの時間と労力がかかっているか事前にわかっていたということもあるが、作品としての好き嫌いはともかく、一見の価値はある作品なのは間違いないだろう。当時の実際の地理、生活の様子、天気、更に呉港内の戦艦の有無等出来る限り調べたそうで、情報の量と密度がとんでもないことになっている。数年にわたって調査した内容がほんの十数秒に反映されていくという、大変な豪華さだ。正直な所、そこまで綿密な調査をしなくても「それらしい」絵は作れるだろうし、綿密な取材をしたからいい映画になるとは限らない。実際、さほど取材をしなくてもいい作品を作れる作家もいるだろう。ただ、片淵監督は実際に自分で調べ、確認したことを積み重ねて構築していくタイプなのだと思う。
 本作、何より凄まじいのは、製作側の記録すること、記憶することへの執念だ。鬼気迫るものがある。おそらく最初からこのテンションだったわけではなく、取材を重ねる過程で使命感が生じてきたのかもしれない。本作は太平洋戦争中の話だが、当時を実体験として知っている人は当然徐々に減っていく。また、原爆が投下される前の広島市内の様子を記憶している人もどんどん少なくなり、街自体が燃えてしまった為に資料も乏しい。広島の風景は当時を生きた人の記憶の中にのみあり、その人たちが死んでしまうと、もう残らない。それを何とかこの世に留めようとした結果が本作とも言える。だから、極力具体的に、正確に記すのだ。それを実写映画より更にフィクショナリーなアニメーションでやるというところに痺れる。が、アニメーションでないと成立しない作品だと思う。
 すずが結婚する前に既に戦争は始まっているのだが、彼女の日常は急には変わらない。最初はそれなりに食料もあるし、何だかんだで長閑に生活している。ただ、その瞬間も彼女が戦争と無縁というわけでは全くない。そもそも呉には軍港、軍事工場があり、彼女の夫も義父も軍事工場勤めだ。一家(だけではなくおそらく近所の人たちも)の生活は、戦争によって成り立っている。すずは無自覚ではあるのだが、日常の生活と戦争は地続きで、誰かのことではなく自分のこと、自分も加担していることなのだ。そしてはたと気づくとその真っ只中にいて身動きが取れなくなっている。その過程は一見長閑だが、ふと息が詰まりそうになる。
 すずはぼんやり長閑な人で、何か失敗したり責められたりしても、困ったように笑う。そんな彼女が怒りを露わにし慟哭するシーンが1か所だけある。彼女の怒りは、自分達がやってきたのは「そんなこと」だったということ、蔑ろにされたということに対してであり、また自分達も誰かを蔑ろにしてきたことに対するものでもあったのではないか。そして、こういうことになっても容赦なく日常は続き、悲惨さも苦しみもいずれ日常に回収されてしまうということに対してではないか。


『聲の形』

 小学生の石田将也(入野自由)は、聴覚障害を持つ転校生の西宮硝子(早見沙織)に興味を持ち、彼女をからかうが、それは学級全体に波及し硝子は孤立していく。しかしある出来事をきっかけに、将也が周囲から孤立、硝子は転校してしまう。5年後、高校生となった将也は硝子と再会、今度こそ「友達」になろうとする。原作は大西良時の同名漫画、監督は山田尚子。
 『けいおん!』『たまこラブストーリー』を手掛けた山田監督、脚本の吉田玲子、製作スタジオは京都アニメーションという布陣で、アニメーション映画としてのクオリティは、作画、演出共に高い。キャラクターデザインは可愛らしいが、演技をやらせすぎないところがよかった。声優の演技もデフォルメ度が低いというか、そのへんにいそうな男子、女子感を打ち出している。特に将也役の入野の演技が素晴らしく、この人いつの間にかこんなに上手くなっていたのか!とびっくりした。
 ただ、アニメーションとしてのクオリティはとても高く映像上の演出もセンスがいいのだが、ストーリー上これでいいのか?と疑問に思うところも。これは原作由来のものなので言ってもしょうがないところはあるのだが、良作なだけに気になってしょうがなかった。山田監督は、個人にとって世界が美しく輝く瞬間を切り取るのが上手いだけに、とても勿体ない。
 将也たちと硝子の間に生じる食い違いと破綻は、それなりに安定していた共同体に異物、全くの他者が出現した(というよりも自分達以外を「異物」と認識してしまう)ことから生じるものだろう。硝子は仲間に入りたい一心で、あえて空気を読まずに踏み込んで来たりする。将也たちにとっては、硝子とコミュニケートするためには彼女に合わせた方法を取らなければならないし、自分達のやることの腰をいちいち折られるような気がするのだろう(それをフォローするのは教師の役目だろうが、本作の担任教師はまあひどいな)。彼らにとって、硝子は徐々に鬱陶しい存在になっていく。もしも彼らが大人だったらもっと上手い折り合いの付け方がわかるのだろうが、そのへんのスキルの低さが生々しく子供な感じがした。
 そもそも論になってしまうのだが、硝子が他者として出現する存在だとしたら、聴覚障害者であるという設定は必須ではなのではないだろうか。差異があるんですよと最初に明らかにする為の設定なのだろうが、逆に原因(と将也たちが捉えるもの。実際はもっと色々のものが交じり合っている)がはっきりしすぎていて、そこから先に考えが及ばないのではないかなと思った。将也と級友の間にも当然差異や誤解があり、それが段々露呈していく。自分とは違う、必ずしも自分の意思に沿わない相手とどう意思疎通し折り合いをつけていくか、という部分が大事なのだと思うのだが。
 原作だともっと具体的に、聴覚障害があると何に困るのか、周囲とのギャップがどういう形で出るのかという部分が描かれているので何となく納得がいったのだが、映画だと尺の都合上、ちゃんと踏まえてはいるがあっさり目なのも一因かもしれない。
 また、将也が硝子に恋心を抱くことはあり得ても、硝子が将也に、というのはちょっと無理筋すぎないか。原作がそうなっているからしょうがないと言えばしょうがないんだけど、彼女がされたことを考えると、恋愛どころか信用するのも難しいだろう。そこを越えていく、お互いに許しあうということが一つのテーマだったんだろうが、恋愛要素を入れたことでそこがぼやけてしまった気がする。好意がなくても許せるのかと思ってしまうし。あと、そもそも許されると思うなよという気持ちも見ていて拭えなかったからなぁ・・・。

『ゴースト・バスターズ』

 コロンビア大学に勤める素粒子学者のエリン(クリスティン・ウィグ)は、大学との雇用契約が成立するのを心待ちにしていたが、かつて友人のアビー(メリッサ・マアカーシー)と共著で出版した心霊現象研究書が、大学研究者には不適切だと雇用を打ち切られてしまう。エリンは過去を隠していたが、アビーが勝手に本を再版していたのだ。怒ったエリンはアビーの元に乗り込むが、なりゆきで幽霊を目撃。アビーとその研究仲間のホルツマン、地下鉄職員のパティ(レスリー・ジョーンズ)とで、幽霊退治専門会社「ゴーストバスターズ」を結成する。監督はポール・フェイグ。
 ある世代より上だったら知らない人はいないであろう、1980年代の大ヒット作品『ゴースト・バスターズ』のリメイク。元作品はバスターズは男性たちだったが、本作のバスターズは全員女性。とは言え、過剰に男性だから・女性だからという描き方ではなく、まず第一に「この人はこういう人」という造形になっていると思う。個々のキャラクターとその言動に無理がない感じがした。キャラクターのビジュアルの作り方も、かっこよすぎず悪すぎず、かつ個性は際立たせるというさじ加減がいい。特に衣装の選び方は抜群だと思う。オシャレな服装というのではなく、この人だったらこういう方向性のダサさが出そう、この人はこういう色合いを好みそうといった、あくまで「この人ならどうなるか」という所に注力している。アビーのツイードっぽいスーツはダサ可愛いし(きちんと目の恰好でも部屋着っぽい恰好でも同じ度合いでダサいという調整度が素晴らしい)、アビーは実用性重視のカジュアル、ホルツマンはレトロかつマニッシュ、パティは光物大目でカラフルで、どれもその人に似あっている。
 エリンとアビーは幼馴染ということを前提にしても、バスターズはそこそこ仲良さそうだし、だからこそのクライマックスの盛り上がりだろう。ただ、仲がいいとは言ってもそれほどベタベタしていないし、お互いにプライベートの詮索はあまりしない(少なくとも作中ではあまりそういうやりとりは描かれない)ところがいい。フェイグ監督の作品で私が見たのは『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』(2011)のみなのだが、この作品では(結婚式という背景のせいもあるんだろうけど)仲が良いにしろ悪いにしろ女性同士の関係、コミュニケーションの見せ方が露悪的すぎて辟易とした。本作では、バスターズの間に仕事、そして好きなことを研究している(パティは違うけど)という共通の目的があるので、そのあたりが緩和されているのかもしれない。なんにせよ、好きなことを思いっきりやっている人を眺めるのは気分がいい。
 なお、バスターズに雇われる、イケメンナイスバディだが全く無能な「秘書」をクリス・ヘムズワースが演じている。正直、本編では精彩を欠いている(表情と動きに乏しいからかな・・・)ように思ったが、エンドロールでは大活躍するしキュートなので、最後までご覧ください。それにしても、どんなにルックスがセクシーで美形でも、あまりに頭悪いと人はどん引きするものなのね・・・。メンクイらしいアビーのみ楽しんでいるが、多分彼と付き合おうとかは思っていないのだろう。

『孤独のススメ』

 オランダの田舎町で、妻を亡くして以来、規則正しく静かな生活を送っているフレッド(トン・カス)。ある日、正体不明の男テオ(ルネ・ファント・ホフ)が現れる。なりゆきでテオを自宅に泊めたフレッドだが、杓子定規だった彼の日常は徐々に変わり始める。監督はディーデリク・エビンデ。
 邦題やポスターの雰囲気から予想されるものとは、だいぶ違う境地に連れて行かれる気がする。しかし見て良かった。クライマックスにカタルシスがある。シャーリー・バッシーの名曲『This is My Life』が切々と迫ってきた。フレッドの少々珍妙にも思える行動の理由がようやく腑に落ちるのだ。そうか、ここに至りたかったのか!と。邦題『孤独のススメ』は作品の意味合いからちょっとずれているように思うが、逆説的な意味合いで付けたのかな。原題が「マッターホルン」なので、直訳だとこれまた何のことかわからないだろうしなぁ。
 フレッドの生活は起床時間、食事の時間、曜日ごとのスケジュールまできっちりと決まっている。しかし言葉を持たず、意思疎通も困難なテオが現れることで、彼の規則正しい毎日にはズレが生じる。そのズレや予想のつかなさにいら立つフレッドだが、徐々に許容するようになり、なりゆきでテオと子供向けの余興巡業までするようになる。奇妙な闖入者により日常が引っ掻き回され、主人公の心境に変化が生じるというのは一つのストーリーの定型だろうが、闖入者が特に美形でもない中年男性で、しかも主人公(男性)がその人物に強い愛着を持つようになるというパターンは珍しい気がする。フレッドのテオに対する態度は、最初のうちは犬や猫、あるいは子供に対するいらだちと親しみに近いような気もするが、テオと共に生活するうち、そういう人として受け入れていくし、彼に対する自分の愛情を認めるようになる。型はずれであっても友情も愛情もあり得るのだ。テオはフレッドにとっていわゆる「マレビト」的な存在なのかもしれず、だとすると、隣人が彼に執着し始めるのも頷ける。
 フレッドが住む町は宗教的に非常に厳格なのだが、オランダの田舎ってこういう感じなのかな?かなり誇張されているのだろうか。「日曜日(休息日)だから遊びや仕事は慎む」という習慣は、最近では減っているのではないかと思うが。


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