3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『COLD WAR あの歌、2つの心』

 冷戦下、ソ連占領地帯のポーランド。歌手を目指し歌劇団に入団したズーラ(ヨアンナ・クーリク)とピアニストのヴィクトル(トマシュ・コット)は激しい恋に落ちる、しかしヴィクトルは政府に目をつけられるようになり、パリへの亡命を決意。ズーラに同行を願うが、待ち合わせ場所に彼女は現れなかった。やがて歌劇団の公演先で再会した2人は、お互いの気持ちに変わりがないことを確認するが。監督・脚本はパヴェラ・パヴリコフスキ。
 試写で鑑賞。モノクロの映像がクールで美しい。また、ズーラが歌手なだけあって音楽映画としてもいいのだが(監督がジャズ好きらしく、ジャズの選曲がいい)、彼女が歌うポーランドの歌曲「2つの心」が何度も違うアレンジで繰り返される。アレンジの違いが、ズーラとヴィクトルの関係の変化と重なっていくようでもあった。一番最初のシンプル、素朴なバージョンにはもう戻れないというような寂しさがまとわりつく。
 ズーラはヴィクトルの亡命についていかなかった理由を、「(自分が)まだ未熟で全てあなた(ヴィクトル)に劣っているから」だと言う。ヴィクトルにはこの理由はぴんとこなかったみたいだが、彼女の人となりをよく表わした言葉だと思う。相手に自分の全てをゆだねるのが嫌というか、イニシアチブを一方的には取られたくないのだろう。同じ熱量で向き合う関係、2人で同じ方向を見ることを強く求めているのだと思う。対等でありたいのだ。だからヴィクトルが音楽プロデューサー目線で君にはこの曲がいい、この歌詞がいいと指導するとカチンとくる。彼女が彼に求めているのはそういうことではないのだが、よかれと思ってやっているヴィクトルにはそこがわからないので、2人はすれ違い続ける。すれ違いつつ強く深く愛し合うという奇妙な関係を10数年間にわたって描くという、なかなかしんどいロマンス映画だ。しかし思いが深すぎてまともな関係(と世間的にみなされるような関係)に落とし込めない2人の在り方は胸に響く。
 作中時間は10数年にわたる大河ドラマなのだが、映画自体は90分程度と短い。経過する年数の省略の仕方が思い切っており、省略された部分が多々あることで2人が経た時間、そして彼らの背後に流れる歴史としての時間の経過がより際立っていたように思う。コンパクトな編集が良かった。

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『コレット』

 フランスの田舎町で育ったコレット(キーラ・ナイトレイ)は、14歳年上の人気作家ウィリー(ドミニク・ウェスト)と結婚し、パリで暮らし始める。コレットの文才に気づいたウィリーは自分のゴーストライターとして彼女に小説を書かせるが、これが大ヒット。最初は夫と共に喜んでいたコレットだったが、徐々に自分が書いたことを伏せ続けられることに葛藤を覚え始める。監督はウォッシュ・ウエストモアランド。
1890年代、ベル・エポック時代のパリのサロンの華やかさと、パリに出てきたばかりのコレットとの対比が印象に残った。コレットの服装は当時の風俗に疎い人が見ても、多分野暮ったいんだろうなとわかるものだ。そんな彼女がパリで暮らすうちどんどん洗練され、おしゃれになっていく。コレットのファッションがとても楽しい。ウィリーはもちろん洒落者なので、これはどれだけお金があっても足りないのでは、と思っていたら案の定家計が火の車。ウィリーがゴーストライターたちに給料を払えず、やむなくコレットに書かせたことで、彼女の才能が開花していく。
 ウィリーとコレットは一見いいチームに見える。ウィリーは経営者、プロデューサーとしては実際に有能と言えるだろう。ただ、いいチームに見えてしまう所が厄介なのだ。もし2人が対等な契約関係、純粋なビジネス上の関係だったらこれはいいチームといって差支えないのだが、コレットはウィリーの妻であり、当時の妻は夫と対等とはみなされていなかった。ウィリーはコレット曰く「うるさいけど割と自由にさせてくる」のだが、「自由にさせてくれる」という表現が出てくるってことは、本当には彼女は自由ではない、ウィリーと対等ではないということだろう。ウィリーはコレットを愛しているし彼女の才能を認め活かそうとしてはいるので、関係の不均等さが見えずらいし、当事者であるコレットもなかなか気づかない。ウィリーはコレットが女性であること、妻であることに甘えているわけだ(妻だから原稿料支払わなくていいという理屈なわけだし)。自分の持ち物の一部みたいな気持がどこかである。自分が色々教え導いてやる相手という認識から離れられないのだが、実際のコレットはどんどん先に進んでおり、ギャップが生じていく。
 コレットには同性の愛人がおり、ウィリーは最初は容認しているどころか、自分もその愛人にアプローチしていく。共犯関係というよりも、自分が彼女に影響を持ち続ける、彼女を自分の一部にしておくためのちょっかいの掛け方のように思えた。コレットがミッシー(デニース・ゴフ)との関わりの中で自立への道を歩み始めると、陰湿な嫌がらせをする。ウィリーにとってコレットは自分の作品のような存在でもあり、自分が思う枠から外れられるとすごく嫌なのでは。それはやはり、対等な関係とは言い難い。
 ミッシーの存在がコレットにとって非常に大きかったことはわかるのだが、肝心のミッシーは本作では今一つ存在感が薄くそこは残念だった。彼女(彼)はトランスジェンダーと思われるが、そのあたりの表現があいまい。もうちょっと踏み込んでも良かった気がする。

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『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

ゴジラによって大きく破壊された世界。更にゴジラに誘発され、モスラ、ラドン、キンギギドラなど次々と太古の怪獣たちが復活し始める。未確認生物特務機関モナークは、怪獣たちの覇権争いによって人間の世界が破壊されるのを阻止しようと奔走する。監督はマイケル・ドハティ。
ゴジラガチ勢がゴジラ映画を作るとこういう感じになるのか・・・。ある意味非常に目的意識がはっきりした、ハマる人にはハマるがかなりいびつな作品だと思う。私は嫌いではないし楽しんだけど、ストーリー構成は破綻していると言っていいだろう。ベラ・ファーミガ演じるエマ・ラッセル博士の迷走ぶりを筆頭に、人間の登場人物の行動原理が矛盾している、行き当たりばったりでストーリーの都合上無理やり後付けしたもののように見えるのだ。そのストーリーについても、物語を展開させるためのものというよりも、見せたいシーンと見せたいシーンの間をつなぐ為にのみとりあえず作ったものという印象が強い。ストーリーテリングが申し訳程度で、あくまで見せたいのは絵なのだ。
どういう絵を見せたいかというと、もちろん怪獣と怪獣が大激突をしてとっくみあい、世界を蹴散らす姿だ。引きで「激突!」シーンを見せるのはもちろん、なぜか怪獣の足元に回り込みたい欲が頻発していて、監督のフェティッシュに満ちている。作り手の興味がある所とない所の落差が極端だ。人間ドラマには本当に興味がないんだなと実感できる。
ゴジラたち怪獣のビジュアルは神話の世界感あって素晴らしい(特にモスラは美しい!蛾のくせに!)。ただ、ちょっとキャラクターを載せすぎな気がした。怪獣同士で結構コミュニケーションが取れているみたいだし、キングギドラにいたっては首同士で個性が違ってちょっとコントみたいなくだりも。そういう部分は二次創作的な味わいがあり(明らかに怪獣キャラ萌え映画なので)、見る側の好みは分かれそう。私は怪獣は人間の解釈が全く及ばない、別のロジックで行動しているものとして考えているので、こういうキャラ付けは若干煩さを感じた。そこに感情移入したくないんだよな。

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『幸福なラザロ』

 イタリアの小さな村に住む青年ラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ)。村の人々はデ・ルーナ侯爵夫人の小作人として昔ながらの生活を続けていた。実は小作人制度は何年も前に禁止されており、侯爵夫人は村人をだましていたのだ。侯爵夫人の息子タンクレディが起こした事件がきっかけで事実が明るみに出て、村人たちは離れ離れになっていく。監督・脚本はアリーチェ・ロルヴァケル。
 現代の寓話、神話のようだった。ラザロに起こるある出来事は超常現象的だし、村人たちが外の世界と隔絶されている様もちょっと地に足がつかない、不思議な浮遊感がある。彼らの生活はすごく実直で質素、地に足がつきまくっている感じなのだが、現代の目から見たら逆に浮世離れしているのだ。侯爵夫人の嘘がバレた後は、地に足のついている様が全く別の方向性を向いてしまうのが哀しい。
 ラザロはいわゆる聖なる愚者のような存在だが、村の中では最終的に搾取される、善人故にいいように使われる存在になってしまっている。そして村人たちは侯爵夫人に搾取される。場所や時代は変わっても搾取の連鎖はなくならないというのが辛い。村人たちは傍から見たら搾取から一度解放されるが、別の連鎖に投げ込まれまた苦しい生活が続くにすぎないのだ。
 本作が現代の寓話のようだと前述したが、単におとぎ話の背景が現代だという意味合いではなく、現代だとこういうふうになる、という部分が強調されているように思った。ラザロは善良で仙人みたいなところがあるが、呼ばれればどこにでもついていき、相手の望みをかなえようとする素直さは危うく見えるし、犬のようだ。おとぎ話の王道であればラザロの無垢さ・善良さが周囲を救う、周囲を良きものに気づかせるということになるのだろうが、そうはならない。彼の無垢さが誰かを救うことはない(一時の慰め程度にはなるが)し、彼自身を救うこともない。そもそも、ラザロの無垢さは、周囲にはそれと認識されていないように思った。無垢という概念がない、プライオリティとなりえないのが現代なのか。現代に聖者を出現させるとこういう話になっちゃうのかなと思った。
 音、特にシューシューと鳴る息の音や風の音の使い方が面白い。不吉さや人々の不満は、音で表わされるのだ。

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『荒野にて』

 15歳のチャーリー(チャーリー・プラマー)は父(トラヴィス・フィメル)と各地を転々としている。家の近くの競馬場で、厩舎のオーナー・デル(スティーブ・ブシェミ)に声を掛けられ生活費の為に働き始めるが、競走馬のピートを可愛がるようになる。ある日、父がガールフレンドの夫に暴力を振るわれ、重傷を負い死んでしまう。施設に連絡されると聞いたチャーリーは、ピートを乗せたトラックを盗み、伯母が暮らすワイオミングを目指す。監督はアンドリュー・ヘイ。
 チャーリーはどこにいても所在なさげだ。冒頭、彼がトロフィー(何のトロフィーなのか後々わかってきて切ない)を窓辺に飾ったり、家の外に散らばっているダンボールを片づけたりする姿から、彼が生活をきちんとしたいという意思を持っていること、安心できる居場所としての「家」を欲していることがなんとなくわかる。しかし父親と共に各地を転々としており、落ち着いた「家」は持てずにいることも。父親はチャーリーのことを愛してはいるが、彼が望むような安定や安心感は与えられないのだ。チャーリーも父親のことを愛しているが、こと子供の保護者をやると言うことに関しては、愛だけでは不十分なんだよなとつくづく感じた。チャーリーは学校にも通っておらず、ネグレクトされていると言ってもいいくらいだと思うのだが。
 そんなチャーリーの居場所となるのが、厩舎での仕事だ。彼のピートへの思い入れは少々過剰にも思えるのだが、自分がケアする必要があり、自分のケアに率直に答えるピートの存在はチャーリーの拠り所になっていく。またデルにしろ騎手のボニー(クロエ・セビニー)にしろ、いささか雑ではあるがチャーリーのことを案じて手助けをする。
 とは言え、ピートはもちろん、デルもボニーも、またその後に関わってくる大人たちも、チャーリーのことを気にはかけるが、十分ではない。彼の保護者、彼の居場所になるには力不足だ。チャーリーは世の中のことを全然知らないまま世間=荒野に投げ出されてしまったようで、その旅路はおぼつかず非常に危なっかしい。チャーリーにはもちろん愛情が必要だが、より必要なのは具体的なケア、安心して得られる衣食住であり、教育だろう。とにかく具体的なものが必要なのだ。彼の姿はいつも所在なさげで痛々しい。彼がある場所で、学校には行けるか、フットボールはできるかと確認するが、そんなささやかなことが・・・と何とも切ない。そしてラストシーンの彼が一層幼く見えた。安心して年相応に見えるようになったのか、まだおぼつかないまま幼いということなのか、少し不安が残る。
 主演のプラマーがとても素晴らしい。不安を漂わせる微妙な表情の変化や、姿勢の変え方等とてもよかった。最後、それまでと顔つきが全然違うように見えるのでちょっと驚いた。

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2019-03-06


『ゴッズ・オウン・カントリー』

 ヨークシャーで老いた祖母(ジェマ・ジョーンズ)や病身の父(イアン・ハート)に代わり、牧場を切り盛りし牛と羊を育てているジョニー(ジョシュ・オコナー)。父親は気難しく、ジョニーは深酒と行きずりのセックスで日々をやり過ごしていた。ある日、羊の出産シーズンを手伝う為に雇われた、ルーマニア移民の季節労働者ゲオルグ(アレック・セカレアヌ)がやってきた。最初は反発するが、ジョニーとゲオルグは急速に距離を縮めていく。監督はフランシス・リー。
 ゲイであるジョニーにとって、保守的な田舎町であろう故郷は決して自由な土地というわけではないだろう。とは言え、彼は牧場の仕事を「クソだ」といいつつも心底嫌ってはいないように見える。車で街に出たら行きずりのセックス相手くらいは見つかるみたいなので、ゲオルグの故郷の状況とはおそらく大分違うのだろう。今までのセオリーだったらこれは故郷を出ていく話になりそうだが、そうはならないところに時代が(多少なりとも)変わってきたんだなと実感した。旅立つ話は、それはそれで素敵だけど、自分(達)にはこの土地があると思えるのも素敵だし希望がある。祖母も父も、ショックは受けるがセクシャリティを理由に彼を糾弾したり追い出したりはしない。デリカシーがあるのだ(この点は、田舎か都会かというよりも、個人レベルの差異のような気がするが)。『ブロークバック・マウンテン』からここまで来たか・・・。セクシャリティに対する情報量が全然違うもんな。選択肢は確実に増えているのだと思いたい。
 冒頭、ジョニーが嘔吐しているシーンで、トイレの便座にカバーがかかっていたり、バスルーム内がこぎれいだったりと、彼が生活面ではきちんとケアされて育ってきたのだろうことが垣間見える。祖母が家の中をちゃんと切り盛りしているのだ。その年齢で服の用意までしてもらってるなんてちょっと甘えすぎ!という気はしたが、いわゆる荒れた家庭環境で育ったというわけではないんだなとさらっとわからせる見せ方だった。それでも現状のジョニーは大分荒んでいるように見える。彼の荒み方は父親との関係の険悪さ、自分をセクシャリティ込みで理解してくれる身近な人がいない孤独から来るものだろう。
 その荒んだ部分がゲオルグによってやわらげられていく様に、なんだかぐっときた。最初の接触は緊張感が漂い過ぎていて、セックスなのか殴り合いなのか、どちらに転ぶのかわかりかねるようなピリピリ感がある。しかしその後、ジョニーがゲオルグに急に甘える様や身の委ね方には、それまで見せなかったリラックス感がある。ちゃんと思い思われている感じが出ているのだ。ゲオルグの相手に対する配慮の仕方とか、生活をちゃんとしようという姿勢(食卓に花を飾るとか料理をするとか)も、気持ちを和らげさせるものだろうし、ジョニーにとっては救いのようだったろうなと。
 ジョニーの振る舞いは無骨だが根の繊細さが垣間見えるもの。鳥の声の使い方が彼の中の繊細な部分を表しているように思えた。籠の中の鳥(ジョニーは多分鳥好きで飼っているんだと思う)の鳴き声だったものが、どこか外界でさえずる鳥の鳴き声に変わる。

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『GODZILLA 星を喰う者』

 武装要塞都市メカゴジラシティを起動させ、ゴジラに挑んだハルオ(宮野真守)らだったが、あと一息という所で失敗。更にその過程でビサイルドたちと地球人たちとの間に亀裂が生じる。ハルオは自信喪失し敗北感に苛まれていた。一方、エクシフの大司教メトフィエス(櫻井孝宏)はある目的の為に信者を増やしていた。監督は静野礼文&瀬下寛之、ストーリー原案と脚本は虚淵玄。
 アニメーション版『ゴジラ』3部作完結編。次作はもっと面白くなるのかな?盛り上がるのかな?と思っているうちに完結しちゃったな・・・。大きな難点や欠点があるとか非常に突っ込みたくなるとかではなく、漠然とさほど面白くないという、一番絡みづらい雰囲気になってしまった。怪獣の強さ能力設定や地球の変容度合いの設定等、ちょっと盛りすぎなくらいなんだけど、ドラマの濃さがその盛りの良さに追いついていないように思った。エクシフの「宗教」の設定には、ちょっと古さも感じる。このニュアンスは90年代末から00年代一桁台くらいなのでは・・・。今だと、わざわざそれやる?何度も見たやつでは?って気分になるのでは。
 個々の構成要素はそんなに悪くないのだろうが、組み合わせると食べ合わせが悪かったなぁという印象。これはゴジラというフォーマットでやるべき話だったのかな?と疑問に思った。ゴジラを外しても、文明の肥大化という設定さえあれば成立しちゃうんだよね。ゴジラを見たい人の為の映画ではないんじゃないかなと思う。私はゴジラにはさほど思い入れがないけど、本作のゴジラの見せ方にはあまり「怪獣」としてのスケール感とか魅力は感じなかった。今作のゴジラは過去最大サイズだけど、その大きさが映えていない。観客の予想を裏切るようなゴジラを!という意図だったのかもしれないが、だったらゴジラ使わなくてもいいよなぁ・・・。
 個人的にはあんまりぱっとしない印象の本作だが、櫻井孝宏劇場としては鉄板だった。櫻井孝宏が中の人のキャラといえばこういう感じだろう、という要素が集結されたセルフパロディような役柄でした、メトフィエス。




『コーヒーが冷めないうちに』

 喫茶店フニクリフニクラには、不思議な噂があった。ある席に座ると望んだ時間に戻れるというのだ。その不思議な現象は、店員の時田数(有村架純)がいれたコーヒーにより起こる。しかしいくつかのルールがあり、それを守らないと元の時間に戻れないのだ。店には様々な事情を抱えた人たちが訪れる。原作は川口俊和の同名小説。監督は塚原あや子。
 116分の作品だが、構成は映画よりも連続ドラマ向き。連作短編集的な構造で、30分×4回くらいの気軽に見られるTVドラマだとちょうどいい感じの話だった。個々の客の事情を順番にフォーカスしつつ、数が長年抱えるわだかまりにフォーカスしていくという構成なのだが、映画としては長すぎでメリハリに欠ける。ビジュアルもTVドラマっぽく平坦な印象で映画としては安っぽい(特に店内セットがテーマパーク内の飲食店みたい)。また結構いい役者が出ているのになぜか全員普段より下手に見え、よっぽど製作期間が短かったのかと思ってしまう。TVドラマとして見たら、多分そんなに悪い印象にならないので、メディアを間違ったなぁとしか・・・。
 特に気になったのは、導入部分の不恰好さだ。タイムスリップの「ルール」については本編中でも説明されるので、冒頭でわざわざ字幕にする必要はなかったのでは。また1つ目のエピソードが、それ過去に戻らないと言えないこと?って感じ(作中でも突っ込まれるくらいだし)でちょっと嫌になってしまった。タイムスリップする客を演じた波瑠が丸損した感じなっちゃっている。ただ、ドラマは徐々に持ち直す。特に松重豊と薬師丸ひろ子が演じるエピソードは時間が積み重なることの豊かさと残酷さ両方を見せており悪くない。



『500ページの夢の束』

 スタートレックが大好きなウェンディ(ダコタ・ファニング)はスタートレックの脚本コンテストが開催されることを知り、大作を書き上げる。しかし郵送では間に合わないと気付き、パラマウント・ピクチャーズまで自分で届けることを決意。しかし自閉症を抱えている彼女は、生活の範囲はごく限られており一人で遠出をしたことなどなかった。はたして数百キロ離れたハリウッドに辿りつけるのか。監督はベン・リューイン。
 邦題はダサいが(原題は『Please Stand By』)良作。リューイン監督は『セッションズ』(2013)が「人と違う(故に大多数の中では不自由である)」ということに対して誠実な向き合い方をしていると感じさせる作品だったのだが、本作も同様。冒頭、ウェンディの毎日の生活を通し、彼女が何に対して困難を抱えており、それをクリアするためにどういう工夫が(本人からもケアする人からも)なされているのかをさらっと見せている。説明的になりすぎないがわかりやすく、見せ方が上手い。ウェンディのケアをしている施設の職員スコッティ(トニ・コレット)の振る舞いがとてもいい。適度な愛情がありつつプロとして一線を守っている感じ。
 ウェンディは何も出来ないというわけではなく、ルーティンがはっきりと決まっていれば仕事だって出来る。ただ、1人で遠出をしたことはないから長距離バスの乗り方や切符の買い方はわからないし、額面通りに受け取るコミュニケーションの癖は危なっかしくてハラハラする。リアルに考えるとかなり怖いシーンがあると思う。
 ウェンディは他人の感情に疎いし感情表現に乏しいが、感情がないわけではない。スター・トレックの登場人物の1人スポックと同様に、感情を理解しようとしている。彼女も他人と、ことに家族とコミュニケーションを取りたいし、側にいたいのだ。そういう感情や愛、そしてなぜ自分はそれを上手く表せないのか、本当はどのように伝えたいのかということも含め、彼女は脚本という形で表現する。彼女にとってスター・トレックは自分を代弁し補完するもの、自分の一部なのだ。人間がなぜ物語を愛するのか、物語が人をどのように支え、変え得るのかとてもよく伝わる作品。

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『恋は雨上がりのように』

 怪我によって陸上部選手として活躍できずにいた高校生・橘あきら(小松菜奈)は、雨宿りに入ったファミレスで店長の近藤正己(大泉洋)と出会ったことがきっかけで、そのファミレスでアルバイトを始めた。あきらは近藤への恋心を募らせるが、45歳離婚歴あり子供ありの近藤はその想いに戸惑う。原作は眉月じゅんの同名漫画、監督は永井聡。
 漫画原作だからなのか監督のテイストなのか、漫画的なコミカル、誇張された表現が度々見られるのだが、本作の場合はそれがミスマッチだったように思う。全体の構成や台詞も、もっと映画という媒体に寄せた方がよかったんじゃないかなと、少々勿体ない気がする。映画には映画としての表現方法があるので、漫画やアニメ、あるいはTVドラマの見せ方にそんなに近づけなくてもいいんだけどな。
 あきらの店長に対する想いは恋だが、近藤は(心揺れることはあっても)あきらに恋をしているわけではないだろう。あきらのことを好ましく、まぶしく思うことはあっても、それは本人が言及するように、自分が若い頃に抱いていた(そして本当は今も抱いている)情熱を思い出させる、媒介のようなものだ。恋愛物語としてはあきら側に大分寄せており、より青春映画のテイストが強まっているように思った。
 青春映画として悪くないなと思えた要因の一つは、あきらの同級生や後輩役の俳優たちが好演していたということもある。あきらの幼馴染で陸上部の同期でもあるはるかを演じる清野菜名は、前半はちょっと演技がぎこちないのだが、夏祭りのあたりからぐっと良くなる。近藤と話しているあきらの姿を見た時の表情や、その後の思いの吐露等、すごく巧みな演技というわけではないが心情がこもっている感じ。他校の陸上選手であきらと競いたいと願うみずき役の山本舞華も、素直さとふてぶてしさが同居しているような表情が良かった。
 キャスティングの妙としては、やはり大泉の安定感が大きいだろう。高校生がギリで好きになりそう、かつ未成年に手を出さなそうという信頼感。近藤の大学の同期で人気作家の九条ちひろ役に戸次重幸を起用しているあたりは確実に双方の古参ファンを狙っているのだろうが、色々な意味でもにゃもにゃしますね・・・。


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