3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『栗の森の物語』

 1950年代、イタリアとユーゴスラビアの国境に位置する、栗の森に囲まれた小さな村。長引く政情不安から、人々は村を離れていった。老大工マリオ(マッシモ・デ・フランコビッチ)は音信不通の息子からの便りを待ち、妻と共に村に留まり続けていた。栗売りのマルタ(イバナ・ロスチ)は、戦争へ行ったまま帰ってこない夫を待ち続けている。数通の手紙の内容によると、夫はオーストラリアにいるらしい。監督はグレゴル・ボジッチ。
 映像が非常に美しい。森の風景がそもそも魅力的なのだが、ライティングと色合い、質感の調整がとても美しい。監督はフェルメールやレンブラント等のオランダ印象派の画家に影響を受けたそうで、ライティングの繊細さも頷ける。特に室内のライティングは確かにフェルメールっぽい。暗い部分は本当に暗くてぱっと見何が起きているのかわかりにくかったりもするのだが、その分、光本来の稀さみたいなものが感じられる。舞台となる季節は栗の収穫時期である秋から初冬にかけてと思われるのだが、空気の冷たさや木や草の匂いまで感じられそうな映像。花だか綿毛だかみたいなものが舞うシーンなど非常に美しく刺さってきた。自分の中の原風景みたいなものに触れる感じ。ただこの美しさは、その中に実際に暮らしていないから無防備に享受できるものではないかという気もした。かつてここに住んでいた人たちの記憶としての美しさなのか、全くの部外者だから他人事として受け止められる美しさなのか。
 人々は村から離れていき、見捨てられた地になっていくわけだが、土地の記憶は残る。作中に登場する亡霊たちはその記憶で、それが生きている人たちを迎えに来ているように思えた。故郷を捨てることは悲しいことではあるのだろうが、その土地から解放されるという面もある。特に女性にとってはそういう面が強いのではないかと、マルタの姿を見ていて思った。馬車に乗っていた2人の女性(この人たちが村から出て行くのかはわからないが)も全然悲壮感なくて楽しそうだ。マルコの妻への態度は彼固有のものというより、そういう文化の土地なのだという側面が強そう。そりゃあ出て行きたくなるよな。

ノベンバー
ディーター・ラーザー
2023-11-08


帰れない山
スラクシャ・パンタ
2023-11-08






『心は孤独な狩人』

 1930年代末、アメリカ南部の町。聾唖の男シンガーは、一緒に暮らしていたやはり聾唖のアントナプロースが施設に入れられたことで、町の下宿屋に部屋を借りて近くのカフェに通うようになる。カフェの店主ビフ、カフェに通う少女ミック、ミックの家で働く黒人女性ポーシャとその父親であるコープランド医師、流れ者のジェイク。カフェに集う人々の語りをシンガーは静かに受け止めるように見えた。
 シンガーは耳は聞こえないが、人の唇の動きを見て相手の話を理解する。彼の「聞き方」は相手に信頼感を抱かせシンガーは自分のことを分かってくれる、受け止めてくれると思うわけだが、シンガーにとってはそういうわけでもない。誠実に話を聞いてはいるが、相手がそこを過剰評価しており、シンガーにはシンガーの都合があるということを彼が発言できない故に失念しているのだ。そのすれ違いがシンガーをiある種神格化していく。シンガー本人とのずれが徐々に気持ち悪くなってきた。本作は群像劇だが、登場する人たちは交流はあるがお互いに相手のことをよくわかっていない。章ごとに主人公格が交代していくので、親しいつもりが一方通行だったという様が露わになっていくのだ。皆自分のことで精いっぱいで他人のことを考える余裕があまりないという面もある。社会的、経済的、精神的に追い詰められていく人ばかりだ。彼らはその苦しみをシンガーに吐き出すが、シンガーにもまた苦しみがある。彼の苦しみだけ誰にもわからない(他の人たちのものは多少周囲にわかる)というのがまた痛ましい。
 登場人物たちの造形の多くは現代では「クィア」と称されるものだろう。それが彼らを世の中の多数派から遠ざける。特にビフのミックに対する渇望のようなものは大分まずいと思われるのだが、本人もうすうす自覚がある、ただあの時代ではこれを何と名付けどう対処していいかわからないからより混乱するのでは。

心は孤独な狩人
マッカラーズ,カーソン
新潮社
2020-08-27


結婚式のメンバー (新潮文庫)
マッカラーズ,カーソン
新潮社
2016-03-27




『熊は、いない』

 ジャファル・パナヒ監督(ジャファル・パナヒ)はトルコで偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている若い男女を主人公にした映画の製作中だ。イランでの映画製作は政府から禁じられている為、国境近くの村からリモートで助監督レザに指示を出して撮影を行っている。ある日、滞在先の村の住民がパナヒを訪ねてくる。昔からの掟で許嫁同士の男女がいるが、女性に思いを寄せるもう1人の男性がおりもめているというのだ。監督・脚本・主演はジャファル・パナヒ。
 パナヒ監督が自身をモデルにしたような同名の監督を演じ、そのパナヒが撮影している作中作、その撮影のスタッフと出演者、そして監督であるパナヒが滞在している村での出来事という3層から成るストーリーだ。トルコの男女が偽造パスポートを使って出国しようとしていることが冒頭で提示され、さらにそれが撮影中の映画の中の話だということがわかる。じゃあ監督はどこにいるのかというと遠く離れた場所からリモートで指示を送っているとわかるというふうに、映画を見る側の視点がストーリー構成の層を移動していく。どういう構成になっているのかを感覚にすんなりとわからせるつなぎ方が上手い。Wifiが弱くて現場への指示がままならなかったり、村人がやたらと絡んできたりとユーモラスに始まるのだが、徐々に不穏な雰囲気になってくる。俳優カップルは現実でも出国を何度も試みているが上手くいかず困っている。村人たちはパナヒが村の慣習を妨害するのではと彼に不信感を募らせていく。村人たちがパナヒの顔をつぶさないようにという体で徐々に圧をかけてくる様はザ・田舎!という感じ。
 という撮影現場と村には共に国境を越えて逃げようとしているカップルがいる。どちらのカップルも、この国・村では自由に生きることができないからだ。どちらのカップルも自分たちの人生がかかっており葛藤は深い。そんな中、俳優カップルが抱える事情を踏まえつつ、そういう問題を抱えていたカップルが無事に出国できたというストーリーを演じさせ、それを「希望のある物語」として提示するという行為は残酷なものではないかという側面が見えてくる。ことにその「希望」は当事者ではなく監督や映画観客が想定している(都合のいい)ものだとすると。本作の監督であるパナヒは自分たちの行為の不遜さに自覚的で、それに対する批判も引き受けなくてはならないという覚悟が見えた。現実の脱出の顛末には、監督は何ら関わることが出来ないしその結果生じたことに責任を持つこともできない。そういう立ち位置で出演者の人生に立ち入ることは果たしてフェアなのかと、作劇法自体が問われていくのだ。
 2組のカップルのうち、1組のカップルの女性は最後まで姿を現さない。彼女に思いを寄せる男性や村の人々は彼女の心情はああだこうだと言うが、本人の言葉が語られることはない。許嫁ではない男性と愛し合ったという話だが、それが真実なのかどうかは結局わからない。俳優カップルの女性も私の願いを勝手に決めるなと怒る。女性たちの声に直接耳を傾ける人がいないのだ。彼女らが脱出したいのはこういう環境なのではないかと思えるが、それも確かめられることがない。声自体ないことにされているままなのだ。

これは映画ではない [DVD]
モジタバ・ミルタマスブ
紀伊國屋書店
2015-05-30


人生タクシー (字幕版)
ジャファル・パナヒ
2021-10-01




『グレイラットの殺人』

M・W・クレイヴン著、東野さやか訳
 貸金庫を襲った強盗団のうち1人が現場で殺され、ネズミの置物が残された。その3年後、サミット開催が迫る中、要人搬送用ヘリコプター会社の社長が殺された。サミットを狙ったテロを懸念する政府は、殺人事件の専門家としてポーに捜査を命じる。しかしMI5の存在はポーには邪魔なだけで捜査はなかなか進まない。それでも手がかりを追っていく中、容疑者が浮上するものの状況は二転三転していく。
 刑事ワシントン・ポーシリーズ4作目。冒頭はちょっとユーモラスでこんな映画過去に見たことあるような気が…と思ったらいきなりシリアスになる。これが真相と思ったら新たな展開、そしてまた新たな事実、そして背後にあるものは…という組み立て方、ミステリ・サスペンスの要素が多方向にてんこ盛りになっている、ちょっとやりすぎなサービス精神の旺盛さは前作『キュレーターの殺人』の構成と似ているように思う。1作の中に何作も入っているような感じなのだ。ただ、著者あとがき(これがまた長い)によるとプロット自体は本作の方が先にできており、一旦保留されていたネタだそうだ。ちゃんと再利用できてよかった!ただ、ミステリ・サスペンスとしては盛りが良すぎてちょっと食傷気味になった。このへんでもう打ち止めにしては…という所で更に追加していくのは作風なのか。これはちょっと不自然では?と気になった部分がちゃんと回収されているのはよかったが。
 ポーの仲間は相棒のティリーを筆頭に女性ばかり。ポーがそこに何か思う所あるわけでもなく、キャラクター小説的なサービス感というわけでもなく、単に有能な人材が女性だったという温度感は現代的だと思う。ポーは逆に男性集団の中での方がやりにくいタイプなのかもしれない。男性集団特有のマウントとグルーミングが一体になったようなノリに興味なさそうだ。タフでひねくれものの一匹狼タイプというといかにもマッチョそうだが、意外とマッチョではないという所がポーの良さではないか。





『グランツーリスモ』

 カーレースゲーム「グランツーリスモ」に熱中する青年ヤン・マーデンボロー(アーチー・マデクウィ)は、ゲームのトッププレイヤーたちを本物のレーサーとして育成するプログラム「GTアカデミー」に選抜される。プログラムの発起人ダニー(オーランド・ブルーム)は、ゲームプレイヤーの才能と可能性を信じ賭けに出たのだ。一方、指導を引き受けた元名レーサーのジャック(デビッド・ハーパー)は現実のレースの世界はゲームプレイヤーが対応できるような甘いものではないと考えていた。世界中から集められたトッププレイヤーたちが厳しいトレーニングに挑む中、ヤンは徐々に頭角を現していく。監督はニール・ブロムカンプ。
 グランツーリスモというゲームはゲームではなくレースシュミレータだという製作者側の言葉が作中で出てくる。カーレースの楽しさ、レーシングカーの美しさ・かっこよさを伝えたい、それが車を持つという文化が生き残る道だと。そういう意味では本作はグランツーリスモの精神に誠実に沿っていると言えるだろう。車はかっこいいし楽しい、自在に運転できるともっと楽しいという高揚感が伝わってくる。ソニーと日産のプロモーション映画という側面は否めないが、実話が元だからしょうがない。グランツーリスモというゲームがいかに精巧にできているか証明される話でもある。
 ドラマとしては大変オーソドックスな修行によるのし上がり、スポ根的なものなのだが、そのストレートさが娯楽としてちょうどいい。こういうのでいいんだよ!ブロムカンプ監督にとってはいわゆる雇われ仕事ということになるのだろうが、意外と手堅く過不足なく作っており、職人的な誠実さを感じた。こういう作り方もできる人なんだという一面を見ることが出来て、それもうれしい発見。
 ドラマ上はさほどひねりはないのだが、ヤンと父親の関係を分量は少ないもののきちんと描いている所にも職人的な手堅さ、目配りの良さを感じた。これは脚本の良さだろう。ヤンの父親はおそらく最後まで、息子がどのような世界を見て目指しているのかぴんときていないだろう。しかしわからないながら、息子がが今自分が好きなことに一生懸命である、自分らしい生き方をつかもうとしていることを理解し感動する。その「わからなくとも愛し支持する」距離感の大切さをさらっと見せていたように思う。そしてヤンも、父親も父親自身が好きなことに夢中だった時輝いていた、それが今の父親を形作っていると理解しているのだ。
 ヤンが本当にゲームが好きなのだということが一貫しておりブレがない。レースシーンもゲーム上の演出に則って表現されるのだが、レーサーであるヤン視点でも上手く運転できている時は更にゲームの中のように感じられるという一貫性。ゲーマーからレーサーになるのではなく、ゲーマーのままレーサーになるのだ。ゲームに耽溺することを否定しない、すごく好きなことから道が開けていく所が気持ちよかった。
 
【PS5】グランツーリスモ7
ソニー・インタラクティブエンタテインメント
2022-03-04



「ALIVEHOON アライブフーン」Blu-ray
野村周平
バップ
2023-07-12


『クライムズ・オブ・フューチャー』

 環境の変化に適応しようと人類の肉体も進化し、痛みの感覚が消えた世界。体内で新たな臓器が生み出される加速進化症候群という病をわずらうアーティストのソール(ヴィゴ・モーテンセン)は、元外科医のカプリース(レア・セドゥ)をパートナーとして、自身の臓器にタトゥーを施し摘出するというパフォーマンスを披露し、人気を博していた。人類の間違った進化を食い止めるために政府が作った臓器登録所もまた、ソールに注目していた。ある日、ソールの元に生前プラスチックを常食していたという子供の遺体を解剖してみないかという話が持ち込まれる。監督はデビッド・クローネンバーグ。
 ヴィゴ・モーテンセンのルックスがクローネンバーグに寄せられている気がしてちょっと笑ってしまった。クローネンバーグにとってのあらまほしき自分という側面もあるのかもしれないが、ナルシズムの発露みたいでちょっと面白いし可愛げがある。また、本作で描かれる身体の問題というのはクローネンバーグにとっては案外パーソナルなものなのかもしれないとも思った。
 痛みのない世界で肉体的に傷をつけ合うことが性的な興奮に繋がるという描写もあるが、本作は性的欲望の多様さ、フェティッシュについては実はそれほどフォーカスしていない。どちらかというとより根源的な、「食」の部分の方が前面に出てくる。どうも本作で描かれる世界では、人類の身体は変容しており通常の食に困難を抱えている人が出てきているらしい。ソールもその一人で、食事を介助する為の補食機(なぜそのデザイン…みたいなクローネンバーグらしさはあるのだが)を使っている。また、従来なら人間には毒になる成分を好んで摂取する人間も生まれている。従来の「普通」や「健康」がその人にとって苦痛な場合、その苦痛さを病として扱うのは適切なのか?その人の体に合った固有の「普通」や「健康」があるのでは?という、人間の肉体の在り方に対する疑問の提示思えたにも。ラストでソールが見せる表情はようやく自分のあるべき形が許されたという安堵のものではないかと。ディティールはいかにもクローネンバーグ作品らしくグロテスクさもあるのだが、案外生真面目な作風ではないかと思う。

スキャナーズ リストア版 [Blu-ray]
パトリック・マクグーハン
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2013-05-10


ヒストリー・オブ・バイオレンス [DVD]
エド・ハリス
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2017-12-16


『CLOSE クロース』

 13歳のレオ(エデン・ダンブリン)とレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)は幼馴染でいつも一緒に過ごしてきた。同じ中学校に入学するが、その親密さを同級生にからかわれる。戸惑ったレオはレミと距離を取ろうとするが、やがて2人は大ゲンカをしてしまう。監督・脚本はルーカス・ドン・アンジェロ・タイセンス。
 レオとレミは親密であり、2人の間にははっきりと愛情があると言えるだろう。ただ、その愛情はいわゆる恋人同士のもの、性愛とは一概には言えない(含まれているかもしれないが)。2人のセクシャリティは作中で明示されることはない。しかし同級生が「2人は付き合っているの?」と尋ねるように、世の中は親密な2人がいるとなぜか性愛と結び付けたがる。なぜそうもカテゴライズしたがるのか、単に「親密な2人」というだけでいいじゃないかと同級生の無神経さに苛立った。世の中は名前がついていないもの、付け難いものを許さないのだなと。ヘテロセクシャルだろうがホモセクシャルだろうがカップルであれという圧がすごい。じゃあ性愛の希薄な人同士の情愛だったらどうなるんだ、いくら何でもくくりが雑だ等といらいらする。余計なお世話なのだ。
 レオは世間の通念に馴染もうとして、わかりやすい男らしさ、カテゴライズのされやすい振る舞いを試みるが、その姿はどこか板についていなくて痛々しく見えた。そしてレオの世間向けのパフォーマンスにより突き放されたレミの傷つきは深い。2人の行き先があまりに痛ましく、何でこんなことになってしまうのかとやりきれなかった。世間的な通念が生む害悪って本当に罪深いよな…。
 過剰な盛り上げ方はされないが、ディティールのさりげなさの積み重ねが説得力を生んでいた。レオの心情の言葉にできなさやレミの母親との関係等、言語化されない部分に凄みを感じる。レオは家業である花農家の手伝いをまめにしておりよく働く子供なのだが、両親や兄との関係は良好である様子が見て取れる。それはレミも同様で、親子の間に愛情があるし親が子供のことをよく見ているというのもわかる。それでもなお、親が子供のことを救いきれない、理解が及ばない時があるというのもまたやりきれなかった。悔恨の深さに立ちすくみそうになる。子供視点でも辛いのだが親の視点でも大変辛い。

Girl/ガール
ティヒメン・フーファールツ
2020-04-03


おれの墓で踊れ (徳間文庫)
エイダン・チェンバーズ
徳間書店
2021-08-11




『グリッドマン ユニバース』

 かつて異次元から現れたハイパーエージェント・グリッドマン(緑川光)と、高校生の響裕太(広瀬裕也)たちによって救われた世界。高校2年生に進級した裕太は、同級生の六花(宮本侑芽)に告白することを決意。しかしまたしても怪獣が出現する。裕太の前に再び姿を現したグリッドマンは、この世界のバランスが崩れようとしていると告げる。やがて真紅の強竜ダイナレックスや、グリッドマンを助ける新世紀中学生、さらに別世界の住人である麻中蓬(榎木淳弥)たちも現れる。監督は雨宮哲。
 円谷プロダクションの特撮ドラマ「電光超人グリッドマン」を原作としたテレビアニメ「SSSS.GRIDMAN」「SSSS.DYNAZENON」の2作品の続編であり、2作がクロスオーバーする劇場版作品。SSSSシリーズ2作を見ていることが前提となっている内容なので基本的にファンアイテム的ではあるのだが、とても楽しく見た。こういう怪獣が!巨大ロボのアクションが見たいでしょう!というファンの好きであろうものを直球で投げてくるてらいのなさ。ロボットのギミックが多すぎてもう飽和状態なのだがさすがに豪華さは感じる。TVアニメの華やかさ(本作は劇場用作品だがベースはTVアニメなのでTVアニメ演出に近いと思う)ってこういうのだったなぁ、こういうのでいいんだよとしみじみかみしめてしまった。
 一方で、物語=フィクションをなぜ求めてしまうのか、創作物をどのように受容するのかということと意外に真面目に向き合ったシリーズだったと思う。グリッドマンは立花と内海(斉藤壮馬)がグリッドマンを主人公にした演劇台本を書いていると知り、裕太に「君の物語は?」と尋ねる。裕太の物語を自分が横取りしてしまったのではと懸念してのことなのだが、グリッドマンの物語を通して裕太は自分の物語を生きているわけだ(忘れてしまっているが)。これはフィクションが人間にとって何なのかということとも重なってくるように思う。物語に耽溺するオタクには避けて通れない、というか常に共にある問いをメタ構造で取り込んでいるのだ。作中、ある存在が「グリッドマンは私のものだ」と言うが、これはファンの言葉でもあり、そこに執着しすぎるな、私「だけ」のものではないのだという自戒でもあるような気がする。
 なお、本シリーズにおいてテーマソングを手掛けたオーイシマサヨシの功績は大きいと思う。テーマソングで作品のインパクトがかさ上げされており、アニソンとして滅茶滅茶正しい。

SSSS.GRIDMAN 第1巻 [Blu-ray]
稲田徹
ポニーキャニオン
2018-12-19


SSSS.DYNAZENON Blu-ray1巻(特典なし)
神谷浩史
ポニーキャニオン
2021-06-16


『グリーン・ナイト』

 アーサー王の甥ガウェイン(デブ・パテル)は、正式な騎士にはならず怠惰な日々を送っていた。クリスマスの日、円卓の騎士が集う王の宴に異形の「緑の騎士」が現れる。彼は恐ろしい首切りゲームを持ちかけ、挑発に乗ったガウェインは緑の騎士の首を斬り落とす。しかし騎士は落ちた首を拾い上げ、ガウェインに、1年後に自分を探し自ら膝をついて一撃を受けろと言い渡して去っていく。1年後、ガウェインはクリスマスに緑の騎士と再会する為旅に出る。監督・脚本はデヴィッド・ロウリー。
 作中時間の伸び縮みが自在で、永遠のようでもあり一瞬のようでもある。クライマックスでガウェインが体験することも、正に一瞬の中に人の一生が走るような現象だ。この時間の演出が神話、伝説という味わいを深めているように思う。映像と音楽も影のある美しさ。背景が時に描き割っぽく見えるのも逆に神話感出していたと思う。ガウェインが旅していく姿をやや上方から映すショットは、ちょっとオープンワールド系ゲームのように見えた。こういうショットが最近の傾向なのかな?以前はあまり見なかった気がする。
 ガウェインは騎士ではなく、結構ぐうたらしているし懇意にしている女性との関係もなあなあのままだ。旅に出るのもしぶしぶといった体で、道中の姿も少々情けない。いわゆる強い男性、勇気ある男性ではない。緑の騎士を探す旅は、そんな彼の成長の過程でもある。ただ、その成長は「騎士」らしい強い男性、勇気ある男性、いわゆる成功者への道をむしろ回避していくものに見えた。彼のある選択に明確に表れているのだが、強者・成功者になることとは違う成長の道がある、その道の方が自身を延命することがあると示しているように思う。伝説を下敷きにした物語だが、この部分は結構現代的な解釈なのではないか。
 そして何より、ガウェインの旅は母親が与えた試練を乗り越え、彼女の庇護から抜け出していく旅でもある。ガウェインの母親は魔女のような力を持ち、彼に魔力の宿った腰帯を与える。この腰帯の使い方が象徴的だった。

A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー [DVD]
ルーニー・マーラ
Happinet
2019-12-03



 


『靴ひものロンド』

 ナポリで暮らす4人家族は平穏な日々を送っていたが、父アルド(ルイジ・ロ・カーショ)が浮気を告白したことで激震が走る。ショックを受けた母ヴァンダ(アルバ・ロルバケル)は夫を責めるが離婚には絶対応じない、4人で暮らし続けるのだと主張する。激しい口論の末アルドは家を出て愛人の元へ。そして月日が流れ、老夫婦となったアルドとヴァンダはバカンスへ向かう。しかし帰ってくると自宅は激しく荒らされていた。原作はドメニコ・スタルノーネの小説『靴ひも』、監督・脚本・編集はダニエーレ・ルケッティ。
 アルドが深刻な顔で浮気を告白するから、この後別れようとか何とか具体的な話が出るのだろうかと思っていたら、告白しただけで何もしない。えっ言うだけ?!じゃあ何で言ったの?!とヴァンダならずともキレるだろう。アルドとしては秘密を持たないことが夫婦間の誠実さというつもりなのだろうが、言って自分は楽になるだけで何もかたをつけない方が不誠実だろう。彼のこの態度にスイッチを入れられたかのようにヴァンダがどんどんおかしくなっていく。彼女の必死の引き止め・説得からは、この人は夫や子供のことを深く愛しているから4人家族一緒にという形態にこだわる(1980年代の話だという背景もあるだろうが)んだろうな…と思っていたら、老年になってからのパートでこの頃の彼女の心情が明かされる。そこまでこじれても一緒にいるのか、でも一緒にいたらいたで喧嘩ばかりだという関係性が、おかしくも悲しい。夫も妻もどっちもどっちで、夫婦といってもお互いわかっていないことばかりだ。
 そして子供たちにはまた、それぞれの視線がある。幼かった彼らへのダメージがずっと残っている、大人になっても消化しきれていなさそうな様子が痛ましくもあった。かといって両親がそろっていないと!仲良くないと!という話ではない。「家族の絆」という言葉はえてして身がない。絆らしきものが逆に不幸を招くという側面がある。本作は家族映画と言えるだろうが、家族の不完全さ、奇妙さを描く家族映画で、決して心温まらない。諦めが肝心な時もあるのだ。

靴ひも (新潮クレスト・ブックス)
ドメニコ・スタルノーネ
新潮社
2019-11-27


マリッジ・ストーリー
ランディ・ニューマン
Rambling RECORDS
2020-02-26


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