3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『きっと、それは愛じゃない』

 ドキュメンタリー監督のゾーイ(リリー・ジェーズ)は幼なじみの医師カズ(シャザト・ラティフ)が見合い結婚をすると知らされる。今時の英国でなぜ親が選んだ相手と結婚するのかと納得できないゾーイは、制作会社からドキュメンタリーの新ネタを要求された際、見合い結婚の軌跡を追うドキュメントを撮ると勢いで断言してしまう。渋るカズを説得して撮影を始めるが、自分のカズに対する気持ちに気付いてしまう。監督はシェカール・カプール。
 ゾーイとカズは幼馴染で家族ぐるみの付き合い。シングルマザーであるゾーイの母親にとってはカズ一家が家族の代わりでもあった。じゃあゾーイの母親は異文化に対しての理解も深いのかと思ったら、差別的な発言がポロポロある所がなかなかリアルだしハラハラさせられる。パキスタンからの移民であるカズの家族と仲は良いが、彼らの文化や社会背景を理解しているというわけではないのだ。このあたりの、悪意はないが結果として差別的になっているという表現の匙加減が上手い。また親が子の結婚相手を選ぶことが普通である文化の姿、そのメリットも描かれ、基本ラブコメだが異文化ギャップコメディとしても目配りがきいている。どちらの文化がいいと断言するわけではないのだ。
 ゾーイは世代的にも母親よりは異文化を受容・理解しているが、それでも親の為に結婚するという文化圏の考え方には同意できない。とは言え恋愛による「運命の人」を探す彼女が付き合う相手が押しなべてクズなので、これはもう親の采配を頼った方がいいんじゃないかとも思わせる。親の紹介で親しくなる獣医がすごくいい人っぽいし(そこが物足りないんだろうけど…)。彼女がなぜクズに惹かれてしまうのか自分を見つめなおす過程になっているのだ。結婚と家族と個人を巡るあまり浮つかないラブコメで、ラブコメがそんなに好きでない私にも楽しめた。
 それだけに、ラブコメが基本にある以上やはりそのオチになるかという物足りなさもあった。もうちょっと攻めてもいいんじゃないかなー。

あと1センチの恋(字幕版)
サム・クラフリン
2021-01-27


クレイジー・リッチ!(字幕版)
ソノヤ・ミズノ
2020-11-13


『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

 1956年、日本の政財界を裏で牛耳る龍賀一族の当主が死亡した。血液銀行に勤める水木(木内秀信)はその弔問という建前で、会社から密命を受けて龍賀一族の本拠地である哭倉村を訪れる。次期党首の座を巡り、村には険呑な空気が漂っていた。そんな中、遺言により次期党首に選ばれた者が何者かによって殺害される。村にさ迷いこんだ謎の男(関俊彦)が捕らえられるが、彼は行方不明の妻を探しているのだと言う。水木は謎の男と協力して龍賀一族の秘密を探り始める。監督は古賀豪。『ゲゲゲの鬼太郎』原作者である水木しげるの生誕100周年記念作品となる。
 2018〜20年に放送されたテレビアニメシリーズ「ゲゲゲの鬼太郎」第6期をベースに、鬼太郎の父親である目玉おやじの過去と鬼太郎誕生にまつわる物語を描く長篇作品。本作の舞台は太平洋戦争後、これから高度成長期を迎えようという1956年だが、現代パートもあり、鬼太郎(第6期ver)も登場する。とは言えメインは1956年、鬼太郎第6期に少しだけ登場したことがあり、一部でやたらと人気だった鬼太郎の父親と彼と出会う人間・水木が中心となる物語。テレビシリーズを彷彿とさせる様式としての派手なバトルシーン(なんというか、あー東映アニメーション!という気分になる)がある一方で、妙に個性的なアクション作画もあり、また時代設定を踏まえた美術面も力が入っていてビジュアル面はなかなか楽しい。ストーリーも、因習にまみれた村で陰惨な殺人事件勃発、そこに巻き込まれる探偵役というまんま横溝正史的なフォーマットにゲゲゲの鬼太郎世界を落とし込み、更に謎の男と水木との交流と友情も盛り込むという、というミステリ+怪奇+バディームービーという盛りの良さ。
 本作、おそらく暴力描写故にPG12設定なのだが、そもそも時代設定やストーリーは大人向けだろう。太平洋戦争の記憶はまだ生生しいものの、社会は経済的復興に向けて邁進していく。水木もその流れに乗り、戦地での記憶を封印して出世のみを目標にがむしゃらに進む。そういった熱気が急速な復興を支えたという側面はあるだろうが、一方向への大きな流れの中で切り捨てられていくもの、踏み台にされていくものがあるということが、物語の根底になっているのだ。(6期鬼太郎はわりとそういう側面があるが)本作の怪奇と謎のベースにはこの構造が織り込まれており、予想外に戦中~戦後、そして現代へ至る日本社会への視線と批評がある。ことの顛末を目撃した水木はある人物の生き方に対して「つまらない」と言うが、この言葉が画一的な「成功」「成長」を目指してきた社会に対するカウンターになっており、それは原作の精神を踏まえたものではないかと思う。エンドロールまでみっしりと使ったストーリー展開になっているのだが、原作ファンにはここでそうきたか!といううれしさがあるのでは。更にこの人たちがいたからこその鬼太郎(本作では原則6期verで、原作鬼太郎とのテイストは違うと思うが)のキャラクターであるという、人間と共に生きようとする妖怪という人物造形の説得力が生まれてくるあたりにもファンとしてはぐっとくる。


墓場鬼太郎 第一集 [DVD]
野沢雅子
角川エンタテインメント
2008-04-23


 

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』

 1920年代、オクラホマ州オーセージ郡の居留地に暮らす先住民オーセージ族は、この土地で石油が見つかり発掘が行われたことによって莫大な富を得た。しかしその富に目を付けた白人は「後見人」制度を作って彼らを操り、支配しようとしていた。伯父ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼ってオーセージ郡にやってきたアーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)はオーセージ族の女性モーリー・カイル(リリー・グラッドストーン)と結婚する。モーリーには姉妹がいたが病気や他殺で次々に亡くなる。町では彼女らの他にもオーセージ族の人々が多数亡くなっていた。原作はジャーナリストのデビッド・グランによるベストセラーノンフィクション『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』(文庫版は映画と同題名)。監督はマーティン・スコセッシ。
 面白いがやはり長い(206分)。この長さが必要だということは理解できるが上映時間が劇場へ行くことのハードルを上げているのは勿体ない。また、ストーリー構成も力作だが少々勿体なさというか、それでいいのかと気になる所があった。私は原作を先に読んでから見たのだが、それ故映画の切り口の難点が目についた。ドラマとして成立するようによく構成しなおしてあるなと感心はしたが、この切り口だと原作で書かれてた本質的な問題から目が逸れてしまうのではないかと思う。
 本作(映画)だと主人公格はアーネストで、彼が伯父であり一帯を仕切る有力者であるヘイルの計略に取り込まれていくという構図が前面に出ている。アーネストは頭はそれほど切れないがヘイルからの指示を忠実にこなす程度の器用さはある。ただ自分がしていることがどういう意味を持つのかまでは考えない。彼の愚かさが目につくということもあり、ある男が一族のしがらみ、ファミリービジネスから逃れられないという話に見えてくる。そうなると、連続殺人事件はある一族が欲に駆られて行った犯行と解釈されるのではないかと思う。
 ただ、確かにあるヘイルが主導で行ったという側面はあるが、その背後にあるのは何なのかという所がこの話の重要な所だろう。連続殺人の背景にあるのは後見人制度に見られるようなオーセージ族に対する搾取の構造、「先住民は殺してもいい存在だ」という強烈な人種差別だ。これは特定の一族に限ったことではなく、白人社会全体にあった通念だろう。作中で後見人制度やモーリーに対する「無能者」というカテゴライズ等でその背景は察せられるが、当のオーセージ族がどのように感じていたのかという面はあまり見えない。本作はあくまで白人側の物語なのだ。モーリーに存在感があるだけに、彼女(ら)側の物語として描いた方が史実に対して誠実だったのではないかと思う。本作の構造だと、ラストに自虐ネタのように挿入されるショーと同じく「白人向けエンターテイメント」になりかねないのではないか。原作は大量の資料と調査に基づく力作であり、原作に基づく本作もオーセージ族の文化・歴史へのリサーチ等はきちんと行っているようだし、オーセージ族の登場人物には実際に先住民の俳優を起用しているようなので、非常に勿体ないと思う。


グッドフェローズ (字幕版)
ジョー・ペシ
2014-02-24








 
 

『君たちはどう生きるか』

 母親を亡くした少年は、東京から田舎の屋敷に引っ越した。その屋敷には父親の再婚相手である、亡き母の妹が暮らしている。少年は奇妙な鳥に誘われて、森の中の廃墟となった塔に入る。監督・脚本・原作は宮崎駿。
 吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」からは題名を借りるに留まっている(着想元ではあるだろうし作中に本著が登場するが)。事前情報全くないまま公開された本作、実際に見てみるとかなりオーソドックスな児童文学ファンタジーという印象を受けた。異界へ行って帰ってくる、その過程で生きる力を得るという王道のフォーマットだ。世評では難解だという声が多いようだが、ファンタジー系児童文学に親しんできた人(当然監督は素養があるわけだし)にはむしろ馴染みやすいのでは。少なくとも『崖の上のポニョ』よりは全然アナーキーではないと思う。「帰りし」をちゃんとやるところに監督の価値観が見えた。
 主人公の主観が強い世界の描き方であるように思う。世界のゆがみや誇張は彼にはそのように見えるということなのだろう。屋敷の迷宮のような雰囲気も、初対面の老婆たちが異形の動物の群れのように見える(老いた男性より老いた女性の方が不気味なものとして描かれているのはどうかと思うが)のも、鷺の悪魔めいた動きも、彼の主観が強く反映されているのでは。実際、屋敷での生活が進むにつれ老婆たちは1人1人見分けのつく人間として見えてくる。一方で義母のなまめかしさは宮崎監督作品としては珍しい女性の造形では。彼女が義理の息子である主人公にはっきりと憎しみをぶつけてくるのもこれまでの作品の「母」とは異質。ただ、そういう女性でも最終的には「母」というカテゴリーに収束してしまうところに限界を見た。主人公が子供である以上しょうがないのかもしれないが、圧倒的他者として自分と対峙する女性というものは描けなかったんだなと。
 ジブリ作品(だけでなく最近の長編アニメーション)では珍しく原画担当の個性が強く出たパートが目立つ所で好き嫌いが分かれそうだが、アニメーションとしては依然として濃度が高い。ただ、全体としては宮崎監督作品のアニメーションの力、魔力みたいなものは薄まっている印象。見始めたら最後まで見ちゃうみたいな吸引力は感じられず、ぴしっとしまらない感じが所々にある。近年、キャラクターの表情の作り方等に露悪的な表現が目立つようになったのが気になっていたが、本作でも歯や皺の描き方にそれが如実だったと思う。ジブリ作品といえば食事シーンが魅力的なことに定評があるが、本作中のジャムパンを食べる口元はむしろ禍々しい。「おいしそう」のカリカチュア化をあえてやりすぎるとこうなるのかと。異界の背景やディティールのうごめき方も月並みに思えた。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)
吉野 源三郎
岩波書店
1982-11-16



『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』

 人気漫画家の岸部露伴(高橋一生)は、相手を本にしてその人の過去を読み、指示を書き込むこともできる特殊能力「ヘブンズ・ドアー」を持つ。この世で最も邪悪な「最も黒い絵」がルーヴル美術館に所蔵されていることを知った露伴はフランスを訪れる。しかし、美術館職員は「黒い絵」を知らず、データベースに記録があった絵の保管場所は、今はもう使われていないはずの地下倉庫「Z-13倉庫」だった。荒木飛呂彦の漫画をTVドラマ化した『岸辺露伴は動かない』シリーズの劇場版作品。脚本は小林靖子、監督は渡辺一貴。
 私は原作はさわりを読んだ程度、TVドラマシリーズは全話楽しんだ。ドラマがなかなか面白かったので劇場作品の本作も見てみたが、ドラマと同じように楽しめた。一般的にTVドラマの映画化作品に対して、(画面や脚本のクオリティが)「映画っぽくない」という批判は映画ファンの間で生じがちだ。確かに、劇場版といっても絵の作り方はTVドラマっぽくあまり奥行がなかったり、ストーリー展開も派手なイベントが増えて長尺になっただけみたいな作品もある。本シリーズはTVドラマとしての映像の質感は割とリッチな方だと思うし、劇場用作品としても悪くはないが、やはり「TVの絵としての良さ」に寄っている感はある。
 ただ、それは本当にダメなことなのか?と最近思うようになった。TVドラマの劇場用作品はTVドラマファンの為のものであって、必ずしも「映画」であることは期待されていないのではないか。大事なのはTVシリーズの作風、キャラクター(俳優)が維持されていることではないかと。そういう意味では本作はTVシリーズの視聴者に対して忠実な作品と言えると思う。せっかくルーヴル美術館でロケをしているんだからもっと建物のスケール感や現地の風景を盛り込んだ方がいいのにと思わなくもないが、そもそも本作見る人はルーヴルやパリを見たくて見に来ているわけではないだろうから。それよりは岸部露伴と泉京香(飯豊まりえ)が魅力的に活躍することの方が大事だろう。そこに関しては問題はなくて、特に京香の人としての健やかさはユーモラスであると同時に息抜きになる。
 ちょっともったいないと思った点は、怪異の背景について説明しすぎだった所。本シリーズにおける怪異はシステムと防御法は解明できてもその正体、根っこの部分はよくわからないという部分が往々にしてあったと思うし、そこが魅力でもあった。本作は「なぜ」の部分を逐一丁寧に説明する。しかもかなりウェットな方向の説明で、少々くどいし時間的にも長すぎだったと思う。TVシリーズとは味わいがちょっと違うかも。差別化とも言えるが。


岸辺露伴は動かないⅡ ブルーレイ [Blu-ray]
内田理央
NHKエンタープライズ
2022-07-22




『逆転のトライアングル』

 人気モデルのヤヤ(チャールビ・ディーン)と、同じくモデルのカール(ハリス・ディキンソン)は美男美女カップルとして売れている。は、ヤヤのインフルエンサーとしての影響力を買われ、豪華客船クルーズに招待された。船内では富裕層の客がバケーションを満喫しており、高額チップ目当てのクルーたちは乗客のわがままを受け入れていた。しかし船は事故を起こし、生き残った人たちは無人島に漂着。飲食物も電気もない状態でのサバイバルが始まる。監督・脚本はリューベン・オストルンド。
 オストルンド監督は「ザ・スクエア 思いやりの聖域」に続き本作でもカンヌでパルムドールを受賞。しかし本作がパルムドールを取るということ自体、カンヌはスノッブな白人の世界ですよと言っているようなものな気がするのだが…。正直、そんなに斬新でも面白みのある作品とも思えなかった。社会的なヒエラルキーが邦題の通り逆転することで生じる喜劇を描いているのだが、ヒエラルキーが逆転するという構図があまりに額面通りに映像化されていて、それ以外にはっとする要素が感じられない。フレームばかりが目につく感じなのだ。映画の文脈だけが前面に出ていて映像の面白みが伴っていないとでも言えばいいのか。序盤の、ヤヤとカールのジェンダーを巡るやりとりも、あまりにも「こういうのありそうでしょう」というやりとりで、取ってつけたように聞こえた。コンセプト優先で作られている作品なのでは。このコンセプトだったらこうなるでしょうね、という予想の範疇からはみ出ない。
 逆に言うと、社会のフレームはそれだけ強力で予想外の余地がないということかもしれないが。逆転したくらいで価値観はゆらがないし、ゆらいでも何かの拍子にすぐに元に戻る。トライアングルは逆転したかもしれないが、そのトライアングル内で起きること自体は同じなのだ。


ロビンソン・クルーソー(新潮文庫)
ダニエル・デフォー
新潮社
2020-01-17


『教育と愛国』

 戦前の軍国主義への反省から、戦後の日本の教育は政治と切り離されてきた。しかし2006年に教育基本法が改正され、戦後初めて「愛国心」が盛り込まれた。それ以降「教育改革」をうたって教科書検定制度が力を増していく。教科書の編集者・執筆者へのインタビュー、日本の加害の歴史を教える教師や研究者へのバッシングの取材を積み重ね、教育現場の危機を浮き上がらせる。ナレーションは井浦新。監督は斉加尚代。2017年に大阪・毎日放送で放送され、ギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞した『映像’17 教育と愛国 教科書でいま何が起きているのか』に追加取材と再構成を施した劇場版作品。
 教科書検定の方向性が大分変ってきているという話は聞いていたが、こんなにはっきり「愛国」方向に舵を切っているとは。見ていてぞっとした。そもそも、教科書に「愛国」を盛り込む人たちが考える「愛国」は、施政者にとって都合のいい「愛国」であって、国民は美しい幻想を見て施政者の言うことを聞いていればいい、みたいなスタンスに思える。そもそも教育でどうこうするものではないだろう。本気で自分の国を愛している人は、政治や国のあり方が間違っていると思ったら、国を良くするためにどんどん口出ししてくるものではないかと思うのだが。全肯定して過去の過ちや問題を見ないことにするのは愛国ではないだろう。政治が教育に介入してくるのは、ごちゃごちゃ言われたくないから、大人しく言うことを聞く国民が欲しいからなんだなと痛感するし、その方向に舵を切ってしまった日本はこの先どうなるんだと不安が止まらない。
 こういう教育、特に歴史教育を続けていたら、個人の自力で考える力や疑問を持つ力はどんどん失われていくのではないかと、とても不安になった。その観点から生徒の考える力、疑問を持つ力を伸ばそうとする授業を行う教師も登場するが、大変なバッシングを受け学校側からも注意勧告を受ける羽目になったそうだ。学校が意欲的な授業をする教師を守らないでどうするんだと思うが。
 作中で度々、「ちゃんとした日本人」あるいは「美しい日本」という言葉が使われる。ここでいう「ちゃんとした」「美しい」とはどういう意味なんだろうと不思議だった。ことに歴史学者の口からこういう情緒だけで中身が空疎な言葉が出てくるというのは末期的な気がする。この歴史学者、「歴史なんて学んでどうするんですか」とまで言うから本当に末期的なんだろうけど。


 
 

『金の糸』

 ジョージアの首都、トビリシの旧市街にある古いアパートで暮らす作家のエレネ(ナナ・ジョルジャゼ)。同居している娘夫婦が、姑のミランダにアルツハイマーの症状が出始めたので、この家に迎えて同居すると決めた。ミランダはソビエト時代に政府高官だったので、体制に反発していたエレネは同居が気に食わない。一方、エレネのかつての恋人アルチルから数十年ぶりに電話がかかってくる。監督・脚本はラナ・ゴゴベリゼ。
 エレネは足が悪く、なかなか外出できない。彼女の毎日は自宅の室内とベランダとの行き来で終始しているように見える。しかしその室内とベランダがとてもいい感じ。特にベランダには鉢植えがたくさんあり、ちょっとした庭みたい。ベランダで体操をしたり中庭や向いの部屋にいるご近所さんとお喋りをしたりと、結構動きがあるのだ。わざわざはしごを登ってきてくれる人もいるのがユーモラス。中庭がある古い(相当古い)アパートという構造が、映像映えしていた。ほぼ室内劇といってもいいのだが、外からの訪問があるので作品全体に意外と動きが感じられるのだ。
 老いるということは、たとえ子供や孫がいたとしても孤独なものなのかとつくづく感じさせられた。家族と一緒にいれば孤独ではないというわけではなく、自分が生きた時間を同時代として共有できる相手が減っていくことが堪えるのではないだろうか。エレネとアルチルは電話で思い出を語り合うが、実際に顔を合わせることができなくても2人とも生き生きとしている。またエレネとミランダは犬猿の仲といってもいいが、それでも娘夫婦と一緒にいるときよりはエレネは張り合いがありそうなのだ。暗黙の了解のように、台所で一緒にお茶を飲むシーンが印象に残った。2人の思想や立場は相容れないが、それでも同じ時代を生き今老いている、という点で通じるものがあるのだと思う。
 エレネとミランダの齟齬は、ジョージアとロシアの歴史に根差すものだ。ミランダにとっての豊かな善き時代は、エレネにとっては執筆活動を禁止され自由な思想を奪われた時代だ。ミランダが理想に燃えて思ってやってきたことがエレネの、エレネのような大勢の人の人生を破壊してしまった。文化の土壌の一部は共有しているがやはり別の国家・文化圏で「ひとつのロシア」にはなりえないということなんだろう。

葡萄畑に帰ろう(字幕版)
ヴィタリ・ハザラゼ
2019-08-21



『奇跡』

 「奇跡の映画カール・テオドア・ドライヤーセレクション」にて鑑賞。ユトランド半島で農場を営む地主の一族・ボーオン一家。家長のモルテン・ボーオン(ヘンリク・マルベルイ)は信仰心篤いが、長男ミケル(エミル・ハス・クリステンセン)は神を信じず、次男ヨハネス(プレベン・レルドルフ・ライ)は自分をキリストだと思い込み、正気をなくしたと思われていた。三男アーナス(カイ・クリスチャンセン)は仕立て屋の娘アンネに思いを寄せていたが、アンネの家はボーオン家とは宗派が異なりモルテンは許さなかった。監督はカール・テオドア・ドライヤー。1955年の作品。
 原作はカイ・ムンクの戯曲『御言葉』だそうで、かなり宗教的な色が濃く、信仰とは何かを問うてくる。モルテンと神父との奇跡をめぐる宗教問答があるのだが、神父はイエスが起こした奇跡は尋常ではない状況で起きたもので、神は自然の摂理に反することはなしない、実質人間に対して奇跡は起きないという解釈を述べる。神父にとって、死者がよみがえるという奇跡は起きえない、だから祈ることもないことなのだ。しかしヨハネスはなぜ祈らないのか、奇跡が起きないのは祈りが足りないからだと彼らをなじり、死んだミケルの妻インガ(ビアギッテ・フェザースピール)を甦らせようと祈る。神父が唱える信仰心は教会としての、社会の仕組みの中にあるものであり、モルテンの信仰も、彼と信仰のあり方について対立する仕立て屋にとっても同様だ。彼らはみな社会の構成員の1人として信仰を介して繋がっている。しかし信仰とは突き詰めると自分と神との関係であり、社会から外れたアウトサイダーや子供こそがより神に近づける、だから時に正気ではないように見えるのではという話にも思えた。
 どのショットもフレームの隅々までがっちり決まっており、特に室内のショットには隙がない。がっちり決めた画面構成が物語のテーマの重さを増幅させているように思った。特に室内のシーンは様式美的なものを感じる。室内シーンはほぼ誰かと誰かの対話シーンなのだが、様式美的な画面構成にすることで人物の関係性、対話の内容が際立つように思った。対して屋外のシーンにはちょっと抜け感みたいなものがあって、場面と場面の繋ぎとしても効果的。特にヨハネスを探しに家族が丘を登る様をあおりで撮っているシーンは、妙な迫力があってユニーク。斜面が手前に迫りすぎていてすごくフィクション性高く見える。

カール・Th・ドライヤー コレクション 奇跡 (御言葉) [DVD]
ゲアダ・ニールセン
紀伊國屋書店
2010-05-29


怒りの日 [DVD]
アンナ・スヴィアキア
紀伊國屋書店
2020-05-29


『キングスマン ファースト・エージェント』

 1914年、世界大戦を影で操る組織の存在に気付いた英国貴族のオックスフォード卿(レイフ・ファインズ)は、息子のコンラッド(ハリス・ディキンソン)と共にこれに立ち向かう。怪僧ラスプーチン(リス・エバンス)が皇帝を操っているという疑惑を確かめるためにロシアへ向かうが。監督・脚本・製作はマシュー・ボーン。
 キングスマンシリーズの前日譚的なエピソードで、時代はさかのぼり第一次世界大戦前夜およびそのさなか。予想外に時代背景がピンポイントで押さえられており、かつ英国の植民地政策や英国王室と他国の王室の血縁関係など世界史の知識総動員を要求される。特に第一次世界大戦が膨大な死者を出していること、当時の戦争の前線は相当陰惨であること(基本的に白兵戦なので最前線の兵士が生き残れる確率が極端に低そう)を踏まえており、作品の雰囲気もシリアス寄り。『1917 命をかけた伝令』とか『天国でまた会おう』とかを思い出した。過去2作のような悪ノリもあるのだが、かなり控えめだ。私は過去2作のバッドテイスト感が苦手だったので本作の方が面白かったし、何よりちゃんとスパイ活動している!(国を超えて張り巡らされた使用人ネットワークとか盛り上がるよなぁ)と思ったのだが、過去2作のファンは違和感があるかもしれない。
 キングスマンは英国の組織なわけだが、英国が歴然とした階級社会であること、また長年にわたる植民地政策の元に繁栄してきた国家であるということが、今回はっきりと言及されている。キングスマンのモットーとして「ふるまいが紳士を作る」という言葉がシリーズ作中毎回言及されるのだが、そもそも侵略と略奪によって貴族階級がその地位を得、植民地政策にその姿勢は引き継がれている。「ふるまいが紳士を作る」とはどの口が言うのだ、という話なのだ。これをやっちゃうと1,2作目の路線に戻るのはなかなか難しいと思うのだが、どうするのだろうか。

キングスマン 4K ULTRA HD & ブルーレイセット(初回生産限定) [4K ULTRA HD + Blu-ray]
マーク・ハミル
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2020-12-02



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