3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『キングコング 髑髏島の巨神』

 発見された謎の島へ、環境探索の為の調査遠征隊が派遣されることになった。調査の中心となるのは長年未知の生物を研究してきたビル・ランダ博士(ジョン・グッドマン)。研究者たちの案内役として雇われた傭兵ジェームズ・コンラッド(トム・ヒドルストン)とヘリの誘導を行う軍人ブレストン・パッカード(サミュエル・L・ジャクソン)を中心に、一行は島に上陸しようとする。しかし、島の上空でな巨大なゴリラに襲われ、ちりぢりになってしまう。監督はジョーダン・ボート=ロバーツ。
 これまで何度もリメイクされたり他作品にゲスト出演してきたキングコングの最新版。直近だと2005年のピーター・ジャクソン監督による『キングコング』があるが、私はこの作品が全然面白くなかったので、今更キングコングって・・・と少々ひきぎみだった。しかし面白い!すごく楽しい!盛りが良すぎる日本版ポスターは全然嘘じゃない、むしろ本国版よりも内容に即していて素晴らしいということがわかった。アバンの時点で、太陽や目のアップを多用したキャッチー、ともするとあざといショットを多用しておりこれはなかなか楽しそうだなと思っていると、早い時点からどんどん派手な絵を披露してくれる。なお今回、爆音上映で見たのだが、爆音 上映が本当によく合うので、極力大きな画面、大きな音で見ることをお勧めする。
一応トム・ヒドルストン主演作ということになるが、主役はあくまでコングを筆頭とする巨大生物たち。大きいものばばーんと登場してどーんと大活躍!というシンプルさ、そしてそれをさほど邪魔しない人間たちという、人間が分を弁えている内容がいい。人間ドラマなどさほどなくて構わないのだ。一応主役らしきコンラッドは、知恵と経験を披露してはいるものの、さほど活躍するでもない。パッカードは何しろL・ジャクソンが演じているからクレイジーではあるのだが、こちらもいつものL・ジャクソンほど無敵かつクレイジーではない。説教もしない。ただ、本作はベトナム戦争直後(現地からアメリカ軍が引き上げていくタイミング)という時代設定なのだが、パッカードが戦場でこそ生きている実感を得られるタイプの人で、新たな敵を発見して生き生きとしてく様はなかなか面白かった。部下の弔い合戦と言ってはいるが、戦っていないと死んじゃうタイプの人なんだなぁと。人間側のドラマとして一番気になったのは、第二次大戦中に島に辿りついたマーロウ(ジョン・C・ライリー)とグンペイ(MIYAVI)の数十年間ですね・・・。そこ何とか垣間見せてもらえませんかね!まさかライリーが日本刀振り回す姿にあんなにぐっとくるとは思わなかった。
 コングと人間側とに下手に友情や愛情が芽生えない(と私は見た。あれは小動物をつぶしちゃったらかわいそうね、くらいの感じなんじゃなかろうか)ところもいい。人間とは全くの別物だからこそ怪獣は魅力があると思う。


『虐殺機関』

 世界の紛争地域で鎮圧任務についていたアメリカ軍特殊部隊のクラヴィス・シェパード(中村悠一)大尉に、あるミッションの為チェコに向かえという指令が下る。ターゲットはジョン・ポール(櫻井孝宏)なるアメリカ人言語学者。世界の紛争の影には常に彼の姿があるというのだ。現地に赴いたシェパードは、ジョン・ポールと懇意にしていたチェコ語教師ルツィア・シュクロウポヴァ(小林沙苗)に近づく。原作は伊藤計劃、監督は村瀬修功。
 伊藤計劃作品3作の映画化企画の一環として製作された本作だが、製作中にスタジオが倒産、何とか新会社を立ち上げ完成にこぎつけたという経緯があるので、とにもかくにもちゃんと完成してよかった。公開時期が結構延びてしまったが、それも納得できるクオリティで更にほっとした。特にキャラクターにしろ諸々のガジェットにしろ、デザイン面が良くできていたと思う。キャラクターのビジュアルが、それぞれの民族の差異を感じさせるもので、これは日本のアニメーションでは珍しいのではないかと思う。シェパードと同僚のウィリアムズは共にアメリカ人だが、ウィリアムズの方がより顔の凹凸がはっきりとした骨格で、いわゆる白人男性の風貌。シェパードはつるっとしておりアジア系っぽい。ルツィアの方がシェパードよりも顔の骨格のめりはりがあるんじゃないかなというくらいで、彼女は全身の骨格も結構しっかりとしている。いわゆるアニメの女性キャラクターのような華奢さは感じさせない(むしろシェパードの方が軍人としては華奢に見えるくらいだ)。
 また、人工筋肉を使ったアイテムのデザインがユニークさと不気味さ(有機的な部分がおそらくそう思わせる)を醸し出していて面白い。飛行機内のシートベルトにも生き物の肉体が絡みつくような雰囲気があるが、作中の人たちにとってはそれが普通だから、全員無反応という所にシュールさを感じる。また、投下用ポッドやコンタクトレンズ(デバイスを直接目に装着するからか)が使用後に液化する様には、なるほどこれが軍事用ってことね!と妙にわくわくした。
 原作を読んだ時も思ったが、映画でより強く感じたのがシェパードのナイーブさ、若々しさだ。アメリカの軍人、しかもエリートがこんなに揺さぶられやすくていいのか?というくらい簡単にジョン・ポールの言葉に心乱されてしまう。ジョン・ポールが使う「言葉」の特質はあるものの、軍人メンタリティとはそれに対して「だから何だ」と(良くも悪くも)返せるようなものではないかと思うが。シェパードは作中何度も軍人としては珍しく文系大学出身であることをからかわれるのだが、言葉の使われ方に対するセンシティブさがある。
シェパードのルツィアに対する思い入れは少々説明不足ではある。とは言え、彼が見ない、感じないようにしていたものと対面しつつもジョン・ポールが見ている世界とは別の世界を見ている人が彼女だったのかもしれない。作中、最も強く逃げないキャラクターは、彼女なのだ。
 終盤、セリフとモノローグで一気に処理してしまったところがちょっと残念なのだが、そもそも言葉量が多い原作なんだよな・・・。各人がそれぞれの思想を垂れ流すタイプの小説は、こういう部分が映像化に不向きなんだろう。それにしても、ジョン・ポールの理屈は原作が書かれた当時はそれを言っちゃあお仕舞よ、的なものとして捉えられていたと思うのだが、今やその理屈に準じるようなことをあけっぴろげに言っちゃう政治家が出てくるようになったんだもんなぁ・・・。建前の崩壊とは恐ろしい。映画の製作が遅れたことで期せずしてよりタイムリーになってしまった感がある。

『92歳のパリジェンヌ』

 92歳の誕生日を迎えたマドレーヌ(マルト・ヴィラロンガ)は、家族の前で2か月後に自ら人生の幕を引くを宣言。長男ピエール(アントワーヌ・デュレク)は猛反発するが、長女ディアーヌ(サンドリーヌ・ボネール)はショックを受けつつも、母の望む人生にしたいと心が揺れていた。監督・脚本はパスカル・プザドゥー。
マドレーヌは若い頃から独立した人で、自分で決めた信念を曲げずに生きてきたと描かれる。妻であり母である前に、まずマドレーヌという個人であるというところに、フランスにおける個人主義の在り方を見た気がした。彼女の生き方は尊敬できるが、おそらく子供の立場だったら納得できない部分の方が大きいだろう。
 マドレーヌとピエールの関係はあまりよくないのだが、これはピエールが今一ついけ好かない人(という風に演出される)だという以上に、ピエールはマドレーヌから母親として受け取りたいものを十分に受け取ってこなかったということ、2人の関係の顛末は、今までの人生に対するペナルティみたいなものだということが垣間見える。基本的にマドレーヌに対して肯定的な描き方なのだが、この点に関しては、美味しい所取りはできないよ、と示しているようでもあった。ディアーヌが母親に協力しようと決心するのは、ピエールが与えられなかったものが、彼女には与えられていたからではないかと思う。それがいいとか悪いとかいうことではなく、マドレーヌはそれを込みとして、自分の人生を生きることを選んだのだ。
 しかし、家族にわざわざ「自殺します」と前もって宣言する必要はあったのだろうかと疑問には思った。自分の意思が固い以上、遺書だけ残してこの世を去るというやり方もあるだろうし、その方が自死までの障害は少なそうだ(実際、宣言したことでピエールに家探しされて薬を破棄されるし)。家族を混乱させない為、悲しませすぎない為かもしれないが、彼女が宣言後に自死しても、種類が変わるだけで家族は悲しむし混乱するだろう。何より、彼女の願いを聞き入れたことに対する自責の念に苛まれるのではないか。彼女のやり方は、家族の理解と受容にちょっと甘えすぎたのではないかなと、家族のその後が気になってしまった。

『君の名は。』

 1000年ぶりという彗星が1か月後に地球に大接近するというニュースが流れたある日、山に囲まれた田舎町に暮らす女子高生・宮水三葉(上白石萌音)は、夢の中で東京在住の男子高校生になっており、都会の生活を満喫する。一方、東京に住む男子高校生・立花龍(神木隆之介)は、夢の中で田舎町の女子高校生になっていた。2人は徐々に、この体験が夢ではないことと、お互いの存在に気付いていく。監督・脚本は新海誠。
 新海監督作品は『ほしのこえ』(2002)が劇場公開(といってもミニシアターで特別上映という形態だったが)以来、新作が劇場公開される度に見ているのだが、決して自分好みの作風というわけではない。むしろ、毎回毎回「こ、ここどうにかならんのか・・・」という何かに耐えつつ見るという、苦行のようでもあった。好き嫌いというよりも、すごくいい部分があるのはわかるのだが、それ以上に難点が多くて美点が相殺されことに耐えきれないという感じ。それでも毎回見に行っていたのは、ほぼ個人の自主製作だったという『ほしのこえ』に、非常にいらっとさせられつつ捨て置けない何かがあったからだと思う。
 本作は、14年かけてようやくここまで来たか!という新海誠の集大成的な作品になっている。新海作品の難儀なところ、今まで伸び悩んでいた要因は、監督の作家性が欠点と一体になっている所だと思うのだが、今回は作家性を保ちつつ、それが変な方向にだだ漏れにならないように厳重にコントロールしている印象。予算規模が大きくなった以上絶対に当てていくぞ、販路拡大するぞという(監督というより配給サイドのかもしれないが。でないとあんなに宣伝に予算割けないよなぁ)覚悟と意気込みが感じられた。
 これまで私が耐えていた難点、具体的には抒情性盛りすぎ、光盛りすぎ、女性の造形が「僕の頭の中の少女」的で思い入れ過剰なのに具体性に乏しい(これは『言の葉の森』でかなり改善されたと思うが)、モノローグで説明しすぎ、脚本が大抵後半腰砕けになる、等等なのだが、これらが全部修正されていて、感無量。やれば出来る子だった新海監督。これまでの経緯から最初の期待値が低かったせいもあるけど、ここまでそこそこの規模の商業作品として完成されたものが出されてくるとは。基本、ワンアイディアで突破するタイプの作品だと思うのだが、話の段取が各段によくなっているので、見ている間は設定の穴や矛盾に突っ込もうと思わないしストレスを感じない。田中将賀をキャラクターデザインに起用したというのも大きいだろう。この人のデザインは、多分最大公約数的な適度さがあって、悪印象を与えにくいんだよな。
 ただ、挿入歌を使いすぎなのは問題だと思う。RADWIMPSの楽曲は良くできていると思うし思わずくちずさみたくなるキャッチーさだが、楽曲自体が物語性の高い作風なので、何度も使われると説明しすぎで鬱陶しい(RADWIMPSには全く責任はなく、むしろいい仕事をしているのだが・・・)。

『疑惑のチャンピオン』

 25歳でがんを発症したが奇跡的に回復し、ツール・ド・フランスで7年連続優勝という偉業を達成したランス・アームストロング(ベン・フォスター)。しかし記者のデイビッド・ウォルシュ(クリス・オタウド)は彼のドーピングを疑い取材を続けていた。監督はスティーブン・フリアーズ。
 フリアーズ監督の作品はエピソードの取捨選択の思い切りがいい。不要な部分をスパスパ割愛して、コンパクトにまとめる手際の良さがある。説明をしすぎない、もりあげすぎないのだ。結構なスピードで話が進むのだが、勢いに乗って見ることができた。実話が元になっているのだが、事件(ドーピング発覚)から結構短い期間で映画化されたなーという印象。アームソトロングのキャラの強さもあって実に映画化されそうなネタだが、もうちょっと冷却時間を置くかなと思っていたので。
 ヒーローが実はドーピングをしていた、という話ならそんなにインパクトはない。まあありそうな話だなという程度なのだが、そのドーピングがチームぐるみ、更に業界全体で行われ、隠蔽されたものだったという部分はショッキングだ。チームぐるみでというのは競技の性質を考えれば(1人がやたら強いだけではおそらく成立しないし一緒にいる時間長いし)わかるのだが、アームストロングのドーピングを他チームの選手も知っている、しかし口外しないし、それをいさめた選手はアームストロング本人からこの業界にいられなくなるぞと脅しを受ける。アームストロングは独裁者のようになっていくのだ。
 スター選手というのはここまで権力を持ってしまうものかと恐ろしくなった。多分、当時の自転車競技界に業界全体を牽引するスターが彼しかおらず、彼によって生み出されるお金が相当にあったからなんだろうけど。それにしても一選手に牛耳られる競技界というのは、もう競技の体を成していないように思う。アームストロングは自分を神話に仕立て上げたかった、業界はそれに乗っかり、何より観客が神話を欲した、というところなのだろう。持ちつ持たれつ感が漂うのには笑ってしまう。
 本作、アームストロングもチームメイトもドーピングをしている、それを周囲も知っているということをはっきりと見せているのだが、アームストロング本人の態度の描き方がちょっと面白い。彼は明確にドーピングをしているが、人前では(当然)否定する。ただそれが、隠蔽しようとしているというよりも、自分は潔白だと思い込んでいる人の身振りのように見えてくるのだ。彼の内面が、勝利に飢え自己顕示欲が強いという部分以外は殆ど見えない。自分自身を「こうであれ」という姿にどんどん偽装していくようだった。実の所どういう人なのか、見れば見るほど輪郭が曖昧になってくるような、とらえどころのない造形だった。

『教授のおかしな妄想殺人』

 哲学教授のエイブ(ホアキン・フェニックス)はアメリカ東部の大学に赴任してきたが、慢性的に無気力で全てに悲観的になっており、酒が手放せない。彼の講義を受講しているジル(エマ・ストーン)はエイブに好意を持ち接近していくが、エイブが一線を越えることはなかった。ある日、エイブは偶然悪徳判事の判決により苦しめられている女性の会話を聞く。その判事を殺して人知れず善行を成すという思いつきに夢中になったエイブは、心身ともに好調になり、ジルとも恋人関係へと踏み切ってしまう。監督はウディ・アレン。
 アレン監督は、気合が入った作品と抜けた作品とを交互(でもないな・・・近年は抜けてる方が多いかも・・・)に撮っているイメージがあるが、本作は大分抜けた方だと思う。それでもそれなりに楽しいのは、さすがベテランということか。音楽が洒落ているのと、からっとしたブラックユーモアで、後に残るものはないが見ている間はそんなに飽きない。登場人物が相変わらず、全員自分本位で好き勝手やっているが、そこが却って見ていて気楽だ。
 ホアキン・フェニックスは、最近飲んだくれている役柄ばかりこなしているような気がするが、本作ではエイブが好調になるにつれ、顔つきだけでなく体つきまで心なしか締まって見えるようになるのはさすが。また、エマ・ストーンがキュート。ジルの言動は時に結構えげつない(家族とのディナーでの会話の内容は決して品がいいとは言えない)のだが、ストーンが演じると嫌みにならない。また、気立てはいいが基本的に自分本位というキャラクターも面白い。エイブに熱を上げて積極的にアプローチするが、前々から付き合っている両親公認のボーイフレンドもおり、1人に決められないのも許されるキャラクター。自分本位なのはエイブも同じなのだが、エイブはまだ保身の為の計算高さがはっきりとしている。ジルはそのへん無意識に全部こなしている感じ。こういう役をやっても「嫌な女」にはあまり見えないところが、ストーンの強みだと思う。
 ところでアレン監督作品の登場人物は、すごいセレブとかファッション関係の人出ない限り、ワードローブが限定されていて、着まわしという概念が作品内にあるところが面白いなと毎回思う。特にヒロインの衣装が微妙にやぼったく、手持ちの枚数も限られているっぽい(本作のジルも、そこそこ豊かな家のお嬢さんぽいが、5,6着を着まわしている感じ)ところ、監督の趣味なのかしら・・・。それとも単に制作予算の関係か。

『KING OF PRISM by Pretty Rhythm』

 プリズムショー界のスターグループ“Over The Rainbow”のスタージに魅了された少年・一条シン(寺島惇太)は、彼らを追ってプリズムショー界に飛び込む。しかしOver The Rainbowのメンバー、神浜コウジ(柿原徹也)、速水ヒロ(前野智昭)、仁科カヅキ(増田俊樹)はアイドルとしての岐路に立っていた。タカラトミーアツとシンソフィアによるアーケードゲームを原作としたアイドルアニメ『プリティーリズム』シリーズの第3期、『プリティーリズム・レインボーライブ』からのスピンアウト作品。本家プリリズは女子アイドルたちが活躍するが、本作は男子アイドルたちが活躍する。監督は菱田正和。
 プリリズについてはそういうタイトルがあることを知っているくらいで、本作についても特に興味はなかったのだが、ある時点からtwitterのタイムラインに本作の感想、しかも大分狂ったテンションで何を言わんとするかわかりにくい、しかし熱量だけは目茶目茶ある感想が流れてきた。更に業界関係者の感想が熱い!これは何か見ておかないといかん気がする!というわけで事前情報ほぼない(相当クレイジーな物件だろうなーという予測はしつつ)状態で見に行った。
 で、実物を見てみたわけだが、これは確かに熱い・・・が何て表現したらいいかわからなくもなるよな!キツいアッパー系のドラッグきめた感じのツイートばっかり出てきちゃうのも最後に涅槃に飛んだみたいな感想ばっかり出てくるのもわかる!そういう風にしか表現できないわ!そもそも映画なのか?という疑問もある(途中アイキャッチが入るし予告編(多分続編製作は決定していないと思うが)がついていることからも、テレビシリーズに準ずる連続ものの体で作っていると思われる)ので、一種のイベントみたいなものと見た方がいいのかもしれない。実際「シプリズムショー」としてステージを見せるシーンが大部分を占める。
 ただ、そのショーの見せ方が、本当にどうかしている。ここまで振り切ることができるのはすごい。サービス精神が間違いなく旺盛なのにも関わらず、ついてこれない奴は振り落とすぞ!という演出方法。「見て下さい」としか言いようがないのだが、Over The Rainbowのステージでのサイクリング(何を言っているのかわからないと思うが本当なんだ・・・)の時点で、ついていけるか不安になったもんね・・・。そこをぐっとこらえて波に乗ってしまうと、妙に楽しくなってくるところが恐ろしい。明後日の方向に突き抜けているが、エンターテイメントであろうとする気迫が半端じゃない。アイドルはファンを笑顔にする仕事だという作中のテーゼと、本作製作側の姿勢が正に一致している。
 短い時間の中に大量の要素が詰め込まれている。原作はゲームなのでもちろんアイドル育成ゲーム要素があり、リズムゲーム的であり、乙女ゲーム的であり、更にバトルもの(必殺技出るし悪の組織いるしな)であり、スポ根。この盛りの良さはアニメを見慣れている人でもちょっと異様な印象を受けるのでは。アニメ、特に玩具タイアップ系のアニメを見慣れていない人には、文脈がわからないのではないかなとも思った。そういう意味ではえらくハイコンテキストなんだけど、これを読み解く観客が多数いて上映期間が3か月突入、興行収入2億5000万越え(2016.3.9時点)というから、もう日本すごいなとしか。

『キャロル』

 1952年、冬のマンハッタン。デパートのおもちゃ売り場で働くテレーズ(ルーニー・マーラ)は、娘のプレゼントを買いに来たエレガントな女性・キャロル(ケイト・ブランシェット)に強く惹きつけられる。キャロルが忘れた手袋を送り届けたことがきっかけで、2人は度々会うようになる。キャロルは夫と離婚訴訟中、テレーズにはボーイフレンドがいたが結婚に踏み切れずにいた。いざこざから逃れるように、2人は自動車で旅行に出る。原作はパトリシア・ハイスミスの同名小説。監督はトッド・ヘインズ。
 ビジュアル、特に質感が素晴らしい。昔の映画のような、エドワード・ホッパーの絵画(終盤、キャロルがダイナーにいるシーンなどはあからさまに意識していると思う)のような柔らかく、手ざわりが良さそうな色合いだ。特に赤の色がアクセントになっている。キャロルにしろテレーズにしろ、赤をまとうことでその意思がより際立つように思った。また、オープニング部分のクレジットのフォントや位置も一昔前の映画のよう。衣装については言うまでもない。明らかに上流階級だがゴージャスすぎないキャロルの出で立ちはエレガント。テレーズの服装はまだ少女めいている。チェックの帽子やジャンパースカート、縁取りの入ったウールのコートなど、どこかノスタルジックだ。服装で2人が所属する階級がありありとわかるという面もある。
 メロドラマを基調にしつつ、2人の女性が自分を偽らない生き方、自分自身の人生を選び取るまでの苦悩・格闘が描かれている。2人の顔の切り替えしの多さが印象に残ったが、視線がまっすぐにやり取りされているということか。まだ若いテレーズは、そもそも自分が何をしたいのか、どう生きたいのか無自覚で、ボーイフレンドや周囲の人たちに「そういうもの」だと流されがちだった。だが、キャロルと親密になるうちに、自分は何を選びたいのか、自分にとって大切なのはどういうことか目覚めていく。
 一方、既に家族があり、一旦は生き方を選んでしまったキャロルは、再度選び直すという困難に直面している。彼女が今までと変わらず、美しい妻・母の「ふり」をしていれば、ことは丸く収まるだろう。しかし、それは彼女を苛むし、何より彼女が思う所の誠実さが損なわれることだ。終盤、弁護士事務所で言葉を絞り出すように語るキャロルの姿には打たれた。これは原作にはないシーンだが、このシーンがあるから、現代の映画になっているのではないかと思う。キャロルにとっての誠実さとはどういうものかが端的に語られていた。大切な相手の前で自分を偽ることよりも、相手を傷つけても自分の本当の姿を見せることの方が、彼女にとっては誠実な態度なのだ。
 キャロルとテレーズ以外の人の出番は少ないが、少ないながらもそれぞれ存在感がある。特にキャロルのかつてのパートナーであるアビー(サラ・ポールソン)がいい。キャロルとは恋人としての関係は終わったが、深い友情がある。原作ではテレーズに対してもう少し辛辣な印象だったが、映画では年少者に対するそれとない配慮と「先輩」感が強まっている。
 そして、アビーを疎ましく思うキャロルの夫・ハージ(カイル・チャンドラー)。ハージはキャロルのことを彼なりに愛しており、彼女に「良かれ」と思って行動する。しかし彼の愛も「良かれ」という思いも、キャロルにとっては的外れで応じられるものではない。悪気がないだけに(ハージがキャロルのことを心配しているのはわかるし、娘を愛しているのも見ていてわかるのだ)厄介。映画では割愛されていたが、原作でのリチャード(テレーズのボーイフレンド)の独善的な振る舞いを思い出した。彼らは「こうであろう、こうであれ」という概念が強すぎて、そこにはまらないものを見ようとしないのだ。

『消えた声が、その名を呼ぶ』

 第一次大戦中の1915年、オスマン帝国のマルディンに住むアルメニア人のナザレット(タハール・ラヒム)は、憲兵によって家族と引き離され、砂漠に強制連行された。強制労働の果てに殺されそうになるが、声を失うものの奇跡的に生き延びたナザレットは、生き別れた双子の娘と再会する為、旅を続ける。監督・脚本はファティ・アキン。
 100年前に多くのアルメニア人がオスマン帝国で犠牲になったという歴史が背景にあるそうだが、本作は歴史というよりもむしろ神話のような雰囲気があった。オスマン帝国から南米へ、さらにアメリカへという延々と伸びていく旅、娘たちの手がかりをつかんだかと思うとまた立ち消えるというおぼつかなさ、ナザレットが死にそうになると誰かしらが手を差し伸べるという、見方によっては大分都合が良すぎる展開だが、神話や寓話、おとぎ話と思うと腑に落ちる。
 敬虔なクリスチャンだったナザレットは、生き延びるために盗みや暴力も辞さなくなり、理不尽な運命の前にやがて信仰を捨てたと言う。しかし地球を半周するような旅の中でも、教会は常に彼の近くにある(暗喩的な意味以前に、そのくらいキリスト教教会の数が多いということだろうが)。ナザレット自身も非情になりきったわけではなく、死にゆく人を捨て置けなかったり、暴力に見て見ぬふりをできず自分がズタボロにされたりもする。そこに彼の人間性が見えると同時に、信仰を「捨てる」というのは実は非常に難しいのではないかと思った。彼が最後に辿りつく土地にも教会はある。が、その土地は教会の神とはまた違った神の住む所のように見えた。人間がいなさすぎるってこういうことかなと思わせる景色にインパクトがある。
 私はファティ・アキン監督の映画は大概好きなのだが、どこが好きなのかなと考えてみると、主人公が何かに駆り立てられている、走り続けている感じがするからかもしれない。彼らを突き動かすものは往々にして(対人じゃないとしても)愛だ。ナザレットも、娘たちへの愛だけを支えに、再会できると信じて歩み続ける。その愛は彼を休ませない呪いのようでもあるが、彼を生かすただ一つのものでもあるのだ。この、リアリズムというには少々極端なナザレットのモチベーションも、本作を神話、寓話のように見せている要因の一つだと思う。
 なお本作、アレクサンダー・ハッケによる音楽がすごくいい!アキンとはドキュメンタリー作品『トラブゾン狂騒曲 小さな村の大きなゴミ騒動』でも組んでいるそうだ。

『禁じられた歌声』

 西アフリカ、マリ共和国のティンブクトゥに暮らす少女トヤ。町はイスラム過激派のジハーディストに占拠され、彼らが作った法で音楽や笑い声、サッカーも禁止されていく。町はずれに暮らすトヤ一家にも、ジハーディストは陰を落とすようになる。ある日、父・ギダンが事件を起こし、ジハーディストに逮捕されてしまう。監督はアブデラマン・シサコ。
 町中でジハーディスト達が、様々な禁止事項を複数言語でアナウンスしている。自由や娯楽を奪われ、人々は常に怯えるようになり、萎縮していく。冒頭、インパラを追う兵士たちが、「殺すな、疲れさせろ」と言うのだが、まさしく町の人々は疲れていく。疲れると、不条理に疑問をもつことも反抗することも、当然戦うこともできなくなってしまう。一見穏やかで美しい世界なのだが、少しずつ腐食されていくような不穏さがある。
 そんな中で、ユーモラスな光景も見られ、したたかに生を楽しむ人たちがいる。サッカーを禁止しているのにジハーディストたちはサッカーの話題で大盛り上がりしている。子供達はサッカーボールなしのサッカーをするが、何かのダンスのような美しい光景だ(見回りの兵士が通りかかるとすぐに体操しているふりをするのがおかしい)。また、密かに音楽を奏で、歌を歌う人たちがいる。ジハーディストが禁じたもので幸福を得ることは、彼らに対するカウンターでもある。そんなささやかな輝きも、暴力的に奪われてしまうというのが辛い。
 町の人たちも、イスラム過激派も、同じくイスラム教徒のはずだ。しかし会話の噛み合わなさは何だろう。不条理の国の出来事のようでどこかおとぎ話のようにも見えてくるが、これ現実の世界が舞台なんだよな・・・。どっと徒労感に襲われる。
 直接的な暴力の描写は少ないが、暴力の気配みたいなものが漂っていて、いつ発火するのかとひやりとする。銃を手に持っている人の姿が、例えばハリウッドのアクション映画で見るのとは(当然のことながら)全然意味合いが違うんだなと痛感した。ラストも、様々な受け取り方はあるだろうが、私は嫌な終わり方だなと思った。走り続ければいつかは倒れてしまうのだから。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ