3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『彼女がその名を知らない鳥たち』

 15歳年上の佐野陣治(阿部サダヲ)と暮らす北原十和子(蒼井優)は、8年前に別れた黒崎(竹野内豊)のことを忘れられずにいた。陣治は下品で金も地位もないが、十和子に尽くし彼女の我儘や罵倒も受け入れ養っていた。一方で十和子はデパート勤務の水島(松坂桃李)と不倫関係になり何度も会うようになる。ある日十和子の元に刑事が訪ねてくる。黒崎が数年間行方不明だというのだ。原作は沼田まほかるの同名小説。監督は白石和彌。
 十和子は頻繁に黒崎との過去を回想し、彼と撮影したビデオに見入る。彼女の回想は断片的なのだが、なぜそのように表現されているのかラストで明らかになる構成は、ミステリ作品的だと言える。ただ、明らかになったことによってそれまで見ていた景色ががらりと変わって見えるかというと、そうでもない。まあそうでしょうねとしか言いようがなく、中途半端だ。
 一方、十和子と陣治の関係の一方的な感じ、愛ともなんともつかない掴みきれなさは、ねっとりと描かれている。陣治の献身は愛ゆえではあるのだろうが、受ける側にとっては愛とは言い切れない、重すぎるし怖いんじゃないかなと、不穏さにはらはらする。生活習慣の小汚さも加わり、好感は持ちにくい。十和子は十和子で陣治となぜ一緒にいるのか、おそらく本人にもはっきりとは分からないのではないか。彼女も決して人柄がいいというわけではなく、むしろ冒頭のクレーマー振りからも明らかなように好かれにくいタイプだ。欲望に弱く、男に流されがちだが我が強いという面倒くさい人なので、やはり見ていて好感は持ちにくい。2人の関係がどのようなものであったか、ラストで鮮明に描かれる。  が、私にとってはやはり愛とはとらえにくく、陣治の言葉も結構気持ち悪かった。彼がラストで言うある台詞は、色々な小説等でたまに目にすることがある類の表現なのだが、いやいや親の愛とは別物だし無理でしょ・・・それ別の人間だからさ・・・と冷めてしまう。本作もそれと同じような冷めた気持ちになった。






『ゴッホ 最期の手紙』

 アルマン・ルーラン(ダグラス・ブース)は画家ヴィンセント・ファン・ゴッホと懇意にしていた父、郵便配達人ジョゼフ・ルーラン(クリス・オダウド)から、ゴッホから弟テオ宛の手紙を託される。テオに手紙を渡すためパリに出向いたアルマンだが、テオは既に亡くなり家族の引っ越し先もわからなかった。家族の居所を知るべく、やはりゴッホと懇意にしていたガシェ医師(ジェローム・フリン)を訪ねるうち、アルマンの中で自殺とされていたゴッホの死に対する疑問がつのっていく。監督はドロタ・コビエラ&ヒュー・ウェルチマン。
 ゴッホの絵画がまさにそのまま動き出すようなアニメーション。茟のタッチひとつひとつまでとにかく「ゴッホぽく」再現されている。俳優が演じた実写映像を油絵に描き起こし、実に約6万5000万枚の油絵で作られたアニメーション。よくこれをやろうと思った、そして実現したなと唸らざるを得ない。ゴッホが肖像画を描いた人たちが会話し活動し、絵の中の風景を動き回る様にはやはり感動する。すさまじい設計力と執念だと思う。
 とは言え本作、このすさまじい絵作りで何を表現するか、という所までは作り手の意識が行き届いていないように思える。描かれる物語は果たしてこれでよかったのか、非常に疑問だった。本作の舞台となるのは概ねゴッホの死後だ。ゴッホの絵は当然、ゴッホは世界をこのようにとらえた、このように表現してみようと思ったという。であれば、ゴッホのタッチで描くならゴッホが今まさに見ている世界、ゴッホが生きている間の世界であるべきだったのではないだろうか。本作ではゴッホ生前の様子は白黒のいかにも実写から書き起こしたという写実的なタッチ、ゴッホの画風とは異なるタッチで描かれる。技法の使い方逆になっていない?と違和感を感じた。
 また、ゴッホの死を巡る謎自体も、映画として取り上げるには正直今更感が強い。このあたりは諸々研究されてきた部分だろうし、諸説出尽くしているだろう。それらを踏まえてドラマ化するのはいいのだが、ドラマをゴッホの絵でやる必然性が薄い。死の真相とは客観的なもので、ゴッホの主観ではない。ゴッホのタッチはゴッホの主観でこそ使われるべきだったのではないかと思う。大変な労作なのだが、技法と内容がかみ合わずとても勿体ない。

ファン・ゴッホの手紙【新装版】
フィンセント・ファン・ゴッホ
みすず書房
2017-07-08




ゴッホの耳 ‐ 天才画家 最大の謎 ‐
バーナデット・マーフィー
早川書房
2017-09-21

『怪物はささやく』

 13歳のコナー(ルイス・マクドゥーバーランド)の前にイチイの木の怪物(リーアム・ニーソン)が現れる。怪物は「私が3つの物語を話す。4つ目は、お前が話せ」と告げ、真実を語れと言う。コナーは断るが、怪物は毎晩現れ、物語を聞かせる。原作はパトリック・ネスの小説。監督はJ・A・バヨナ。
 子供の世界、子供が避けられない苦しみとどのように向き合い、受け入れていくかという過程をファンタジーの形を使って描いている。作中物語を描くアニメーション部分が、滲んだ水彩絵具風の質感で美しい。その造形の由来が最後に明かされると更にぐっとくる。
 コナーの母親(フェリシティ・ジョーンズ)は重病にかかっており、入院の為にコナーは祖母(シガニー・ウィーバー)の家に預けられることになる。コナーは祖母に馴染めず、学校でもいじめにあっており身の置き所がない。離婚した父親が会いに来るものの、コナーをひきとる気はなく、親密に感じられる存在が身近にいないのだ。彼は母親との世界を守る為に必死で様々なことを我慢しているのだが、それが誰にもわからないし、自身でも説明できない。学校での振る舞いの理由を誰もわかってくれないし気にかけもしないというのが本当にしんどい。コナーの行動原理が少々わかりにくいからというのもある。そこがミステリ的な仕掛けにもなっている。いじめっ子が知ってか知らずかなかなか的を得たことを言うのだが。
 彼はそんな中である秘密を抱え、それを自身で認められずにいる。その秘密、怪物が言う所の真実を認めてしまうと、彼のこれまでの世界は崩れ落ちてしまうからだ。しかし真実を避け続けても世界はいずれ崩れる。彼が恐れていること、秘密にしていることは避けられないことで、直面せざるを得ない。怪物が語る物語は、様々な形でコナーが避けようとしているものを示す。3つの物語はどれもシニカルで矛盾に満ちている。コナーが望む世界ではないかもしれないが、彼を取り巻く世界は矛盾に満ち複雑で、きれいな納まり方はしない。コナーはその複雑さと付き合っていかなくてはならない。それを手助けするのが物語なのだ。子供だけでなく人、特に傷ついている人にこそファンタジーが、物語が必要なのかもしれない。
 コナーの両親や祖母の不完全な人間としての造形が良かった。母親は愛情に満ちておりイマジネーションが豊かで素敵な人だが、彼女もまた真実(を息子に告げること)から逃げているのだ。厳格な祖母も、娘の病の前では無力。父親はコナーを愛してはいるが彼の為に自分の生活を変えることはできない。理由はそれぞれだが、コナーを守る立場の大人たちが、必ずしもコナーの為に動けるわけではない、でもそれを責めるわけではないという所も、複雑さを感じさせる。


怪物はささやく (創元推理文庫 F ネ 2-1)
パトリック・ネス
東京創元社
2017-05-29

永遠のこどもたち [DVD]
べレン・ルエダ
ジェネオン・ユニバーサル
2012-05-09

 

『カフェ・ソサエティ』

 1930年代。ニューヨーク育ちの青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、叔父で大物エージェントであるフィル(スティーブ・カレル)を頼ってハリウッドにやってくる。フィルの雑用係として働き始めたボビーは、フィルの秘書ヴォニー(クシツエン・スチュワート)に恋をする。しかしヴォニーの恋人は意外な人物だった。監督はウッディ・アレン。
 他愛ない話、2人の人を同時に好きになっちゃったけどどうしよう、というだけの話ではあるし、いつものアレン監督作といった感じではあるのだが、割と好き。ウッディ・アレン作品は面白かろうがつまらなかろうが自分にとって気楽な作品が多い。あっさりと浮気したり殺人が起きたりして、そういうこともあるからしょうがない、みたいな突き放した距離感があるからかもしれない。
 本作では、同時に2人の人を愛してしまう人が登場し、話の流れ上どちらか一方を選ぶ。しかし、選ばなかった一方も、ずっと心の中で生き続ける。今の人生、今のパートナーを愛していないというわけでも不誠実だというわけでもなく、1人の人の中で両立してしまうもので、これはもうしょうがないのかもな・・・。そういうのは許せないという人もいるかもしれないが、私はどちらかというと共感する。「夢は夢だ」というセリフが出てくるのだが、正にその通りで、そういう夢を一生抱えていく人もいるのだと思う。選ばなかった人生への憧憬という部分では、『ラ・ラ・ランド』を思い出した。ハリウッドという舞台は、そういう儚いものとの相性がいいのか。
 相変わらず衣装が素敵なのだが、ヴォニーがプライベートで着ているヘソ出しファッションは、ちょっと当時のモードとはずれている気がする。相当攻めたおしゃれをする人という設定なのだろうか。後々登場する時には、いかにも30年代風のタイトなロングドレスを着ているので、そのあたりのニュアンスが今一つわからなかった。
 ユダヤ人ギャグみたいなフレーズが結構出てくる(ボビーはユダヤ系家庭の息子なので)のだが、これはセーフなの?アウトじゃないの?とちょっとハラハラしてしまった。ユダヤ系であるアレン自らやってるわけだからまあセーフなんだろうけど、大丈夫なのかな・・・。
 なお、女性2人の名前がヴェロニカなのは、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『ふたりのヴェロニカ』(1991年)へのオマージュなのかな?話の内容は全然関係ないんだけど。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』

 宇宙の平和を守るヒーローとして、黄金の惑星ソヴリンの指導者アイーシャ(エリザベス・デビッキ)からの依頼を完了した、ピーター・クイル(クリス・プラット)をはじめとするガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々。しかしロケット(ブラッドリー・クーパー)がソヴリンの高エネルギー源の電池を盗んだせいで、アイーシャは激怒。一行はソヴリンから執拗に追われる羽目になる。危機に陥った彼らの前に現れたのは、ピーターの父親を名乗るエゴ(カート・ラッセル)だった。監督・脚本はジェームズ・ガン。
 1作目ではガーディアンズの面々が本当に「ガーディアンズ」になるまでが描かれ、少年漫画っぽさに熱くなったが、本作ではピーターと父親の問題を軸に、家族を巡る物語が中心に描かれている。ピーターを巡る、悪しき父親と良き父親の対決の物語でもあり、ある登場人物の活躍には目頭熱くせずにはいられないだろう。父親は子供を無事に送り出さなければならない、という姿勢の健全さにもほっとする。また、ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)と妹の確執の顛末や、ベビー・グルート(ヴィン・ディーゼル)の「育児」に試行錯誤するロケットの姿には、まだ上手くはやれないけど何とかこいつとやっていきたいんだ!という一生懸命さがあって、なんだかほのぼのする。
 ガーディアンズの面々の愛すべき所は、皆愛情の出し方、好意の伝え方が上手くはないが、伝えようという意欲は捨てていないという所じゃないかなと思う。他者とのコミュニケーションに希望を持っている人たちなのだ。口が悪いロケットですら、その点に関しては前作程皮肉っぽくはない。本作に登場する「ヒーロー」たちのかっこよさは、ある意味愚直な一生懸命さにあり(ようするに全然クールではない)、悪ノリはあってもシニカルさはない。そこが、作品の愛嬌に繋がっているように思う。
 なお、前作ではドラックス(デビッド・バウティスタ)が筋肉バカみたいな振る舞いだったが、今回は意外と良いことを言っている気がする。彼は比喩表現がわからず文字通りの率直な言い方しかできない、ある意味とっても素直なので、素直になれない他のメンバーたちの心情をずばりと(多分本人は意図していないのだろうが)言い当てているような所があった。マンティス(ポム・クレメンティエフ)へのブスいじりにはハラハラさせられたが、それでも彼女に好意を持っているということではあるからなぁ(ドラックスの種族がそういうことを他人の評価基準にしていないということかもしれないけど)。ブスだから嫌いだとは言っていないんだよね。

『彼らが本気で編む時は、』

 11歳の少女トモ(柿原りんか)は母親ヒロミ(ミムラ)と2人暮らしだったが、ある日母親がふらりといなくなってしまう。トモは叔父マキオ(桐谷健太)の元を訪ねるが、彼は恋人のリンコ(生田斗真)と同居していた。元男性であるリンコにトモは戸惑いを隠せないが、2人の元に身を寄せ同居生活が始まった。監督は荻上直子。
 真摯に作られた作品なんだろうなとは思う。特に、子供はどういう母親であっても母親を求めてしまうというところや、子供にとってどんな親の元に生まれてくるか、周囲にどんな大人がいるかということは、博打みたいなもので自分ではどうしようもないということのやるせなさは、主人公の少女だけではなくその同級生の少年の母子関係からも、よく伝わってくる。特に少年の母親は全部よかれと思ってやっているだけに、本当にやりきれない気分になる。
 ただ、いいなと思った部分の量を、ひっかかった部分の量が越えてしまった。まず、リンコの造形には、これでいいのかなとずっと疑問が付きまとった。リンコはトランスジェンダーの女性だが、そこが特別であるように描かれず、仕事は介護施設職員で同僚とも円満に付き合っており、フラットな描写なところはいい。ただ、いわゆる「女性らしい」と呼ばれる要素、社会的に女性に要求されがちな要素が盛られ過ぎているように思った。リンコは料理を筆頭に家事全般が得意で、服装はふわっとしたフェミニンなもの、いわゆる「かわいい」小物が好きで優しく穏やかな性格。介護という職業も、どちらかというと女性のものと捉えられがちだし実際現場は女性が多い。自認している性別が女性であるということと、社会が女性に要求するものを引き受けようとすることは別物だと思うのだが、映画を作っている側がそのあたりに無自覚で、とにかく「女性らしさ」を強調しよう!というキャラクター造形になっているように思った。こういうのって、逆に性別の幅を狭めるようなことになっている気がするのだが・・・。リンコ個人が(性別はどうあれ)かわいいものや料理が好きな人、というのはわかるのだが、そこを「女性らしさ」と安易に結び付けてないかなと。こういう部分が、シンプルに「かわいいものが好きな人」「手芸が好きな人」「料理が好きな人」と性別と関係なく見られるようになるといいんだろうけどなぁ。
 また、リンコが編み物をする理由も、ちょっとひっかかった。彼女は腹の立つことややりきれないことがあると、それを編み物にぶつける。処世術としては有効なのだがろうが、そこは率直に怒っていいんじゃないの?とも思う。怒りを表明しても役に立たないと悟った上での編み物ならば、ちょっと辛すぎる。それを子供に勧めるというのも辛い。そりゃあ何でもかんでもいちいち腹立てていたらやってられないだろうけど、本当におかしいと思ったことは、おかしいと指摘していいのだ、傷つけられたり不当に扱われたら怒っていいのだと、まず教えておかないといけないんじゃないのと。全部飲み込む必要なんてないと思う。

『家庭生活』

 ケン・ローチ初期傑作集にて鑑賞。1971年作品。若い娘・ジャニスが妊娠するが、世間体を気にする両親によって中絶を強いられる。両親の無理解の元、ジャニスは徐々に精神を病んでいく。
 ジャニスが起こす問題、両親の不寛容さ、親子の軋轢といったものは現実でも目にするし小説や映画のテーマとしてももちろん多々取り上げられる、よくある話と言えばよくある話だ。それ故に普遍性を持つ。家族の問題としてはかなり類型的な類のものなのだが(本当に典型的なパターンで、臨床心理の教材として使えるんじゃないかというくらい)、それを冷徹に映し出しており容赦がない。
 ジャニスの両親は当時としてはおそらく普通の、善男善女なのだろう。しかし2人とも、自分達の世界、自分達の価値観とは違うものもこの世にはある、違うやり方でも生きていくことはできるという発想がない。特に母親の方がジャニスに対する支配欲のようなものが強く、従順であることを強いる。父親は妻がジャニスに対して抑圧的すぎるのではという疑問を当初は持っているが、ジャニスが精神病院に入れられたことで、娘はやっぱり問題があってダメなんだと、妻と同意見になってしまう。
 問題の当事者はジャニスではあるのだが、彼女が抱える問題は両親、特に母親との関係に根差すもので、両親が変化しなければ、おそらく状態はよくならない。ジャニスは最初グループホームのような施設に入るが、その間は言動は落ち着いており、本来自分で考え行動できる人なんだろうとわかる。両親との物理的な距離が離れていれば、彼女は自分を保てるのだ。それが崩れる後半の展開は、もうやりきれなさでいっぱい。
 やりきれなさを募らせるのは、彼女の病状の悪化がほかならぬ医療によってもたらされるということだ。当初はジャニス、両親それぞれに対するカウンセリングが行われていたが、当時としては先進的だったこの方法は、病院の理事会には理解されず、担当医の契約が切れると共になしくずしに終了してしまう。後任の医師は従来の治療法、電気ショックと鎮静剤による「治療」をし、結果、ジャニスの自主的な意思はどんどん後退してしまうのだ。
 当時のイギリスの精神医療が他国と比べてどの程度の水準だったのかはわからないが、こんな前時代的な「治療」だったのかとショックだった。そもそもジャニスは、現代ならば入院が必要なレベルではない。医者と医療が彼女の症状を作り上げてしまうのだ。ラストシーンには背筋が凍る。時代の限界とは言え、もしカウンセリングが続けられていたら、彼女の人生はもっと違うものになったのではとやりきれなかった。
 

『ガール・オン・ザ・トレイン』

 スコット(ジャスティン・セロー)と離婚したレイチェル(エミリー・ブラント)は、毎朝電車の窓から閑静な住宅街を眺めるのが習慣。その中の1軒に暮らす夫婦を、理想のカップルとして夢想していた。ある日、そのカップルの女性が夫以外の男性とキスしている姿を目撃する。そしてその女性・メーガン(ヘイリー・ベネット)は死体となって発見された。レイチェルはメーガンの夫スコット(ルーク・エバンス)に、彼女の浮気を教えに行く。原作はベストセラーとなったポーラ・ホーキンズの同名小説。監督はテイト・テイラー。
 原作は未読だが、むしろ未読のまま情報入れずに見た方が楽しめる作品なんじゃないかと思う。テンポが速く二転三転していく。レイチェルはとある理由によりいわゆる「信用できない語り手」。そして、面識のないスコットとメーガン夫妻にやたらと思い入れたり、自宅に乗り込んだりという行動からも、平静な状態とは思えない。なので、彼女主観のパートは、その意味合いを全て保留した状態、常に疑いをもった状態で見ることになる。中盤をかなり過ぎるまで諸々の事態が起こりっぱなし積みっぱなしなので、これ収拾付くのかなと思っていたら、あるやりとりでそれまでの構図が大きく変わる。物語の「絵」が何度も変化していくタイプのミステリだ。
 もっとも、レイチェルの語りがなぜ信用できないのかという事情以上に、彼女を信用できない語り手にしたのは誰なのか、という部分の方が本作のキモだろう。それは、殺人の動機の根っこにもあるものなのだ。動機となるものがしみじみと嫌なのだが、レイチェルはなまじ真面目だから真に受けてしまったんだろうな・・・。人の言うことを聞き流す人、真に受けずほどほどにしておくようなしたたかな人の方が、レイチェルが落ちた落とし穴みたいなものには落っこちないのかもしれない。
 主演のエイミー・ブラントは、出演作によって華やかな美人にも、レイチェルのような地味目でぱっとしないルックスにも見える。演技の上手さもあるし、風貌の応用の幅が広いという利点もあるのだろう。今年は主演作の『ボーダーライン』(ドゥニ・ビルヌーブ監督)も見たが、『ボーダーライン』では凛々しい姿だったのに本作ではよれよれで別人みたいだった。

『仮面』

 神奈川県立近代美術館で開催中の展覧会「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」にて鑑賞。2010年の作品。原作はスタニスワフ・レムの短編小説。暗殺の為、心を持った女性として作られた暗殺人形。ターゲットに出会った人形は彼に恋をし、本当に愛してしまう。しかし殺人の道具として作られた自分の性には抗えない。なおポーランドで製作された作品なので、ナレーションはポーランド語、字幕は英語。
 かねてから見たかったものの、2011年にイメージフォーラムフェスティバルで上映された際(当時は『マスク』という題名)には見損ねてしまったので、今回の上映は大変ありがたかった。なお、「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」はパネル展示が多いとはいえ、撮影に使用された小道具や人形等もしっかり確認できるので、クエイ兄弟ファンは必見。
 レムの原作小説は未読なのだが、映像では中盤までは中世のおとぎ話のような雰囲気。王と女王が巡り合って結婚して、というような様子だ。しかし徐々に禍々しさが増していく。まあクエイ兄弟作品だから、最初からダークファンタジー風で薄暗い雰囲気ではあるのが・・・。「彼女」が変身を遂げる所で禍々しさはピークに達するのだが、同時にきらびやかで美しい。文字通りボディの素材からして変わってしまうのだが、機械仕掛けのカマキリのような姿は、なるほど男を食い殺すからこの姿なのかと。
 「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」の展示を見てから映像作品を見るとよくわかるのだが、クエイ兄弟の映像作品は素人が見ても撮影技術が高いのだろう。映像には奥行、高さがあるように見えるのだが、実際のセットはさほど奥行きがない。展示品の中にも、レンズの特性を活かして奥行を強調した見せ方にしているものがあったのだが、アニメーション撮影にもそれが活かされている。

『神様の思し召し』

 有能な外科医トンマーゾ(マルコ・ジャリーニ)は、仕事は出来るが毒舌で傲慢。妻カルラ(ラウラ・モランテ)との仲は倦怠気味、娘はトンマーゾにとっては期待外れの男と結婚していたが、医大生の長男が後を継ぐのを楽しみにしていた。しかし息子は突然神父になると宣言する。とっさにものわかりのいい父親を演じてしまったトンマーゾだが、納得いかず、息子は話術たくみなピエトロ神父(アレッサンドロ・ガスマン)に洗脳されたと思い込む。ピエトロが前科持ちだと知り、トンマーゾは失業者を装って近づき、尻尾を掴もうとする。監督はエドアルド・ファルコーネ。
 楽しいことは楽しく、それなりにホロリとさせられるコメディなのだが、ちょっと平坦だなぁという印象を受けた。本作を配給するGAGAは、大ヒットしたフランスのコメディ映画『最強のふたり』に連なる路線として売るつもりみたいだけど、『最強のふたり』の方が色々細部まで目が行き届いており、技があったと思う。
 トンマーゾにしろカルラにしろ、登場人物の造形が概ね紋切型にカリカチュアされているのが辛かった。トンマーゾは有能故に傲慢で他人の心の機微に疎い。息子がなぜ信仰の道に惹かれたのか考えてみようともせず、ピエトロのせいだと決めつけてしまう。カルラは経済的には不自由ない「奥様」だが心は満たされずボランティアやチャリティーで気を紛らわし、キッチンドランカー状態。長女は「オツムの軽い(そこそこ)美人」でその夫はボンクラ。あーこういうのどこかで見たなぁという気分が拭えない。よくある設定が悪いというのではなく、紋切型から「その人」として登場人物が立ち上がってくる為の、もう一味が足りないという感じ。カルラが息子に空疎な生活だと指摘され大変身するあたりや、終盤で娘がぶちまけるシーンなど、ちょっと「絵に描いたような」感が強すぎた。間にもう一クッションくらいエピソードが欲しくなっちゃう。細部の雑さで気が削がれるのがもったいない。
 ともすると戯画的なトンマーゾ一家に対し、ピエトロはごくごく普通の人として地に足がついた感じがし、自然体に見えた。彼がどういう人なのかは、あまり言及されない。本作はあくまでトンマーゾと家族の話なのだろう。ピエトロは媒介みたいなものだ。
 ピエトロは神父なので、当然信仰に関する話題も出てくるのだが、そこを強調はしていない。トンマーゾは無神論者だが、ピエトロは彼にカソリックの信仰を強いようとはしない(多分トンマーゾもいきなり信仰に目覚めたりはしないだろう)。彼が話すのは、もっと素朴な、この世界の細部の美しさみたいなものだ。それはトンマーゾが見失っていたものなのだろう。
ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ