3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『鵞鳥湖の夜』

 2012年、中国南部の鵞鳥湖付近ではギャングたちの縄張り争いが激化していた。バイク窃盗団のチョウ(フー・ゴー)は、対立する組織の猫目。猫耳兄弟との揉め事に巻き込まれ、誤って警官を殺してしまう。指名手配されたチョウは自らにかけられた報奨金を妻子に残そうと画策し、妻の代理で来たという娼婦アイアイ(グイ・ルンメイ)と行動を共にするが。監督・脚本はディアオ・イーナン。
 緑とピンクのネオンにレトロな艶っぽさがあり、ちょっと90年代インディーズ映画ぽい(私の90年代イメージがそうだというだけなんだけど…)。『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』(ビー・ガン監督 2018年)と雰囲気や色調が似ているのだが、最近の中国の若手監督の間ではこういうのが流行っているのか?
 夜に生きる裏社会の人びと、血みどろバイオレンス、交錯する男と女というフィルム・ノワール要素満載なのだが、男女間の情念が全く感じられない部分が新鮮。出会ったばかりのチョウとアイアイはもちろんだが、チョウと妻の間にも相互理解が全然なさそうなのだ。更に男性同士、ギャング仲間同士も共感や理解がほぼ感じられず、それぞれ孤独だ。ものすごくドライで、むしろ共感や信頼はお互いに拒んでいるような雰囲気すらある。唯一何らかの共闘ぽいものが感じられる2ショットが最後のあれ、というのも旧来のノワールとは違った味わいがある。
 基本シリアスなサスペンスではあるが、妙にユーモラスなシーンが多い。意図的なのか天然なのか謎だ。ギャングたちが真面目腐ってバイク窃盗講座をやっているシーンとか、乱闘が始まると元締めが勘弁して…って顔する所とか、まどろっこしい包帯の巻き方とか、それ何なの?!と突っこみたくなる。特にアクションシーンは凄惨なのにショットのつなぎ方にやたらとリズム感があってポップ。「傘」の使い方でつい笑っちゃったりするので困る。ユーモラスで笑っちゃうのに、テンポとスピード感の緩急が抜群でかっこよく見えてしまう。不思議な持ち味だ。

薄氷の殺人(字幕版)
ワン・シュエビン
2017-07-07


オンリー・ゴッド
クリスティン・スコット・トーマス


『カメレオンの影』

ミネット・ウォルターズ著、成川裕子訳
 英国軍中尉アクランドは、派遣先のイラクで頭部と顔面に重傷を負った。送還されたイギリスの病院で目覚めた彼は、それまで見せなかった暴力性をあらわにし、特に女性に対する極端な嫌悪感を示して周囲を困惑させていた。除隊した彼はロンドンに移り住むが、近所で男性を狙った連続殺人が起き、警察の尋問を受ける。
 アクランドは容疑者としてぴったりの人物に思えるし、彼は何か隠し事があるようで言動には不審な点が多い。人柄が豹変したのは脳の損傷によるものなのか?彼はいったい何を隠しているのか?警察の調書や精神科医らの所見を挟みつつ展開していくが、アクランド以外にも怪しげな人たちが続々と出てくるし、誰が嘘をついているのか、証言のどこが嘘でどこが真実なのか、どんどんわからなくなってくる。彼の元恋人も母親も、知り合いのホームレスや家出少年も、皆何かしら嘘をついているように思えるのだ。アクランドとはいったい何者なのかという方向に読者の関心は向くだろうが、そこでちょっとずらしてくるので意表を突かれる。意表のつき方が上手いかどうかはちょっと微妙なのだが…。様々な部分で「逆張り」を狙っているようなミステリ。誰がどんな嘘をついているのかという謎で読者をどんどんひっぱっていく。

カメレオンの影 (創元推理文庫)
ミネット・ウォルターズ
東京創元社
2020-04-10


悪魔の羽根 (創元推理文庫)
ミネット・ウォルターズ
東京創元社
2015-05-29


 

『カセットテープ・ダイアリーズ』

 1980年代イギリスの田舎町ルートン。パキスタン系移民の高校生ジャベド(ビベイク・カルラ)は作家を夢見ていたが、閉塞的な土地柄や保守的な父親の元、鬱屈した日々を送っていた。ある日、同級生からブルース・スプリングスティーンのカセットテープを借りたジャベドは、生活の苦しみや怒り、夢を歌うスプリングスティーンの曲に心を打たれ、自分の人生を変えようとし始める。監督はグリンダ・チャーダ。
 ブルース・スプリングスティーンの音楽を駆使した音楽映画で、曲の歌詞もビジュアルとして画面に取り入れている。ジャベドがスプリングスティーンの曲に没頭すると、曲の歌詞が彼の周囲に漂ったり壁や塀に映し出されたりする。ジャドベが自分の生活と曲とを重ね合わせ、その中で生きているのだ。気分が高揚するとミュージカル風の展開にまでなる。若干素人っぽいが楽しく、音楽が誰かの人生に深く影響を与える、音楽と一緒に生きている感じがとてもよく出ている。どちらかというと野暮ったい、洗練されたとは言い難い作品ではあるのだが、王道の野暮ったさ故の良さみたいなものがあった。結構ご都合主義でもあるのだが(とんとん拍子にジャベドの文章が評価されるあたり)、それもまた楽しい。サッチャー政権下で失業にあえぎ、その反動で移民排斥運動が激化するイギリスの世相が背景にあり、そこはほろ苦いのだが。
 ジャベドはスプリングスティーンに心酔し、何をやるにもスプリングスティーンの曲がサントラ、自分の気持ちやシチュエーションを曲に乗せる。自分が抱えていたけど言語化されていなかったものが、曲の歌詞によってこれだ!と具体化されるのだ。それはそれで歌の力を感じされていいのだが、より感動的なのは、彼がスプリングスティーンの歌詞を手放し、自分自身の言葉で語りだす瞬間だ。「自分の物語を書く」とはそういうことだろう。ジャベドの学校の教師は、彼に何度も自分のことを書け、自分の言葉を書けと言い続けるのだが、それがクライマックスにつながってくる。
 自分の物語を書くのはジャベドだけではない。文字通りに「書く」わけではないが、彼の妹にも、親友にも、そして反目していた父親にも、それぞれの物語があり、それはないがしろにされるべきものではないと、ジャベドは理解していく。特に妹の「変身」は鮮やか。クラブのデイタイム営業っていいなー!パキスタンのクラブミュージックも楽しいし、クラブに同行したジャベドが途中でヘッドフォンを外し、妹が好む音楽の世界で一緒に楽しむのもよかった。人の音楽の好みは尊重すべきだとジャベドが気付くのも良い所。ジャベドの親友は流行のニューウェイブに夢中なのだが、それをバカにするのは違うよなと。80年代、既にスプリングスティーンが「古い」とされているのはちょっと意外だった。今聞いても古びていない、というか時代を感じさせにくい音楽なので。

闇に吠える街(REMASTER)
ブルース・スプリングスティーン
SMJ
2015-07-22


ベッカムに恋して
カーティス・メイフィールド
ワーナーミュージック・ジャパン
2003-03-26


『凱里ブルース』

 凱里市の小さな診療所で、老齢の医者を手伝いひっそりと暮らすチェン(チェン・ヨンジン)。彼は服役していた時期があり、出所した時には妻はこの世にいなかった。また故郷の弟とも折り合いが悪く、可愛がっていた甥は弟の意向で他所にやられていた。甥を連れ戻し、医者のかつての恋人に思い出の品を渡すためにチェンは旅に出る。たどり着いたのはダンマイという小さな町だった。監督・脚本はビー・ガン。
 『ロング・デイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』が鮮烈だったビー・ガンの長編監督デビュー作。しかし本作品の構造は『ロング~』をほぼ同じで、本作が『ロング~』の原型である、ないしはビー・ガン監督にとっての物語の一つの原型がこういうものだということがわかる。自分の記憶の中のある人、もしかしたら自分のイメージの中にしか存在しない人を探して旅をする。その中で自分が自分の、あるいは誰かの記憶・イメージの中に突入していくような、入れ子構造が開始するような瞬間がある。『ロング~』では幻想的な長尺長回しシーンのインパクトが鮮烈だったが、本作でもそこそこの長回しが使われている。本作の方が地に足がついている(とうか手作り感の強い)が、町の地形を利用した視界の変わり方が新鮮で楽しかった。低予算故の面白さ(ここは所要時間を何度も確認したんだろうなーと感慨深くなるような)みたいなものを感じた。
 チェンの旅路に明確な答えは出ない。弟や甥との関係も、医者の恋人の思い出も「落ち」はつかずに漂い続ける。どこか夢の中の出来事のようでもあり、なんだかおぼつかない。チェンは誰かに会うために移動し続けるのだが、移動の目的よりも、この移動という動きそのものの方が「今ここにある」といった手応えを感じられる。景色が変わっていくのが気持ちよく、特に終盤の列車に乗っているシーンには、ああこの感じ!(自分にとって列車に乗って長距離移動する機会がとんとなくなっているのも一因かと思うが)と強烈ななつかしさを感じた。


薄氷の殺人
グイ・ルンメイ


『風の電話』

 東日本大震災で岩手県大槌町にあった家と家族を失い、広島の呉で叔母と暮らしている17歳のハル(モトーラ世理奈)。ある日叔母が倒れ、一人残された彼女は震災以来訪れていなかった大槌町へ向かう。広島の土砂災害被災地域で母親と暮らす公平(三浦友和)や、元原発作業員の森尾(西島秀俊)らと出会いながら、ハルは故郷を目指す。監督は諏訪敦彦。
 ハルは非常に口数が少ない。一見平静に見えるが、8年間ずっと大丈夫ではなかったということがぽろぽろと見えてくる。毎日学校に行く前に叔母にぎゅっと抱きしめてもらう習慣からも、多分まだ色々怖いんだろうなと窺えるのだが、叔母が入院してからの行動は危うく痛々しい。肉体はこの世にいるまま、精神はインナーワールドに入ってしまったような行動の仕方なのだ。公平に発見される直前の振る舞いなどかなりやばい人のものだし、ヒッチハイクで広島から岩手に向かおうとするのも(10代の少女が制服姿でそれをやるのも)平常時の判断とは言えないだろう。ヒッチハイクしていた彼女を車に乗せてくれた人にその危険さを指摘されるし、実際かなり危ない目にも遭う。しかし、そういう行動はツッコミどころというよりも、そういうことをしてしまうくらい「大丈夫ではない」状態だということなのだ。
 公平が自分の家が土砂災害に遭わなかったことについて、「たまたま」だ、近所の家は皆やられたと言う。ハルが生き残ったのも家族が死んだのもまさにこの「たまたま」なことであり、それこそがハルを苦しめるのだと思う。理由がないのでなぜ自分が生き残って家族は死んだのか、という遺族の苦しみが終わることがない。納得ができないのだ。ハルが終盤、悲しみではなく悔しさを示すのも、納得できないからだろう。ただ、彼女は自分は納得していないということを口にすることができた。悲しみ・苦しみはなくなることがないが、少し距離をとることができるようになるのではないか。
 ハルが旅の途中で会う人たちは、公平や森尾のような被災者だけではなく、クルド人難民の一家もいる。一家の家長は入管に収容されいつ出てこられるのかもわからない。子供たちは日本社会の中に生活の基盤を築き将来を見据えているのに、社会的には彼らはないものとされている。それは「復興」から取り残された被災者と同様だ。理不尽な出来事に翻弄され、国の中央がよしとするものから取り残された、周縁の人たちの生活にそっと言及するような作品。


ライオンは今夜死ぬ [DVD]
ジャン=ピエール・レオー
紀伊國屋書店
2018-07-28


『彼らは生きていた』

 第一次大戦中に撮影された2200時間に上る記録映像を修復・着色し、BBCが保管していた退役軍人たちへのインタビューから音声や効果音を追加。ピーター・ジャクソン監督による記録映像の再構築。イギリスの芸術プログラム「14-18NOW」と帝国戦争博物館の共同制作。
 大変な労作だということが見るだけでわかる。100年前の映像だから当然劣化しているし音声はついていない。それを修復、着色し、映像と一致するインタビュー内容を音声として加え、更に被写体の唇の動きから何を話しているのかを割り出しているそうだ。付け加えられた映像内でのやりとりはかなり正確なものということだろう。まさに技術の勝利というべき作品。単に「記録」としてしか見られなかったであろう当時の映像が、色と音が加えられるとこんなに生き生きと蘇るのかという驚きがあった。この人たちは実際にあそこにいて生きていた、個々の人生があった様子が立ち上がってくるのだ。また、全体の構成・編集も上手い。99分というコンパクトさなのだが、若者たちが高揚しつつ戦場に向かうところから、軍隊でしごかれ、徐々に変化していき、前線は泥沼化していくという経緯を記録映像だけでなく当時の広告や新聞記事等も交えてテンポよく見せていく。ここぞというシーンの選び方、つなぎ方が効果的でドラマティックに、面白くなっている。ジャクソン監督、この手さばきを他の自作で見せてくれればよかったのに…。
 とても面白く興味深かったのだが、面白いが故にもやもやする。あまりにも演出が上手く、「面白い映画」になってしまっているのだ。本作に映し出された情景はもちろん実際にあったものであり、出てくる人たちは一人一人の身元はわからなくとも実在した人々だ。積み重なる死体も、実際に生きていて死んだ人たちのものだ。彼らの生き死に、死体の映像を娯楽として無邪気に享受してしまっていいのか?という葛藤を感じた。通常ドキュメンタリーを撮る際は当然ながら実在の人物・事象が目の前にあり、撮影することは時に暴力的だという意識を持ち続けなければならないものだと思う。撮影者と被写体との間には常に何らかの緊張感があるだろう。
 しかし本作の場合、対象はすでにいなくなっている人たちであり、監督が被写体と直接接したことはもちろんない。撮影ではなく編集であることで、そういった緊張感がうやむやになっているように思った。また、これだけ加工、編集したら歴史資料とは厳密には言えないのでは?という気もする。確かに面白いのだが、倫理的にこの面白さはOKなのか?と悩んでしまう。


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平田オリザ
紀伊國屋書店
2013-12-21


『カイジ ファイナルゲーム』

 2020年、東京オリンピック終了後、急速に景気が悪化し階層化が進んだ日本。弱者は踏みつぶされていく世の中で、カイジ(藤原竜也)は「バベルの塔」なるイベントへの参加を持ち掛けられる。主催者は富豪の老人・東郷(伊武雅刀)。彼はカイジにある提案をする。監督は伊藤東弥。脚本で原作者の福本伸行が参加している。
 本作がやろうとしているのはもはや映画ではなく「カイジ」というコンテンツなんだなと実感した。ちゃんと「ざわ…ざわ…」音の入った配給会社ロゴ、怒涛の説明台詞、正直しょぼいセット、荒唐無稽だが力業で理屈が通っているかのように納得させられるゲームの数々、そしてとにかく声を張る藤原竜也。映画としてはあまり褒められたものではない演出多々なのだが、本作の場合はそれでいいのだろう。目指しているところがすごくはっきりしている作品で、いっそ潔い。これはこれで正解なのだと思う。一緒に「キンッキンに冷えてやがる…!」とビールをあおれる応援上映には最適。色々茶々入れつつ誰かと一緒に楽しむ作品だろう。それも映画の一つの形だよな。
 ただ、俳優の役割については、なんぼなんでも藤原竜也に頼りすぎだろうとは思った。テンプレ演技でも場を持たせてしまう藤原がえらいのだが、他の俳優はそこまで場が持たない。この演技2時間見続けるのはだいぶ辛いぞ…という人も。そういう所を見る作品ではないということなんだけど。
 なお、本作は東京オリンピックの経済効果に全く期待していない(笑)!働いて豊かになるという期待がほぼ消えた世界設定で、原作スタートから現在に至るまでに現実世界がこの領域にどんどん近づいてきた気がする。正直笑えない。


『家族を想うとき』

 リッキー(クリス・ヒッチェン)はマイホーム購入という夢の為、フランチャイズの宅配ドライバーに転職する。妻アビー(デビー・ハニーウッド)は介護福祉士として一日中駆けずり回っている。両親が時間に追われる一方で、高校生の長男セブと小学生の娘ライザ・ジェーンは寂しさを募らせていた。監督はケン・ローチ。
 リッキーもアビーも家族を深く愛している。しかし、家族の為に励んできたはずの仕事が、家族と共にいる時間を奪い、繋がりを絶っていくという悪循環から逃れることができない。個人事業主とは名ばかりで、過酷な労働条件に縛られ、社員のような保証はろくにない。イギリスでもアメリカでも、日本でも今問題になっているシステムに押しつぶされそうになっていく人々を描いている。『わたしはダニエル・ブレイク』に続き、現代の労働とシステムをめぐる問題を扱った作品だが、前作よりも更に安易な救いうや慰めが訪れない(ここで終わる?!って終わり方で、ここでカットできるのは凄いと思う)あたり、監督引退宣言を撤回したケン・ローチ監督の怒りの深さが感じられるように思う。
 リッキーもアビーも真面目に働く人、働くことを当然と思って真摯に取り組む人だ。しかし彼らが取り込まれたシステムは、真摯であればあるほど当人にとってしんどくなっていく。介護士として働くアビーは、個々の「お客」を自分の親だと思って親身になって接したいと心掛けている。しかしそれができるだけの時間も、それに見合う賃金も与えられていない。きつきつのスケジュールで、時間外で対応しても賃金は出ず、良心的であればあるほど低賃金で重労働ということになってしまう。アビーの疲弊は体力面だけではなく、良心に恥じない仕事ができないという心理的なものでもあるのだ。作中、アビーの客でかつては労働組合運動に参加していた女性が、アビーの労働条件を聞いてびっくりするというシーンがある。彼女の時代は労働者同士で連帯することができたが、今はそれもできないのだ。過剰な自己責任論により、個々に分断されてしまっている。
 そんな個々であるリッキーとアビーをかろうじて支えるのは家族だ。ただ、これにも皮肉を感じてしまう。もしも2人に子供がいなかったら、結婚しておらず自分1人の心配だけしていればいいのだったら、ここまで苦しくはなかったのではないか。家族は心の支えになるが、家族の存在によって経済的には追い込まれてしまう面もあるというのがやりきれない。
 なお、疲れ果てたリッキーはアビーに「自分を思いやってほしい」と訴えるが、アビーには私だって疲労しておりいたわってほしいんだと一喝する。過剰な労働により甘えさせるゆとりがなくなるというよりも、関係性のフェアさが必要だということだと思う。ここも現代的だなと思った。

わたしは、ダニエル・ブレイク [DVD]
デイヴ・ジョーンズ
バップ
2017-09-06




『カツベン!』

 サイレント映画全盛期。活動弁士を夢見る青年・俊太郎(成田凌)は、泥棒の片棒を担がされ、小さな町の映画館・靑木館に流れ着く。靑木館は隣町の映画館に人気も人材も取られて閑古鳥が鳴いていた。雑用係として働き始めた俊太郎は、ふとしたことで弁士を任され、その語り口は評判になっていく。しかしかつての泥棒仲間が彼の正体に気付く。監督は周防正行。
 面白くないわけではないが、どうにも野暮ったさが否めなかった。こんなにもたついた映画を撮る監督だったかな?序盤の子供時代パートでの子役の演技がちょっとわざとらしいて「ザ・子役」な感じで興が削がれたというのもある。一度気が削がれるとなかなか映画に乗っていけないものだな…。俳優の演技が全体的にオーバー目なように思った。また、ドタバタ感が強すぎ、動きを使ったギャグなどもおおむね滑っている。かつての「活劇」を意識したのかもれいないが、現代の映画に慣れた目には少々煩い。過去の世界を描き、過去の名作らにオマージュを捧げるとしても、現代に公開される映画なら「今」の見せ方にしないと違和感が強い。せっかくいい俳優をそろえているのに、キャラクターばかり増えすぎてストーリー上あまり機能していないのも辛かった。
 活動弁士が俳優なみのスターとしてもてはやされた時代を舞台にしているが、私はそもそもこの活弁というシステムがあまり好きではないのかなと思った。もちろん、実際に体験したことがないからしっくりこないというのもあるだろうが、弁士の語りによって映画の面白さの度合いや方向性が大きく異なってしまうというのにひっかかる。あそこまでわかりやすさを前面に出してしまっていいのだろうかと。作中で永瀬正敏演じる往年の名弁士は、かつての朗々とした語りは放棄している。フィルムを見ろ、フィルムを見れば十分にわかるというのだ。それでこその映画だろう。語りによってフィルムに映ったもの以上の意味合いを載せてしまっていいのだろうかという疑問がぬぐえない。


『片隅たちと生きる 監督・片渕須直の仕事』

 2016年に公開され、アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門審査員賞等、国内外で数々の賞を受けた『この世界の片隅に』。その監督である片渕須直を、公開後からの約3年間追ったドキュメンタリー。
 わりと通り一遍な構成のドキュメンタリーで、劇場用作品というよりもTV番組っぽい。もうちょっと編集がスマートだったらなとか(シークエンスのつなぎ方がなんとなくぎこちない)、『この世界の~』を取り巻くファンや劇場の現状等が見られるのはうれしいが、サブタイトルが「監督・片渕須直の仕事」なのだからもっとアニメーション監督としての仕事によりスポットを当ててもらいたかったなという気はする(映画公開後に撮影を始めた作品だからしょうがないのかなとも思うが)。『この世界のさらにいくつもの片隅に』製作情景も挿入されているので、むしろそこをもっと見たかった。
 とは言え、『この世界の片隅に』が広く深くファンに愛されている様子が見えてくるのはうれしい。熱心に劇場に通い続けるファンだけでなく、本作の話を祖父母にしたら、戦時中の思い出話が出てきた、当時の話を色々聞けたというような、若い世代と年配世代を繋ぐツールにもなっており、映画を見てから色々会話が派生していくのって、やっぱりいい映画ってことだよなと思う。
 また、映画の観客、特に年配客が監督に話しかける姿が印象に残った。戦時中を体験した人たちが、そのころの記憶と映画への共感を自分はこうだった、と語り始める。特に広島に住んでいた方たち、被爆者の方やそのご家族の言葉は印象部深い。父が子供の頃遊んだ町で自分も遊んだ夢を見た、という観客の言葉に監督がすごく喜んでいたが、確かに映画監督、ことにアニメーション監督にとっては本当にうれしいだろうなと思う。今はなくなったものを再現できる、体感できるというのは映画の力の一つだろう。
 それにしても監督の活動量がすごい。まさに東奔西走で、製作だけでも忙しいのに監督本人がここまでプロモーションするのか!と。製作過程で調査に協力してくれた人たちとの縁がずっと続いているのも、この熱意によるところが大きいんだろうな。監督自らここまで宣伝しないとならなかったというのはちょっと辛いところでもあるが…。なお、製作現場についてはリンの着物の「柄合わせ」がなかなかぞっとする。あれを動かすのか…。

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