3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『怪物はささやく』

 13歳のコナー(ルイス・マクドゥーバーランド)の前にイチイの木の怪物(リーアム・ニーソン)が現れる。怪物は「私が3つの物語を話す。4つ目は、お前が話せ」と告げ、真実を語れと言う。コナーは断るが、怪物は毎晩現れ、物語を聞かせる。原作はパトリック・ネスの小説。監督はJ・A・バヨナ。
 子供の世界、子供が避けられない苦しみとどのように向き合い、受け入れていくかという過程をファンタジーの形を使って描いている。作中物語を描くアニメーション部分が、滲んだ水彩絵具風の質感で美しい。その造形の由来が最後に明かされると更にぐっとくる。
 コナーの母親(フェリシティ・ジョーンズ)は重病にかかっており、入院の為にコナーは祖母(シガニー・ウィーバー)の家に預けられることになる。コナーは祖母に馴染めず、学校でもいじめにあっており身の置き所がない。離婚した父親が会いに来るものの、コナーをひきとる気はなく、親密に感じられる存在が身近にいないのだ。彼は母親との世界を守る為に必死で様々なことを我慢しているのだが、それが誰にもわからないし、自身でも説明できない。学校での振る舞いの理由を誰もわかってくれないし気にかけもしないというのが本当にしんどい。コナーの行動原理が少々わかりにくいからというのもある。そこがミステリ的な仕掛けにもなっている。いじめっ子が知ってか知らずかなかなか的を得たことを言うのだが。
 彼はそんな中である秘密を抱え、それを自身で認められずにいる。その秘密、怪物が言う所の真実を認めてしまうと、彼のこれまでの世界は崩れ落ちてしまうからだ。しかし真実を避け続けても世界はいずれ崩れる。彼が恐れていること、秘密にしていることは避けられないことで、直面せざるを得ない。怪物が語る物語は、様々な形でコナーが避けようとしているものを示す。3つの物語はどれもシニカルで矛盾に満ちている。コナーが望む世界ではないかもしれないが、彼を取り巻く世界は矛盾に満ち複雑で、きれいな納まり方はしない。コナーはその複雑さと付き合っていかなくてはならない。それを手助けするのが物語なのだ。子供だけでなく人、特に傷ついている人にこそファンタジーが、物語が必要なのかもしれない。
 コナーの両親や祖母の不完全な人間としての造形が良かった。母親は愛情に満ちておりイマジネーションが豊かで素敵な人だが、彼女もまた真実(を息子に告げること)から逃げているのだ。厳格な祖母も、娘の病の前では無力。父親はコナーを愛してはいるが彼の為に自分の生活を変えることはできない。理由はそれぞれだが、コナーを守る立場の大人たちが、必ずしもコナーの為に動けるわけではない、でもそれを責めるわけではないという所も、複雑さを感じさせる。


怪物はささやく (創元推理文庫 F ネ 2-1)
パトリック・ネス
東京創元社
2017-05-29

永遠のこどもたち [DVD]
べレン・ルエダ
ジェネオン・ユニバーサル
2012-05-09

 

『カフェ・ソサエティ』

 1930年代。ニューヨーク育ちの青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、叔父で大物エージェントであるフィル(スティーブ・カレル)を頼ってハリウッドにやってくる。フィルの雑用係として働き始めたボビーは、フィルの秘書ヴォニー(クシツエン・スチュワート)に恋をする。しかしヴォニーの恋人は意外な人物だった。監督はウッディ・アレン。
 他愛ない話、2人の人を同時に好きになっちゃったけどどうしよう、というだけの話ではあるし、いつものアレン監督作といった感じではあるのだが、割と好き。ウッディ・アレン作品は面白かろうがつまらなかろうが自分にとって気楽な作品が多い。あっさりと浮気したり殺人が起きたりして、そういうこともあるからしょうがない、みたいな突き放した距離感があるからかもしれない。
 本作では、同時に2人の人を愛してしまう人が登場し、話の流れ上どちらか一方を選ぶ。しかし、選ばなかった一方も、ずっと心の中で生き続ける。今の人生、今のパートナーを愛していないというわけでも不誠実だというわけでもなく、1人の人の中で両立してしまうもので、これはもうしょうがないのかもな・・・。そういうのは許せないという人もいるかもしれないが、私はどちらかというと共感する。「夢は夢だ」というセリフが出てくるのだが、正にその通りで、そういう夢を一生抱えていく人もいるのだと思う。選ばなかった人生への憧憬という部分では、『ラ・ラ・ランド』を思い出した。ハリウッドという舞台は、そういう儚いものとの相性がいいのか。
 相変わらず衣装が素敵なのだが、ヴォニーがプライベートで着ているヘソ出しファッションは、ちょっと当時のモードとはずれている気がする。相当攻めたおしゃれをする人という設定なのだろうか。後々登場する時には、いかにも30年代風のタイトなロングドレスを着ているので、そのあたりのニュアンスが今一つわからなかった。
 ユダヤ人ギャグみたいなフレーズが結構出てくる(ボビーはユダヤ系家庭の息子なので)のだが、これはセーフなの?アウトじゃないの?とちょっとハラハラしてしまった。ユダヤ系であるアレン自らやってるわけだからまあセーフなんだろうけど、大丈夫なのかな・・・。
 なお、女性2人の名前がヴェロニカなのは、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『ふたりのヴェロニカ』(1991年)へのオマージュなのかな?話の内容は全然関係ないんだけど。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』

 宇宙の平和を守るヒーローとして、黄金の惑星ソヴリンの指導者アイーシャ(エリザベス・デビッキ)からの依頼を完了した、ピーター・クイル(クリス・プラット)をはじめとするガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々。しかしロケット(ブラッドリー・クーパー)がソヴリンの高エネルギー源の電池を盗んだせいで、アイーシャは激怒。一行はソヴリンから執拗に追われる羽目になる。危機に陥った彼らの前に現れたのは、ピーターの父親を名乗るエゴ(カート・ラッセル)だった。監督・脚本はジェームズ・ガン。
 1作目ではガーディアンズの面々が本当に「ガーディアンズ」になるまでが描かれ、少年漫画っぽさに熱くなったが、本作ではピーターと父親の問題を軸に、家族を巡る物語が中心に描かれている。ピーターを巡る、悪しき父親と良き父親の対決の物語でもあり、ある登場人物の活躍には目頭熱くせずにはいられないだろう。父親は子供を無事に送り出さなければならない、という姿勢の健全さにもほっとする。また、ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)と妹の確執の顛末や、ベビー・グルート(ヴィン・ディーゼル)の「育児」に試行錯誤するロケットの姿には、まだ上手くはやれないけど何とかこいつとやっていきたいんだ!という一生懸命さがあって、なんだかほのぼのする。
 ガーディアンズの面々の愛すべき所は、皆愛情の出し方、好意の伝え方が上手くはないが、伝えようという意欲は捨てていないという所じゃないかなと思う。他者とのコミュニケーションに希望を持っている人たちなのだ。口が悪いロケットですら、その点に関しては前作程皮肉っぽくはない。本作に登場する「ヒーロー」たちのかっこよさは、ある意味愚直な一生懸命さにあり(ようするに全然クールではない)、悪ノリはあってもシニカルさはない。そこが、作品の愛嬌に繋がっているように思う。
 なお、前作ではドラックス(デビッド・バウティスタ)が筋肉バカみたいな振る舞いだったが、今回は意外と良いことを言っている気がする。彼は比喩表現がわからず文字通りの率直な言い方しかできない、ある意味とっても素直なので、素直になれない他のメンバーたちの心情をずばりと(多分本人は意図していないのだろうが)言い当てているような所があった。マンティス(ポム・クレメンティエフ)へのブスいじりにはハラハラさせられたが、それでも彼女に好意を持っているということではあるからなぁ(ドラックスの種族がそういうことを他人の評価基準にしていないということかもしれないけど)。ブスだから嫌いだとは言っていないんだよね。

『彼らが本気で編む時は、』

 11歳の少女トモ(柿原りんか)は母親ヒロミ(ミムラ)と2人暮らしだったが、ある日母親がふらりといなくなってしまう。トモは叔父マキオ(桐谷健太)の元を訪ねるが、彼は恋人のリンコ(生田斗真)と同居していた。元男性であるリンコにトモは戸惑いを隠せないが、2人の元に身を寄せ同居生活が始まった。監督は荻上直子。
 真摯に作られた作品なんだろうなとは思う。特に、子供はどういう母親であっても母親を求めてしまうというところや、子供にとってどんな親の元に生まれてくるか、周囲にどんな大人がいるかということは、博打みたいなもので自分ではどうしようもないということのやるせなさは、主人公の少女だけではなくその同級生の少年の母子関係からも、よく伝わってくる。特に少年の母親は全部よかれと思ってやっているだけに、本当にやりきれない気分になる。
 ただ、いいなと思った部分の量を、ひっかかった部分の量が越えてしまった。まず、リンコの造形には、これでいいのかなとずっと疑問が付きまとった。リンコはトランスジェンダーの女性だが、そこが特別であるように描かれず、仕事は介護施設職員で同僚とも円満に付き合っており、フラットな描写なところはいい。ただ、いわゆる「女性らしい」と呼ばれる要素、社会的に女性に要求されがちな要素が盛られ過ぎているように思った。リンコは料理を筆頭に家事全般が得意で、服装はふわっとしたフェミニンなもの、いわゆる「かわいい」小物が好きで優しく穏やかな性格。介護という職業も、どちらかというと女性のものと捉えられがちだし実際現場は女性が多い。自認している性別が女性であるということと、社会が女性に要求するものを引き受けようとすることは別物だと思うのだが、映画を作っている側がそのあたりに無自覚で、とにかく「女性らしさ」を強調しよう!というキャラクター造形になっているように思った。こういうのって、逆に性別の幅を狭めるようなことになっている気がするのだが・・・。リンコ個人が(性別はどうあれ)かわいいものや料理が好きな人、というのはわかるのだが、そこを「女性らしさ」と安易に結び付けてないかなと。こういう部分が、シンプルに「かわいいものが好きな人」「手芸が好きな人」「料理が好きな人」と性別と関係なく見られるようになるといいんだろうけどなぁ。
 また、リンコが編み物をする理由も、ちょっとひっかかった。彼女は腹の立つことややりきれないことがあると、それを編み物にぶつける。処世術としては有効なのだがろうが、そこは率直に怒っていいんじゃないの?とも思う。怒りを表明しても役に立たないと悟った上での編み物ならば、ちょっと辛すぎる。それを子供に勧めるというのも辛い。そりゃあ何でもかんでもいちいち腹立てていたらやってられないだろうけど、本当におかしいと思ったことは、おかしいと指摘していいのだ、傷つけられたり不当に扱われたら怒っていいのだと、まず教えておかないといけないんじゃないのと。全部飲み込む必要なんてないと思う。

『家庭生活』

 ケン・ローチ初期傑作集にて鑑賞。1971年作品。若い娘・ジャニスが妊娠するが、世間体を気にする両親によって中絶を強いられる。両親の無理解の元、ジャニスは徐々に精神を病んでいく。
 ジャニスが起こす問題、両親の不寛容さ、親子の軋轢といったものは現実でも目にするし小説や映画のテーマとしてももちろん多々取り上げられる、よくある話と言えばよくある話だ。それ故に普遍性を持つ。家族の問題としてはかなり類型的な類のものなのだが(本当に典型的なパターンで、臨床心理の教材として使えるんじゃないかというくらい)、それを冷徹に映し出しており容赦がない。
 ジャニスの両親は当時としてはおそらく普通の、善男善女なのだろう。しかし2人とも、自分達の世界、自分達の価値観とは違うものもこの世にはある、違うやり方でも生きていくことはできるという発想がない。特に母親の方がジャニスに対する支配欲のようなものが強く、従順であることを強いる。父親は妻がジャニスに対して抑圧的すぎるのではという疑問を当初は持っているが、ジャニスが精神病院に入れられたことで、娘はやっぱり問題があってダメなんだと、妻と同意見になってしまう。
 問題の当事者はジャニスではあるのだが、彼女が抱える問題は両親、特に母親との関係に根差すもので、両親が変化しなければ、おそらく状態はよくならない。ジャニスは最初グループホームのような施設に入るが、その間は言動は落ち着いており、本来自分で考え行動できる人なんだろうとわかる。両親との物理的な距離が離れていれば、彼女は自分を保てるのだ。それが崩れる後半の展開は、もうやりきれなさでいっぱい。
 やりきれなさを募らせるのは、彼女の病状の悪化がほかならぬ医療によってもたらされるということだ。当初はジャニス、両親それぞれに対するカウンセリングが行われていたが、当時としては先進的だったこの方法は、病院の理事会には理解されず、担当医の契約が切れると共になしくずしに終了してしまう。後任の医師は従来の治療法、電気ショックと鎮静剤による「治療」をし、結果、ジャニスの自主的な意思はどんどん後退してしまうのだ。
 当時のイギリスの精神医療が他国と比べてどの程度の水準だったのかはわからないが、こんな前時代的な「治療」だったのかとショックだった。そもそもジャニスは、現代ならば入院が必要なレベルではない。医者と医療が彼女の症状を作り上げてしまうのだ。ラストシーンには背筋が凍る。時代の限界とは言え、もしカウンセリングが続けられていたら、彼女の人生はもっと違うものになったのではとやりきれなかった。
 

『ガール・オン・ザ・トレイン』

 スコット(ジャスティン・セロー)と離婚したレイチェル(エミリー・ブラント)は、毎朝電車の窓から閑静な住宅街を眺めるのが習慣。その中の1軒に暮らす夫婦を、理想のカップルとして夢想していた。ある日、そのカップルの女性が夫以外の男性とキスしている姿を目撃する。そしてその女性・メーガン(ヘイリー・ベネット)は死体となって発見された。レイチェルはメーガンの夫スコット(ルーク・エバンス)に、彼女の浮気を教えに行く。原作はベストセラーとなったポーラ・ホーキンズの同名小説。監督はテイト・テイラー。
 原作は未読だが、むしろ未読のまま情報入れずに見た方が楽しめる作品なんじゃないかと思う。テンポが速く二転三転していく。レイチェルはとある理由によりいわゆる「信用できない語り手」。そして、面識のないスコットとメーガン夫妻にやたらと思い入れたり、自宅に乗り込んだりという行動からも、平静な状態とは思えない。なので、彼女主観のパートは、その意味合いを全て保留した状態、常に疑いをもった状態で見ることになる。中盤をかなり過ぎるまで諸々の事態が起こりっぱなし積みっぱなしなので、これ収拾付くのかなと思っていたら、あるやりとりでそれまでの構図が大きく変わる。物語の「絵」が何度も変化していくタイプのミステリだ。
 もっとも、レイチェルの語りがなぜ信用できないのかという事情以上に、彼女を信用できない語り手にしたのは誰なのか、という部分の方が本作のキモだろう。それは、殺人の動機の根っこにもあるものなのだ。動機となるものがしみじみと嫌なのだが、レイチェルはなまじ真面目だから真に受けてしまったんだろうな・・・。人の言うことを聞き流す人、真に受けずほどほどにしておくようなしたたかな人の方が、レイチェルが落ちた落とし穴みたいなものには落っこちないのかもしれない。
 主演のエイミー・ブラントは、出演作によって華やかな美人にも、レイチェルのような地味目でぱっとしないルックスにも見える。演技の上手さもあるし、風貌の応用の幅が広いという利点もあるのだろう。今年は主演作の『ボーダーライン』(ドゥニ・ビルヌーブ監督)も見たが、『ボーダーライン』では凛々しい姿だったのに本作ではよれよれで別人みたいだった。

『仮面』

 神奈川県立近代美術館で開催中の展覧会「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」にて鑑賞。2010年の作品。原作はスタニスワフ・レムの短編小説。暗殺の為、心を持った女性として作られた暗殺人形。ターゲットに出会った人形は彼に恋をし、本当に愛してしまう。しかし殺人の道具として作られた自分の性には抗えない。なおポーランドで製作された作品なので、ナレーションはポーランド語、字幕は英語。
 かねてから見たかったものの、2011年にイメージフォーラムフェスティバルで上映された際(当時は『マスク』という題名)には見損ねてしまったので、今回の上映は大変ありがたかった。なお、「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」はパネル展示が多いとはいえ、撮影に使用された小道具や人形等もしっかり確認できるので、クエイ兄弟ファンは必見。
 レムの原作小説は未読なのだが、映像では中盤までは中世のおとぎ話のような雰囲気。王と女王が巡り合って結婚して、というような様子だ。しかし徐々に禍々しさが増していく。まあクエイ兄弟作品だから、最初からダークファンタジー風で薄暗い雰囲気ではあるのが・・・。「彼女」が変身を遂げる所で禍々しさはピークに達するのだが、同時にきらびやかで美しい。文字通りボディの素材からして変わってしまうのだが、機械仕掛けのカマキリのような姿は、なるほど男を食い殺すからこの姿なのかと。
 「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」の展示を見てから映像作品を見るとよくわかるのだが、クエイ兄弟の映像作品は素人が見ても撮影技術が高いのだろう。映像には奥行、高さがあるように見えるのだが、実際のセットはさほど奥行きがない。展示品の中にも、レンズの特性を活かして奥行を強調した見せ方にしているものがあったのだが、アニメーション撮影にもそれが活かされている。

『神様の思し召し』

 有能な外科医トンマーゾ(マルコ・ジャリーニ)は、仕事は出来るが毒舌で傲慢。妻カルラ(ラウラ・モランテ)との仲は倦怠気味、娘はトンマーゾにとっては期待外れの男と結婚していたが、医大生の長男が後を継ぐのを楽しみにしていた。しかし息子は突然神父になると宣言する。とっさにものわかりのいい父親を演じてしまったトンマーゾだが、納得いかず、息子は話術たくみなピエトロ神父(アレッサンドロ・ガスマン)に洗脳されたと思い込む。ピエトロが前科持ちだと知り、トンマーゾは失業者を装って近づき、尻尾を掴もうとする。監督はエドアルド・ファルコーネ。
 楽しいことは楽しく、それなりにホロリとさせられるコメディなのだが、ちょっと平坦だなぁという印象を受けた。本作を配給するGAGAは、大ヒットしたフランスのコメディ映画『最強のふたり』に連なる路線として売るつもりみたいだけど、『最強のふたり』の方が色々細部まで目が行き届いており、技があったと思う。
 トンマーゾにしろカルラにしろ、登場人物の造形が概ね紋切型にカリカチュアされているのが辛かった。トンマーゾは有能故に傲慢で他人の心の機微に疎い。息子がなぜ信仰の道に惹かれたのか考えてみようともせず、ピエトロのせいだと決めつけてしまう。カルラは経済的には不自由ない「奥様」だが心は満たされずボランティアやチャリティーで気を紛らわし、キッチンドランカー状態。長女は「オツムの軽い(そこそこ)美人」でその夫はボンクラ。あーこういうのどこかで見たなぁという気分が拭えない。よくある設定が悪いというのではなく、紋切型から「その人」として登場人物が立ち上がってくる為の、もう一味が足りないという感じ。カルラが息子に空疎な生活だと指摘され大変身するあたりや、終盤で娘がぶちまけるシーンなど、ちょっと「絵に描いたような」感が強すぎた。間にもう一クッションくらいエピソードが欲しくなっちゃう。細部の雑さで気が削がれるのがもったいない。
 ともすると戯画的なトンマーゾ一家に対し、ピエトロはごくごく普通の人として地に足がついた感じがし、自然体に見えた。彼がどういう人なのかは、あまり言及されない。本作はあくまでトンマーゾと家族の話なのだろう。ピエトロは媒介みたいなものだ。
 ピエトロは神父なので、当然信仰に関する話題も出てくるのだが、そこを強調はしていない。トンマーゾは無神論者だが、ピエトロは彼にカソリックの信仰を強いようとはしない(多分トンマーゾもいきなり信仰に目覚めたりはしないだろう)。彼が話すのは、もっと素朴な、この世界の細部の美しさみたいなものだ。それはトンマーゾが見失っていたものなのだろう。

『カルテル・ランド』

 麻薬カルテル“テンプル騎士団”による抗争と犯罪、市民からの上納金の取り立てが横行する、メキシコ・ミチョアカン州。政府も警察もあてにならない中、ドクター・ホセ・ミレレスは水から銃を持って立ち向かおうと、市民に呼びかけ自警団を結成。やがて自警団は各地でカルテルを追い出し、ミレレスは英雄視されるようになる。しかし大きくなった組織は、徐々に暴走し始める。監督はマシュー・ハイネマン。
 メキシコ麻薬戦争の最前線に乗り込んで撮影されたドキュメンタリー。しかし話が出来すぎていて、これ小説やドラマ映画じゃないの?!と唖然とする。中心人物であるミレレスがなかなかハンサムで、確かにカリスマ性があるだろうなという雰囲気の人物なので、余計に出来すぎな感じがするのだ。そして自警団の顛末もドラマティックすぎる。ドキュメンタリーとしては、正に「当たりが出た」感じの素材の揃い方だろう。
 おそらく監督も、撮影当初はこういう展開になるとは思わなかったのではないか。かなり危険な状況での撮影と思われるが、なりゆきでこうなっちゃった、みたいな感じもするのだ。作中、明らかに(直接の映像はさすがに撮っていないが)拷問しているよなという現場や、普通に麻薬製造している現場も出てくるし、そもそも自衛の為とはいえ、自警団のやっていることは概ね違法だ。撮影されている側も意外と呑気といえば呑気。本作が公開されたくらいでは自分達に被害は出ないという自信なのか、それほど大事と思っていないのか。アメリカとメキシコの国境付近で、メキシコからの密入国者を自主的に捕まえる自警団のように、むしろ積極的に撮影してもらって、自分達がやっていることの正当性を訴えたいという人も登場する。
 ミレレスが結成した自警団は、カルテルに苦しまされてた地域では歓迎されるが、歓迎一辺倒ではなくなってくる。元々警察や自治体が機能している地域では、自警団の必然性はもちろん薄くなる。また、街中で公然と銃を持ち歩き、捜査と称して他人の家に乗り込むような行為は、いくら自警団と言っても反感を買うだろう。また、武器で一般人を脅したり女性を無理矢理口説いたりという、素行不良な団員も出てきて、どんどん雲行きが怪しくなるのだ。カルテルは当然そこを突いてくる。
 自警団の顛末を見ていると、カルテルの脅威云々以前に、人間は力(暴力)を手にし、それを行使する旨味を知ってしまうと、病みつきになって止められなくなるのではないかと言う怖さがあった。人間の性のやりきれなさが強烈だ。暴走する自警団だけではなく、ミレレスもまた自分の力を手放そうとはしないのだ(手放したら即殺されるレベルの話になっているという事情もあるのだろうが)。出口が見えそうかと思ったら、更に深い闇のなかに突き進んでいくみたい。

『ガルム・ウォーズ』

 吹替版で鑑賞。創造主ダナンが作った戦士「ガルム」が複数部族に分かれて暮らす惑星アンヌン。ダナンが去った後、長年にわたり3つの部族が抗争を続けていた。戦士カラ(メラニー・サンピエール)は部族の違うスケリグ(ケビン・デュランド)、ウィド(ランス・ヘンリクセン)と出会い、クローンとして生まれ延々と戦い続ける存在の、ガルムの真実を求め旅に出る。監督・原作は押井守。押井作品の常連である川井憲次が本作でも音楽を手掛けている。それほど主張が激しいわけではないのにあっ川井旋律だ!とすぐわかるあたりがすごい(手癖が毎回同じということなのか)。
 壮大な年代記の一部を抜粋し、更にダイジェスト化したような印象を受けた。押井監督が長年温めつつ頓挫してきた企画だそうだが、多分、監督のそもそもの構想の中ではもっと長大な物語なんだろうな。一応章立てしてあるのだが、これにより更にダイジェストっぽくなった気がする。分けるほどのボリュームはないのだ。尺が短めなのに固有名詞や背景設定をどんどん突っ込んでくるのも、「要約」っぽく感じられた一因かもしれない。
 実写映像を加工したビジュアルにしろ、設定にしろ、押井印とでもいいたくなるフェティッシュに満ちている。もちろんバセットハウンドも登場し、重要な役割(とうとうバセットが精霊や妖精級に・・・)を担う。本作の構想はだいぶ以前からあったようなので、押井監督のエッセンスがかなり原石的な状態のまま残っているのだろう。本作は、むしろ押井監督が若い頃に作った作品という雰囲気がある。企画が暖まりすぎて、時系列が逆転しているみたいだ。
 企画を暖め過ぎた弊害は、やはり既視感が強いという点に尽きるだろう。こういうのもう見たことあるな、という情景が延々と続く。これまでのフィルモグラフィでやりつくした感のある押井的な要素についてもそうだが、ファンタジーとしてもかなりオーソドックスでレトロ。今わざわざこれをやる意義が、今一つ感じられないのだ。実写によるファンタジー作品としても、今となってはもっとすごいのあるしなぁ・・・という思いが拭えない。監督がどうしてもやりたかったからやった、監督とそのファン向けの、かなり内向きな作品という印象だ。私は一応、新作が出たら見るという程度には押井守監督作品は好きなのだが、本作を見るとしたら、もっと以前に見て見たかった。
 なお、押井監督は、(本人の志向はさておき)やっぱり実写よりはアニメーションに向いているんじゃないかなと思う。アニメーションだと間が持つのに実写だと持たない。この差異は何なんだろう。単に予算とか役者(正直、本作の出演者の演技は頂けない。字幕版だとまた印象が違うのかもしれないけど)のスキルの問題ではなく、絵コンテの段階での向き不向きがあるんだろうか。本作は見るからに予算足りなかったんだな(それでも大分超過したみたいだけど)という感じだけど、予算がつけばもっとすごくなるかというと、そうでもなさそうなんだよな・・・。

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