3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『彼らが本気で編む時は、』

 11歳の少女トモ(柿原りんか)は母親ヒロミ(ミムラ)と2人暮らしだったが、ある日母親がふらりといなくなってしまう。トモは叔父マキオ(桐谷健太)の元を訪ねるが、彼は恋人のリンコ(生田斗真)と同居していた。元男性であるリンコにトモは戸惑いを隠せないが、2人の元に身を寄せ同居生活が始まった。監督は荻上直子。
 真摯に作られた作品なんだろうなとは思う。特に、子供はどういう母親であっても母親を求めてしまうというところや、子供にとってどんな親の元に生まれてくるか、周囲にどんな大人がいるかということは、博打みたいなもので自分ではどうしようもないということのやるせなさは、主人公の少女だけではなくその同級生の少年の母子関係からも、よく伝わってくる。特に少年の母親は全部よかれと思ってやっているだけに、本当にやりきれない気分になる。
 ただ、いいなと思った部分の量を、ひっかかった部分の量が越えてしまった。まず、リンコの造形には、これでいいのかなとずっと疑問が付きまとった。リンコはトランスジェンダーの女性だが、そこが特別であるように描かれず、仕事は介護施設職員で同僚とも円満に付き合っており、フラットな描写なところはいい。ただ、いわゆる「女性らしい」と呼ばれる要素、社会的に女性に要求されがちな要素が盛られ過ぎているように思った。リンコは料理を筆頭に家事全般が得意で、服装はふわっとしたフェミニンなもの、いわゆる「かわいい」小物が好きで優しく穏やかな性格。介護という職業も、どちらかというと女性のものと捉えられがちだし実際現場は女性が多い。自認している性別が女性であるということと、社会が女性に要求するものを引き受けようとすることは別物だと思うのだが、映画を作っている側がそのあたりに無自覚で、とにかく「女性らしさ」を強調しよう!というキャラクター造形になっているように思った。こういうのって、逆に性別の幅を狭めるようなことになっている気がするのだが・・・。リンコ個人が(性別はどうあれ)かわいいものや料理が好きな人、というのはわかるのだが、そこを「女性らしさ」と安易に結び付けてないかなと。こういう部分が、シンプルに「かわいいものが好きな人」「手芸が好きな人」「料理が好きな人」と性別と関係なく見られるようになるといいんだろうけどなぁ。
 また、リンコが編み物をする理由も、ちょっとひっかかった。彼女は腹の立つことややりきれないことがあると、それを編み物にぶつける。処世術としては有効なのだがろうが、そこは率直に怒っていいんじゃないの?とも思う。怒りを表明しても役に立たないと悟った上での編み物ならば、ちょっと辛すぎる。それを子供に勧めるというのも辛い。そりゃあ何でもかんでもいちいち腹立てていたらやってられないだろうけど、本当におかしいと思ったことは、おかしいと指摘していいのだ、傷つけられたり不当に扱われたら怒っていいのだと、まず教えておかないといけないんじゃないのと。全部飲み込む必要なんてないと思う。

『家庭生活』

 ケン・ローチ初期傑作集にて鑑賞。1971年作品。若い娘・ジャニスが妊娠するが、世間体を気にする両親によって中絶を強いられる。両親の無理解の元、ジャニスは徐々に精神を病んでいく。
 ジャニスが起こす問題、両親の不寛容さ、親子の軋轢といったものは現実でも目にするし小説や映画のテーマとしてももちろん多々取り上げられる、よくある話と言えばよくある話だ。それ故に普遍性を持つ。家族の問題としてはかなり類型的な類のものなのだが(本当に典型的なパターンで、臨床心理の教材として使えるんじゃないかというくらい)、それを冷徹に映し出しており容赦がない。
 ジャニスの両親は当時としてはおそらく普通の、善男善女なのだろう。しかし2人とも、自分達の世界、自分達の価値観とは違うものもこの世にはある、違うやり方でも生きていくことはできるという発想がない。特に母親の方がジャニスに対する支配欲のようなものが強く、従順であることを強いる。父親は妻がジャニスに対して抑圧的すぎるのではという疑問を当初は持っているが、ジャニスが精神病院に入れられたことで、娘はやっぱり問題があってダメなんだと、妻と同意見になってしまう。
 問題の当事者はジャニスではあるのだが、彼女が抱える問題は両親、特に母親との関係に根差すもので、両親が変化しなければ、おそらく状態はよくならない。ジャニスは最初グループホームのような施設に入るが、その間は言動は落ち着いており、本来自分で考え行動できる人なんだろうとわかる。両親との物理的な距離が離れていれば、彼女は自分を保てるのだ。それが崩れる後半の展開は、もうやりきれなさでいっぱい。
 やりきれなさを募らせるのは、彼女の病状の悪化がほかならぬ医療によってもたらされるということだ。当初はジャニス、両親それぞれに対するカウンセリングが行われていたが、当時としては先進的だったこの方法は、病院の理事会には理解されず、担当医の契約が切れると共になしくずしに終了してしまう。後任の医師は従来の治療法、電気ショックと鎮静剤による「治療」をし、結果、ジャニスの自主的な意思はどんどん後退してしまうのだ。
 当時のイギリスの精神医療が他国と比べてどの程度の水準だったのかはわからないが、こんな前時代的な「治療」だったのかとショックだった。そもそもジャニスは、現代ならば入院が必要なレベルではない。医者と医療が彼女の症状を作り上げてしまうのだ。ラストシーンには背筋が凍る。時代の限界とは言え、もしカウンセリングが続けられていたら、彼女の人生はもっと違うものになったのではとやりきれなかった。
 

『ガール・オン・ザ・トレイン』

 スコット(ジャスティン・セロー)と離婚したレイチェル(エミリー・ブラント)は、毎朝電車の窓から閑静な住宅街を眺めるのが習慣。その中の1軒に暮らす夫婦を、理想のカップルとして夢想していた。ある日、そのカップルの女性が夫以外の男性とキスしている姿を目撃する。そしてその女性・メーガン(ヘイリー・ベネット)は死体となって発見された。レイチェルはメーガンの夫スコット(ルーク・エバンス)に、彼女の浮気を教えに行く。原作はベストセラーとなったポーラ・ホーキンズの同名小説。監督はテイト・テイラー。
 原作は未読だが、むしろ未読のまま情報入れずに見た方が楽しめる作品なんじゃないかと思う。テンポが速く二転三転していく。レイチェルはとある理由によりいわゆる「信用できない語り手」。そして、面識のないスコットとメーガン夫妻にやたらと思い入れたり、自宅に乗り込んだりという行動からも、平静な状態とは思えない。なので、彼女主観のパートは、その意味合いを全て保留した状態、常に疑いをもった状態で見ることになる。中盤をかなり過ぎるまで諸々の事態が起こりっぱなし積みっぱなしなので、これ収拾付くのかなと思っていたら、あるやりとりでそれまでの構図が大きく変わる。物語の「絵」が何度も変化していくタイプのミステリだ。
 もっとも、レイチェルの語りがなぜ信用できないのかという事情以上に、彼女を信用できない語り手にしたのは誰なのか、という部分の方が本作のキモだろう。それは、殺人の動機の根っこにもあるものなのだ。動機となるものがしみじみと嫌なのだが、レイチェルはなまじ真面目だから真に受けてしまったんだろうな・・・。人の言うことを聞き流す人、真に受けずほどほどにしておくようなしたたかな人の方が、レイチェルが落ちた落とし穴みたいなものには落っこちないのかもしれない。
 主演のエイミー・ブラントは、出演作によって華やかな美人にも、レイチェルのような地味目でぱっとしないルックスにも見える。演技の上手さもあるし、風貌の応用の幅が広いという利点もあるのだろう。今年は主演作の『ボーダーライン』(ドゥニ・ビルヌーブ監督)も見たが、『ボーダーライン』では凛々しい姿だったのに本作ではよれよれで別人みたいだった。

『仮面』

 神奈川県立近代美術館で開催中の展覧会「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」にて鑑賞。2010年の作品。原作はスタニスワフ・レムの短編小説。暗殺の為、心を持った女性として作られた暗殺人形。ターゲットに出会った人形は彼に恋をし、本当に愛してしまう。しかし殺人の道具として作られた自分の性には抗えない。なおポーランドで製作された作品なので、ナレーションはポーランド語、字幕は英語。
 かねてから見たかったものの、2011年にイメージフォーラムフェスティバルで上映された際(当時は『マスク』という題名)には見損ねてしまったので、今回の上映は大変ありがたかった。なお、「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」はパネル展示が多いとはいえ、撮影に使用された小道具や人形等もしっかり確認できるので、クエイ兄弟ファンは必見。
 レムの原作小説は未読なのだが、映像では中盤までは中世のおとぎ話のような雰囲気。王と女王が巡り合って結婚して、というような様子だ。しかし徐々に禍々しさが増していく。まあクエイ兄弟作品だから、最初からダークファンタジー風で薄暗い雰囲気ではあるのが・・・。「彼女」が変身を遂げる所で禍々しさはピークに達するのだが、同時にきらびやかで美しい。文字通りボディの素材からして変わってしまうのだが、機械仕掛けのカマキリのような姿は、なるほど男を食い殺すからこの姿なのかと。
 「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」の展示を見てから映像作品を見るとよくわかるのだが、クエイ兄弟の映像作品は素人が見ても撮影技術が高いのだろう。映像には奥行、高さがあるように見えるのだが、実際のセットはさほど奥行きがない。展示品の中にも、レンズの特性を活かして奥行を強調した見せ方にしているものがあったのだが、アニメーション撮影にもそれが活かされている。

『神様の思し召し』

 有能な外科医トンマーゾ(マルコ・ジャリーニ)は、仕事は出来るが毒舌で傲慢。妻カルラ(ラウラ・モランテ)との仲は倦怠気味、娘はトンマーゾにとっては期待外れの男と結婚していたが、医大生の長男が後を継ぐのを楽しみにしていた。しかし息子は突然神父になると宣言する。とっさにものわかりのいい父親を演じてしまったトンマーゾだが、納得いかず、息子は話術たくみなピエトロ神父(アレッサンドロ・ガスマン)に洗脳されたと思い込む。ピエトロが前科持ちだと知り、トンマーゾは失業者を装って近づき、尻尾を掴もうとする。監督はエドアルド・ファルコーネ。
 楽しいことは楽しく、それなりにホロリとさせられるコメディなのだが、ちょっと平坦だなぁという印象を受けた。本作を配給するGAGAは、大ヒットしたフランスのコメディ映画『最強のふたり』に連なる路線として売るつもりみたいだけど、『最強のふたり』の方が色々細部まで目が行き届いており、技があったと思う。
 トンマーゾにしろカルラにしろ、登場人物の造形が概ね紋切型にカリカチュアされているのが辛かった。トンマーゾは有能故に傲慢で他人の心の機微に疎い。息子がなぜ信仰の道に惹かれたのか考えてみようともせず、ピエトロのせいだと決めつけてしまう。カルラは経済的には不自由ない「奥様」だが心は満たされずボランティアやチャリティーで気を紛らわし、キッチンドランカー状態。長女は「オツムの軽い(そこそこ)美人」でその夫はボンクラ。あーこういうのどこかで見たなぁという気分が拭えない。よくある設定が悪いというのではなく、紋切型から「その人」として登場人物が立ち上がってくる為の、もう一味が足りないという感じ。カルラが息子に空疎な生活だと指摘され大変身するあたりや、終盤で娘がぶちまけるシーンなど、ちょっと「絵に描いたような」感が強すぎた。間にもう一クッションくらいエピソードが欲しくなっちゃう。細部の雑さで気が削がれるのがもったいない。
 ともすると戯画的なトンマーゾ一家に対し、ピエトロはごくごく普通の人として地に足がついた感じがし、自然体に見えた。彼がどういう人なのかは、あまり言及されない。本作はあくまでトンマーゾと家族の話なのだろう。ピエトロは媒介みたいなものだ。
 ピエトロは神父なので、当然信仰に関する話題も出てくるのだが、そこを強調はしていない。トンマーゾは無神論者だが、ピエトロは彼にカソリックの信仰を強いようとはしない(多分トンマーゾもいきなり信仰に目覚めたりはしないだろう)。彼が話すのは、もっと素朴な、この世界の細部の美しさみたいなものだ。それはトンマーゾが見失っていたものなのだろう。

『カルテル・ランド』

 麻薬カルテル“テンプル騎士団”による抗争と犯罪、市民からの上納金の取り立てが横行する、メキシコ・ミチョアカン州。政府も警察もあてにならない中、ドクター・ホセ・ミレレスは水から銃を持って立ち向かおうと、市民に呼びかけ自警団を結成。やがて自警団は各地でカルテルを追い出し、ミレレスは英雄視されるようになる。しかし大きくなった組織は、徐々に暴走し始める。監督はマシュー・ハイネマン。
 メキシコ麻薬戦争の最前線に乗り込んで撮影されたドキュメンタリー。しかし話が出来すぎていて、これ小説やドラマ映画じゃないの?!と唖然とする。中心人物であるミレレスがなかなかハンサムで、確かにカリスマ性があるだろうなという雰囲気の人物なので、余計に出来すぎな感じがするのだ。そして自警団の顛末もドラマティックすぎる。ドキュメンタリーとしては、正に「当たりが出た」感じの素材の揃い方だろう。
 おそらく監督も、撮影当初はこういう展開になるとは思わなかったのではないか。かなり危険な状況での撮影と思われるが、なりゆきでこうなっちゃった、みたいな感じもするのだ。作中、明らかに(直接の映像はさすがに撮っていないが)拷問しているよなという現場や、普通に麻薬製造している現場も出てくるし、そもそも自衛の為とはいえ、自警団のやっていることは概ね違法だ。撮影されている側も意外と呑気といえば呑気。本作が公開されたくらいでは自分達に被害は出ないという自信なのか、それほど大事と思っていないのか。アメリカとメキシコの国境付近で、メキシコからの密入国者を自主的に捕まえる自警団のように、むしろ積極的に撮影してもらって、自分達がやっていることの正当性を訴えたいという人も登場する。
 ミレレスが結成した自警団は、カルテルに苦しまされてた地域では歓迎されるが、歓迎一辺倒ではなくなってくる。元々警察や自治体が機能している地域では、自警団の必然性はもちろん薄くなる。また、街中で公然と銃を持ち歩き、捜査と称して他人の家に乗り込むような行為は、いくら自警団と言っても反感を買うだろう。また、武器で一般人を脅したり女性を無理矢理口説いたりという、素行不良な団員も出てきて、どんどん雲行きが怪しくなるのだ。カルテルは当然そこを突いてくる。
 自警団の顛末を見ていると、カルテルの脅威云々以前に、人間は力(暴力)を手にし、それを行使する旨味を知ってしまうと、病みつきになって止められなくなるのではないかと言う怖さがあった。人間の性のやりきれなさが強烈だ。暴走する自警団だけではなく、ミレレスもまた自分の力を手放そうとはしないのだ(手放したら即殺されるレベルの話になっているという事情もあるのだろうが)。出口が見えそうかと思ったら、更に深い闇のなかに突き進んでいくみたい。

『ガルム・ウォーズ』

 吹替版で鑑賞。創造主ダナンが作った戦士「ガルム」が複数部族に分かれて暮らす惑星アンヌン。ダナンが去った後、長年にわたり3つの部族が抗争を続けていた。戦士カラ(メラニー・サンピエール)は部族の違うスケリグ(ケビン・デュランド)、ウィド(ランス・ヘンリクセン)と出会い、クローンとして生まれ延々と戦い続ける存在の、ガルムの真実を求め旅に出る。監督・原作は押井守。押井作品の常連である川井憲次が本作でも音楽を手掛けている。それほど主張が激しいわけではないのにあっ川井旋律だ!とすぐわかるあたりがすごい(手癖が毎回同じということなのか)。
 壮大な年代記の一部を抜粋し、更にダイジェスト化したような印象を受けた。押井監督が長年温めつつ頓挫してきた企画だそうだが、多分、監督のそもそもの構想の中ではもっと長大な物語なんだろうな。一応章立てしてあるのだが、これにより更にダイジェストっぽくなった気がする。分けるほどのボリュームはないのだ。尺が短めなのに固有名詞や背景設定をどんどん突っ込んでくるのも、「要約」っぽく感じられた一因かもしれない。
 実写映像を加工したビジュアルにしろ、設定にしろ、押井印とでもいいたくなるフェティッシュに満ちている。もちろんバセットハウンドも登場し、重要な役割(とうとうバセットが精霊や妖精級に・・・)を担う。本作の構想はだいぶ以前からあったようなので、押井監督のエッセンスがかなり原石的な状態のまま残っているのだろう。本作は、むしろ押井監督が若い頃に作った作品という雰囲気がある。企画が暖まりすぎて、時系列が逆転しているみたいだ。
 企画を暖め過ぎた弊害は、やはり既視感が強いという点に尽きるだろう。こういうのもう見たことあるな、という情景が延々と続く。これまでのフィルモグラフィでやりつくした感のある押井的な要素についてもそうだが、ファンタジーとしてもかなりオーソドックスでレトロ。今わざわざこれをやる意義が、今一つ感じられないのだ。実写によるファンタジー作品としても、今となってはもっとすごいのあるしなぁ・・・という思いが拭えない。監督がどうしてもやりたかったからやった、監督とそのファン向けの、かなり内向きな作品という印象だ。私は一応、新作が出たら見るという程度には押井守監督作品は好きなのだが、本作を見るとしたら、もっと以前に見て見たかった。
 なお、押井監督は、(本人の志向はさておき)やっぱり実写よりはアニメーションに向いているんじゃないかなと思う。アニメーションだと間が持つのに実写だと持たない。この差異は何なんだろう。単に予算とか役者(正直、本作の出演者の演技は頂けない。字幕版だとまた印象が違うのかもしれないけど)のスキルの問題ではなく、絵コンテの段階での向き不向きがあるんだろうか。本作は見るからに予算足りなかったんだな(それでも大分超過したみたいだけど)という感じだけど、予算がつけばもっとすごくなるかというと、そうでもなさそうなんだよな・・・。

『牡蠣工場』

 瀬戸内海にのぞむ港町、牛窓。日本でも有数の牡蠣の産地だが、牡蠣工場は今では6軒に減り、過疎化による労働力不足で海外から出稼ぎ労働者を迎える工場も。想田和弘監督による“観察映画”第6弾。
 何で“工場(こうば)”って言うのかなと思っていたら、作業工程を見ていると本当に“工場”っぽい!養殖している状態から獲ってくるだけでなく、出荷できる状態にするまでに結構な作業が発生している。特に牡蠣の殻をむく作業の流れるような動き(“むき子”と呼ばれるむき手によるもの。作中で出てきた会話によると、一人前のむき子になるのに半年くらいかかるらしい)や、1日の作業を終えた後のむき場の後片付けの手順の、アナログなのにシステム化されている様、またむき子の席がそれぞれ自分用にカスタマイズされている様子など、あっ工場だ!って感じがしてすごく面白い。工夫の積み重ねで現行のシステムになったんだなってことが見て取れるのだ。
 また、牡蠣工場の人たちは中国から出稼ぎに来ている人たちをまとめて「中国」「チャイナ」と呼んでいて(カレンダーに「中国くる」とか書いてある)、ちょっと大雑把というか脇が甘すぎないかとハラハラしてしまったが、現地の当事者にとってはこういう感覚なんだろうな。一人一人の名前もよく把握されていないみたい。中国人は日本語が話せず、日本人は中国語が話せないという状況で一緒に仕事をするわけなので、どうやって仕事のやり方を教えるんだろうとこれまたハラハラする。言葉が通じないなら一つ一つ実演して見せるしかないわけで、双方伝えよう/読み取ろうと必死。異文化コミュニケーションの基本を見た気がする。特に若い中国人男性2人が、工場の人たちの動きをそれこそ観察して、見よう見まねで参加しようとする姿が印象に残った。観察するだけじゃなくて、その作業がどういう意味を持つのか、次はどういう作業が必要なのか想像して動いている様子がすごくよくわかる。
 牡蠣工場を営む人たちの仕事ぶりや、牛窓の町や港の様子を眺めるお仕事映画・ご当地映画的な楽しみはもちろんあるのだが、そこからどんどんはみ出てくるものがある。牡蠣工場はどこも後継者不足だが、これは漁業に限ったことではない。一次産業はきついから若者がやりたがらない、というよりも、きつい分だけのリターンがない、そもそも(ある程度の規模でないと)生活できるレベルになりにくいから人が集まらないということだろう。産業全体にお金が集まらず、より安い労働力をベトナムや中国から求めるようになる。しかし中国やベトナムの労働力も、国内の経済力が上がれば当然値上がりしていくだろう。そうしたら更に安い労働力を求めるという、きりのなさ。そもそも、牡蠣工場の経営者たちですら、「好きじゃないと無理」と断言するくらい厳しいようだ。一次産業の賃金ていつのまにこんなに安くなったんだろうなぁ。買う側としては安くて品質が安定した商品の方がいいけど、その安さの理由を追っていくとこういうところに辿りつく。かといってじゃあ全体的に価格を上げましょう、ということは(経済の仕組みそのものが変わらない限り)出来ないだろう。
 また、牡蠣工場の経営者の中には、東日本大震災で被害を受け、放射線の影響で工場の再開も望めず、宮城県から移住してきた人もいる。本作がフォーカスしているのは、地方の小さな町の暮らしだが、その背後には日本全体、そして世界全体の問題がある。自分の周囲のことをきちんと見ていると、自然とそれをとりまく世界のことへと考えが至る。(本作に限ったことではなく)身の回りのことに注目し続けるのは、決して内向き視線とかではないのだ。もちろん、近くのことから遠くのことへと広げていく、想像力あってのことではあるが。

『階段通りの人々』

 特集上映「永遠のオリヴェイラ」で鑑賞。リスボンの貧民街、通称「階段通り」。盲目の老人(ルイス=ミゲル・シントラ)が、通行人からお恵みの小銭を集める「恵みの箱」を手に入れたことに、周囲の住人はやっかみ混じりで興味津々だった。洗濯女をしている老人の娘(ベアトリス・バタルダ)と娘婿(フィリペ・コシュフェル)は老人を厄介者扱いしつつも「恵の箱」による収入を当てにしている。孫と住む近所の老女(フリニシア・クァルティン)は妬みを隠さず不満たらたらだ。居酒屋の主人(ルイ・デ・カルヴァリョ)が店を開き、豆売り(イザベル・ルス)が路上に店を構え、階段通りの1日が始まる。監督・脚本はマノエル・ド・オリヴェイラ。1994年の作品。
 舞台が階段通りの路面と居酒屋の中に限られており、登場人物はそこに出たり入ったりする。人物の登場・退場が舞台劇のようだなと思った。雑多なようでいて、きっちり管理されている感じがするのだ。実際、元々はプリスタ・モンテイロによる演劇の戯曲だったものを、映画向きと判断したオリヴェイラが脚色したのだそうだ。また、ミュージカルというわけではないが、音楽が使われるシーンも印象に残った。サウンドトラックというのではなく、しばしば音楽(居酒屋でギタリストが演奏したり、豆売りが歌ったり)が挿入されるのだが、これが幕間というか、時に場面転換のような機能も果たしており、そこも舞台劇っぽい。
 冒頭で、これは寓話だという趣旨の字幕が出る。終盤でなぜか「演舞」があるのも、舞台劇っぽさと同時に寓話、おとぎ話っぽさを醸し出している。とは言え、寓話だけれど貧しさ故のぎすぎす感は結構生々しい。貧しいけれど心豊か、あるいは清貧という概念は多分本作にはないんじゃないだろうか。豊かなら豊かなりの、貧しければ貧しいなりの妬み嫉みやご近所トラブルが生まれるのだ。人間はそういうものだ、という諦念が滲み、ラストのある人物のちゃっかりした「その後」も、大分シニカルではある。
 貧しい人々に対する暖かいまなざし、みたいなものはここにはない。ただ、暖かいまなざしというのは時に(当事者ではないからこその)上から目線の憐みになりかねない。本作の視線は、階段通りの人々と同じ位置にあり、だからこそ彼らの嫉妬や情けなさと容赦なく向き合う。オリヴェイラの近年の監督作『家族の灯り』に通じるものを感じた。多分、富裕層の人たちの話だったとしても、同じように描かれるのではないだろうか。

『完全なるチェックメイト』

 15歳でチェスの最年少グランドマスターになったボビー・フィッシャー(トビー・マグワイア)は不遜かつ突飛な言動と卓越したチェスの才能で知られていた。折しも米ソ冷戦下、1972年にアイスランドのレイキャビクで開催されたチェスの世界王者決定戦で、フィッシャーはソ連のボリス・スパスキー(リーブ・シュレイバー)と対戦する。両国の威信をかけた世紀の対決として注目されるが、フィッシャーの精神状態はぎりぎりまで追い込まれていた。監督はエドワード・ズウィック。
 脚本は『イースタン・プロミス』のスティーブン・ナイトだったと後から気付いた。冷酷な世界を控えめなトーンで描くがどこかロマンチック、エモーショナルな気配がするところは、ナイトの持ち味なのかもしれない(『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』はまたちょっと趣向が違うから、私の思い込みかな)。チェスのルールを良く知らなくてもゲームの盛り上がり度やプレイヤーがどの程度追い込まれているのかわかる演出で、見せ方が手堅い。主演のトビー・マグワイアはもう青年と言う年齢ではないが、いつまでも「不機嫌な若者」っぽさがある。マグアワイアを始めとして、キャスティングが脇役にいたるまで、なかなかはまっていていい味があった。
 フィッシャーは子供の頃からチェスの才能を発揮するが、才能が花開くのと並行して、精神のバランスが崩れていく。そうでもしないと「正解」を掴めない過酷な競技だという側面と、フィッシャーが育った環境(ロシア語が堪能なフィッシャーの母親は、前々からFBIに監視されていた)や元々持っている資質によって悪化していったという、両方の面を本作では見せている。母親との関係が不安定で、母親に注目されたい/されたくない(母親を否定したい)というアンバランスさが垣間見えた。フィッシャーの言動は、現代だったら発達障害、ADHDと言った名称がつけられる症状だろうし、それなりに適切な対応の仕方があるだろう。ただ当時は奇人変人扱いされるばかりだったろうし、医者に見せても投薬くらいしか出来なかったのでは。
 フィッシャーにとって過酷だったのは、彼には治療という選択肢がなかったし、周囲もそれを許さなかっただろうことではないか。フィッシャーの姉は過酷な対戦による弟の被害妄想や幻聴の悪化を心配し医者に見せてほしいと言うが、フィッシャーのマネージャーであるマーシャル(マイケル・スタールバーグ)はそれを拒む。マーシャルの任務は、フィッシャーをアメリカ代表としてソ連代表に勝たせることで、治療はその妨げになるのだ。また、セコンドとしてフィッシャーとマーシャルに同行するようになった、チェスプレイヤーの神父ロンバーディ(ピーター・サースガード)は、マーシャルよりもフィッシャーに近い存在であり彼の身を案じるが、やはり投薬は否定する。チェスの勝負は星の数ほどの手の中からただ一つを選び続ける作業で、それを続けていくには狂気の淵ぎりぎりまで進まなければならないと言う。同じチェスプレイヤーであるロンバーディは、フィッシャーの心身を蝕むことになってもやはり彼の天才性の「その先」が見たくなってしまうし、フィッシャーが進み続けることもわかるのだろう。
 綱渡りのような状態でスパスキーと対戦するフィッシャーだが、彼のその後を知ってしまうと、大きなお世話なのは承知だが、果たしてこの道で良かったのだろうかという気持ちにもなる。何かを手に入れるには対価が必要とは言うが、彼が払った代償と手にしたものは見合っていたのだろうか。彼には払うという選択肢しかなかったんだろうけど、そういう世界に住むというのはどういうものなんだろうと。

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