3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『告白小説、その結末』

 自殺した母との生活を綴った私小説がベストセラーになった作家デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)。スランプ中の彼女の前に、熱狂的な読者だというエル(エヴァ・グリーン)が現れる。聞き上手なエルにデルフィーヌは信頼を寄せるようになり、やがて同居を始める。しかしエルは徐々にデルフィーヌの生活を支配するようになり、不可解な行動を見せ始める。原作はデルフィーヌ・ドゥ・ヒガンの小説『デルフィーヌの友情』。監督はロマン・ポランスキー。脚本にオリヴィエ・アサイヤスが参加している。
 エルの仕事はゴーストライターなのだが、ポランスキー監督にはそのものずばり『ゴーストライター』(2011)という作品があった。誰かに成り代わる、誰かを作り上げるというシチュエーションに惹かれるのだろうか。本作ではエルがデルフィーヌを助けるが、その援助がだんだん支配的になる。デルフィーヌもエルへの依存が強まり、「一心同体ね」という台詞が笑えない。しかしそこからのまたひとひねりがあるのだ。私は原作小説は未読なのだが、原作小説ではこういう形式、こういう演出で書かれているのではないかなという匂いみたいなものが感じられる映画だった。ただ、その演出は小説ならではのもので、映像化にはあまり向いていなかったのではないかなとも。映画としては、どこかつっけんどんというか、唐突な印象を受けた。
 近年のポランスキー監督作は妙に額面通りというか、切ってそのまま出す、みたいな組みたて方に見える時があり、そこが逆に面白い。不思議な大雑把さがある。本作でも、こことここの間にストーリー上結構展開があったのでは?とか、そこあっさり台詞で説明しちゃうの?とか気になった。エルが聞き上手であること、デルフィーヌと彼女の作品を深く理解していることはデルフィーヌがそう言っているという所からしかわからないし、デルフィーヌがあまりに不用心(PCのパスワードあっさり教えないで!)。そういうディティールは不要と判断するというところが、何だか面白い。とは言えエヴァ・グリーンがエルを演じているので、これはふらっとパスワード教えちゃうし同居しちゃうわ・・・という気分にはなるかも。

デルフィーヌの友情 (フィクションの楽しみ)
デルフィーヌ ド・ヴィガン
水声社
2017-12-15


ゴーストライター [DVD]
ユアン・マクレガー
Happinet(SB)(D)
2012-02-02


『勝手にふるえてろ』

 経理担当の会社員ヨシカ(松岡茉優)は、中学生の同級生イチ(北村匠海)に10年間片思いをしている。ある日、同僚の「ニ」(渡辺大知)に告白された。2人の彼氏が(1人は脳内だけど)いる!と浮き立つが、今のイチへの思いが募り、四苦八苦して同窓会を企画。念願のイチとの再会を果たすが。原作は綿矢りさ。監督・脚本は大九明子。
 本作、果たして原作はどのようなテンションの文体なのかとても気になった。映画は概ねヨシカの語り(というか妄想)なのだが、彼女がナレーションをするのではなく、脳内からあふれ出る言葉がどんどん音声化されてくる感じ。彼女が隣人や公園やバスの中で行きあわせた人と交わす会話は、彼女の脳内で繰り広げられているもの。しかし彼女の言葉が饒舌すぎて、これは果たして脳内に収まり続けているのだろうか、うっかり声に出してない?大丈夫?と気になってくる。脳内のものであれ実際に声に出した会話であれ、ヨシカの言葉であることには違いないので、段々彼女の脳内と現実がシームレスに感じられてくるのだ。えっこれ本当に言っちゃってたんだ!とびっくりしたところも。このあたりは、ヨシカが自分をコントロールできなくなってきているということだろう。どのように語るのかという演出の部分が、時に力技だが映画を見ている側へ突き抜けてくるような勢いがあり、とても面白かった。
 ヨシカは自分に自信がないようでいて妙な所のプライドが高い。ああーこういうのわかる・・・自分にもある・・・自己評価下げているようで実は据え置きにしている嫌な感じのやつね~となかなか見ていてぐさりとくる所もあった。彼女の片思いは、実在の同級生に対するものというよりも、彼女の頭の中の同級生に対するもので、ほぼ自己完結していると言ってもいい。ヨシカは再会したイチのある言葉にいたく傷つくのだが、そこにいる人を見ていなかったという意味では、彼もヨシカもどっちもどっちで、お互いにすれ違っているのだ。
 本作内の(男女間に限らず)コミュニケーションは、往々にしてすれ違いになりがち。ただ、すれ違うというのはお互い様で、すれ違ってしまったことについてそんなに相手を責めるべきではないだろう。少なくともすれ違いなんだから、あとちょっとずれていたらちゃんとぶつかったわけだし。すれ違ってもすれ違っても軌道修正しようとするニのタフさと「野蛮」さが、鬱陶しくも少々羨ましくなってくる。

勝手にふるえてろ (文春文庫)
綿矢 りさ
文藝春秋
2012-08-03



(500)日のサマー [Blu-ray]
ジョセフ・ゴードン=レヴィット
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2012-09-05


『カンフー・ヨガ』

 中国・西安市の博物館で研究に勤しむ考古学者のジャック(ジャッキー・チェン)の元を、インドの考古学者アスミタ(ディシャ・パタニ)が訪ねてくる。約1000年前にインドと中国の間で起きた戦乱の中、消えてしまった財宝を探す為、専門家であるジャックの協力を仰ぎたいというようだ。ジャックは親友の息子である財宝ハンターのジョーンズ(アーリフ・リー)と共に、中国からドバイ、インドへと財宝の謎を追って世界を巡る。監督はスタンリー・トン。なおエンドロールがすごく長いけど、おまけ映像とかはないです。
 インドと中国の合作でスター俳優を起用、明らかに大々的なロケや豪華なセットが使われているのに、妙にスケール感がなく、こじんまりと、かつ散漫とした印象。あれっもっと華やかかつお祭り騒ぎ的な映画なのかと思ったのに・・・。正直拍子抜けだった。絶えない
 ストーリーの規模の割に登場人物が多いが、これは何か大人の事情的なやつなのだろうか。ジャックのアシスタントたちとか、あんまり必要性を感じない。登場人物が多く、それぞれそれなりに動かさなくてはいけないのに話の展開はやたらと早い。早いというよりも、途中の過程を変な省略の仕方をしているように見える。本来のストーリー上の技法としての省略ではなく、単に編集段階でカットした感じ。本来はここにもう一展開あったんじゃないかなという部分や、不自然な衣装替え等が散見された。お金がかかっていそうな割に、こういう部分がやたらと大味。なんだか勿体ない。
 また、妙に動物推しな所も不思議。狼にしろ、ライオンにしろ、ハイエナにしろ、それ出す必要あります・・・?ストーリー上の必然性は殆ど感じない。動物のCGは結構手間暇かかると思うんだけど、その労力を他に回せなかったのか。そんなに動物が好きなのか。
 とは言え、ジャッキーが出てきて動き始めるだけで、とりあえずは「映画」として体面が保たれるんだからすごい。これがスターということなんだろうなぁ。インド映画要素もあるので当然群舞が盛り込まれているが、ジャッキーもちゃんと踊っていて、なんだかありがたいものを見た気分になる。そして最後の最後、ジャッキー映画のNG集の代わりのような「踊り」の多幸感にはジャッキーの人徳をかいま見た感ある。
 なお作中、ジャックはインディ・ジョーンズに準えられるが、インディよりもジャックの方がはるかに研究者としての自覚がしっかりしている。「財宝」の正体にしろ、学者にとっての宝は何なのかという視点なのだ。むしろアンチ・インディと言えるだろう。本作中の「ジョーンズ」は盗人だしな。

スキップ・トレース (特典DVD付2枚組) [Blu-ray]
ジャッキー・チェン
KADOKAWA / 角川書店
2018-01-26



『彼女がその名を知らない鳥たち』

 15歳年上の佐野陣治(阿部サダヲ)と暮らす北原十和子(蒼井優)は、8年前に別れた黒崎(竹野内豊)のことを忘れられずにいた。陣治は下品で金も地位もないが、十和子に尽くし彼女の我儘や罵倒も受け入れ養っていた。一方で十和子はデパート勤務の水島(松坂桃李)と不倫関係になり何度も会うようになる。ある日十和子の元に刑事が訪ねてくる。黒崎が数年間行方不明だというのだ。原作は沼田まほかるの同名小説。監督は白石和彌。
 十和子は頻繁に黒崎との過去を回想し、彼と撮影したビデオに見入る。彼女の回想は断片的なのだが、なぜそのように表現されているのかラストで明らかになる構成は、ミステリ作品的だと言える。ただ、明らかになったことによってそれまで見ていた景色ががらりと変わって見えるかというと、そうでもない。まあそうでしょうねとしか言いようがなく、中途半端だ。
 一方、十和子と陣治の関係の一方的な感じ、愛ともなんともつかない掴みきれなさは、ねっとりと描かれている。陣治の献身は愛ゆえではあるのだろうが、受ける側にとっては愛とは言い切れない、重すぎるし怖いんじゃないかなと、不穏さにはらはらする。生活習慣の小汚さも加わり、好感は持ちにくい。十和子は十和子で陣治となぜ一緒にいるのか、おそらく本人にもはっきりとは分からないのではないか。彼女も決して人柄がいいというわけではなく、むしろ冒頭のクレーマー振りからも明らかなように好かれにくいタイプだ。欲望に弱く、男に流されがちだが我が強いという面倒くさい人なので、やはり見ていて好感は持ちにくい。2人の関係がどのようなものであったか、ラストで鮮明に描かれる。  が、私にとってはやはり愛とはとらえにくく、陣治の言葉も結構気持ち悪かった。彼がラストで言うある台詞は、色々な小説等でたまに目にすることがある類の表現なのだが、いやいや親の愛とは別物だし無理でしょ・・・それ別の人間だからさ・・・と冷めてしまう。本作もそれと同じような冷めた気持ちになった。






『ゴッホ 最期の手紙』

 アルマン・ルーラン(ダグラス・ブース)は画家ヴィンセント・ファン・ゴッホと懇意にしていた父、郵便配達人ジョゼフ・ルーラン(クリス・オダウド)から、ゴッホから弟テオ宛の手紙を託される。テオに手紙を渡すためパリに出向いたアルマンだが、テオは既に亡くなり家族の引っ越し先もわからなかった。家族の居所を知るべく、やはりゴッホと懇意にしていたガシェ医師(ジェローム・フリン)を訪ねるうち、アルマンの中で自殺とされていたゴッホの死に対する疑問がつのっていく。監督はドロタ・コビエラ&ヒュー・ウェルチマン。
 ゴッホの絵画がまさにそのまま動き出すようなアニメーション。茟のタッチひとつひとつまでとにかく「ゴッホぽく」再現されている。俳優が演じた実写映像を油絵に描き起こし、実に約6万5000万枚の油絵で作られたアニメーション。よくこれをやろうと思った、そして実現したなと唸らざるを得ない。ゴッホが肖像画を描いた人たちが会話し活動し、絵の中の風景を動き回る様にはやはり感動する。すさまじい設計力と執念だと思う。
 とは言え本作、このすさまじい絵作りで何を表現するか、という所までは作り手の意識が行き届いていないように思える。描かれる物語は果たしてこれでよかったのか、非常に疑問だった。本作の舞台となるのは概ねゴッホの死後だ。ゴッホの絵は当然、ゴッホは世界をこのようにとらえた、このように表現してみようと思ったという。であれば、ゴッホのタッチで描くならゴッホが今まさに見ている世界、ゴッホが生きている間の世界であるべきだったのではないだろうか。本作ではゴッホ生前の様子は白黒のいかにも実写から書き起こしたという写実的なタッチ、ゴッホの画風とは異なるタッチで描かれる。技法の使い方逆になっていない?と違和感を感じた。
 また、ゴッホの死を巡る謎自体も、映画として取り上げるには正直今更感が強い。このあたりは諸々研究されてきた部分だろうし、諸説出尽くしているだろう。それらを踏まえてドラマ化するのはいいのだが、ドラマをゴッホの絵でやる必然性が薄い。死の真相とは客観的なもので、ゴッホの主観ではない。ゴッホのタッチはゴッホの主観でこそ使われるべきだったのではないかと思う。大変な労作なのだが、技法と内容がかみ合わずとても勿体ない。

ファン・ゴッホの手紙【新装版】
フィンセント・ファン・ゴッホ
みすず書房
2017-07-08




ゴッホの耳 ‐ 天才画家 最大の謎 ‐
バーナデット・マーフィー
早川書房
2017-09-21

『怪物はささやく』

 13歳のコナー(ルイス・マクドゥーバーランド)の前にイチイの木の怪物(リーアム・ニーソン)が現れる。怪物は「私が3つの物語を話す。4つ目は、お前が話せ」と告げ、真実を語れと言う。コナーは断るが、怪物は毎晩現れ、物語を聞かせる。原作はパトリック・ネスの小説。監督はJ・A・バヨナ。
 子供の世界、子供が避けられない苦しみとどのように向き合い、受け入れていくかという過程をファンタジーの形を使って描いている。作中物語を描くアニメーション部分が、滲んだ水彩絵具風の質感で美しい。その造形の由来が最後に明かされると更にぐっとくる。
 コナーの母親(フェリシティ・ジョーンズ)は重病にかかっており、入院の為にコナーは祖母(シガニー・ウィーバー)の家に預けられることになる。コナーは祖母に馴染めず、学校でもいじめにあっており身の置き所がない。離婚した父親が会いに来るものの、コナーをひきとる気はなく、親密に感じられる存在が身近にいないのだ。彼は母親との世界を守る為に必死で様々なことを我慢しているのだが、それが誰にもわからないし、自身でも説明できない。学校での振る舞いの理由を誰もわかってくれないし気にかけもしないというのが本当にしんどい。コナーの行動原理が少々わかりにくいからというのもある。そこがミステリ的な仕掛けにもなっている。いじめっ子が知ってか知らずかなかなか的を得たことを言うのだが。
 彼はそんな中である秘密を抱え、それを自身で認められずにいる。その秘密、怪物が言う所の真実を認めてしまうと、彼のこれまでの世界は崩れ落ちてしまうからだ。しかし真実を避け続けても世界はいずれ崩れる。彼が恐れていること、秘密にしていることは避けられないことで、直面せざるを得ない。怪物が語る物語は、様々な形でコナーが避けようとしているものを示す。3つの物語はどれもシニカルで矛盾に満ちている。コナーが望む世界ではないかもしれないが、彼を取り巻く世界は矛盾に満ち複雑で、きれいな納まり方はしない。コナーはその複雑さと付き合っていかなくてはならない。それを手助けするのが物語なのだ。子供だけでなく人、特に傷ついている人にこそファンタジーが、物語が必要なのかもしれない。
 コナーの両親や祖母の不完全な人間としての造形が良かった。母親は愛情に満ちておりイマジネーションが豊かで素敵な人だが、彼女もまた真実(を息子に告げること)から逃げているのだ。厳格な祖母も、娘の病の前では無力。父親はコナーを愛してはいるが彼の為に自分の生活を変えることはできない。理由はそれぞれだが、コナーを守る立場の大人たちが、必ずしもコナーの為に動けるわけではない、でもそれを責めるわけではないという所も、複雑さを感じさせる。


怪物はささやく (創元推理文庫 F ネ 2-1)
パトリック・ネス
東京創元社
2017-05-29

永遠のこどもたち [DVD]
べレン・ルエダ
ジェネオン・ユニバーサル
2012-05-09

 

『カフェ・ソサエティ』

 1930年代。ニューヨーク育ちの青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、叔父で大物エージェントであるフィル(スティーブ・カレル)を頼ってハリウッドにやってくる。フィルの雑用係として働き始めたボビーは、フィルの秘書ヴォニー(クシツエン・スチュワート)に恋をする。しかしヴォニーの恋人は意外な人物だった。監督はウッディ・アレン。
 他愛ない話、2人の人を同時に好きになっちゃったけどどうしよう、というだけの話ではあるし、いつものアレン監督作といった感じではあるのだが、割と好き。ウッディ・アレン作品は面白かろうがつまらなかろうが自分にとって気楽な作品が多い。あっさりと浮気したり殺人が起きたりして、そういうこともあるからしょうがない、みたいな突き放した距離感があるからかもしれない。
 本作では、同時に2人の人を愛してしまう人が登場し、話の流れ上どちらか一方を選ぶ。しかし、選ばなかった一方も、ずっと心の中で生き続ける。今の人生、今のパートナーを愛していないというわけでも不誠実だというわけでもなく、1人の人の中で両立してしまうもので、これはもうしょうがないのかもな・・・。そういうのは許せないという人もいるかもしれないが、私はどちらかというと共感する。「夢は夢だ」というセリフが出てくるのだが、正にその通りで、そういう夢を一生抱えていく人もいるのだと思う。選ばなかった人生への憧憬という部分では、『ラ・ラ・ランド』を思い出した。ハリウッドという舞台は、そういう儚いものとの相性がいいのか。
 相変わらず衣装が素敵なのだが、ヴォニーがプライベートで着ているヘソ出しファッションは、ちょっと当時のモードとはずれている気がする。相当攻めたおしゃれをする人という設定なのだろうか。後々登場する時には、いかにも30年代風のタイトなロングドレスを着ているので、そのあたりのニュアンスが今一つわからなかった。
 ユダヤ人ギャグみたいなフレーズが結構出てくる(ボビーはユダヤ系家庭の息子なので)のだが、これはセーフなの?アウトじゃないの?とちょっとハラハラしてしまった。ユダヤ系であるアレン自らやってるわけだからまあセーフなんだろうけど、大丈夫なのかな・・・。
 なお、女性2人の名前がヴェロニカなのは、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『ふたりのヴェロニカ』(1991年)へのオマージュなのかな?話の内容は全然関係ないんだけど。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』

 宇宙の平和を守るヒーローとして、黄金の惑星ソヴリンの指導者アイーシャ(エリザベス・デビッキ)からの依頼を完了した、ピーター・クイル(クリス・プラット)をはじめとするガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々。しかしロケット(ブラッドリー・クーパー)がソヴリンの高エネルギー源の電池を盗んだせいで、アイーシャは激怒。一行はソヴリンから執拗に追われる羽目になる。危機に陥った彼らの前に現れたのは、ピーターの父親を名乗るエゴ(カート・ラッセル)だった。監督・脚本はジェームズ・ガン。
 1作目ではガーディアンズの面々が本当に「ガーディアンズ」になるまでが描かれ、少年漫画っぽさに熱くなったが、本作ではピーターと父親の問題を軸に、家族を巡る物語が中心に描かれている。ピーターを巡る、悪しき父親と良き父親の対決の物語でもあり、ある登場人物の活躍には目頭熱くせずにはいられないだろう。父親は子供を無事に送り出さなければならない、という姿勢の健全さにもほっとする。また、ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)と妹の確執の顛末や、ベビー・グルート(ヴィン・ディーゼル)の「育児」に試行錯誤するロケットの姿には、まだ上手くはやれないけど何とかこいつとやっていきたいんだ!という一生懸命さがあって、なんだかほのぼのする。
 ガーディアンズの面々の愛すべき所は、皆愛情の出し方、好意の伝え方が上手くはないが、伝えようという意欲は捨てていないという所じゃないかなと思う。他者とのコミュニケーションに希望を持っている人たちなのだ。口が悪いロケットですら、その点に関しては前作程皮肉っぽくはない。本作に登場する「ヒーロー」たちのかっこよさは、ある意味愚直な一生懸命さにあり(ようするに全然クールではない)、悪ノリはあってもシニカルさはない。そこが、作品の愛嬌に繋がっているように思う。
 なお、前作ではドラックス(デビッド・バウティスタ)が筋肉バカみたいな振る舞いだったが、今回は意外と良いことを言っている気がする。彼は比喩表現がわからず文字通りの率直な言い方しかできない、ある意味とっても素直なので、素直になれない他のメンバーたちの心情をずばりと(多分本人は意図していないのだろうが)言い当てているような所があった。マンティス(ポム・クレメンティエフ)へのブスいじりにはハラハラさせられたが、それでも彼女に好意を持っているということではあるからなぁ(ドラックスの種族がそういうことを他人の評価基準にしていないということかもしれないけど)。ブスだから嫌いだとは言っていないんだよね。

『彼らが本気で編む時は、』

 11歳の少女トモ(柿原りんか)は母親ヒロミ(ミムラ)と2人暮らしだったが、ある日母親がふらりといなくなってしまう。トモは叔父マキオ(桐谷健太)の元を訪ねるが、彼は恋人のリンコ(生田斗真)と同居していた。元男性であるリンコにトモは戸惑いを隠せないが、2人の元に身を寄せ同居生活が始まった。監督は荻上直子。
 真摯に作られた作品なんだろうなとは思う。特に、子供はどういう母親であっても母親を求めてしまうというところや、子供にとってどんな親の元に生まれてくるか、周囲にどんな大人がいるかということは、博打みたいなもので自分ではどうしようもないということのやるせなさは、主人公の少女だけではなくその同級生の少年の母子関係からも、よく伝わってくる。特に少年の母親は全部よかれと思ってやっているだけに、本当にやりきれない気分になる。
 ただ、いいなと思った部分の量を、ひっかかった部分の量が越えてしまった。まず、リンコの造形には、これでいいのかなとずっと疑問が付きまとった。リンコはトランスジェンダーの女性だが、そこが特別であるように描かれず、仕事は介護施設職員で同僚とも円満に付き合っており、フラットな描写なところはいい。ただ、いわゆる「女性らしい」と呼ばれる要素、社会的に女性に要求されがちな要素が盛られ過ぎているように思った。リンコは料理を筆頭に家事全般が得意で、服装はふわっとしたフェミニンなもの、いわゆる「かわいい」小物が好きで優しく穏やかな性格。介護という職業も、どちらかというと女性のものと捉えられがちだし実際現場は女性が多い。自認している性別が女性であるということと、社会が女性に要求するものを引き受けようとすることは別物だと思うのだが、映画を作っている側がそのあたりに無自覚で、とにかく「女性らしさ」を強調しよう!というキャラクター造形になっているように思った。こういうのって、逆に性別の幅を狭めるようなことになっている気がするのだが・・・。リンコ個人が(性別はどうあれ)かわいいものや料理が好きな人、というのはわかるのだが、そこを「女性らしさ」と安易に結び付けてないかなと。こういう部分が、シンプルに「かわいいものが好きな人」「手芸が好きな人」「料理が好きな人」と性別と関係なく見られるようになるといいんだろうけどなぁ。
 また、リンコが編み物をする理由も、ちょっとひっかかった。彼女は腹の立つことややりきれないことがあると、それを編み物にぶつける。処世術としては有効なのだがろうが、そこは率直に怒っていいんじゃないの?とも思う。怒りを表明しても役に立たないと悟った上での編み物ならば、ちょっと辛すぎる。それを子供に勧めるというのも辛い。そりゃあ何でもかんでもいちいち腹立てていたらやってられないだろうけど、本当におかしいと思ったことは、おかしいと指摘していいのだ、傷つけられたり不当に扱われたら怒っていいのだと、まず教えておかないといけないんじゃないのと。全部飲み込む必要なんてないと思う。

『家庭生活』

 ケン・ローチ初期傑作集にて鑑賞。1971年作品。若い娘・ジャニスが妊娠するが、世間体を気にする両親によって中絶を強いられる。両親の無理解の元、ジャニスは徐々に精神を病んでいく。
 ジャニスが起こす問題、両親の不寛容さ、親子の軋轢といったものは現実でも目にするし小説や映画のテーマとしてももちろん多々取り上げられる、よくある話と言えばよくある話だ。それ故に普遍性を持つ。家族の問題としてはかなり類型的な類のものなのだが(本当に典型的なパターンで、臨床心理の教材として使えるんじゃないかというくらい)、それを冷徹に映し出しており容赦がない。
 ジャニスの両親は当時としてはおそらく普通の、善男善女なのだろう。しかし2人とも、自分達の世界、自分達の価値観とは違うものもこの世にはある、違うやり方でも生きていくことはできるという発想がない。特に母親の方がジャニスに対する支配欲のようなものが強く、従順であることを強いる。父親は妻がジャニスに対して抑圧的すぎるのではという疑問を当初は持っているが、ジャニスが精神病院に入れられたことで、娘はやっぱり問題があってダメなんだと、妻と同意見になってしまう。
 問題の当事者はジャニスではあるのだが、彼女が抱える問題は両親、特に母親との関係に根差すもので、両親が変化しなければ、おそらく状態はよくならない。ジャニスは最初グループホームのような施設に入るが、その間は言動は落ち着いており、本来自分で考え行動できる人なんだろうとわかる。両親との物理的な距離が離れていれば、彼女は自分を保てるのだ。それが崩れる後半の展開は、もうやりきれなさでいっぱい。
 やりきれなさを募らせるのは、彼女の病状の悪化がほかならぬ医療によってもたらされるということだ。当初はジャニス、両親それぞれに対するカウンセリングが行われていたが、当時としては先進的だったこの方法は、病院の理事会には理解されず、担当医の契約が切れると共になしくずしに終了してしまう。後任の医師は従来の治療法、電気ショックと鎮静剤による「治療」をし、結果、ジャニスの自主的な意思はどんどん後退してしまうのだ。
 当時のイギリスの精神医療が他国と比べてどの程度の水準だったのかはわからないが、こんな前時代的な「治療」だったのかとショックだった。そもそもジャニスは、現代ならば入院が必要なレベルではない。医者と医療が彼女の症状を作り上げてしまうのだ。ラストシーンには背筋が凍る。時代の限界とは言え、もしカウンセリングが続けられていたら、彼女の人生はもっと違うものになったのではとやりきれなかった。
 
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