3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『カラーパープル』

 父親に虐待され、10代で望まぬ結婚を強いられた黒人女性セリー(ファンテイジア・バリーノ)。夫からも虐待され、唯一の心の支えである妹とも離れ離れになってしまう。そんな中、夫ミスターの連れ子の恋人であるソフィア(ダニエル・ブルックス)、夫と愛人関係にある人気歌手のシュグ(タラジ・P・ヘイソン)らとの出会いにより、自分の価値に気付いていく。原作はアリス・ウォーカーの同名小説。監督はブリッツ・バザウーレ。
 思っていたよりもがっつりミュージカルだった。原作小説とスピルバーグ監督版は未見なのだが、ミュージカルだからすっと見られたという面はあると思う。1900年初頭から始まる話なので、黒人差別は非常に厳しく、また女性に対する抑圧も厳しかった。セリーは実家では父親の使用人のようにこき使われ、更に父親から性的虐待を受けていた。結婚(といってもずっと「ミス」と呼ばれているので内縁の妻的な立場かもしれない)した後はミスターから使用人扱いされ、父親から逃げてセリーを頼ってきた妹は今度はミスターにレイプされそうになり拒むと家を追い出され、といった具合に女性であることの苦難が山積みなので歌と踊りでもないと辛くて見ていられなくなりそう。セリーに男性たちが要求するのは労働力として、性的欲求を処理する為の道具としての在り方のみで、彼女の人格は考慮されない。そんな人生がずっと続くのだ。しかし一方で、自身の意志と欲望を明言し無視させない、自分をコケにする相手とは徹底して戦おうとするソフィアやシュグのような女性もいる。特にソフィアはいわゆるスタイル抜群な美女というわけではないが、自分は自分として価値があるのだと堂々と振舞う。男性の視線や言葉に屈しない彼女の豪快な言動は小気味いい。
 しかし、そんなソフィアの精神を折るものがある。本作の物語は基本的に黒人コミュニティの中で展開されているので、一見そこに人種差別があることはわかりにくい。しかしソフィアに対して白人女性が何を言ったのか、それを受けてソフィアがどのような言動をとったか、それによって何が起きたかという経緯を見ると、そこには歴然と差別がある(そしてそれが解消される様は本作では描かれない)ことがわかる。ソフィアから反骨精神を奪ったものは、セリーの独立心を奪ったものと同じだ。差別・虐待はより弱い方へ弱い方へと流れていき、自尊心を奪っていく。差別対象から自尊心を奪うことで、反抗を抑え濃い差別構造はなくならないという負の連鎖が見える。
 一方、女性への抑圧の背景には家父長制があるわけだが、それは女性だけではなく男性にとっても圧力になっているということも垣間見えてくる。ミスターはセリーを虐待し息子を牛耳り「強い男」であろうとするが、その振る舞いは自分の父親の影響による、それしか生きる上でのモデルがなかったのではと思える。それによって彼の所業がチャラになることはないが、許しの可能性が提示されるところは今の時代の気分なのだろうか。
 なお、セリーとシュグとの愛情がやたらとプラトニックな描き方になっているのは気になった。シュグの関わり方はセリーの人生のかなり深い所に立ち入ってくるわけだし、おそらく2人の間にははっきりと性愛があると思われる(原作未読なので推測だが)のだが、現代に本作映画化するのにこれでいいのか?と疑問に感じた。

カラーパープル (集英社文庫)
柳沢 由実子
集英社
1986-04-04


カラーパープル(字幕版)
オプラ・ウィンフリー
2015-04-30


『カラオケ行こ!』

 中学生の岡聡実(齋藤潤)は合唱部の部長。合唱コンクールからの帰り際、聡実らの歌声を耳にしたと言うヤクザ・成田狂児(綾野剛)からカラオケに誘われる。組長が主催するカラオケ大会で最下位になった者に待ち受ける罰ゲームを免れるため、どうしても歌がうまくならなければならない、ついては聡実に歌を教えてほしいのだという。聡実は渋々コーチを引き受け、狂児とカラオケに通うようになる。原作は和山やまの同名漫画。監督は山下敦弘。
 テレビドラマ『MIU401』等を手掛けた野木亜紀子が脚本を手掛けているのだが、意外と山下監督の持ち味とも合っている。原作の「ヤクザと中学生」という設定は、一歩間違うと即犯罪感が出てしまい実写化するとどうなんだろうと少々心配だったが、割と大丈夫だった。狂児の聡実に対する物理的な距離感がおかしい、かつ綾野が例によって色気駄々洩れなので「近い!近い!」と突っ込みたくはなるのだが…。人と人の物理的な距距離って漫画だとあまり気にならないけど、生身の人間が演じていると気になるものだなと妙な所で再認識した。
 基本的に原作に忠実なのだが、狂児の持ち歌であるXの『紅』の扱い方が大きく違う。この曲、あまりに有名かつキャッチーなので、最近は何かで目にしてもネタ的な扱いなことが多かったように思う(原作もどちらかというとそう)。しかし本作は『紅』が何を歌った楽曲なのかということに真面目に取り組む。『紅』という楽曲を歌うということ自体にちゃんと意味を持たせているのだ。まさかこんなところで『紅』の歌詞分析を目にするとは…。これは確かに実写化でないと演出しにくい部分だと思う。狂児の『紅』が聡実の『紅』になるという構図の立ち上げ方が上手い。
 聡実の両親や同級生の描き方には山下監督の持ち味が出ていたように思う。聡実に対する家族の視線が入ることで、彼が成長過程にある子供だという側面がより感じられる。また、「映画見る部」の部員(1人しかいない)と聡実の距離感がすごくよかった。この部だったら私も入部したい。またそれとは真逆の真面目で熱心すぎる合唱部後輩・和田の造形も原作からパワーアップされていた。和田のような子はともすると「うざい」扱いされそうだが、本作はそういった真っすぐさを忌避するなという話でもあると思う。一方で合唱部の副部長女子はあまりに人間が出来ていて、魅力的だけどちょっと都合が良すぎるのではないか。子供同士でこういうケア要員を作らないでほしんですよね…。 



天然コケッコー
藤村聖子
2023-05-15

 

『枯れ葉』

 フィンランドの首都ヘルシンキ。スーパーで働くアンサ(アルマ・ポウスティ)は突然クビになり次の仕事を探さなければならない。工事現場で働くホラッパ(ユッシ・バタネン)は飲酒がやめられない。2人はカラオケバーで出会い、お茶を飲み、一緒に映画を見る。しかしお互いの名前も知らないまま、不運が相次ぎ気持ちがすれ違ってしまう。監督、脚本はアキ・カウリスマキ。
 寄る辺ない男女のメロドラマという非常にシンプルな話で、特にひねったところもないのに、こんなに胸に迫ってくるとは。しかも81分というコンパクトさ。映画ってこういうのでいいんだよ!とカウリスマキの映画を見るたびに思っている気がする。冒頭のスーパーのシーンから妙に面白い(レジのベルトコンベアー上に肉がたまっていくのとか)し、ホラッパと同僚の「禁煙」看板の前でのやりとりもじわじわくる。最小限のセリフとショットでここまで登場人物の心情や情感を表現することができるという、監督の自信を感じる。一つ一つのショットがやはり強いのだ。だらだらつなげる必要が全然ない。
 普遍的なすれ違いラブストーリーでどの時代を舞台にしても通用しそうだが、本作ははっきりと「今」が舞台であることを示す。ラジオからはロシア・ウクライナ戦争のニュースが流れるし、アンサがスーパーをクビになる経緯もいかにも現代の経営ルールに則ったものだ。アンサもホラッパも労働市場の末端にいる使い捨ての労働力と言っていいが、この使い捨て感、経済活動の中で人が数字として扱われる様がすごく現代を感じさせる。2人の生活は実につましい。思わず部屋のブレーカーを落とすアンサの行動の切実さが胸に刺さってきた。
 世界に目を向ければ暴力的で理不尽な出来事ばかり、自分の生活も苦しく貧しい。それに抗う道として愛がある、というのがアンサとホラッパの道であるように思う。この愛には恋愛だけではなく、アンサと一緒に上司に反抗する同僚らとの連帯や、ホラッパに対する年長の同僚のさりげない思いやりやユーモア等も含まれている。本作の暖かさ、風通しのよさはそういった他人同士の思いやり、いたわりによるところが大きいように思う。濃い関係ではなく薄い関係の中でのいくつもの助け合いが世の中を支え、変えていくのだと。

希望のかなた [Blu-ray]
カティ・オウティネ
松竹
2018-07-04


街のあかり (字幕版)
マリア・ヘイスカネン
2023-11-01


『カンダハル 突破せよ』

 イラン国内で核開発施設の破壊工作を行ったCIA工作員トム・ハリス(ジェラルド・バトラー)は、娘の卒業式に出席する為に急ぎ帰国の準備をしていた。しかし新たな任務を依頼され、通訳モーことモハメド(ナビド・ネバーガン)と合流。しかしCIAの内部告発によりマスコミに情報が洩れ、トムの正体が明らかとなってしまう。トムが中東から脱出するには、30時間後に離陸する英国SAS連隊の飛行機に搭乗するしかない。モーと共にアフガニスタン南部のカンダハルにあるCIA基地を目指すが、イランの精鋭集団・コッズ部隊、パキスタン軍統合情報局(ISI)、タリバンの一派により追われることになる。監督はリック・ローマン・ウォー。
 時代設定は明言されていないものの、米軍撤退後の出来事ということは示唆される。要するにトムのミッションはCIAの指示でバックアップは受けているが非公式のものであり、ことが公になったら国際的な非難は免れないということだ。だからCIAから内部告発があったということになる。そういう背景なのでCIAもおおっぴらにはトムを支援できない。一方でイランのコッズ舞台にしろSISにしろタリバンにしろ、それぞれの思惑があり「反米」であっても必ずしも利害関係が一致しているわけではない。そしてどの組織も優位に立ちたい・勝ちたいが、必ずしもイコール戦争を終わらせるということではない。イラン政府はタリバンからの非難を恐れ、ISIを煙たがっている様子や、ISIはタリバンに接近するが全面的に支持しているわけでもなさそうな様子が見える。こういった各組織間の関係が手際よく提示され、特に前半の脚本の出来がいい。内容的には自分にとってあまり見ないジャンルの作品なのだが、組み立てがしっかりしている感じ。終盤の火薬大盤振る舞いは少々大味かなと思ったが、逆に考えるとこういう背景がある以上、あれくらいしか落としどころがない(当然、現実の中では更に落としどころが難しい)ということだろう。予想外に真面目に練られた作品だった。
 一方で、トムをはじめ登場人物たちの人間ドラマにもきちんと注力されている。トムは工作員としては非常に敏腕・豪胆であることが冒頭から示唆されるが、同時にちょっとやばい人というか、危機的状況が好すぎるから家庭が破綻しても戦地から離れられないのでは?という疑問が湧いてくる。娘の卒業式に出たいんだと新ミッションを渋るものの、いざミーティングに入ると急に生き生きし始めるのだ。パンフレットを読んだらやはり戦争依存気味であるという意図で演出されているそうで、なるほどと。娘へのプレゼントを何にすればいいかわからず迷うシーンも、月並みではあるが長期間顔を合わせていない(成長度合いがわからない)ことが的確に示唆され、バトラーの困惑顔もあいまって悪くなかった。またコッズ部隊の生真面目で本来は不条理な命には従いたくない素振りや、ISIエージェントの組織の因習には嫌気がさしている、しかし組織に忠実でいざるをないという裏腹さ等、どの登場人物も立体的に見せたいという意図が感じられた。
 ジェラルド・バトラーというと絶対死ななそうなアクション映画主人公というイメージがあるし本作もまあその系譜ではあるのだろうが、実はもっと幅が広い、使い勝手のいい俳優だと思う。調べてみたら自分も意外と出演作見ていた。

ザ・アウトロー[Blu-ray]
ジェラルド・バトラー
ポニーキャニオン
2019-02-20

エンド・オブ・キングダム(字幕版)
アロン・モニ・アブトゥブール
2022-03-03


 

『怪物』

 大きな湖に面した地方の街。シングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)と小学生の息子・湊(黒川想矢)、湊の担任教師である保利道敏(永山瑛太)、そして同級生の子どもたちはごく普通の日々を送っていた。そんなある日、学校で湊がけんかをした。更に怪我もしている湊の様子を不審に思った早織は、学校を訪ねる。しかしそれぞれの主張は食い違い、事態は更にもつれていく。監督は是枝裕和、脚本は坂元裕二。
 第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され脚本賞を取った作品だが、正直そこまで脚本がいいかと言われると微妙だと思う。本作は早織視点の第1部、保利視点の第2部、湊視点の第3部という3部構成になっており、同じ出来事であっても主体が違うと全く違うように見えるという演出が意図されている。しかし同じ時系列を3回最初からやり直して見せられるというのは少々かったるかった。もうちょっと全体の尺が短ければまた印象が違ったのだろうが、視点が変わると~という所に拘りすぎな感じがした。特に保利については一人の人間としての統一感が希薄になっている(こういう短慮な教師いるよなーという説得力はあるのだが)ように思った。
 また、より大きな問題として、多分作品が目指した所に作品自体、また作品のプロモーションが追いついていなかったように思う。大人も子供もお互いにお互いのことがわからない、そのわからない部分を怪物であるかのように見てしまうという趣旨なのだろうが、「そのように見てしまいがちですよね」という所で話が止まってしまったいるように思った。今こういう映画を作るならその先に行かないとならないのでは。既に各所で指摘されているようにセクシャリティを物語の「ネタバレ」要素として扱うのは既にデリカシーのないこととされるだろう。異性愛者にとってはサプライズであっても当事者にとっては普通のことなので、結局他人事として描いているんだなぁという印象にしかならない。映画を見る側を当事者側に引き込みきれていないのだ。序盤、車中で早織が非常に無神経なことを言うのだが、そこから動きがないままではないか。
 ラストの情景が美しいのがまた問題で、大分無責任だと思う。大人がちゃんと頑張って彼らが安心して生きられる社会を作らなければならないのだが、子供たちの美しさに全部ゆだねてしまうのは違うんじゃないかと思う。希望のある終わり方にしたかったのかもしれないが、子供は大人が作った社会の中で生きていかなければならないので、これ全然希望が見えないじゃないかとがっくりした。

三度目の殺人
吉田鋼太郎
2019-03-07


映画の生まれる場所で (文春文庫)
是枝 裕和
文藝春秋
2023-06-07




『帰れない山』

 都会育ちの少年ピエトロは、北イタリアのモンテ・ローザ山麓の小さな村へ両親と共に夏を過ごしにやってきた。同い年の牛飼いの少年ブルーノと出会い、野山を駆けまわるうち2人は次第に親友になっていく。しかし成長するにつれピエトロは父に反抗し、家族と山を訪れることはなくなる。ブルーノも出稼ぎに出ている父親に同行し働くようになる。月日は流れ、父親の訃報を受けたピエトロ(ルカ・マリネッリ)は、十数年ぶりに山を訪れる。そこで山に戻って牛飼いを目指すブルーノ(アレッサンドロ・ボルギ)と再会を果たす。原作はパオロ・コニェッティの同名小説。監督はフェリックス・バン・ヒュルーニンゲン&シャルロッテ・ファンデルメールシュ。
 幼馴染の男性2人の長年にわたる友情の物語ではあるのだが、ピエトロと父親との関係の方が強く印象に残った。ピエトロはサラリーマンとして働き山に来るのは夏の数日間のみという父親の生き方に反発し、「お父さんみたいには絶対にならない」と反発して家を出てしまう。非常にありがちな反発の仕方ではあるのだが、彼には父親の人生はつまらないものに見えたのだ。しかし、父親には「父親」ではなく彼個人としての世界が当然あり、それは決してつまらないものではない。自分の親の一個人としての面白さに子供が気付くのは難しい、時間がかかるものなのだろうという所が切なくもある。ピエトロの場合、気付く間もなく父親は死んでしまうのだから。父親の人としての魅力に呼応し共に時間を過ごしたのがピエトロの親友であるブルーノだったというのも皮肉だ。本作はピエトロとブルーノの関係の変遷を描くが、同時にブルーノを通してピエトロが自分の父親との関係を結びなおすという側面もある。
 ピエトロはブルーノと出会った頃から、彼は山の民で他の場所では生きられないのだと直感し、ブルーノを街の学校に進学させようとする自分の両親に強く反発する。ピエトロの直観は結果的には正しかったわけだが、子供の頃のそれには、彼のロマンチシズムをブルーノに託してしまった感がなきにしもあらずだと思う。その結果、ブルーノのそういった性質を後押ししてしまったのではないかという気もした。ブルーノは自分には山しか生きる場所がないと言う。確かにある場所でしか生きられない人はいるし、ブルーノに「普通の仕事をすればいい」という妻の言葉は的外れだ。ただ、そこまで思い詰めるほどだったろうかと、もやもやが残る。父親に対してと同じく、ブルーノに対しても「本当のあなたはどんな人だったのか」という疑問をピエトロは持たなければならなかったのではないかと。
 山の風景は本当に魅力的だった。街に住んでいるから気楽に言える言葉で、実際には非常に厳しい環境なのだろうが、それでも羨ましくなる。子供の頃の生活体験は後々の人生・価値観に大きく影響するとつくづく思った。

帰れない山 (新潮クレスト・ブックス)
コニェッティ,パオロ
新潮社
2018-10-31


マーティン・エデン(字幕版)
カルロ・チェッキ
2021-04-23




『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME3』

 サノスを倒して世界を救ったものの、恋人ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)を失ったショックで鬱状態のスター・ロードことピーター・クイル(クリス・プラット)。ガーディアンズの仲間たちは彼を心配するが、彼らの前に銀河を完璧な世界に作り変えようとするハイ・エボリューショナリー(チュク・イウジ)が現れる。ハイ・エボリューショナリーの目的は、かつて彼の実験対象だったロケットを入手することだたった。監督・脚本はジェームズ・ガン。
 シリーズ3作目にして完結編。少なくともこれまでのガーディアンズの形では続編は作られないだろうと納得させる作品だった。しかしこのサブタイトル、2作目は何だったんだと言いたくはなる。普通にVOLUME2でよかったんじゃないだろうか…。
 冒頭でRadioheadの「Creep」が流れるのだが、とうとう自分にとってリアルタイム時代の楽曲が出てきたことが感慨深いと共に、この歌詞(日本語字幕がついている)をロケットが聴いているシチュエーションで泣けてしまう(クイルの趣味とは思えないので多分ロケットの好みなのだろう)。本シリーズの挿入歌は基本的に歌詞をふまえて使われているので、本来は全曲歌詞の日本語字幕がついていた方がいいんだろうけど。特に本作のストーリーはCreepの歌詞に対する案沙0というか、本来の歌詞の意味をひっくり返すようなもので、そこにぐっときた。creepではない、ではなく、creepでもいい、それでもあなたを愛する人がいる、いやよしんば愛されていなくても大丈夫、それでもあなたには価値があるという人のいびつさの肯定になっているのだ。欠点に対してそんなことはないよとは言わないのだが、その姿勢は「完璧な生物による完璧な世界」を目指すハイ・エボリューショナリーに対する明確な否定になっている。ハイ・エボリューショナリーのこだわりは極端に病的だが、彼の片鱗は現実世界でも有用性評価であったり能力主義であったりと、様々な形で偏在している。そこに対するNoとも言えるだろう。
 今回はほぼロケットの話と言ってもいいのだが、それ以外のキャラクターについてもそれぞれの物語に一区切りをつけている。そのせいでかなり長尺になってしまっているのが苦しい所だが、それぞれ良い落としどころだったのではないかと思う。固定のパートナーを得たらめでたしめでたしというふうにはしない所もよかった。


『カラヴァッジョ』

 1610年、死を迎えようとしている画家カラヴァッジオ(ナイジェル・テリー)は、自身の人生を思い起こしていく。1571年、ミラノ近郊の村に生まれたカラヴァッジョは、やがてデル・モンテ枢機卿の庇護を受け、創作に専念するようになる。ある日、たくましい肉体を持つ青年ラヌッチオ(ショーン・ビーン)とその恋人レナ(ティルダ・スウィントン)に出会い、それぞれに魅了される。監督・脚本はデレク・ジャーマン。1986年、第36回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作。
 「12カ月のシネマリレー」にて鑑賞。舞台劇のような印象を受けた。あえて一つの空間を使いまわしているような見せ方で、登場人物があまり移動しない。屋外のシーンでも室内のような印象だし、逆に室内の設定のはずなのに天井が妙に高いというか、ないような空間に見えるのだ。舞台上でセットを動かしつつ、俳優が移動しているような絵のフレームがわりと固定されている感じで、これは絵画の特性を考慮しているのかもいれない。カラヴァッジョの製作情景を含め、彼の作品をそのまま再現したようなショットも何度か出てくるので、絵画の延長としての映画というものが意識されているように思った。それだけにショット一つ一つが絵として美しい。
 一応カラヴァッジョの伝記映画という体はしているが、史実、時代考証に忠実な作品ではない。作中には当時絶対になかったようなもの、英字新聞やタイプライター、計算機、自動車等が出てくる。カラヴァッジョが友人と飲んだくれる酒場(これもまた屋外ぽいのだが)には豆電球の電飾がなされている。ローマの荒くれもののラヌッチオは、どちらかといういうと港町に着いたばかりの水夫、みたいな雰囲気だった。史劇ではなく、カラヴァッジョの作品と本人にまつわるエピソードのイメージ化といった方がいいだろう。この方向性が演劇的なセット造りと相性がよかったように思う。演劇は映画よりも抽象化が強い表現だろうから。

ガーデン [DVD]
アップリンク
2005-03-25


『かがみの孤島』

 中学1年のこころ(當真あみ)は同級生からのいじめに遭い、学校に行けなくなる。フリースクールに行ってみてはという誘いを受けるものの、家に引きこもる日々を送っていた。ある日、部屋の鏡が突如として光を放ち始め、こころはその中に吸い込まれてしまう。鏡の中の世界にはおとぎ話に出てくる城のような建物と、6人の見知らぬ中学生がいた。そこへ狼のお面をかぶった少女「オオカミさま」(芦田愛菜)が姿を現し、ここにいる7人は選ばれた存在であること、城のどこかに隠された鍵を見つけたものは願い事を一つだけかなえられることを告げる。原作は辻村深月の同名小説、監督は原恵一。
 原作未読なのだが、おそらく原作に忠実(でないとミステリ的なトリックが成立しにくい)な映像化なのでは。ともすると映像化には不向きな設定なのではとも思えたが、登場人物たちの心の動きを丁寧に追っていく、芝居の部分を丁寧に見せることで、きちんと映像化されたと思う。原監督の職人としての手堅い仕事を見た感があった。キャラクターデザインもビジュアルコンセプトもキャッチーすぎず、浮ついていない落ち着いたアニメーションになっている。映像的なスペクタクルがあるわけではないのでともすると地味目に見えるが、本作の場合はこれが正解なのだ。
 こころたちが呼び寄せられるのは海の中の孤城だが、彼女ら一人一人が現実生活の中で孤城にいるとも言える。誰にも自分の気持ちを分かってもらえない、相談できない、そもそも言語化することが難しい苦しさは10代の時には抱えがちだろう。更に子供は家庭と学校くらいしか居場所がない。家族とはぎこちなく学校にも居場所がないとなると、正に詰んだ状態で大変苦しい。親とのすれ違いや教師の無理解については、時間配分上は少ないがどういうすれ違い・勘違いであるかよく描かれているし、これはどういうふうにダメなのか、どういう対応が適切なのか、ちゃんとわかるように描かれていると思う。これは原作の描写が的確なのだろう。不登校児童の苦しさがよく描かれていると思うし、誠実な描き方だと思う。
 自分にもかがみの孤城があればどんなにか救われたか、という人もいるだろう。孤城での出来事がこころたちを具体的に助けるわけではない(1か所のみ直接、物理的に助けている)が、居場所を得ることで自分で動き出す力が生まれる。長期的には自分が自分を助ける、自分の苦しさが誰かの苦しさと繋がり、その誰かを助けるという話でもあるので、そういう意味では今苦しい10代に向けて作っているなという印象を受けた。

かがみの孤城
辻村深月
ポプラ社
2017-06-02




『川っぺりムコリッタ』

 山田(松山ケンイチ)ははわずかな手荷物を持ち、北陸の小さな町にやってきた。小さな塩辛工場に就職し、社長から紹介された古い安アパート「ハイツムコリッタ」で暮らし始める。ある日、隣の部屋に住む島田(ムロツヨシ)が「風呂を貸してほしい」と山田を訪ねてきた。妙に押しの強い島田はいつの間にか山田の家に上がり込み、一緒に食事をするようになる。2人の間には少しずつ友情のようなものが芽生え始めるが。監督・脚本は荻上直子。
 荻上監督の作品はほぼ全作見ているのだが、段々登場人物の生活が質素というか、所得が低くなってきている印象を受けた。本作に登場する人たちは、はっきりとお金がない。更に身よりがなかったり仕事がなかったり、大切な人を亡くしていたりと、「持っていない」人たちだ。そんな寄る辺ない人たちが家族とも友人ともつかない、緩く淡い関係で繋がっている。支え合うというよりも、薄目のもたれあいと言った方がいいかもしれない。山田と島田の関係、というか当初島田が一方的に接触してくる関係は、まさにもたれあい、というか島田が強めにもたれてくるという感じだ。しかし、このもたれられる時にはもたれかけてしまうという思い切りの良さにはちょっと笑ってしまった。やがて山田も「僕、お金持ってません!」と宣言してしまうのだが、宣言しあってもたれあえるくらいの世の
の方が、いくらか気が楽だろう。貧しくもそこそこ幸せに生きていくという方向に、監督の作風が「丁寧な暮らし」方向からシフトしてきたような気がする。意外と世相を反映させているのかもしれない。ささやかな幸せが大切、というよりもささやかな幸せを見つける才能がより重要な世の中になってきた(その程度でもやらないとやっていられない)ということかもしれない。それがいいことなのかわからないけれど…。
 一見ほんわかしているが、登場人物たちにはそれぞれに過去に抱えるものがあり、どこか影がある。全員に何らかの形で死者と関わっており、あの世への引力に囚われているように見えた。そういった影を踏まえた上でのささやかな幸せであり、どこかしんみりとする。

川っぺりムコリッタ (講談社文庫)
荻上直子
講談社
2021-08-12



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