3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画お

『オレの獲物はビンラディン』

 コロラド州の田舎町に暮らす中年男性ゲイリー・フォークナー(ニコラス・ケイジ)は愛国心に燃え、同時多発テロの首謀者とされるオサマ・ビンラディンの居場所をアメリカ政府がいまだ特定できないことに苛立っていた。ある日ゲイリーは、人工透析中に神からの啓示を受け、自らビンラディンを捕まえようと決意する。四苦八苦の末、ようやくパキスタンに入国するが。監督はラリー・チャールズ。2010年にビンラディン誘拐を企てた容疑でパキスタン当局に拘束されたアメリカ人の実話を元にしている。エンドロールではモデルとなったご本人の映像も流れる。
 ザ・ニコラス・ケイジ劇場とでも言いたくなる、ニコラス・ケイジの顔芸、リアクション芸のオンパレード。ドラマの作り自体は割とオーソドックスなので、ケイジの演技の奇矯さがより際立つ。とは言え、ゲイリーのモデルとなったご本人様の映像を見ると、あっ本当にこういう感じの人なんだ・・・と腑に落ちる。本作のケイジの奇矯さは、モデルに寄せて役作りした結果なのだ。実話を元にした映画の最後に「ご本人登場」する形式は、時に野暮だなと思うこともあるのだが、本作に関しては本人を見られて良かった。なるほどこういう人だからこういうキャラクターになるのね、と納得できる。
 ゲイリーは熱烈な愛国者で外国人や外国製品などもってのほか!というスタンスなのだが、いざパキスタンに行くと、あんがい周囲に馴染むしホテルの従業員とも仲良くなってしまう。後々のインタビューでもパキスタンという国、そこに暮らす人たちのことは特に悪くは言わない。やっていることは無茶苦茶なのだが、依怙地一点張りというわけではなく、意外と他人に対して寛容な所もあるのだ。ガールフレンドになる高校の同窓生マーシ(ウェンディ・マクレンドン=コービー)との関係からも、彼の人としての優しさや思いやりが窺える。ぱっと見やたらとテンション高いし大声で喋るしビンラディン捕まえに行くしなので、なぜこいつと付き合おうと思った?!マーシの趣味大丈夫?!と最初は思うのだが、マーシや彼女の養女に対しては(彼なりにではあるが)実直に力になろうとするし、支配的な態度を取らない。見ているうちに、なるほどこれなら好かれるかもなと思えてくる。
 ゲイリーはビンラディンを捕まえなくてはならない、それがアメリカを、マーシたちを守ることになると強迫観念めいた信念を持っている。しかし、その一方でこの信念は妄想だとどこかでは気付いていて、解放されたいとも思っているのではないかという一幕も見られる。ただ、彼は信念から逃れられない。使命感に目覚めてしまうと、一種の麻薬みたいなものでやめられないんじゃないかな。彼の中で内燃するものが大きすぎて、「普通」の生活では処理しきれないようにも思えた。

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『女の一生』

 男爵家の一人娘ジャンヌ(ジュディット・シュムラ)は、神父と両親の勧めで子爵ジュリアンと結婚。新生活は順調に見えたが、夫の不貞を知る。原作はギ・ド・モーパッサン。監督はステファヌ・ブリゼ。
 おおよそ時系列に沿ってはいるが、ジャンヌの人生の断片が随所にちりばめられており、さっきちらっと見えた場面はどういう状況なんだろうか?と思っていると後々わかってくる。冒頭から不穏そうなシーンもあり、不幸の予兆を常に感じさせる。実際、夫の不貞を発端に、ジャンヌの人生には次々と困難が降りかかる。その困難は、当時(原作が発行されたのは1883年)の女性にとってはそんなに珍しい話でもなかったんだろうな・・・。
 ジャンヌは夫や息子により辛酸舐めさせられるが、夫とも息子とも幸せな時間は確かにあった。彼らを恨んだり悲しんだりするのと並行して、幸せだった頃の記憶がよみがえる。本作の構成は、その記憶がよみがえる感じ、一つの記憶が他の記憶と次々に連動していく感じを意図しているのだろう。夫にしろ息子にしろ、相手を恨むだけならまだ楽かもしれないが、なまじ幸せだった記憶が生き生きとそこにあるので、余計に心が引き裂かれ辛い。特に伯爵夫人や幼馴染のメイドとの女性同士のじゃれあいや他愛のない会話のあれこれは親密さを感じさせるものなので、後々の展開を思うと実に苦い。
 ジャンヌは夫や息子に振り回され、流されているように見えるが、当時の女性としては他に生き方の選択肢があまりなかったということだろう。両親にとっての娘、夫にとっての妻、息子にとっての母という、誰かに紐づけられた存在としてしか立ち位置がないというのが、何とも息苦しい。誰かを待ち続ける彼女の姿が痛々しくてならなかった。

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光文社
2011-03-10


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『オリエント急行殺人事件』

 イスタンブールからイギリスに戻る為、オリエント急行に乗った名探偵エルキュール・ポワロ(ケネス・ブラナー)。しかし途中で脱線事故が起きて足止め状態になり、更に車内でアメリカ人富豪ラチェット(ジョニー・デップ)が刺殺されているのが発見された。ポワロは鉄道会社の重役ブーク(トム・ベイトマン)の依頼を受け、殺人事件の犯人探しを始める。原作はアガサ・クリスティの同名小説。監督はケネス・ブラナー。
 過去、映画やTVドラマとして度々映像化されている作品だし、原作の人気も高いので、自分がイメージしていたのと違う!という観客も多そうだが、私は楽しく見た。ブラナーのポワロは神経質さや独特の几帳面さをより色濃くした、少々仰々しい造形。ポワロだけでなく作品自体がドヤ顔かましているような印象なのだが、ブラナーが主演・監督兼ねているからまあしょうがないかな。私はブラナー監督作の舞台劇っぽさというか、独特のオーバーアクションな演出・演技が少々苦手なのだが、本作は作風と非日常的な物語・舞台との相性がよかったのではないか。『オリエント急行~』って、クリスティ作品の中でも特にイベント性が高い、「お芝居」的な要素の強い作品だと思う。
 原作の尺との兼ね合いがあるのでしょうがないのだろうが、ポワロが超推理を展開しているように見えてしまう。手がかりから結論へ飛躍しすぎな印象になるのだ。とは言え、ミステリとしての筋書きそのものよりも(私が原作既読だからというのもあるが)、列車内での殺人という限られた空間内でのドラマを、どのようにビジュアルの変化を盛り込み、単調ではなく見せるかという創意工夫が面白く感じられた。見取り図のように真上から撮影したり、ポワロ自ら列車の外へ飛び出て原作からは想像できないようなアクションを見せたりと、見た目のバリエーションを付けようと言う意欲が色々感じられた。
また、セットや衣装等美術面が大変豪華で、それだけでも楽しい。
 冒頭、イスラエルでの謎解きの経緯や、ポワロの「世の中には善と悪しかない」という言葉をはじめ、ポワロはこういう考え方をする人であり、彼の言う正義とはこういうものだと紹介するような作品だったと思う。殺人事件の決着のつけ方自体、ポワロの正義感と善悪観を如実に反映したものになっている。ポワロ入門編と言ってもいいかもしれない作品。当然シリーズ化したいんだろうなぁ。



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2013-08-23

『幼な子われらに生まれ』

 40代のサラリーマン田中信(浅野忠信)と妻の奈苗(田中麗奈)はバツイチ同士の再婚で、奈苗の連れ後の薫(南沙良)と恵理子(新井美羽)と暮らしている。奈苗が妊娠し、3人目の子供の誕生を控えているが、信は左遷にあってしまう。また薫は信と距離をおくようになり、「本当のパパに会いたい」と言いだす。原作は重松清の小説。監督は三島有紀子。
 信は仕事で出世することよりも家族と一緒に過ごすことを優先するし、家族思いではある。しかし、大人になりつつある血の繋がらない娘との関係は難しいものになっていくし、奈苗の話を聞く心の余裕もなくなっていく。夫として、父親としての不完全さが露呈していくことになり、だんだん家に帰りたくなくなってしまうのだ。奈苗に対して、それを言ったら関係崩壊するぞというような言葉まで投げつけてしまう。
 それでも、信が幼い薫と恵理子の「父親になる」と決意するシーンはとても印象に残った。現在の彼は迷うことばかりだし家族の中には不協和音が充ちている。信も奈苗もいわゆる「出来た」人間ではなさそうだし、夫・妻としても親としても色々至らないところはある。それでも、この時の気持ちに立ち返ることが出来れば、何とか踏ん張れるのではないかと思わせるのだ。奈苗が信と前妻の娘に対して、とっさに保護者としての表情を見せるシーンにもはっとした。
 このように大人の不完全さを描く良いシーンもあるのだが、正直なところ、色々とひっかかる部分も多かった。奈苗が妊娠ハイとでも言えばいいのか、妙に能天気に見えてしまうので、この人をどのようにとらえればいいのかともやもやする。また、前妻(寺島しのぶ)の言葉は随分「台詞」感があって、他の部分から多分に浮いていたように思う。前妻が抱えるプレッシャーや息苦しさと信の無理解には、こういうシチュエーションてあるよなーという「あるある」感が強いのに、前妻の言葉は作りものっぽい。セックス中の振る舞いにも、彼女が心配していることからするともっと他に言いそうなことあるんじゃないの?!と興ざめした。本作はあくまで信の視線によるもので、奈苗の能天気さや妻の芝居がかった態度は、彼にとって「そう見える」ということなのかもしれない。しかし、奈苗や前妻も信と同様に惑っているはずだ。女性たちの描写がほぼ紋切、しかも古臭いタイプの紋切型に見えてもったいなかった。
 なお、俳優の中では奈苗の前夫役の工藤官九郎が素晴らしかった。絵に描いたようなダメさ!ぱっと見るだけでこいつクズだなと思わせるクズオーラの出し方が素晴らしい。



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『オン・ザ・ミルキーロード』

 長らく戦争が続くとある村。牛乳配達人のコスタ(エミール・クストリッツァ)はミルク売りの娘ミレナ(スロボダ・ミチャロヴィッチ)に想いを寄せられていた。ミレナは兵士である兄ジャガ(プレドラグ・”ミキ”・マノイロヴィッチ)が帰郷したら兄と一緒に自分とコスタも結婚式を挙げようと計画していた。しかしコスタはジャガの花嫁として迎えられらたイタリア人女性(モニカ・ベルッチ)に恋をしてしまう。監督・脚本はエミール・クストリッツァ。
 クストリッツァ監督作品はペシミスティックな躁状態とでも言うような、独特のテンションがあって大変賑やかで騒々しいが悲劇の予兆を常にはらんでいる印象がある。本作では、コスタが美女2人にモテモテだったり、戦争に慣れきった村の兵士たちが妙に呑気だったり、クストリッツァ作品お馴染みの動物たち大活躍だったり、コメディっぽい要素がふんだんにある。一方で、コスタと花嫁の逃避行は困難極まりないし、理不尽としか言いようがない形で突然大勢が(人間動物分け隔てなく)死ぬ。えっ、この人たちこんなにあっさりと退場しちゃうの?とびっくりするくらいだ。
 そんな理不尽な暴力とファンタジーの世界との間を疾走していくような力技。滝を飛び下りるシーンや雷雨の中の浮遊など、ファンタジーとして本当に美しいのだが、その薄皮一枚向こうには生々しい戦場が広がっている。終盤のある悲劇は、正にこの世の悲惨さとそれを覆うファンタジーのベールの組み合わせとして描かれている。こうでもしないと浮かばれない、とでも言うようだ。
 コスタと花嫁を助けてくれるのは、動物や鳥や虫で、人間は全く手助けしてくれない。人間たちはむしろ2人を引き離そうとするのだ。人間に対する信頼感があまりない世界なのだ。コスタは世捨て人のような存在で、むしろ動物たちに近いのだろう(熊と親しげに接するシーンが印象的だ)。だから、生々しく人間としての生気や欲望を放つミレナとは一緒になれないのだ。花嫁は世捨て人というわけではないが、国も家族も捨てざるを得なかった難民のようなもので、この世にはやはり居場所がないのだ。この世に居場所がない人たちの行き着く先はこれしかないのか、とラストにはやるせない気分にさせられる。

アンダーグラウンド Blu-ray
ミキ・マノイロヴィチ
紀伊國屋書店
2012-04-28


夫婦の中のよそもの
エミール・クストリッツァ
集英社
2017-06-05

『俺たちポップスター』

 幼馴染のコナー(アンディ・サムバーグ)、オーエン(ヨーマ・タコンヌ)、ローレンス(アキヴァ・シェイファー)はヒップホップグループ“スタイル・ボーイズ”として一世を風靡した。しかしフロントマンのコナーが突然“コナー4リアル”としてッソロデビューしグループは解散。オーエンはコナー専属DJになったが今や名ばかり、ローレンスはスタイル~時代にコナーが功績を独り占めしたことを恨み、田舎に引きこもって農場主になった。人気絶頂のコナーは新アルバムをリリースするが世間からは酷評され、あの手この手で売り上げを伸ばそうとするが全て裏目に出る。監督はアキヴァ・シェイファーとヨーマ・タコンヌ。脚本はこの2人に加えアンディ・サムバーグ。主演の3人が監督・脚本を務めているのだ。
 コナーを追う音楽ドキュメンタリーの体で作られているのだが、カメラに向かってのコナーの喋りやスタッフの紹介、「お仕事」風景「プライベート」風景、そして随所に挿入される実在のミュージシャン、セレブたちのコメント(カメオ出演のみの人も。よく出てくれたなーと感心を通り越して呆れた。特にコックの人。扱いがひどい)。あっこういうの絶対前に見たことある・・・的なシチュエーションをパロディ化していて、アメリカの音楽ドキュメンタリーあるあるギャグみたい。当然、アメリカの音楽やポップカルチャー、セレブネタが多いので、よくわからないところもあったが(私はアメリカのポップカルチャーには明るくないので)、そこそこ音楽好きなら笑っちゃう部分は多々あると思う。音楽に関しても、スタイル・ボーイズの楽曲といいコナーのソロ楽曲といい、こういう安い感じの曲どこかで聞いた・・・というポピュラーさとダサさの兼ね合いが絶妙。そして歌詞がはてしなくバカバカしい。字幕で見るとバカバカしすぎて逆に笑えないのが痛かった。
 基本的にバカバカしいコメディなのだが、どこかもの悲しさもある。コナーの栄枯盛衰の「おかしくてやがて悲しき・・・」感に妙に説得力がある。また、3人が元々幼馴染の友人同士だという所が悲哀を増しているように思った。長年の友人を羨まなくてはならないのって結構しんどいと思う。純粋に仕事上のみの関係だったら、コナーとローレンスはこんなに拗れなかったんじゃないかな。ずっと子供時代の友情を信じ続けられるオーエンのメンタルの強さはんぱないわ・・・。

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ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2013-07-24

モンスター・ホテル/モンスター・ホテル2 [DVD]
アダム・サンドラー
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2016-11-02

『お嬢さん』

 1930年代、日本統治下の朝鮮。詐欺師たちに育てられた少女スッキ(キム・テリ)は藤原伯爵と自称する詐欺師(ハ・ジョンウ)に、メイドの珠子としてある屋敷に連れて行かれる。その屋敷に暮らすのは日本文化に傾倒し稀覯本を収集している上月(チョ・ジヌン)と、その姪で莫大な財産の相続権を持つ秀子(キム・ミニ)。上月はいずれ秀子と結婚して財産を手に入れることをもくろんでおり、秀子を屋敷に閉じ込めていた。藤原伯爵は秀子を誘惑、結婚してから精神病院に入れて財産を奪い取ろうと計画しており、秀子を懐柔する手駒としてスッキを送り込んだのだ。秀子は徐々にスッキに心を開くようになり、スッキもまた秀子に惹かれていく。原作はサラ・ウォーターズの『茨の城』、監督はパク・チャヌク。
 原作はイギリスの話なので、舞台の置き換えの大胆さにまずびっくり。日本統治下の朝鮮にすることで、支配・被支配関係が更に重層的、かつ錯綜した構造になっている。スッキたち朝鮮人は秀子ら日本人に支配されており、日本人に対する感情があまり良くないものであることが冒頭で示唆される。一方で朝鮮人だが日本人と結婚した上月は日本文化に傾倒し、日本人と自身とを同一化してきた。その上で日本人女性である秀子を支配しセクシャルな「朗読」を強いる。自分を支配している階層の女性を自分の情欲の為に使役するという倒錯的な構図を楽しんでいるのだろう。
 その階層や性別による上下関係を、女性達は軽々と飛び越える。この女性の共闘と遁走があることが、原作との大きな違いではないかと思う。彼女たちが、既存の欲望の形、自分達が欲望され消費される欲望のあり方から抜け出し、自分自身の欲望のあり方を掴んでいく。秀子が藤原に対して啖呵を切るあるシーンは、それを端的に表していたと思う。
 とは言え、ここで描かれる女性たちの姿に自由さを感じたかというと、少々微妙だ。本作での女性同士の愛情・性愛の描かれ方は、やはり女性達に欲望を向ける男性の視線によるもののように思う(監督がヘテロの男性である以上仕方ないのかもしれないが)。セックスシーンなど、何だかだらだらと長くて退屈だしレズビアンもののポルノのパロディみたいで、少々興ざめ。撮っている側ばかりが楽しくなっているような気がした。
 衣装にしろセットにしろ、美術面が豪華で素晴らしかった。これだけお金かけてこういう映画を作れるなんて、韓国の映画界の懐の深さを見た感がある。

『溺れるナイフ』

 東京でモデルをしていた15歳の望月夏芽(小松菜奈)は、父親が故郷で旅館を継ぐことになった為、海辺の田舎町・浮雲町に引っ越してくる。がっかりする夏芽だが、地元の名士である神主一族の息子・コウこと長谷川航一朗(菅田将暉)と知り合い、彼と強く惹かれあう。原作はジョージ朝倉の同名漫画、監督は山戸結希。
私は原作未読なのだが、長編のダイジェストっぽさは否めなかったと思う。一つ一つのシーンを取り出してみると、魅力的な部分はあるのだが、全体を通した映画の駆動力みたいなものが、いまひとつ弱いという印象を受けた。今見ているシーンの次のシーンがあまり気にならない(続きをもっと見たいという気持ちが沸いてこない)のだ。そのせいか、それほど長い尺ではない(111分)のにすごく長く感じた。
 ショットのつなぎ方に不思議な癖がある。えっそこで切るの?そこで繋ぐの?という感じで、ともすると細切れになっているような印象を受けた。序盤、夏芽がコウを発見するシーンで顕著だったと思うのだが、ロングとクロースを交互に配置して決定的な出会いシーンに近づけていく。タメを作って緊張感を増していく意図があったのかもしれないが、私はこういうつなげ方だと逆に気が散ってしまう。
 この出会いのシーンはおそらくものすごく重要で、ここで強烈に惹きあうものがあり2人が恋に落ちた、ということを観客に納得させないと、その後の展開、2人の言動が茶番に見えてしまう可能性がある(実際、私は茶番ぽくて耐えられない部分がいくつかあった)。これは、ダイジェストっぽい脚本の弊害なのかもしれないが。エピソードが断片的なので、2人の関係のダイナミズムみたいなものが途切れてしまうのだ。2人の関係、そして夏芽が人生の選択をどのようにしていくかという所が本作の肝と思われるので、これは大分残念。彼女の決断の重さみたいなものが薄れてしまった。重さが薄れているままラストを見ると、茶番感がすごくてなかなかに辛かったんですよね・・・。
 もっとも、すごくいいシーンもある。フォトジェニックな椿の花を咥えるシーンや、夜のバッティングセンター。夏芽とコウの同級生で、夏芽に思いを寄せる大友役の重岡大殻が健闘している。大友は非常にテンプレないい奴系当て馬系男子キャラだが、重岡の奮闘故か、生き生きとして実体感のあるキャラクターになっている。対して、主演級の菅田は、肉体性が非常に希薄で驚いた。他作品ではそんなことないので、演出上のオーダーだと思うのだが、生々しさを極力削ぎ落している。ヒロインである小松の肉感的な存在感とは対称的だった。

『オーバー・フェンス』

 離婚して、仕事も辞め函館に戻ってきた白岩(オダギリジョー)は、職業訓練校に通いながら失業保険で生活していた。ある日、訓練校の同級生・代島(松田翔太)にキャバクラへ誘われる。そこで出会った聡(蒼井優)は鳥の物まねが得意な風変りな女性だったが、白岩とは惹かれあうものがあった。原作は佐藤泰志の小説。監督は山下敦弘。
 山下淳弘監督が本作のようないかにも「映画のラストシーン」を採用する、しかもそれがハマっているというところに、なんだか感慨深くなった。てらいのない作り方をするようになったんだなぁと。成熟したということなのか。佐藤泰志の小説を映画化した「函館三部作」、『海炭市叙景』(熊切和嘉監督)、『そこのみにて光かがやく』(呉美保監督)に続く三作目ということもあるからか、未来への予兆がより強く感じられる。(原作通りなのかどうかわからないが)題名を象徴するようなシーンにしたかったのだろうか。
 白岩は一人で暮らし、訓練校でも人当たりは悪くないが周囲との距離を自分から詰めようとはしない。対人関係の距離感が広いのだ。対して、聡は相手との距離感が特に無茶苦茶だ。彼女のコミュニケーションは、相手との「間」がない。少し(聡にとっては少しではないのかもしれないが)相手と思いが通い合うと、相手の全てを知りたがる。普通、知り合ってからさほど長くない相手に(お互い好意がありセックスしたとはいえ)パートナーと別れた経緯を事細かに説明しろと要求はしないだろう。
 外堀を埋めずに中核にいきなり迫る聡の言動は、いくら彼女に対して好意があっても、耐えられない人もいると思う。やることが極端で、だいぶ厄介だ。白岩はおおよそ厄介ごととは関わりたがらなそうな人なので、この2人が惹かれあうというのは一見不思議だ。ただ、白岩も聡も形は異なれど、自分は駄目な人間だ、まっとうに世の中で生きていくのはしんどい、自分が生きる場は世間の縁の部分だと感じている部分が、2人を引き寄せたのかもしれない。
 ただ、彼らがいる場所は本当に縁なのか?ということを見ているうちに考えた。訓練学校の生徒たちは、まあうだつのあがらない面々で、一見、いわゆる豊かさとは縁遠いように見えるし、教官も彼らをそのように扱う。しかし生徒の一人で年長者の勝間田(鈴木常吉)は、教官に対して「外にはいろんな人がいるんだ」と諭す(このシーン、鈴木の語り口と真面目に話した後に茶化すタイミングとが素晴らしい)。また、白岩は自分と年齢が近く、一見チャラい原(北村有起哉)の自宅に泊まった際、そこに「日常」としか言いようがない時間が流れていることにしばし呆然とする。原は自分よりも圧倒的に「ちゃんとした」生活をしているのだ。
 「うだつのあがらない」とくくられた人達には、それぞれ自分の暮らす場所があり、個々の生活がある。それは当然のことなのだが、つい、教官のようにくくってしまいがちだ。白岩は自分は人間のクズだと嘯きつつ、生徒たちも似たようなものだと思っていたのではないか。だから、原が学校の「外」でいわゆる世間一般で言うような幸せな家庭を築いている姿を見てはっとするのだ。
 しかし白岩や聡、そして学校内であまりにいたたまれない存在に見えた森(満島真之介)にもまた、「外」に出ればまた違う生き方があるかもしれないのだ。いつでも「外」はある。だからフェンスを越えるのだろう。


『オマールの壁』

 占領状態が続くパレスチナに住む、パン職人のオマール(アダム・バクリ)。監視塔の目を盗み、時に銃撃を避けつつ、分離壁の向こう側に住む恋人ナディア(リーム・リューバニ)とその兄タレク(エヤド・ホーラーニ)、友人アムジャド(サメール・ビシャラット)に会いに通っていた。オマールはリーダー格のタレクと共に占領に対する反対運動に立ち上がったが、イスラエル兵殺害容疑をかけられ秘密警察に捕えられてしまう。拷問を受け、自由になりたければ仲間の情報を渡しスパイになれと迫られるが。監督はハニ・アブ・アサド。
 パレスチナという政治的な背景に目が行きがちだが、誰がオマールをはめたのかというミステリとして、そしてスパイものとして大変スリリングで面白い。また、フランス映画『憎しみ』(マシュー・カソヴィッツ)をどことなく思い出した。もちろん背景は全然違うのだが、社会の中で抑圧された青年たちの疑心暗鬼と青春の終りの予感という部分で、なんとなく似通った空気があるような気がした。
 特に、スパイの悲哀や泥沼感を感じさせるのは意外だった。スパイは職業ではなく生き方だなんて言葉をどこかで聞いたことがあるが、こういうことなのか。一度スパイになったら敵からも見方からもスパイとして見続けられ、止めることができない。「足抜け」は出来ないし、させてくれないのだ。止めようと思ったら、ラストのようなことをせざるを得ない。これを、スパイ映画の主人公ではなく、ごく普通の青年であるオマールがやるので、余計にやりきれない。
 オマールはパン屋で働く、素行が特にいいわけでも悪いわけでもない、ちょっとハンサムなくらいの普通の青年だ。そういう人が「スパイ」を強制される世界なのだが、彼らにとっては日常の延長線上のことで、おそらく「普通」の範疇なのだろう。「普通」って、当たり前だけど個人によっても国や環境によっても大きく違うのだ。
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