3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画お

『俺たちポップスター』

 幼馴染のコナー(アンディ・サムバーグ)、オーエン(ヨーマ・タコンヌ)、ローレンス(アキヴァ・シェイファー)はヒップホップグループ“スタイル・ボーイズ”として一世を風靡した。しかしフロントマンのコナーが突然“コナー4リアル”としてッソロデビューしグループは解散。オーエンはコナー専属DJになったが今や名ばかり、ローレンスはスタイル~時代にコナーが功績を独り占めしたことを恨み、田舎に引きこもって農場主になった。人気絶頂のコナーは新アルバムをリリースするが世間からは酷評され、あの手この手で売り上げを伸ばそうとするが全て裏目に出る。監督はアキヴァ・シェイファーとヨーマ・タコンヌ。脚本はこの2人に加えアンディ・サムバーグ。主演の3人が監督・脚本を務めているのだ。
 コナーを追う音楽ドキュメンタリーの体で作られているのだが、カメラに向かってのコナーの喋りやスタッフの紹介、「お仕事」風景「プライベート」風景、そして随所に挿入される実在のミュージシャン、セレブたちのコメント(カメオ出演のみの人も。よく出てくれたなーと感心を通り越して呆れた。特にコックの人。扱いがひどい)。あっこういうの絶対前に見たことある・・・的なシチュエーションをパロディ化していて、アメリカの音楽ドキュメンタリーあるあるギャグみたい。当然、アメリカの音楽やポップカルチャー、セレブネタが多いので、よくわからないところもあったが(私はアメリカのポップカルチャーには明るくないので)、そこそこ音楽好きなら笑っちゃう部分は多々あると思う。音楽に関しても、スタイル・ボーイズの楽曲といいコナーのソロ楽曲といい、こういう安い感じの曲どこかで聞いた・・・というポピュラーさとダサさの兼ね合いが絶妙。そして歌詞がはてしなくバカバカしい。字幕で見るとバカバカしすぎて逆に笑えないのが痛かった。
 基本的にバカバカしいコメディなのだが、どこかもの悲しさもある。コナーの栄枯盛衰の「おかしくてやがて悲しき・・・」感に妙に説得力がある。また、3人が元々幼馴染の友人同士だという所が悲哀を増しているように思った。長年の友人を羨まなくてはならないのって結構しんどいと思う。純粋に仕事上のみの関係だったら、コナーとローレンスはこんなに拗れなかったんじゃないかな。ずっと子供時代の友情を信じ続けられるオーエンのメンタルの強さはんぱないわ・・・。

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『お嬢さん』

 1930年代、日本統治下の朝鮮。詐欺師たちに育てられた少女スッキ(キム・テリ)は藤原伯爵と自称する詐欺師(ハ・ジョンウ)に、メイドの珠子としてある屋敷に連れて行かれる。その屋敷に暮らすのは日本文化に傾倒し稀覯本を収集している上月(チョ・ジヌン)と、その姪で莫大な財産の相続権を持つ秀子(キム・ミニ)。上月はいずれ秀子と結婚して財産を手に入れることをもくろんでおり、秀子を屋敷に閉じ込めていた。藤原伯爵は秀子を誘惑、結婚してから精神病院に入れて財産を奪い取ろうと計画しており、秀子を懐柔する手駒としてスッキを送り込んだのだ。秀子は徐々にスッキに心を開くようになり、スッキもまた秀子に惹かれていく。原作はサラ・ウォーターズの『茨の城』、監督はパク・チャヌク。
 原作はイギリスの話なので、舞台の置き換えの大胆さにまずびっくり。日本統治下の朝鮮にすることで、支配・被支配関係が更に重層的、かつ錯綜した構造になっている。スッキたち朝鮮人は秀子ら日本人に支配されており、日本人に対する感情があまり良くないものであることが冒頭で示唆される。一方で朝鮮人だが日本人と結婚した上月は日本文化に傾倒し、日本人と自身とを同一化してきた。その上で日本人女性である秀子を支配しセクシャルな「朗読」を強いる。自分を支配している階層の女性を自分の情欲の為に使役するという倒錯的な構図を楽しんでいるのだろう。
 その階層や性別による上下関係を、女性達は軽々と飛び越える。この女性の共闘と遁走があることが、原作との大きな違いではないかと思う。彼女たちが、既存の欲望の形、自分達が欲望され消費される欲望のあり方から抜け出し、自分自身の欲望のあり方を掴んでいく。秀子が藤原に対して啖呵を切るあるシーンは、それを端的に表していたと思う。
 とは言え、ここで描かれる女性たちの姿に自由さを感じたかというと、少々微妙だ。本作での女性同士の愛情・性愛の描かれ方は、やはり女性達に欲望を向ける男性の視線によるもののように思う(監督がヘテロの男性である以上仕方ないのかもしれないが)。セックスシーンなど、何だかだらだらと長くて退屈だしレズビアンもののポルノのパロディみたいで、少々興ざめ。撮っている側ばかりが楽しくなっているような気がした。
 衣装にしろセットにしろ、美術面が豪華で素晴らしかった。これだけお金かけてこういう映画を作れるなんて、韓国の映画界の懐の深さを見た感がある。

『溺れるナイフ』

 東京でモデルをしていた15歳の望月夏芽(小松菜奈)は、父親が故郷で旅館を継ぐことになった為、海辺の田舎町・浮雲町に引っ越してくる。がっかりする夏芽だが、地元の名士である神主一族の息子・コウこと長谷川航一朗(菅田将暉)と知り合い、彼と強く惹かれあう。原作はジョージ朝倉の同名漫画、監督は山戸結希。
私は原作未読なのだが、長編のダイジェストっぽさは否めなかったと思う。一つ一つのシーンを取り出してみると、魅力的な部分はあるのだが、全体を通した映画の駆動力みたいなものが、いまひとつ弱いという印象を受けた。今見ているシーンの次のシーンがあまり気にならない(続きをもっと見たいという気持ちが沸いてこない)のだ。そのせいか、それほど長い尺ではない(111分)のにすごく長く感じた。
 ショットのつなぎ方に不思議な癖がある。えっそこで切るの?そこで繋ぐの?という感じで、ともすると細切れになっているような印象を受けた。序盤、夏芽がコウを発見するシーンで顕著だったと思うのだが、ロングとクロースを交互に配置して決定的な出会いシーンに近づけていく。タメを作って緊張感を増していく意図があったのかもしれないが、私はこういうつなげ方だと逆に気が散ってしまう。
 この出会いのシーンはおそらくものすごく重要で、ここで強烈に惹きあうものがあり2人が恋に落ちた、ということを観客に納得させないと、その後の展開、2人の言動が茶番に見えてしまう可能性がある(実際、私は茶番ぽくて耐えられない部分がいくつかあった)。これは、ダイジェストっぽい脚本の弊害なのかもしれないが。エピソードが断片的なので、2人の関係のダイナミズムみたいなものが途切れてしまうのだ。2人の関係、そして夏芽が人生の選択をどのようにしていくかという所が本作の肝と思われるので、これは大分残念。彼女の決断の重さみたいなものが薄れてしまった。重さが薄れているままラストを見ると、茶番感がすごくてなかなかに辛かったんですよね・・・。
 もっとも、すごくいいシーンもある。フォトジェニックな椿の花を咥えるシーンや、夜のバッティングセンター。夏芽とコウの同級生で、夏芽に思いを寄せる大友役の重岡大殻が健闘している。大友は非常にテンプレないい奴系当て馬系男子キャラだが、重岡の奮闘故か、生き生きとして実体感のあるキャラクターになっている。対して、主演級の菅田は、肉体性が非常に希薄で驚いた。他作品ではそんなことないので、演出上のオーダーだと思うのだが、生々しさを極力削ぎ落している。ヒロインである小松の肉感的な存在感とは対称的だった。

『オーバー・フェンス』

 離婚して、仕事も辞め函館に戻ってきた白岩(オダギリジョー)は、職業訓練校に通いながら失業保険で生活していた。ある日、訓練校の同級生・代島(松田翔太)にキャバクラへ誘われる。そこで出会った聡(蒼井優)は鳥の物まねが得意な風変りな女性だったが、白岩とは惹かれあうものがあった。原作は佐藤泰志の小説。監督は山下敦弘。
 山下淳弘監督が本作のようないかにも「映画のラストシーン」を採用する、しかもそれがハマっているというところに、なんだか感慨深くなった。てらいのない作り方をするようになったんだなぁと。成熟したということなのか。佐藤泰志の小説を映画化した「函館三部作」、『海炭市叙景』(熊切和嘉監督)、『そこのみにて光かがやく』(呉美保監督)に続く三作目ということもあるからか、未来への予兆がより強く感じられる。(原作通りなのかどうかわからないが)題名を象徴するようなシーンにしたかったのだろうか。
 白岩は一人で暮らし、訓練校でも人当たりは悪くないが周囲との距離を自分から詰めようとはしない。対人関係の距離感が広いのだ。対して、聡は相手との距離感が特に無茶苦茶だ。彼女のコミュニケーションは、相手との「間」がない。少し(聡にとっては少しではないのかもしれないが)相手と思いが通い合うと、相手の全てを知りたがる。普通、知り合ってからさほど長くない相手に(お互い好意がありセックスしたとはいえ)パートナーと別れた経緯を事細かに説明しろと要求はしないだろう。
 外堀を埋めずに中核にいきなり迫る聡の言動は、いくら彼女に対して好意があっても、耐えられない人もいると思う。やることが極端で、だいぶ厄介だ。白岩はおおよそ厄介ごととは関わりたがらなそうな人なので、この2人が惹かれあうというのは一見不思議だ。ただ、白岩も聡も形は異なれど、自分は駄目な人間だ、まっとうに世の中で生きていくのはしんどい、自分が生きる場は世間の縁の部分だと感じている部分が、2人を引き寄せたのかもしれない。
 ただ、彼らがいる場所は本当に縁なのか?ということを見ているうちに考えた。訓練学校の生徒たちは、まあうだつのあがらない面々で、一見、いわゆる豊かさとは縁遠いように見えるし、教官も彼らをそのように扱う。しかし生徒の一人で年長者の勝間田(鈴木常吉)は、教官に対して「外にはいろんな人がいるんだ」と諭す(このシーン、鈴木の語り口と真面目に話した後に茶化すタイミングとが素晴らしい)。また、白岩は自分と年齢が近く、一見チャラい原(北村有起哉)の自宅に泊まった際、そこに「日常」としか言いようがない時間が流れていることにしばし呆然とする。原は自分よりも圧倒的に「ちゃんとした」生活をしているのだ。
 「うだつのあがらない」とくくられた人達には、それぞれ自分の暮らす場所があり、個々の生活がある。それは当然のことなのだが、つい、教官のようにくくってしまいがちだ。白岩は自分は人間のクズだと嘯きつつ、生徒たちも似たようなものだと思っていたのではないか。だから、原が学校の「外」でいわゆる世間一般で言うような幸せな家庭を築いている姿を見てはっとするのだ。
 しかし白岩や聡、そして学校内であまりにいたたまれない存在に見えた森(満島真之介)にもまた、「外」に出ればまた違う生き方があるかもしれないのだ。いつでも「外」はある。だからフェンスを越えるのだろう。


『オマールの壁』

 占領状態が続くパレスチナに住む、パン職人のオマール(アダム・バクリ)。監視塔の目を盗み、時に銃撃を避けつつ、分離壁の向こう側に住む恋人ナディア(リーム・リューバニ)とその兄タレク(エヤド・ホーラーニ)、友人アムジャド(サメール・ビシャラット)に会いに通っていた。オマールはリーダー格のタレクと共に占領に対する反対運動に立ち上がったが、イスラエル兵殺害容疑をかけられ秘密警察に捕えられてしまう。拷問を受け、自由になりたければ仲間の情報を渡しスパイになれと迫られるが。監督はハニ・アブ・アサド。
 パレスチナという政治的な背景に目が行きがちだが、誰がオマールをはめたのかというミステリとして、そしてスパイものとして大変スリリングで面白い。また、フランス映画『憎しみ』(マシュー・カソヴィッツ)をどことなく思い出した。もちろん背景は全然違うのだが、社会の中で抑圧された青年たちの疑心暗鬼と青春の終りの予感という部分で、なんとなく似通った空気があるような気がした。
 特に、スパイの悲哀や泥沼感を感じさせるのは意外だった。スパイは職業ではなく生き方だなんて言葉をどこかで聞いたことがあるが、こういうことなのか。一度スパイになったら敵からも見方からもスパイとして見続けられ、止めることができない。「足抜け」は出来ないし、させてくれないのだ。止めようと思ったら、ラストのようなことをせざるを得ない。これを、スパイ映画の主人公ではなく、ごく普通の青年であるオマールがやるので、余計にやりきれない。
 オマールはパン屋で働く、素行が特にいいわけでも悪いわけでもない、ちょっとハンサムなくらいの普通の青年だ。そういう人が「スパイ」を強制される世界なのだが、彼らにとっては日常の延長線上のことで、おそらく「普通」の範疇なのだろう。「普通」って、当たり前だけど個人によっても国や環境によっても大きく違うのだ。

『おんなのこきらい』

 23歳のOLキリコ(森川葵)の取り柄は「可愛い」こと。男性たちはちやほやするが、同僚の女性達には概ね嫌われている。女の子の価値は可愛さだと信じるキリコは気にしないが、自分を特別扱いしない雑貨デザイナーの幸太(木口健太)と出会う。監督・脚本は加藤綾佳。音楽をてがけたふぇのたすが作中でも本人たち出演で曲を披露しており、時々ミュージカルっぽくなるのが楽しい。
 登場する男性たちがつまらないことばかり言うので辟易した。つまらない造形しかできないというより、あえて月並みでつまらないことを言わせている演出だとは思う(キリコの先輩社員の女性が言うこともさして面白くない)。キリコと衝突する幸太にしても、彼女の外面だけの「可愛さ」を指摘する言葉は、まあそういうことを言うでしょうねという退屈なもの。キリコはそういうことを散々言われてそうなものなのだが、一見もっさりした幸太に言われるとやはりショックなのだろうか。しかし表層の「可愛さ」を評価しない幸太の前では取り繕う必要がないので、キリコと幸太は徐々に打ち解けていく。
 キリコはすったもんだの末「変身」するが、実は彼女のスタンスは変わっていない。「可愛い」の演出方法が変わっただけで、やっていることは同じなのだ。これは救われないし危うい・・・と思っていたらさもありなんな展開で笑ってしまった。しかしこうならないと、キリコは無限ループから抜け出せないだろう。
 キリコは「可愛い」ものが大好きだし「可愛い」自分であろうとするが、その「可愛い」は彼女本人の為ではなく、相手の気を引く為の「可愛い」だ。キリコ本人が何を可愛いと思っていて何が好きなのかは、作中では言及されない。ラストの肯定の言葉が、今までとは違う何かを匂わせるが、彼女がどうなるのかはっきりとは提示されない。
 キリコが最後まで見た目しか可愛いくなく、性格が悪いままというところは潔かった。他人に対する想像力に欠けているので、これは好かれない(ターゲット以外には好かれる努力もしない)だろうなぁと納得できるのだ。また、可愛さで世間を渡ろうとしている割には可愛さ演出が雑で、専門学校時代に既に「可愛いが性格が悪い」と学内でバレていたというエピソードには笑った。脇が甘い!オフィスでも女性社員との険悪なやりとりを男性社員にばっちり聞かれているので、これはもはやモテないだろうと思うのだが・・・。

『女が眠る時』

 作家の清水(西島秀俊)は、海辺のリゾートホテルで妻・綾(山田サユリ)と過ごしていた。編集者である綾は近郊の作家を訪問し日中は不在だったが、作家業がスランプの清水は暇を持て余していた。ある日、初老の男・佐原(ビートたけし)と若い女性・美樹(忽那汐里)のカップルに興味を引かれた清水は、彼らを観察するようになる。原作はハビエル・マリアスの小説。監督はウェイン・ワン。冒頭、東映のロゴを見てからウェイン・ワンの名前を見ると、何か変な感じ。本作は洋画になるのだろうか邦画になるのだろうか。
 清水が佐原と美樹とを観察するが、2人を見ているというよりも、そこに何かしらのストーリーを重ねて創作しているように思えた。何かを「見る」ということは、「見る」のみではなく見る側による意味づけが必ず伴っている。清水が作家であることが、意味づけという側面をさらに加速していくのだ。彼が見ているのは自分の中にある物語であって、佐原や美樹そのものではないのかもしれない。覗き見をすることで清水の筆が進むのも当然のことなのだ。
 清水は佐原とも美樹とも、ことさら交流しようとすることはない。彼の欲望はあくまで「見る」ことにある。そして佐原もまた「見る」男だ。彼と美樹とは愛人関係のようではあるが、佐原の喜びは美樹に触れることではなく見る、そして記録することにある。それは清水が小説を書くことと、どこか通じるものもある。佐原と清水は表裏のようにも見えてくるのだ。しかし、見ることによって自分の中の物語(妄想ともいうが)を紡ぐことは、見る対象とのコミュニケーションにはならない。見ること/見られることは、お互いの絆にはならないのだ。見られる側は、やがて見る側から去っていく。
 清水と佐原が出会い、清水が佐原と美樹をのぞき見するようになる、そしてある事件が起きるという大まかな流れはあるものの、個々の要素の繋がりは非常に曖昧だ。どれとどれが同一線上の出来事なのか、だんだんわからなくなってくる。夢の中でまた夢を見ているような感覚だ。作中の出来事の大半は清水が佐原と美樹を見て想像した物語で、その物語の中の清水がまた別の物語を想像して、というようにも見えた。あえて曖昧なままにしてあることで、作家の頭の中はこんな感じかなという雰囲気が出ている。
 主演の西島もたけしも、本作の雰囲気には合っている。2人とも俳優としてはどこか曖昧でキャラクター性がはっきりしない、内面がない(だから見る側がいかようにも想像できる余地がある)ような雰囲気があるからか。

『オデッセイ』

 火星での有人探査を予想外の嵐が襲う。探査チームは計画を中止し火星を離れる決断をした。しかし植物学者のマーク・ワトニー(マット・デイモン)は事故により探査船に戻れなくなってしまう。ワトニーが死亡したと見なしたチームは火星を離脱するが、ワトニーは奇跡的に生きていた。火星に取り残されたワトニーは、通信手段はなく食料も限られている中、残された物資と科学者としての知識を駆使し、次に探査船がやってくる4年後まで生き延びるための戦いを始める。原作はアンディ・ウィアー『火星の人』、監督はリドリー・スコット。
 リドリー・スコット監督の映画を初めて心から面白い&好ましいと思ったよ・・・。本作、原作が滅法面白くて当ブログでも絶賛したのだが、原作の良いところを残しつつ、文章だけではどういう状況かわかりにくい所を映像で見せて、なるほどこういう作業をしていたのか!と納得させる、いい補完関係になっている。また、主演のマット・デイモンは正に適役。人柄の良さそうかつめげなさそうな雰囲気がばっちり。また、後半のげっそりとやつれた姿も説得力がある。肉が落ちてお尻が垂れてきている後姿は衝撃だったが、流石に(やつれすぎなので)ボディダブル使ったのかな?
 更に、原作では音楽が大きなポイントになっているのだが、その音楽を実際に流すことが出来ると言う点は、映画ならではの強みだろう。水なし、酸素ほぼなし、食料わずかという明日をも知れないシビアな状況なのに、鳴っている音楽は懐かしのディスコミュージック(探査チームの船長がディスコミュージックマニアで私物データを持ちこんでいる)というミスマッチだが、その曲がマークの置かれた状況をある意味説明しているので笑ってしまう。エンドロールもこの曲か!正にな!とうれしくなった。なお、最近様々な映画でデビッド・ボウイの曲が使われており、曲が流れてくる度にちょっと泣きそうになるのだが、本作もその一つ。選曲をあえてこれにするのかというところでも泣ける。
 火星に一人取り残されるというあまりの希望のなさなのだが、本作はディスコミュージック効果もあり、湿っぽくも深刻すぎもしない。これは、ワトニーの行動原理や人柄によるところも大きい。普通だったら茫然自失としそうな所、ワトニーは生き残る為に知識を総動員し、どうすれば事態を打開できるか考え続け、目の前の問題から一つずつ解決していこうとする。リアリストかつユーモアを持ち続け、その歩みを止めないのだ。それはワトニーを助けようとするNASAの職員たちや、火星探査チームの面々も同様だ。考え続ける力、そしてぎりぎりの状態でも他人を助けようとする思いやりと勇気が人間にはある、という信念が本作の背骨になっている。最後までリドリー・スコット監督作品らしからぬポジティブさ、人間への信頼がにじみ出ていて、原作と合わせて目頭が熱くなった。

『黄金のアデーレ 名画の帰還』

 アメリカに暮らす82歳のマリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)は、友人の息子である弁護士のランディ(ライアン・レイノルズ)にある依頼をする。マリアの伯母がモデルとなったクリムトの名作「黄金の女」の返還を求め、オーストリア政府に訴訟を起こしたいというのだ。「黄金の女」はユダヤ系であったマリアの一族が所有していたが、第二次大戦中にナチスに略奪され、マリアと夫はアメリカへ亡命したのだ。監督はサイモン・カーティス。
 マリアは元気で魅力のある女性ではあるが、「出来た」人というわけではない。ランディへの依頼は最初は強引なものだし、意外と言葉が辛辣だし、気分にもムラがある。一方ランディも、“いい人”ではあるが、マリアには辟易している向きもあり、大金が手に入るかもという打算がないわけでもない。そんな2人が徐々にチームとして噛み合っていく。その契機は、マリアが自分の過去と祖国に対してどういう思いを抱いてきたのかに、ランディの思いが及んだ所にあるのだろう。ランディもユダヤ系でオーストリアからの亡命者の家系なのだが、戦中のことはよく知らない。マリアの話を聞き、オーストリア政府と対面して、ようやく自分たちの祖父母の代がどのような思いを抱いてきたか、想像するのだ。
 祖国から見捨てられたと感じているマリアは、祖国と縁を切り、そこで味わった屈辱や苦しみを封印したのだろう。だからオーストリアに戻ることを強く嫌がるのだ。しかし過去に蓋をするということは、そこで生きていた家族の記憶、幸せだった記憶にも蓋をするということにもなる。マリアはアデーレの肖像を取り戻そうとすることで、過去ともう一度関係を作り直すのだ。終盤、過去の一番輝いていた時間がマリアの前にありありと現れる。これにはぐっときた。
 ナチス、そしてそれに加担した人たちの蛮行は、マリアたちから祖国を奪うだけではなく、それまでの一族の過去、個人の思い出まで奪うことになった。それはとても残酷なことなんだと、具体的に暴力的なシーンは少ないながらも実感させる、スマートな演出だったと思う。

『お盆の弟』

 5年前に1本だけ映画を撮った映画監督、渡邊タカシ(渋川清彦)は、ガンで入院していた兄マサル(光石研)の看病の為帰省していた。といっても看病とは名ばかりで、実のところは妻(渡辺真起子)に別居を言い渡されていたのだ。売れないシナリオライターの友人・藤森(岡田浩暉)に、編集者の淳子(河井青葉)を紹介されたタカシは、度々彼女と会うことになるが。監督は大崎章。脚本は『百円の恋』がブレイクした足立紳。
 はー身に染みる!タカシの結構な年齢なのに怖がり、面倒くさがりで前に進めないところが、実に身に染みる。未だ何者にもなれず、どうにかなる為の一歩さえ踏み出せないところも非常に身に染みる。映画業界の人なら更に身に染みるのではないだろうか。タカシは料理も家事も色々こまめに動くが、それは働き者だということじゃなくて、映画に関わる仕事を続けるのかどうかという問題から目を背けているということだ。妻はそれをわかっているから、タカシにぐさりと突き刺さる一言を放つ。妻はタカシが主夫をやっていること自体を責めているのではない。主夫をやるのもイクメンをやるのももちろんいいことなのだ。ただ、それをやっている自分に酔うな、言い訳に使うなということなのだろう。タカシの見込みが甘いことに対するいらだちなのだ。
 タカシの友人・藤森は、タカシ以上にさえないしイタい人に見える。が、タカシがうだうだとしている一方で藤森は本気でふんぎりを付けるし、かっこわるくてもあがく。彼の姿には、本作と同じく足立が脚本を手がけた『百円の恋』の主人公を、どことなく思い出した。終盤、藤森がタカシにかける言葉は予想外にぐっとくるのだ。映画業界であがいている人たちは、やっぱりこういう言葉をかけてほしいんじゃないかなぁ。
 モノクロ映像の涼しげな雰囲気が、タカシのこっけいさ、情けなさからちょっと距離を取ってイタさを緩和している。これ、自分に迫り過ぎるとちょっときつい話だよな。
 タカシの妻の造形がいい。単純にタカシに愛想が尽きたというわけではない。タカシが甘えたままでは夫婦関係は続けられないが、友人ではあるし、何より娘の父親ではあるとちゃんと整理しているところがいい。演じる渡辺も実にはまり役。上のこもり過ぎない、さばさばした感じがよかった。

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