3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画お

『王国(あるいはその家について)』

 出版社勤務の亜希(澁谷麻美)は休職し、実家へ帰省する。小学校から大学まで一緒に通った幼馴染の野土香(笠島智)の新居を訪ねる為でもあった。野土香は大学の先輩だった直人(足立智充)と結婚し小幼い娘・穂乃香がいた。監督は草野なつか。脚本は『ハッピーアワー』(濱口竜介監督)を手掛けた高橋知由。
 おそらくドラマ映画としての脚本があるのだが、俳優の読み合わせを映画化してしまう、つまり完成した演技の表出はほとんどされないという思い切ったスタイル。同じシーンを何度も読み合わせることで俳優が役を掴んでいき、何テイクも繰り返される中でその都度ニュアンスが異なる。この役柄はどういう人なのか、この役とあの役の関係性はどういうものなのかということが、同じシーンの反復の中で立ち上がってくる。同時に、俳優の解釈次第で物語のニュアンスが変わってくるという、映画における物語の不確定さが浮かび上がってきて非常にスリリングな映画体験だった。人が演じている以上、テイクが重なる中で同じものは生まれないのだ。映画に対するメタ映画といってもいいかもしれない。
 一方、作中のドラマ内での人間関係もスリリングだ。ある大きな事件が起きたことが冒頭で語られるが、その背景にはどういうものがあったのか、同じシーンが繰り返される中でなんとなくわかってくる。3者の会話は一見変哲のないものだがどこか不穏だ。人と人が深い関係性を築くとそこに「王国」が生まれる。その「王国」にいる人の間でだけの共通言語があり、属していない人には共有できない。目の前でそういう状況が展開していたら疎外感を感じ、時にいたたまれなくなるのでは。人と人との間に深い絆が出来るということはそれ以外を疎外することでもある。そういった流れがどんどん浮き上がっていく所に本作の凄みを感じた。

文学ムック ことばと vol.5
吉開菜央
書肆侃侃房
2022-04-20


ハッピーアワー [Blu-ray]
川村りら
NEOPA
2018-05-18


『オペレーション・フォーチュン』

 敏腕エージェント、オーソン・フォーチュン(ジェイソン・ステイサム)は、「ハンドル」と呼ばれる謎の兵器の闇売買を阻止・回収するミッションの依頼を受ける。依頼元であるMI6のコーディネーターのネイサン(ケイリー・エルウィズ)、アメリカ人ハッカーのサラ(オーブリー・プラザ)、新米エージェントのJJ(バグジー・マローン)とチームを組んで作戦に着手したフォーチュンは、億万長者の武器商人グレッグ(ヒュー・グラントに接近しようと試みる。警備を突破する為、フォーチュンは映画スター、ダニー・フランチェスコ(ジョシュ・ハートネット)を巻き込む。グレッグはダニーの大ファンなのだ。監督はガイ・リッチー。
 ものすごく切れがいいとか新鮮味があるというわけではなく、まあどこかで見たような話ではあるのだが、逆にそこがいい。ほどほどの面白さとコンパクトさで安心して見られる娯楽映画といった感じで、ほっとする。全編ユーモラスで楽しかった。
 本作の見所はとにもかくにもヒュー・グラントだろう。面白すぎる。グレッグは商魂たくましく少々品のないオジサンというキャラクターだが、グラントはちょい下卑た優男を演じると抜群に上手い。実に楽しそうに演じている。本作の真の主人公はグレッグと言っても過言ではないし、おそらく監督もそのつもりだろう。しかもグレッグ視点だとスパイアクションではなく、いわゆる「夢小説」(読者が特定の登場人物の視点になってキャラクターとの関係性を楽しむ創作小説。主に二次創作で使われる形態)が実現したような話だというところがすごい。推しが自分のパーティーに来て、更に自分の屋敷に来て一緒に食事してドライブしてついには押しが「君ってすごいね!」と自分に心酔してくれるという、正に夢か?!という話なのだ。グレッグはダニーのガールフレンドという設定で同行してきたサラをナンパするが、彼が真にいちゃいちゃしたいのはダニーだよな!その上でのクライマックスとオチなので、もうグレッグ大勝利である。よかったなぁ。
 ところでフォーチュンは贅沢好きでミッションの度にビンテージワインをせしめているという設定なのだが、ステイサムはあまり贅沢好きな雰囲気を出してこないので、妙に違和感があってちょっと笑ってしまった。絶対高い服着ているはずなのに高い服に見えない。そこがステイサムのいい所なのだが。新人設定のJJの方がゴージャス感あるんだよな。

キャッシュトラック(字幕版)
ジェフリー・ドノヴァン
2021-12-08


ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]
ジェイソン・ステイサム
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2015-12-25


『オオカミの家』

 チリ南部の美しい山並みの中、「助け合って幸せに」生活するドイツ人集落があった。集落に暮らす少女マリアは豚を逃がしてしまった為に厳しい罰を受け、耐えきれず脱走する。森の中の家に逃げ込んだマリアはそこで出会った2匹の子豚にペドロとアナと名前を付けて世話をするが、森の奥からマリアを探すオオカミの声が聞こえてくる。監督はクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ。
 「コロニー」の宣伝用映像という体で作られている作品で、『骨』といいモキュメンタリー的、メタ的視点の取り込みを好む作風の監督なのだろうか。本作はチリに実在したネオナチのコロニーを題材にしており、かなり取材もしたそうだ。アニメーションという技法の性質上、現世のこととして印象を与えるには観客をより巻き込む仕掛けが必要ということだろうか。ただ、コロニーの宣材としてこれ成立するのか?むしろ信用度がた落ちなのではないかという気もするが…。
 マリアが育てる子豚はやがて人間の姿になる。最初は黒髪の子供たちだったが、マリアが与えるはちみつによって金髪碧眼の子供、ナチスが理想的なアーリア人としてさらってきたという子供の姿になる。現地の子供を洗脳していくわけだが、おそらくマリア自身がされてきたのと同じことを子豚=子供たちにしているわけで、せっかく逃げ出したのに逃げ出した元の再生産をしてしまっているという皮肉さがあった。成長した子供たちが最後にマリアにしたことを見ると、オオカミだったのは果たしてどちらなのかと思えてくる。
 ストップモーションアニメーション作品なのだが、やっていること自体はわかるけど何かもうすごいことになっているな!と唸らざるを得ない。平面と立体とを併用としているという話は聞いていたのだが、併用ってこういうこと?!と呆気にとられた。部屋の壁に描けば平面だ!という理屈はわかるんだけど作業工程を考えると気が遠くなりそう。人形の構造もこういう形で平面→立体へつなげるのかと唸った。一見雑に見えるのだがこの作り方だから不気味さが増すという面がある。立体も平面も一つの形を維持せずに随時フォルムが揺らぎ続ける。この変容し続ける様に惹きつけられた。人の知覚の曖昧さとか一定でなさと重なってくる所があって、見ている側の不安を掻き立て続ける。

チリ夜想曲 (ボラーニョ・コレクション)
ロベルト・ボラーニョ
白水社
2017-09-26





コロニアの子供たち
ノア・ヴェスターマイヤー
2023-08-01



『大いなる自由』

 第2次世界大戦後のドイツ。ハンス(フランツ・ロゴフスキ)は男性同性愛を禁じる刑法175条のにより、繰り返し投獄されていた。同房になったヴィクトール(ゲオルク・フリードリヒ)はハンスを変態扱いし嫌悪するが、ハンスの腕に彫られた番号を見て、彼がナチスの強制収容所から刑務所へ送られてきたことを知る。何度懲罰房送りになっても己を曲げないハンスと、長年収監され刑務所内の振る舞いのノウハウを持つヴィクトールとの間には協力関係が築かれていく。監督はセバスティアン・マイゼ。
 ドイツでは1871年から1994年にかけて男性間の同性愛行為を禁じる175条という刑法があったそうだ。恥ずかしながら初めて知ったのだが、1994年まで存在していたというのは衝撃だ。本作は男性用公衆トイレの隠し撮りであろうショットから始まるのだが、警察が同性愛者を取り締まる為にトイレの隠し撮りをしていたというわけだ。しかし、語弊のある言い方かもしれないが赤の他人のセックスをなぜそこまで必死になってあげつらうのか?という空恐ろしさを感じる。
 同性愛者であるハンスは何度も投獄されるのだが、それは彼が人を愛することをやめない、愛する自由を諦めないということでもある。ヴィクトールがハンスに心を開いていくのも、その信念を曲げない姿に打たれていくからだろう。とは言えハンスとヴィクトールの関係は最初から友情と断言できるものではないし、何らかのカテゴリー付けがしにくいものでもある。同情、思いやり、打算、尊敬、嫌悪等。そしてそういうものをひっくるめて一つの愛の形と言えるのではないか。中庭でのハンスの行動に対するヴィクトールの反応は、あれこそ愛であり人の心の自由ではないかと心揺さぶられるものだ。
 しかし本作の題名はあまりに皮肉だ。心の自由を守る為にあれだけ心身を削ったのにあのラストとは…。まだまだ「大いなる自由」には遠いのだ。更に刑務所に長年入っていたというのがどういうことかよくわかるし、人の心身の在り方を法が規定することの残酷さが強烈に感じられる。

希望の灯り(字幕版)
ラモナ・クンツェ=リブノウ
2020-11-06


WEEKEND ウィークエンド(字幕版)
ローラ・フリーマン
2020-06-03


『OLD JOY』

 配信で鑑賞。小さな街で妊娠中の妻と故郷で暮らすマーク(ダニエル・ロンドン)。ある日、地元を離れていた旧友カート(ウィル・オールダム)から久しぶりに電話が掛かってくる。再会した2人は温泉があるというポートランドのはずれの山へキャンプ旅行に出かけるが。監督はケリー・ライカート。2005年製作。
 マークとカートは車でキャンプ地を目指すが、2人の旅路はどうもぱっとしない。久しぶりに旧友に会うと、ライフスタイルがお互い親しかった当時とは変わっており、話題がかみ合わないということはよくあると思う。マークはもうすぐ父親になるという立場だが、カートは独り身。地元に暮らし続けているマークと、どうも特定の生活拠点を持っていないらしいカート。段々価値観や興味の対象も変わってくるだろう。2人のやりとりにはどこかかみ合わなさ、危うさが感じられる。車中の背景で聞こえるG・W・ブッシュの再選ニュースや、民主主義の衰退を嘆く声など、不穏な要素がじわじわ迫ってくる。こんな状態で楽しいキャンプができるのか?と不安が募るばかり。
 友達がずっと友達のままで居続けるのは難しい。それぞれの背景や自分に紐づくもの、家族や仕事や経済状況が変わってしまうと、関係性も変わっていく。マークとカートも、かつてのような関係には戻れないかもしれない。それでもマークを思いやり肩をマッサージするカートの姿には、彼らがかつて築いた関係がまだ響いている。ただ、それぞれの生活に戻っていく2人の姿を見ると、もう会うこともないのではとも思えるのだ。時間の経過には抗えないという関係性の儚さを感じた。

OLD JOY
Kino Lorber films
2007T


Husbands (Criterion Collection) [DVD]
Jenny Lee Wright
Criterion Collection
2020-05-26


 

『オフィサー・アンド・スパイ』

 1894年、ユダヤ系のフランス陸軍大尉ドレフュス(ルイ・ガレル)は終身刑を言い渡され遠方に投獄された。ドイツに軍事機密を漏洩したという、スパイ容疑で有罪になったのだ。対敵情報活動部門に赴任したピカール中佐(ジャン・デュジャルダン)は、業務改善に励む中でドレフュスの無実を示す証拠を発見する。彼の冤罪を確信したピカールは上官に対処を迫るが、隠蔽を図ろうとする上層部に妨害されてしまう。ピカールは友人の弁護士や新聞社に支援を求め、軍と対決する。フランスで実際に起きた「ドレフュス事件」を元にしたロバート・ハリスの小説が原作。監督はロマン・ポランスキー。
 王道の歴史ドラマであまりひねったことはしていないのだが、そのストレートさが逆に新鮮だった。しばしば過去シーンが挿入されるのだが、ぼやーっと画面がぼやけて現在と過去を行き来するという、最近あまり見ない古典的な場面転換。古典的なことを真っ向勝負でやっており、ともするとやぼったく見えそうなところが逆に良かった。
 ドレフュス事件はフランスにとっては歴史上の恥という話を聞いたことがあったが、(物語化されているとはいえ)本作で描かれる経緯を見ていると確かに恥だろう。当時のフランスは反ユダヤ主義が根深く、ユダヤ人のドレフュスは最初から「裏切者」扱いをされる。有罪の根拠となるのは数点の書簡なのだが、文面からはドレフュスと直接的に結びつけるには弱く、筆跡鑑定もいいかげん。ドレフュスの冤罪が固いと思われても、一度有罪にした手前覆しては軍の沽券にかかわる、余計なことはするなと握りつぶされてしまう。どこかで聞いたような話ばかりだ。権力と面子ばかりが厚くなった組織はどこの国・時代でもやはり腐るのか…。ラストも決してすっきりしない。やはり権力は監視しないと!文書は残さないと!と強く感じる顛末だ。
 ピカールは自分の地位を投げうってドレフュスの冤罪を晴らそうとする。とは言え、ピカールは真面目な軍人だが清廉潔白というわけでもなく、友人の妻とずっと不倫していたりする。またユダヤ人であるドレフュスに対して特に同情的というわけでもない。普通に「君も反ユダヤだろ」と言われたりしている。ただ、事情が何であれ証拠の捏造は間違っている、やっていないことで罰せられるいわれはない、というごくごくまともな感覚の持ち主なのだ。そのまともさを崩さずに維持できた、組織の欺瞞に飲まれなかった所が彼の強さだったのだろう。一方でドレフュスも特に愛すべき人物とは描かれていない。冒頭、終盤でピカールへの質問と要望が反復されるのだが、ここにドレフュスの人柄が色濃く表れているように思った。もっともこの時の彼の態度は、ユダヤ人ということで不当に扱われおそらく危険な目にもあってきた経緯があったからこそなのだろうが。


ドレフュス事件とエミール・ゾラ 告発
稲葉 三千男
創風社
1999-11-01



『オルメイヤーの阿房宮』

 シャンタル・アケルマン映画祭にて鑑賞。東南アジアの密林にある小屋で暮らす白人男性のオルメイヤー(スタニスラス・メラール)。現地女性との間に生まれた娘を溺愛し、白人としての教育を受けさせようと外国人学校に入れるが、娘はその環境になじめず寄宿舎を飛び出す。原作はジョゼフ・コンラッドの同名小説。監督・脚本はシャンタル・アケルマン。2011年製作。
 原作小説は未読なのだが、おそらく原案程度の使い方で、大幅にアレンジしてあると思われる。時代は一応現代寄りとわかるが、地域については明言されていない。妻がマレーシア生まれという言及があったような気がしたが…。妻はオルメイヤーには全く心を開かず、オルメイヤーも妻を愛することができない。彼にとって妻は異物でコミュニケーションをとれる相手ではないのだ。その分、自分の血をひいた娘を自分の仲間として溺愛していくのだが、娘には娘の文化があり、お互い一方通行だ。異国に住む白人と二つの文化の間に生まれた娘の相剋がはっきりと表面化していく。
 オルメイヤーは娘を愛しているというが、彼の愛は娘が後に言うように言葉だけで、行動が伴わない。娘の為に何かをしたかというと、何もしていない(娘の学費は妻の白人の養父が出していた)。そもそも娘が寄宿学校にいる間、一度も会いに行かなかった。何をもって愛していると言っているのか、よくわからないのだ。更に、彼の言葉だけの態度・形骸化した言動は、家の主としての態度にも見られる。彼は自分がヨーロッパ人である自負を持ち現地の人たち・現地の文化を見下している。典型的な植民地の白人的な態度だ。しかし実際は、現地の使用人たちの助けがないと日常生活もままならないし、財産を手に入れる為に現地のテロリストの力を借りようとさえする。自負に力が伴っていないのだ。植民地に対するヨーロッパという図式はあるのだが、ヨーロッパ側が優越している部分が見えてこない。支配していた側の幻想だけが漂っているようだ。船上で無理やり「ショパン」を歌う姿は滑稽で悲しくなってくる。現地の力の方が強いのだ。

オルメイヤーの阿房宮 (コンラッド作品選集)
ジョウゼフ・コンラッド
八月舎
2003-11T


『王女メディア』

 イオルコス国王の息子イアソンは、父から王座を奪った叔父ベリアスに王位の返還を求める。ペリアスが王位返還の条件として提示したのが、コルキス国にある金の羊皮の入手だった。羊皮を求めコルキス国を訪れたイアソンは、コルキス国王の娘メディア(マリア・カラス)の心を射止め、彼女の協力を得て羊皮を入手する。メディアと共に隣国コリントスに逃れたイアソンは、国王に見込まれ国王の娘と婚約してしまう。監督はピエル・パオロ・パゾリーニ。1970年製作。
 エウリピデスによるギリシア悲劇「メディア」を原作とした作品。20世紀を代表するソプラノ歌手マリア・カラスが主演しているが、メディアという強烈な女性像にはまっている。王女というより女王の貫録なのだが、彼女でないとこのいく所までいってしまうというメディアの復讐譚に説得力が出なかったのでは。また、ロケ地の魅力も強烈。トルコのカッパドキア地区・ギョレメの岩窟群がコルキスとして使われているのだが、魔術が実在していそうな宗教国家の不思議な雰囲気を醸し出している。ピエロ・トージによる衣装も非常に手が込んでいて美しく、とにかく豪華だ。
 異国の神話の世界のようなエキゾチックな世界づくりを目指した作品だと思う。使われている音楽もイラン、チベット、インド等の民族音楽。日本の地唄や筝曲も使われているのだが、見ている側はなまじルーツや言語がわかるだけにちょっと笑ってしまうような奇妙さも感じた。これはイランやインドの人が見ても似たような印象を受けるのかもしれない。あくまでパゾリーニが考えた神話的世界なので、そういう意味ではほかの文化圏の人が見たらやや無神経に感じられるかもしれない。古代=魔術=女性というイメージの繋げ方も今見ると少々安易でさすがに古臭く思えた。
 ギリシア悲劇の不条理さ・人間の運命への抗えなさと、パゾリーニの作風は相性がいいのではないか。作中時間構成とか舞台の移動とか、かなり強引に見えるところもあるのだが、ギリシア悲劇という枠があるとそれが不自然に感じられないところが面白い。


『おらおらでひとりいぐも』

 75歳の桃子さん(田中裕子)は夫に先立たれ、子供たちとも疎遠になり孤独な一人暮らし。図書館で図鑑を読みふけり、46億年の生命の歴史をノートに記すうち、心の中の「寂しさ」たち(濱田岳、青木崇高い、宮藤官九郎)が姿を現し話しかけてくる。原作は若竹千佐子の同名小説、監督は沖田修一。
 これはもう傑作では?!原作小説をこういう形で映像化するとは!と唸りまくりだった。芥川賞受賞作である原作も方言による語りが解放感を与えておりすごく良かったのだが、映画は更に突き抜けた自由さがある。冒頭、恐竜たちの世界から哺乳類が生まれ原人が誕生し現在に至るという、いきなり壮大な始まり方なのだ。地球の歴史と桃子さんの個人史とは地続きなのだ。更に、桃子さんの心の中の声がそのままキャラクターとして具現化する。この「寂しさ」たちが自由奔放に動き、桃子さんの心の声のグルーヴ感を表現していく。「寂しさ」を演じるのが男性俳優(キャスティングが絶妙だった)だというのも面白い。桃子さんの精神が性別、ジェンダーからも解放されているのだともとれる。桃子さんは亡き夫・周造(東出昌大)の前では可愛い女、献身的な妻、母として振舞ってきた。それは故郷を飛び出した桃子さんが目指していた「新しい女」とは真逆の在り方だったろう。しかし1人になったことで、桃子さんは再び「新しい女」、というか性別関係なく桃子さんという一個人になっていく。彼女の生活は孤独と言えば孤独なのだが、精神の中には常に自分の声が響き、自分の中でボケ・ツッコミが展開する。ボケが始まった狂気混じりの世界と見る人もいるだろうが、むしろ自分を俯瞰する冷静な視線があるように思った。地球の歴史、桃子さんの過去と思い出、そして今現在の自分と自分の心の声たち、全部ひっくるめて桃子さんだ。夫も子供もいなくなっても、最後の最後まで自分には自分がいる。大切なのは愛よりも自由だ。そういう意味では孫の存在で生命の繋がりを演出するラストは少々蛇足だが。
 原作の語りをどのように映像で見せるか、という点でとてもユニークだったと思う。特に脳内自分リサイタルは最高だった。寂しさたちとのジャムセッションも、お供を引き連れた墓参りも、突き抜けた自由さがある。

滝を見にいく
黒田大輔
2016-10-05


おらおらでひとりいぐも (河出文庫)
若竹千佐子
河出書房新社
2020-06-26



『オン・ザ・ロック』

 作家のローラ(ラシダ・ジョーンズ)は夫ディーン(マーロン・ウェイアンズ)と2人の子供と暮らしている。ディーンは同僚女性との出張や残業が相次いでおり、もしや浮気?と疑い始めたローラは、プレイボーイな父フェリックス(ビル・マーレイ)に相談。フェリックスはこの事態を調査すべきと張り切り、ローラと共に素人探偵を始める。監督・脚本はソフィア・コッポラ。
 夫の浮気疑惑を相談するくらいだからローラは父親ととても仲がいいのかというと、そうでもない。浮気を繰り返してきた父に母もローラも苦しめられてきた。浮気について相談するには実体験豊かというわけだ。とは言え、彼は楽しい人ではある。フェリックスは画商でリッチ、かつ趣味が良くユーモアがある。父、夫としては失格でも遊び相手、祖父としてはかなり良いと言える。だが人生を託す相手、共に歩むパートナーにはなれない、というのがフェリックスの在り方であるように思った終盤、彼の自分本位な考え方が露わになってかなり退くのだが、当人は自分が不誠実だという自覚は全くないだろう。
 ローラは自分では認めていないだろうが、かなりの父親っ子なのだと思う。彼女の価値観はフェリックスとは違うが、趣味の良さや芸術に対する造形の深さは通じるものがある。何より、彼女は自分たちの元を去った父に愛してほしいという渇望を捨てられていないように見えた。そんな彼女が、自分は誰と人生を共に歩むのかを再確認していく。腕時計の使い方が非常にわかりやすく象徴的だった。
 一方、ディーンはフェリックスといまひとつウマが合わないらしいと示唆される。フェリックスがローラを溺愛しているからというのもある(冒頭のモノローグがなかなかの気持ち悪さだ)が、バックグラウンドの違いも大きいだろう。作中ではっきりとは言及されないが、おそらくローラの実家はそこそこ富裕層。フェリックスの身なりも実家のお茶会も、お金、しかも成り上がりではなく生まれた時からお金がある層特有の洗練と趣味の良さがある。ローラ当人はいつもボーダーシャツにジーンズというスタイルだからわかりにくいが、「良いもの」に囲まれた育成環境だったのだろう。その環境で培われたものには、なかなか追いつけない。ディーンはそこそこ稼いではいるみたいだが、やはり彼女の豊かさとは意味合いが異なるのだ。彼が終盤にローラに漏らす言葉は、そんなことを想っていたのか!というものなのだが(少なくともローラにとっては思いもよらないことだろう)、2人の背景の違いが反映されたもののように思った。


ロスト・イン・トランスレーション [DVD]
ジョバンニ・リビシー
東北新社
2004-12-03


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