3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画え

『永遠のジャンゴ』

 1943年、ナチス占領下のパリで、ギタリストのジャンゴ・ラインハルト(レダ・カテブ)は毎晩のように満席のホールを沸かせていた。しかしナチスによるジプリー迫害は厳しくなり、ジプリー出身であるジャンゴの身も危うくなる。昔馴染みのルイーズ(セシル・ドゥ・フランス)の手引きでスイスとの国境にほど近いトンン=レ=バンに身をひそめるが、そこにもナチスがやってきた。ジャンゴはナチス官僚が集うパーティーで演奏しろと命じられる。監督・脚本はエチエンヌ・コマール。
 ジャンゴの演奏は聴いていると踊らずにはいられないものだ。しかしナチスは「踊らせる」要素、音楽の高揚感は悪しきものとして扱う。ジャズは黒人の音楽だからダメ、演奏しながら足でリズムを取るのはダメ、シンコペーションは5秒以内等、アホじゃないかというオーダーなのだが、ナチスは大真面目だ。音楽を過大評価しているようにも思えるが、人の心を煽るもの、熱狂させるもの、そして自分たちにコントロールできないものの力を危険視していたというのは分かる。だったらもっと早い段階でジャンゴも取り締まられていそうなものだが、ナチスの中にも音楽好き、ジャズマニアはいて、彼らが後ろ盾になっている。統制のとれたナチスという組織の中からも、音楽という要素によりはみ出てくるものがある。ある種の抗えなさが、音楽の力なのだろう(逆に、音楽の高揚感が人々の統率に使われることもあるが・・・)
 クライマックスで、ジャンゴはギター1本でナチスに対抗しようとするのだが、彼の音楽が高まっていくにつれ、その場の雰囲気がだんだん「ナチスの官僚が集う会」からずれていき、高揚が拡散されて乱痴気騒ぎ感が強まっていく感じにはワクワクする。ジャンゴのヒーロー性が発揮されるシーンでもある。しかし、彼が音楽で救えるのはほんのわずかなものだ。彼が作曲するジプシーの為のレイクエムは、自分と音楽が見殺しにしてしまった存在への贖罪でもあったのだろう。
 逮捕されたジャンゴが、体の測定をされるシーンがある。体を勝手に触られる、解釈されるのは、強い屈辱であり傷つくことだ。こういうシーンを見ると体温がさーっと下がる気がする。



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2011-10-29



『エンドレス・ポエトリー』

 故郷トコピージャから首都サンティアゴへ移住したホドロフスキー一家。父ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)は商売に明け暮れ、息子アレハンドロ(アダン・ホドロフスキー)にも家業への参加を強いるが、アレハンドロは詩人としての道を歩みだす。監督はアレハンドロ・ホドロフスキー。
 『リアリティのダンス』の続編となる、ホドロフスキー監督の自伝的映画。父と少年時代の息子アレハンドロの物語だった前作から引き継がれ、今回は青年時代のアレハンドロが旅立つまでの物語となる。撮影はクリストファー・ドイル。色が鮮やかかつ透明感があり、ホドロフスキーのちょっとどろみのある作風を中和しているように思う。本作、映像にはっとするシーンがいくつもあった。カーニバルの群衆シーンは高揚感あり素晴らしい。同じ群衆シーンでもファシズムの予兆と不吉さ満載の行進シーンと、セットで本作を象徴する映像になっていると思う。
 冒頭、「書き割り」による過去の街が出現し、ハリボテの汽車が動き出す瞬間にはっとした。ああこれが映画だ!という感じがしたのだ。作りものである、しかし現実よりもより輪郭がくっきりしているというような。本作はホドロフスキーの実体験が元になってはいるのだろうが、あくまで自伝「的」なものであって、フィクションだ。ホドロフスキー個人の体験となった時点で、その出来事はホドロフスキー個人のフィルターを通したフィクションになっているとも言える。そのフィクションを映画として再構築したのが本作で、冒頭の過去の街の現れ方は、それを明瞭に表していると思う。
 自分の体験、人生を咀嚼し直し、再構築することはフィクションの持つ機能の一つだろう。本作では特に父親との関係に如実に現れている。母、あるいはアレハンドロのミューズであった女性たちとの関係は、彼にとって不可解ではあるが都合のいいものとしての側面が目立った。しかし、父親はコントロールの範疇外であり理解の糸口も見えない。最後のシーン、ホドロフスキーは実生活での父親との和解には至らなかったそうだが、だからこそこうせずにはいられなかったんだろうなという切実なものがあった。

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タロットの宇宙
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『エイリアン コヴェナント』

 地球が滅びつつある時代、人類移住計画を託された宇宙船コヴェナント号には、コールドスリープ状態の乗組員の他、長い航海の間、船の管理を任されているアンドロイド・ウォルター(マイケル・ファスベンダー)が乗船していた。しかし船にトラブルが起き、乗組員たちは予定外にコールドスリープを解除される。人間からと思われる信号を辿り未知の惑星に辿りつくが。監督はリドリー・スコット。
 私はエイリアンの造形とシチュエーション(密閉空間で次々に襲われる系)がとにかく苦手で、エイリアン3部作はTVで放送されている時にちらっと見ている程度(しかし『エイリアンVSプレデター』は劇場に見に行っていることを思い出した・・・あれはちょっと別枠ですよね)、前作『プロメテウス』は当然見ていない。更にリドリー・スコット監督作品自体が苦手で、はっきりと面白いかつ好きだと思えたのは『オデッセイ』のみ。しかし本作を見た人たちの反応がどうにもおかしなことになっているので、気になって挑戦してみた。
 結論から言うと、エイリアン初心者の目からも「それ、エイリアンいります・・・?」的案件だったように思う。確かに、前3部作におけるエイリアンがいかに生まれたかという話ではあるのだが、それ以外の部分に熱が入りすぎていて、『エイリアン』的部分が取って付けたような作り。ホラー映画のお約束的展開で、意外性もないしなぜいきなりこれを?という疑問ばかり膨らむ。SFとしても『オデッセイ』撮った(まあ原作が良くできていたわけだけど・・・)人とは思えない杜撰さ。近年のSF映画では、未知の惑星に降り立つ時には(大気の成分調査済みであっても)外気を遮断するヘルメットの装着はもはやセオリーだと思うのだが、本作はいきないノーヘル。これにはのけぞった。上陸後もそれは環境汚染では?逆に宇宙船内を汚染することになるのでは?と突っ込み所がありすぎる。つまり、撮る側がこういう部分はわりとどうでもいいと思ってるんだろうなぁ・・・。
 本作のメインはデイヴィッドの創造主病というか、クリエイションに対する妄執だろう。オリジナリティは持たないはずの「作りもの」が自分の創造主をエサにして新たな創造主になろうとするわけだが、それをエイリアンと絡める必然性て、あまり感じないんだよな・・・。
 なお俳優陣に関してはファスベンダー独り勝ち。ウォルターとデイビッドをちゃんと演じ分けているのには感心した。そもそもファスベンダー以外を魅力的に撮ろうという意欲が見受けられない。

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『エルネスト もう一人のゲバラ』

 1962年、ボリビアからキューバのハバナ大学医学部に留学したフレディ前村エルタード(オダギリ・ジョー)は、キューバ危機の最中にチェ・ゲバラ(ホワン・ミゲル・バレロ・アコスタ)と出会い心酔していく。やがて祖国ボリビアで軍事クーデターが起きる。フレディはゲバラの部隊への参加を決意する。監督は阪本順治。
 革命という言葉からイメージするような劇的なドラマはなく、1人の青年の大学生活、そして背景となる時代の動きを描く青春ドラマとして見た。特にキューバ危機をキューバはどのようにとらえていたのかと言う、内部からの視線は興味深かった。冒頭、ゲバラが広島訪問をするエピソードがあり、それをわざわざ入れるの?と思ったのだが、ここにつなげてきたのかと。
 青春ドラマとしても大分控えめ、情感抑え目で一見地味な作品ではあると思うし、時代背景をある程度知らないと何が起きているのかわからない(ゲバラがどういう人かということと、キューバ危機くらいは知らないときついかも)所もあるだろう。とは言え、フレディがどのような人であるか、ということはかなり丁寧に描いているように思う。
 フレディの行為に対して同級生が「彼の両親は立派だったんだな」とコメントするシーンがあるが、ああいった行為を親の教育、振る舞いの賜物と見なすんだなとはっとした。そういう感覚って、今はあまりなくなったんじゃないかなと。フレディの言動の端々から生真面目で責任感が強い人柄が窺える。そして、多少経済的に余裕のある、「ちゃんとしたおうち」に育ったということが徐々にわかってくる。
 ただ、彼の真面目さと経済的背景が、裏目に出ることもある。同級生に「君には本当の貧しさはわからないだろう」と言われるシーンがある。同級生はとにかく早く医者になって家族を食わせなくてはならないと必死で、フレディのように学生運動に参加している余裕はない。国のこと、政治のことは生活の余裕あってこそ考えられるということか。フレディは責任感によって行動しているわけだが、相手にとっては施しに見えることもある。そしてこのギャップが、最後にしっぺ返しとなってくるのだ。これは、ゲバラにも通じるものではなかったかと思う。断絶を埋めようとするものだったろう行為が、更に断絶を可視化し深めるものになってしまうのだ。
 フレディは個性が突出していたりカリスマ性があったわけではないが、道端の小石にすぎなくとも善良な一個人として生きようとしたのだろう。しかし、やはり何者かになりたかったんだろうなとも思える。呼び名として与えられた「エルネスト」の名は、与えた側にはさほどの意味はなかったかもしれないが、フレディにとってはやはり大きな意味があった。そこが何だかやるせなくもある。

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『エル ELLE』

ゲーム会社のCEOミシェル(イザベル・ユペール)は、自宅で覆面をした男に襲われレイプされる。被害に遭った後も今まで通り出勤し仕事をこなしていくミシェルは、友人たちに事件のことを報告する。警察への通報を勧められるが、彼女はかたくなに拒む。彼女には警察を毛嫌いする理由があったのだ。原作はフィリップ・ディジャンの小説『oh・・・』。監督はポール・バーホーベン。
 画期的なヒロインであると大絶賛されるのと同時に、レイプ被害の経緯の描き方に問題があると批判もされたという前評は聞いており、どんな問題作なんだろうと思っていたら、あれ?案外普通・・・。ドラマの見せ方は手堅いのでそれなりに面白いが、斬新さや強烈な何かは感じない。確かにレイプ被害に関する、主に犯人との関係の部分が変な誤解をされかねない描写なので(意図的に複数の解釈ができるような演出にしているのだとは思うが)、そこは批判されるだろうなというのはわかる。ただ、私にはミシェルがごく普通の人物であるように見えたし、彼女の行動も特に特異なものではないように思った。
 ミシェルは平均よりはしっかりとした、頭のいい人として描かれているが、特別に意思が強いとか、モンスターのようであるという印象は受けなかった。理不尽なことがあれば怒るし、攻撃されたら身を守ったりやり返したりするし、気に入らないことは気に入らないし、やりたいことはやる。こういうのは普通のことだろう。それとも、こういう態度は普通ではないと取られるのが一般的なのか?だとしたら随分とカルチャーショックがあるな・・・。
 ミシェルはそれなりに意志は強くやりたいことはやる人だが、相応の躊躇や迷いもある。彼女がレイプされたと知っていながら「俺は気にしないから」とばかりにセックスしにくる愛人にややうんざりしながらも、結局は相手をする件など、結構流されていて意外だった。また、頼りない息子を結局甘やかしてしまうところも、やはり流されている。全面的に強いというわけではないのだ。そういう所を含め、実に普通だと思う。
 特異さを感じさせるのは、むしろ引っ越していく「彼女」だろう。別れ際の一言の背後にあるものを考えると、ちょっとぞっとする。そこでなぜ食い止めないの!と。少なくともミシェルは食い止めようとしているわけなので。「彼女」が支えにしているものを思い返すと、これまたぞっとする。それは、ミシェルの父親をある行為に駆り立てたものと同じところに根差すのだ。結局自分勝手な希求、解釈を否めない類のものなのかもしれない。
 ところでユペールは、母親と多かれ少なかれ確執のある役柄を演じることが多いように思う。本作も「母親が大変」物件でもあった。ただ、母親との関係は悪いけど母親に抑圧されている感じではないので、そこは他の作品とは一味違うかなと思う。そもそも本作はそれ以上に「父親が大変(どころじゃない)」物件なんだけど・・・。ミシェルが自分を縛るものをどんどん排除していく話なので、そこは爽快だった。

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『エゴン・シーレ 死と乙女』

 1910年、美術学校を退学したエゴン・シーレ(ノア・サーベドラ)は仲間と「新芸術集団」を結成。妹ゲルティのヌード像を描き続けていた。さらに褐色の肌のモデル・モアの肖像画で注目を浴びる。敬愛するクリムトから赤毛のモデル・ヴァリを紹介されたシーレは製作に励むが、スキャンダルを起こしてしまう。監督はディター・ベルナー。
 第一次正解大戦末期のウィーンで病に倒れたシーレと妻エディットの元をゲルティが訪れるというシーンから始まる。そこから過去に遡り、時々現在の病床のシーレのエピソードに戻るという構成。シーレの人生の終盤から遡るという構成は悪くはないのだが、時代転換のタイミングが唐突で、切り替えがぎこちないように思った。切り替えの起点となるキーみたいなものがいまひとつ見つからない。これだったら、若い頃から晩年へと時間順でもよかったんじゃないかなという気もする。
 シーレは16歳の妹をヌードモデルにしていたが、妹との絆は少々深すぎ、危うい。冒頭、裸のゲルティとシーレがじゃれあう姿はセクシャルなものとして意図されていると思う。また、ゲルティはシーレが新しいモデルとしてモアに夢中になると強く嫉妬するし、シーレはシーレでゲルティがいざ結婚しようとすると猛反対する。ゲルティの結婚相手が自分の友人であることも、ゲルティが妊娠していることも許せないのだ。まだ結婚は早すぎる!21歳までダメ!って言うけどじゃあ16歳でヌードモデルさせるのはいいのかよ・・・と突っ込みたくなる。お互いに強い執着心を持っており、結局ゲルティは最後までシーレにつきあう。
 シーレはモアにもヴァリにも執着し、特にヴァリとは仕事上の頼りがいあるパートナー的な関係である様子が見て取れる。実際のヴァリは17歳の少女だったようだが、本作のヴァリは年上の女性風で、モアやエディットよりはぐっと頼りになりそうだし「ちゃんとした」大人っぽい。しかし、シーレの彼女たちに対する執着や愛情は、あくまでモデルというオブジェクト、セックスできる対象に対するもので、彼女らにそれぞれ別個の意思と欲望があるという意識があまりなさそうだ。ヴァリとエディットに「そりゃ怒るよね・・・」とため息つきたくなるような提案をする(史実だそうだ)のも、人間の心の機微が今一つわかっていないからかも。
 また、彼のスケッチにはゲルティより更に若そうな少女のヌードもあるのだが、相手の属性をあまり考えず描く対象としてしまう傾向がありそう。彼の作品には多分に性的な要素がある(本人は美術だと主張しておりそれはその通りなのだが、セクシャルな視線はあるだろう)から面倒なことに・・・。少女に告発されるエピソードは史実だそうだが。自分の行為が相手にとって、また社会的にどういう意味を持つか等考えずに製作に打ち込むというと芸術家肌っぽく聞こえるが、巻き込まれたり尻拭いをせざるを得なくなった側は大変だろう。作中のシーレはとにかく自分のこと、自分の芸術のことしか考えない人として描かれている。「新芸術集団」の仲間が創作を止めた時に激怒するのも、彼に才能があったからというより、自分が理想とする芸術家像からずれたからで、ゲルティの結婚に怒るのと同じなのだ。

『エリザのために』

 医師のロメオ(アドリアン・ティティエニ)は、イギリス留学を控えた娘エリザ(マリア・ドラグシ)を学校に送っていくが、いつもは学校の前まで送るところを手前で下した。しかしエリザは学校へ向かう間に暴漢に襲われてしまう。大事には至らなかったがショックを受け、留学の可否を決める試験に挑めそうもない。何としても娘を留学させたいロメオは、ツテとコネを駆使して裏取引を図る。監督はクリスティアン・ムンジウ。
 現代のルーマニアを舞台にした作品だが、もうコネと賄賂と汚職の世界!現代の韓国映画を見ているとコネ社会である様子がしばしば揶揄されているが、ルーマニアはそれ以上のように見える。良くも悪くも社会がこぢんまりとしていて、便宜を頼みやすいし頼まれやすい。断りたくても断れない空気があるんだろうなぁ。ロメオは民主化に失敗した母国に失望し、エリザをイギリスに行かせようとしているそこにしか未来への希望はないと考えているのだ。彼のなりふりかまわなさは、自国への絶望の反映でもあり、それがなんとも辛い。
 しかしそれ以前に、ロメオがエリザの話をちゃんと聞かない所が気になった。彼女が本当に留学したいのか、何をやりたいのかは、語られることがないしロメオがそれを尋ねることもない。また、暴行を受けてショックを受けているはずの彼女への対応が雑すぎないか。試験がどうなるかよりも、まず他に心配することあるだろ!と色々突っ込みたくなる。ロメオは頭では娘が傷ついているとわかっているのだが、どういう心情かというところはあまりぴんときていないようだ。娘のために必死なのは十分わかるのだが、娘がそれによってどういう心情になるのか、彼女のその後に精神的にどういう影響があるかは、あまり考えていないように見える。
 ロメオは悪い人間ではないし医師としては誠実と評されているが、妻や娘、また愛人に対しては独善的な面が見られる。彼のやることは概ね「よかれと思って」なのだが、その「よかれ」を決めるのは自分であり、相手とちゃんと向き合っていないのだ。妻に対しても愛人に対しても娘に対しても、彼女らには彼女らなりの指針があり人生があるということが、いまひとつ呑み込めていないようで、何ともいらいらする。本作における時代や国を越えて普遍的な部分は、この鈍さではないかと思う。ああこういうお父さん(だけじゃないけど)いるわ・・・というげんなり感がつのるのだ。

『エンド・オブ・トンネル』

 未体験ゾーンの映画たち2017にて鑑賞。事故で妻子を亡くし、自身は車椅子生活になったホアキン(レオナルド・スバラーリャ)は、自宅に引きこもっていたが、2階にストリッパーのベルタと幼い娘が間借りすることになる。ある日、ホアキンは地下室で奇妙な音を聞く。地下にトンネルを掘って銀行強盗を企む男達がいたのだ。好奇心から彼らの行動を監視し始めたホアキンだが、ベルタも彼らの仲間だと知る。ホアキンは彼らから現金を横取りしようと計画を立て始める。監督はロドリゴ・グランデ。
 ベルタが押しかけてきて、彼女とホアキンの距離が徐々に近づいていく前半は、ストーリーをどこに着地させるのかよくわからず、ちょっと捉えどころがない。ホアキン自作の監視システムの出来が妙にいいし、車椅子とは言え意外と機動力あるしで、出来すぎな感じもするのだ。銀行強盗たちの言動にしても、パーツを出すだけ出しておいてなかなか嵌めていかずに放置しっぱなしという印象。
 ところが、後半急に話が大きく動きだし、ラスト20分くらいで怒涛の伏線回収が始まる。前半にちょこちょこと出てきたあれやこれやは、この為だったか!と唸る。ストーリー構成としてはいびつなのだが、強引にどんどん回収していく気持ちよさがあり、つい笑ってしまう。いやー溜めたね!冒頭に仕込んだままだった「あれ」が登場すると、待ってました!という気分になってくる。
 ホアキンがなぜ車椅子生活なのか、妻子はどうなったのか等は、さほど詳しく説明せず、映像でさらっと匂わせる程度。それでも、彼の喪失感とそれ故の捨て鉢な生活であるということがよくわかる。見せすぎない良さがあった。荒れていた家の中が、ベルタの生活が定着するにつれ片付いていくところも、2人の関係の変化を思わせる。
 ホアキンにしろベルタにしろ、いわゆる善男善女ではないところがいい。ホアキンはベルタを救い出したいという気持ちはあるが、自分の計画の邪魔になると判断したらそれなりの処置をする。ベルタも自分と娘が最優先。ドライと言えばドライだし、それぞれの欲と打算がある。そういう人たちであっても、損得を越えて行動してしまうことがある。それ故ラストが清々しい。

『エブリバディ・ウォンツ・サム!世界はボクらの手の中に』

 1980年代。野球推薦で大学に入学する新入生のジェイク(ブレイク・ジェナー)は、野球部の寮に向かった。到着するなり4年生のマクレイノルズ(タイラー・ホークリン)とルームメイトのローパー(ライアン・グスマン)に絡まれるが、他の先輩らも変わり者ばかり。途中編入してきたマリファナ愛好者のウィロビー(ワイアット・ラッセル)、自信と実力が見合わないナイルズ(ジャストン・ストリート)、ギャンブル狂のネズビット(オースティン・アメリオ)、気はいいが田舎者とバカにされている“ビューター”ことビリー(ウィル・ブリテン)。新学期が始まるまでの数日間、ジェイクは部の仲間とバカ騒ぎを続ける。制作・脚本・監督はリチャード・リンクレイター。
 私にとってリンクレイター監督の作品は、すごくぐっとくる時もあるけど(『スクール・オブ・ロック』『スキャナー・ダークリー』等)、イラついてどうしようもない時もある(『ビフォア~』シリーズ)。本作は残念ながら後者だった。冒頭、ジェイクがうっきうきで入寮してくるあたりから、あーこの先ずっとこのテンションなのかなーと不安になっていたが、ずっとこんな感じだった。群れてバカをやっているシーンが続くとさすがにうんざりする。総じて騒がしすぎ、酒飲みすぎ、セックスしようとしすぎでげんなりした。いやー80年代アメリカで大学生じゃなくてよかった・・・。もちろん彼らのように羽目を外しっぱなしな若者ばかりじゃなかっただろうが、現代の大学生ってアメリカであれ日本であれ、こんなに遊びほうけられないんじゃないかな。ジェイクたちを見ていると、いい気なもんだよな、という気分になってしまうのだ。
 ジェイクたちが楽しむのはとにかく「今この時」であり、未来にはさして不安もなく、世界は無事稼働しているように見える。彼らには根拠のない無敵感があり、それがこの先も続くかのようだ。
 しかし、そんな日々でもほころびが見えることもある。新学期が始まる前に野球部を去る人もいる。彼は、「今この時」をやめられないまま延々と過ごしてしまった人なのだ。彼のエピソードがちらりと入ることで、ジェイクたちの「今この時」は終わりのあるもので、いつかは大人の世の中に出ていく。大学生活はその前の猶予期間みたいなものだよなとしみじみした。そう思うと、バカ騒ぎをしておいて正解ということでもあるか。
 なお、ジェイクはいわゆる脳筋バカではなく、文学や音楽の素養があるが、これは監督の青春時代を投影しているからかな?だとしてもキャラ設定ちょっと盛りすぎ(そこそこイケメン、野球の才能あり、文科系の素養あり、意外とかしこい)だぞ!

『エル・クラン』

 1980年代、独裁政治が弱体化に向かい、徐々に民主政治を取り戻していた時期のアルゼンチン。マルビナス戦争(フォークランド紛争)の結果政府が転覆し、政府の情報管理官として働いていたアルキメデス・プッチオ(ギレルモ・フランセーヤ)は失職してしまう。プッチオ家の長男で有望なラグビー選手のアレハンドロ(ピーター・ランサーニ)は、友人と車に同乗していたところ、覆面の男たちに襲われる。彼らは友人を拉致して車のトランクに入れ、アレハンドロは助手席に移された。覆面を取った助手席の男は、父・アレハンドロだった。アレハンドロは誘拐による身代金強奪をビジネスにしていたのだ。そしてアレハンドロモもそのビジネスに徐々に参加していく。監督はパブロ・トラペソ。製作をペドロ・アルモドバルが手掛けたことでも話題になった。第72回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作品。
 何が怖いって本作、実話に基づいている(アルゼンチンでは結構有名な事件みたい)ということだ。更に、エンドロール前の字幕内容には震える。悪い奴ほどよく眠る、とはよく言ったものだけど、アルキメデスは自分のことを「悪い奴」とは思っていなかっただろうし、自分に正当性があると信じ続けた(最初は葛藤があったのかもしれないけど、自分で自分の嘘を信じ込んでしまう様に)のではないか。そして家族はそこに巻き込まれ、あるいは選択してその欺瞞に乗っかっていった。
 アレハンドロは基本的に善良な青年なのだが、父親の犯罪に加担していく。最初は嫌々ながらではあるのだが、参加を断れないまま、なんとなく続けてしまうという風なのだ。父親が彼にとって強力な存在であることに加え、アレハンドロ自身のだらしなさというか、踏ん切りのつかない性格が事態を悪化させているように見えた。基本いい奴なんだろうけど・・・と何とも歯がゆい。
 ただ、アルキメデスの家族に対する影響力・支配力は大きく、アレハンドロがそこから抜け出せないのも無理はないとは思う。生まれた時から「こういうもの」として育っていくと、それ以外の家族の在り方というのは想像できなくなっていくのかもしれない。一家は決して仲が悪いわけではなく、むしろぱっと見は和やかでいい家庭だし両親も子供たちも愛し合っているのだが、だからこそ問題の根が深い。父親の「仕事」に嫌気がさしてきたアレハンドロに対する母親の言葉にもぞっとした。子供を心配するような言葉でさらに絡め取っていくのかと。止めるという選択肢はないのか。こういう関係から抜け出すには、物理的に距離を置くしかないんだろうなぁ。そういう点で、一見弱弱しい三男が一番タフだったと思う。
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