3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画え

『エターナル・ドーター』

 特集上映「A24の知られざる映画たち」にて鑑賞。映画監督のジュリー(ティルダ・スウィントン)は年老いた母ロザリンド(ティルダ・スウィントン)を連れて、人里離れたホテルにやってくる。このホテルは子供の頃にロザリンドが暮らしていた建物を改築したものだった。ジュリーはこの場所で、母についての映画の構想を練ろうとする。しかし執筆は難航する。監督はジョアンナ・ホッグ。
 スウィントンが1人2役をこなしている。一見その必要ある?と思うかもしれないが、ちゃんと意味がある構造だ。本作、序盤でこれはあのパターンだなと気付く観客も多いだろう。それほど独創的な設定でもない、比較的ストレートなゴシック風ドラマの作りだと思うのだが、俳優の力と、舞台となる古い屋敷の場の力とで雰囲気が出ている。このネタだったらもうちょっと短くてもいいのではと思わなくもなかったが。
 ジュリーはロザリンドに対してあれこれ世話を焼くが、彼女がよかれと思ってやることは本当に母の意に沿っているのかわからない。母も娘もお互いに「あなたがいいと思うことがいい」というスタンスで、相手を尊重しているようでいて実際のところは堂々巡りなのだ。ジュリーがロザリンドに対して甲斐甲斐しすぎるように見えるが、ジュリーは母の期待に沿えなかったのではという不安を抱えており、それ故の行動だと徐々にわかってくる。いくつになってもそういう葛藤は終わらないものなのか。彼女の母親に対する思いの深さ、諦められなさが刺さってくる。
 ロザリンドが手紙類を整理するといってビニール袋に入れて持ち歩く所や、ホテルでクリスマスカードを量産する所など、妙なリアリティがあってちょっと怖かった。なぜわざわざバカンス先で?みたいなものを持っていくというの、私の祖母も母もやるんだよな…。

アザーズ (字幕版)
アラキナ・マン
2023-11-11


ホットミルク (新潮クレスト・ブックス)
デボラ・レヴィ
新潮社
2022-07-27




『エリザベート1878』

 1877年のクリスマスイブ。40歳の誕生日を迎えたオーストリア皇妃エリザベート(ヴィッキー・クリープス)は、厳格な皇室の作法や形式的な公務に耐えられなくなっていた。宮廷での生活にも息苦しさを感じ、イングランドやバイエルンを旅して旧友や元恋人を訪ね歩く日々を送るが。監督はマリークロイツァー。
 エリザベートはもちろん歴史上の実在の人物だが、本作は厳密な歴史ものというわけではない。現代の視線による切り口でエリザベートのある数年間を描き、作中には存在しなかったはずの物品や音楽が登場する。しかしあまり違和感はない。むしろ映画を見ている側は現代人として見ているわけだから、逆に現代の要素が入ることでエリザベートが置かれた環境の出口のなさ、彼女の抱えるフラストレーションがより迫ってくる。
 エリザベートは当時ヨーロッパ宮廷一の美貌とうたわれていたが、当時の40歳は一般的な女性の平均寿命。若いころの美貌や肉体的な魅力は失われつつある。しかし彼女に求められるのは見た目の美しさ、皇妃というアイコンとしての姿だ。彼女の言動は知的好奇心旺盛で、意志が強く行動的・情熱的なもの。そういう側面は現代の私たちには魅力的に見える。しかしそれらの資質は皇妃に求められるものではない。
 それ故にエリザベートの日常は概ね息苦しく退屈そうだ。エリザベートがコルセットを付けるシーンが繰り返し出てくるが、「もっときつく」と「こうであれ」とされる体型に向かって締め付ける姿は、肉体的な苦しさ(本当に呼吸困難で失神するくらい苦しいらしい)と精神的な苦しさ両方の象徴になっている。退屈・鬱屈の原因が彼女の中ではなく、彼女が置かれている社会の側にある、個人の努力ではどうにもならないという所が実に息苦しいのだ。彼女に求められるのは美しく貞淑な妻かつ愛情に満ちた献身的な母親としての在り方だが、そこには嵌りきれない。これは現代の女性にも通じる問題だろう。なおエリザベートは母親として子供たちを愛してはいるのだが、割と愛情が一方的というか、子供に寄り添ってはいないように見えた。特に幼い娘との関係にはそれが顕著で、娘の方がかなり保守的で変化を嫌うというあたり、こういうケースはままありそうだなと思った。
 エリザベートの生活は出口のないものだが、側近の女官や女性召使たちとの関係にはほのかなシスターフッドを感じた。時にユーモラスでもあり作中の風通しを良くしている。ただ、この息苦しさを突破しようと思ったらそういう方法しかないのかというやるせなさが最後には迫ってきた。

ファントム・スレッド (字幕版)
ダニエル・デイ=ルイス
2019-07-07



ミス・マルクス(字幕版)
フィリップ・グレーニング
2022-02-01



『AIR エア』

1984年、ナイキ本社に勤めるソニー・ヴァッカロ(マット・デイモン)は、CEOのフィル・ナイト(ベン・アフレック)との縁で、バスケットボール部門を立て直すために起用された。しかし当時のバスケットシューズ界ではコンバースとアディダスが市場を独占しており、ナイキは企業規模としても弱小と言ってよかった。ソニーと上司ロブ・ストラッサー(ジェイソン・ベイトマン)は、まだNBAデビューもしていない新人選手マイケル・ジョーダンに着目し、彼との契約という賭けに出る。監督はベン・アフレック。
 80年代の雰囲気がかなり出ているのではないか。冒頭、一気に「この時代ですよ」とアピールしてくる映像と音楽の数々は野暮と言えば野暮だが、この物語の時代、背景に一気に引き込まれていく納得感はある。そういえばベン・アフレック監督作『アルゴ』でも時代感はよく出ていた。こういう部分の演出が上手いのだろうか。アフレックは映画に出る人としてよりも、映画を製作する人としての方が少しだけ才能が多い気がする。手堅くまとめられていて面白い作品だった。
 ナイキのエアジョーダンがいかに生まれたかという実話を元にしたストーリーだが、社運をかけた一発逆転劇がギャンブルすぎて、よくこれで成功したなと唸ってしまう。前述の通り、当時のナイキはバスケットボールブランドとしては今一つで、ジョーダン本人にナイキは絶対履かないと言われるくらいだった。更に、今だからジョーダンは大スターだとわかっているわけだが、当時の彼は有望視されている選手で各メーカーから声がかかっているとはいえ、まだ学生で将来は未知数。そこに社運を賭けようというソニーらの決意と奮闘は見ていて応援したくなってくる。プロジェクトとしてのエピソードと決断の積み上げの見せ方が上手いので、見ている側のテンションも上がってくるのだ。交渉の最後の最後でソニーがとった行動が、ある偉人のエピソードと被ってくるという構成も小気味よい。あそこが伏線だったのか!と。ただ、ソニーが本当にギャンブラー(カジノの常連)だというのには笑ってしまう、と同時に本当に大丈夫か?と心配になるのだが。
 本作で描かれた交渉が後のスポーツ用品ビジネスを大きく変え、ナイキの大躍進に繋がるという歴史ドラマでもある。非常にアメリカ的な成功譚だ。ただ、限定モデルの品薄商法やシューズが投機対象になりもはや履くものではなくなっている現状、また途上国での労働問題等、企業としてのナイキが抱える諸問題が広く知られるようになった現在では、素直に眩しい物語として見ることは難しい。また、当時のアメリカのバスケットボール界、またマイケル・ジョーダンがどのくらい凄いのかを多少知らないとぴんとこない話ではあると思う。逆にアメリカではジョーダンの凄さは言うまでもなく知られているということだろうが。

アルゴ (字幕版)
ジョン・グッドマン
2013-03-13


SHOE DOG(シュードッグ)―靴にすべてを。
フィル・ナイト
東洋経済新報社
2017-10-27





『エンパイア・オブ・ライト』

 1980年代初頭のイギリス。海辺の町マーゲイトの古い映画館・エンパイア劇場で働くヒラリー(オリビア・コールマン)。支配人エリス(コリン・ファース)とは腐れ縁的な愛人関係にあるが、代わり映えのしない日々を送っていた。ある日、新人スタッフとして黒人青年スティーヴン(マイケル・ウォード)が加わる。ヒラリーとスティーヴンは徐々に心を通わせていく。彼との交流を通して、ヒラリーは生き生きとした日々を取り戻しつつあったが。監督はサム・メンデス。 
 全く接点がなかった2人が惹かれ合うという所が美しいのだが、年齢差が大きい、特に職場の(かなりゆるいが一応)上司と部下という関係だと、ともするとハラスメントになりかねないので見ていてハラハラしてしまう。本作の場合はお互いの間で何かが搾取されるという感じがあまりしないので、私にとってはぎりぎり許容範囲という印象。ヒラリーとスティーヴンは年齢も性別も人生の背景も全く違う。ヒラリーは、黒人であるスティーヴンが日常的に何に脅かされているのか、彼が2人の関係が知られるのはまずいという時、彼女が考える「まずさ」とは危機感の度合いが違うのだということには今一つぴんときていない(ヒラリーは世の中の動きには疎く、スティーヴンに新聞を読んだ方がいいと言われるくらいだ)。一方でスティーヴンも、独り身の女性として生きてきたヒラリーの苦労や「奪われ続けてきた」という感情、そして彼女が抱える過去に根差す傷については理解が及ばないだろう。
 ただ、意に沿わぬ境遇に甘んじているという部分、そしてジャンルは違うが文化芸術を愛するという部分は共通しており、そこが響き合い、お互いへの思いやりを生む。だからスティーヴンの母親もぎこちなくだがヒラリーを許容するのだろう。とは言え2人の関係は、映画館、しかも少々寂れた、滅びゆく運命を予感させるような映画館だからこそ成立したようにも思う。映画館は夢を見る場所だ。そして映画が終わったら出て行かなければならない。束の間の夢を見てもういちど歩き出す場所としての映画館なのではないだろうか。
 映画を扱う映画は色々とあるが、どちらかというと映画を作る側のモチベーションの方がよく描かれるように思う。本作の特徴は、映画を見る側、見ることができるようになった側の物語であるということだ。そして、映画を見るという行為は本質的には一人で経験するもので、分かちえないものなのではとも思った。一人と一人で2人にならない、というヒラリーとスティーヴンの関係にも重なるものがある。


アメリカン・ビューティー [Blu-ray]
クリス・クーパー
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2012-07-13





『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』

 夫婦でコインランドリーを経営しているエヴリン(ミシェル・ヨー)は税務申告を目の前に悪戦苦闘していた。税務署を相手にするだけで大変なのに、呆け気味の老父(ジェームズ・ホン)はやってくるし、娘ジョイ(ステファニー・スー)との関係はぎこちないし、夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)からは離婚を切り出される。そんな彼女の前でウェイモンドが豹変。自分は別宇宙から来た「アルファ・ウェイモンド」で、全宇宙にカオスをもたらす強大なジョブ・トゥパキを倒せるのはエヴリンだけだと伝えに来たというのだ。監督はダニエルズ(ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート)。
 一方では自宅(店)を行き来する1日というミニマムな話なのに、もう一方では全ユニバースをまたにかけて混沌と闘い世界を救うという壮大な話が展開される。そしてその2つが別々の話ではなく一体になっているという奇妙なSF(というには大分立て付けが緩いのだが一応SFではある)。実はあなたは選ばれた存在で、というのは各種ファンタジーの王道展開だが、あなたがへまをやればやるほど他のユニバースのあなたは成功するんです!というマイナスをプラスに転換するような運命の分岐の肯定の仕方がユニーク。ただ、他のユニバースの自分は成功しても今ここの私はみじめなままじゃないかという思いは出てきそうだ。そこを本作は、それでも今この自分の人生を選ぶのだと断言するところが強い。今に繋がる自分の選択を、他の「あったかもしれない世界」と同等に否定しない。
 この肯定感を支えるのが古典的な家族の物語であるという部分は賛否が割れそうだが、エヴリンが古典的な家族観の中で生きてきた(故に苦しいこともある)人である以上、仕方ない所かなとは思う。(多分に東アジア圏的な)母と娘の関係が軸になっている所も古典的ではあるのだが、娘の立場で見ると結構刺さる。母を疎ましく思う気持ち、この母で良かったという気持ちと、自分が娘で母は満足だったのだろうかという不安とがまぜこぜになっており、こういう気持ちが身につまされる人も多いのでは。なぜ世界を救うのがエヴリンなのか?というよりも、ジョブ・トゥパキ=ジョイが求めているのが何だったのか?という部分の方が先に来ているのだと思う。
 本作、世界を救う主人公が60代アジア系女性という所が斬新(こういうのが斬新と思われない世の中だといいのだが)だが、同時に、その夫であるウェイモンドがいわゆる「男らしい強さ」を持たない男性である、それを受け入れた人物であるという所も新しい。彼の持つ力は優しさと忍耐、旧来の価値観だとどちらかというと女性の美徳とされていたものだ。税務署で寄り添う老夫婦を見て羨ましそうにするロマンチストさには、見ているこっちもきゅんとする。キー・ホイ・クァンが演じることで、更に魅力的な男性像になっていると思う。

スイス・アーミー・マン Blu-ray
ポール・ダノ
ポニーキャニオン
2018-02-21


黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)
イーユン・リー
河出書房新社
2021-05-14



『エゴイスト』

 ファッション誌の編集者として働いている浩輔(鈴木亮平)は、田舎町でゲイである自分を押し殺したまま成長した。上京後は自由気ままな生活を送り、実家に戻るのは母の命日くらいだった。ある日、ゲイ仲間の紹介で、パーソナルトレーナーの龍太(宮沢氷魚)と出会う。浩輔と龍太はひかれ合い、龍太の母(阿川佐和子)とも親しく交流することになる。母子家庭の育ちで母を支え続けている龍太を、浩輔は支えたいと願う。しかしある日、待ち合わせの場所に龍太は現れなかった。原作は高山真の自伝的小説「エゴイスト」。監督は松永大司。
 浩輔は元々の気質もあるのだろうが、龍太に色々と「してあげたい」人だ。してあげるだけではなく、物品や現金もいろいろとあげる。彼はそれを自分のわがまま、「エゴ」だという。愛と言ってしまうと重い、だからエゴだということなのだろうが、愛情故の行為であっても与える側、与えられる側があまりにはっきりしている、一方通行になっていると与えられる側にとってはどんどん負担になっていくのでは。見ていて結構はらはらした。龍太も色々事情はあるとはいえ基本真面目なので、やはり負担ではあったのでは。浩輔と対等でいる為に無理を重ねたとも見えるので、なかなかにやり切れないものがある。浩輔と龍太はある意味格差カップルなのだが、「持っている」側は自分が持っていることに無頓着だったりするよなと。
 浩輔は龍太の母親に対してもまた、色々と「してあげる」。彼の支え方は他人の親に対してはともすると過剰と思えるくらいだ。彼はそれもまた自分のエゴだからというエクスキューズを置く。しかしこれ、結構しているカップルだと往々にして普通にやっている(強いられている)ことなんだよなとはたと気付いた。結婚制度って実は奇妙なものなのでは。

エゴイスト (小学館文庫)
高山真
小学館
2022-08-05


トイレのピエタ 豪華版 [Blu-ray]
古舘寛治
松竹
2015-10-14



『エンドロールのつづき』

 インドの田舎町で、チャイ売りの父親と母親、幼い妹と暮らす9歳の少年サマイ(バビン・サマリ)。ある日、家族で見に行った映画の世界に心を奪われ、後日学校をさぼって映画館に忍び込む。チケット料金が払えないためすぐに追い出されるが、映写技師ファザルに助けられる。ファザルは、料理上手なサマイの母が作る弁当と交換に、映写室から映画を見せると提案。サマイは様々な映画を見るうちに、自分でも映画を上映したいと考え始める。監督はパン・ナリン。
 予告編を見ていると少年が映画の面白さに目覚め、映画を作ろうとするストーリーに見える。確かに映画を作ろうという要素もあるのだが(そもそも監督の自伝的ストーリーだというから最終的には映画を作る側になるわけだ)、まずは「映画を上映したい」という発想になる所が本作のユニークなところであり、「映画の映画」として意外となかった視点ではないか。サマイが魅せられるのはスクリーンの上で繰り広げられる物語とスペクタクルではあるのだが、同時に、映画館という空間であり、映画がどのようにしてスクリーン上に映写されているのか、という仕組みの部分でもある。初めて映画館に行ったサマイは映画上映中、何度も映写室の方を振り返り、そこから差し込む光や光の中に舞うホコリを見つめる。この光は何なのか、光と映画にどういう関係があるのか、どうやって映画は「映画」になるのかというプリミティブな好奇心がサマイの原動力になっていく。
 彼が映画は光の技術である、と発見していく過程が、素朴なのだが逆に新鮮に感じられた。ファザルは映画のことを教えてくれるがそれは一部に限られており、サマイがトライ&エラーで手探りで実感していく様が楽しい。友人たちを巻き込んで自分たちなりの「映画」を作り上げていく様にはわくわくする。と同時に、あまりに後先考えないので怖くもなってくるのだが。子供なので危なさの加減がわかっていないというか、探究心が先に走りすぎというか、色々ハラハラさせられるのだ。
 サマイはまだ9歳、日本だったらまだまだ子供だが、本作は彼の旅立ちの物語でもある。こんなに早く大人になっていかないとならない世界なのかとはっとした。時代背景としては田舎でもフィルム上映がデジタル上映に切り替わるあたりなので、そんなに昔の話ではないのだが。映画作りを目指してサマイと家族が決断する道は、自分の夢と引き換えに何を置いていくかということでもある。清々しさと同時にほろ苦さもあるのだ。

ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD]
ブリジット・フォッセー
角川映画
2009-06-19


『エルヴィス』

 ショービズ界の興行師トム・パーカー(トム・ハンクス)は、独特でセクシーなダンスと圧倒的な歌唱力を持つ青年・エルヴィス(オースティン・バトラー)を見出す。女性客を中心とした若者たちの大興奮を目の当たりにしたパーカーはエルヴィスのマネージャーをかって出る。エルヴィスは瞬く間にスターとなるが、ブラックカルチャーに影響を受けた彼のパフォーマンスは世間から非難を浴びてしまう。監督はバズ・ラーマン。
 冒頭から目まぐるしく、ギラギラとキッチュな映像が展開する。あーバズ・ラーマン監督作品だなぁ!としみじみかみしめるくどさなのだが、そこがいい。エルヴィスの伝記映画というよりも、マネージャーであったパーカーの目にエルヴィスがどのように見えたのかという側面(だからキラッキラなのかも)から描いたエルヴィスの追悼絵巻物みたいな印象だった。パーカーにとってエルヴィスは金づるという側面はあったろうが、同時に金銭面以外でも強い執着の対象だったように思えた。パーカーは彼の才能、パフォーマンスに魅せられたが、エルヴィスがパフォーマンスを見せるのは当然オーディエンス全員に対してだ。そんなエルヴィスを一部だけでも自分だけのものにしたい、自分以外を信頼させたくないというような欲望が滲んでいるようにも見えるのだ。エルヴィス側も何度もパーカーを切ろうとするが切れない。パーカーの執着とエルヴィスの依存との両輪で悪循環に陥っていく様がじわじわ怖かった。ここで決断していればエルヴィスには別の道が…なんと勿体ない…と何度も思ってしまう。とは言え彼が死んでしまった後、赤の他人だから思えることなのだろうか。
 かなりキッチュな作品なのだが、エルヴィスのルーツがゴスペル、ブラックミュージックにあることはきちんと踏まえており、音楽映画として面白い。時代背景が彼にどういう影響を与えたのかという点も意外とわかり、そのあたりはパーカーの視点からは離れた客観性がある。ポピュラー音楽はやはり時代との関係なしでは語れないのだろう。


監獄ロック(字幕版)
ミッキー・ショーネシー
2015-03-15


エルヴィス&ニクソン
アシュレイ・ベンソン
2016-04-18





『選ばなかったみち』

 ニューヨークに住むメキシコ人移民のレオ(ハビエル・バルデム)は若年性認知症を患い、ヘルパーと娘モリー(エル・ファニング)の助けを借りながらアパートで独り暮らしをしている。しかし症状は進み、生活は困難になっていた。レオは故郷メキシコでの初恋の女性との生活や、一人で滞在したギリシアでの生活を想像する。監督はサリー・ポッター。
 ポッター監督の映画はいつも、冷徹さとやさしさとが両立している(が、どちらかというと冷徹さの方が強い)ように思う。現在のレオは認知症を患い、自分がどこにいてモリーが誰なのかも時々わからなくなるし、周囲との意思疎通も困難だ。彼の頭の中には他に2つの人生がある。一つはメキシコでかつて愛した女性とずっと一緒に暮らしていたら、というもの。もう一つは作家活動に行き詰った時に訪れたギリシアにずっと滞在していたら、というもの。「もしも」で人生を想像する場合、幸せな人生を想像することが多いだろう。しかしレオの「もしも」の人生はどちらも苦い。どの人生でも喪失感に苛まれ、孤独からは逃れられない。パラレルワールド的な「もしも」ではなく、現実のレオの実体験から派生した「もしも」だとわかってくるのだが、彼が彼である以上、どの人生でも似たような苦しさを抱いてしまうのではないかと思える。更に「選ばなかった人生はどんなだったろう」という夢想を、もう選ぶことも難しくなっているこの状況でするのかという部分が大変つらかった。
 娘のモリーは仕事の約束を反故にしてまで、レオのことを献身的に支える。彼女がレオに付き添い介護する姿は、一生懸命すぎて時に痛々しく、見ていてつらかった。自分の仕事・生活もあるのにここまで親に注ぎ込まないとならないのかと。認知症介護では多々あるだろうなというシチュエーションも出てきて、なかなかしんどい。レオがモリーに心を許している様子からは、恐らく仲のいい親子で強い絆があったのだろうことが垣間見える。ただその仲の良さは、レオの一方通行だという部分も多々あったのではないか。最後、モリーがレオに思いのこもった言葉をかけるが、その後のラストシーンに愕然とし、同時に深く納得した。モリーにも「選ばなかったみち」があり、2人の人生は違うものなのだ。

ジンジャーの朝 さよなら、わたしが愛した世界
アレッサンドロ・ニヴォラ
2019-04-07


ファーザー [Blu-ray]
ルーファス・シーウェル
インターフィルム
2021-10-06




『エリソ』

 ジョージア映画祭2022にて鑑賞。1864年のロシア帝政下のコーカサス地域。ツァーは山岳地帯の村をコサックの拠点とするべく、住民のトルコへの移住を強制していた。銃の所有が摘発された村は、土地の明け渡しを迫られるのだ。村長の娘エリソはよそ者扱いされているキリスト教徒の青年と共に村を守ろうとするが。監督はニコロズ・シェンゲラヤ。原作はジョージアの国民的作家であるアレクサンドレ・カズベギ。1928年のサイレント作品。
 ジョージア無声映画の傑作と言われる作品だそうだ。上映は音楽付きだったが合わせ方が良くて退屈しない。画面の切り替えのテンポ、リズム感も良くて、特に前半はコミカルさも漂う(当時の感覚ではそうではなかったかもしれないが)。一方でショットの反復がかなりくどく感じられる部分もあった。登場人物の心情が盛り上がったり、シチュエーションの緊張感が高まったりすると、ショットの反復でそのテンションを高めていく演出なのだろうが、現代の感覚で見るとショットを重ねすぎで逆に弛緩してくるように思った。時間の感覚時代によりは大分変ってくるということを再認識した。終盤、死を悼んで泣き叫ぶところから、なぜかダンスに繋がっていくという流れも時代のギャップなのか文化のギャップなのか、少々戸惑う。嘆きという興奮状態から祭りみたいな興奮状態に移行していく様は、今の感覚で見ると集団催眠のようで不穏に見えるのだ。
 イスラム教徒であるエリソとキリスト教徒青年との、ロミオとジュリエット的なラブストーリーでもあり、2人が村長の目を盗んで寄り添うシーンなどほほえましいし、コーカサス地方の民族・文化的背景が垣間見えるエピソードでもある。キリスト教徒はやはり異教徒扱いで、あまり周囲からいい顔をされないのだ。一方で、実質強制移住である村人たちへの仕打ちは深刻だ。山岳地帯で牛やヤギの放牧をしているので、家畜を守るためにも狩猟のためにもまず猟銃は持っているはずなので、銃があったら退去というのは言いがかりみたいなものだろう。そこで異議申し立てはするが反乱ができるわけでもないという村人たちのふるまいに、ロシアへの複雑な感情が見え隠れする。

20世紀ジョージア(グルジア)短篇集
ゴデルジ・チョヘリ
未知谷
2021-08-25


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