3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画え

『エゴン・シーレ 死と乙女』

 1910年、美術学校を退学したエゴン・シーレ(ノア・サーベドラ)は仲間と「新芸術集団」を結成。妹ゲルティのヌード像を描き続けていた。さらに褐色の肌のモデル・モアの肖像画で注目を浴びる。敬愛するクリムトから赤毛のモデル・ヴァリを紹介されたシーレは製作に励むが、スキャンダルを起こしてしまう。監督はディター・ベルナー。
 第一次正解大戦末期のウィーンで病に倒れたシーレと妻エディットの元をゲルティが訪れるというシーンから始まる。そこから過去に遡り、時々現在の病床のシーレのエピソードに戻るという構成。シーレの人生の終盤から遡るという構成は悪くはないのだが、時代転換のタイミングが唐突で、切り替えがぎこちないように思った。切り替えの起点となるキーみたいなものがいまひとつ見つからない。これだったら、若い頃から晩年へと時間順でもよかったんじゃないかなという気もする。
 シーレは16歳の妹をヌードモデルにしていたが、妹との絆は少々深すぎ、危うい。冒頭、裸のゲルティとシーレがじゃれあう姿はセクシャルなものとして意図されていると思う。また、ゲルティはシーレが新しいモデルとしてモアに夢中になると強く嫉妬するし、シーレはシーレでゲルティがいざ結婚しようとすると猛反対する。ゲルティの結婚相手が自分の友人であることも、ゲルティが妊娠していることも許せないのだ。まだ結婚は早すぎる!21歳までダメ!って言うけどじゃあ16歳でヌードモデルさせるのはいいのかよ・・・と突っ込みたくなる。お互いに強い執着心を持っており、結局ゲルティは最後までシーレにつきあう。
 シーレはモアにもヴァリにも執着し、特にヴァリとは仕事上の頼りがいあるパートナー的な関係である様子が見て取れる。実際のヴァリは17歳の少女だったようだが、本作のヴァリは年上の女性風で、モアやエディットよりはぐっと頼りになりそうだし「ちゃんとした」大人っぽい。しかし、シーレの彼女たちに対する執着や愛情は、あくまでモデルというオブジェクト、セックスできる対象に対するもので、彼女らにそれぞれ別個の意思と欲望があるという意識があまりなさそうだ。ヴァリとエディットに「そりゃ怒るよね・・・」とため息つきたくなるような提案をする(史実だそうだ)のも、人間の心の機微が今一つわかっていないからかも。
 また、彼のスケッチにはゲルティより更に若そうな少女のヌードもあるのだが、相手の属性をあまり考えず描く対象としてしまう傾向がありそう。彼の作品には多分に性的な要素がある(本人は美術だと主張しておりそれはその通りなのだが、セクシャルな視線はあるだろう)から面倒なことに・・・。少女に告発されるエピソードは史実だそうだが。自分の行為が相手にとって、また社会的にどういう意味を持つか等考えずに製作に打ち込むというと芸術家肌っぽく聞こえるが、巻き込まれたり尻拭いをせざるを得なくなった側は大変だろう。作中のシーレはとにかく自分のこと、自分の芸術のことしか考えない人として描かれている。「新芸術集団」の仲間が創作を止めた時に激怒するのも、彼に才能があったからというより、自分が理想とする芸術家像からずれたからで、ゲルティの結婚に怒るのと同じなのだ。

『エリザのために』

 医師のロメオ(アドリアン・ティティエニ)は、イギリス留学を控えた娘エリザ(マリア・ドラグシ)を学校に送っていくが、いつもは学校の前まで送るところを手前で下した。しかしエリザは学校へ向かう間に暴漢に襲われてしまう。大事には至らなかったがショックを受け、留学の可否を決める試験に挑めそうもない。何としても娘を留学させたいロメオは、ツテとコネを駆使して裏取引を図る。監督はクリスティアン・ムンジウ。
 現代のルーマニアを舞台にした作品だが、もうコネと賄賂と汚職の世界!現代の韓国映画を見ているとコネ社会である様子がしばしば揶揄されているが、ルーマニアはそれ以上のように見える。良くも悪くも社会がこぢんまりとしていて、便宜を頼みやすいし頼まれやすい。断りたくても断れない空気があるんだろうなぁ。ロメオは民主化に失敗した母国に失望し、エリザをイギリスに行かせようとしているそこにしか未来への希望はないと考えているのだ。彼のなりふりかまわなさは、自国への絶望の反映でもあり、それがなんとも辛い。
 しかしそれ以前に、ロメオがエリザの話をちゃんと聞かない所が気になった。彼女が本当に留学したいのか、何をやりたいのかは、語られることがないしロメオがそれを尋ねることもない。また、暴行を受けてショックを受けているはずの彼女への対応が雑すぎないか。試験がどうなるかよりも、まず他に心配することあるだろ!と色々突っ込みたくなる。ロメオは頭では娘が傷ついているとわかっているのだが、どういう心情かというところはあまりぴんときていないようだ。娘のために必死なのは十分わかるのだが、娘がそれによってどういう心情になるのか、彼女のその後に精神的にどういう影響があるかは、あまり考えていないように見える。
 ロメオは悪い人間ではないし医師としては誠実と評されているが、妻や娘、また愛人に対しては独善的な面が見られる。彼のやることは概ね「よかれと思って」なのだが、その「よかれ」を決めるのは自分であり、相手とちゃんと向き合っていないのだ。妻に対しても愛人に対しても娘に対しても、彼女らには彼女らなりの指針があり人生があるということが、いまひとつ呑み込めていないようで、何ともいらいらする。本作における時代や国を越えて普遍的な部分は、この鈍さではないかと思う。ああこういうお父さん(だけじゃないけど)いるわ・・・というげんなり感がつのるのだ。

『エンド・オブ・トンネル』

 未体験ゾーンの映画たち2017にて鑑賞。事故で妻子を亡くし、自身は車椅子生活になったホアキン(レオナルド・スバラーリャ)は、自宅に引きこもっていたが、2階にストリッパーのベルタと幼い娘が間借りすることになる。ある日、ホアキンは地下室で奇妙な音を聞く。地下にトンネルを掘って銀行強盗を企む男達がいたのだ。好奇心から彼らの行動を監視し始めたホアキンだが、ベルタも彼らの仲間だと知る。ホアキンは彼らから現金を横取りしようと計画を立て始める。監督はロドリゴ・グランデ。
 ベルタが押しかけてきて、彼女とホアキンの距離が徐々に近づいていく前半は、ストーリーをどこに着地させるのかよくわからず、ちょっと捉えどころがない。ホアキン自作の監視システムの出来が妙にいいし、車椅子とは言え意外と機動力あるしで、出来すぎな感じもするのだ。銀行強盗たちの言動にしても、パーツを出すだけ出しておいてなかなか嵌めていかずに放置しっぱなしという印象。
 ところが、後半急に話が大きく動きだし、ラスト20分くらいで怒涛の伏線回収が始まる。前半にちょこちょこと出てきたあれやこれやは、この為だったか!と唸る。ストーリー構成としてはいびつなのだが、強引にどんどん回収していく気持ちよさがあり、つい笑ってしまう。いやー溜めたね!冒頭に仕込んだままだった「あれ」が登場すると、待ってました!という気分になってくる。
 ホアキンがなぜ車椅子生活なのか、妻子はどうなったのか等は、さほど詳しく説明せず、映像でさらっと匂わせる程度。それでも、彼の喪失感とそれ故の捨て鉢な生活であるということがよくわかる。見せすぎない良さがあった。荒れていた家の中が、ベルタの生活が定着するにつれ片付いていくところも、2人の関係の変化を思わせる。
 ホアキンにしろベルタにしろ、いわゆる善男善女ではないところがいい。ホアキンはベルタを救い出したいという気持ちはあるが、自分の計画の邪魔になると判断したらそれなりの処置をする。ベルタも自分と娘が最優先。ドライと言えばドライだし、それぞれの欲と打算がある。そういう人たちであっても、損得を越えて行動してしまうことがある。それ故ラストが清々しい。

『エブリバディ・ウォンツ・サム!世界はボクらの手の中に』

 1980年代。野球推薦で大学に入学する新入生のジェイク(ブレイク・ジェナー)は、野球部の寮に向かった。到着するなり4年生のマクレイノルズ(タイラー・ホークリン)とルームメイトのローパー(ライアン・グスマン)に絡まれるが、他の先輩らも変わり者ばかり。途中編入してきたマリファナ愛好者のウィロビー(ワイアット・ラッセル)、自信と実力が見合わないナイルズ(ジャストン・ストリート)、ギャンブル狂のネズビット(オースティン・アメリオ)、気はいいが田舎者とバカにされている“ビューター”ことビリー(ウィル・ブリテン)。新学期が始まるまでの数日間、ジェイクは部の仲間とバカ騒ぎを続ける。制作・脚本・監督はリチャード・リンクレイター。
 私にとってリンクレイター監督の作品は、すごくぐっとくる時もあるけど(『スクール・オブ・ロック』『スキャナー・ダークリー』等)、イラついてどうしようもない時もある(『ビフォア~』シリーズ)。本作は残念ながら後者だった。冒頭、ジェイクがうっきうきで入寮してくるあたりから、あーこの先ずっとこのテンションなのかなーと不安になっていたが、ずっとこんな感じだった。群れてバカをやっているシーンが続くとさすがにうんざりする。総じて騒がしすぎ、酒飲みすぎ、セックスしようとしすぎでげんなりした。いやー80年代アメリカで大学生じゃなくてよかった・・・。もちろん彼らのように羽目を外しっぱなしな若者ばかりじゃなかっただろうが、現代の大学生ってアメリカであれ日本であれ、こんなに遊びほうけられないんじゃないかな。ジェイクたちを見ていると、いい気なもんだよな、という気分になってしまうのだ。
 ジェイクたちが楽しむのはとにかく「今この時」であり、未来にはさして不安もなく、世界は無事稼働しているように見える。彼らには根拠のない無敵感があり、それがこの先も続くかのようだ。
 しかし、そんな日々でもほころびが見えることもある。新学期が始まる前に野球部を去る人もいる。彼は、「今この時」をやめられないまま延々と過ごしてしまった人なのだ。彼のエピソードがちらりと入ることで、ジェイクたちの「今この時」は終わりのあるもので、いつかは大人の世の中に出ていく。大学生活はその前の猶予期間みたいなものだよなとしみじみした。そう思うと、バカ騒ぎをしておいて正解ということでもあるか。
 なお、ジェイクはいわゆる脳筋バカではなく、文学や音楽の素養があるが、これは監督の青春時代を投影しているからかな?だとしてもキャラ設定ちょっと盛りすぎ(そこそこイケメン、野球の才能あり、文科系の素養あり、意外とかしこい)だぞ!

『エル・クラン』

 1980年代、独裁政治が弱体化に向かい、徐々に民主政治を取り戻していた時期のアルゼンチン。マルビナス戦争(フォークランド紛争)の結果政府が転覆し、政府の情報管理官として働いていたアルキメデス・プッチオ(ギレルモ・フランセーヤ)は失職してしまう。プッチオ家の長男で有望なラグビー選手のアレハンドロ(ピーター・ランサーニ)は、友人と車に同乗していたところ、覆面の男たちに襲われる。彼らは友人を拉致して車のトランクに入れ、アレハンドロは助手席に移された。覆面を取った助手席の男は、父・アレハンドロだった。アレハンドロは誘拐による身代金強奪をビジネスにしていたのだ。そしてアレハンドロモもそのビジネスに徐々に参加していく。監督はパブロ・トラペソ。製作をペドロ・アルモドバルが手掛けたことでも話題になった。第72回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作品。
 何が怖いって本作、実話に基づいている(アルゼンチンでは結構有名な事件みたい)ということだ。更に、エンドロール前の字幕内容には震える。悪い奴ほどよく眠る、とはよく言ったものだけど、アルキメデスは自分のことを「悪い奴」とは思っていなかっただろうし、自分に正当性があると信じ続けた(最初は葛藤があったのかもしれないけど、自分で自分の嘘を信じ込んでしまう様に)のではないか。そして家族はそこに巻き込まれ、あるいは選択してその欺瞞に乗っかっていった。
 アレハンドロは基本的に善良な青年なのだが、父親の犯罪に加担していく。最初は嫌々ながらではあるのだが、参加を断れないまま、なんとなく続けてしまうという風なのだ。父親が彼にとって強力な存在であることに加え、アレハンドロ自身のだらしなさというか、踏ん切りのつかない性格が事態を悪化させているように見えた。基本いい奴なんだろうけど・・・と何とも歯がゆい。
 ただ、アルキメデスの家族に対する影響力・支配力は大きく、アレハンドロがそこから抜け出せないのも無理はないとは思う。生まれた時から「こういうもの」として育っていくと、それ以外の家族の在り方というのは想像できなくなっていくのかもしれない。一家は決して仲が悪いわけではなく、むしろぱっと見は和やかでいい家庭だし両親も子供たちも愛し合っているのだが、だからこそ問題の根が深い。父親の「仕事」に嫌気がさしてきたアレハンドロに対する母親の言葉にもぞっとした。子供を心配するような言葉でさらに絡め取っていくのかと。止めるという選択肢はないのか。こういう関係から抜け出すには、物理的に距離を置くしかないんだろうなぁ。そういう点で、一見弱弱しい三男が一番タフだったと思う。

『X-MEN:アポカリプス』

 『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』、『X-MEN:フューチャー&パスト』に続く、X-MEN前日譚シリーズ3作目。人類の文明発祥より以前から存在し、神として世界を支配していたものの、人間によってピラミッドの中に閉じ込められたミュータント・アポカリプス(オスカー・アイザック)。数千年の眠りから目覚めた彼は、世界に新たな秩序をもたらし支配する為、人類文明の一掃を計画する。彼の存在に気付いたプロフェッサーXことチャールズ・エブゼビア(ジェームズ・マカヴォイ)とミスティークことレイブン(ジェニファー・ローレンス)は計画阻止に立ち上がる。一方、普通の人間として家庭を築いていたマグニートーことエリック・レーンシャー(マイケル・ファスベンダー)を悲劇が襲う。監督はブライアン・シンガー。まず最初に気付いたのが、私は未だにマイケル・ファスベンダーの顔を認識できていない!散々見ているはずなのに毎回初めて見る人のような気がする・・・なぜだ・・・。
 私はX-MENシリーズの最初の2作くらいは結構好きなのだが、以降、特にファースト・ジェネレーション以降はいまひとつ乗れず、世間ではこんなにきゃあきゃあ盛り上がっているのに何か悔しい!ともやもやしていた。今回こそこの波に乗れるか、と思っていたけどやっぱり駄目だった。無念である。ファースト・ジェンレーションは学園ドラマのノリが苦手、フューチャー&パストは歴史改変SFとしていじりすぎ(そもそも映画のX-MENシリーズ自体、キャラクターの方向性や設定等微妙にずれこんできているので)・ストーリー盛りすぎで胃もたれ感が否めなかった。今回は、ストーリー自体はフューチャー&パストに比べるとシンプルになったが、全体的に(今までもだけど)長すぎ・間延びしすぎな気がして飽きてしまった。
 また、ファースト・ジェネレーション以降はチャールズとエリックの関係が物語のキモになるが、関係性自体は早い段階で固まってしまっているので、以降は物語の駆動力としては弱い。毎回、えーまたこれを繰り返すの・・・という気分になった。だって若い頃から晩年まで距離感ほぼ変化ないもんな!チャールズとエリックのキャラクターに愛着がないと見る側のモチベーション維持できない気がする。私はどちらもあんまり好きじゃないんですよ・・・(特にチャールズ。こいつエリックより全然性質悪い・・・)。
 唯一フックになっていたのは、レイブン=ミスティーク。チャールズともエリックとも共に歩めない彼女は、単独で虐げられているミュータントを助けていた。ミュータントの間では英雄扱いだが、自身ではそれを否定する。そんな彼女が、若い世代の為にあえて英雄であることを引き受けようとしていく。おそらくリーダーや教育者は柄でもない彼女が、腹をくくっていく様がいい。これは演じたローレンスの力が大きいのだと思う。その時々の感情の揺らぎがわかるのだ。

『エクスマキナ』

 世界最大の検索エンジンを運営するブルーブック社の社員ケイレブ(ドーナル・グリーンソン)は社内の抽選に当選、社長であるネイサン(オスカー・アイザック)の私邸に招かれる。ネイサンは滅多に人前に出ず、私邸は高原の広大な敷地の中にあった。私邸でケイレブは、人工知能を搭載した女性型ロボット・エヴァ(アリシア・ヴィキャンデル)を見せられる。ネイサンはケイレブに、エヴァに対してある実験をしてほしいと言う。監督はアレックス・ガーランド。第88回アカデミー視覚効果賞受賞作。
 SFの設定としてはそんなに珍しくはない。むしろ、よくあるパターン、オーソドックスなものなのではないか。人間のように振舞い、相手の言動に反応するエヴァに相対するうち、ケイレブの人間としてのアイデンティティが揺らいでいくというのもさもありなん。ただ、AIと人間の見分けのつかなさよりもむしろ、AIの入れ物がなぜ若く美しい女性なのか、という所の方がフォーカスされるべきなんだろう。ただ、この部分は、無頓着な人は気付かないと思う。同時に、普段からそういう部分を意識している、特にSF小説等を通じてそういうリテラシーを持っている人は、今更な話というか、未だにこの程度ですか・・・と拍子抜けするのではと思った。現代ならもっと、「その先」の物語を作れるんじゃないかと思うのだが。
 エヴァはケイレブに一方的に質問されることを拒み、自分からも次々と質問をする。AIである彼女は、相手が嘘をつくとすぐにわかってしまい、それを指摘する。ケイレブは予想外のエヴァの言動に戸惑い、ネイサンは予測通りに動かないAIに苛立つ。しかし、他人と相対するというのは、大概そういうものだろう。彼らは人間と同等のAIの開発を目指しているのだが、AIが本当に同等に振舞ったら、おそらく気に食わないのではないだろうか。彼らの思うAIとは、人間を越えるパフォーマンスを生むが自分には逆らわない、というもののように思う。
 エヴァの顔は人間の女性そのもので表情も人間と変わりないが、躯体は「皮膚」で覆われておらず、金属や樹脂をイメージしたデザイン(この見せ方はさすがアカデミー視覚効果賞受賞作)という所が面白い。「実験」をしているからというストーリー設定上の理由もある(ネイサンはやろうと思えば人工皮膚のようなものでエヴァをコーティングできるだろう)のだが、人間のようだがそうではないと明らかにわかることで、エヴァがより魅力的に見えるという側面もある。この、「ちょっと違う」故の魅力って何なんだろうな。

『エージェント・ウルトラ』

 田舎町でコンビニのバイト店員をしているマイク・ハウエル(ジェシー・アイゼンバーグ)は何をやってもドジばかり、加えて、町から出ようとするとパニックを起こしてしまう。恋人のフィービー(クリステン・スチュワート)だけは彼を見捨てずにいた。マイクはフィービーに最高のプロポーズをしようとするがなかなか切り出せない。そんな折、コンビニに現れた女性ラセター(コニー・ブリットン)がマイクに謎の暗号を伝える。それを聞いたマイクは突然能力が覚醒し、あっという間に暴漢を倒してしまう。実はマイクは、CIAの極秘計画の被験者だった。計画の抹消をもくろむCIAに命を狙われることになったマイクは、フィービーを守ろうと奔走する。監督はニマ・ヌリザデ。
 ユルいコメディ+アクションかと思っていたら、予想外に切なく寂寥感が漂っていてなかなか良かった。マイクは覚醒前はちょっとマヌケで情けなく、覚醒しても決して賢くはないのだが、それは彼が自分に何が起こったかを知らないからというのも一因だ。それは、自分が何者なのかわからないという、足元がおぼつかない状態だろう。このあたりは、ちょっと『ボーン・アイデンティティ』ぽいなぁと思った(多少意識はしているのかな?)
 加えて、マイクは望んで「本来の自分」に戻ったわけではなく、その「本来の自分」とやらも誰かが作り上げたものに過ぎないのかもしれない。本当の自分はどこにあって何者なのか、というのはわからないままなのだ。マイクには自分が自分であるという拠り所がない。唯一拠り所になっているのは、フィービーへの愛だ。マイクがフィービーを取り戻そうとする=自分を取り戻そうとする物語でもある。割と本気で、愛で成長する青春ドラマっぽかった。コメディ要素は多々あるが、その部分は笑いなしの大真面目なのだ。
 クリステン・スチュワートが恋人という設定だと、その部分だけやたらとスペック高いな!しかも彼女が人間出来すぎ!と思ったけど、なるほどそうかと納得させる展開の仕方。マイク役のアイゼンバーグは、こういうボンクラ(だが何かを秘めていることもある)役が似合いすぎて、安定感が高い。この路線で安定感高いっていいのか?って気もするが。なお、エンドロールのアニメーションがいい!

『EDEN/エデン』

 1990年代初頭のパリ。エレクトロミュージックがフランスの音楽シーンの中心になりつつあった。大学生のポール(フィリックス・ド・ジブリ)は音楽に夢中になり、親友とDJユニットを結成、瞬く間にミュージックシーンの中心に躍り出る。セレブ気分を味わうポールたちだったが、派手なイベントやツアーは金銭的には必ずしも成功していなかった。やがてミュージックシーンも移り変わり、ポールは徐々に時代においていかれる。監督はミア・ハンセン=ラブ。ミア・ハンセン=ラブ監督の作品は、いつもひとつの季節の終わりを描いているように思う。
 ダフト・パンクを筆頭とするフレンチハウス黎明期を描いた作品で、ダフト・パンクも登場(と言えるのかなあれは・・・)する。監督の兄のスベン・ハンセン=ラブの体験が元になっており、彼は脚本にも参加しているそうだ。時代の流れの切り取り方と省略の仕方の切れがよく、起伏に乏しいわりにはそれほどダレない。
 おかしくて、やがてかなしき。という言葉がまず頭に浮かぶ。ポールがミュージシャンとして油が乗っていた時期は短く、それは一種のお祭りみたいだった。しかしお祭りはいつか終わる。そして祭りが終わった後の人生の方が圧倒的に長いのだ。延々と祭りを続けられる、というか祭りを日常化できる人はほんとうに一握りの人たちなのだ。ポールは自分が一握りだと確信していたわけではないだろう。ただ、音楽の道を諦めるには中途半端に才能があった。才能はないよりあるほうがいい、でも中途半端な才能って、その人にとっては残酷なものなのかもしれない。
 ただ、だからといってポールの人生が失敗だったとは思わない。彼は音楽をやりたくてしょうがなかったのだから、もうしょうがないのだ。たとえ中途半端な成功で、その後の人生がしょぼしょぼだったとしても、選ばないよりはいいじゃないかと思う。それはそれで、ひとつの人生だ。
 ポールはすごくイケメンというわけでもないしマメで気がきくというわけでもないのだが、なぜか女性が途切れない。DJとして売れているときはもちろん、落ち目になってもなんだかんだで女性がかまってくる。こ、これが真のモテというやつか・・・。

『エレファント・ソング』

 ある病棟の精神科病棟から、1人の医師が姿を消した。患者である青年マイケル(グザヴィエ・ドラン)は手がかりを知っているらしい。院長のグリーン(ブルース・グリーンウッド)はマイケルから事情を聴きだそうとするが、マイケルは言葉巧みにはぐらかす。看護師長でグリーンの元妻であるピーターソン(キャサリン・キーナー)は2人を気遣う。監督はシャルル・ビナメ。
 舞台用の戯曲を映画化したものだが、マイケルの振る舞いは確かに舞台映えしそうだ。グリーンの心を操るようにあっちこっちへと引っ張り回し翻弄していく。いわゆるコン・ゲーム的な側面のある作品なのかなと思っていたのだが、グリーンが予想外にボンクラっぽいので拍子抜け。彼は精神科の医師(院長なので現在は診療はしていない)なのだが、精神科医師としてその振る舞いは色々と問題あるんじゃないかなという気がして、そこにひっかかって気が散ってしまった。「君に嘘はつかないけれど、それは君に話すことではないわ」と言い切るピーターソンの態度の方が、医療従事者としても大人としても適切なんじゃないかなと思った。やはり、立ち入らせてはいけない領域があるのではないかと。精神科医には向いていないという自覚があるとは言え、グリーンはそのあたり大分脇が甘い。見ていてハラハラしてしまう。
 また、マイケルの目的が終盤で提示されたものだとすると、大分回りくどく、もっと手っ取り早い方法があるのにという点もひっかかった。グリーンとマイケルとの会話劇・2人の関係の緊張感を描いたものとしてはマイケル側にアドバンテージがありすぎて面白みがないのだ。
 マイケルとグリーンのやりとりやマイケルの背景よりも、むしろグリーンとピーターソンとのやりとりの方が印象に残った。やりとりの中から徐々に、2人の過去に何があったのか垣間見えてくる。グリーンはその過去との折り合いが、おそらくつかないままだった。それが原因でおそらくピーターソンとも別れたのだろう。しかしラストシーンでは、2人の間の空気は柔らかいものになっている。過去に起きたことは取り返しがつかないが、マイケルと関わることで、何か気が済んだというか、ふっきれたようにも見えた。
 本作では俳優に徹しているドランだが、俳優としてはちょっとやりすぎというか、1つの演技に対して手数を出しすぎな印象だった。『トム・アット・ザ・ファーム』ではそこまでではなかったから、マイケルという役柄に寄せての演技プランなんだろうが、若干目にうるさい。好演だったのはキーナー。抑制された強さのある女性という雰囲気が出ていた。

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