3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画え

『X-MEN:ダーク・フェニックス』

 X-MENの中でも強い能力を持つジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)は、宇宙でのミッションがきっかけで更に強い力を身につけ、制御不能になっていく。周囲を傷つけることを恐れるジーンだが力は暴走し始め、X-MENの仲間たちとの関係にもひびが入っていく。更に彼女の力に目をつけた謎の女(ジェシカ・チャステイン)が接触してくる。監督はサイモン・キンバーグ。
 ファーストジェネレーションからの、若き日のプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビア(ジェームズ・マカボイ)とマグニートーことエリック・レーンシャー(マイケル・ファスベンダー)を中心としたシリーズ。しかし、毎回公開前にはすごく楽しみにしているのにいざ本編を見るといまひとつ乗れないということが個人的には続いている。残念ながら今回も同様。このシリーズ、初期のウルヴァリンを中心としたX-MENとは基本的に別物ということなんだろうけど、完全なリブートというわけでもないし、見ているうちにこのキャラクターってこんなのだっけ?この先なんでああなるの?と色々もやもやしてしまう。別物として見られるほどには制作スパンが開いていないんだよな。また、前作で色々時間軸をいじっているので、そのあとでこういう話をやられても、あれは何だったの?って思ってしまう。どういうスタンスで見ればいいのか微妙な作品だった。
 チャールズのミュータントを「代表」しようとする振る舞いや学園での指導方針は、異端と見られている彼らを世に認めさせる為にはもっともなやり方に見えるし実際成功している。X-MENはヒーローとして人気者になっていく。しかしそれは、常に一般人の役に立つミュータントであれと強いることでもある。無害で役につ存在でなければ人間の仲間として認められないというのは、本当に平等とは言えないだろう。レイヴン(ジェニファー・ローレンス)のように普通に静かに生きたいと願うものや、ミュータントであるが特に秀でた能力・役に立つ能力を持っているわけではないというものはどうすればいいのか。そもそも能力を使うのも使わないのも当人の自由だろう。同じマーベルコミックのヒーローであるスパイダーマンには「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉があるが、あれはヒーローを人間から差別化することでもあるんだよな・・・。本作のラストも、能力が過ぎるともう人ではいられない、この世にはいられないという結論になってしまうものなので、X-MENというシリーズのスタンスとしてこれでよかったのか?ともやもやした。
 このシリーズ、チャールズの「持っている」人間故の独善性が垣間見られるシリーズでもあったが、今回ははっきりと、彼のその行為は独善である、独りよがりであると指摘している。もう「お前そういうとこだぞ!」と突っ込めないかと思うと少々さびしくもあるが。

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『映画刀剣乱舞』

 人間の姿を得た刀「刀剣男子」たちと、彼らを束ねる主神者。その役割は歴史の流れを変えようと企む時間遡行軍の企みを防ぐことだ。本能寺の変から織田信長を逃がして歴史を変えようという時間遡行軍の動きを阻止した刀剣男子たちだが、信長が生きているという知らせが届く。刀剣男子たちは歴史を守る為に再び過去へと旅立つが、時間遡行軍は執拗に歴史に介入してくる。三日月宗近(鈴木拡樹)は単身、ある行動に踏み切る。監督は耶雲哉治。
 アニメ特撮ファンなら一度は触れているであろう小林靖子脚本ということで、刀剣乱舞に関する知識はほぼない(ゲーム未体験、基本設定とキャラクターは多少知ってる)状態、2.5次元ほぼ未体験状態で見に行ったのだが、思いのほか面白かった。特撮に対する耐性が多少あれば大丈夫なのでは。2次元を無理矢理3次元にするという荒業だが、刀剣男子という存在が人間とは違う何かだというエクスキューズがあるので、あまり気にならない。信長を演じる山本耕史や秀吉を演じる八嶋智人は明らかに2.5次元ではない佇まいと演技プランなので、異種混合戦みたいになっているのだが、うまく摺りあわされていると思う。衣装をはじめ、美術面がそれなりにお金がかかっている風合いになっているのもよかった。モブの兵士たちの動きもこなれ感あるもの。全般的に素人くささがない。やっぱり予算は大事だな・・・。
 本能寺という大分手垢の付いたネタを使いながらも、歴史とは何かというテーマを踏まえた上で、三日月というキャラクターを深堀りしていく(ファンにとっては言わずもがなで深堀りということはないのだろうが、初心者にとってはキャラクターがどんどん立ち上がっていく感があった)、それを100分程度に収めるという脚本のまとまりのよさには感心した。だらだら長くなったり第2弾への目配せみたいなものを一切残さない潔さ。単品として成立させている。
 刀剣男子たちは元々「物」で人間とは生きる時間の尺度が違う、それによる哀愁を行間から読み取れるという所が、作品ファンにとってのフックの一つなのかなと思った。彼らを所有していた人間たちは、皆先にいなくなってしまう。そして、彼らを束ねる審神主も例外ではない。本作の三日月はいささか疲れた、人生に倦んだような雰囲気を醸し出しているように思える。ある事情が追い打ちをかけ、人間たちに置いていかれること、歴史の枠外に延々と居続けることへの疲れが表面化していくように見えた。が、そこから歴史とは何ぞやと言う点も含めて見方を反転させる。ストーリーの流れと三日月というキャラクターの内面の変遷が上手くリンクしてるのだ。何しろ人(いや刀なわけだけど・・・)は1000年生きてもなお変化するし成長する、依然としてこの先の可能性があると言いきってしまうようなものだから、とてもポジティブで後味がいい。







『エンジェル、見えない恋人』

 姿の見えない少年エンジェルは、ある日、森の中の大きな屋敷に住む盲目の少女マドレーヌと出会う。盲目故に、マドレーヌはエンジェルが透明であることに気付かず、普通の人間として接する。やがて心を通わせ合う2人だが、マドレーヌは姿を消す。やがて月日がたち、大人になったマドレーヌ(フルール・ジフリエ)が屋敷に戻ってきた。しかしマドレーヌは手術によって視力を取り戻しており、透明なエンジェルには気付かない。監督・脚本はハリー・クレフェン。
 エンジェルの母親(エリナ・レーヴェンソン)がある出来事で傷心しているらしく、更に子供を身ごもっているという所から物語が始まるのだが、映し出される出来事の背景の説明は殆どない。とは言え、エンジェルの母親は手品師のアシスタントをしていたが手品師が失踪、おそらくその手品師がエンジェルの父親だろうとなんとなくわかる。母親はどうやら病院に収容されており全く外出は出来ないらしいこと、他の人にはエンジェルの存在は秘密にされていることもわかってくる。しかしそういう状況なので、母親が精神を病んでおり、子供がいるという妄想を抱いているようにも思えてしまう。彼女の妄想が、全くの他人であるマドレーヌに伝染(マドレーヌの場合は子供ではなく友人/恋人なわけだが)しているようにも見える。多分作っている側としてはロマンティックなおとぎ話のつもりなのだろうが、どこか不穏に感じられた。
 不穏さのもう一つの原因は、フライヤーやポスターのイメージよりも格段にエロティックなことだろう。ほとんどシーンがエンジェルの主観によるものだが、母に対してもマドレーヌのクロースショットが多い。母やマドレーヌにとって、目に見えないエンジェルの姿を感じるには触れられる、体温が感じられる距離に近付くほかないので間近になるのだろうが、肌のきめの映し方や吐息の捉え方がどこか官能的。最近見た映画の中で、突出して乳首ショットが頻出するのには笑ってしまった。透明な赤ん坊であるエンジェルが母乳を吸うと乳首だけが動いているように見えるという、それ結構手間かかるんじゃないかと思うけどわざわざやる必要あります?!というフェティッシュを感じさせるショットも。裸のマドレーヌとエンジェルが抱き合うシーンでも同じようなショットがあった。何なんだろうこの拘りは・・・。
 エンジェル視点のショットが殆どなので、彼の欲望がそのまま可視化されているとも言える。特にマドレーヌが上半身裸で眠っているシーンや入浴しているシーンは、無防備な姿を覗き見しているようで(というかエンジェルはその存在を彼女に明かしていないので実質覗きなんだけど)危うい。真実を知ったマドレーヌがショックを受けるのは、エンジェルが透明だからというよりもこういった行為をされていた(可能性がある)ということに対してでは。

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『SPL 狼たちの処刑台』

 香港の警察官リー(ルイス・クー)は、娘ウィンチーがタイのパタヤで失踪したと知らされる。タイに向かったリーは、現地の警察官チュイ8ウー・ユエ)に捜査に同行したいと頼み込む。ウィンチーは臓器密売組織に攫われ、政治家や警察も関与しているとわかってくる。監督はウィルソン・イップ。
シリーズ前作『ドラゴン・マッハ!』(シリーズ間のストーリー上の関連はなく、それぞれ独立したお話ですが)では、アクションシークエンスが頭おかしいんじゃいかというレベルの凄さで圧倒された。 それをベースに期待しすぎてしまったのか、本作は自分の中であまり盛り上がらなかった。本作もアクションシーンに見応えはある。ただ、基本的にカメラはクロースでほぼ1対1の格闘で、というわりとオーソドックスなもの。すごく痛そうではあるが、さほど新鮮味を感じなかった。古き良き時代の香港アクションを更に強化していったという印象。クラシカルと言えばいいのだろうか。
 ストーリーもリーの娘探しを中心とした割とコンパクトなもので、全体的に小粒で枠からはみ出てこない。本作にそういう印象を持ってしまうくらい、前作が異形だったということかもしれないけど・・・。リーと娘の関係を中心にしたストーリーの掘り下げと、アクションの乱れ打ちとが足を引っ張り合っている印象も受けた。ウィンチーがタイを訪れた理由は、リーからしてみたらやりきれないものがあるだろう。父親と言う存在に対して、あまりにも希望がない。リーは一貫して悲壮感をまとっているのだが(そしてルイス・クーはこういう痛々しさが良く合うのだが)、そりゃあ、ああいうラストにならざるを得ないだろうと思った。
 なお、トニー・ジャーが共演しているものの、出番が少ない!客演扱いだったにせよこれだけ?!その点でもちょっとがっかりだった。


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『永遠のジャンゴ』

 1943年、ナチス占領下のパリで、ギタリストのジャンゴ・ラインハルト(レダ・カテブ)は毎晩のように満席のホールを沸かせていた。しかしナチスによるジプリー迫害は厳しくなり、ジプリー出身であるジャンゴの身も危うくなる。昔馴染みのルイーズ(セシル・ドゥ・フランス)の手引きでスイスとの国境にほど近いトンン=レ=バンに身をひそめるが、そこにもナチスがやってきた。ジャンゴはナチス官僚が集うパーティーで演奏しろと命じられる。監督・脚本はエチエンヌ・コマール。
 ジャンゴの演奏は聴いていると踊らずにはいられないものだ。しかしナチスは「踊らせる」要素、音楽の高揚感は悪しきものとして扱う。ジャズは黒人の音楽だからダメ、演奏しながら足でリズムを取るのはダメ、シンコペーションは5秒以内等、アホじゃないかというオーダーなのだが、ナチスは大真面目だ。音楽を過大評価しているようにも思えるが、人の心を煽るもの、熱狂させるもの、そして自分たちにコントロールできないものの力を危険視していたというのは分かる。だったらもっと早い段階でジャンゴも取り締まられていそうなものだが、ナチスの中にも音楽好き、ジャズマニアはいて、彼らが後ろ盾になっている。統制のとれたナチスという組織の中からも、音楽という要素によりはみ出てくるものがある。ある種の抗えなさが、音楽の力なのだろう(逆に、音楽の高揚感が人々の統率に使われることもあるが・・・)
 クライマックスで、ジャンゴはギター1本でナチスに対抗しようとするのだが、彼の音楽が高まっていくにつれ、その場の雰囲気がだんだん「ナチスの官僚が集う会」からずれていき、高揚が拡散されて乱痴気騒ぎ感が強まっていく感じにはワクワクする。ジャンゴのヒーロー性が発揮されるシーンでもある。しかし、彼が音楽で救えるのはほんのわずかなものだ。彼が作曲するジプシーの為のレイクエムは、自分と音楽が見殺しにしてしまった存在への贖罪でもあったのだろう。
 逮捕されたジャンゴが、体の測定をされるシーンがある。体を勝手に触られる、解釈されるのは、強い屈辱であり傷つくことだ。こういうシーンを見ると体温がさーっと下がる気がする。



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『エンドレス・ポエトリー』

 故郷トコピージャから首都サンティアゴへ移住したホドロフスキー一家。父ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)は商売に明け暮れ、息子アレハンドロ(アダン・ホドロフスキー)にも家業への参加を強いるが、アレハンドロは詩人としての道を歩みだす。監督はアレハンドロ・ホドロフスキー。
 『リアリティのダンス』の続編となる、ホドロフスキー監督の自伝的映画。父と少年時代の息子アレハンドロの物語だった前作から引き継がれ、今回は青年時代のアレハンドロが旅立つまでの物語となる。撮影はクリストファー・ドイル。色が鮮やかかつ透明感があり、ホドロフスキーのちょっとどろみのある作風を中和しているように思う。本作、映像にはっとするシーンがいくつもあった。カーニバルの群衆シーンは高揚感あり素晴らしい。同じ群衆シーンでもファシズムの予兆と不吉さ満載の行進シーンと、セットで本作を象徴する映像になっていると思う。
 冒頭、「書き割り」による過去の街が出現し、ハリボテの汽車が動き出す瞬間にはっとした。ああこれが映画だ!という感じがしたのだ。作りものである、しかし現実よりもより輪郭がくっきりしているというような。本作はホドロフスキーの実体験が元になってはいるのだろうが、あくまで自伝「的」なものであって、フィクションだ。ホドロフスキー個人の体験となった時点で、その出来事はホドロフスキー個人のフィルターを通したフィクションになっているとも言える。そのフィクションを映画として再構築したのが本作で、冒頭の過去の街の現れ方は、それを明瞭に表していると思う。
 自分の体験、人生を咀嚼し直し、再構築することはフィクションの持つ機能の一つだろう。本作では特に父親との関係に如実に現れている。母、あるいはアレハンドロのミューズであった女性たちとの関係は、彼にとって不可解ではあるが都合のいいものとしての側面が目立った。しかし、父親はコントロールの範疇外であり理解の糸口も見えない。最後のシーン、ホドロフスキーは実生活での父親との和解には至らなかったそうだが、だからこそこうせずにはいられなかったんだろうなという切実なものがあった。

リアリティのダンス 無修正版 [DVD]
ブロンティス・ホドロフスキー
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2015-06-03


タロットの宇宙
アレハンドロ・ホドロフスキー
国書刊行会
2016-12-28

『エイリアン コヴェナント』

 地球が滅びつつある時代、人類移住計画を託された宇宙船コヴェナント号には、コールドスリープ状態の乗組員の他、長い航海の間、船の管理を任されているアンドロイド・ウォルター(マイケル・ファスベンダー)が乗船していた。しかし船にトラブルが起き、乗組員たちは予定外にコールドスリープを解除される。人間からと思われる信号を辿り未知の惑星に辿りつくが。監督はリドリー・スコット。
 私はエイリアンの造形とシチュエーション(密閉空間で次々に襲われる系)がとにかく苦手で、エイリアン3部作はTVで放送されている時にちらっと見ている程度(しかし『エイリアンVSプレデター』は劇場に見に行っていることを思い出した・・・あれはちょっと別枠ですよね)、前作『プロメテウス』は当然見ていない。更にリドリー・スコット監督作品自体が苦手で、はっきりと面白いかつ好きだと思えたのは『オデッセイ』のみ。しかし本作を見た人たちの反応がどうにもおかしなことになっているので、気になって挑戦してみた。
 結論から言うと、エイリアン初心者の目からも「それ、エイリアンいります・・・?」的案件だったように思う。確かに、前3部作におけるエイリアンがいかに生まれたかという話ではあるのだが、それ以外の部分に熱が入りすぎていて、『エイリアン』的部分が取って付けたような作り。ホラー映画のお約束的展開で、意外性もないしなぜいきなりこれを?という疑問ばかり膨らむ。SFとしても『オデッセイ』撮った(まあ原作が良くできていたわけだけど・・・)人とは思えない杜撰さ。近年のSF映画では、未知の惑星に降り立つ時には(大気の成分調査済みであっても)外気を遮断するヘルメットの装着はもはやセオリーだと思うのだが、本作はいきないノーヘル。これにはのけぞった。上陸後もそれは環境汚染では?逆に宇宙船内を汚染することになるのでは?と突っ込み所がありすぎる。つまり、撮る側がこういう部分はわりとどうでもいいと思ってるんだろうなぁ・・・。
 本作のメインはデイヴィッドの創造主病というか、クリエイションに対する妄執だろう。オリジナリティは持たないはずの「作りもの」が自分の創造主をエサにして新たな創造主になろうとするわけだが、それをエイリアンと絡める必然性て、あまり感じないんだよな・・・。
 なお俳優陣に関してはファスベンダー独り勝ち。ウォルターとデイビッドをちゃんと演じ分けているのには感心した。そもそもファスベンダー以外を魅力的に撮ろうという意欲が見受けられない。

プロメテウス [Blu-ray]
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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2013-07-03





『エルネスト もう一人のゲバラ』

 1962年、ボリビアからキューバのハバナ大学医学部に留学したフレディ前村エルタード(オダギリ・ジョー)は、キューバ危機の最中にチェ・ゲバラ(ホワン・ミゲル・バレロ・アコスタ)と出会い心酔していく。やがて祖国ボリビアで軍事クーデターが起きる。フレディはゲバラの部隊への参加を決意する。監督は阪本順治。
 革命という言葉からイメージするような劇的なドラマはなく、1人の青年の大学生活、そして背景となる時代の動きを描く青春ドラマとして見た。特にキューバ危機をキューバはどのようにとらえていたのかと言う、内部からの視線は興味深かった。冒頭、ゲバラが広島訪問をするエピソードがあり、それをわざわざ入れるの?と思ったのだが、ここにつなげてきたのかと。
 青春ドラマとしても大分控えめ、情感抑え目で一見地味な作品ではあると思うし、時代背景をある程度知らないと何が起きているのかわからない(ゲバラがどういう人かということと、キューバ危機くらいは知らないときついかも)所もあるだろう。とは言え、フレディがどのような人であるか、ということはかなり丁寧に描いているように思う。
 フレディの行為に対して同級生が「彼の両親は立派だったんだな」とコメントするシーンがあるが、ああいった行為を親の教育、振る舞いの賜物と見なすんだなとはっとした。そういう感覚って、今はあまりなくなったんじゃないかなと。フレディの言動の端々から生真面目で責任感が強い人柄が窺える。そして、多少経済的に余裕のある、「ちゃんとしたおうち」に育ったということが徐々にわかってくる。
 ただ、彼の真面目さと経済的背景が、裏目に出ることもある。同級生に「君には本当の貧しさはわからないだろう」と言われるシーンがある。同級生はとにかく早く医者になって家族を食わせなくてはならないと必死で、フレディのように学生運動に参加している余裕はない。国のこと、政治のことは生活の余裕あってこそ考えられるということか。フレディは責任感によって行動しているわけだが、相手にとっては施しに見えることもある。そしてこのギャップが、最後にしっぺ返しとなってくるのだ。これは、ゲバラにも通じるものではなかったかと思う。断絶を埋めようとするものだったろう行為が、更に断絶を可視化し深めるものになってしまうのだ。
 フレディは個性が突出していたりカリスマ性があったわけではないが、道端の小石にすぎなくとも善良な一個人として生きようとしたのだろう。しかし、やはり何者かになりたかったんだろうなとも思える。呼び名として与えられた「エルネスト」の名は、与えた側にはさほどの意味はなかったかもしれないが、フレディにとってはやはり大きな意味があった。そこが何だかやるせなくもある。

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『エル ELLE』

ゲーム会社のCEOミシェル(イザベル・ユペール)は、自宅で覆面をした男に襲われレイプされる。被害に遭った後も今まで通り出勤し仕事をこなしていくミシェルは、友人たちに事件のことを報告する。警察への通報を勧められるが、彼女はかたくなに拒む。彼女には警察を毛嫌いする理由があったのだ。原作はフィリップ・ディジャンの小説『oh・・・』。監督はポール・バーホーベン。
 画期的なヒロインであると大絶賛されるのと同時に、レイプ被害の経緯の描き方に問題があると批判もされたという前評は聞いており、どんな問題作なんだろうと思っていたら、あれ?案外普通・・・。ドラマの見せ方は手堅いのでそれなりに面白いが、斬新さや強烈な何かは感じない。確かにレイプ被害に関する、主に犯人との関係の部分が変な誤解をされかねない描写なので(意図的に複数の解釈ができるような演出にしているのだとは思うが)、そこは批判されるだろうなというのはわかる。ただ、私にはミシェルがごく普通の人物であるように見えたし、彼女の行動も特に特異なものではないように思った。
 ミシェルは平均よりはしっかりとした、頭のいい人として描かれているが、特別に意思が強いとか、モンスターのようであるという印象は受けなかった。理不尽なことがあれば怒るし、攻撃されたら身を守ったりやり返したりするし、気に入らないことは気に入らないし、やりたいことはやる。こういうのは普通のことだろう。それとも、こういう態度は普通ではないと取られるのが一般的なのか?だとしたら随分とカルチャーショックがあるな・・・。
 ミシェルはそれなりに意志は強くやりたいことはやる人だが、相応の躊躇や迷いもある。彼女がレイプされたと知っていながら「俺は気にしないから」とばかりにセックスしにくる愛人にややうんざりしながらも、結局は相手をする件など、結構流されていて意外だった。また、頼りない息子を結局甘やかしてしまうところも、やはり流されている。全面的に強いというわけではないのだ。そういう所を含め、実に普通だと思う。
 特異さを感じさせるのは、むしろ引っ越していく「彼女」だろう。別れ際の一言の背後にあるものを考えると、ちょっとぞっとする。そこでなぜ食い止めないの!と。少なくともミシェルは食い止めようとしているわけなので。「彼女」が支えにしているものを思い返すと、これまたぞっとする。それは、ミシェルの父親をある行為に駆り立てたものと同じところに根差すのだ。結局自分勝手な希求、解釈を否めない類のものなのかもしれない。
 ところでユペールは、母親と多かれ少なかれ確執のある役柄を演じることが多いように思う。本作も「母親が大変」物件でもあった。ただ、母親との関係は悪いけど母親に抑圧されている感じではないので、そこは他の作品とは一味違うかなと思う。そもそも本作はそれ以上に「父親が大変(どころじゃない)」物件なんだけど・・・。ミシェルが自分を縛るものをどんどん排除していく話なので、そこは爽快だった。

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『エゴン・シーレ 死と乙女』

 1910年、美術学校を退学したエゴン・シーレ(ノア・サーベドラ)は仲間と「新芸術集団」を結成。妹ゲルティのヌード像を描き続けていた。さらに褐色の肌のモデル・モアの肖像画で注目を浴びる。敬愛するクリムトから赤毛のモデル・ヴァリを紹介されたシーレは製作に励むが、スキャンダルを起こしてしまう。監督はディター・ベルナー。
 第一次正解大戦末期のウィーンで病に倒れたシーレと妻エディットの元をゲルティが訪れるというシーンから始まる。そこから過去に遡り、時々現在の病床のシーレのエピソードに戻るという構成。シーレの人生の終盤から遡るという構成は悪くはないのだが、時代転換のタイミングが唐突で、切り替えがぎこちないように思った。切り替えの起点となるキーみたいなものがいまひとつ見つからない。これだったら、若い頃から晩年へと時間順でもよかったんじゃないかなという気もする。
 シーレは16歳の妹をヌードモデルにしていたが、妹との絆は少々深すぎ、危うい。冒頭、裸のゲルティとシーレがじゃれあう姿はセクシャルなものとして意図されていると思う。また、ゲルティはシーレが新しいモデルとしてモアに夢中になると強く嫉妬するし、シーレはシーレでゲルティがいざ結婚しようとすると猛反対する。ゲルティの結婚相手が自分の友人であることも、ゲルティが妊娠していることも許せないのだ。まだ結婚は早すぎる!21歳までダメ!って言うけどじゃあ16歳でヌードモデルさせるのはいいのかよ・・・と突っ込みたくなる。お互いに強い執着心を持っており、結局ゲルティは最後までシーレにつきあう。
 シーレはモアにもヴァリにも執着し、特にヴァリとは仕事上の頼りがいあるパートナー的な関係である様子が見て取れる。実際のヴァリは17歳の少女だったようだが、本作のヴァリは年上の女性風で、モアやエディットよりはぐっと頼りになりそうだし「ちゃんとした」大人っぽい。しかし、シーレの彼女たちに対する執着や愛情は、あくまでモデルというオブジェクト、セックスできる対象に対するもので、彼女らにそれぞれ別個の意思と欲望があるという意識があまりなさそうだ。ヴァリとエディットに「そりゃ怒るよね・・・」とため息つきたくなるような提案をする(史実だそうだ)のも、人間の心の機微が今一つわかっていないからかも。
 また、彼のスケッチにはゲルティより更に若そうな少女のヌードもあるのだが、相手の属性をあまり考えず描く対象としてしまう傾向がありそう。彼の作品には多分に性的な要素がある(本人は美術だと主張しておりそれはその通りなのだが、セクシャルな視線はあるだろう)から面倒なことに・・・。少女に告発されるエピソードは史実だそうだが。自分の行為が相手にとって、また社会的にどういう意味を持つか等考えずに製作に打ち込むというと芸術家肌っぽく聞こえるが、巻き込まれたり尻拭いをせざるを得なくなった側は大変だろう。作中のシーレはとにかく自分のこと、自分の芸術のことしか考えない人として描かれている。「新芸術集団」の仲間が創作を止めた時に激怒するのも、彼に才能があったからというより、自分が理想とする芸術家像からずれたからで、ゲルティの結婚に怒るのと同じなのだ。
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