3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画う

『失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントのほうⅡ』

マルセル・プルースト著、高遠弘美訳
 ヴィルパリジ夫人のサロンに招かれた「私」は社交界の人々がドレフュス事件や芸術、文学の話に花を咲かせるのを目の当たりにする。そして憧れのゲルマント公爵夫人と言葉を交わす機会を得る。一方、祖母の容態は次第に悪化し、「私」も母も懸命に介護するが、最後の時は近づいていた。
 光文社古典新訳文庫版もついに6冊目!超大作の本著だが、一気に読もうと思わなければ、結構読めるものだ。もちろん新しい訳は読みやすい、分かりやすいので読書が進むという面もある。今回は当時のパリの社交界の様子、サロンの雰囲気の描写がとても面白い。当時ドレフュス事件が話題になっており、本著の中でもサロンの客それぞれの立場・見解が披露される。上流階級におけるユダヤ人差別が結構あからさまで、現代の感覚で読むとちょっと退く所も。でも人間、人を貶める話題で盛り上がりがちだというのは100年経っても変わらないんだな・・・。またサロン主催者同士の張り合いや、「逆におしゃれ」を狙った逆張りのやりすぎで結局何をしたいのかよくわからなかったり、決して品が良いとは言えない面もある。様々な知識や美学が飛び交うが、野次馬根性や妬みや欲も飛び交っており、現代だったら人が集うサロンというよりもSNSでのやりとりに近い雰囲気。マウントの取り合いがなかなかイタイタしい。俗っぽさの描写のさじ加減が「私」はサロンに集う人たちに興奮するが、こんなものかという失望もあったように思えた。
 一方、祖母の衰えや容態が悪化していく様の描写は非常に生生しく、痛ましい。だんだん記憶が飛んだり混乱したりするようになり、「私」が誰だかもわからなくなってくる様子は胸に刺さる。あれはきついんだよなぁ・・・。著者にとっても渾身のパートなのではないかと思う。「私」にとって非常に大きい存在だった祖母が失われ、「私」の中で一つの時代が終わるパートなのだ。老いて意識が混濁していく当人の苦しみと、残される家族の苦しみとが克明に描かれている。祖母がいよいよ、という時にタイミングの悪い見舞客が来てうんざりする件など、ちょっと笑ってしまうのだがリアルだ。

失われた時を求めて6 (光文社古典新訳文庫)
マルセル プルースト
光文社
2018-07-11


『ウインド・リバー』

 ワイオミング州のネイティブ・アメリカンの保留地ウィンド・リバーで、ネイティブアメリカンの少女の死体が見つかった。第一発見者になった野生生物局のハンター、コリー・ランバート(ジェレミー・レナー)は、雪原の中、喀血して死んでいる少女が娘の友人ナタリー(ケルシー・アスビル)だと気付く。現場から5キロ圏内には民家は一つもなく、夜間の気温は約マイナス30度にもなるのにナタリーは薄着でしかも裸足だった。コリーは部族警察長ベン(グラハム・グリーン)と共にFBIを待つが、やってきたのは新米捜査官のジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)一人だけだった。コリーは土地に関する知識とハンターとしての能力を活かしてジェーンの捜査に協力する。監督はテイラー・シェリダン。
 荒涼とした土地とどこまでも広がる雪原そして雪山、殺伐かつ閉塞した人間関係、不可解な死体、そしてジェレミー・レナーという私の好きなものがぱんぱんに詰まっている、この夏一番楽しみにしていた作品。期待を裏切らない自分好みさと面白さだった。地味な作品ではあるが、お勧めしたい。早川書房あたりから原作小説が出版されていそうな雰囲気だが、映画オリジナル作品。ハンターとしてのスキルを活かすコリーと、まだ不慣れながら職責を全うしようとすジェーンのバディ感もよかった。
 コリーが「(自分の)感情と闘う」という言葉を口にするが、全編がこの言葉に貫かれているように感じた。コリーにしろその元妻にしろ、一見ごく落ち着いた振る舞い、ごく普通のやりとりをしている。しかし彼らの背景には取り返しのつかない出来事があり、怒りと悲しみ、また自責の念といった感情が彼らをずっと苛み続けていると徐々にわかってくる。その感情が人生を侵食し尽くさないよう、コリーは静かに戦ってきたし、これからも戦い続けるのだろう。殺人事件の捜査はその一環でもあるのだ。終盤、ある写真を見た瞬間のコリーの表情、またナタリーの父親とのやりとりが胸を刺す。ナタリーの父親もまた、自分の感情と戦い続けることになるのだろう。戦う人同士の共感のようなものが、コリーとジェーン、そしてナタリーの間にもあるように思った。
 物語のもう一つの主人公は舞台となる土地そのものとも言える。風土の力のようなものが強烈だった。自然環境が厳しいという意味でも強烈なのだが、人が住むには荒涼としすぎており、そこに対する国からのケアというものが感じられない。土地は広大なのに警察官はわずかで手が行き届かないし、FBIも(吹雪に邪魔されたとはいえ)なかなか来ない。外から来た白人たちは、この土地がそもそもどういう土地だったかなど気にもしない。忘れられた土地、忘れられた人々の世界とも言える。そういう土地だから起きた事件であるという事件の真相は、あまりにやりきれない。


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2014-04-02


『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』

 第2次世界大戦下、ドイツは進撃を続けフランスは陥落寸前、連合軍は北フランスの港町ダンケルクの浜辺まで追い詰められた。就任したばかりの英国首相ウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)は、ヒトラーとの和平交渉か徹底抗戦か、選択を迫られる。外相ハリファックスはイタリアを仲介役とした和平路線を推すが、チャーチルは徹底抗戦に傾いていた。監督はジョー・ライト。オールドマンは本作で第90回アカデミー賞主演男優賞を受賞した。
 オールドマンが全編特殊メイクで熱演、その特殊メイクを手掛けた辻一弘がアカデミー賞メイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したことでも話題になった(特殊メイクは言われないとわからない、言われてもわからないレベル)本作だが、オーソドックスな歴史劇として面白かった。チャーチルが首相就任してからイギリスが全面的に開戦を選ぶまでの短い期間を描いているのだが、日付が毎日、あるいは数日刻みで表示され、緊迫感を強める。イギリスにとっては本当に「時間の問題」な状況なんだと感じられるのだ。ガレー陥落への顛末等、当時のイギリスはここまで追い詰められていたのかと改めて実感する。その中でダンケルクからの救出を成功させたのは、奇跡みたいなものだったんだなと。
 サブタイトルに「ヒトラーから世界を救った男」とあるが、これは結果論にすぎない。事態の最中にいるチャーチルには当然、自分の選択がどういう結果になるかはわからない。他の政治家たちも同様で、更に戦況が苛烈になるチャーチルの強硬路線には諸手を挙げて賛成しにくいし、和平路線を選んでも英国側の要望が通るとは考えにくく実質降伏みたいなものだろうからこれも賛成しにくい。全員が右の地獄か左の地獄かという究極の選択を強いられているわけで、こういう状況で政治家たちがどのように考え動くのかという面でも面白かった。本作に登場する政治家は主に保守党の(まあ家柄のいい)人たちだが、結構ことなかれ主義に見える。(実際はどうだったのか知らないしドラマとしてちょっと作りすぎかなという気はするが)庶民の方が戦争もやむなしみたいな姿勢に描かれていた。庶民、労働者の方が「自分たちの国だから好き勝手させない」という意識が強烈な所が英国のお国柄なのかな。ハリファクスたちはヒトラーの真意について見込みが甘かったという面もあるだろうけど・・・。もしドイツのトップがヒトラーでなければ、チャーチルも和平交渉に傾いたのではないかなという気もする。

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ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2017-12-20






『戦狼/ウルフ・オブ・ウォー』

 元中国軍の特殊部隊員だった退役軍人レン・フォン(ウー・ジン)は、アフリカ各地を回る輸入業者として第2の人生を歩んでいた。しかしアフリカで内戦が勃発。戦火を逃れ避難しようとするが、現地で馴染の少年の母親が内戦下の工場に取り残されていると知り、再び戦地へと身を投じる。監督・脚本はウー・ジン。
 シリーズ前作『ウルフ・オブ・ウォー ネイビーシールズ傭兵部隊vsPLA特殊部隊』は未見なのだが、特に問題なく見ることが出来た。なおエンドロールを見る限り続編も作られそう(なので、エンドロールは少なくとも途中までご覧になることをお勧めする)。
 とにかくレンが強い!冒頭、とある事情で海に飛び込むところからして、えっ飛びこんじゃうのー!?とびっくりさせられるのだが、全編そんな感じでとにかく何でも自分でこなす。退役のきっかけになった事件も、その現場自体は映されないのだが結果を見る限りレン無双状態だし、1人でどれだけやれるんだ!後半は仲間が増えるが、それにしても強すぎ。
 アクションの精度はとにかくすごく、ウー・ジンの身体能力を存分に堪能できるウー・ジン劇場状態だ。至近距離の肉弾戦はもちろん、銃撃戦やチームで連携しての敵陣攻略等、バリエーションも広い。まさか戦車戦まで持ち出してくるとは・・・。強さがどんどんインフレ状態を起こしていき、段々奇妙な感じになってくる。敵となるアフリカの反政府軍の装備がやたらと充実していて(海外からの傭兵多数雇ってるし火器銃器どころか戦車も大量に保有してるし・・・)、組織の資金源はどこなのか気になってしょうがない。その大量の火器銃器に数人で対応してしまうレンの強さがそもそもとんでもないんだけど・・・。
 ストーリーはかなり大味で、アフリカである必然性はそれほどないし(そもそもアフリカって言っても相当広いのにどのあたりのエリアなのかも示唆されない)、伝染病のエピソードを組み込む必要もあまり感じない。伝染病によって地理的に足止めされるとか、レンの動きに足かせをつけるとかいう目的なのかと思っていたら、レンが強すぎてあんまり機能していないんだよね・・・。とにかく中国は強い!自国民を見捨てない!というメッセージは一貫しているのだが。



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2017-06-07


『海よりもまだ深く』

 15年前に文学賞を受賞したことがある良多(阿部寛)は、その後泣かず飛ばずだったが小説家の道を諦めきれず、「取材」と称して探偵事務所で働いている。常に金欠で母・淑子(樹木希林)が不在のうちに実家を家探ししたり、姉(小林聡美)にたかったり。良多は離婚した元妻の響子(真木よう子)に未練があり、息子の真悟(吉澤太陽)から響子の近況を聞き出すだけでは飽き足らず、彼女を尾行し新しく恋人が出来たことを知ってショックを受ける。監督は是枝裕和。
 良多の情けなさがなかなか堂に入っている。阿部寛がちゃんと貧乏くさく見えるから相当のものだ。父親の遺品や母親のへそくりを探し回ったり、元妻への執着を断ち切れず嫉妬丸出しにするのはともかく、高校生に対する脅迫まがいは、完全にアウトだろう。戯画的なのでユーモラスに見えるが、やっていることは結構ひどい。熱意の方向が間違っている。嵐の夜になりゆきで淑子の家に泊まることになった響子へのある行為も、ああこの人本当にわかってないし色々とダメなんだなと呆れるようなもの。
 良多は文学賞受賞以来、まともに作品を完成させていないようだが、作家としての道はあきらめておらず、ネタになりそうな言葉を書き留め続けている。しかし、マンガ原作をやらないかという出版社の申し出は見栄を張って断ってしまう(後で後悔しているみたいだが)。形はどうあれ、作家として生計を立てていくという道の方が現実的だが、その覚悟がないというか、見切りが付けられないのだ。見切りが付けられないというのは、響子との関係も同様だ。客観的に見て響子の心はもう良多にはないのだが、もしかしたらという思いを捨てられない。どこか、よりを戻せるのではと思っているふしがある。ならばせめてギャンブルを絶ち父親として養育費をちゃんと払い、息子を育てることに協力できるのかというと、それも出来ない。万事が中途半端だ。
 良多の中途半端さは、自分はこんなものじゃない、という思いから生じているように見える。作家としてもうちょっとやれるはずだから、家族としてもう一度やり直せるはずだからという思い込みだ。探偵事務所での仕事がいつまでもアルバイト感覚で、あっさりとルール違反をするのも、それが腰かけのつもりだからだろう。今の自分はかつて思い描いた未来の姿ではないから、なんとか気持ちの上だけでも底上げがしたいという思いは、滑稽と割り切れず痛切だ。淑子があこがれるクラシック音楽の「先生」にも、そういう傾向が見えて痛痒いような気持ちになった。何者にもなれなかった自分を受け入れるのは、なかなか苦しい。
 セリフがかなり饒舌でちょっとうるさい(作中で「ドリフじゃないんだから」とちゃんとツッコミがはいる)くらいだし、少々戯画的すぎるんじゃないかという気がしたが、良多のダメな大人加減が切実で他人事とは思えなかった。ただ、探偵事務所の後輩・町田(池松壮亮)は良多に妙に懐き、何かと彼を助ける。町田によると「恩があるから」だそうだが、良多には心当たりがないし、作中でそれが説明されることもない。淑子のセリフに「(役に立たなさそうでも)どこかで役に立っているのよ」という言葉があるが、そういうことなのだろうか。それに自分では気づかないというのは皮肉でもあるが。終盤に明かされる父親に関するエピソードにしろ、かつての響子との関係にしろ、良多は自分の身近なことには諸々気付かない人なのかもしれない。 気付いた時は、いつも相手は去っているのだ。

『ウィー・アー・ザ・ベスト』

 トーキョーノーザンライツフェスティバルにて鑑賞。1982年ストックホルム。パンクを愛する13歳の少女ボボとクラーラは、楽器もろくに扱えないがバンドを結成。ギターが上手なクリスチャンの少女ヘドヴィグを強引にメンバーに加え、活動を開始する。監督はルーカス・ムーディソン。2013年の作品。
 パンクは自由だ!とボボとクラーラは反骨精神を発揮し張り切る。その姿は生き生きとしていてキュート。ただ、彼女らが思う自由と、他人が思う自由は違うかもしれないということには思い当たらないところは、まだまだ子供っぽい。ヘドヴィグとの宗教問答や、髪の毛をめぐるあれこれが印象に残った。
 クラーラとボボはパンクスっぽくしようとヘドヴィグの髪の毛を(一応ヘドヴィグも同意するが)短く切ってしまい、それをヘドヴィグの母親にいじめではないかととがめられる。クラーラは良かれと思ってやっているのでヘドヴィグの母の言い分には納得しないが、友達であることを担保として強引に押し切ったという面も確かにある。ヘドヴィグの母親は、自分と一緒に定期的に教会へ礼拝に行くなら許すという(このあたり、ヘドヴィグの母親の冷静な対応が良かった。彼女はクリスチャンだが、娘の行動を信仰を理由に押さえつけている様子はないし、ボボやクラーラに対しても信仰を理由に糾弾することはない)。無神論者のクラーラはそれはできないと言うが、クラーラがヘドヴィグにしたことはこれと同じだ。友達であれ何であれ、お互いの意見を話し合うことと、自分の価値観を相手に強要することとは違う。ボボはそれに気づくが、クラーラはなかなか認めない。
 クラーラはパンクスとしてふるまうが、容貌へのコンプレックスが強く少々内気なボボとは異なり、社交的でで勉強もそこそこ出来、小さい頃から人気者だった。両親もおおらかで、自分を否定されることがあまりない環境で育ったのだろう。自分に自信があるという良さはあるが、相手の心情に対して鈍感で、自分に非があるとはあまり考えないという難点がある。男の子をめぐってのボボとのいざこざも、どっちもどっちと言えばそれまでだが、自分がいいと思ったことがいい、というスタンスが独善的でもある。自分を尊重することと他人を尊重することのバランスがまだ取れていないあたり、子供なのだ。
 周囲を気にしないクラーラと、若干気にしすぎなボボとは良いコンビといえば良いコンビなのだが・・・。2人に対して、ヘドヴィグは大人びた落ち着きがある。3人のバランスがよかった。

『ヴィンセントが教えてくれたこと』

 酒とギャンブルに溺れる年配男性ヴィンセント(ビル・マーレイ)は一人暮らし。時々娼婦のダカ(ナオミ・ワッツ)を家に呼ぶくらいで人づきあいは皆無だった。しかしある日、隣にシングルマザー・マギーと12歳の息子オリバー(ジェイデン・リーベラー)が越してくる。病院の技師として残業続きのマギーに、オリバーを預かってほしいと頼まれる。時給をもらう約束をとりつけオリバーを預かったヴィンセントだが、競馬場やパブにオリバーを連れ出してしまう。監督はセオドア・メルフィ。
 原題は『St.Vincent』。なぜ聖人?と思ったが、最後まで見るとなるほどと。これはいい題名だな(邦題は、日本でならこっちの方がわかりやすいだろうなと思うので、これはこれでいい)。ヴィンセントは聖人とは程遠い、「ちょいワル」なんてこじゃれたものじゃない、単なる素行不良でだらしない年配者だ。打つ、買う、飲むの3拍子が揃っていて子供の教育上大変よろしくなさそう。実際、オリバーをパブや競馬場に同伴させて、マギーの立場を難しいものにしてしまう。しかしオリバーはヴィンセントと接するうちに、彼なりの優しさや責任感があり、愛すべき部分があるとわかっていく。単なるダメ男ではなく、ヴィンセントという一人の人間としての人生があるということを理解していくのだ。ヴィンセントは子供が苦手で接し方をよくわかっていないが、それがかえってオリバーと一対一の個人同士としての関係を作っていったのだろう(ただ、まるっきり大人同士みたいに接するのもよくないよ、とも言及されているが)。
 ヴィンセントも、オリバーがいることで救われた部分があるのだと思う。オリバーがヴィンセントを無価値な人間ではなく、いい部分も悪い部分もひっくるめた「ヴィンセントという人」として理解したことが、ヴィンセントの心をほぐしていくのだ。ラストは、そりゃあ泣くよな!と納得するもの。いびつでも不細工でも、その人にはその人なりの人生があって、無価値ではないのだと言われている気がするのだ。
 それはヴィンセントに限らず、本作に登場する人全てに言えることだ。マギーもダカも、オリバーの同級生も色々難点のある人間だ。しかし、だからといってその人全体がダメだってことにはならない。最後の食事シーンも、大しておいしそうではないし、全員の調和がとれているわけでもない(テーブルや椅子のセッティングもその場しのぎっぽい)。でもそこがいいんだと思う。
 なお、ネコが名演だった。

『海街diary』

 鎌倉の古い一軒家で、姉妹だけで暮らしている香田家の、長女・幸(綾瀬はるか)、二女・佳乃(長澤まさみ)、三女・千佳(夏帆)。ある日、15年前に家を出た父親の訃報が山形から届く。そこで出会ったのは異母妹の浅野すず(広瀬すず)だった。身よりのないすずに、幸は一緒に鎌倉で暮らそうと声を掛ける。原作は吉田秋生の同名漫画。監督・脚本は是枝裕和。
 原作を上手くアレンジしていると思う。原作よりも時間が圧縮されているからか、そういえばかなり陰影の深い、病気や死にまつわるエピソードと隣り合わせの作品だったんだなと再確認した。そこも含めての人の営みが描かれていたんだなと。
 穏やかに淡々と描かれているように見えるが、時折激しい感情が表出する。特に、幸の母親に対する姿には、こういうことってあるよなという説得力があった。妹たちは母親に会えて結構嬉しそうにしているのだが、なまじ当時の記憶があって妹たちに対する責任感もあるだけに、それを放棄したように見える母親のことは、どうしても許せないのだ。多分幸も、母親にそれを言ってどうにかなるわけではないし自分の気がすむわけではないこともわかっているのだろう。でも気持ちと折り合いがつかず、顔を会わせると険悪になる。母親を演じているのは大竹しのぶなのだが、幸が許せない存在としての説得力がすごくて唸った。これは人選が的確すぎる。本人悪気はないが何かやるごとに色々角が立つという雰囲気が抜群だった。
 姉妹の間の役割分担やちょっとした軋轢は、原作よりもよりクリティカルにひりひりと感じられた。実写だとコミカルさの記号性が薄れるからだろうか。特に千佳が姉たちの顔色を見てクッションとして立ち回る姿には、ちょっとひやりとした(私がそういう立ち回りを目にするのが好きではないということなんだけど・・・)。
 4姉妹それぞれの1年間の変遷であると同時に、すずが姉たちに心を開いていく、信頼関係を築いていく過程を追った物語でもある。すずと他の3人との関係が変わる起点みたいなものが、要所要所ですぱっと提示されていたように思う。特に、父親の葬儀でのシーンが印象深い。幸の「だめです」というきっぱりとした言葉は、すずを子供として守ろうとするものだった。だからすずは、幸たちと暮らすことを選んだのだろう。

『ヴェラの祈り』

 美しい妻ヴェラ(マリア・ボネビー)と2人の子供と暮らすアレックス(コンスタンチン・ラブロネンコ)。一家はアレックスの父親が遺した田舎の家で夏を過ごすことになった。長閑な田舎の生活を楽しむ一家だが、ヴェラがアレックス以外の男性の子供を妊娠していると告白し、夫婦の間に亀裂が入る。監督はアンドレイ・ズビャギンツェフ。原作はウィリアム・サロイヤンの小説。
 ヴェラが何を思い、何を考えているのかは、映画中盤まであまり言及されない。むしろ、アレックスの表情、行動にスポットが当たっており、アレックス主体の物語のように見える。ヴェラは作品上の「謎」として宙吊り状態のままなのではと思って見ていた。が、終盤になって、そうじゃなくて単に(アレックスが)不注意なだけか!という怒涛の過去シーンが。冷や水を浴びせられたようなはっとするものがあった。
 終盤で彼女が吐露する思いは、アレックスにも、その他の人たちにも理解されにくいものだろう。単にメンヘラ女扱いされて終わりと言うこともありうる。が、彼女にとっては生死に関わるくらいの問題だろう。そのギャップが、おそらく更に彼女を苦しめる。彼女の行動は極端にも思えるが、わかってもらえないなら、祈るくらいしかないではないか。同監督の『エレナの惑い』と合わせて見たが、エレナよりヴェラの方が生き方が難儀そう。エレナは「母」であることを選んだが、ヴェラは母親としての自分も妻としての自分も選びきれない、その役柄を装いきれなかったのではないか。それは彼女のせいではないと思うが、それだけにいたたまれない。
 物語のスケールに対して長尺すぎて、もっとコンパクトに締めてほしかった。同じシチュエーションの反復が多いが、そんなにやらなくてもなと思った。ただ、田舎の風景は大変美しく、ずっと眺めていたくなる。夏といっても小麦が色づくくらいの陽気で、黄金色の丘が連なっており絵本のよう。古びた教会や古い家々も絵になる。

『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』

 SFアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を新たな解釈でリメイクし、2013年にテレビ放送された『宇宙戦艦ヤマト2199』の新作劇場版。2199年、イスカンダルから地球への帰路についた戦艦ヤマト。しかしガミラスとは別種族の機動部隊ガトランティスに追われる。戦闘を避けてワープしたところ、異空間に迷い込み、謎の惑星に不時着した。古代進(小野大輔)を含む5人のクルーが上陸するが、奇妙なホテルに迷い込んでしまう。そこで出会ったのは、ヤマトへの復讐を誓うガミラスのフォムト・バーガー少佐(諏訪部順一)だった。
 私は『宇宙戦艦ヤマト』をちゃんシリーズ通して見たことがないのだが、TVシリーズのヤマト2199はとても面白かったし、旧来のファンにも概ね納得のいくリメイクだったのではと思う。新作劇場版は、戦いを終えたヤマトが地球に帰る途中のエピソードという設定なのだが、後日談ではなく途中の話とした位置づけは正解だったのではないか。収まりがいいし、付け加えてもシリーズそのもののラストには影響がない。
 本シリーズを見ていて面白かった、というか嫌な気分にならなかった一因は、地球人だけではなくガミラスの人たちにもちゃんと個々の人格があって、それぞれ政治があって、一枚岩ではないという世界の作り方をしていたところだと思う。TVシリーズでは、一応地球とガミラスが「手打ち」状態になっているが、それに納得しない一派ももちろんいるわけだ。そして、ガミラス以外の種族もいて、必ずしも円満な関係ではないというところも。
冒頭にヤマトクルー以外の別エピソードを持ってきており、何で出してきたのかな?と思ったが、最後まで見るとなるほど(とまではいかないけど、まあそういう方向性にしたのねという了解はできる)と。「帰る」ということが一つのテーマとなっているのだ。地球人であれガミラスであれ、とにかく彼らがちゃんと「帰る」ことが大事にされていたと思う。対して「方舟」は帰る場所を失った人たちの場所だった。
 TVシリーズはTV放送でこのクオリティ!という豪華さだったので、劇場版を見てもそれほど(作画面での)感銘を受けないのはいいんだか悪いんだかという感じだが、戦艦戦はやはり大画面に映えて華やか。キャラクター作画は所々(特に後半)大画面だと若干辛いかな、という部分もあったが、気になるほどではなかった。なお、キャラクターの演技のデフォルメの仕方が妙にレトロだなと思ったところがあるのだが、あえてなのかなー。

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