マルセル・プルースト著、高遠弘美訳
ヴィルパリジ夫人のサロンに招かれた「私」は社交界の人々がドレフュス事件や芸術、文学の話に花を咲かせるのを目の当たりにする。そして憧れのゲルマント公爵夫人と言葉を交わす機会を得る。一方、祖母の容態は次第に悪化し、「私」も母も懸命に介護するが、最後の時は近づいていた。
光文社古典新訳文庫版もついに6冊目!超大作の本著だが、一気に読もうと思わなければ、結構読めるものだ。もちろん新しい訳は読みやすい、分かりやすいので読書が進むという面もある。今回は当時のパリの社交界の様子、サロンの雰囲気の描写がとても面白い。当時ドレフュス事件が話題になっており、本著の中でもサロンの客それぞれの立場・見解が披露される。上流階級におけるユダヤ人差別が結構あからさまで、現代の感覚で読むとちょっと退く所も。でも人間、人を貶める話題で盛り上がりがちだというのは100年経っても変わらないんだな・・・。またサロン主催者同士の張り合いや、「逆におしゃれ」を狙った逆張りのやりすぎで結局何をしたいのかよくわからなかったり、決して品が良いとは言えない面もある。様々な知識や美学が飛び交うが、野次馬根性や妬みや欲も飛び交っており、現代だったら人が集うサロンというよりもSNSでのやりとりに近い雰囲気。マウントの取り合いがなかなかイタイタしい。俗っぽさの描写のさじ加減が「私」はサロンに集う人たちに興奮するが、こんなものかという失望もあったように思えた。
一方、祖母の衰えや容態が悪化していく様の描写は非常に生生しく、痛ましい。だんだん記憶が飛んだり混乱したりするようになり、「私」が誰だかもわからなくなってくる様子は胸に刺さる。あれはきついんだよなぁ・・・。著者にとっても渾身のパートなのではないかと思う。「私」にとって非常に大きい存在だった祖母が失われ、「私」の中で一つの時代が終わるパートなのだ。老いて意識が混濁していく当人の苦しみと、残される家族の苦しみとが克明に描かれている。祖母がいよいよ、という時にタイミングの悪い見舞客が来てうんざりする件など、ちょっと笑ってしまうのだがリアルだ。