3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画う

『海よりもまだ深く』

 15年前に文学賞を受賞したことがある良多(阿部寛)は、その後泣かず飛ばずだったが小説家の道を諦めきれず、「取材」と称して探偵事務所で働いている。常に金欠で母・淑子(樹木希林)が不在のうちに実家を家探ししたり、姉(小林聡美)にたかったり。良多は離婚した元妻の響子(真木よう子)に未練があり、息子の真悟(吉澤太陽)から響子の近況を聞き出すだけでは飽き足らず、彼女を尾行し新しく恋人が出来たことを知ってショックを受ける。監督は是枝裕和。
 良多の情けなさがなかなか堂に入っている。阿部寛がちゃんと貧乏くさく見えるから相当のものだ。父親の遺品や母親のへそくりを探し回ったり、元妻への執着を断ち切れず嫉妬丸出しにするのはともかく、高校生に対する脅迫まがいは、完全にアウトだろう。戯画的なのでユーモラスに見えるが、やっていることは結構ひどい。熱意の方向が間違っている。嵐の夜になりゆきで淑子の家に泊まることになった響子へのある行為も、ああこの人本当にわかってないし色々とダメなんだなと呆れるようなもの。
 良多は文学賞受賞以来、まともに作品を完成させていないようだが、作家としての道はあきらめておらず、ネタになりそうな言葉を書き留め続けている。しかし、マンガ原作をやらないかという出版社の申し出は見栄を張って断ってしまう(後で後悔しているみたいだが)。形はどうあれ、作家として生計を立てていくという道の方が現実的だが、その覚悟がないというか、見切りが付けられないのだ。見切りが付けられないというのは、響子との関係も同様だ。客観的に見て響子の心はもう良多にはないのだが、もしかしたらという思いを捨てられない。どこか、よりを戻せるのではと思っているふしがある。ならばせめてギャンブルを絶ち父親として養育費をちゃんと払い、息子を育てることに協力できるのかというと、それも出来ない。万事が中途半端だ。
 良多の中途半端さは、自分はこんなものじゃない、という思いから生じているように見える。作家としてもうちょっとやれるはずだから、家族としてもう一度やり直せるはずだからという思い込みだ。探偵事務所での仕事がいつまでもアルバイト感覚で、あっさりとルール違反をするのも、それが腰かけのつもりだからだろう。今の自分はかつて思い描いた未来の姿ではないから、なんとか気持ちの上だけでも底上げがしたいという思いは、滑稽と割り切れず痛切だ。淑子があこがれるクラシック音楽の「先生」にも、そういう傾向が見えて痛痒いような気持ちになった。何者にもなれなかった自分を受け入れるのは、なかなか苦しい。
 セリフがかなり饒舌でちょっとうるさい(作中で「ドリフじゃないんだから」とちゃんとツッコミがはいる)くらいだし、少々戯画的すぎるんじゃないかという気がしたが、良多のダメな大人加減が切実で他人事とは思えなかった。ただ、探偵事務所の後輩・町田(池松壮亮)は良多に妙に懐き、何かと彼を助ける。町田によると「恩があるから」だそうだが、良多には心当たりがないし、作中でそれが説明されることもない。淑子のセリフに「(役に立たなさそうでも)どこかで役に立っているのよ」という言葉があるが、そういうことなのだろうか。それに自分では気づかないというのは皮肉でもあるが。終盤に明かされる父親に関するエピソードにしろ、かつての響子との関係にしろ、良多は自分の身近なことには諸々気付かない人なのかもしれない。 気付いた時は、いつも相手は去っているのだ。

『ウィー・アー・ザ・ベスト』

 トーキョーノーザンライツフェスティバルにて鑑賞。1982年ストックホルム。パンクを愛する13歳の少女ボボとクラーラは、楽器もろくに扱えないがバンドを結成。ギターが上手なクリスチャンの少女ヘドヴィグを強引にメンバーに加え、活動を開始する。監督はルーカス・ムーディソン。2013年の作品。
 パンクは自由だ!とボボとクラーラは反骨精神を発揮し張り切る。その姿は生き生きとしていてキュート。ただ、彼女らが思う自由と、他人が思う自由は違うかもしれないということには思い当たらないところは、まだまだ子供っぽい。ヘドヴィグとの宗教問答や、髪の毛をめぐるあれこれが印象に残った。
 クラーラとボボはパンクスっぽくしようとヘドヴィグの髪の毛を(一応ヘドヴィグも同意するが)短く切ってしまい、それをヘドヴィグの母親にいじめではないかととがめられる。クラーラは良かれと思ってやっているのでヘドヴィグの母の言い分には納得しないが、友達であることを担保として強引に押し切ったという面も確かにある。ヘドヴィグの母親は、自分と一緒に定期的に教会へ礼拝に行くなら許すという(このあたり、ヘドヴィグの母親の冷静な対応が良かった。彼女はクリスチャンだが、娘の行動を信仰を理由に押さえつけている様子はないし、ボボやクラーラに対しても信仰を理由に糾弾することはない)。無神論者のクラーラはそれはできないと言うが、クラーラがヘドヴィグにしたことはこれと同じだ。友達であれ何であれ、お互いの意見を話し合うことと、自分の価値観を相手に強要することとは違う。ボボはそれに気づくが、クラーラはなかなか認めない。
 クラーラはパンクスとしてふるまうが、容貌へのコンプレックスが強く少々内気なボボとは異なり、社交的でで勉強もそこそこ出来、小さい頃から人気者だった。両親もおおらかで、自分を否定されることがあまりない環境で育ったのだろう。自分に自信があるという良さはあるが、相手の心情に対して鈍感で、自分に非があるとはあまり考えないという難点がある。男の子をめぐってのボボとのいざこざも、どっちもどっちと言えばそれまでだが、自分がいいと思ったことがいい、というスタンスが独善的でもある。自分を尊重することと他人を尊重することのバランスがまだ取れていないあたり、子供なのだ。
 周囲を気にしないクラーラと、若干気にしすぎなボボとは良いコンビといえば良いコンビなのだが・・・。2人に対して、ヘドヴィグは大人びた落ち着きがある。3人のバランスがよかった。

『ヴィンセントが教えてくれたこと』

 酒とギャンブルに溺れる年配男性ヴィンセント(ビル・マーレイ)は一人暮らし。時々娼婦のダカ(ナオミ・ワッツ)を家に呼ぶくらいで人づきあいは皆無だった。しかしある日、隣にシングルマザー・マギーと12歳の息子オリバー(ジェイデン・リーベラー)が越してくる。病院の技師として残業続きのマギーに、オリバーを預かってほしいと頼まれる。時給をもらう約束をとりつけオリバーを預かったヴィンセントだが、競馬場やパブにオリバーを連れ出してしまう。監督はセオドア・メルフィ。
 原題は『St.Vincent』。なぜ聖人?と思ったが、最後まで見るとなるほどと。これはいい題名だな(邦題は、日本でならこっちの方がわかりやすいだろうなと思うので、これはこれでいい)。ヴィンセントは聖人とは程遠い、「ちょいワル」なんてこじゃれたものじゃない、単なる素行不良でだらしない年配者だ。打つ、買う、飲むの3拍子が揃っていて子供の教育上大変よろしくなさそう。実際、オリバーをパブや競馬場に同伴させて、マギーの立場を難しいものにしてしまう。しかしオリバーはヴィンセントと接するうちに、彼なりの優しさや責任感があり、愛すべき部分があるとわかっていく。単なるダメ男ではなく、ヴィンセントという一人の人間としての人生があるということを理解していくのだ。ヴィンセントは子供が苦手で接し方をよくわかっていないが、それがかえってオリバーと一対一の個人同士としての関係を作っていったのだろう(ただ、まるっきり大人同士みたいに接するのもよくないよ、とも言及されているが)。
 ヴィンセントも、オリバーがいることで救われた部分があるのだと思う。オリバーがヴィンセントを無価値な人間ではなく、いい部分も悪い部分もひっくるめた「ヴィンセントという人」として理解したことが、ヴィンセントの心をほぐしていくのだ。ラストは、そりゃあ泣くよな!と納得するもの。いびつでも不細工でも、その人にはその人なりの人生があって、無価値ではないのだと言われている気がするのだ。
 それはヴィンセントに限らず、本作に登場する人全てに言えることだ。マギーもダカも、オリバーの同級生も色々難点のある人間だ。しかし、だからといってその人全体がダメだってことにはならない。最後の食事シーンも、大しておいしそうではないし、全員の調和がとれているわけでもない(テーブルや椅子のセッティングもその場しのぎっぽい)。でもそこがいいんだと思う。
 なお、ネコが名演だった。

『海街diary』

 鎌倉の古い一軒家で、姉妹だけで暮らしている香田家の、長女・幸(綾瀬はるか)、二女・佳乃(長澤まさみ)、三女・千佳(夏帆)。ある日、15年前に家を出た父親の訃報が山形から届く。そこで出会ったのは異母妹の浅野すず(広瀬すず)だった。身よりのないすずに、幸は一緒に鎌倉で暮らそうと声を掛ける。原作は吉田秋生の同名漫画。監督・脚本は是枝裕和。
 原作を上手くアレンジしていると思う。原作よりも時間が圧縮されているからか、そういえばかなり陰影の深い、病気や死にまつわるエピソードと隣り合わせの作品だったんだなと再確認した。そこも含めての人の営みが描かれていたんだなと。
 穏やかに淡々と描かれているように見えるが、時折激しい感情が表出する。特に、幸の母親に対する姿には、こういうことってあるよなという説得力があった。妹たちは母親に会えて結構嬉しそうにしているのだが、なまじ当時の記憶があって妹たちに対する責任感もあるだけに、それを放棄したように見える母親のことは、どうしても許せないのだ。多分幸も、母親にそれを言ってどうにかなるわけではないし自分の気がすむわけではないこともわかっているのだろう。でも気持ちと折り合いがつかず、顔を会わせると険悪になる。母親を演じているのは大竹しのぶなのだが、幸が許せない存在としての説得力がすごくて唸った。これは人選が的確すぎる。本人悪気はないが何かやるごとに色々角が立つという雰囲気が抜群だった。
 姉妹の間の役割分担やちょっとした軋轢は、原作よりもよりクリティカルにひりひりと感じられた。実写だとコミカルさの記号性が薄れるからだろうか。特に千佳が姉たちの顔色を見てクッションとして立ち回る姿には、ちょっとひやりとした(私がそういう立ち回りを目にするのが好きではないということなんだけど・・・)。
 4姉妹それぞれの1年間の変遷であると同時に、すずが姉たちに心を開いていく、信頼関係を築いていく過程を追った物語でもある。すずと他の3人との関係が変わる起点みたいなものが、要所要所ですぱっと提示されていたように思う。特に、父親の葬儀でのシーンが印象深い。幸の「だめです」というきっぱりとした言葉は、すずを子供として守ろうとするものだった。だからすずは、幸たちと暮らすことを選んだのだろう。

『ヴェラの祈り』

 美しい妻ヴェラ(マリア・ボネビー)と2人の子供と暮らすアレックス(コンスタンチン・ラブロネンコ)。一家はアレックスの父親が遺した田舎の家で夏を過ごすことになった。長閑な田舎の生活を楽しむ一家だが、ヴェラがアレックス以外の男性の子供を妊娠していると告白し、夫婦の間に亀裂が入る。監督はアンドレイ・ズビャギンツェフ。原作はウィリアム・サロイヤンの小説。
 ヴェラが何を思い、何を考えているのかは、映画中盤まであまり言及されない。むしろ、アレックスの表情、行動にスポットが当たっており、アレックス主体の物語のように見える。ヴェラは作品上の「謎」として宙吊り状態のままなのではと思って見ていた。が、終盤になって、そうじゃなくて単に(アレックスが)不注意なだけか!という怒涛の過去シーンが。冷や水を浴びせられたようなはっとするものがあった。
 終盤で彼女が吐露する思いは、アレックスにも、その他の人たちにも理解されにくいものだろう。単にメンヘラ女扱いされて終わりと言うこともありうる。が、彼女にとっては生死に関わるくらいの問題だろう。そのギャップが、おそらく更に彼女を苦しめる。彼女の行動は極端にも思えるが、わかってもらえないなら、祈るくらいしかないではないか。同監督の『エレナの惑い』と合わせて見たが、エレナよりヴェラの方が生き方が難儀そう。エレナは「母」であることを選んだが、ヴェラは母親としての自分も妻としての自分も選びきれない、その役柄を装いきれなかったのではないか。それは彼女のせいではないと思うが、それだけにいたたまれない。
 物語のスケールに対して長尺すぎて、もっとコンパクトに締めてほしかった。同じシチュエーションの反復が多いが、そんなにやらなくてもなと思った。ただ、田舎の風景は大変美しく、ずっと眺めていたくなる。夏といっても小麦が色づくくらいの陽気で、黄金色の丘が連なっており絵本のよう。古びた教会や古い家々も絵になる。

『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』

 SFアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を新たな解釈でリメイクし、2013年にテレビ放送された『宇宙戦艦ヤマト2199』の新作劇場版。2199年、イスカンダルから地球への帰路についた戦艦ヤマト。しかしガミラスとは別種族の機動部隊ガトランティスに追われる。戦闘を避けてワープしたところ、異空間に迷い込み、謎の惑星に不時着した。古代進(小野大輔)を含む5人のクルーが上陸するが、奇妙なホテルに迷い込んでしまう。そこで出会ったのは、ヤマトへの復讐を誓うガミラスのフォムト・バーガー少佐(諏訪部順一)だった。
 私は『宇宙戦艦ヤマト』をちゃんシリーズ通して見たことがないのだが、TVシリーズのヤマト2199はとても面白かったし、旧来のファンにも概ね納得のいくリメイクだったのではと思う。新作劇場版は、戦いを終えたヤマトが地球に帰る途中のエピソードという設定なのだが、後日談ではなく途中の話とした位置づけは正解だったのではないか。収まりがいいし、付け加えてもシリーズそのもののラストには影響がない。
 本シリーズを見ていて面白かった、というか嫌な気分にならなかった一因は、地球人だけではなくガミラスの人たちにもちゃんと個々の人格があって、それぞれ政治があって、一枚岩ではないという世界の作り方をしていたところだと思う。TVシリーズでは、一応地球とガミラスが「手打ち」状態になっているが、それに納得しない一派ももちろんいるわけだ。そして、ガミラス以外の種族もいて、必ずしも円満な関係ではないというところも。
冒頭にヤマトクルー以外の別エピソードを持ってきており、何で出してきたのかな?と思ったが、最後まで見るとなるほど(とまではいかないけど、まあそういう方向性にしたのねという了解はできる)と。「帰る」ということが一つのテーマとなっているのだ。地球人であれガミラスであれ、とにかく彼らがちゃんと「帰る」ことが大事にされていたと思う。対して「方舟」は帰る場所を失った人たちの場所だった。
 TVシリーズはTV放送でこのクオリティ!という豪華さだったので、劇場版を見てもそれほど(作画面での)感銘を受けないのはいいんだか悪いんだかという感じだが、戦艦戦はやはり大画面に映えて華やか。キャラクター作画は所々(特に後半)大画面だと若干辛いかな、という部分もあったが、気になるほどではなかった。なお、キャラクターの演技のデフォルメの仕方が妙にレトロだなと思ったところがあるのだが、あえてなのかなー。

『馬々と人間たち』

 アイスランドの海沿いの村。ダンディな独身男は未亡人とひかれあっているが、とあるハプニングできまずくなってしまう。酒好きの男はウォッカ欲しさにロシアの漁船目指して海へ飛び込んだ。乗馬クラブのオーナーは、土地を柵で仕切る農夫がどうしても許せない。人間たちと馬たちが織りなす群像劇。監督はベネディクト・エルリングソン。
 この邦題、『神々と人間たち』のパロディなのだろうが、どちらかというと「馬たちと人間たち」みたいな雰囲気。馬と人間、どちらかがどちらかより優位だったり片方に従属しているのではなくて、別箇の存在として、並列して存在している雰囲気なのだ。確かに馬は家畜なので人間に従属しているということになるのだが、そこに注がれるまなざしが、どちらかに肩入れするわけでも感情移入するわけでもなく、至ってクール。馬と人間は全く別の存在で、馬には馬の、人には人の事情がある、しかし等価だ、といったようなスタンスを感じた。
 ちょっと泥臭い民話のような、土着のユーモア的なものがある。セックスも死もシリアス一辺倒ではなく、冷静に考えると悲惨なことが起きているのに笑ってしまう。葬式で笑いたくなる衝動と同じような感覚に襲われた(葬式と言えば、本作で2回葬式が執り行われるのだが神父の説教が死因を考えるとギャグみたいだった)。人も馬も、営みが野太くしぶとい。馬は動物だから本能に従って生きているわけだが、人間も結構欲望に忠実だ。欲にかられてえらい目にあったり、最悪命を落としたりするが、それに対する反省が特になさそうなところがいい(笑)。さまざまなことがあっけらかんとしているのだ。
 何よりも、アイスランドの強烈な風景に魅力があった。海のすぐそばに山がそびえたっているような、独特の地形だ。荒地や草原がずっとひろがっているというのもいい。この風景の中だから、こういう物語になるんだろうなというような、風土に説得されるような作品だった。

『ヴィクとフロ、熊に会う』

 三大映画祭週間2014にて鑑賞。刑務所から出所したヴィク(ピエレット・ロビテーユ)は刑務所仲間だったフロ(ロマーヌ・ボーランジェ)と、人生を立て直す為に田舎の山小屋で暮らし始める。田舎の暮らしはフロには物足りないものだが、ヴィクは穏やかな日々に満足していた。しかし村人の白い目やフロの過去がつきまとい、やがて衝撃的な結末を迎える。監督はドゥニ・コテ。
 シンプルかつミニマムな構成で抑制がきいているだけに、ラストは確かに衝撃的だった。フロが過去になにをしたのかはわからないが、当たった相手が悪かった、それこそ「熊に会った」みたいなもので、運が悪いとしか言いようがない。村人たちのうっすらとした悪意も怖いのだが、それ以上に、天災のように降りかかる悪意の怖さにぞっとする。不条理劇のようだった。
 更に、ヴィクが「放棄」してしまったのが、自ら選んでのことだったのかもというところがやりきれない。彼女らが穏やかにいられる道はそれしかなかったのかと。一度はみ出してしまうと主流に戻るのは難しいと突きつけられるようで、シンプルながら、なかなか見るものの気持ちをえぐってくる作品だった。
 森の雰囲気や山小屋での暮らしは穏やかで心地よさそうに見えるだけに、そこに差し込む不安の影が色濃く見える。音楽の使い方もよかった。また、主演2人の存在感がいい。こういう人がそこにいる、という手ごたえがある。2人でカートに乗っているシーンなど、生き生きとしていて映画だ!って感じがした。


『美しい絵の崩壊』

 幼いころから親友として育ったリル(ナオミ・ワッツ)とロズ(ロビン・ライト)。お互いに10代の息子がおり、家族ぐるみで付き合いを続けていた。しかし、リルの息子イアン(セイヴィア・サミュエル)がロズに思いを寄せるようになり、ロズもそれを受け入れてしまう。それを知ったロズの息子トム(ジェームズ・フレッシュヴィル)はリルに近づく。原作はドリス・ドレッシングの小説「グランド・マザーズ」。監督はアンヌ・フォンテーヌ。
 親友同士の母親がお互いの息子と愛し合うという、ともするとスキャンダラスなストーリーだが、本作の不穏さは、年の差恋愛という部分ではない。むしろ、リルとロズの非常に密接な関係ありきで、お互いの息子を愛するのは、親友への愛の延長線上、さらには自己愛の延長線上にも見えてくる。何しろお互いの息子の第2の母的な存在だったわけだから、全くの他者を愛する、というのとはちょっと違うだろう。とにかく親密すぎるのだ。
 実際、ロズの夫は疎外感を感じて離れて行ってしまうが、そりゃあそうだよな、と納得せざるをえない。更に、もしロズとイアン、リルとトムの間に何もなかったとしても、イアンとトムの妻たちは離れていくのではと思えるのだ。見ていて常に不穏な気配がする、落ち着かないのは、不道徳云々ではなく、この他者性のなさによるものではないかと思った。
 ワッツとライトのダブル主演だが、演技派であると同時に、友達のお母さんがこんなにきれいだったらそりゃあふらっときちゃうよなー!という説得力を持つという意味でも的確なキャスティングだったと思う。息子役2人もハンサムだしなぁ。
 舞台はオーストラリアの海辺なのだが、景色がとても素晴らしい。この風景の中だからこそ成立した、土地込みで別れがたい関係だったという面もあると思う。映画そのものとしてはちょっと退屈(もうちょっとはしょってくれると・・・)なのだが。

『ヴィオレッタ』

 少女ヴィオレッタ(アナマリア・バルトロメイ)は、母親が多忙な為に祖母に育てられていた。写真家の母親のアンナ(イザベル・ユペール)は落ち目であることに焦りを感じ、ヴィオレッタをモデルにし、挑発的なポーズをとらせた作品を発表する。作品は評判になり、母の関心をひきたい一心でヴィオレッタはモデルを続けるが、アンナの要求は次第にエスカレートしていく。母親が娘のヌードを撮影しスキャンダルを巻き起こした写真集『エヴァ』の被写体であったエバ・オネスコが自身の体験を元に監督を務めた作品。ヴィオレッタ役のバルトロメイが撮影当時10歳だったことでも話題になった。
 当事者がつくっているからか、順番に一つずつ見せていこうというような作り方で、ちょっとまだるっこしさを感じてしまった。特に母娘の愛憎が噴出していく後半は、もっと追い込んでよ!って思ってしまった。丁寧といえば丁寧な作り方なんだけど。当事者の記憶に沿ったつくりということか。
 ヴィオレッタが被写体をつとめた作品も、アンナの普段のよそおいも退廃的で自身の美意識が確立されている人なんだということがわかる。しかし、一旦スタジオの外に出てしまうとその装いは大分浮いている。世間からは乖離した、ちょっとイタい人(カフェでも周囲はちょっとひきぎみだったし)扱いだったのかな。
 アンナはヴィオレッタのことを彼女なりに愛してはいるのだが、その愛は若く美しかった自分を愛するような、自己愛に近い愛で、写真も自身のポートレート代わりに思える(実際、ヴィオレッタがモデルを拒否した時には自身の少女めいたポートレートを撮る)。ヴィオレッタが自分とは違う一個の人格であるという感覚は薄いのだ。
 アンナの世界は自分の作品の周囲で完結しているのだが、ヴィオレッタは一応学校にも通っているのでそうもいかない。モデルとしてこなれていけばいくほど、 同年代の(小学校中~高学年くらいか)少女たちの中では浮いてしまう。ヴィオレッタ自身、自分をどこに置けばいいのか、そもそも自分がどうしたいのか戸 惑っているように見えた。ヴィオレッタ自身は、内面は元々そんなにとんがった少女ではなく、年齢相応に同級生と遊びたい。しかしそれはアンナにとっては「なんで平凡になりたがるの」ということなのだ。
 オネスコは少女モデルとしての体験、母親の行為を虐待と捉えているのだろう。本作を作るには葛藤も深かったと思うが、そこそこ作品と距離をおいた、わりと感情抑え目の仕上がりになっていると思う。ただ、本作で当時10歳のバルトロメイがセクシーなポーズを取り、それが趣旨でないにせよそういう側面を持ってしまうということに対しては、どう考えているのかな、自分がさせられたことと同じと捉えられてもやむない面もあるのでは、とちょっと気になった。もちろんオネスコともユペールとも深く話し合った上での演出なんだろうけど。
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