3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画あ

『アウトレイジ 最終章』

 韓国滞在中の花菱会幹部・花田(ピエール瀧)がトラブルをおこし、日韓を牛耳るフィクサー・張会長(金田時夫)の手下を殺してしまう。張会長の保護を受け韓国にいた大友(ビートたけし)は花田を追い日本へ。一方、花菱会では会長の野村(大杉漣)と若頭・西野(西田敏行)の間で亀裂が深まっていた。韓国での事件を利用し、張グループもまきこみ花菱会のトップ争いが始まる。監督・脚本は北野武。
 前2作に比べると事件の全容というか、アウトラインがぼやっとしているなという印象。飛び抜けて頭がいい、悪賢い人がいるというよりも、全員そこそこの悪賢さで、小物が小競り合いをしているという印象だ(ただし張は別格の得体の知れなさを維持している)。野村はいくらなんでも組長として脇が甘すぎるように見えるし、それよりは上手であろう西野も、少々行き当たりばったりのように見える。元会社員と生粋のやくざの差が描かれていた。が、彼らの行動は分かりやすいと言えば分かりやすい。欲がはっきりとしており、ある意味単純。そして彼ら自身、相手も同じように欲を持っている、金や権力を志向して行動していると考えている。だからこそ、そこから逸脱していく大友の存在は不可解であり、薄気味が悪いのだろう。
 大友の行動原理はシリーズ1作目から一貫していると言えばしている。昔ながらの任侠道とは言い切れない(そこまで人情に篤くはなさそうだし、興味ない相手には心底興味がない)が、金で動くというわけでもなく、シマを広げたいというわけでもない。既に拠り所を失い、本作では更に幽霊のような存在としてふらふらとうろついているように見える。大友という幽霊が成仏するまでの物語であるようにも見えた。大友の行動原理は彼の内部にしかないので、傍から見たらえっそこで止めちゃっていいの?とあっけにとられるのだ。
 とは言え、悪い奴、悪くて現実的な奴は幽霊の存在など、多少薄気味悪いと思っても気にしないし、幽霊でさえ道具にして生き残りのし上がるのだろう。

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ビートたけし
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2013-04-12

『あさがくるまえに』

 17歳のシモンは交通事故に遭い、脳死状態と認定された。医師はシモンが組成する可能性はまずないとして、臓器提供を求めるが、両親は突然の出来事を受け止められない。一方、音楽家のクレール(アンヌ・ドルヴァル)は心臓病が悪化し、移植を勧められていたが、決心しかねていた。監督はカテル・キレヴェレ。
 ある1日、正に「あさがくるまえ」に大きな決断を迫られる2組の家庭を両側から描く。家族を突然亡くした混乱と悲しみや、移植に対する恐怖など、普通と言えば普通のことを描いているのだが、心のゆらぎを丁寧に追っており、通り一遍な感じはしない。思考が硬直したように臓器提供を拒むシモンの父親や、徐々に心が動いていく母親(エマニュエル・セニエ)、2人は別居しているが、悲劇を前にまた支え合う姿を見せる。自分は若者とは言えないのに、他人の臓器を使ってまで延命していいのか迷うクレールの姿や、彼女を思いやりつつも苛立ったり弟への嫉妬を隠せなかったりする息子。クレールとパートナーだった女性ピアニストとの、かつての親密さの名残(しかし今現在でも思いやりは確かにある)も印象深い。
 当事者はもちろんだが、医者や移植コーディネーター(タハール・ラヒム)の心もまた揺らいでいるのだ。シモンについている移植コーディネーターが、臓器提供が決まり医者と喜ぶシーンがある。しかし、あっけらかんと「喜びのポーズ」を決める医者に対して、コーディネーターは若干微妙な表情をする。医者(や移植を受ける側)にとっては喜ばしくても、シモンの家族の心情を想像すると、やった!とは言えないだろう。コーディネーターは両方の側に立っているのだ。
 シモンが早朝に自転車で町を掛ける情景、サーフィンする様や海の中等、はっとするような美しさがあり惹きつけられる。彼を襲う事故のことを思うとその美しさがやりきれないが、日常ってこういうものかもしれないなという気もする。ふいに美しい瞬間が立ち上がるが、その先どうなるかはわからない。美しさも惨酷さもいきなり訪れる。

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『アリーキャット』

 元ボクサーで今は警備会社のアルバイトをしている朝秀晃(窪塚洋介)は、行方不明の野良猫・マルを探していた。保健所でマルを抱いた男を見つけ声をかけるが、その男・梅津郁巳(降谷建志)はこの猫はリリーという名前で自分が飼うんだと言い張る。猫を介してマル、リリーと呼び合うようになった2人は、元恋人からストーキングされている土屋冴子(市川由衣)のボディーガードの仕事を秀晃がしたことがきっかけで、彼女を東京まで送り届けることにする。監督は榊英雄。
 窪塚と降谷という、ある時代のアイコン的な2人の共演。私は「ある時代」ど真ん中の世代なので、感慨深くもあり懐かしくもあり。本作の雰囲気自体、90年代のVシネとか漫画とかを彷彿とさせるように思う。どこがどう、と問われると答えにくいのだが、全体の設定のふわっとしているところとか、いきなり黒社会や政界が絡んでくるところとかかな・・・。
 とは言え懐古趣味という感じは全然しないし、窪塚も降谷も現役感がしっかりある。窪塚はここ2,3年でやっぱりスター感あるなと思うことが増えたし、演技の技術も明らかに伸びている(何せスコセッシ監督作に出演したしなー)。また降谷は、ここにきてそんな直球のあざとさ見せちゃう?!可愛い感じ出しちゃう?!という意外さを見せている。こういう人懐こいわんこ系キャラがハマるとは・・・。諸々可愛すぎてやばかった(私が)。
 秀晃も郁巳も決していわゆる勝ち組、社会の強者というわけではないし、清廉潔白で正義の味方というわけでもない。郁巳は人のいいお兄ちゃんと言う感じではあるが、秀晃はボクサー時代に諸々やらかしており決して褒められたものではなかったことが、徐々にわかってくる。そんな彼らが、なけなしの勇気と意地でふんばる姿がかっこ悪くもいじらしい。冴子親子に自らの生い立ちを重ね、自分の過去を振り切るかのように無謀な策に出る秀晃と、そんな秀晃への共感からか憧れからか、一方的に彼を鼓舞する郁巳。特に郁巳の能天気さ、無邪気さは時に秀晃をイラつかせるものなのだが、周囲の人たちを和ませ、徐々に彼らの拠り所になっていったようにも思えた。
 楽しく見たが、作中の女性の処遇が暴力にさらされるものな所、女性登場人物の造形がわりと単純な所は気になった。一方的な暴力は、フィクションの中とは言えやっぱり見ていてあんまりいい気はしないので(こういう所も古さといえば古さなのか)。

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『甘き人生』

 1969年、イタリアのトリノ。9歳のマッシモは母親が大好きだったが、ある日突然、母親(バルバラ・ロンキ)がいなくなってしまう。司祭から母親は天国に行ったのだと告げられるが、マッシモはそれを信じられない。1990年代、新聞記者になりローマで暮らすマッシモ(バレリオ・マスタンドレア)はまだ母親の死について受け入れられず、父親(グイド・カプリーノ)との溝も深くなっていた。原作はマッシモ・グラメッリーニの自伝的小説。監督はマルコ・ベロッキオ。
 まだ幼いマッシモに対して父親は、母親の死をとっさに隠してしまう。後日司祭が母親が亡くなったと説明するものの、父親が最初に「お母さんは出かけた」というような説明をしてしまったことが、マッシモの中でずっと尾を引いている。子供に死、特にマッシモの母親のような死に方をどのように伝えればいいのかというのは、イタリア(カソリック国であるイタリアでは、マッシモの母親の死は更に説明しづらいだろう)のみならずどの文化圏でも悩ましいことだなとしみじみ思った。父親の説明は明らかにまずいのだが、彼も動転しているし子供にこういうことをどう話せばいいのかわからないのだ。父親はその後30年にわたって息子に本当のことを言うことができないのだが、いくらなんでもちょっと無責任だろう。この父親は大変不器用で、マッシモに対する愛情はあるのだろうが、お互いに理解しがたい存在だったように見えた。唯一一緒に盛り上がったのはサッカー観戦だが、それもマッシモの過熱により頓挫してしまう。
 母の死を受け入れることに対する躓きが、中年になってもマッシモを縛っている。幼少時代の様子を見ればわかるように、マッシモは母親との結びつきがとても強い子供だった。母親との一体感が強すぎる為に、母親の死が受け入れられなかったとも言える。一歩引いて他人として見てみれば、彼女の死の真相はおおよそ見当がつくものだ。真相があいまいにされ続けてきたことで、母親は自分とは別の人間であるということも、またあいまいになっていたのではないだろうか。母親の死の真相がわかってようやく、母親であっても他人であり、何を考えているのかなど本当にはわからない、ということが受け入れられたのではないか。母親が不可解な存在であることと、母親に愛されていたことは、両立するのだ。
 1970年代から90年代のイタリアの文化的な背景が垣間見えるところが面白い。特に、音楽映画的な側面もあり、当時の流行音楽が盛りだくさん。少年時代のマッシモの友人宅はヴィスコンティの映画に出てきそうな邸宅なのだが、友人が部屋で大音量で聞いているのがDeep Purpleというミスマッチ感が愉快。どの時代でもロック小僧はエアギターやるのか・・・。

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『ありがとう、トニ・エルドマン』

 元音楽教師のヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)とコンサルティング会社勤務のイネス(ザンドラ・ヒュラー)は今一つうまが合わない親子。多忙すぎるイネスを心配したヴィンフリートは、突然彼女の元を訪れる。しかしなぜか別人“トニ・エルドマン”として。職場やパーティー会場にまで押しかける“トニ・エルドマン”にイネスのイライラは募っていく。監督・脚本はマーレン・アデ。
 どちらかといえば渋い映画っぽいし、ほろ苦いヒューマンドラマ的な作品かなと思っていたら、まさかこんなに笑えるとは!確かに地味にじわじわくる感じの面白みが主体なのだが、後半、イネスの誕生パーティーに破壊力がありすぎて客席がどっかんどっかん沸いた。このシーン、一歩間違うとちょっと笑えないというか、セクハラ・パワハラになりかねないような構造なのだが、そこで笑いにちゃんと持っていくバランス感覚の良さがある。
 バランス感覚という点では、ヴィンフリート=トニ・エルドマンとイネスと、対照的な2人のどちらにも入れ込み過ぎない、肯定も否定もしないという距離感のバランスも良かった。ヴィンフリートがイネスを心配しているのは分かるが、彼の娘へのコンタクトの仕方は得てして一方的で、娘からしてみれば鬱陶しい!迷惑!と怒鳴りたくなるものだ。相手の状況を鑑みず自分がよかれと思って行動するので、イネスにとっては癇に障るばかり。一方、イネスはハードな仕事に邁進しており、生活は分刻みで携帯電話が手放せず、(トニ・エルドマンではなくヴィンフリートとして)訪ねてきた父親を適当にあしらう時間さえない。彼女の目下の仕事は企業にとっての「汚れ仕事」「憎まれ役」であり、そのことに対する葛藤も抱えている。イネスが仕事は出来るが要領がいいというわけではない、根が生真面目な部分がそこかしこに見え隠れし、何だか痛々しくもあった。
 2人は対照的な父娘で、お互い別の世界で生きている。多少歩み寄りはあるが、許容はするが理解はしきれないだろう。ヴィンフリートがイネスの仕事先の現地スタッフに対する処遇に抗議するのも、彼がよそ者であり当事者ではないから言えることだ。とは言え、反目しあうばかりではなく、イネスが急にトニ・エルドマンのでたらめさに自分の行動を合せて来たり、嘘に乗っかってきたりもする。この距離の詰め方が何となく親子っぽいし、イネスのユーモアを感じさせる部分でもある。ヴィンフリートとイネスは、おそらく価値観が違うままだし多かれ少なかれずっとぎくしゃくするだろう。それでも、2人の間に通い合うもの、親子として培ってきたものは確かにある。愛は単純ではないのだ。父と娘の物語だけど、全然甘美さを漂わせないあたりも、注意深く対象との距離を測っている感じだった。








『ある決闘 セントヘレナの掟』

 1886年、テキサス・レンジャーのデビッド(リアム・ヘムズワース)はメキシコとの国境を流れるリオ・グランデ川に数十体の死体が流れ着いているという事件の真相を調べる為、川の上流の町マウント・ハーモンへ、妻マリソル(アリシー・ブラガ)を伴い潜入する。その町は、「宣教師」と呼ばれるエイブラハム(ウッディ・ハレルソン)が支配していた。監督はキーラン・ダーシー=スミス。
 西部劇は西部劇でも派手さ、勇壮さとは縁遠く、渋く血なまぐさく泥臭い。デビッドとエイブラハムにはある因縁があるが、その闘いと決着は地を這うものであり、決して爽快なものではない。デビッドはレンジャーとしての仕事上の倫理や正義はもちろん持っているが、自分が「正義の味方」だという態度はとらない。彼はエイブラハムが悪人だと思っており、彼のやっていることは許せないとは思っているだろう。しかし、闘いの中で人を殺す自分もまた人殺しである。目的が何であれ、人殺しは人殺しとして生きるのだという突き放した視線がある。決闘にしろ復讐にしろ、爽快感も「正義が勝つ」的なカタルシスもないのは、そのせいだろう。終盤も、単純にタフな方が生き残るという展開の抑制のきかせ方も渋い。とはいえ、自分の心遣いに助けられるような展開もあるのは、ドラマ上のお約束というものか。
 エイブラハムと出会ってからのマリソルの変化は急激すぎるようにも見える。しかし、デビッドとマリソルの間には最初から溝がある。2人は仲の良い夫婦のように見えるが、マリソルのメキシコ人としてのアイデンティティや疎外感は、デビッドには(理解しようとはしているだろうけど)今一つ迫ってくるものがないのかもしれない。マリソルのトラブルは、おそらくそこに付け入れられたものだ。混乱する彼女が見た夢の話をしようとするのを、デビッドはさえぎって勝手に結論付けてしまう。あーそういうところがダメなんだよ・・・。愛し合っているようでいて、肝心なところですれちがってしまうところがもどかしかった。ラストも、マリソルが見た夢の内容を踏まえて見るとなんとも渋い。簡単に「めでたしめでたし」にはしてくれないのだ。

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『アンダーカバー』

 FBIの若手捜査官・ネイト(ダニエル・ラドクリフ)は、白人至上主義者のカリスマ的存在であるラジオパーソナリティ、ダラス・ウルフを捜査する為、潜入捜査を命じられる。ネイトは元軍人の白人至上主義者を装い、ウルフと面識があるというネオナチの青年ビンスと知り合うことに成功するが。監督はダニエル・ラグシス。
 「未体験ゾーンの映画たち2017」にて鑑賞。今回の未体験ゾーンで見た中では最も掘り出し物感強く、面白かった。ラドクリフ主演だしクオリティ的には普通に公開してもよさそうなものなんだけど、このネタだと確かに日本ではウケない、というかニュアンスがわかりにくいのかもしれないな・・・。しかしおすすめです。ちょっと編集がぎこちない(報道映像等々のコラージュがあまり上手くない気がする)が、意欲的な作品だと思う。
 ネイトはあまり現場経験はなく、リサーチ重視な頭脳派。同僚に比べると小柄で華奢、肉弾戦は不得意そうで、職場でも「おぼっちゃん」的にからかわれている。そんな彼が、なぜかマッチョな団体と思われる白人始業主義者グループに潜入する羽目になる。最初はムリだムリだとしり込みするネイトだが、上司(トニ・コレットの仕事は出来るが人としてはくそったれっぽい上司感がすばらしい)に認められたい一心で、学習に学習を重ね組織のトップに近づいていく。ネイトの地頭は良いが如何せん経験不足で浮足立ちやすい感じ、冷徹な潜入捜査官にはなりきれない様子を、ラドクリフが好演している。ネイトの計画は少々行き当たりばったりな感があるが、彼の演技の上手さで作品がもっている。
 FBIが戦っているのは「外部」からのテロだけではなく、「内部」からのテロに対してでもある。こういう方向での「テロ」もあるということを描いているのだが、テロリスト候補たちのショボさも含めて、結構生々しい。今のアメリカのある一面、根深い問題背景の一部を垣間見る感じ。潜入捜査官としてなぜネイトが選ばれたのか、という部分が、白人始業主義に若者が走る要因を的確に説明していたと思う。妥当な拠り所みたいなものが得にくい世界になっているのかなと、暗鬱とした気分にもなった。
 ある人物の、人々が煽られたがっているから煽るだけ、面白ければいいんだと言わんばかりの言動は、先般の大統領選の結果を招いたものと同質なもののように思った。主義主張が先にあるというわけではないんだよな。

『アシュラ』

 都市開発の方向で揉めるアンナム市。刑事のハン・ドギョン(チョン・ウソン)は市長パク・ソンベ(ファン・ジョンミン)の為に暗躍し市長の汚職疑惑のもみ消しを図る。しかし検事キム・チャイン(クァク・ドウォン)に弱みを握られ、市長の犯罪容疑の証拠をつかむ為二重スパイになれと強要される。ドギョンは後輩刑事のムン・ソンモ(チュ・ジフン)も巻き込み生き残る為奔走する。監督・脚本はキム・ソンス。
 予告編がやたらと怖くかつ面白そうで自分の中での見る前の熱量は相当高かったのだが、期待したほどではなかったかな・・・。十分面白かったのだが、ちょっと飽きが来てしまった。緊張感はあるのだが、ドギョンにとっての状況が無間地獄すぎてどこまで行っても同じかよ・・・とぐったりしてくる。そこが狙いでもあるのだろうが。また、ややこしい状況に追い込まれている割には、ドギョンの行動はそれほど計画的ではなく、行き当たりばったりな傾向が強い。そんなんで生き残れるの?!大丈夫?!しのぎを削るコンゲームといった雰囲気ではない。特に冒頭、先輩刑事とソンモと手駒のチンピラが巻き起こすごたごたのやりとりは、頭が悪すぎる!上司も部下も頭が悪いと大変だな・・・とは思うが、それを収集できないドギョンも大概だ。一貫して、自分には重荷すぎるものを課されたドギョンが這いずり回るという構図なのだ。
ソンベは自分の欲望の為なら手段は選ばず非情な人物だ。しかし彼を追うチャインも、ドギョン本人も似たようなもので、基本的に本作に登場する人たちは手段を選ばず欲望に忠実だ。また、自覚していなかった欲望が引き出されることでお互いの関係性が大きく変わっていくこともある。ソンモはドギョンを先輩として慕いドギョンはソンモを出来の悪い弟的にいじる。そこには先輩・後輩という力関係が歴然としてあり、後輩は多少バカにしても、「出来が悪い」扱いをしていいものという暗黙の了解がある。これが見ていて結構つらかった。ドギョンはソンモに対して悪意はなく可愛がっているつもりだろうし、ソンモもおそらくそれはわかっている。が、バカ扱いされることが平気なわけではないだろう。彼の積もり積もった屈託が、ソンベに持ち上げられたことで爆発してしまう。ドギョンがソンモの屈託に気付いていない所がまた辛い。ドギョンが鈍感というよりも、社会構造として組み込まれているから見えにくいのだろう。

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』

 デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は交通事故にあい、車に同乗し運転していた妻は死亡した。妻の死に対して涙は出ず、悲しみも感じない彼は、妻の父親フィル(クリス・クーパー)が経営する金融会社での仕事には復帰したものの、周囲のものを分解・破壊したいという衝動を抑えられなくなる。監督はジャン=マルク・バレ。
デイヴィスは無感覚な状態に陥っており、自分が悲しんでいるのかどうかもよくわかっていないし、わかっていないということ自体に自覚がない。また、会議中に全く関係のないことを言いだしたり、自動販売機会社のお客様窓口にクレームに加え自分の近状を長々としたためた手紙を出したりと、はたからみたら突飛な行動に走っていく。
 妻が死んでからのデイヴィスの生活からは、彼は家族との関係はそんなに密ではないし、親しい友人もいない、職場の同僚ともそんなに仲良くしているわけではない(社長の娘婿なのでむしろ煙たがられてそう)な様子が垣間見られる。元々、そんなに空気読む方でも気遣いが細やかな方でもなく、ちょっと情緒に疎いのかなという雰囲気なのだ。フィルは娘の夫であるデイヴィスのことを気に掛けてはいるものの、ぽろっと「最初から気に入らなかった」と漏らすし、デイヴィスのことをよくわからん奴だよなと思って困惑している様子がありありとわかる。彼は一応親族ということにはなるのだろうが、デイヴィスにとって話相手にはならない。話す相手がいないから、自販機会社のお客様窓口担当のカレン(ナオミ・ワッツ)に長々と手紙を書き、彼女の自宅まで突き止めてしまうのだ。カレンへの接近の仕方はストーカーまがい(というか立派にストーキングだろう)でかなり怖く、更にカレンがデイヴィスを受け入れてしまうことで、本作に対する気持ちがかなり冷めてしまった。カレンのパートはない方がよかったような気もするが、彼女の息子がすごくいいキャラクターなんだよなぁ・・・。
 とは言え、破壊行動もカレンとの距離の取り方のまずさも、デイヴィスにとって自分と世の中との距離感がよくわからなくなっているからだろう。彼が周囲のものを分解して壊していくのは、自分をとりまく世界の成り立ちを理解しなおそうとしていることなのかもしれない。デイヴィスと唯一相互理解のあるやりとりをするのが13歳になるカレンの息子なのだが、彼はまだ「世の中」に出る前の存在だからだろう。「世の中」から落っこちてしまったようなデイヴィスには、子供の方が率直に話せる存在なのではないか。とは言え、セクシャリティに関する彼へのアドバイスは、こいつやっぱり情緒ないし想像力あんまり豊かじゃないな、ってものなのだが。

『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』

 1950年代後半、ドイツの検事長フリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウス)はナチスの戦争犯罪の告発に執念を燃やしていた。ある時、数百万人のユダヤ人を強制収容所送りにしたアドルフ・アイヒマンに関する情報が、アルゼンチンから届く。バウアーはイスラエルの諜報機関モサドと接触、アイヒマン逮捕を狙うが、ドイツの捜査機関内にもナチスの残党がおり、バウアーの妨害を図る。監督はラース・クラウメ。
 似た題材の映画として、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』が記憶に新しいが、物語内の時系列としては、本作、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』ということになるのかな(『ハンナ・アーレント』は長期にわたる話なので全体をカバーするような形になるのかもしれない)。どの作品でも、主人公は政府や司法から、また国民から非難・攻撃される。皆、上向いてきた国内情勢に水を差すようなことをしたくないし、不愉快な過去と向き合いたくはないのだ。現在のドイツを見ると、第二次大戦時の反省が徹底されているというイメージなのだが、すぐにそういう状態になったというわけでは全然なく、バウアーのような人たちが粘り強く取り組んできた成果ということなのだろう。
 TV出演したバウアーが、ドイツの何を誇るべきかと若者に問われた際の言葉が印象に残った。バウアーは、土地や森は元々そこにあったものだから我々が誇ることではない、ゲーテもニーチェもアインシュタインもすごいのは彼ら個人だから我々が誇る事ではない、我々が誇れるのは自分達が親や子供に何をできたかということだ、というような話をする。バウアーにとってはナチスの犯罪を暴き、自国で司法の裁きを受けさせる(バウアーはアイヒマンを捕えるだけでなく、ドイツで裁判を行うことが重要だと考えた)ことが、国を愛することであり誇るなのだ。しかし、周囲は彼を(国の)裏切り者扱いをする。これが辛くもどかしい。愛国心て何だよ!と叫びたくなるのだ。
 バウアーはユダヤ人で収容所に送られた体験を持つ。執拗なナチスの残党狩りはその復讐だろうと揶揄する人もいるが、バウアーにとっては一度ナチスに屈した(収容所から出る代わりにナチスに従うという)ことへの後悔からの行動であり、今過去と向き合うことが自国の未来につながると信じてのことである。アイヒマン逮捕の顛末は史実通りで、本作の後味は苦い。しかし、本作の約十年後が舞台である『顔のないヒトラーたち』でも描かれたように、バウアーのような人が再び立ち上がるところに、ドイツという国の希望があったのではないかと思う。

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