3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画あ

『哀れなるものたち』

 異端の天才外科医ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)は入水自殺をしたばかりの女性の遺体を回収。彼女が妊娠していた胎児の脳を女性の体に移植し、蘇生を試みる。奇跡的に蘇生した女性はベラ(エマ・ストーン)と名付けられ、身体は大人、精神は子供の存在として、バクスターと彼の助手マッキャンドレス(ラミー・ユセフ)の元で育てられる。外の世界を見たいという強い願望を持つようになった彼女は、弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)と駆け落ちをし世界旅行に出る。原作はアラスター・グレイの同名小説。監督はヨルゴス・ランティモス。
 舞台は一応19世紀のロンドン、リスボン、パリなど実在の都市の名前として出てくるのだが、ビジュアルはおとぎ話のようなどこかファンタジックなもの。あの時代にはなかったはずの乗り物らしきものも走っており、バクスター宅の駆動装置付き馬車(蒸気機関らしく車輪走行だがなぜか馬の頭だけ付いている…なぜ付けた)や、町の上を走っていくロープウェイや飛行船みたいなもの等が楽しい。バクスター邸の室内装飾も基本は時代を意識したクラシカルなものだが、食堂はサンルーム的に大きな窓があったり、所々ゴシック的な装飾や謎の実験装置があったりと細部まで魅力的。また、ベラの衣装は大きな見所の一つだろう。立体的でデコラティブなユニークな造形で、下半身はショートパンツのような短いボトム。他の登場人物はそんなに特異な服装はしていないので、ベラのキャラクターがより際立つのだ。
 ベラは肉体的には大人だが精神は赤ん坊として生まれる。何も知らない状態から体の動かし方を筆頭として様々な知識を獲得していくのだが、体は成熟しているが精神は無垢な女性というのは、往々にして性的に理想的な存在、要するに性的に与しやすい存在として扱われがちだ。バクスターは実験と称して彼女を箱入り娘のように育て、与える知識・経験も制限していくが、科学者としての関心だけではなく自分の理想の女性を作りたいという欲望がないとは言えないだろう。ただ、ベラは成長するにつれ自身の欲望を主張するようになり、知識を吸収し自我を目覚めさせていく。男性たちにとっての理想的な(扱いやすい)存在ではなくなっていくのだ。ベラにメロメロになったダンカンは彼女の好奇心や自立心・反論を厭い嫉妬に狂うし、ベラと因縁のあるブレシントン将軍は女性を自身に紐づく財産、所有物としてのみ扱う。男性側の他者に対する所有欲、女性への抑圧の表現が絵にかいたような典型で、それが退けられていく様は女性が自我と尊厳を獲得し自由になっていく成長物語として非常にわかりやすい。旅路の中で知り合うメンター的存在が年配女性でしかもハンア・シグラが演じているというのも、非常にアイコン的でわかりやすい。ランティモス監督作品がこんなにわかりやすいなんて拍子抜けでもある。
 ただ、女性の成長、自由・自立の獲得物語としては少々引っ掛かる所もあった。本作で表現される自由は、セックスに偏りすぎているのではないかと思った。もちろん自分が選んだ相手と合意の上でセックスできる権利、自分の体を自分の意志で扱う権利は重要だ。ただ、セックスを自由意志で享受しようというベラの意志に、男性たちや娼館のマダムが乗っかっていく、搾取しているという構図も見られ危うい。ベラが「店の女性が客を選ぶ方が理にかなっているのでは?」と発案するもマダムに即却下される。win-winのように見えてそうではないのだ。原作小説はこのあたりの構造にも自覚的だったように思うが、本作は原作のある一面だけを映像化しているので、かなりもどかしい。

哀れなるものたち (ハヤカワepi文庫)
アラスター グレイ
早川書房
2023-09-26


フランキスシュタイン : ある愛の物語
ジャネット・ウィンターソン
河出書房新社
2022-07-23


『愛にイナヅマ』

 26歳の折村花子(松岡茉優)は駆け出しの映画監督。メジャーの仕事の引き合いを受け、やる気に満ちていた。ある日、彼女は空気を読めない男性・舘正夫(窪田正孝)と運命的に出会いお互い一目ぼれ。人生が輝き始めたと思ったのもつかの間、花子の映画の企画はプロデューサーと助監督に横取りされてしまう。ショックで投げやりになる花子だが正夫に励まされ、泣き寝入りせずに闘うことを宣言。花子は10年以上音信不通だった実家に戻り、父・兄ら「どうしようもない家族」を出演者として映画撮影を再開する。監督・脚本は石井裕也。
 劇的一目ぼれから始まるラブコメかと思っていたら、業界残酷物語であり、更に家族の話にスライドしていき、何となく腰の定まらないストーリー展開だ。序盤でのプロデューサーと助監督のマウント、パワハラや謎の「業界の常識」等、テンプレ感は強いもののあーこういうの実際にありそう!という造形。特に助監督のいやらしさはなかなかで、三浦貴大の演技力を嫌な形で実感してしまった。花子のアパートから一旦出て戻ってくる件、下種さがすごい。これだけのインパクトを残すんだから後半で花子側からの何らかの巻き返しがあるのだろうと思っていたら、業界関連のごたごたはそれはそれとして…という感じで置いておかれてしまい(つまり残念なことに現実的な解決法がないということなんだろうが…)、花子の家族の問題という、より個人的な方向にスライドされていく。そして家族の話の方がベタだが面白く描かれているように思う。家族間のぎこちなさやはたから見るとちょっと妙だぞみたいな部分のニュアンスの拾い方が上手いので、監督の資質に合っているのかもしれない。同時に、俳優の力に頼っている所も大きいと思う。俳優の魅力を全面的に引き出しているという点ではいい作品なのだが、それ以外の部分は大分とっちらかっており、力業で何とかしているように見えた。
 花子は常にカメラを回している、一般の通行人にも無断でカメラを向けるタイプの映像作家で、そこには少々危うさを感じた。カメラを向けることと向けられることの非対称性や暴力性について監督が無自覚とは思えないので作中で言及されるのかと思ったら、特に言及はなく、花子が大分無頓着な人に見えてしまう。加えて花子が撮影する映像が、そんなに才気あふれる感じのものではないというところがポイントなんだろうが…。

茜色に焼かれる
永瀬正敏
2022-01-07


ぼくたちの家族 通常版 [DVD]
長塚京三
TCエンタテインメント
2014-11-21


『アリスとテレスのまぼろし工場』

 中学3年生の菊入正宗(榎木淳弥)が住む町は、製鉄所の爆発事故によって外の空間から閉ざされ、時間も止まってしまった町。いつか元に戻れるように「何も変えてはいけない」というルールができ、正宗は延々と中学3年の日々を繰り返している。変化を禁じられた住民たちは、鬱屈とした日々を過ごしている。ある日、正宗は謎めいた同級生・佐上睦実(上田麗奈)に導かれ、立ち入り禁止にされている製鉄所の第五高炉に入る。そこには野生動物のような少女・五実(久野美咲)がいた。原作・監督・脚本は岡田磨里。
 岡田磨里とMAPPAがタッグを組んだ劇場作品だが、脚本も作画も高カロリーでかなりもたれそう。ただ露悪ぎりぎりの情感が濃いストーリーとちょっとノスタルジックな雰囲気を狙ったであろう作画の方向性の相性はいいのではないか。自分にとってはすごく好きとか刺さるとかいう類の作品ではないが、ちゃんと面白く見られた。テーマ曲に中島みゆきをもってきた度胸もすごいのだが、中島みゆきがむしろ作品に寄せてきてくれている所がまたすごい。ストーリー上、そもそも工場は必要だったのかとかあるSF的な要素はSFとしてはどうなんだとか、色々と突っ込みたくなるところはあるのだが、勢いで見られる。一歩間違うと破綻しそう(というか大分破綻しているが)な剛速球という感じ。何となく、初期段階とは大分話の筋が変わったんじゃないかなという印象を受けた。
 14歳というメンタルの閉塞感が煮詰まった年齢を中心に置き、物理的に閉塞感がある世界とリンクさせる構造だが、そのあたりの心情にはあまり興味がわかなかった。見ている自分がもういい大人だからということもあるし、岡田脚本にしばしば出てくる性と生殖への拘り・価値観みたいなものがぴんとこないというのもある。これは相性の問題で脚本の疵ということは全くないのだが。
 とは言え、今の14歳がこの作品に共感するのかというと、ちょっと違うんじゃないかんという気もする。今の14歳ではなくあの頃の14歳という感じなのだ。だから余計にノスタルジーを強く感じるのかもしれない。作中の時代設定はおそらく1990年代半ばあたりではないかと思うのだが、それよりももう少し古い印象を受ける。登場人物の価値観やギャグのセンスも「あの頃」を再現しているので、今の視線でみるとちょっときつい所も。特に男子同士のじゃれあいは今見ると男性間セクハラだよなと。またある人物の屈折や女性観には大分問題があるのだが、これも当時のある典型と言えそう。ただ未だにこういう感覚が根深く残っているなと割とうんざりさせられた。




『あしたの少女』

 ダンス好きな高校生のソヒ(キム・シウン)は担任教師からの紹介で、実習生として大手通信社の下請け会社が運営するコールセンターで働くことになる。張り切って実習に挑むソヒだが、仕事は顧客に契約解除をさせないために煩雑な手続きを要求したらい回しにするもの。また会社は従業員同士の競争を煽り、契約書で保証されているはずの成果給も支払おうとしない。ある日上司が自死し、更に会社が遺言を隠蔽したことにソヒは強いショックを受ける。やがて、ソヒは真冬の貯水池で遺体となって発見される。事件を担当した刑事ユジン(ペ・ドゥナ)はソヒを死に追いやったものは何なのか調べ始める。監督はチョン・ジュリ。
 実習生制度というと日本では海外から登用するイメージだが、韓国では国内で類似の制度があるということを初めて知った。登場人物らの話からすると高校の卒業認定の一部として実施されるみたいなのだが、「実習」とは名ばかりで実質的には安く使える労働力として扱われているという点は日本と同様だ。本作では、社会がどのように人間を数値化して扱うのかということが様々な形で提示される。職場のノルマや売上成績であり、他支店と争う順位であり、そして給与額である。一方で動画配信の視聴者数や投げ銭の額である。更に高校は経営維持のために実習の成立率や卒業率ばかりを気にし、実習先の環境はろくに確認しない。当事者である学生たちの心身の安全は二の次なのだ。こういった社会の中では個の尊重というのはどんどん希薄になっていく。ソヒや同級生たちの神経がどんどん削られていく様は非常につらい。しかし若者たちがこういう状況に一旦は適応してしまうというのがまたやりきれないのだ。更に、その中でやはりこれはおかしいという思いが湧いてもそれを伝えるべき人、まともに聞こうとする人がいないし、日々を維持することで精いっぱいでは当事者同士で連帯することもできない。一応両親がいて家住まいもあっても、バックボーンが脆弱なのだ。いつからこんな世の中になってしまったのかと呆然とする。もちろんこういうシステムは昔からあるものだが、ここまであからさまというか、身もふたもないことになったかと。
 ソヒを追い込んでいくのは特定の誰か、特定の組織というよりも、今の社会のシステムで、この社会の中で生きている以上なかなか逃れられない。ユジンが捜査を進める中でこのシステムの負の連鎖、泥沼感がどんどん露わになっていく。だからと言ってユジンが何か変えられるわけではないだろうが、彼女は本作において良心、「まともな大人」の象徴のような存在。ユジンのようなまともさがもっと多くの人に発揮されていればと思わざるを得ないし、そここそが本作が観客に訴えている所だろう。ユジンに「困ったことがあれば話を聞く」と言われた少年の表情が強く印象に残った。

私の少女(字幕版)
ソン・セビョク
2022-03-01


息もできない(字幕版)
イ・ファン
2022-08-23






『アステロイド・シティ』

 1955年、隕石落下跡のクレーターと原子力研究・実験場が名所のアメリカ南西部の砂漠の街アステロイド・シティ。この町で開催されるイベントに、科学賞を受賞した5人の少年少女とその家族が招待された。受賞者少年の父親である新聞記者(ジェイソン・シュワルツマン)は、子どもたちに母親が亡くなったことを言い出せずにいた。同じく受賞者少女のシングルマザーである人気俳優(スカーレット・ヨハンソン)は次回出演作への役作りに余念がない。やがて授賞式が始まるが、突如として宇宙人が出現。現場は大混乱になり、街は封鎖され、軍により行動規制が敷かれる。しかし子どもたちは外部へ情報を伝えようとしていた。監督はウェス・アンダーソン。
 本作、上記のストーリーは実はあるお芝居の中のストーリーだ。作中作が本作のメインストーリーであり、その外側に脚本家と俳優、舞台のスタッフらのストーリーが存在するという入れ子構造になっているわけだ。見始めた当初はこの入れ子構造、作品に対してそんなに機能していないのでは?と思ったのだが、見ているうちにこれはこれで効果があるかもと思えてきた。
 脚本家たちのストーリー、いわばフレームの外側の世界はモノクロで映し出される。お芝居の中のストーリー、フレームの内側の世界はカラーで映し出される。フレームの外の世界はほぼ舞台の上と舞台裏だけなのだが、フレームの中の世界は広大な荒野と空が広がる。お話の中、フィクションの世界の方がずっと実体感があり生き生きと美しいのだ。時に作り物の世界の方が今生きている世界よりもずっと魅力的で生き生きと感じられるというというのは、あらゆるフィクションとそれを愛する人たちが感じている、時にアイロニーをはらむ感情ではないだろうか。
 ただ、本作のその美しさは生々しく生きている世界の美しさというよりも、死後の世界の美しさのような穏やかなものに感じられた。アンダーソン監督の特徴であるかっちりと定められたフレームや縦横に直進するカメラによる整然とした世界、ポップで少し非現実的にみえるカラーリングの非現実感が、ちょっとあの世みたいなのだ。突拍子のないことが起こってもどこか長閑で楽し気な雰囲気も、浮世離れしている。更に、監督が意識しているとは考えにくいのだが、原子力爆弾の実験が行われているエリアが舞台だということも、どこか死の影を落としているように思った。原爆のキノコ雲はポップアイコン扱いで、アメリカでの原子力爆弾の認識はこんな感じなのかと少々もやっとするが(なので、アメリカ人が見たら特に不吉な感じはしないのかもしれない)。
 最近のアンダーソン監督作品は、去り行くもの、失われていく(失われた)ものがしばしばモチーフとして使われており、ポップなルックスとは裏腹に寂寥感が漂う。本作もその流れの中にあるように思った。記者は妻の死をずっと思い続けるし、芝居の作者である脚本家の人生も最後に悲哀が漂う。お芝居自体が「終わり」が必ずある(その世界の中の方が現実よりもリアルに感じられるのに!)ものでどこか寂しい。ただ、それを嘆くわけではなくどこか達観した視点があり、そこがまたあの世っぽいのかもしれない。

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フランシス・マクドーマンド
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2022-04-27








『アシスタント』

 映画プロデューサー志望のジェーン(ジュリア・ガーナー)は、名門大学を卒業して有名エンタテインメント企業に就職する。業界の大物として知られる会長のもとでジュニア・アシスタントとして働いているが、早朝から深夜までの過剰労働に加え、職場ではハラスメントが常態化していた。チャンスを掴むためには会社にしがみつかないとと耐え続けるジェーンだったが。監督はキティ・グリーン。
 本作はフィクションではあるが、膨大な取材(数百件リサーチとインタビューをしているそうだ)が元になっており、細部がとてもリアルだ。映画業界に限らず、こういう体験をした人、誰かがジェーンやそのほかの若い女性のような状況に陥っているのを見た人は大勢いると思う。これをうわ~新鮮!という気持ちで見られた人はよっぽど運がいいか鈍感かだろうな…。ジェーンが体験する「嫌さ」の濃度の細やかさが非常によく作られていて唸った。
 ジェーンの仕事は「アシスタント」と言えば聞こえはいいが要するに雑用係で、資料や請求書のチェック、会長の車の手配や同僚のランチの買い出し、会長室や会議室の掃除に明け暮れている。映画製作に直接かかわる仕事は男性同僚2人ばかりがやっているらしい(この2人の結託している感が実に感じ悪いのだが)。それが清掃のような本来の業務の範疇外のものであっても下っ端のジェーンがやって当然、気遣いをして当然だという空気が出来てしまっている。「まだ新米だから」「最初は皆我慢しているんだから」という言葉の元に、理不尽がまかり通るという組織には本当によくあるパターンだ。会長の妻からの電話に対応し、対応したことによって会長が激怒し謝罪メールを書かされるという流れの理不尽さ(そもそも会長の素行が原因である)にはため息が出てくる。しかも会長は「君は見込みがあるから厳しく接している」とぬかすのだ。この言い方を耳にする人は多いだろうが、言っている側は自分の立場を振りかざしたいだけで、相手の成長を本気で考えているわけではないだろう。それを真に受けて、理不尽に耐えてこそキャリアを積めるという考えを植え付けられてしまうと、ハラスメントに対して正当に怒れなくなっていく。更に自分が後にハラスメントに加担しかねないので質が悪い。
 本作の最も怖いところは、ジェーンが思い切って相談をしてもまともな対応がされないという所だ。自分より若くてきれいな女性への嫉妬だろうとか、思い込みだろうとか、どんどん話をずらされ、「あなたのキャリアのためだ」と封殺される。隠蔽ありきで組織が動いており、被害者は切り捨てられていく。「あの子は上手くやるから大丈夫」という言葉もこれまたよく聞く言い回しなのだがそういうことではないだろう!と言いたくなる。ジェーンは社内の人間にも家族にもちゃんと話を聞いてもらえない。これが一番きついし心身削られる気がする。

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2023-04-12


スキャンダル (字幕版)
アリソン・ジャネイ
2020-08-05



『青いカフタンの仕立て屋』

 手仕事でカフタンを仕上げる仕立て屋のハリム(サーレフ・バクリ)とその妻で接客を引き受けるミナ(ルブナ・アザバル)は、お互いに支え合う善きパートナー。しかしミナは深刻な病に侵されていた。そんな折、若い職人ユーセフ(アイユーブ・ミシウィ)が助手として店で働くことになる。彼の登場によりハリムとミナの心は大きく揺さぶられる。監督はマリヤム・トゥザニ。
 色とりどりのカフタンの生地や刺繍がとても華やかで美しい。総刺繍のカフタンは大変豪華だし、縁飾りを多用した青いカフタンにどれだけ手がかかっているのかも見ているうちにわかってくる。ハリムの仕事ぶりをもっと見てみたくなる。既に失われた精緻な技もあるようで、モロッコの手仕事の奥深さが垣間見られる。一方、ハリムとミナの自宅の小物の配置や彼らの食卓にあがる料理の数々など、特に華やかではない地に足付いた暮らしの中の美しさも見ていて楽しい。まずは映像に魅力のある作品だ。
 ハリムとミナは一種の仮面夫婦と言えるのかもしれないが、2人の間には性愛の繋がりはなくともお互いを尊重し支え合うというパートナーとしての絆は間違いなくある。2人が嫌な客の物まねをするシーンや、食事のシーン、仕事上のやりとりなど、お互いに深く信頼し愛情のある関係であることが伝わる。男女、カップルの愛を、性愛とはまた別の形でもあり得るのだと描いている所がとてもよかった。しかしその一方で、もしミナが健康でこの先も長い人生を望めるようだったら、果たしてこの決断にたどり着いただろうかという疑問もある。またミナの側が支払うものが過大すぎるというか、ハリムが自身の在り方を(少なくとも愛する者の前でだけは)偽らずに生きることにはミナの犠牲を伴うというところが、まだこの道の途中であるという煮え切らなさ、物足りなさを感じた。これは現地の社会的背景所以なのだろうが、まだそこか、という気持ちになってしまう。
 主要登場人物の視線やちょっとしたしぐさが非常に雄弁。ハリムとユーセフのお互いを見る視線、ささやかな触れ合いはセクシャルな要素をはらんでいることがはっきりとわかる。2人の間の密度が詰まってくることがわかるので、それを見るミナの視線の気遣わしさもまた刺さってくる。そんなにお喋りではない静かな人たちだからこそ目や動きで観客に伝えることが重要なのだろうが、俳優の力量で繊細な部分まで伝わっていると思う。

モロッコ、彼女たちの朝(字幕版)
ハスナ・タムタウイ
2022-02-02



彼が愛したケーキ職人(字幕版)
タゲル・エリアフ
2019-06-14


『アフターサン』

 11歳のソフィ(フランキー・コリオ)は、別居している31歳の父親カラム(ポール・メスカル)とトルコのこぢんまりとしたリゾートホテルで夏休みを過ごす。カラムが入手したビデオカメラで撮影に興じ、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。20年後、当時のカラムと同じ年齢になったソフィは、その時に撮影した映像を見返し父親との思い出を振り返る。監督・脚本はシャーロット・ウェルズ。
 子供のソフィの視点で概ね進行するが、所々で大人となったソフィの視点に切り替わり、時間が飛ぶと同時にそれまで描かれていた情景との距離感が投入され、すっと客観視される。子供時代のソフィは、父親の表情が時折かげること、彼が何かに苦しんでいたらしいことには気づかなかった。父親と同じ大人になって初めてわかることがある。しかしそれでもなお、父親が何を抱えていたのかは明かされることはない。自分の親が実際のところどういう人間なのかは子供にとってずっと謎のままだ。作中、時折カラム視点のシーンが挿入されるのだが、これは子供のソフィも大人のソフィもあずかり知らぬこと、観客にのみ提示されるものだ。視点と時間の切り替わりと混乱が、記憶の整頓されていなさ、とりとめもなさを強調しているように思った。どこともつかないクラブで大人になったソフィが踊る幻想的なシーンがある。そのうちカラムの姿が見えるが、暗がりにフラッシュが差し込む中、彼の姿は断片的で全体を捉えることはできない。これがソフィとカラムの関係を象徴しているように思えた。
 カラムは愛情にあふれた優しい父親なのだが、どこかもろさ・不安定さを感じる。安定した生活というわけでもないらしく、おそらく彼自身がかなり不安なのだ。そういう状況であっても、ソフィに対してはちゃんと父親らしく振舞おうとする。ソフィが不在の時の彼の姿からは、親は親を「やろう」として親になっていた、親を仕事として多少無理をしつつもやっていたんだなということをしみじみと感じる。自分の父親、そして母親のことを思い返すと痛切なものがある。
 説明を相当抑制した、見る側の読み取り能力を結構要求する作品だと思うが、父娘の夏休みの多幸感に満ちている。その幸せはとてももろく危ういものではあるが、この瞬間は2人の記憶に焼き付いたであろうシーンが多々あるのだ。

カモン カモン[Blu-Ray]
ジャブーキー・ヤング=ホワイト
Happinet
2022-11-02

アマンダと僕[Blu-ray]
ヴァンサン・ラコスト
ポニーキャニオン
2020-01-08


『アダマン号に乗って』

 パリ市内、セーヌ川に木造建築の船「アダマン号」が浮かんでいる。ここは精神疾患のある人々を受け入れるデイケアセンター。絵画や映画、音楽やダンス等の文化活動を通じて、社会と再びつながりを持てるようサポートしている。施設内の活動では自主性が重んじられ、通所者たちとそこで働く看護師や職員らは共に作業に取り組む。監督はニコラ・フィリベール。
 パリの精神疾患患者向けデイケアセンターを題材にしたドキュメンタリー。セーヌ川に停留している船が施設として使われているというハコの在り方もユニークなのだが、ハコの中で実践されている活動もかなりユニーク。本作は通所者と施設スタッフのごくごく近くでカメラを回しているのだが、ぱっと見、どの人が通所者でどの人がスタッフなのかよくわからない。グループ内のやりとりやそれぞれの動きを見ているうちに何となくわかってくるのだが、この人は患者、この人は看護師といった紹介はしないのだ。単にそこにいる人として撮影され続けている。
 これを患者と「普通」の人たちには明瞭な線引きはできないのでは、皆同じなのではととらえることもできるだろうが、むしろ人間はそもそも一人一人異なる凸凹を持っていて異なる、何らかのくくりでラベル付けすることの方が奇妙なのだという考え方の方があっているように思った。アダマン号では絵を描いたり映画を見たり料理をしたりという様々なプログラムが実践されているが、その活動の様子からは、個を個として扱い尊重する、基本的に個人は自由であるという姿勢が徹底されているように思った。相手の意見に反対するときも、個人対個人の話し合いとして対峙される。
 ただ、通所者は自由に活動しているように見えるが、管理する所はがっちりと管理されているということも見えてくる。自由の維持と施設としての運営管理のせめぎ合いがあるのではないかと思った。ダンスの講師をしたい!と主張する人に、柔らかくしかしきっぱりとスタッフがNoを言うシーンが印象に残った。施設の運営管理は相当配慮と技術がいるのではないかと思う。こういう形の施設はフランスでも異例だというが、それも頷ける。しかしこういう施設、人を人として尊重する場がもっと必要なのだともしみじみ思う。
 通所者たちはカメラ=監督に向かってよく話すのだが、人間はどういう形であれその人なりのストーリーを生きているんだなと実感する。そのストーリーが突拍子もないものであっても、本人にとっては真実だから頭ごなしに否定してはならないのだ。アダマン号の活動も、その人のストーリーをまずは受け入れる所から始まっているように思えた。


精神
山本昌知
2020-05-06


『ある男』

 弁護士の城戸(妻夫木聡)は、かつての依頼者・里枝(安藤サクラ)から相談を受ける。事故死した夫・大祐(窪田正孝)が実は「大祐」ではなかったというのだ。葬儀の後、「大祐」の遺影を見た彼の兄が、弟の写真ではないと断言したのだ。彼が何者だったのか調べてほしいという依頼を受けた城戸は、彼を知る人物を訪ね歩く。原作は平野啓一郎の同名小説。監督は石川慶。
 原作よりも面白い、というか語り口が巧みになっているという印象を受けた。向井康介による脚本の、原作の再構築と組み立てが上手い。また、石川監督の『蜜蜂と遠雷』を見た時も思ったのだが、原作のエッセンスの抽出と解釈、再構築のセンスがいいと思う。特に序盤、里枝と息子、そして大祐の距離が近づいていく過程、ある一シーンでこの人たちが本当に家族になるなと確信させる一瞬があり、はっとした。こういう部分の演出が上手いのだ。
 城戸は在日三世なのだが、義理の両親やバーのマスターから無自覚な差別発言をされても、本物の大祐の兄から里枝たちを貶めるような発言をされても、あいまいな笑顔で流す。この人はずっとこういうスタイルで世の中に対処してきたんだろうなという姿勢が透けて見える。初対面の人ならともかく、妻の両親がこういうことを言うというのはかなりきついし、それに耐えなければならないというのも更にきつい。もう怒っちゃえばいいのにと思うが、そうしない・できない生き方なのだ。しかしある局面でそれをやめる。他人の人生を追い、他人の怒りや苦しみを追体験することでそれは我慢しなくていいことだという境地に至ったのだろう。ただ一方で、他人の人生を追うことで必ずしも城戸の人生が変わるわけではないし、彼が救われるというわけでもない。城戸自身も自覚しているように、一つの逃げとも言えるのだ。本作、原作の導入部のエピソードの市を変えることで、原作とは一味違った不安定な余韻を残す。人間は皆、今この生ではない別の生に憧れてしまう、一つの人生では満足できないのではと思わせるのだ。
 小金持ちな人たちの差別や弱者を許さない態度等、いやらしさの表現がかなり露骨。露骨すぎて戯画的に見えるのだが、こういう人本当にいるよな…。原作通りなのだが、生身の人間が演じるといやらしさが倍増する。

ある男 (コルク)
平野啓一郎
コルク
2021-09-01


蜜蜂と遠雷 DVD通常版
鈴鹿央士(新人)
東宝
2020-04-15


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