3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画あ

『ある決闘 セントヘレナの掟』

 1886年、テキサス・レンジャーのデビッド(リアム・ヘムズワース)はメキシコとの国境を流れるリオ・グランデ川に数十体の死体が流れ着いているという事件の真相を調べる為、川の上流の町マウント・ハーモンへ、妻マリソル(アリシー・ブラガ)を伴い潜入する。その町は、「宣教師」と呼ばれるエイブラハム(ウッディ・ハレルソン)が支配していた。監督はキーラン・ダーシー=スミス。
 西部劇は西部劇でも派手さ、勇壮さとは縁遠く、渋く血なまぐさく泥臭い。デビッドとエイブラハムにはある因縁があるが、その闘いと決着は地を這うものであり、決して爽快なものではない。デビッドはレンジャーとしての仕事上の倫理や正義はもちろん持っているが、自分が「正義の味方」だという態度はとらない。彼はエイブラハムが悪人だと思っており、彼のやっていることは許せないとは思っているだろう。しかし、闘いの中で人を殺す自分もまた人殺しである。目的が何であれ、人殺しは人殺しとして生きるのだという突き放した視線がある。決闘にしろ復讐にしろ、爽快感も「正義が勝つ」的なカタルシスもないのは、そのせいだろう。終盤も、単純にタフな方が生き残るという展開の抑制のきかせ方も渋い。とはいえ、自分の心遣いに助けられるような展開もあるのは、ドラマ上のお約束というものか。
 エイブラハムと出会ってからのマリソルの変化は急激すぎるようにも見える。しかし、デビッドとマリソルの間には最初から溝がある。2人は仲の良い夫婦のように見えるが、マリソルのメキシコ人としてのアイデンティティや疎外感は、デビッドには(理解しようとはしているだろうけど)今一つ迫ってくるものがないのかもしれない。マリソルのトラブルは、おそらくそこに付け入れられたものだ。混乱する彼女が見た夢の話をしようとするのを、デビッドはさえぎって勝手に結論付けてしまう。あーそういうところがダメなんだよ・・・。愛し合っているようでいて、肝心なところですれちがってしまうところがもどかしかった。ラストも、マリソルが見た夢の内容を踏まえて見るとなんとも渋い。簡単に「めでたしめでたし」にはしてくれないのだ。

真昼の決闘 [DVD]
ゲイリー・クーパー グレース・ケリー トーマス・ミッチェル ロイド・ブリッジス
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2015-07-22

赤い河 [Blu-ray]
ジョン・ウェイン
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2015-03-04

『アンダーカバー』

 FBIの若手捜査官・ネイト(ダニエル・ラドクリフ)は、白人至上主義者のカリスマ的存在であるラジオパーソナリティ、ダラス・ウルフを捜査する為、潜入捜査を命じられる。ネイトは元軍人の白人至上主義者を装い、ウルフと面識があるというネオナチの青年ビンスと知り合うことに成功するが。監督はダニエル・ラグシス。
 「未体験ゾーンの映画たち2017」にて鑑賞。今回の未体験ゾーンで見た中では最も掘り出し物感強く、面白かった。ラドクリフ主演だしクオリティ的には普通に公開してもよさそうなものなんだけど、このネタだと確かに日本ではウケない、というかニュアンスがわかりにくいのかもしれないな・・・。しかしおすすめです。ちょっと編集がぎこちない(報道映像等々のコラージュがあまり上手くない気がする)が、意欲的な作品だと思う。
 ネイトはあまり現場経験はなく、リサーチ重視な頭脳派。同僚に比べると小柄で華奢、肉弾戦は不得意そうで、職場でも「おぼっちゃん」的にからかわれている。そんな彼が、なぜかマッチョな団体と思われる白人始業主義者グループに潜入する羽目になる。最初はムリだムリだとしり込みするネイトだが、上司(トニ・コレットの仕事は出来るが人としてはくそったれっぽい上司感がすばらしい)に認められたい一心で、学習に学習を重ね組織のトップに近づいていく。ネイトの地頭は良いが如何せん経験不足で浮足立ちやすい感じ、冷徹な潜入捜査官にはなりきれない様子を、ラドクリフが好演している。ネイトの計画は少々行き当たりばったりな感があるが、彼の演技の上手さで作品がもっている。
 FBIが戦っているのは「外部」からのテロだけではなく、「内部」からのテロに対してでもある。こういう方向での「テロ」もあるということを描いているのだが、テロリスト候補たちのショボさも含めて、結構生々しい。今のアメリカのある一面、根深い問題背景の一部を垣間見る感じ。潜入捜査官としてなぜネイトが選ばれたのか、という部分が、白人始業主義に若者が走る要因を的確に説明していたと思う。妥当な拠り所みたいなものが得にくい世界になっているのかなと、暗鬱とした気分にもなった。
 ある人物の、人々が煽られたがっているから煽るだけ、面白ければいいんだと言わんばかりの言動は、先般の大統領選の結果を招いたものと同質なもののように思った。主義主張が先にあるというわけではないんだよな。

『アシュラ』

 都市開発の方向で揉めるアンナム市。刑事のハン・ドギョン(チョン・ウソン)は市長パク・ソンベ(ファン・ジョンミン)の為に暗躍し市長の汚職疑惑のもみ消しを図る。しかし検事キム・チャイン(クァク・ドウォン)に弱みを握られ、市長の犯罪容疑の証拠をつかむ為二重スパイになれと強要される。ドギョンは後輩刑事のムン・ソンモ(チュ・ジフン)も巻き込み生き残る為奔走する。監督・脚本はキム・ソンス。
 予告編がやたらと怖くかつ面白そうで自分の中での見る前の熱量は相当高かったのだが、期待したほどではなかったかな・・・。十分面白かったのだが、ちょっと飽きが来てしまった。緊張感はあるのだが、ドギョンにとっての状況が無間地獄すぎてどこまで行っても同じかよ・・・とぐったりしてくる。そこが狙いでもあるのだろうが。また、ややこしい状況に追い込まれている割には、ドギョンの行動はそれほど計画的ではなく、行き当たりばったりな傾向が強い。そんなんで生き残れるの?!大丈夫?!しのぎを削るコンゲームといった雰囲気ではない。特に冒頭、先輩刑事とソンモと手駒のチンピラが巻き起こすごたごたのやりとりは、頭が悪すぎる!上司も部下も頭が悪いと大変だな・・・とは思うが、それを収集できないドギョンも大概だ。一貫して、自分には重荷すぎるものを課されたドギョンが這いずり回るという構図なのだ。
ソンベは自分の欲望の為なら手段は選ばず非情な人物だ。しかし彼を追うチャインも、ドギョン本人も似たようなもので、基本的に本作に登場する人たちは手段を選ばず欲望に忠実だ。また、自覚していなかった欲望が引き出されることでお互いの関係性が大きく変わっていくこともある。ソンモはドギョンを先輩として慕いドギョンはソンモを出来の悪い弟的にいじる。そこには先輩・後輩という力関係が歴然としてあり、後輩は多少バカにしても、「出来が悪い」扱いをしていいものという暗黙の了解がある。これが見ていて結構つらかった。ドギョンはソンモに対して悪意はなく可愛がっているつもりだろうし、ソンモもおそらくそれはわかっている。が、バカ扱いされることが平気なわけではないだろう。彼の積もり積もった屈託が、ソンベに持ち上げられたことで爆発してしまう。ドギョンがソンモの屈託に気付いていない所がまた辛い。ドギョンが鈍感というよりも、社会構造として組み込まれているから見えにくいのだろう。

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』

 デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は交通事故にあい、車に同乗し運転していた妻は死亡した。妻の死に対して涙は出ず、悲しみも感じない彼は、妻の父親フィル(クリス・クーパー)が経営する金融会社での仕事には復帰したものの、周囲のものを分解・破壊したいという衝動を抑えられなくなる。監督はジャン=マルク・バレ。
デイヴィスは無感覚な状態に陥っており、自分が悲しんでいるのかどうかもよくわかっていないし、わかっていないということ自体に自覚がない。また、会議中に全く関係のないことを言いだしたり、自動販売機会社のお客様窓口にクレームに加え自分の近状を長々としたためた手紙を出したりと、はたからみたら突飛な行動に走っていく。
 妻が死んでからのデイヴィスの生活からは、彼は家族との関係はそんなに密ではないし、親しい友人もいない、職場の同僚ともそんなに仲良くしているわけではない(社長の娘婿なのでむしろ煙たがられてそう)な様子が垣間見られる。元々、そんなに空気読む方でも気遣いが細やかな方でもなく、ちょっと情緒に疎いのかなという雰囲気なのだ。フィルは娘の夫であるデイヴィスのことを気に掛けてはいるものの、ぽろっと「最初から気に入らなかった」と漏らすし、デイヴィスのことをよくわからん奴だよなと思って困惑している様子がありありとわかる。彼は一応親族ということにはなるのだろうが、デイヴィスにとって話相手にはならない。話す相手がいないから、自販機会社のお客様窓口担当のカレン(ナオミ・ワッツ)に長々と手紙を書き、彼女の自宅まで突き止めてしまうのだ。カレンへの接近の仕方はストーカーまがい(というか立派にストーキングだろう)でかなり怖く、更にカレンがデイヴィスを受け入れてしまうことで、本作に対する気持ちがかなり冷めてしまった。カレンのパートはない方がよかったような気もするが、彼女の息子がすごくいいキャラクターなんだよなぁ・・・。
 とは言え、破壊行動もカレンとの距離の取り方のまずさも、デイヴィスにとって自分と世の中との距離感がよくわからなくなっているからだろう。彼が周囲のものを分解して壊していくのは、自分をとりまく世界の成り立ちを理解しなおそうとしていることなのかもしれない。デイヴィスと唯一相互理解のあるやりとりをするのが13歳になるカレンの息子なのだが、彼はまだ「世の中」に出る前の存在だからだろう。「世の中」から落っこちてしまったようなデイヴィスには、子供の方が率直に話せる存在なのではないか。とは言え、セクシャリティに関する彼へのアドバイスは、こいつやっぱり情緒ないし想像力あんまり豊かじゃないな、ってものなのだが。

『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』

 1950年代後半、ドイツの検事長フリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウス)はナチスの戦争犯罪の告発に執念を燃やしていた。ある時、数百万人のユダヤ人を強制収容所送りにしたアドルフ・アイヒマンに関する情報が、アルゼンチンから届く。バウアーはイスラエルの諜報機関モサドと接触、アイヒマン逮捕を狙うが、ドイツの捜査機関内にもナチスの残党がおり、バウアーの妨害を図る。監督はラース・クラウメ。
 似た題材の映画として、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』が記憶に新しいが、物語内の時系列としては、本作、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』ということになるのかな(『ハンナ・アーレント』は長期にわたる話なので全体をカバーするような形になるのかもしれない)。どの作品でも、主人公は政府や司法から、また国民から非難・攻撃される。皆、上向いてきた国内情勢に水を差すようなことをしたくないし、不愉快な過去と向き合いたくはないのだ。現在のドイツを見ると、第二次大戦時の反省が徹底されているというイメージなのだが、すぐにそういう状態になったというわけでは全然なく、バウアーのような人たちが粘り強く取り組んできた成果ということなのだろう。
 TV出演したバウアーが、ドイツの何を誇るべきかと若者に問われた際の言葉が印象に残った。バウアーは、土地や森は元々そこにあったものだから我々が誇ることではない、ゲーテもニーチェもアインシュタインもすごいのは彼ら個人だから我々が誇る事ではない、我々が誇れるのは自分達が親や子供に何をできたかということだ、というような話をする。バウアーにとってはナチスの犯罪を暴き、自国で司法の裁きを受けさせる(バウアーはアイヒマンを捕えるだけでなく、ドイツで裁判を行うことが重要だと考えた)ことが、国を愛することであり誇るなのだ。しかし、周囲は彼を(国の)裏切り者扱いをする。これが辛くもどかしい。愛国心て何だよ!と叫びたくなるのだ。
 バウアーはユダヤ人で収容所に送られた体験を持つ。執拗なナチスの残党狩りはその復讐だろうと揶揄する人もいるが、バウアーにとっては一度ナチスに屈した(収容所から出る代わりにナチスに従うという)ことへの後悔からの行動であり、今過去と向き合うことが自国の未来につながると信じてのことである。アイヒマン逮捕の顛末は史実通りで、本作の後味は苦い。しかし、本作の約十年後が舞台である『顔のないヒトラーたち』でも描かれたように、バウアーのような人が再び立ち上がるところに、ドイツという国の希望があったのではないかと思う。

『The NET 網に囚われた男』

 北朝鮮で妻子と暮らす漁師ナム・チョル(リュ・スンボム)は、ボートで漁に出たものの、エンジンが故障し韓国側に流されてしまう。韓国の警察は彼を拘束し、スパイ容疑で厳しい取り調べを行いつつ、韓国へ亡命しろと迫ってくる。監督はキム・ギドク。
 真綿で首を絞めていくような息苦しさだ。ナム・チョルは妻子の元に戻りたいだけなのだが、韓国の警察は彼をスパイだと決めつけ、自白を迫り拷問まがいの取り調べをする。「未来のスパイだから」だと言うのだが、それを言ったらきりがないだろう。警察はナム・チョル個人は見ず、北朝鮮から来たスパイ、あるいは自分達の手駒として使える可能性があるスパイ候補としか見ていないのだ。ナム・チョルが何を言っても信じてもらえないという状況がとにかく怖い。唯一彼と個人として接する若い警官は、彼を救おうと奔走するが無力だ。組織や国家の名を借りないものは、本作では何もできない。常に自分の上に覆いかぶさってくる何かを意識し、その存在に奉仕することを強いられる世界のなんと息苦しいことか。
 韓国警察がナム・チョルを転向させようと、街の豊かさを見せに連れ出すが、ナム・チョルは固く目を閉じ見ようとしない。見なければ北朝鮮に戻った時に何も答えなくて済むし、亡命希望と疑われなくて済むというのだ。韓国にとってナム・チョルは「哀れな国民」「気の毒」なのだが、当人にしてみれば亡命を強いる韓国の方が無体なことをやっている。またナム・チョルにとっては、韓国の豊かな生活は、物を無駄にしお金がないと何もできない世界でもある。
 とは言え、北朝鮮は北朝鮮で極端な監視社会であり、ナム・チョルは韓国の豊かさを見たことでスパイと疑われ、やはり厳しい取り調べを受ける羽目になる。南も北も、警察の振る舞いは大して変わらない。取り調べとはナム・チョルの行動を確認することではなく、自分達にとって望ましい自白を引き出すことなのだ。当然、彼が何を言っても、警察側が望まない答えは「嘘」として扱われる。尋問のやり方まで同じ(まあルーツは同じなんでしょうが・・・)なのには笑ってしまった。どこにいても、ナム・チョルは国家や組織といった「網」に囚われた男であって、逃げ場はない。現代の韓国と北朝鮮という実在の国を舞台にしているのでよりインパクトがあるが、どこの国・時代でも当てはまりそうな、寓話的な味わい。

『暗黒街の顔役』

 「山田宏一セレクション ハワード・ホークス監督特集」にて鑑賞。1932年の作品。原作はアーミテージ・トレイルの小説『スカーフェイス』。派閥抗争が続く暗黒街をのし上がっていくトニー・カモンテ(ポール・ムニ)の栄光と破滅を描く。
 影の使い方がとても印象的。壁にトニーの影が長く伸び、彼の口笛が響く冒頭の不吉さは、これはホークスもドヤ顔で撮っただろうというインパクトとキャッチーさ。トニーの口笛は暗殺の前触れであり、これが随所で反復される。もちろんモノクロ映画なので、光と影のコントラストも強く、美しい。
 トニーは大親分を裏切り、横並びだった各組織の親分を暗殺して次々と利権を手に入れていく。彼はバカではないはずなのだが、全て力で押し通していくやり方は、生き残りたいのか生き急いでいるのかよくわからない。ライバルを蹴落とす好機なのに観劇中で話の続きが気になるからと渋るあたりも、どこか捕えどころがない。一見気のいい「ワル」といった風だが、母親や妹に見せる姿は、支配的で相手にも感情があるということを理解しないものだ(母親の無能さにもイラっとするのだが・・・)。
 しかしそんな彼が、終盤一気に崩れていく。中盤まで勇猛で無敵感を打ち出しているだけに、ギャップに引き込まれた。今まで非情に徹していたのにこんなこと(と言うには大事だが)でガタガタになるのか、本当はこんなに弱かったのかとはっとするのだ。彼と妹との怒鳴り合い詰り合いながらも切れない絆は、愛憎混じって近親相姦的にも見える。
 カーチェイスや走る車内等、自動車がらみのシーンが短いながらも魅力的だった。当時としては結構思い切りのいいカーチェイスだったのではないか。意外とスピード感があってかっこよかった。

『アズミ・ハルコは行方不明』

 郊外の町に住む愛菜(高畑充希)は元同級生のユキオ(大賀)に夢中。ユキオは学(葉山奨之)とグラフィティアートを始める。行方不明になった独身OL、安曇春子(蒼井優)をモチーフにしたグラフィティはSNSで拡散されていく。一方、街では男性ばかりを無差別に襲う、女子高生ギャング団が出没していた。原作は山内マリコの同名小説。監督は松居大悟。
 時系列も視点も大々的にシャッフルされており、原作よりも更にうねっている感じ。ただ、手持ちカメラの動きの不安定さや、時間・視点の行き来の頻繁さで、かなりごちゃごちゃした印象にはなっている。脚本は頑張っていると思うのだが、ビジュアルとして整理されていない感じ。
 原作は、郊外に住む若い女性(だけではないが)の鬱屈と限界を描きつつも、彼女らを応援する部分があり、そこにぐっときた。が、本作は原作小説ほど訴えてくるものがない。特に愛菜のエピソードは、彼女の表層の部分しかとらえられていないように思った。原作でも、愛菜はそもそもそんなに「厚み」がある人としては描かれておらず、恋人への依存が強い「うざい」女性なのだが、それでも彼女が感じているが言語化できない閉塞感、鬱屈はある。映画だと、そのあたりが零れ落ちてしまい、単に「うざい」女性で終わってしまいそう。
 春子のエピソードの方が、春子の鬱屈や人となりが分かりやすい。会社の社長と専務という、分かりやすい悪者、彼女がどういう目で見られているか象徴するものがあるので、そこへ照らし合わせることが出来るからだ。この2人、本当にろくでもない男性なのだが、「世の中」の一面を非常に分かりやすく代弁している。それがまた腹立たしい。春子の職場の先輩女性はある方法で彼らをぎゃふんと言わせる。爽快ではあるが、なんだかなぁという気もする。結局、彼らの価値観に乗っかった上でのことになっちゃうよなと思うのだ。
 女子高生ギャング団の面子の(映画館のシーンでの)面子の揃え方がいい。そのへんにいそうな、特に美人でもないし目立たなそうな顔の子もちゃんといる。いわゆる芸能人ぽさ、俳優ぽさが出ているのはフロントの子くらいで、他は本当に普通なのだ。そういう子たちがわーっと駆け出す(そしてその他の女性たちも駆け出す)クライマックスはなかなか良かった。ここを外したらダメだということを、監督がちゃんと理解しているんだなとほっとした。

『アイ・ソー・ザ・ライト』

 1944年、アラバマ州でカントリー歌手のハンク・ウィリアムス(トム・ヒドルストン)は前夫と離婚して間もないオードリー(エリザベス・オルセン)と結婚した。歌手志望のオードリーはハンクのステージに共に立つが、彼女の歌はいまひとつでバンドにも観客にも不評だった。やがて息子が生まれハンクもオードリーも幸せに包まれるが、ハンクが売れっ子になるにつれ、家を空ける時間が長くなり、家族との溝は深まっていった。監督はマーク・エイブラハム。
 活躍した時期は29歳で他界するまでの6年間と短いものの、後の音楽に大きな影響を与えたカントリー歌手、ハンク・ウィリアムズの伝記映画。作中の歌はハンクを演じるヒドルストン自ら歌っており吹替えなしなのだが、上手い!実際のハンクに似ているのかどうかはわからないのだが、ヒドルストンの芸達者振りが実感できる。トム・ヒドルストンというと『マイティ・ソー』(ケネス・ブラナー監督)のロキや『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(ジム・ジャームッシュ監督)の吸血鬼など人外、人外じゃなくてもどこかゴシック色のある浮世離れした雰囲気の役ばかり印象に残っているが、本作では普通(とは言っても当時のスターだけど)の人役。人外系の役柄で見られなかった表情が見られる。スターとしてのかっこよさ、1人の男性としての弱さと情けなさを両方見せており、この人、やっぱり上手かったんだなと改めて思った。
  ただ、映画としては平坦で少々起伏に欠ける。ハンクはスターになるが、女癖の悪さと過度な飲酒で妻との関係は悪化、やがて重い病気に侵され、プライベートは平穏無事とは程遠かった。それらすべてを同じような比重で、時系列に沿って描いている為、作品の軸、クライマックスをどのあたりに設定したのかがよくわからない。ここだという印象に残るシーンがないのだ。伝記としては誠実な描き方なのかもしれないが、映画としては起伏に乏しい。キメッキメの冒頭は何だったんだよ!とちょっと突っ込みたくなってしまう。類型的といえば類型的なストーリーなので、音楽以外に何かフックがないと(つまりオーソドックスに上手い!ってほどには上手くない映画の作りなのだろう)2時間以上間を持たせるにはちょっときついかなぁと思った。とは言え、ハンクが歌っているシーンは概ね見ていて楽しい。これは音楽映画の強みだろう。
  ハンクは女好きで結婚後も浮気が耐えないのだが、女性運はあまり良くなかったみたいだ。ハンクの妻・オードリーは歌手として成功したいという野心があるが、彼女にはハンクほどの才能がない。それでも、ハンクは彼女を自分のステージに上げる。ハンクも彼女の下手さはわかっているはずなのに、やっぱり惚れた相手にそういう指摘はできないのか・・・。バンドメンバーがげんなりしているのがわかるので、何だかハンクがかわいそうになってしまう。自分の歌手としての腕にプライドを持っていればいるほど、下手な相手とデュエットって耐えられないんじゃないかという気がするが。オードリーにしても、すぐ隣に天才的な人がいたら自分の才能の度合いはわかってしまうんじゃないかと思うが、そこまで固執してしまうものなのか(ただ、離婚したいというオードリーにも一理ある。一緒に生活するのが難しい人同士が運悪く結婚してしまったケースだったのでは)。また、売れない時代からのマネジャー的存在でもある母親が、さりげなく支配欲強い風なのもきつい。これは嫁姑絶対上手くいかないでしょ・・・。

『ある戦争』

 デンマーク軍の部隊長クラウス(ピルー・アスベック)は、平和維持軍の任務の為にアフガニスタンに駐留していた。ある集落でタリバンの襲撃を受け、発砲場所と考えられる地区への空爆を要請するが、実際には民間人しかいなかった。クラウスは民間人11人を死亡させたとして軍法会議にかけられる。監督はトビアス・リンホルム。
リンホルム監督は脚本家として『光のほうへ』『偽りなき者』(トマス・ヴィンターベア監督)を手掛けており、今回長編初監督だそうだ。シリアスで見た後ずーんと考えさせられる脚本を書いてきたが、自監督でもそこは同様。白黒つけられない世界を描き続ける作家性なのだろう。
 予告編や映画のあらすじだけを見ると、軍法会議がメインなのかなという印象だが、実際はそこに至るまでが結構長い。クラウスと部下たちが日々どういう任務をこなしているのか、現地の民間人とのやりとり(この顛末がやりきれない)や、仲間同士のやりとりもひとつづつ追っていく。どういう経緯で軍法会議に至るのかというところに、説得力があるのだ。同時に、デンマークで彼の帰りを待つ妻子の日常も並行して描かれる。クラウス夫妻には3人の幼い子供がいる。長女はクラウスが置かれている状況を理解しているようだが、長男は父親の不在が辛いようで学校では問題行動が多い。末っ子が誤飲した為に病院に運び込むシーンがあるのだが、上の子2人もつれていく。ああ子供だけで留守番させられないからかとはっとした。ちょっとしたことなんだけど、実際にその場を見てみないとぴんとこないことってある。ともあれ、クラウス側とその家族側、全く違う環境ではあるが双方の日常をまずしっかり見せることで、クラウスが当事者になる問題が、日常と地続きであることが強く意識される。
 クラウスは軍法会議にかけられ、実刑判決を受けるか否かというところまでいくのだが、彼が起こした(とされる)事件は、戦争をやっていればそこそこ頻発するんじゃないかという気もする。少なくとも、民間人を全く巻き込まない戦争というのは難しいだろう。もちろん軍規は厳密であるべきだが(軍法会議自体は開かれて当然だろう)、厳密に守って自分達が全滅するんじゃ兵士なんてやってられないだろうし・・・。見ている間中ジレンマを感じ続けた。クラウスは軍人としてはむしろ真面目で、民間人を巻き込んだ罪悪感には苛まれるし、保身の為に虚偽の証言は出来ないと思い詰める。しかし妻からすると、刑務所に入って何かが解決するのか、家族はどうなるのかという不安しかない。ここにもまた、ジレンマがあるのだ。
 戦争の中で起きることは、その責任を個人に負わせるには荷が重すぎるのだろうとつくづく思わされる。じゃあ全員責任免除に出来るかと言ったらそんなわけないので、ここでもまたジレンマが・・・。どちらが正しいのか、妥当なのかという回答を避け続けるような作品だった。正解を出してはいけない類の問いもあるのだ。

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