3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画題名わ行

『ワンダー 君は太陽』

 10歳の少年オギー(ジェイコブ・トンブレイ)は生まれつきの障害のせいで、人とは違う顔のつくりをしている。その為長らく母親イザベル(ジュリア・ロバーツ)を教師に自宅学習をしていたが、小学5年生から学校に通うことになった。最初のうちは周囲から奇異の目で見られ、いじめにも遭うが、徐々に友達もでき、周囲の目も変わり始める。原作はR・J・パラシオのベストラー小説『ワンダー』、監督・脚本はスティーブン・チョボウスキー。
 オギーが環境に適応するというよりも、周囲が彼がどういう人間なのか知り接し方が変化していくことで、オギーが学校内での立ち位置を確保できるようになるという面が大きい。校長が言うように、私たちが知ろうとしないと、変わらないとということなのだろう。いじめられるのはオギーの責任ではないのだ。色々な人がおり、それが普通のこととして対応する世の中がいいんだという姿勢は、教師として正しい。若さ故にもうちょっとぎこちない新任教師にも、やはりそういう姿勢がある。オギーの周囲にいる大人が、教師も両親もちゃんとした人たちで理解があるので、安心して見ていられる。
 とは言え、オギーが周囲から好かれるようになった、評価されるようになったのは、彼が頭が良く、性格も良く、ユーモアを持っているからだろう。「普通」の小学5年生よりはもうちょっと出来る子、「持ってる」子なのだ。この「持ってる」部分が若干盛られすぎなように思った。それって「普通」なの?とも、そりゃああれだけ才能あって性格良ければ好かれるでしょ、とも。本人の生まれ持っての才能や努力で障害を克服しているように見えちゃうのは、ちょっと違う気がする。突出した才能がなくても、人柄が秀でているわけではなくても、障害や見た目に関係なく「普通」にお互い接することが出来るというのが正しいあり方なんじゃないかな・・・。
 オギーの視点だけではなく、家族や友人の視点から順番に物語が描かれ、オギーと家族との関係や、学校での人間関係がよりよくわかる。体が弱くケアが必要だった弟がいることで、良い子でいざるをえないオギーの姉のパートが切ない。彼女は元々弟が欲しかったのでオギーのことを大好きだし姉弟仲は良いのだが、時々両親に自分の方を見てほしいのだ。彼女の友人が、オギーと家族のことを太陽系みたいだと言うのだが、言い得て妙だ。自分以外の誰かが常に家族の中心で、自分の番は回ってこないというのは、ちょっときついと思う。

ワンダー Wonder
R・J・パラシオ
ほるぷ出版
2015-07-18


ウォールフラワー スペシャル・プライス [DVD]
ローガン・ラーマン
Happinet(SB)(D)
2015-12-02


『わたしはあなたのニグロではない』

 アメリカ黒人文学を代表する作家、ジョームズ・ボールドウィン。彼が残した文章を元に、1960年代から現代にいたるまでのアメリカの人種差別と暗殺の歴史に迫る。監督はラウル・ペック。
 作中にはボールドウィン本人が語っている映像も多数使われているのだが、(文学者だから当然と言えば当然なのだが)トークの言葉にも非常に力がある。話している時の立ち居振る舞いも含め、魅力のある人だったことがわかる。スピーチの巧みさでは、盟友であった公民権運動のリーダー、マドガー・エヴァースやマルコムX、キング牧師には及ばないのだろうが、強靭な知性を感じる。
 公民権運動真っ只中の1960年代から、現代に至るまでの報道、トークショー、また映画の映像等を繋ぎ合わせたドキュメンタリー。アメリカにおける黒人差別はどういうものなのか、どういう歴史があるのかを提示するが、60年代と現代とが交互に配置されていることで、人種差別の構造があまり変わっていないことがわかってくる。もちろん法律上の整備は各段に進んだし、現代の方が目に見える差別は減っている(はず)だろう。しかし、人間が他の人間を差別する時の構造は根強くある。なぜ差別をするのか、自分たちより下位とされる存在をねつ造してしまうのか、ボールドウィンの言葉は鋭く突いてくる。言葉の古びなさはびっくりするくらいだ。ボールドウィンの文学が普遍性を持つということと同時に、彼が指摘した問題がいまだ現役であるということなので、少々複雑ではあるが。
 作中、あるトークショーの中で、大学教授がボールドウィンの著作・主張に対して反論をする。人間は個々で異なり、人種はその内の要素の一つではない、私は無知な白人よりも教養ある黒人に共感する、人種間問題に拘りすぎだと。これに対するボールドウィンの返事は痛烈かつ切実なものだ。この教授の反論は、人種差別だけでなく様々な差別に対して言われがちなものだと思うのだが、彼の言葉は当事者にとっては全く的外れだろう。当事者にとって差別は今ここにある危機、生命を脅かすようなものであって、見方の問題とかそういうことではない。おそらくボールドウィンらも何度となく、「そういうことじゃないんだよ!」と叫びたくなったのだろう。

地図になかった世界 (エクス・リブリス)
エドワード P ジョーンズ
白水社
2011-12-21


To Pimp a Butterfly
Kendrick Lamar
Aftermath
2015-03-24


『ワンダーストラック』

 1977年ミネソタ。母親を交通事故で亡くした少年ベン(オークス・フェグリー)は、会ったことのない父親の手がかりを見つけ、ニューヨークに向かう。1927年ニュージャージー。聴覚障害を持つ少女ローズ(ミリセント・シモンズ)は厳格な父親に反発し、女優リリアン・メイヒュー(ジュリアン・ムーア)に会う為ニューヨークへ向かう。原作はブライアン・セルズニックの同名小説、監督はトッド・ヘインズ。
 2つの時代、2人の子供の親を求める旅路が平行して進行される。お互いのパートへの呼応の仕方、その呼応に合わせたもう一方の時パートへの切り替え方は、それほど洒脱というわけではないのだが、違和感はなくわかりやすい。ローズがここを通った50年後にベンが!というような時間を越えていく盛り上がりがある。舞台になるのが博物館や美術館、古本屋など、自分のツボをついてくる場所ばかり。博物館にこっそり寝泊まりするなんて、やってみたかったなー!本作、いつになくロマンチックで可愛らしい作品だ。子供が主人公で、子供が見ることも前提に作られているからだろうが、この先の人生に対するポジティブさを感じた。今は居場所がないかもしれないが、いつかきっと居場所が見つかる、あなたを待っている人がいるんだ(それは今期待しているものとは違うかもしれないけど)と語りかけてくるような優しさがある。
 ローズが映画を見に行くシーンがあるが、当時の映画はまだサイレント映画だ。サイレント映画であればローズは他の人たちと同じように楽しめる。しかし映画館にはトーキー映画到来のポスターが貼られている。この先、ローズは映画という世界からはじき出されてしまうのだ。彼女は旅の中でしばしば、この世界からはじき出されてしまうような体験をする。彼女にとって世界とはそういうもので、そういう世界を自分のものにしていく為の格闘があったんだろうなと、「その後」の彼女の姿を見て思った。ベンもまた、彼女とは違う形かもしれないが、そういう格闘を重ねていくのだろうかと。

キャロル [Blu-ray]
ケイト・ブランシェット
KADOKAWA / 角川書店
2016-08-26


クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))
E.L.カニグズバーグ
岩波書店
2000-06-16



『わたしは、幸福(フェリシテ)』

 キンシャサに暮らすフェリシテ(ヴェロ・ツァンダ・ベヤ)はバーで歌って生計を立て、息子サモと2人で暮らしている。バーの常連で修理屋のタブーは彼女に気があり、何かと声をかけてくる。ある日、サモが交通事故に遭い、手術を受けるための費用が必要になった。フェリシテは金策に奔走するが、惨酷な知らせが彼女を待っていた。監督はアラン・ゴミス。
 カサイ・オールスターズによる音楽が素晴らしい。いわゆる美声というわけではない、特に叫ぶようなフェリシテの歌声は、この音楽に乗ると実に表情豊かで力強い。フェリシテはほぼ全編にわたって苦労の連続で、表情は硬く(無表情に味がある)、内面をたやすくは見せない。しかし歌う時だけは幸福感に満ち、エネルギーに包まれる。そんな彼女が歌えなくなる時、どれほど疲労し絶望が深いのかと痛感させられるのだ。
 金策に走り回る話というと、今年見た映画では『ローサは密告された』(ブリランテ・メンドーサ監督)を思い出した。『ローサ~』では保釈金の為にローサと家族が奔走するが、本作では息子の治療費の為にフェリシテが奔走する。警察も政府も腐敗しており最早アンタッチャブルな世界に突入している『ローサ~』に比べると、本作の方が貧しいながらもまだ殺伐としきってはいないように見える。とは言えお金のことを考え続けるのは心身が削られるものだ。彼女が「ボス」の家に押しかけた際の「私は物乞いじゃない」という言葉は、負け惜しみというよりも彼女にとっては正当性があると考えてのことだろうが、それでも(物理的にも)ボロボロになる。それでもやらざるを得ないというのが辛い。
 しかしそんな中でも、「わたしは幸福」と言えるであろう瞬間が訪れる。前述のように音楽に裏打ちされたシーンはもちろんなのだが、日常のちょっとしたことで、日が差し込むような気持ちになるのだ。無表情だったサモがある瞬間に見せる表情がすばらしかった。タブーの立ち振る舞いが引き出したものだが、彼の2人への関わり方がつかず離れず、でも諦めずといった感じで良かった。2人をサポートするが強権的ではないのだ。

ローサは密告された [DVD]
ジャクリン・ホセ
ポニーキャニオン
2018-03-02




『ワンダーウーマン』

 女性だけの島で育った王女ダイアナ(ガル・ギャドット)は最強の者しか持てないと伝えられる剣に憧れ、母親の言いつけを破り強くなるため修行に打ち込んできた。成長した彼女は、自分に秘められた能力があることに気付く。ある日、島に不時着したパイロットのスティーブ・トレバー(クリス・パイン)を助けるが、彼はイギリス軍のスパイで、彼を追ってドイツ軍までが島に乗り込んでくる。外の世界では大きな戦争が起きていると知ったダイアナは、戦いを止める為にスティーブと共にロンドンへと旅立つ。監督はパティ・ジェンキンス。
 本作、アメリカでは大ヒットし、女性監督による女性が主人公のアメコミ原作映画としては画期的という触れ込みで、実際その通りではあったのだろうが、そんなに新鮮味は感じなかった。また、女性をエンパワメントするというフェミニズム的要素も、さほど強くない(女性にとって不快な要素はほぼないと思われるが。クリス・パインが逆サービスカット的に脱いでいるのは笑ったけど)ように感じた。ハリウッドの男社会性がそれほど強固ということなのかもしれないが、ワンダーウーマンというヒーローの背景をどう認識しているのかで、受け取り方が違うのかもしれないなぁとは思う。アメリカと日本だと、見えているものが違うのかなと。日本の場合は「戦闘美少女」的で絵として見慣れているのでぱっと見新鮮味がないというのはあるだろう(ただ、戦闘美少女に必ず付加されている未成熟な少女としての可愛らしさはワンダーウーマンには意図されていないので、そこは大きく異なるが)。
 ダイアナは物理的な力と、膨大な言語を操り百科事典並の知識を持ち合わせているという知的な力を持ち合わせている。しかし彼女は、人間の社会のことは知らない。ロンドンに出てきたダイアナは様々なカルチャーショックに見舞われるが、これは彼女が世間知らずというよりも、人間の世は彼女から見たら妙なことばかりで、なんでこうなっているの?という感じなのではないかと思う。なぜ肌を見せてはいけないのか、なぜ動きやすい服を着てはいけないのか、なぜ死にそうな人を助けに行くことが不利益と見なされることがあるのか。彼女の疑問はプリミティブなものなのだ。
 本作、ダイアナを1人の人間・女性として見るものではないのではないかとふと思った。彼女は性別云々以前に神により近い存在で、彼女がロンドンにやってくるのは、神が人間の世に降り立ったという状況により近いのだろう。本作が帯びている神話性(ダイアナの母が語るのは正に神話としての自分たちの発祥だ)は、主人公が神の物語だから当然と言えば当然ということになる。同時に、人間の世のことは神にとっては(特に本作が設定しているようなギリシア神話の神々にとっては)基本的にどうでもいい他人事だ。その他人事を捨て置けずわざわざ乗り出してくるというのがダイアナのやっていることなわけだ。彼女の「愛」は恋愛における愛ではなく、人間に向けられる神の愛に近いものなのではないか。それだったら、愛によって世界を救うというのが月並みでも大げさでもないなと腑に落ちる。人間の負の面を見た神がそれでも地上に留まるかどうかという神話として見れば、ラスボスへの違和感を含め、そういうことかなと思えなくもない。『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』でも見られた宗教画のようなショットが本作でも使われているが、DCユニバースは神々の闘いというニュアンスを強めて、マーベルと差別化を図るのだろうか。




『ワイルド・スピード ICE BREAK』

 キューバでバカンスを過ごしていたドミニク(ヴィン・ディーゼル)とレティ(ミシェル・ロドリゲス)。ドミニクに正体不明の女(シャリーズ・セロン)が接触し、ほどなくしてドミニクはファミリーを裏切る。女の正体はサイバーテロリスト・サイファーで、自分の計画にドミニクを引き入れたのだ。FBIを休職中のホブス(ドウェイン・ジョンソン)はファミリーを招集しサイファーを阻止しようとする。上司であるミスター・ノーバディ(カート・ラッセル)は、彼にかつての敵であるデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)と協力しろと命じる。監督はF・ゲイリー・グレイ。
  ファミリーという言葉がしばしば使われ、ドモイニクと仲間を繋ぐものでもあり拠り所となっている。今回はそのファミリーをドミニクが裏切るという、意表をついた展開だ。では何の為ならファミリーを裏切る、裏切らざるを得ないのか?という所で、更にファミリー、家族というものが浮かび上がってくる。また、ドミニクと仲間たちによるファミリー以外にも、血縁による家族=ファミリーも複数描かれ、正にファミリー映画。そして、ファミリーが一つの岐路にたちまた変化していく兆しも感じさせる。このファミリー、地元の「仲間」的な共同体賛歌には若干憧れ若干反感覚えというスタンスで見ているが、本作ではショウの「家庭の事情」が垣間見られたのは愉快だった。
  相変わらず車の大量消費に拍車がかかっている。元々カースタントが見所だったシリーズだと思うのだが、最近のシリーズ作はカーアクションの「アクション」の意味合いがちょっと変わっちゃったんじゃないかというか、車での対決ってそっちかよ!という突っ込み待ちになっている気がする。本作、どうも自動運転がある程度導入されている世界という設定のようなのだが、事前説明なくそういう要素がいきなり出てくるので、ちょっとびっくりした。車は大量に出てくるけど、それほど愛着を感じない使い方なので、車好きが作るカーアクション映画とは違うんだろうなぁ・・・。ただ、キューバのパートではヴィンテージカーっぽい車体が揃えられていて楽しい。
 ストーリーも設定も相変わらず大味なのだが、派手なアクションパートとキャラクターのやりとりで見せるパートとのメリハリが、これまでよりもついていたように思う。今までは、派手なアクションが続きすぎて却って眠くなってしまったのだが、今回はそういうことがなかった。新キャラクターである青二才捜査官リトル・ノーバディ(スコット・イーストウッド)の投入によって、今までいまひとつ置き所が中途半端だったローマン(タイリース・ギブソン)が活きてきたように思う。ボケに対してツッコミではなく更にボケで応じるというボケのラリーで楽しませてくれる。

『我が友、イワン・ラプシン』

 特集上映「すべて見せます、アレクセイ・ゲルマン」にて鑑賞。1930年代半ばのロシア。地方都市ウンチャンスクの宿舎に、刑事の父(アレクサンドル・フィリッペンコ)と暮らす少年の「私」。宿舎には父の同僚のイワン・ラプシン(アンドレイ・ボルトネフ)、アコーギシン(アレクセイ・ジャルコフ)も同居していた。ラプシンらは脱獄囚を捕まえようとやっきになっていた。アレクセイ・ゲルマン監督、1984年の作品。
 モノクロでフィルムの痛んだ(意図的なのか実際に痛んじゃったのかわからないが、多分本当に痛んでいるんだと思う)部分もあるので、実際に製作された年代よりももっと昔の、作品の舞台である30年代の映像のように見える。アレクセイ・ゲルマン監督作品は最新作の『神々のたそがれ』しか見たことなかったのだが、『神々~』で見られたような、群衆の中をカメラが登場人物と一緒にぶらつくようなショットは本作でも見られる。作風このころから固まっているのかな。やたらと人が出てきてそれぞれ好き勝手やっているような、騒がしい雰囲気も。
 ただ、騒がしく躁的ではあるのだが、イワンらの生活はどこか不安感を感じさせる。貧しさがひしひしと伝わってきて見ているだけで侘しくなるっていうのもあるのだが、どこか危うく落ち着かないのだ。舞台となった時代はスターリンの粛清が迫っている頃なので、国内の雰囲気が差し迫ったものになっているということなのだろうか。仲間内で騒ぐのも女の子をひかっけるのも、不安を紛らわすために見えてくるのだ。明日も今日と同じような日が来る、代り映えのしない生活が続くようにも見えるラストだが、それが突然崩れさるような予感も孕む。

『私の少女』

 ソウルから小さな港町に署長として赴任してきた警官ヨンナム(ペ・ドゥナ)は、14歳の少女ドヒ(キム・セロン)と出会う。母親は蒸発し、ドヒは継父ヨンハ(ソン・セビョク)と祖母から暴力を受け続けていた。漁業の為に外国人労働者をあっせんしてくるヨンハを村人たちは大目に見ており、ドヒへの暴力にも見て見ぬふりだった。見かねたヨンナムはドヒを保護するが、ドヒは徐々にヨンナムに執着していく。監督はチョン・ジュリ。イ・チャンドンがプロデュースしたことでも話題になった。
 田舎町の閉塞感とか、性別や職業によって枠ががちがちにはめられているところ、「こう」でなければという強制力みたいなものがじわじわ侵食してきてきつかった。ヨンナムの歓迎会で、カラオケ強制されて本人が一番居心地悪そうにしているところとか、うわーきついわーと。ヨンナムに心底同情した。この土地では(というか世間一般でそうなのかもしれないけど)「そういうもの」とされているのだが、そこに乗っかれない人ももちろんいるのだ。何にしろ、こういうことをやる人はこういうタイプ、というように、あるカテゴリーで人をひとくくりにしてしまう見方がされ、息苦しい。そういうのは個人やその背景によってまちまちで、括れないものなのに。保守的な土地柄が垣間見られて、こういう土地で女性であること、女性警官であることのしんどさがじわじわときた。同僚(部下)の男性警官たちはヨンナムに対してにこやかに応じるしあからさまに無下にはしないけれど、それは「仲間」としては扱っていないということでもあるのだと思う。ちょっと距離のある「大事なお客様」扱いで、あくまで部外者として見ているのだ。
 また、ヨンナムがやろうとすることは、ヨンハへの注意にしろドヒの保護にしろ、大人として、特に警官という職業柄当たり前のことだ。特にヨンハの商売に関しての対応は、ヨンナムが警官である以上、見てしまったら対応しないわけにはいかないという類のものだ。しかし、港町のローカルルールではヨンナムの対応の方がするべきではない、不適切とされてしまう。ある意味カルチャーショック。その風通しの悪さや偏見が、ヨンナムを徐々に追い詰めていく。ドヒを追い詰めていったのもまた、そういうものだったのではないかと思う。抗議して当然なことに対する抗議が、ああいう極端な形でしかできないというのは、やりきれない。
 ドヒはヨンナムに懐いていくが、その執着の仕方が自分にとっては怖かった。一気に距離を詰めてこられると立ちすくんでしまう(本作の良し悪しとは関係なくて、見ている私の側の問題なのだが)。この分はホラー映画のようだった。ドヒがそういうふうにしか好意を示せないのは、それまでの育ち方に原因がある(まともな愛情のやりとりをしたことがない)のだが。

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