3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名わ行

『ワイルド・スピード ICE BREAK』

 キューバでバカンスを過ごしていたドミニク(ヴィン・ディーゼル)とレティ(ミシェル・ロドリゲス)。ドミニクに正体不明の女(シャリーズ・セロン)が接触し、ほどなくしてドミニクはファミリーを裏切る。女の正体はサイバーテロリスト・サイファーで、自分の計画にドミニクを引き入れたのだ。FBIを休職中のホブス(ドウェイン・ジョンソン)はファミリーを招集しサイファーを阻止しようとする。上司であるミスター・ノーバディ(カート・ラッセル)は、彼にかつての敵であるデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)と協力しろと命じる。監督はF・ゲイリー・グレイ。
  ファミリーという言葉がしばしば使われ、ドモイニクと仲間を繋ぐものでもあり拠り所となっている。今回はそのファミリーをドミニクが裏切るという、意表をついた展開だ。では何の為ならファミリーを裏切る、裏切らざるを得ないのか?という所で、更にファミリー、家族というものが浮かび上がってくる。また、ドミニクと仲間たちによるファミリー以外にも、血縁による家族=ファミリーも複数描かれ、正にファミリー映画。そして、ファミリーが一つの岐路にたちまた変化していく兆しも感じさせる。このファミリー、地元の「仲間」的な共同体賛歌には若干憧れ若干反感覚えというスタンスで見ているが、本作ではショウの「家庭の事情」が垣間見られたのは愉快だった。
  相変わらず車の大量消費に拍車がかかっている。元々カースタントが見所だったシリーズだと思うのだが、最近のシリーズ作はカーアクションの「アクション」の意味合いがちょっと変わっちゃったんじゃないかというか、車での対決ってそっちかよ!という突っ込み待ちになっている気がする。本作、どうも自動運転がある程度導入されている世界という設定のようなのだが、事前説明なくそういう要素がいきなり出てくるので、ちょっとびっくりした。車は大量に出てくるけど、それほど愛着を感じない使い方なので、車好きが作るカーアクション映画とは違うんだろうなぁ・・・。ただ、キューバのパートではヴィンテージカーっぽい車体が揃えられていて楽しい。
 ストーリーも設定も相変わらず大味なのだが、派手なアクションパートとキャラクターのやりとりで見せるパートとのメリハリが、これまでよりもついていたように思う。今までは、派手なアクションが続きすぎて却って眠くなってしまったのだが、今回はそういうことがなかった。新キャラクターである青二才捜査官リトル・ノーバディ(スコット・イーストウッド)の投入によって、今までいまひとつ置き所が中途半端だったローマン(タイリース・ギブソン)が活きてきたように思う。ボケに対してツッコミではなく更にボケで応じるというボケのラリーで楽しませてくれる。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

 大工として働いてきた59歳のダニエル・ブレイク(デイブ・ジョーンズ)は心臓を患い、ドクターストップにより働くことができない。国の援助を受けようとするが、複雑な仕組みやインターネット上でしか申請ができないという規則によってままならない。そんな折、同じく援助を拒まれ難儀していたシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)と出会い、彼女と子供達を手助けするようになる。監督はケン・ローチ。
 本作のパルムドール受賞については、悪くはないが受賞するほどではない、またケン・ローチか等々の反論もあったが、確かにパルムドールにしては小粒ではあるだろう。しかしそれ以上に、今こういう作品が必要なんだ、正に現代の作品として立ち上がっているのだという、監督と、本作を受賞作に選んだ選考委員の強い意志を感じた。正直、本作見るまでは今更ローチが受賞なんて随分保守化してるなー等と思っていた。申し訳ない。ケン・ローチ監督の怒りと反骨精神がみっしりと籠っている、かつ適度なユーモラスさもあって小粒だがタフな作品だった。なお監督の作品としては、イギリスでの興行成績は相当いい部類だったそうだが、本作のような作品が集客するということは、ダニエルに共感する人が大勢いるということだろう。
 ダニエルが苦戦する公的支援申請は、いかに申請者を振るい落とすか、そして振るい落とされ方が申請者の選択である体裁にするかという部分に注力しているんだろうなぁとげんなりするものだった。お役所仕事による無駄の多さ、融通の利かなさというよりも、戦略的に煩雑に、切り捨てるための理由を用意しているのだろう。最早不条理コメディのようだ。また、オンライン申請のみというシステムには驚いた(日本はまだそこまでじゃないですよね)。パソコンに不慣れな層は最初から振るい落とされてしまう。働いていたらパソコン位使えるでしょということかもしれないが、ダニエルのようにそういうものを使わない仕事の人だっている。何だか申請や審査の過程で、申請者のプライドをどんどん削いでいこうとしているみたいなのだ。まだ努力が足りない、真剣さが足りないって、じゃあどこまでやればいいんだよ!と叫びたくなるし、そもそも基本的な生活・生命を左右する援助は真面目・不真面目の別なく受けられるべきなんじゃないのと思う。
 ダニエルはシステムのおかしさの一つ一つに声を上げるが、苦境から抜け出すのは難しい。しかし彼が声を上げることで、同じように声を上げる人や、彼に手を差し伸べる人は出てくるだろう。ダニエルはおかしいと思ったことにすぐ声をあげるのと同様、困っている人がいるとためらわず手を差し伸べる。そして自分自身、周囲にも結構助けを求める。頼めば、皆結構助けてくれるのだ(ダニエルの隣人の若者たちのタフさと軽妙さが救いになっていた)。こういうちょっとした手助けをためらわないことが、ひいては多くの人を支えるようになるかもしれない。苦境を他人事にしない想像力が求められているのだ。わたしも、ダニエル・ブレイクだと思えるかどうかなのだろう。もっとも、現状そのくらいしか出来ることはないだろうというところが辛いのだが・・・。
 経済的に追い詰められ、自分を切り売りしていくしていかざるを得ない時の消耗感とか、どうしようもない感じが迫ってきて辛い。ケイティがバスルームの掃除をしているシーンはやりきれないし、フードバンクのシーンでは泣いてしまった。追い詰められるというのはこういうことなんだよなぁと。そして、(当人の責任・能力の有無に関わらず)人はこんな追い詰められ方されていいはずないのだ。これを防ぐのが福祉の役割のはずなのに(なお、作中のフードバンクは民営)。


『わたしに会うための1600キロ』

 母親を亡くした喪失感から、麻薬とセックスにのめり込み、結婚生活を破たんさせ何もかも失ったシェリル・ストレイド(リース・ウィザースプーン)。人生を仕切りなおす為に、徒歩による1600キロの旅、パシフィッククレストレイルに出る。実在の女性シェリル・ストレイドの自叙伝を元にした作品。監督はジャン=マルク・バレ。
 シェリルはトレイルの経験もなく、アウトドアが得意なわけでもない。パシフィッククレストレイルに出たのは無謀もいいところなのだが、イタい人、考えの足りない人というわけではない。彼女はトレイルに本とノートを持っていくほど読むこと・書くことに熱心だし、トレイルの名簿に文学作品からの引用を書き添えるくらい教養豊か。生前の母親とのやりとりからも、無鉄砲ではなくむしろ理知的な人なんだろうと察しがつく。彼女がトレイルに出るというのは、相当どうかしていたということなのだ。本作で一番びりびりきたのは、基本ちゃんとしているはずの人がここまでがたがたに崩れてしまうという所だった。
 彼女が生活を破たんさせてしまったのは、母親の死が契機になっている。母親はシェリルと弟を女手一つで育て、シェリルと一緒に大学にも通っていた。シェリルと母親の関係は非常に強く、当然喪失感も強烈だ。母親の死がそんなに堪えるのか、理解ある優しい夫でも支えることができないのかという人もいるかもしれない。だが、個人的には他人事とは思えなかった。親と二人三脚みたいに育ってきちゃうと、いなくなった時に茫然とする(特にシェリルの母親の場合は若くして急激に病状が悪化するという状況だし)と思う。闘病を支えてきたなら、燃え尽き感も強いだろう。私は幸いにもこういう経験はまだないけど、身につまされるわ・・・。
 なお、母親がほぼ成人の弟にいそいそとご飯を作ってあげる姿に、読んでいるもの(大学で勉強していること)とやっていることが違う、とチクリと言ってしまうはすごくよくわかる。弟が母親の病気と直面出来ず逃げてしまうのもわかる。母親はずっと母親でいてくれるものって気がしているんだよなと。だからいなくなるという現実が目の前にくるとパニックになってしまうのだろう。
 本作、シェリルがトレイルをしている現在と、なぜここに至ったかという過去がフラッシュバックのように入り乱れた構成になっている。これがすごく良くできていると思った。記憶のよみがえり方、特に嫌なことを思い出した時の嫌な記憶の連鎖の仕方の再現度がやたら高い。いい記憶は連鎖しないんだけどなぁ・・・。

『我が友、イワン・ラプシン』

 特集上映「すべて見せます、アレクセイ・ゲルマン」にて鑑賞。1930年代半ばのロシア。地方都市ウンチャンスクの宿舎に、刑事の父(アレクサンドル・フィリッペンコ)と暮らす少年の「私」。宿舎には父の同僚のイワン・ラプシン(アンドレイ・ボルトネフ)、アコーギシン(アレクセイ・ジャルコフ)も同居していた。ラプシンらは脱獄囚を捕まえようとやっきになっていた。アレクセイ・ゲルマン監督、1984年の作品。
 モノクロでフィルムの痛んだ(意図的なのか実際に痛んじゃったのかわからないが、多分本当に痛んでいるんだと思う)部分もあるので、実際に製作された年代よりももっと昔の、作品の舞台である30年代の映像のように見える。アレクセイ・ゲルマン監督作品は最新作の『神々のたそがれ』しか見たことなかったのだが、『神々~』で見られたような、群衆の中をカメラが登場人物と一緒にぶらつくようなショットは本作でも見られる。作風このころから固まっているのかな。やたらと人が出てきてそれぞれ好き勝手やっているような、騒がしい雰囲気も。
 ただ、騒がしく躁的ではあるのだが、イワンらの生活はどこか不安感を感じさせる。貧しさがひしひしと伝わってきて見ているだけで侘しくなるっていうのもあるのだが、どこか危うく落ち着かないのだ。舞台となった時代はスターリンの粛清が迫っている頃なので、国内の雰囲気が差し迫ったものになっているということなのだろうか。仲間内で騒ぐのも女の子をひかっけるのも、不安を紛らわすために見えてくるのだ。明日も今日と同じような日が来る、代り映えのしない生活が続くようにも見えるラストだが、それが突然崩れさるような予感も孕む。

『私の少女』

 ソウルから小さな港町に署長として赴任してきた警官ヨンナム(ペ・ドゥナ)は、14歳の少女ドヒ(キム・セロン)と出会う。母親は蒸発し、ドヒは継父ヨンハ(ソン・セビョク)と祖母から暴力を受け続けていた。漁業の為に外国人労働者をあっせんしてくるヨンハを村人たちは大目に見ており、ドヒへの暴力にも見て見ぬふりだった。見かねたヨンナムはドヒを保護するが、ドヒは徐々にヨンナムに執着していく。監督はチョン・ジュリ。イ・チャンドンがプロデュースしたことでも話題になった。
 田舎町の閉塞感とか、性別や職業によって枠ががちがちにはめられているところ、「こう」でなければという強制力みたいなものがじわじわ侵食してきてきつかった。ヨンナムの歓迎会で、カラオケ強制されて本人が一番居心地悪そうにしているところとか、うわーきついわーと。ヨンナムに心底同情した。この土地では(というか世間一般でそうなのかもしれないけど)「そういうもの」とされているのだが、そこに乗っかれない人ももちろんいるのだ。何にしろ、こういうことをやる人はこういうタイプ、というように、あるカテゴリーで人をひとくくりにしてしまう見方がされ、息苦しい。そういうのは個人やその背景によってまちまちで、括れないものなのに。保守的な土地柄が垣間見られて、こういう土地で女性であること、女性警官であることのしんどさがじわじわときた。同僚(部下)の男性警官たちはヨンナムに対してにこやかに応じるしあからさまに無下にはしないけれど、それは「仲間」としては扱っていないということでもあるのだと思う。ちょっと距離のある「大事なお客様」扱いで、あくまで部外者として見ているのだ。
 また、ヨンナムがやろうとすることは、ヨンハへの注意にしろドヒの保護にしろ、大人として、特に警官という職業柄当たり前のことだ。特にヨンハの商売に関しての対応は、ヨンナムが警官である以上、見てしまったら対応しないわけにはいかないという類のものだ。しかし、港町のローカルルールではヨンナムの対応の方がするべきではない、不適切とされてしまう。ある意味カルチャーショック。その風通しの悪さや偏見が、ヨンナムを徐々に追い詰めていく。ドヒを追い詰めていったのもまた、そういうものだったのではないかと思う。抗議して当然なことに対する抗議が、ああいう極端な形でしかできないというのは、やりきれない。
 ドヒはヨンナムに懐いていくが、その執着の仕方が自分にとっては怖かった。一気に距離を詰めてこられると立ちすくんでしまう(本作の良し悪しとは関係なくて、見ている私の側の問題なのだが)。この分はホラー映画のようだった。ドヒがそういうふうにしか好意を示せないのは、それまでの育ち方に原因がある(まともな愛情のやりとりをしたことがない)のだが。

『ワイルド・スピード SKY MISSON』

 ドミニク・トレット(ヴィン・ディーゼル)らが倒した犯罪組織のリーダー、オーウェン・ショウの兄デッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)が、弟の敵を討つ為にドミニクらを狙う。元英国特殊部隊で最強の暗殺者であるデッカードに決死の戦いを挑むドミニクたちだが。監督はジェームズ・ワン。
 このシリーズの素晴らしいところは、毎回「そんなアホな!」という派手な見せ場をちゃんと作った上で、次の作品ではそれを越える「そんなアホな!」な展開を盛ってくるというところだろう。しかし本作を上回る「そんなアホな!」アクションシーンはなかなか難しいかもしれない。SKY MISSONてものの例えじゃないのかよ!「降下」シーンには、あっ本気でそれやるんだ!バッカだなー!と笑ってしまった。アクションが全編マンガ的発想だもんなー。車同士の「タイマン」ってそういうことじゃないだろ!と突っ込みたくなったり、そもそも自動車に対する愛があるんだかないんだかわらかない(滅茶滅茶車壊すし・・・)し、ストーリーの組み立ても雑なんだけど、そういう難点はどうでもよくなってしまう。本作上映前、アニメ版『頭文字D』の予告編を見たんだけど、本作と比べるとすごく地に足の着いた作品に見えたもんね・・・。一事が万事そういう感じで楽しい。どのくらい無茶苦茶やってくれるか、皆楽しみにしているんだろうな。
 ただ、楽しかったけれども、クライマックスで眠くなってしまった。前作でも同じ症状が起きたのだが、アクションに次ぐアクションで飽和状態になり、逆にメリハリがなくて飽きてしまうみたいだ。画面内が目まぐるしくて、何が起きているのかわからなくなっちゃうというのも一因か。前半の、ほどほどに隙間があるアクションの方がちゃんと目で追うことが出来て満足感がある。詰め込めばいいってものでもないだろう。
 本作のラストは、コナー役のポール・ウォーカーが亡くなったことを受けて改変されたんだと思うが、映画単品として見ると、幾分蛇足感がある。また、シリーズ作品を知らずに本作だけ見た人にとっては、何でこんなに思い入れたっぷりなの?というものかもしれない。でも、そういう声がありえることを承知で、このパートを入れたのだろう。ファンや本作の出演者やスタッフにとっては、必要なのだ。それだけ愛されたシリーズであり、ウォーカーが愛された俳優だったということなんだろう。私はこのシリーズにそんなに思い入れがあるわけではないけど、それでもラストショットにはぐっときてしまった。

『ワイルド・カード』

 ラスベガスの用心棒、ニック・ワイルド(ジェイソン・ステイサム)は元恋人のドリス(ソフィア・ベルガラ)から、自分を暴行し重傷を負わせた犯人の正体を突き止めてほしいと頼まれる。犯人がマフィアのダニー・デマルコ(マイロ・ヴィンティミリア)だと知ったニックはドリスに教えることを渋るが、根負けして彼女の復讐に手を貸す。恥をかかされたデマルコはニックを追い回す。更に、デマルコは地元のマフィア・ベイビー(スタンリー・トゥッチ)の客人だった。監督はサイモン・ウェスト。原作はウィリアム・ゴールドマンの小説。
 ジェイソン・ステイサムって、日曜の午後にぼーっとテレビを見ていたら放送されていて、なんとなく最後まで見ちゃったら意外と悪くなくてラッキー、といった類の映画によく出演している気がする。本作も正に「午後ロー」系統の映画。私はこういうユルいアクション、サスペンス映画って好きなんだけど、万人に勧められるかというとちょっと迷うなー(笑)。もう少し公開時期が早ければ、クリスマス映画(クリスマス前の時期が舞台。ラストも、「メリークリスマス、Mr.ワイルド」とでも言いたくなる)としてもよかったかも。
 ニックが元恋人の復讐に手を貸して厄介ごとに巻き込まれる話と、ニックがお坊ちゃんサイラス・キニック(マイケル・アンガラノ)にガイド兼ボディーガードを依頼される話とが同時進行で進む。しかし、この物語の本筋はニックがなぜラスベガスを離れられないのか、どうすれば離れられるのか、というところにあるのではないか。だからこそのラストシーンなのだろうが、この肝心の部分の立ち上がりが遅いなという印象だった。全体的に組み立て方がどうもぎこちなくて、各エピソードがぶつ切りになっていてもったいない。アクションシーンにしても、かっこよく見せようとしてスベっているなという感じも。手近にあるもので戦うというスタイルは、デンゼル・ワシントン主演『イコライザー』を思い出させて楽しかったが。
 本作、洒脱ではなくてどこか野暮ったいのだが、本作の場合それも持ち味か。主人公のニック自体、強いことは強いが大きな問題を抱えており、かっこ悪い姿も見せる。一方、最初から野暮ったくさえないキニックは、無理にかっこよく見せようとしても自分は自分だ、とそれを受け入れる境地に至る。へなちょこに見えるキニックの方が実は(自分自身に対しては)タフなのかも、と思わせるところには、にやりとさせられた。
 そんなに冴えた感じの作品ではないのだが、アバンの展開とそのオチにしろ、ダイナーでのウェイトレスとの話のタネにしろ、ちょっとしたところにユーモアがあって、悪い印象は受けなかった。なお、出番は少ないのだがスタンリー・トゥッチが素敵だった。


『嗤う分身』

 内気で不器用なサイモン(ジェシー・アイゼンバーグ)は、勤務先のコピー係ハナ(ミア・ワシコウスカ)に恋していたが、ろくに話も出来ず、彼女のアパートの窓を望遠鏡で覗くばかりだった。ある日、サイモンの前に自分にそっくりな男ジェームズが現れる。ジェームズは要領が良く口が上手く、サイモンとは正反対だった。原作はドストエフスキーの小説『分身』(版によっては『二重人格』)。監督はリチャード・アイオアデイ。
 同じ原作小説をベルトルッチも映画化しているが、当然のことながら本作とは全然方向性が違う。ベルトルッチ版は映像は実験的、メンタリティは意外と中二病的だったが、本作は圧倒的に笑える、そして怖い作品に仕上がっている。
 冒頭の、なかなか電車から降りられないという件からしてコントみたいなのだが、サイモンの日常の不条理な不愉快さがちょっと笑っちゃうような感じで描かれる。そこにジェームズが登場すると、不条理さが加速され、笑いも加速される。しかしジェームズの出現による笑いは、サイモンにとっては自分の居場所、身分、能力等自分に属する何もかもが徐々に奪われていくことでもある。これは、本当にじわじわと怖かった。サイモンが途中でちょっと諦めモードに入ってしまうあたりは特に。はたからみていればおかしいのだが、当人にとっては、自分を自分とわかってもらえない、何を言っても周囲に通じないというのは、恐怖に他ならないだろう。怖さとおかしさは、奇妙に相性がいい。ホラー映画は一歩間違えるとギャグ映画(その反対も)だというのと同じだ。
 また本作、なぜか60年代の日本の歌謡曲(坂本九、ジャッキー吉川とブルーコメッツ等)を挿入歌として使っている。改めて聞くとしみじみと名曲・・・なのだが、なまじ歌詞がわかるだけに映画の他の部分との違和感に笑ってしまう。これ、他の国の人が見たらどんなふうに感じるのだろうか。建物や街並みのビジュアルが、なぜか旧共産圏の雰囲気漂うもので、この風景に歌謡曲が妙にマッチしているのもおかしい。無機質でやや荒涼感漂う美術に、結構こってりとした歌謡曲が乗っかると不思議な味わいだ。
 アイゼンバーグが全く正反対のタイプの男性を1人2役で演じているが、どちらも実にそれらしく見える。この人、やっぱり上手い俳優だったんだなー。おどおどした素振りもチャラい素振りも、元々その人みたいな振る舞いに見えた。

『私の、息子』

 ルーマニアのブカレスト。建築家のコルネリア(ルミニツァ・ゲオルジウ)は、30歳を過ぎても頼りない息子のバルブ(ボグダン・ドゥミトラケ)の世話を焼いていたが、2人の関係は良好とは言えない。ある日、車を運転していたバルブは交通事故を起こし、少年を死なせてしまう。コルネリアは警察をはじめ知人へのつてを総動員してバルブを救おうとするが、バルブは怒り、更に頑なになっていく。監督はカリン・ペーター・ネッツァー。
 息子を刑務所入りから助けようと、倫理も正義もぶっちぎってひたすら突き進むコルネリアの姿は強烈だ。コネや賄賂を使うことを全く躊躇せず、息子に対しては多分に支配的な彼女だが、なぜかいわゆるヒールには見えない。自分の親だったり身近にいたりしたら大分嫌、というよりも疲れそうな人なのだし、バルブにとって良い母親ではない(一般的な意味ではなく、この息子にとって)のだが、彼女は彼女でこうすることしかできないし、他のやり方を知らないんだろうなという生真面目さが垣間見えるのだ。だからといって好意は湧かないんだが、こういう人なんだな、という納得はできる。
 一方、バルブは取り調べの時はまともな供述ができない(コルネリアがやらせないという面もあるのだが)し、被害者遺族に会おうともしないし、両親を罵倒するしで、これはこれでなさけない。ただ、彼についても、こういうふうになってしまったのは、母親であるコルネリアがこういうふうにしかふるまえないように育てたからで、彼は他にふるまい方を知らないのだと、徐々に(具体的に作中で言及されるわけではないのだが)察しがついていくる。
 コルネリアはおそらくそこそこ育ちもよく、仕事が出来、経済力がある。何より意思の強さと決断力がある。息子も自分のようになってほしく、あれこれと世話をやいたのだろうが、それはバルブにとっては自分で考える機会を奪われることだった。バルブには、自分で何か決断して行動するという機会が今までなかったんだろう。
母親の息子に対する「自分のもの」感って、コルネリアに限らず、時にすごく濃いものがあって、得体のしれないものを見た気分になることがある。娘に対する母親の思い入れとはまたちょっと違うのだろう。ともあれ、子供は子供で別の人間なので、あまりに「自分のもの」意識が強いと悲劇しか生まれなさそうだが。

『私の男』

 津波災害により10歳で孤児となった花(二階堂ふみ)は、親戚の淳悟(浅野忠信)に引き取られる。北海道紋別の小さな港町で暮らしていたが、地元の顔役・大塩(藤竜也)が流氷の海で変死する事件が起き、2人はひっそりと町を離れる。原作は桜庭一樹の直木賞受賞作。監督は熊切和嘉。最初の方、昔の日本映画っぽい画面のざらつきを再現している(作中時間が進むと画面がクリアになっていく)のだが、この演出は賛否わかれそうだ。
 熊切監督は小説・漫画の映画化作品を頻繁に手掛けているが、原作を自分の方に引っ張ってくる傾向が強い(それが悪いというのではなく、監督によって引き寄せの度合いが違うということ)と思う。本作も、原作者が見ているのとは別の部分を監督は見ようとしているんじゃないかなという気がした。ただ、映画化する場合は、原作に沿いすぎない方が成功率が高いと思っているので、この方法でよかったんじゃないかと思う。
 冒頭から、主に花の目線で物語は進行する。花が初めて淳悟に会った時、既に「私の男」としてロックオンしているのがわかり、ぞわりとした。だが、徐々に淳悟側の目線に寄っていき、最後には淳悟が見た花が映し出される。その姿は、圧倒的に「わからないもの」とされているように思った。2人が紋別を離れてからもしばしば、紋別の流氷を背にした情景が回想される。あの時が2人にとって最もお互いに「わかっていた」時であり、お互いかけがえのない存在でありつつも、以降は徐々にわからない存在になっていく。過去にピークがきてしまった(にも関わらず解消できない)関係性のきつさみたいなものを感じた。原作を読んだときは(時系列をさかのぼる構成だったからかもしれないが)そういうきつさはあまり感じなかったのだが。原作のある映画の場合、こういった差異が出てくるのが面白い。
 花役の二階堂は中学生時代から成人してまで10年くらいの時間を演じていることになるが、学校の制服姿にもあまり違和感がない。元々対応力ある人だなぁと思っていたが、本作でもそれが発揮されている。大人と子供が入り混じったようなあまり穏やかではない存在感があり、彼女ありきの映画ではあると思う。また、浅野の、最初から予兆はあるがどんどん崩れていく感じの存在感が素晴らしい。この手のろくでなしだが魅力的な男を演じると際立っているな(笑)。色気あってすごくよかったし、これは浅野でないとちょっと微妙な感じになる役だったと思う。

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