3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名ら行

『LOGAN ローガン』

 ミュータントの大半が姿を消した2029年。不死の力を失いつつあるウルヴァリンことローガン(ヒュー・ジャックマン)は、老いて自身の力を制御できなくなりつつある“プロフェッサーX”チャールズ・エグゼビア(パトリック・スチュアート)を匿い、メキシコ国境付近で暮らしながら、リムジン運転手として働いていた。ある日ローガンは、ガブリエラという女性から少女ローラ(ダフネ・キーン)をノースダコタに送り届けてほしいと頼まれる。彼女はある組織に追われていた。監督はジェームズ・マンゴールド。
 ジャックマン演じるローガン=ウルヴァリンと言えばアメコミ原作の映画『Xメン』シリーズでお馴染み、最も人気のあるヒーローだろう。しかし本作はこれまでのXメンおよびウルヴァリンのシリーズ作品とはだいぶ色合いが異なる。これまでのシリーズとは別物でありつつ一応シリーズのキャラクターや設定は踏まえている(ローガンとチャールズの関係やチャールズの能力など、Xメンシリーズを見ておいた方がよくわかるだろう)という、間口が広いのか狭いのかよくわからない作品だ。作中でコミック本としての『Xメン』が登場し、ローガン自らコミックに描かれていることは嘘だ、作り話だと言うくだりがあるので、Xメンシリーズに対するメタフィクション的な側面もあるのか。
 ローガンにしろチャールズにしろ、明確に老いを感じさせる描写が多く、この点情け容赦ない。片足を悪くし、かつてのような治癒能力も衰えた(そして老眼鏡常備・・・)ローガンはともかく、チャールズがおそらくアルツハイマーが進み、時に脈絡のないことをしゃべり始めたりする様には、Xメンシリーズを見てきた人は愕然とするのでは。チャールズは元々、非常に知的で精神的に豊かな人という造形だったので、知性や情緒が損なわれた状態を見ているとやりきれない。とは言え、本作は辛気臭いわけではなく、殺伐とした中にも妙なユーモアが入り混じったりする。「ボケ老人」感を逆手にとったチャールズのリアクションや、車に八つ当たりするローガンの姿はどこかユーモラスだ。老人と子供を連れたロードムービーの味わいもある。
 これまでの、Xメンのヒーローとしてのウルヴァリンをある程度引き継ぎつつ全否定するような作品なので、ファンがどう受け止めているのか気になった。今までのヒーローとしての「戦い」は相手を殺すことにほかならず、人を殺したらもう元には戻れないと明言してしまう。この点を強調する為か、アメコミ映画としては異色なほど(アメコミ原作のものは大抵年齢制限がつかないように配慮されているので)血肉があからさまに飛ぶ。映画『シェーン』からの引用ではあるが、この言葉は戦い続けてきたローガンだけではなく、まだ子供であるローラもこの先背負っていくということでもある。しかしローガンはローラに対し、それでもなお生きろ、自分の人生を他人に蹂躙させるなと言い切る。こういうところが、すごくアメリカの映画という感じがするなぁと思った。自分の生は自分だけのものであり、何/誰の為に闘うかも自分が決めることだ。そういう意味では、ローガンは本作で、アメリカのヒーローとしての生を全うしたと言えるだろう。少なくともローラにとっては、ローガンはウルヴァリンであり最後までヒーローだった。
 

『LION/ライオン 25年目のただいま』

 インドのスラム街で暮らす5歳のサルー(サニー・パワール)は、兄の仕事先についていった時、停車していた電車内に入り込んで眠ってしまい、そのまま遠くの地へと運ばれ、迷子になった。家族と生き別れ孤児院に保護された彼は、オーストラリアへ養子に出される。そして25年後、養父母の元で成人し順調な人生を歩んで生きたサルー(デヴ・パテル)は、ふとしたきっかけで生母と兄のことを思い出す。わずかな手がかりからGoogle Earthを使って故郷を特定しようと試み始める。監督はガース・デイヴィス。
 予告編等事前情報からは、なぜこの題名なのかはわからない。本編を見て題名の意味がわかると、ああそうか!と深く納得する。サルーが自分の人生を発見し直すまでの、長い旅の物語だったのかと。もちろん、養父母の元で過ごした日々も本物の彼の人生だ。しかし、人生の一部であって、養子になる前の幼い頃の人生については、裏付けが取れず曖昧なままだ。忘れたままなら、それはそれで穏やかな日々だったのかもしれないが、インドの菓子を目にしたことで、断片的な記憶がよみがえり、実母と兄を放っておいたという罪悪感に苦しむことに苦しむようになる。同時に、実母を求めることは養父母を裏切ることになるのではと、二重の罪悪感に駆られるのだ。故郷を探そうとするサルーの熱意は唐突に生じるようにも、少々行き過ぎているようにも見える。実際、日常生活に支障をきたし、恋人との関係も破綻してしまう。しかしサルーにとってはそのくらい、人生の一部が失われていることは苦しいことなのだろう。
 サルーは大きな不運によって「迷子」になったが、運の良さと機転とで生き延びる。本作、サルーの幼少時代に結構時間を割いているのが意外だったのだが、まだ幼い彼がどのような道筋を辿ってきたか垣間見ることで、本当に運が良かったのだと痛感する。あからさまには描かれないが、「ルート分岐点」でもし違う道を選んだらこうなっていたかも、という姿が、他の子供達の姿を借りて現れる。あっさり描いているようでいて、闇の深さが垣間見られるのだ。
 そういう「もしも」を一番強く感じたのは、養子先での義兄・マントッシュ(ディヴィアン・ラドワ)の存在だ。マントッシュはサルーより年長だが、養子に来たのは彼の後。順調に養父母とオーストラリアの生活に馴染んだサルーとは異なり、マントッシュは養父母との関係はぎこちなく、成長してからも土地に馴染めず、自分の生活を立て直すことができずにいる(子供の頃から精神的な問題があるという描写はされている)。サルーよりもむしろ、マントッシュの人生はどんなものだったのかという方が気になった。彼にとって、養子に出されたことは果たして幸運だったのだろうか。彼は、サルーが進んだかもしれないもう一つの人生なのだ。

『レゴバットマン ザ・ムービー』

 レゴの世界でもヒーローとして活躍しているバットマンことブルース・ウェイン(ウィル・アーネッ/山寺宏一ト)。孤独なヒーローとして人を寄せ付けない彼の元に、彼に憧れるロビンことディック・グレイソン(マイケル・セラ/小島よしお)が養子になろうと押しかけてくる。更に自称宿敵のジョーカー(ザック・ガリフィアナキス/子安武人)が異次元に閉じ込められていた悪者たちを脱走させ、ゴッサムシティを大混乱に陥れる。監督はクリス・マッケイ。
 前作『レゴ・ザ・ムービー』はレゴという玩具の性質をフルに活かしたレゴのメタ映画とでも言える作品だったが、本作はレゴ要素は薄れている(クライマックスでレゴならではの「修繕」方法が披露されたりするけど)。本作はバットマンが主人公どころかテーマになっており、バットマン、ひいてはヒーローVS悪役というフォーマットに対するメタ映画と言えるだろう。正直なところ、バットマン関連としては直近の作品になる『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』よりはよっぽどバットマンという存在に迫っており説得力がある。ビジュアルはレゴだししょうもないギャグも満載なのだが、バットマンが抱える孤独、それが何に由来しているのかということ、そしてそれをいかに乗り越えるかということをちゃんと描いているのだ。
 序盤、バットマンが孤独であるという演出がこれでもか!と積まれてくる。様々な映画の中で、電子レンジを使うシーンというのはしばしば出てくると思うのだが、今まで見てきた中で本作の電子レンジシーンが一番心に刺さる。つ、辛い!バットマン本人がその辛さに気付かないようにしているのがまた辛い!バットマンが自分のまわりに壁を作るのは、子供の頃に両親を理不尽な形で亡くしているから、というのは基本設定だと思うのだが、本作ではそれに加え、人との距離感が上手く測れない社交下手な要素が乗っかってくるので、彼のイタさが何だか身につまされるのだ。スーパーマンの自宅を訪ねるエピソードでは、「シンプルに人柄と人徳の差だよ」ということが露呈されていてまあ辛い。
 辛いと言う面では、ジョーカーの辛さも描かれている。ジョーカーは言うまでもなくバットマンシリーズ最大の悪役で宿命のライバル的な存在だが、そもそもバットマンが彼のことを「宿命のライバル」と思っていないと、ジョーカーの立ち位置は揺らいでしまう。相反する相手の存在によってしか存在することができない、悪役の悲哀(それはヒーローの悲哀でもあるのだが、バットマンはそれをよくわかっていない)があるのだ。ジョーカーがある意味一途な片思いをしており、なかなかに不憫。

『ラビング 愛と言う名前の二人』

 1958年、バージニア州で暮らす大工のリチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)は、恋人のミルドレッド(ルース・ネッガ)の妊娠を機に結婚を決意する。しかしバージニア州では異人種間の結婚は法律で禁止されていた。密かにワシントンDCで結婚し地元に戻った2人だが、ある夜保安官に逮捕され、離婚するか故郷を捨て二度と戻らないかの選択を迫られる。一度は故郷を去ることに同意した2人だが、裁判の判決が不当であると申し立てる。監督・脚本はジェフ・ニコルズ。
 とても良かった。全体的に非常に抑制が効いており、見せすぎない、説明しすぎない、盛り上げすぎないという作劇に徹している。いつ、どこを舞台としているのかも、字幕等での説明はなく、登場人物のセリフと劇中で映し出される世相からなんとなくわかってくるといった塩梅。これは映画を見る側を信頼してくれているなぁ。情緒面も、ラビング夫婦がどちらかと大人しい人で感情をあからさまに出すシーンが少ないというのもあるのだが、これ見よがしな煽りがない。とても品のいい演出だと思う。
 結婚は違法とされたラビング夫婦に対する処遇は、今見ると明らかに不当だ。しかし、当時のバージニアでは異人種間の結婚は違法であり、その結婚は倫理的にも間違っている、異人種間の子供を増やすことも罪だと考えられていた。リチャードもミルドレッドも、自分達の結婚、自分達が愛し合っていることが間違っているとされることは、おかしいと声をあげる。リチャードは黒人の友人に、なぜ同棲では駄目なんだと問われる。また、DCでひっそりと暮らすという道もあるだろう。しかし、おかしいと思ったことにはおかしいと誰かが声を上げないと、世の中は変わらない。ラビング夫妻は元々、人権運動や政治活動をしていたわけではなく、裁判のやり方にも疎かった。それでも、自分達が愛し合っていることが間違っているとはどうしても思えない、その結果生まれた子供達が間違った存在のはずはないという一心で、10年間裁判で戦い続ける。作中ではあからさまには描かれないものの、2人に危害を加えようとする人たちも少なくない。そういう状態で10年間耐えるというのは、お互いによっぽど信頼感がないと乗りきれなかっただろう。
 2人ともそんなに口数は多くないが、ミルドレッドの方が時に思い切った行動を起こし、リチャードはそれについていく。リチャードは、当時の白人男性としては割と例外的な人だったのではないかと思うが、人種差別意識は希薄だし、女性に対する態度も強権的ではない。彼は妻のすること全てを理解しているわけではない(当時のアメリカで黒人であるというのがどういうことかは、黒人のコミュニティの中にいたとしても、やはり本当にはわからないのだと思う)が、彼女のことを尊重し、肯定し続ける。彼にとっての「絶対守る」という行為がどういうものだったのか、本作全編を使って描かれているようにも思った。

『ラ・ラ・ランド』

 女優を夢見てハリウッドに来たもののオーディションには落ちてばかりのミア(エマ・ストーン)。ある日、ジャズピアニストのセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と出会う。セバスチャンはジャズを聴かせる店を持つという夢を持っており、2人は恋に落ちる。監督はデイミアン・チャゼル。第89回アカデミー賞では監督賞、主演女優賞等6部門で受賞。
 冒頭の高速道路を使ったレビューと、クライマックスでの走馬灯的ミュージカルシーンがカラフルで美しく、特に高速道路編はよくここで撮ったな!(というか撮影許可を取れたな!)と感心した。あっあんな遠くまで人が踊っている!というだけで何だか感銘を受ける。ほぼ1ショットに見えるような長回し風撮影をしているので、相当大変だったと思う。カメラと人物が近すぎ、かつカメラの動きが速すぎる(全般的に、カメラをここまで動かせるぞ!ということが楽しくてつい動かしすぎてる感じ)きらいがあり、ダンスする肉体のダイナミックさが削がれているのが残念ではあるのだが、これをやりたかったんだろうなぁと納得はさせる。
 前半は恋する2人の気持ちの浮き立ち(それこそ宙を舞ってしまうくらいの)や、それぞれの夢に向かう情熱を反映したかのような色鮮やかでキラキラした映像。色の調整は徹底しており、衣装と背景となる室内や建物の壁の色のコントラストが美しい。しかし、2人がそれぞれの夢に行き詰まりを感じ、2人の関係も変化していくあたりから、色彩は褪せて、ある意味地に足の着いたものになっていく。作品世界の色合いが2人の心情とリンクしているのだ。後半は華やかなミュージカルシーンがなくてつまらないという感想も散見されたが、おそらくミアとセバスチャンにとっての世界が「つまらない」ものになってしまっているのだと思う。一旦「つまらなく」なったからこそ、世界はーつまらないかもしれない、しかし夢を見させてくれというミアの巻き返しが感動的なのだろう。その一方で全てがミア、あるいはセバスチャンが見ていた夢なんじゃないかという気もしてしまうが。
 楽しい作品ではあるのだが、手放しで褒められない所も。監督の前作『セッション』を見た時も思ったのだが、音楽がとても好きな人ではあるのだろうが、その割に、えっ本当に音楽好きなの?と思わせる所がある。本作では、セバスチャンをバンドに引き入れるミュージシャン・キースのステージには首をかしげた。クラシカルなジャズを愛するセバスチャンは、新しいものをどんどん取り入れ大衆受けを狙うキースのやり方が気に入らない。彼のライブは、いかにもウケそうな安っぽい歌詞のポップスとやたらと出てくるダンサーという演出なのだが、ちょっと悪意を感じた。元々ジャズミュージシャンであるキースはセバスチャンと同じくジャズの素養は豊かで、おそらくセバスチャンより才能もある。ただ、より多くのリスナーを獲得する為の試行錯誤を辞さない。主義がないのではなく、逆にセバスチャンよりよっぽど腹をくくっていると言えるだろう。それをこんな安っぽい見せ方をするのは、音楽を生業とする人たち全体だけでなく、それを聴いて喜ぶオーディエンスのこともバカにしていることにならないか(こういう演出にも関わらずちゃんと仕事したジョン・レジェンドはえらいよ・・・)。キースのライブのダサさは、セバスチャンの目にはこう映っているってことなのかもしれないが、それにしても独りよがりではないか。バイトで「Take on me」を演奏する姿がものすごく嫌そうなのも、彼の趣味じゃないとは言え、「Take on me」は楽しい曲なんだよ!と文句言いたくなった(なので、このシーンでのミアの振る舞いは適切だと思う)。
 また、これは作品のコンセプト上しょうがないのかもしれないし、狙った部分なのかもしれないが、ミュージカル映画というよりもミュージカル映画「ごっこ」感が拭えなかった。オマージュだらけなことの弊害か。

『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

  幼い頃に科学者だった父親ゲイレン(マッツ・ミケルセン)を兵器開発の為に帝国軍に拉致され、父親の盟友で反乱軍の異端児だったソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)に保護されたものの、ソウにも置き去りにされたジン・アーゾ(フェリシティ・ジョーンズ)は、一人きりで生きてきた。彼女の背景を知った反乱軍はジンに接触。ジンは反乱軍のキャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)と共に、巨大兵器デス・スターの設計図入手に挑む。監督はギャレス・エドワーズ。
 スター・ウォーズシリーズの「エピソード4新たなる希望」直前に位置づけられる物語。とは言え、ジンにしろアンドーにしろジュダイではないし、そもそも世の中でジュダイやフォースの存在自体が眉唾ものだと思われているらしい。また当初、ジンは生きていくのに精一杯で、帝国軍だろうが反乱軍だろうが知らん、という態度だし、反乱軍であるはずのアンドーの態度にも「仕事」感が強く嫌々な風にすら見える(ゲイレン殺害の指令を受けているからというのもあるけど)。強い使命感があるわけではなく、行動のモチベーションはさほど強くない。キャラクターとしてもそれほど「立って」おらず、本当に「その他大勢」感がある。そのせいもあってか、物語前半はかなりかったるく平坦な印象。正直な所、少々退屈だ。
  しかし後半、急速に気分が盛り上がっていく。ジンに強いモチベーションが生まれ、アンドーたちもそれに感化されていくのだ。大して共通項も使命感もなかった人たちが、帝国軍の好きにさせてたまるか!という意地で繋がり、なんとかミッションを遂行しようとする。彼らの闘いが、エピソード4の「希望」に繋がるのだ。ジュダイたちの物語は王道の英雄物語だが、本作はその背後にいた多数の名もなき人々の物語だ。彼らにもそれぞれの人生があり物語があった、彼らがいたから次の物語に続いたのだと感じさせるクライマックスには、やはりぐっとくる。色々と(主に脚本上の)難点も多い作品なのだが、クライマックスの盛り上がりで帳消しになるくらい。
 キャラクターとして魅力があったのは、おそらく本作見た人の多くは同じことを言うだろうが、チアルート・イムウェ(ドニー・イェン)と相棒のベイズ・マルバス(チアン・ウェン)。チアルートは座頭市をイメージしたような盲目の僧侶だが、何しろドニー・イェンが演じているのでやたらと強い。しかし彼はジュダイではなく、フォースは使えないし、体感したこともないだろう。それでもフォースの存在を信じ続けている。その姿勢が何だか泣けた。ベイズはフォースを信じていないが、チアルートを信じ、時に無茶な彼の行動を支え続ける。ぐんぐん先に行っちゃうチアルートも、ぶつぶつ言いながらフォローするベイズも可愛いのだ。

『レッド・タートル ある島の物語』

 嵐の海に投げ出された1人の男は、無人島に辿りつく。真水と果実でなんとか生き延び、いかだを作って島からの脱出を試みるが、何度試しても奇妙な力で島に引き戻されてしまう。ある日、男の前に1人の女が現れる。監督・原作・脚本はマイケル・デュドク・ドゥ・ビット。第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門特別賞受賞作品。
 スタジオジブリ作品との触れ込みで、プロデューサーは鈴木敏夫、高畑勲がアーティスティックプロデューサーとしてシナリオ・絵コンテのアドバイスをしたそうだが、いわゆる「ジブリ作品」とはかなり色合いが異なる。ジブリはプロデュース的な立ち位置で、ドゥ・ビット監督の作家性の強い作品になっている。監督が2000年に発表した短編『岸辺のふたり』には号泣したものだが、本作はそれともまた印象が異なる。
 絵の地というか、目の細かな画用紙に描いたような質感で、色合いもとても美しい。無人島が舞台なので海の描写は当然多いのだが、南の海の色で、水の質量感もすごくいいなと思った。また、セリフが一切ないのだが、キャラクターの演技が的確なので、物語の理解には支障ないと思う(小さいお子さんには難しいかもしれないが)。ちょっとした仕草まで目が行き届いていると思う。また、男にまとわりつく蟹たちの演技が素晴らしい。ユーモラスで可愛らしく、かといってぎりぎり擬人化には至らずあくまで「蟹」。作品のアクセント、息抜き部分になっていた。
 神話や昔話のような物語で、異なる存在との遭遇と交じり合いを描かれる。そこで新しい生活が生まれていき、それはそれで幸せだろう。しかし男にとっては、それは同時に島に幽閉される、絡め取られるということでもある。男は結構ガッツがあって何度もいかだで漕ぎ出すのだが、島は何としても彼を離してくれない。男に対する執着(まあ愛は愛なのかもしれないが)が少々怖くもあった。
 恐いと言えば、後半で起こるある事件は、生々しく恐い。抗いようのない事態には、どうすることもできないのだ。そこからまた日常を取り戻していく様はたくましいのだが。

『リトル・ボーイ 小さなボクと戦争』

 第二次世界大戦中のアメリカ、西海岸の小さな町。8歳の少年ペッパー(ジェイコブ・サルバーティ)は年齢の割に背が低く、町の子供達からもからかわれてばかりだった。しかし父親(マイケル・ラバポート)は「相棒」として彼に愛情を注ぎ励まし続ける。しかし徴兵検査ではねられた兄の代わりに父親が戦地に赴く。父親になんとかして帰ってきてもらいたいペッパーは、司祭(トム・ウィルキンソン)から全て達成すれば神の力で願いが叶うというリストを渡され、課題達成に奔走する。その中で、日系人収容所から戻ってきたハシモト(ケイリー=ヒロユキ・タガ)と親しくなる。監督・脚本はアレハンドロ・モンテベルデ。
 ペッパーと父親との繋がりが強く印象に残った。ペッパーと父親は、ある時はカウボーイ、ある時は怪盗等、一緒に「ごっこ」遊びに興じる。父親が嫌々付き合っているというのではなく、2人の間でファンタジーが成立しており、「物語」ではあるが「嘘」ではないのだ。父親との物語の中で投げかけられる「やれるか?」という言葉が、ペッパーをその後も支え続ける。
 ペッパーには、なぜ父親がなかなか帰ってこないのか、司祭がなぜリストを渡したのか等、よくわからないことばかりだ。彼はそのわからなさを、自分にとっての「物語」の中で自己流に解釈していく。リストを達成すれば奇跡が起きて父親が帰ってくる、その為には「敵」であるハシモトに親切にしなければならないというふうに。物語が彼が直面する出来事を回収しきれなくなったりもするのだが、その時は周囲の大人がフォローしたり、ペッパー自身がその困難に対応する力をつけてきたりしているところにほっとする。
 ハシモトとの関係は、徐々に心の通ったものになっていくが、ハシモトが町の中で置かれた立場には当時の世相が見えてなかなか辛い。長年アメリカに住んでアメリカ国民として生活していても、アメリカ人の仲間としては見てもらえないのかと。かといってハシモトにとって日本は祖国であり続けるし、どちらの方がより自分にとって重要とは言えないだろう。ハシモトに対する差別や暴力に加担する人たちについても、なぜそういうことになるのか、という部分をやんわりとだが見せている。戦争で失ったものを、誰かのせいにしないとやっていられないという人もいるのだ。
 色合いはビビッドで、映像の質感はざらっとした、昔の映画っぽいノスタルジックな雰囲気がある。おとぎ話的な描き方だが、決して見る側をあまやかしてはいないところがいい。ハシモトに対する暴力や差別に大人たちははっきりとNoとは言わない(歯止めとなっているのは司祭だけなのだ)し、ペッパーと家族が最後に見せる表情は、決してはっきりと晴れ晴れとしたものではないのだ。描かれなかった諸々のことがその背後にあると感じさせる。

『リザとキツネと恋する死者たち』

 EUフィルムデーズにて鑑賞。日本人大使未亡人の住込み看護師として働くリザ(モーニカ・ヴァルシャイ)。彼女の傍には、彼女にしか見えない日本人歌手の幽霊・トミー谷(デヴィッド・サクライ)がいた。日本のロマンス小説に憧れるリザは、30歳の誕生日に外出し、小説内のシチュエーション通り、ハンバーガー店に入る。しかしその間に、トミー谷の呪いで未亡人は死亡していた。そしてリザに好意を持った男性は次々に変死していく。監督はウッイ・メーサーローシュ・カーロイ。
 1970年代のハンガリーが舞台の作品なのだが、何とも言えず奇妙な味わい。本作を日本配給した人、よく見付けたな・・・。日本へのオマージュが盛り込まれているが、70年代のハンガリーから見た「なんちゃって日本」なので、キッチュさが増している。九尾の狐とかよく知ってるなーとは思うが、本来の伝説とはまた違うものになっているし、作中で流れる日本語歌謡曲も、日本の歌謡曲のようでそうではないという不思議さ。当然、日本人観客ばかりの環境で見たのだが、おそらく本来は笑い所ではないところで笑いが沸く、そして本来の笑い所でも更に沸くというウケっぷりだった。当初はシネマカリテでのレイトショー上映だけだったように記憶しているが、もうちょっと上映規模広げても大丈夫だったんじゃないかな。 
  リザに好意を持った人は次々に死ぬという、結構ブラック、かつリザにとっては洒落にならないハードな状況なのに、死にっぷりが豪快すぎて笑ってしまう。そして一方では、すごくまっすぐなラブストーリーでもあるのだ。「なかなか死なない男」の粘り強さが素晴らしい。
画面内のディティールの作りこみ方は、ウェス・アンダーソン監督を思わせるところもあるが、アンダーソン作品ほど徹底していない。どこか野暮ったく隙がある。そこがかわいらしさでもある。善悪のジャッジが意外と曖昧で、混沌とした世界観なところがいい。
 ところで、カーテンでドレスを作るというのは、映画においてある種のセオリーなんだろうか。


『レジェンド 狂気の美学』

 1960年代初頭のロンドン。双子のギャング、レジー・クレイとロン・クレイ(トム・ハーディ二役)はアメリカン・マフィアと手を組み、そのネットワークはセレブや政界にまで及んでいた。レジーは部下の妹・フランシスと恋に落ち、犯罪から足を洗って結婚すると約束する。カジノ経営に注力したレジーは成功するが、昔ながらのギャング稼業を愛するロンは反感を覚え、組織には不協和音が生まれていった。監督はブライアン・へルゲランド。
 スウィンギン・ロンドンの時代ということで音楽も多用されている。楽しいが、ちょっと音が多すぎるなと思った。全体的に余白の部分が少ない。音楽が入りすぎていることに加え、本作は概ねフランシスの視点から、彼女のモノローグによって物語が進行する。このモノローグがちょっと多すぎ、物語に対する視点が煩雑になっているように思った。その程度のことだったら見ればわかるから(つまり、映像としてちゃんと説明が出来ている)いちいちモノローグ入れなくてもなぁと、少々うっとおしかった。クレイ兄弟ともギャング組織とも距離感のある人物を入れて、俯瞰させたかったのかもしれないが、あまり上手く機能していなかった気がする。
 レジーとロンは、外見は体格がちょっと違うくらいで良く似ている(何しろどちらもハーディが演じている)のだが、言動は大分違う。レジーは泥臭いギャング稼業から、徐々にスマートに大金を回収できる「ビジネス」へと志向を移していく。しかしロンは、その泥臭さ、撃ちあいや殴り合いこそを愛している。組織を盤石にし規模を広げていこうとするなら、当然レジーのやり方の方が合理的だし、実施、レジーが舵を取っている間はビジネスは好調なのだ。ビジネスが軌道に乗り、いちいち腕に物を言わせずにすむようになると、精神的に不安定で爆発しがちなロンは、組織にとってもレジーにとってもアキレス腱になりかねない。レジーは実際、ロンの暴挙のせいで刑務所に入る羽目になるのだが、それでもロンを切ろうとはしない。愛憎すら飛び越え、お互いに切るに切れない存在なのだ。この有無を言わせない関係性が、彼らを追い詰めていくものの一つだったのかもしれない。お互い別の人間なのに自分達では離れることも関係性を変えることも出来ないというのは、相手を好きであれ嫌いであれ、厄介なものだろう。
 本作、ハーディが2役を演じたことで話題だが、確かに名演だったと思う。とにかく双子が一緒にいるシーンが多いので、大変だったと思う。とっくみあいの喧嘩シーン等、ボディダブルを使うにしても、どうやって撮ったのか不思議。
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