3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名ら行

『レディ・バード』

 カリフォルニア州サクラメントに暮らすクリスティン・マクファーソン、自称レディ・バード(シアーシャ・ローナン)は、カソリック系高校に通う17歳。母マリオン(ローリー・メトカーフ)は地元の公立大学に進学しろと言うが、都会に出たくてたまらず、内緒でニューヨークの大学の奨学生に応募している。高校生活最後の1年、友人やボーイフレンドとひと悶着あったり、家族とぶつかったり、将来について悩んでいく。監督はグレタ・ガーウィグ。
 女優として活躍しているガーウィグの初の単独長編監督作だそうだが、監督としてもいい!自意識過剰で「イタい」高校生の姿には自身の体験も投影されているというが、そのイタさを卑下するような所、自虐感がないところがよかった。レディ・バートに対しても、彼女の友人や家族、ボーイフレンドらに対しても、ほどよく距離感があり誰かを悪者にしようとはしない。
 レディ・バードと親友のやりとりがどれも心に残る。プロムが出てくるアメリカの映画はいくつも見たけど、本作のプロムが一番じーんときた。こういう友人て得難いよなとしみじみ思う。もしかしたら、彼女らはこの後疎遠になるのかもしれないけれど、そうだとしてもいいのだ。この時、この人がいてくれたということがすごく大事なのだ。一方、レディ・バードがイケてる自分を演出したいが為に接近するクラスのイケている女子についても、彼女がいじわるだとか浅はかだという描き方はしていない。ただ、今の現実生活が経済的にも精神的にも充実していていて自己評価の高い人は、地元を出たいとはあんまり思わないんだろうなぁという妙な説得力があった。彼女にとってレディ・バードは「その他」であり個人としては認識されてなかったという所もリアル。
 レディ・バードの高校最後の1年をハイスピードで描く青春物語であると同時に、彼女と家族の物語としても際立っている。特に母娘の関係が、こういう描き方はありそうでいてあまりなかった(あり方がユニークというより、こういう部分をわざわざクローズアップしようという人がいなかったと言う意味で)気がする。仲が悪いとかお互いに全く理解不能というわけではない。マリオンはすごく強い人で、レディ・バードに対しては少々過干渉なようにも見える。レディ・バードの方も大分我が強いのでいちいちカチンとくるのだ。マリオンは正しい人だが、正論でこられると(特に家の台所事情が絡むと)子供としては辛いものがある。レディ・バードくらい我の強い子じゃないと、マリオンのような母親と個人として張り合えないだろうから、悪い組み合わせではないのだろうが。レディ・バードが落ち込んでいる時にマリオンが慰めるやり方等、器用ではないが娘のことを本当に愛しているというのはわかるのだ。
 レディ・バードはミッションスクールの校風や決まり事(プロムのダンスホールをシスターたちが見張っているのにはちょっと驚いた)は決して好きではない様子だし、敬虔なクリスチャンというわけではもちろんないだろう。しかしこの学校の先生たちは実はすごくちゃんとしている。演劇の先生にしろ、校長であるシスターにしろ、生徒のことを良く見ていて、いい部分を引き出そうとしていることがわかる。シスターがレディ・バードの文章に対して「それは(地元を)愛しているってことじゃないかしら」と指摘するが、確かに自覚はなくても、愛憎混じったものであっても、そうなんだろうなと思える。都会に出て早々に大失敗した彼女は、ある場所に立ち寄る。うざったく感じていても、もう自分の一部なのだ。

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2015-05-02


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ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2017-09-06


『ランペイジ 巨獣大乱闘』

 違法な遺伝子操作実験の失敗により、自然保護区内でゴリラ、オオカミ、ワニの3頭が巨大化、狂暴化した。様々な動物の強みを取り入れた遺伝子により力を得た動物たちには軍もなすすべながなかったが、遺伝子操作実験の首謀者である大企業は、動物たちからDNAサンプルを採取しようと、シカゴへとおびき寄せようとする。元特殊部隊員で動物学者のデイビス・オコイエ(ドウェイン・ジョンソン)は、動物たちを止めようと3頭の後を追う。監督はブラッド・ペイトン。
 巨大動物大暴れという1ネタのみで100分強を乗り切る、潔い娯楽作。遺伝子操作だろうが何だろうが、とにかく「動物が巨大化して強い」という幼稚園児のような発想だし、そもそも生物としての強さはその方向で合っているのか?大企業もDNA採取するのにその方法でいいのか?返り討ち間違いないぞ!という突っ込みも入れたくはなるが、大きい物が暴れまくるのは愉快だ。荒唐無稽というよりも大分頭の悪い世界観をそれなりに成立・納得させてしまう、ドウェイン・ジョンソンのスター性に唸る。彼の存在によって「映画」として成立しているように思う。ゴリラとの「会話」も、まあジョンソンさんならゴリラとお話くらいできて当然、という気分になってくるし、何しろ死にそうにないので安心だ。
 このシーンとこのシーンの間に何かもう一展開くらいないと流れがおかしいな?という所が何か所かあるのだが、話の整合性よりもテンポの良さ、スピーディーで飽きさせないことを優先していると思う。無駄に尺を長くしないところはとてもよかった。さくっと気軽に見られて見た後はスッキリ、余韻は何も残さないという娯楽作に徹している。こういう映画も絶対必要なんだよなー。自分の立ち位置をよく理解している作品だ。


『ルイ14世の死』

 太陽王と呼ばれ、豪奢を突くしベルサイユ宮殿を作ったルイ14世(ジャン=ピエール・レオ)は死の床にあった。廷臣や医者たちは王の回復の為に尽力する一方で、死に備えつつあった。監督はアルベルト・セラ。
 カメラ数台をほぼ固定して撮影しているようだ。非常にかっちりと絵を作りこんでいるように見える。特にライティングはレンブラントの絵画を思わせるような光と影のコントラストを強調したもので、同時に輪郭ははっきりさせすぎない。影の中に対象が沈んでいくような印象も受ける、絵画的なもの。絵を作りこんでいるように見える一方で、カメラの前を平気で誰かが横切ったり、話している人が他の人の影に隠れて肝心の表情が見えなかったりする。それでOKにしてしまうんだなという、不思議な新鮮さがあった。自分の絵の設計に強烈な自信のある監督なように思う。また、室内はほぼ薄暗いままで見た目では昼も夜もわからない。屋外から聞こえる鳥のさえずりや虫の声で、時間が経過したことが何となくわかってくるという、音の使い方が良かった。
 ルイ14世はほぼ寝たきりで、回復は見込めないだろうという状況なのだが、死にそうでいてなかなか死なない。人間が死ぬのには時間がかかるんだなぁと妙に感心した。ある死が始まってから完了するまでを延々追っている映画とも言える。
 人の死という一般的に深刻な事態が進行している一方で、そこかしこに妙なユーモアがある。そこでそんな勇壮な音楽入れるの?!(作中、いわゆるサウンドトラック的音楽がかかるのは多分ここだけ)とか、王が帽子を取って挨拶したり、ビスケットを食べたりするだけで廷臣たちが拍手したり。こびへつらっていると言うわけだが、不思議と皮肉っぽさはない。帽子のくだりに関しては、王自身もこっけいなのをわかってやっているふしがあるように思う。ユーモラスなのだ。
 当時最先端であろう医術を施す医師たちがいる一方で、オカルトまがいの薬を処方するエセ医師もいる。周囲はどちらが適切とも決められずにおり、この時代の科学と迷信とがせめぎ合っている感じがした。医師たちの処置は現代から見ると的外れでもあるのだが、その行動には科学的な精神があるように思った。何でも確認し、トライ&エラーを重ねてデータを蓄積する。最後の医師の発言には笑ってしまうが、科学者の姿勢としては真っ当だろう。科学の前では王も平民も一症例にすぎないのだ。


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ヴェントゥーラ
紀伊國屋書店
2009-05-30





『陸軍中野学校』

 昭和13年10月、三好次郎(市川雷蔵)ら18名の陸軍少尉が、九段の靖国神社に集合した。彼らは草薙中佐(加東大介)が極秘裏に設立した日本初の秘密諜報機関員養成学校、陸軍中野学校の第一期生として集められたのだ。入学する者は外部との連絡を一切絶ち、戸籍もなくし、今後偽名で通さなければならない。三好には母と婚約者の雪子(小川真由美)がいたが、彼女らには行き先不明の任務と告げたきりだった。監督は増村保造。
 スパイもの、というよりスパイ学校ものなのだが、スパイに必要な技能を生真面目に学ぶ様が妙に面白い。刑務所から金庫破りのプロを召喚して錠前の開け方を学んだりするのだ。他にも各種機械の組み立て修理や毒薬の扱い、暗号解読、拷問等色々な授業があるのだが、教師はどこから連れてきたのかとか、教師に対する口止めはどのようにしていたのかとか、色々気になってしまった。
 草薙中佐の中野学校にかける思いは熱く、当時の「頭の固い」軍では育てられない人材を作り出そうという意欲に満ちている。しかし、学校が訓練機関として機能していくと共に、従来の軍隊の体質とさして変わっていない面が露呈していくのがなかなかきつい。その場の盛り上がり、空気の読みあいで物事が決定してしまう薄気味悪さがある。このあたり、当時はどういう風に見られていたのだろうか。草薙は「去りたい者は去っていい」「俺を恨むか」と問うが、仮に当人にその気はなくても、異論は封殺される空気が醸し出されちゃってるんだよなぁ・・・。草薙も、それを見越したうえで熱血パフォーマンスをしているようにも見えるのだ。切腹の件など、あー日本って!とげんなりする。この前近代感!
 三好と雪子との期せずしてのすれちがいの悲劇は、メロドラマ性が高くてスパイ要素とはまた違った面白さがある。淡泊な三好に対し雪子が意外と情熱的で情念をにじませており、悲劇が際立っていた。なお、昭和13年が舞台で、戦争の為に調味料などが不足しているという描写があるのだが、雪子やバーの女性達の服装は結構おしゃれ。映画的な演出なのかもしれないが、洋服のデザインに凝る余裕はまだあったということなのかな。

陸軍中野学校 [DVD]
市川雷蔵
角川書店
2012-06-29



『リズと青い鳥』

 北宇治高校吹奏楽部の部員で、オーボエ奏者の鎧塚みぞれ(種崎敦美)とフルート奏者の傘木希美(東山奈央)は中学時代からの親友同士。2人とも3年生となり、高校最後のコンクールを控えていた。コンクールでの演奏曲に選ばれた「リズと青い鳥」にはオーボエとフルートのかけあいのパートがあり、みぞれと希美が奏者に選ばれた。しかし2人の掛け合いはなかなかうまくかみ合わない。テレビアニメ『響け!ユーフォニアム』の完全新作劇場版。製作はTVシリーズと同じく京都アニメーション、監督は山田尚子、脚本は吉田玲子。原作は武田綾乃の小説。
 京都アニメーション作品は輪郭線がどんどん細くなっていく傾向にあるようだが、本作の動画の輪郭線は本当に繊細。良質の、往年の少女漫画という印象だ。人間の動きの演出もとても丁寧で、特に手の動きの演出は凝っている。体の重心移動の微妙な表現なども細やかだ。山田監督がよく使う、あえてカメラのフォーカスをぼやかせるような演出は、これ必要かな?と疑問に思う所もいくつかあったが。
 吹奏楽部が舞台だから当然音楽は大きな要素なのだが、吹奏楽部が演奏する音楽以外の劇伴も、さりげなく良い。また、鳥の声や木々のざわめき、衣擦れや足音など、日常の中の音、生活音の演出が非常に冴えている。特に(題名からして鳥がキーだし)鳥の姿を使った演出が随所にあるのだが、鳥の鳴き声の入れ方にこの季節、この時間帯での聞こえ方という雰囲気が出ていてとても良かった。音響の良い環境で見るといいと思う。
 みぞれと希美の関係は、作中絵本であり楽曲である「リズと青い鳥」に登場するリズと少女との関係に重ねられていく。みぞれは「リズと青い鳥」を読んで、愛する者を手放す=自由にすることなんてできない、リズの気持ちがわからないと悩む。彼女にとってはリズ=自分、引っ込み思案な自分をひっぱり続けてくれた眩しい存在である希美=少女だ。しかしこの関係は後半で反転していく。みぞれと希美はお互いに自分が相手を縛っているのではと感じているのだ。何を持って相手を縛っているとしているのかは、2人の間でちょっとずれているのだが。このずれは、才能の度合いによるところが大きく、それが本作を美しくも微量に苦いものにしている。
 TVシリーズでも明確に提示されているのだが、みぞれには音楽の才能がある。彼女はおそらく音楽と共に生きていく人で、音大への進学を教師に勧められるのも頷ける。対して希美は、部活としては上手いというレベルだ。後輩の高坂(安済知佳)がみぞれを問い詰めるシーンがあるが、彼女のように何よりも先に音楽が来る人、「持っている」人には、みぞれの態度は音楽に対する不誠実さに見えてしまうのだろう。みぞれが自分の音楽を掴むことこそが、本作のクライマックスであるように思った。それは、希美と今までのように一緒にはいられないということでもある。しかしみぞれの音楽の一部は希美であり、2人が親友であることに変わりはないのだ。






『レディ・プレイヤー1』

 貧富の格差が拡大した2045年。人々はVR世界「OASIS(オアシス)」の中で理想の人生を楽しもうとしていた。オアシスの開発者ジェームズ・ハリデー(マーク・リアランス)は死去の際、オアシス内に3つの謎を隠した、解明した者に莫大な資産とオアシス運営権を譲渡するとメッセージを残した。17歳の少年ウェイド(タイ・シェリダン)も謎解きに参加し一つ目の謎を解くことに成功、一躍オアシス内の有名人になる。しかしハリデーの遺産を狙う巨大企業IOIが彼に近づいていた。原作はアーネスト・クラインの小説『ゲームウォーズ』、監督はスティーブン・スピルバーグ。
 2045年という未来設定なのに、なぜか80年代サブカルチャーのてんこ盛りで色々突っ込みたくなる。予告編からしてヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」大フィーチャー(本編でも使用されている)だし世界設定といい、デザインといい、2010年代に想像した未来ではなく、1980年代に想像した未来という感じで、これを90年代以降に生まれた世代はどう見るんだろうと不思議だった。とは言え、あの作品のあのキャラクター、あの小道具等が次々と登場するのは楽しい。日本からの出演も相当数あり、これはぐっと来てしまうであろうというショット多々。ラスボス的存在登場前、客席に「もしやこれは・・・!」的緊張感が走り、登場すると「やっぱりねー!」と場内温度が高くなった気がした。メインテーマまで使っているなんて・・・。
 ストーリーやVR世界の設定には特に目新しさはなく、ビジュアルの賑やかさ、情報量のみで楽しめてしまう。ただ、VRの世界に耽溺せず現実に帰れというのではなく、VR、つまりフィクションが豊かである為には現実世界の豊かさが必要であり、現実が豊かである為にはVR・フィクションも豊かでなくてはならない、双方が呼応し合っているのだというテーマは、フィクションとエンターテイメントの世界で一時代を築いた(まだ築き続けているとも言える)スピルバーグらしい。VRに対しても現実に対してもポジティブだ。

ゲームウォーズ(上) (SB文庫)
アーネスト・クライン
SBクリエイティブ
2014-05-17


アヴァロン [Blu-ray]
マウゴジャータ・フォレムニャック
バンダイビジュアル
2008-07-25

『ラブレス』

 ボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)は離婚協議中で、既にそれぞれ別のパートナーがいる。2人とも新しい生活を始める為、相手に12歳の息子アレクセイを押し付けようとしており、協議はもめていた。2人の口論を聞いたアレクセイは、ある日学校へ向かったまま行方不明になる。監督・脚本はアンドレイ・ズビャギンツェフ。
 日本で公開されたズビャギンツェフ監督の作品は毎度見ているのだが、どれもビジュアルは大変美しく情緒がないわけではないが人間に対する視線が冷徹で、血も涙もないな!とうめきそうになる。本作も題名からして血も涙もない。そして題名通りの内容だ。
 ボリスとジェーニャは形は異なるものの、エゴをむき出しにしていく。ジェーニャは苛立ちや怒りをボリスにぶつけ、とりつくろうとすらしない。ボリスは一見下手に出ているが、言葉の端々からは責任を回避しようとする姿勢が見て取れる(終盤、新しい家庭でのボリスの姿は、この人夫としても父親としてもやる気ないんだな・・・と予感させるもの。家庭は欲しいが家庭で果たすべき責任は面倒くさくてやりたくないという感じ)。2人とも、自分のことが最優先でアレクセイのことは二の次だ。
 2人の行動は親としてどうなんだ、と非難されるであろうものだ。とは言え、彼らのエゴイズムと同じものが映画を観ている側の中にもきっとある。また、全ての親が自分の子供を愛せるわけでもないだろう。ボリスとジェーニャは保護者としての責任をおろそかにしたという点では非難されるだろうけど、愛が薄い(ように見える)ことは正直な所あまり非難する気にならなかった。もし親になったら、私もこんな感じじゃないかなと思ってしまうのだ。本作の題名はラブレス、愛がないということだが、そもそも家族の間に愛があるという前提が不確かなものではないだろうかと。
 アレクセイに対する直接的な愛情も思い入れもない、ボランティアの捜索隊の人たちの行動が、作中最もまともで責任感あるもののように見えたのが皮肉だ。

裁かれるは善人のみ [DVD]
アレクセイ・セレブリャコフ
紀伊國屋書店
2016-08-27



『リビング ザ ゲーム』

 ラスベガスで開催される、大規模な格闘ゲーム大会「EVO」で二連覇を果たし、ゲーム界のカリスマ選手的な立ち位置にある梅原大吾。その梅原に挑む若手プレーヤー、ももち。そしてアメリカ、フランス、台湾等、世界中のトッププレイヤーたち。人前でゲームをする姿を見せることを生業とするプロ ゲーマーたちを追うドキュメンタリー。監督は合津貴雄。
ちょっと時間があるから見てみるか、くらいの気分で見たのだが、とても面白かった。私は今では一切ゲームをやらないのだが、まさかストリートファイターの動画を見てこんなにも拳を握りしめる日が再び来るとは・・・。ゲームと縁がない人でも面白く見られるように配慮されている作品。構成がしっかりとしていて、この大会はどのくらいの規模で、この大会とこの大会の間にどんな経緯があって、といった部分の提示がゲームを知らない人にもわかりやすいと思う。対象となっているゲームが、画面内で起こっていることが分かりやすい格闘ゲームだというのも勝因だろう。単純に絵になるし気分が盛り上がりやすい。
 TVゲームプレーヤーに限らずどのジャンルにおいてもだろうが、スタープレイヤーであることと、その分野の技術が高いこととは、必ずしも一致しない。正確には、スターになるには技術プラスαが必要なのだろう。そしてそのプラスαは、個人のキャラクター性であったりメンタルの特異さであったり、往々にして努力ではどうにもならない。梅原とももちを見ているとそのあたりを痛感してなかなかに辛い。ゲームやらない私が見ていてもそう思うから、ドキュメンタリーとしては大成功と言えるんだろうけど・・・。梅原は(ゲーム外様の私が知っているくらいだから)やはり天才肌だしメンタリティがちょっと特異なんだろうな。勝敗ぎりぎりのところで「面白そうな方」を選べるというのは相当心が強くないと出来ないだろうし、「面白そうな方」に踏み切れることこそが、彼をスターにしている。彼のプレーは見ていて盛り上がるのだ。
 対してももちはおそらく非常にテクニックはあるが、堅実でいまひとつ華がないと思われる。本作、ももちとパートナーのチョコブランカに密着できたというのが勝因になっていると思う。梅原は、スターすぎて共感の要素がないので、ゲーム知らない人にはあまり訴求してこない。人としての弱さが垣間見えるももちの方がドラマ性があるのだ(当人にとってはいい迷惑かもしれないけど・・・)。





『レッド・スパロー』

 ボリショイバレエのダンサーだったが事故でダンサーとしての道を絶たれたドミニカ・エゴロワ(ジェニファー・ローレンス)は、ロシア政府の諜報機関に加わり、セクシャルな誘惑や心理操作を駆使するスパイ「スパロー」になる訓練を受ける。彼女はやがて才覚を認められ、CIA捜査官ネイト・ナッシュ(ジョエル・エドガートン)に近づき彼がロシア内に持っている情報源を特定するという任務を命じられる。監督はフランシス・ローレンス。
 ドミニカもナッシュも、意外と手の内をお互いに見せていくのだが、どこが工作でどこが本気なのか、二転三転していく。スパイ映画というよりも、政治的な、また個人同士のパワーバランスの転がり様を見ていくような作品だった。本作、面白いことは面白いのだが今一つ気分が乗り切らなかったのは、パワーバランス、力を巡る話だったからかもしれない。ドミニカは母親を人質に取られるような形で、スパイになる以外の選択肢を奪われる。叔父は彼女に対して支配力があると言える。スパイ養成所で叩き込まれるのは、相手をコントロールする方法で、それも相手に対する力の行使のやり方だ。ドミニカが「実演」するように、相手の欲望を見抜くことが弱点を掴むことにもなる。そしてもちろん、ドミニカにしろナッシュにしろ、組織、国家という力に支配されており、そこから逃げのびることは難しい。ナッシュは(ロシアと違い)アメリカは人を使い捨てにしないというが、それは嘘だよなぁ・・・。相手を支配することによる力の奪い合いって、見ているうちにだんだん辛くなってきてしまい楽しめない。コンゲームにおける裏のかきあいとは、私の中ではちょっとニュアンスが違うんだろうな。
 しかしその一方で、ドミニカがいかに自分を保っていくかというドラマでもある。この部分は序盤から徹底しており、少々意外なくらいだった。彼女は様々な名前、姿、身分を使い分けるが、常に自分であり続け行動の意図がブレない。彼女のありかは国でも組織でも特定の個人でもなく、自分だけなのだ。ある意味スパイ映画の対極にある映画な気もしてきた。ジェニファー・ローレンスのキャラクター性が強すぎて、そっちに役柄が引っ張られているような気もしたが。

レッド・スパロー (上) (ハヤカワ文庫 NV)
ジェイソン・マシューズ
早川書房
2013-09-20



アトミック・ブロンド [Blu-ray]
デヴィッド・リーチ
Happinet
2018-04-03


『リメンバー・ミー』

 靴職人の一族に生まれたミゲル(アンソニー・ゴンザレス)は音楽が大好きで、伝説的ミュージシャン、デラクルスに憧れている。「死者の日」の祭りで開催される音楽コンテストに出場したいミゲルは、デラクスルの霊廟に収められていたギターを手にする。ギターを奏でると同時に、彼は死者の国に迷い込んでしまう。死者の国で亡き親族に会ったミゲルは、夜明けまでに生者の世界に戻らないと本当に死者になってしまうと告げられる。監督はリー・アンクリッチ。
 ピクサー・アニメーションの新作長編作品だが、アニメーションのクオリティは相変わらず凄まじい。特に質感へのこだわりには唸る。人や衣服の肌合いがどんどん進化しているのがわかる。また、水の透明感と光の反射・透過感の再現度の高さがまた上がっているように思う。キャラクターの動きの面では、ミゲルがギターを弾くシーンが度々あるのだが、指の動きの演技がすばらしい。ちゃんとこの音ならこういう動きだろうな、と想像できるのだ。ギターを弾く人ならよりニュアンスがわかるのでは。
 ビジュアルはとても充実していてカラフルで楽しいが、今一つ気持ちが乗りきれなかった。ミゲルの祖母エレナの振る舞いにどうしても抵抗があって、家族は大事にしなくちゃ!という気持ちになれない。ミゲルの一族ではある事情から「音楽は一族を不幸にする」と考えられていて、代々音楽を聴くことも演奏することも禁じている。しかしその掟は曾曾祖母個人の体験に基づくものだ。他の家族にも当てはまるとは限らない。そういう個人的なことを家族と言えど他人に強制する姿勢が嫌なのだ。何が大切なのかは人それぞれ、家族より大切なものがある人もいるだろう。なので、家族は愛し合い支え合える、何よりも大切な存在であるという前提で話を進めないでほしいのだ。そりゃあ、上手くいっている間は家族は良いものだろうが、毒にしかならない家族というのも多々いると思うんだよね・・・。少なくともストーリー前半でのミゲルの家族は、彼を個人として尊重していないように見える。
 また、生者に忘れ去られると死者の国の死者は存在できなくなる=二度死ぬというルール、感覚としてはわかるが、生きている親戚縁者のいない死者たちがスラム街に住んでいるというのは、ちょっとひどいと思う。親戚縁者の多さ・ないしは著名人であったことと個人の生の価値とは一致するものではないだろう。そもそも生の価値は他人が決めるものではないと思うんだけど・・・。





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