3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画題名ら行

『リトル・リチャード アイ・アム・エヴリシング』

 1955年、デビュー曲「トゥッティ・フルッティ」が大ヒットし、ロックンロールの創始者の1人に挙げられる黒人アーティスト、リトル・リチャード。デビュー以降ヒット曲を連発するが、突然キリスト教教会の活動に転身。5年間の教会活動を経て復帰した後は無名時代のビートルズやローリング・ストーンズに大きな影響を与えていく。本人および親族・関係者の証言、研究者の見解や多数のアーカイブ映像、さらにミック・ジャガー、ポール・マッカートニーを筆頭とした有名ミュージシャンのコメントを通し、リトル・リチャードの人生を追うドキュメンタリー。
 リトル・リチャードの作品を良く知っている人にも知らない人にもおすすめできるドキュメンタリーで、アメリカの音楽シーン、アメリカという国の変化、そしてロックンロールの歴史を見るという意味でとても面白かった。エルヴィスはもちろん、ストーンズやビートルズへの影響は知識として知ってはいたがミック・ジャガーやポール・マッカートニーご本人の発言が裏付けていると実感としてわかってくる。ポールのシャウトはリトル・リチャードからの学習だったのか!また映画監督ジョン・ウォーターズの特徴である髭はリトル・リチャードオマージュだそうで、なんだか微笑ましい。
 作中で挿入されるアーカイブ映像を見ると、リトル・リチャードの音楽や自分の考えについての発言は時代時代で結構矛盾があったりするのだが、彼としては嘘を言っているというわけではなく(自己演出は多々あるだろうが)、その時々で彼の様々な面が出ているということなのではないかと思った。本作を見ると音楽とはまた別に、彼のアイデンティティの多面性、矛盾をはらんだ複雑さが強く印象に残る。当時のアメリカではいうまでもなく人種差別が激しく、彼の出身である南部では猶更だった。さらに彼はゲイを公言するクィアだった。そういう人にとって生きることは相当困難だったろう。ただミュージシャンとしてはクィアであることを大っぴらにしていたことで、白人男性からの加害をむしろかわすことができた側面もある(自分たちの狩場を荒らす=女性を横取りする存在ではないと思われるから)というからまた複雑だ。
 一方で彼はキリスト教教会の影響が多大にある環境(土地柄に加え、父親が教会の仕事をしていた)で育っており、教会の教義と自身のセクシャリティ、音楽性との矛盾を抱えていた様子も見受けられる。弟の死をきっかけにいきなり敬虔なクリスチャンとしてふるまうのもそういった素地があったからだろう。自分のクィアとしてのアイデンティティに忠実だと教会からは疎外されてしまう。自身が割かれていくような要素を持ちつつ生きてきたのであろうことが垣間見えてくる。教会の活動にのめりこんだ彼が自分はクィアではない、ヘテロセクシャルになったと公言したことで当時のクィアの人々はとても困った(「治せる」ものだと思われてしまうから)というがそれはそうだろう。リトル・リチャードはクィアとして何ができるかという部分にはあまり興味がなかったのかもしれないけど。
 本作を見て、私はそういえばリトル・リチャードの曲は本人のパフォーマンスではなくカバーバージョンの方を主に聞いていたことに改めて気付いた。これが作中でも言及されてている問題なんだと。黒人歌手のヒット曲を白人歌手がカバーして大ヒットになる。しかしオリジナル版のことは忘れられていく。往々にしてよくあるパターンだと思うのだが、リトル・リチャードが折に触れて自分はすごい、自分がロックンロールを始めたと主張するのは、そうしないと自分の作品であることが忘れられていくからだ。主張し続けた彼がようやく公の場で評価される様にはやはりぐっとくるが、もっと早くに報われていればとも。ただなんだかんだでずっと音楽活動を続けていたところはやはりすごい。

Very Best of Little Richard (Dig)
Little Richard
Specialty
2008-08-21





『落下の解剖学』

 雪山の山荘で、視覚障がいをもつ11歳の少年ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)と愛犬が、家の外で血を流して倒れていた父親を発見。少年の悲鳴を聞いた母親サンドラ(ザンドラ・ヒューラー)が救助を要請するが、父親はすでに息絶えていた。当初は事故による転落死と思われたが、前日に夫婦ゲンカをしていたことなどから、サンドラに夫殺しの疑いがかけられていく。ベストセラー作家のサンドラとやはり作家志望だった夫の間には溝が出来ていたのだ。監督・脚本はジュスティーヌ・トリエ。
 同業者がパートナーだと、お互いの性格によってはものすごくめんどくさく葛藤の絶えない関係になりかねない。サンドラのヒット作は夫が破棄した構想が元になっていたし、夫はサンドラとの口論を録音して自分の小説の素材にしようとしていた。相手の技量がなまじわかってしまうだけに、お互いに疑心暗鬼や嫉妬が絶えないのでは。わからないから平穏でいられることもあるのだ。
 更に、夫婦関係が対等であることの難しさが露呈していく。本来双方が協力しあって生活を維持していくはずなのに、より稼いでいる方は自分が稼いでいるんだから多少奉仕してもらって当然だろう、パートナーの仕事より自分の仕事の方が重要だと錯覚してしまう。これは男女関係ないだろう。サンドラは家事や子供の世話で自分の作品に取り組む時間がないと訴える夫に、それはやる気がないからだ的なことを言う。彼女の仕事量は家庭内での夫の働きの上に成り立っているのだろうが、そこはスルーされる。
 ただ、裁判の中ではこれらのエピソードは夫が気の毒だったという文脈で使われるのだが、もし男女逆(多数派であろう男性が稼ぎ手寄り、女性が家事寄り)だったらそんなに同情的に受け止められただろうかという疑問もわいてくる。もしサンドラが男性だったら検察官がセクハラまがいの発言をすることもなかったのでは。サンドラは決して品行方正というわけではないが、男性だったらここまで追求されるだろうかという場面がしばしばある。女性であること、そしてフランス語が母語ではない異国人(舞台は夫の母国であるフランスでサンドラはドイツ人、2人の会話は英語、裁判はフランス語)であることが、彼女の訴えのハードルを上げている。母国語以外の言語で裁判で証言するのってかなり負担なのでは。裁判のあり方がそもそも彼女にとってフェアではないとも言える。
 本作で提示される事件当時、また事件に至るまでの出来事は、あくまで関係者の法廷での証言の内容ということになっている。実際に何があったのかは実はわからないままだ。裁判とは原告と被告がそれぞれのストーリーを提示し合いぶつけ合う、あるいは落としどころを探るもので、真実を究明する場ではないということが露呈していくのだ。ただ、それは当たり前と言えば当たり前で、実際に何があったのかなんて他人には知りようがない。本作、シナリオは確かによくできているのだがこの当たり前さを額面通りにやっている感があって、よくできているが今一つ面白みがないという印象だった。

サントメール ある被告
グザヴィエ・マリ
2024-02-01


ありがとう、トニ・エルドマン(字幕版)
ザンドラ・ヒュラー
2018-01-06


『ロスト・フライト』

 機長のブロディ・トランスが操縦する航空機のブレイザー119便は、悪天候のなか、落雷でコントロールを失ってしまうが、何とかフィリピンのホロ島に不時着する。乗務員と乗客ら17名は一命をとりとめたが、不時着した場所は反政府ゲリラが支配する無法地帯。フィリピン政府からの救援は望めずゲリラたちが迫りくる中、トランス機長は乗客を守るべく立ち向かう。監督はジャン=フランソワ・リシェ。
 いい塩梅の娯楽映画として大正解の程よい面白さと長さ!奇をてらうことなく、作中の言葉ではないが、一つ一つ着実にタスクをこなしていく感じの脚本。脚本家のチャールズ・カミングはスパイ小説家でもあり、私は未読なのだが著作は結構評判いいそうだ。多少大雑把な所はあるが骨組みがしっかりしていて余計なことをやらないのがいい。冒頭の搭乗シーンでどういう人たちが乗っているのか、機長や副機長、キャビンアテンダントたちはどういう人なのかを手際よく見せていくあたり、また航空機を飛ばすのはチームプレイなんだとわかる離陸までの手順の見せ方も手さばきが良く(その機能性が味気なくていやだと言う人はいるかもしれない)で、これは段取りのいい脚本だな!と安心した。ストーリー展開も、何しろいきなりクライマックスに突入し次のクライマックスがすぐにやってくるという具合でスピーディー。ピンチに次ぐピンチでも主演がジェラルド・バトラーだと何となく大丈夫そうな気がしてくるが、それでも結構ハラハラドキドキさせる。安心感とドキドキのバランスがちょうどいい。
 トランスがたまたま乗客として搭乗していた移送中の犯罪者ガスパール(マイク・コルター)と手を組んでゲリラに立ち向かう、即席バディ展開はお約束的だがそれ故に盛り上がる。何より、トランスを筆頭に航空会社のスタッフが皆プロ意識が高い!金で動く洋平たちも仕事である以上命を張って働く。現場のプロへの信頼感が感じられる。また、航空会社の本社側もちゃんと危機対応をしているよ!という動きを見せるのもいい。やはりチームプレイなのだ。

アサルト13 要塞警察(字幕版)
ブライアン・デネヒー
2016-10-01


ハンターキラー 潜航せよ(字幕版)
ミカエル・ニクヴィスト
2019-08-21


 

『ロストキング 500年越しの運命』

 フィリッパ・ラングレー(サリー・ホーキンズ)は職場で上司から、持病を理由に不本意な人事評価を受けて落ち込む。別居中の夫・ジョン(スティーブ・クーガン)は彼女の悩みに無関心だ。そんな折、息子の付き添いでシェイクスピアの「リチャード三世」を鑑賞したフィリッパは、リチャード3世が悪人として描かれてきたのは実は不当なのではと思い当たり、彼に深く共感すると共に歴史研究にのめり込んでいく。専門家・アマチュア問わずリチャード3世の汚名挽回を試みる研究者たちにコンタクトするうち、1485年に死亡したリチャード3世の遺骨は近くの川に投げ込まれたと長らく考えられてきたが、実際ににはどこかに埋葬されたのではないかとフィリッパは仮説を立て、何とか遺骨を発掘しようとする。監督はスティーブン・フリアーズ。
 フィリッパの探索は直観に頼る所が大きく、リチャード3世の幻影が彼女を導くという少々ファンタジックな演出なのだが、発掘エピソード自体は実話だというから驚いた。もちろんフィリッパは過去の様々な研究を読み込んだうえでここに遺骨が埋まっていると当たりをつけるのだが、ドラマティックすぎる。何かに突き動かされるように走り出してしまうということは誰しもあるだろうが、フィリッパの一歩間違うと狂気じみている一直線ぶりには圧倒される。
 彼女がリチャード3世に深く共感するのは、彼が特に身体の障害により性格の悪さをキャラ付けされてしまっているという面があるからだろう。「~だからこの人はこうだろう」という決めつけがあるのだ。フィリッパは持病がありストレスに弱かったり疲れやすかったりする。とは言えある程度コントロールできるし仕事もこなせる。それを「体調が大変だろうから重要なポストからは外しておいた」と言われると、そこに悪意がなくても不本意だし不当に扱われたと感じる。「病気の人」というキャラ付けだけになってしまうのだ。更に、リチャード3世について調査を進める中でも、彼女はアマチュアだからと軽く扱われる。そして、「中年の女性」であるということで更にナメられるのだ。もしアマチュア研究家でも男性だったらこうはあしらわれないだろうというシーンや、「説得に感情を出さないで」と女性職員にアドバイスされるシーン等、残念ながら女性にとっては非常によくあるシチュエーションだろう。フィリッパが大発見をした後の展開もリチャード3世と似通った扱いで苦い。ただ、実際の後日談も紹介されるのでそこはほっとしたのだが。
 フィリッパの諦めなさ、自身の知性と直感への誠実さはやはり心を打つものだ。フィリッパに呆れていたジョンが段々協力的になってくるのは、元々彼女の聡明さをかっていた(君はお願いする体で銃を突き付けてくるとぼやくが)からだろう。ただ、そこが別れた一因でもあるんだろうなとも思ったが。ああいう知性を怖いと思う男性も多いんだろうなと。

あなたを抱きしめる日まで [DVD]
スティーヴ・クーガン
Happinet(SB)(D)
2014-10-02


リチャード三世(新潮文庫)
ウィリアム・シェイクスピア
新潮社
2016-01-29


『リボルバー・リリー』

 大正末期、1924年。東アジアで暗躍した元敏腕スパイの小曽根百合(綾瀬はるか)は現役を引退し、東京の玉ノ井でカフェの店主をしていた。ある日、消えた陸軍資金をめぐり家族を惨殺された少年・慎太(羽村仁成)が彼女を頼ってくる。百合と慎太は陸軍の精鋭部隊に追われる身となる。原作は長浦京の同名小説、監督は行定勲。
 綾瀬はるかの本格的なアクション、特にガンアクションが充実しているという面では楽しい作品で、綾瀬にはこっち方面の仕事をもっとやってほしいなと切実に思う。出演俳優は妙に豪華なので、俳優の力で画面がもっているという面もあると思う。豊川悦司と石橋蓮司のガンアクションというのもなかなかレアなのではないだろうか。またシシドカフカはライフルが非常によく似合っていた。
 ただ、全般的に話の運びがあまりうまくないという印象を受けた。ストーリーの動かし方が割と安易で、この為だけに投入したなという要素によって動かされる所がありちょっと冷めてしまう。つまらないわけではないので勿体ない。間がもっておらず冗長に感じられるシーンも多かったので、全体の尺ももう少し短くてもよかったと思う。特に終盤の長尺のガンアクションは、さすがに無理があった。リアリティラインの設定がいきなり曖昧になる。場所と場所の距離感や移動経路のアバウトさも気になった。そんなにリアリティを追求した作品というわけではないのだが、生身の人間が演じている以上、ある程度の生っぽさは必要だと思う。


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2015-04-14


『658㎞、陽子の旅』

 42歳の独身女性・陽子(菊地凛子)は、フリーターをしつつ引きこもりがちな生活をしていた。ある日、従兄の茂(竹原ピストル)が突然訪ねてきた。陽子の父が急死し、これから実家の青森へ向かうというのだ。茂とその家族とともに、東京から青森県弘前市まで車で向かう陽子だが、途中のサービスエリアでのトラブルにより、陽子は置き去りにされてしまう。所持金も携帯電話もなく途方に暮れる陽子だが、とうとうヒッチハイクで故郷を目指すことにする。監督は熊切和嘉。
 都内から青森まで車で行くのは体力的にかなりきついし時間がかかると思うのだが、長距離運転慣れしている人にとってはそうでもないのだろうか。車で移動するロードムービーはいつも距離感と体力度合いの兼ね合いが気になってしまう。それはさておき、陽子をいかに1人だけ、連絡取れない状態にするかという設定が強引なようでいてそうでもないかなという微妙なところ。
 陽子を同乗させてくれる人たちは様々だが、ヒッチハイク、ことに女性1人でヒッチハイクする行為の危うさもやはり描かれる。その危うさは陽子が軽率とかいうことではなく、彼女を食い物にしようとする人が全面的に悪いのだが、こういう、選択肢がないからやむなくのことを自己判断・自己責任扱いにする人っているよなーとしみじみ嫌な気持ちになった。ライターの男は自分は自分のことを話したんだから陽子にも話せというが、それは取引するような事柄ではないしそもそも本気で聞く気がない人には話せないだろう。同乗させてくれる人たちは、最初のうちは自分のことをひたすらしゃべる人が続く。しかし目的地に近づくにつれ、陽子との間に会話が成立するようになる。最後は運転手はほとんどしゃべらず、陽子が自分のことを一気に話す。陽子に話す準備ができたということでもあり、その時の運転手には聞く姿勢が出来ていたということでは。
 陽子は「私みたいなものが」と卑下するのはひっかかった。彼女は家族の反対を押し切って状況したものの夢かなわず何者にもならなかったことを悔いており、もうやり直しがきかない年齢だと考えている。しかし20年も実家に頼らず何とかかんとか生きてきたんだから、むしろ大したものだろう。何者かになる必要はないし42歳でいわゆる社会的な「実績」がないから何も持っていないというわけでもないし、人生が失敗したというわけでもない。そこへのフォローは何か欲しかった。

海炭市叙景
小林薫
2019-02-13


寝ても覚めても
田中美佐子
2019-03-06


『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』

 ルイス・ウェイン(ベネディクト・カンバーバッチ)は早くに父を亡くし、母と妹たちを養う為に挿絵画家して働くようになる。ある日、妹の家庭教師として雇われたエミリー(クレア・フォイ)と出会う。恋に落ちた2人は周囲から身分違いと猛反対されながら結婚し、田舎に新居を構える。しかしほどなく、エミリーは末期がんを患っていることがわかり、どんどん弱っていく。ルイスは庭に迷い込んできた子猫にピーターと名づけ、エミリーのために子猫の絵を描き始める。監督はウィル・シャープ。
 ルイス・ウェインの名前は知らなくても、彼の絵を見たことはあるという人は少なくないのでは。ユーモラスな猫たちの絵や、花や星(本作を見ると、あれは電気の描写なんだろうなと腑に落ちる)と組み合わせたような抽象度の高い猫の絵が有名だろう。そのルイス・ウェインの伝記映画。ブルジョワ層の女性が働きに出るということはあまりないので、家長であるウェインが家族全員(妹が多い!)を養わなければならず常に経済難だったり、ブルジョワ層と家庭教師との結婚が一大スキャンダルだったり、そもそも猫をペットにするという習慣がまだ定着していなかったりと、時代背景の描写にはあらためてそうだったのかと興味深かった。特に猫が愛玩動物としてイギリスで定着したのは、ウェインの作品の影響もあったみたい。
 ウェインがエミリーと人生を共にしたのはわずか3年程度。死に別れてからの人生の方がずっと長い。しかしその3年の記憶が彼の人生を支え続けたということがよくわかる。失った人についての記憶は、愛情故に残った人たちを苦しめもするがそれ以上に、幸福な時間の記憶は何かの時に、自覚の有無は別として支えになっていく。そしてエミリーとの結婚により不仲になった妹たちとも、幸福な時間は確かにあったし、そこには愛情があった。彼女らとの記憶もまた、ウェインの人生の一部であり支えだったのでは。妹の最後の言葉がそれを物語っている。
 ベネディクト・カンバーバッチは本当に演技が上手いんだなと実感する作品だった。彼が得意とする奇矯な人を演じているが、青年時代から老年時代まで一貫して違和感がないのはすごい。特に老年時代は老けメイクで演じているのだが、下手するとわざとらしいおじいちゃん演技になりそうなところ、普通に年を取っている人の感じが出ていた。歩き方の変化等上手い!


エジソンズ・ゲーム(字幕版)
ニコラス・ホルト
2020-08-07



『LAMB/ラム』

 人里離れた山間で暮らす羊飼いの夫婦、イングウェル(ヒルミル・スナイル・グズナソン)とマリア(ノオミ・ラパス)。ある日、羊の出産に立ち会った二人は、生まれてきた物を目撃する。それを“アダ”と名付け、2人は育て始める。3人での生活に幸せを感じるようになったイングウェルとマリアだが。監督はヴァルディミール・ヨハンソン。
 前半は情報の見せ方をかなり制限しており、「それ」が何なのか、夫婦に何が起きたのかは少しずつ開示されていく。このじわじわ見せていき不穏さと緊張感を絶やさない構成が上手い。それだけに、予告編の作り方はすごく勿体ないと思う。ある程度見せないと集客力が弱い、ないしはターゲット層に届かないという判断だったのかもしれないが、映画そのものの意志(とにかく前半では「わからない」ようにしているわけだから)に反していると思う。
 「それ」が何者なのか、夫婦の元になぜやってきたのか、明かされることはない。人間の理解の反中外からやってきた、奇跡ないしは天災のようなものなのだろうが、そういう存在に対して、人間の世界の見方・やり方をあてはめて遇してしまったことが、夫婦の悲劇だったのではないだろうか。人間である自分たちの価値観やルールは、彼らのものとは違うのだ。人間は人間、羊は羊、「それ」は「それ」でしかないという諦念が滲む。
 また一方で、他者のものを奪ったものは同じように奪われるという、しっぺ返しを受ける寓話のようにも思えた。「それ」の母親にしてみたら子供を奪われたことになる。イングウェルの弟が無事だったのは、(奪う対象が違うとはいえ)ぎりぎりで踏みとどまったからではないだろうか。もし一線超えていたら別の話になっていそう。
 アイスランドの風景はやはり強烈だった。山地といっても木がほとんどなく、妙に見晴らしがよくて(日本の野山の感覚と比べると)荒涼としている。人間の力がちょっと及ばなさそうな風土だから成立する物語なのだろう。現地の人が見たら、日本人にとってほど奇妙な印象ではないのかもしれない。

ひつじ村の兄弟(字幕版)
ソールレイブル・エーナルソン
2016-07-02


馬々と人間たち [DVD]
ステイン・アルマン・マグノソン
オデッサ・エンタテインメント
2015-06-02




『LOVE LIFE』

 大きな集合住宅に暮らす妙子(木村文乃)と二郎(永山絢斗)夫婦と、妙子の連れ子である敬太。向かいの棟には二郎の両親が住んでいる。ごくごく幸せな日々を送っている一家だったが、ある日悲しい出来事が起きる。ショックでぼうぜんとする妙子の前に、失踪した前の夫であり敬太の実父であるパク(砂田アトム)が現れる。妙子はろう者であるパクの身の回りの世話するようになる。監督・脚本は深田晃司。
 矢野顕子の楽曲「LOVE LIFE」がテーマ曲として作中とエンドロールで使われているのだが、様々な意味合いでの愛が描かれる。夫婦、親子、恋人、友人、そしてより広い人と人との愛。ただ、その愛は必ずしもかみ合っているわけではない。隙間があったり、すれ違ったりする。妙子と二郎は生活の様子を見ていてもお互い分担して助け合っており、対等な関係を持った夫婦に見える。しかしある出来事がきっかけで、その出来事に対する思いの深さや方向の差異がだんだん表面化していく。他人である以上仕方がないことかもしれないが、家族として一緒に生活している相手とデリケートな部分で相容れなさが出てきてしまうというのはしんどい。更にそのずれから逃げるように、二郎はかつて付き合っていた山崎(山崎紘奈)と会ってみたりもする。会ってどうなるわけでもないのだが、彼のちょっとずるい部分が垣間見える。同時に、パクへの独白(パクはろうあ者なので聞こえないのだが)からは、彼が自分のずるさや妙子とのギャップを自覚している様子が垣間見える。
 一方、妙子はパクの世話にどんどんのめりこんでいくように見える。自治体の福祉課勤務の彼女にとってはそもそも仕事ではあるのだが、より個人的な関わり方になっていくのだ。彼女にとってパクはある出来事の悲しみを深く共有できる存在だからというのも、一因だろう。記憶の共有だったら二郎との方が多いはずなのに二郎とは同じように悲しむことができないというのが、皮肉ではある。ただ、パクと共有できる、自分が彼を助けなければという思いもまた、妙子の一方的なものだろう。確かにパクとは、ある部分では確かに深く共有できるだろう。しかし彼には彼の事情があるのだ。そのずれもまた露呈していく。そういったずれを抱えたままでも、そこに愛はある、一緒に生きていけると言えるのか。あやふやで危ういまま、物語は閉じていく。
 冒頭から緊張感が途切れず、ゆるみのない構成。また、ちょっとしたやりとりで人間関係に緊張感が走る様のつかみ方がすごく上手い。二郎の父親の心ない言葉への妙子の対処は真っ向勝負、かつ配慮のあるもので彼女のバランス感が現れている。また二郎の父親と妙子の間で場を和らげようとする二郎の母が、ある場面では大分ひどいことを吐露してしまう。それに対しては二郎の父親が何とかフォローしようとする。人間の場によってのグラデーション感みたいなものがよく表れていて面白いのだが、「いいひと」でも状況によっては最悪な面が出ちゃったりするから怖いよな…。

よこがお
吹越満
2020-01-08


ラビット・ホール ブルーレイ [Blu-ray]
マイルズ・テラー
角川書店
2013-06-28


 

『リバー・オブ・グラス』

 配信で鑑賞。南フロリダ、なにもない郊外の湿地に暮らす30歳の主婦コージー(リサ・ボウマン)は変わりばえのない日々を過ごしていた。彼女は、いつか新しい人生を始めることを夢見ているが。監督・脚本はケリー・ライカート。1994年の作品。
 男と女が出会い、あてどない旅に出て、時に犯罪にも手を染める。…と書くとアメリカンニューシネマっぽいかっこよさがあるような気がするが、本作にはそういうかっこよさは一切ない。男も女もうだつがあがらず、ロマンスは全くロマンティックに見えず、ロードムービーではあるが遠くへは行けず、アウトローになろうとしても全くなれない。ロマンス映画や犯罪映画だったらこうなるだろう、というところを全部ずっこけさせたような決まらなさ。映画としてはばっちり決まっているのだが、登場人物たちの振る舞いは一貫して決まらない。ショボい強盗すら横やりが入って失敗するというしょっぱさなのだ。
 そもそも30歳にして「ここではないどこか」を求めてしまうコージーたちはかなりイタいとも言えるの。しかし、「ここではないどこか」への渇望は、なまじ若い者よりもちょっと年齢重ねてきた者の方が強まってしまうのでは。今いる場所、今の自分への嫌さが段々蓄積されてきて、もう何もかも嫌になる。この嫌になる感が実に身に染みた。かつて憧れていたものを何も手に入れられないまま、憧れの表面だけなぞるような行動をとっていく彼らの姿が辛い。コージーが住んでいる場所は、華やかなリゾート都市であるマイアミに近いが実際には何もないしょぼしょぼしたエリア。ちょっと先にあるあのキラキラはずっと自分の手には入らないままという状況で、なんとも皮肉だ。

リバー・オブ・グラス
マイケル・ブシェミ
2021-07-16


タンジェリン(字幕版)
ジェームズ・ランソン
2017-12-02


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