3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名や行

『夜は短し歩けよ乙女』

 大学の後輩である「黒髪の乙女」(花澤香菜)に片思いしている「先輩」(星野源)は、「なるべく彼女の目に留まる」作戦、略して「ナカメ作戦」を敢行するが外堀ばかり埋まっても一向に彼女との関係は進展せずにいた。ある晩、披露宴の二次会から町に繰り出した乙女は珍事件に巻き込まれていく。原作は森見登美彦の同名小説。監督は湯浅政明。
 いやーこれは素晴らしいな!私が思うアニメーションの楽しさ、喜びに満ちている。背景(空間)もキャラクターもフォルムが伸び縮みし自由自在。こういう自由さがいいんだよ!原作では四季を通した連作集だったと思う(読んだのが大分前なので記憶が・・・)が、映画では一晩の出来事に圧縮されている。これは賛否が分かれるところだと思うが、私はとてもいいなと思った。空間やキャラクターのフォルムが自在に伸び縮みするアニメーションの方向性と、時間が伸び縮みするストーリーとが上手く合っているのだ。ふわーっと何かに夢中になっている人(乙女は冒険に夢中だし、先輩は恋で無我夢中だ)の中では、時間も空間もねじまがる。主観度がすごく高いと言えばいいのか。なお脚本は劇団ヨーロッパ企画の上田誠が手がけているが、力技ではあるが一点に向かってどんどん盛り上がっていく高揚感があった。
 原作の黒髪の乙女は、いわゆるモテそうな女子とはすこしずらしているようでいて、真向から「女」度の高い女子にひいてしまう男子にとっては、ちょいユニークかつ攻めすぎていなくてちょうどいい、まあこういうのがお好きなんでしょうねぇ!という一見あざとくない所があざといキャラクター造形だったように思う。映画では花澤が演じることで、かわいいが言動がよりフラットであざとさが軽減されているように思った。花澤の声質の効果もあるが、演技もあまり「かわいい」に寄せず、むしろ酒豪であったり性別関係ないニュートラルな気の良さ(実際乙女は老若男女に対して態度があまり変わらない)が感じられる演技になっていたと思う。
 また、先輩役の星野源は、キャラクターとしてはザ・星野源みたいな嵌まり方だし演技もこなれている。プロ声優ではない出演者としては、パンツ総番長役の秋山竜次も予想外にいい味わいだった。声優、俳優総じて、出演者のキャラクターへのはめ方が良かったように思う。
 ちなみに、私にとって本作は『ラ・ラ・ランド』よりも全然楽しいミュージカル映画だった。歌がすごく上手いというわけではないところが逆にいい。また、古本市で乙女がビギナーズラックにより掴んだ本は、私のお勧め本でもある(今は復刊され題名一部変わっている)。乙女お気に入りの絵本『ラ・タ・タム』も好きだったなぁと懐かしくなった。古本市パートは、実在の本の書影があちこちに出てくるので読書好きは見てみてほしい。原作者の名前ももちろん出てくる。

『汚れたミルク あるセールスマンの告発』

 大手多国籍企業に転職したアヤン(イムラン・ハシュミ)は、かつて培った病院とのコネを駆使し、トップセールスマンとして粉ミルクを売りさばいていた。しかし、水道設備が万全ではないパキスタンでは、粉ミルクを不衛生な水で溶かして与えざるをえない層もあり、乳幼児の死亡率が増加していることを知る。自分が強引にミルクを売ったことに罪悪感を覚えたアヤンは、企業を訴えようとする。監督はダニス・タノビッチ。
 パキスタンで実際に起きた事件を題材にしているそうだ。いわゆる社会派サスペンス風な題材なのだが、見せ方にかなりひねりがある。アヤンが体験した事件を映画にしようという、映画制作会社の目を通しているのだ。アヤンの体験は、あくまで彼が製作会社に対して語った内容であり、それ故この語り手は果たして信用できるのか?という疑問が付きまとうことになる。映画制作会社も、彼の話は信用できるのか、企業に告訴される可能性はどの程度なのか、推し量りつつアヤンの話を聞く。映画を見ている観客にとっては、見ている側の軸足をどこに置けばいいのか、なかなか定められない。終盤の意外な展開も、この話法ならではだろう。一筋縄ではいかないのだ。
 アヤンのやることは、転職にしろ企業を訴えるにしろ、思い切りが良すぎて無茶な行為に見える。ラストに表示される字幕で、彼の話の裏付けはされることになるが、何となく心もとない。話があまりにフィクショナリー(映画はフィクションだから当然と言えば当然なんだけど)だしスピード感がありすぎるのだ。アヤンの中ではこのくらい怒涛の勢いで物事が進んだという主観の速度なのかもしれないが。
 アヤンは自分の話を、妻との結婚式から話し始める。いくらなんでももうちょっとかいつまんで、という映画制作会社に対し、彼はここから始めないと自分の話にならないのだと言う。彼の行動は、妻や両親ら、家族の前でどういう自分でいるべきなのか、という面が多分にあったように思う。告発も、妻の(そうとは知らない)言葉に背中を押されて踏み切ったのではないだろうか。
 ただ正直なところ、アヤンの話と用意した証拠の内容で企業の責任を問うのは、かなり難しいのではないかという気もするが・・・。本作、そういう類の話ではないんだろうな。そこにリアリティの核は置いていないのだろうと思う。
 なお、医者や看護師の趣味や家族構成まで把握し、プレゼントや接待、「ちょっとした配慮」で心を開かせるアヤンの営業法は、やっぱり泥臭い営業法が一番強いのかと見ていてげんなり。こんな営業やりたくないしやられても困る気がする。まあ地域性もあるんだろうけど・・・。

『山のかなたに』

 第17回東京フィルメックスにて鑑賞。イスラエルに暮らす一家。ある日、長女イファットはアラブ人青年からの誘いを断り帰宅した。同じ日の夜、父親は新しいビジネスが上手くいかない苛立ちを、丘に向けて銃を発砲することで紛らわせる。翌日、丘でアラブ人青年の死体が発見される。監督はエラン・コリリン。
 ごく平穏に見えた一家が、ちょっとしたことから徐々にそれぞれ、危うい方向に進み始める。軍を退役した後、ねずみ講まがいの商売を始める父親、教え子との浮気に走る高校教師の母親、差別に反対しデモに打ち込むが、予想外の事態に巻き込まれる長女(他長男がいるが、概ね不在)。父親は「俺たちは悪人じゃない」と言う。一方で長女が出会ったアラブ人青年は「俺は悪いアラブ人じゃない」と言う。彼らは皆、決して悪人ではないし、悪事をはたらこうとしているわけではない。しかし、ちょっとしたはずみ、出来心で悪へ寄って行ってしまうこともあるし、そもそも無自覚に悪を選択してしまうこともある。自分は善人のはず、という思い込みこそが危ういこともある。
 アラブ人に対する偏見を持たないはずのイファットは、いざアラブ人青年に誘われると躊躇したり(とは言っても、初対面の男性に一緒に行かないかと言われたら若い女性は一般的に躊躇するだろうから、民族に対する偏見とはまた別問題にも思うが)、その罪悪感から後日わざわ亡くなった青年の自宅を訪ねて見舞金を渡そうとしたりする(イスラエルにおけるアラブ人の見られ方が垣間見えて興味深かった)。彼女は善意で行動したわけだが、それが遺族にとってどういう意味を持つかには思いが至らない。若さ故の独善と言えばそうなのだが、自分が善良であることを疑わないからこその落とし穴(その後の展開も含めて)であるような。
 前半、父親のビジネスがどうにも上手くいきそうもないあたりはユーモラスさもあるのだが、妻や娘の動向が不穏で、徐々に笑えなくなっていく。特に妻の無防備さというか、脇の甘さにはハラハラしっぱなしだった。それ絶対まずいって!という方向にどんどん行ってしまう。同年代の男性の誘いはきっぱりとかわせるのに、よりによってなぜそこに行く・・・。なんというか、年齢の割に無邪気で擦れてないんだけどそこが困っちゃう。
 

『湯を沸かすほどの熱い愛』

突然、末期がんによる余命宣告をされた双葉(宮沢りえ)。残された時間でやり残したことをやりきろうと、1年前に家出した夫・一浩(オダギリジョー)を連れ戻して稼業の銭湯を再会し、学校でいじめに遭っている娘・安澄(杉咲花)を嫌がらせに立ち向かわせる。更に、双葉には今まで家族にも言えずにいた思いがあった。監督・脚本は中野量太。
双葉の愛は大きく深い。しかし、彼女が周囲の人々に与えるものは、自身が与えられなかったものの反動、代償行為なのかもしれないと気づかされる瞬間があり、はっとする。本作、様々な所ではっとさせる、軽く予想を裏切る展開を見せる。難病で余命わずかという設定をはじめ、パーツのひとつひとつはベタもいいところなのだが、組み立て方によってユニークな作品になっている。ミスリードを誘うパーツを要所要所に置いており、特に後半の展開は、設定はベタなのに表出の仕方がベタではないというか、不思議な味わいもあった。ただ、ベタをやりつつベタ回避するというアクロバットのせいか、所々展開が強引に思われる所もあった。
特に、安澄に対する態度は、かなり問題があると思う。学校に行かせたいのは分かるが、弱っている時にああいうことを言われると本気で死にたくなる。「おかあちゃんの子だから(弱くない)」と言われても、やっぱり親子は別の人間なので母親のようにはなれないとは思わないか。説得できる言葉になっていない。また、その後更に大きな展開があるが、これもいきなり言われても!って感じで唐突過ぎると思った。もうちょっと助走が必要だろう。娘に対する愛と思いやりを十分に持つ双葉がいきなりこういう振る舞いをする、というのは不自然ではないか。双葉にとっては残り時間が限られており、自分が動ける間に何とかしないとという焦りから、強引になってしまうという理解は出来る。が、見ていてどうしても不愉快になってしまう部分があり困った。展開の意外性・キャッチーさを狙いすぎて、登場人物の心情・行動が他の部分と比べて不自然ではないかという部分がおざなりになっている気がする。
最後のオチは、ジョークと言えばジョークなのだが、個人的には臭いがすごいんじゃないかと気になってしまって、あまり感動の方には気持ちが向かなかったな・・・。面白い作品ではあるんだが。

『闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』

 違法な高金利で金を貸す闇金業者・カウカウファイナンス。社長の丑嶋馨(山田孝之)を、中学校時代の同級生・竹本優希(永山絢斗)が訪ねてくる。金を貸してほしいというが、ウシジマは断る。ホームレス状態の竹本は、住込みで働けるという「純愛の家」に入居するが、「純愛の家」は鰐戸三兄弟が仕切る貧困ビジネスだった。原作は眞鍋昌平の同名漫画。監督は山口雅俊。
 TVシリーズと交互に劇場版も3作公開されたシリーズの最終章。これまでウシジマは他のキャラクターよりも上位の位相に配置され、彼が前面に出張ってくることで物語が収束に向かうという、「ラスボス」的なキャラクターだった。ドラマは、金を借りに来る債務者たちの方にあり、ウシジマら金を貸す側の人間はむしろ狂言回し的な役割を果たしていた。
 しかし今回は、ウシジマは物語の当事者として、他のキャラクターと同じ位相に引き落とされている。彼は最早万能ではなく、むしろ物語に翻弄される立場だ。そして、シリーズ内でおそらく初めて、ウシジマに対しての「ラスボス」が配置されている。そのラスボスの設定には、なるほど!と唸った。ウシジマはいわゆるダークヒーローということになるのだろうが、作中世界ではほぼ無敵だ。そんな彼には、同じ種類の強さ、暴力やあくどい知略を駆使したやり方では見劣りしてしまう。ではどうするかというと、ウシジマにはないもので対抗してくるのだ。
 ウシジマは闇金業者として、己の欲望に目にくらんだ人たちから搾取していく。では欲望、利己愛を持たない人相手にはどう立ち回ればいいのか。徹底した利他主義で、他者への信頼を持ち続ける人には、ウシジマの理論は通用しないのだ。「ラスボス」の言うことが基本的に正論(実際問題として稼働するかどうかはともかく、倫理的に正しい)であることが、ウシジマがやっていることが違法であり、彼はダークヒーローであるかもしれないが、倫理的にはアウトな側面を持ち続けているということを浮彫にしていく。とは言え、「ラスボス」が持つものは、かつてはウシジマも持ち合わせていたものかもしれないのだ。「ラスボス」を生んだのはウシジマでもあることが明らかになる展開にはぐっときた。
 エンドロールに入る前のショットが素晴らしい。山田孝之の役者としての素晴らしさがわかる。私にとって、エンドロールへの入り方が素晴らしい映画というのがいくつかあるのだが、本作もその1つとなった。

『闇金ウシジマくん Part3』

派遣の土方仕事で食いつなぐ沢村真司(本郷奏多)は、カリスマネット長者・天生翔(浜野謙太)のセミナーに半信半疑で参加し、ネットビジネスにはまっていく。サラリーマンの加茂守(藤森慎吾)はキャバクラ嬢を落とそうとやっきになっているが、妻に内緒でお金を都合するのには限界があった。高金利で金を貸す「闇金」カウカウファイナンスの社長丑嶋(山田孝之)と債務者たちを描くシリーズ3作目。監督は山口雅俊。原作は眞鍋昌平の同名漫画。同キャスト・スタッフによるTVドラマシリーズもあるが、そちらは私は未見。
Part1,2が予想外に面白かったので今回も楽しみだったが、絵的にちょっとスケールダウンしたかなという印象。1,2の方が映画の絵って感じで、本作はTVドラマのスペシャル版て感じだった(乱闘等、動きが多かったからかもしれない)。もっとも、本作の後にFinalが控えており、エンドロール前にちゃんと次回予告もあるくらいなので、Finalありきの本作、まだ本番じゃないよ!ってことかもしれない。なおドラマ、映画ともにシリーズ作品未見でもちゃんと楽しめるので、そういう点では親切だと思う。エンドロールで「闇金は違法です」と明記しトラブル相談先も提示していることも含め親切。
サギまがいのセミナー商法をしている天生はこれモデルあの人でしょ?と突っ込みたくなるキャラの立ち方だし、沢村がのし上がっていく道筋もかなりカリカチュアされていて、(実際問題としては深刻なんだけど)深刻な怖さをあまり感じない。ラストも曖昧ではあるがどん底までは落としてこない。真剣に怖いのは、チャラいサラリーマン・加茂のパートだ。
加茂は沢村のようにたいそうな野望を持っているわけではない。彼の欲望は、可愛い女の子と遊びたい、いい服を着たい、いい車に乗りたいとしった、比較的目先のこと、即物的なものだ。しかし、その「ちょっと」を我慢することが出来ない。あと5万だけ、10万だけと、少しずつ借金がかさんでいく。セコいしショボいのだが、我慢の出来なさがふてぶてしいレベルで、借金するのが趣味なのか依存症なのか、という域に入っていく(最後の方、カウカウファイナンスの面々が気持ちひいてるもんな・・・)。この「ちょっと」を我慢できない意思の弱さが、非常に身近なものに感じられて嫌な汗をかいた。目の前の大問題から目を背けて楽な方へ走ってしまうというダメさ。沢村が見た地獄よりも、加茂の地獄の方がより生々しく感じられる人は多いのではないかと思う。そして加茂は最初から最後まで変わらないのだ。のしあがって転落する沢村よりも、この人の方がよっぽどモンスター的なのではと思った。演じる藤森がまたセルフイメージを強化するようなハマり方で、どういう自虐だよ!と突っ込みたくなるところも含め面白かった。

『ヤング・アダルト・ニューヨーク』

 8年間新作を完成させられずにいるドキュメンタリー映画作家のジョシュ(ベン・スティラー)と映画プロデューサーの妻コーネリア(ナオミ・ワッツ)は40代の夫婦。2人には子供はおらず、赤ん坊が生まれて子煩悩へと変貌した友人夫婦の姿に辟易としていた。2人はある日ジェイミー(アダム・ドライバー)とダービー(アマンダ・セイフライド)という20代のカップルと知り合う。映画監督志望のジェイミーと自家製アイスクリーム販売をしているダービーの自由な生活とクリエイティビティに、ジョシュもコーネリアも強く惹かれる。監督はノア・バームバック。
 バームバック監督って、『イカとクジラ』にしろ『フランシス・ハ』にしろ、実年齢と中身との(世間一般で「年相応」と言われるような)折り合いのつかない人たちを描いてきたが、本作も同様。ただ、実年齢云々というよりも、自分の才能を過大評価するな、いいところで見切りを付けろという側面の方が前々から強かったんじゃないかなと思えてきた。
 20代の若者と同じようなファッションやはしゃぎ方をしてもかまわないし、子供がいようがいまいがかまわない。ただ、映画を8年間完成させられない、しかも編集したら6時間になったというのは、自分の才能を高く見積もりすぎだろう。ジョシュの撮影現場や撮影したフィルムの一部が作中に出てくるが、あんまりおもしろくなさそうなのがまた辛い。そもそも、被写体である学者も8年間撮られ続けているので、いいかげんうんざりしているのだ。著名なドキュメンタリー作家であるコーネリアの実父は、ジョシュにもっとカットしろとアドバイスするが、まあ妥当なアドバイスだよ・・・。ただ、自作に思い入れがありすぎるジョシュには受け入れがたい。
 思っていたほど自分達はイケていない、時代の最先端にいるわけではないし、老眼にもなるし関節も痛くなるということを認められない人は、やっぱり多いんだろうなと思う。ただ、認められなくても、実際そうなんだから仕方ないよ・・・という身も蓋もない話で、バームバック監督はやっぱりちょっと意地が悪い。コーネリアの実父はジョシュに分相応にやれと言うが、それは(ジョシュが言うとおり)才能あって成功しているから言えることだよなぁ。
 本作に登場する人たちはジョシュを筆頭に自分大好きなので、自分に見切りをつけるというのはかなりしんどいんだろうなというのはわかる。ジェイミーの自分大好きさは相当わかりやすく、レトロでオーガニックな生活を送る自分は一味違うぜ、という自意識がはみ出しすぎていてなかなかにこそばゆい。アナログレコードはともかく、タイプライターってやりすぎだろう。ジョシュとコーネリアが彼に惹かれるのが不思議なのだが・・・(うまいこと転がされたってことか)。ただ、自分大好き故に躊躇なく他人を利用できるしそこに罪悪感も持たないのかなぁとも思った。
 本作の本筋とはちょっとずれるが、ドキュメンタリー製作における「真実」って何だろうなとふと考えた。ジョシュは一切のやらせや恣意的な編集を拒む、どちらかというと潔癖な作家性だが、それゆえに映画が完結しないしプレゼンしても補助金が得られないという側面はある。ジェイミーは「仕込み」を積極的に使って作品をドラマティックにしようとするが、それが不誠実ということには、必ずしもならない。そもそもカメラを向け、フィルムを編集した時点で作為は入る。もしジェイミーのやり方に問題があるとすれば、彼はカメラを向けることの暴力性に無頓着で、自分でその責任を背負う気もなさそうという所か(どうすれば面白くなりそうかということはわかっても、その手段によって後々どんな影響が出てくるかということは考えていなさそう)。 それが「若いってこと」なのかもしれないけど。

『幽霊と未亡人』

 特集上映「映画史上の名作13」にて鑑賞。ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督、1947年の作品。未亡人のルーシー(ジーン・ティアニー)は小さな娘と家政婦と共に、海辺の家を借り越してきた。その家には元の持ち主であるグレッグ船長(レックス・ハリソン)が憑りついていた。ルーシーは彼の横暴な言動に憤慨するが、徐々に親しくなっていく。
 幽霊は出てくるが怖くはなく、少女漫画のようなロマンチックさ。主人公であるルーシーがめそめそしておらず好ましい。義母や義姉にも毅然として立ち向かうし、グレッグに対しても驚き怯えはするものの、軽妙な切り替えしと気の強さを見せる。ロマンスではあるが、全般的にユーモラスさがあって楽しかった。
 グレッグとルーシーは惹かれあうが、グレッグがルーシーを守るというのではなく、彼女が(精神的にも経済的にも)自立できるように支え導く。対等というにはちょっと「教える」感がありすぎかなという気がしたが、船長の自伝をルーシーに口述筆記させても「文章は君の中から出てきたものだ」と彼女に自らの才能に気付かせ励ます様にはなかなかぐっとくる(ずいぶん中途半端な形での励ましだなとは思ったが)。2人がお互いずけずけとものを言い合うところがいい。
 それだけに、ルーシーがいわゆる「女の弱さ」とか言われがちなふらつき方を見せてしまう後半は残念だった。当時としてはこういう流れの方が自然だったのかもしれないけど、この人唐突に出てきたな!って思っちゃったので。

『約束の地』

 1882年。アルゼンチン政府軍による先住民の掃討作戦の為、パタゴニアに派遣されたデンマーク技師のディネンセン大尉(ヴィゴ・モーテンセン)。ある日、同伴していた一人娘のインゲボルグが、若い兵隊と共に姿を消してしまう。ディネンセンは娘を必死に探し、やがて馬も銃も失い荒野をさまよう。監督はリサンドロ・アロンソ。モーテンセンは主演の他、製作と音楽も手掛けている。ほんと多才だなー。そしてわざわざ製作に参加しているのが本作のような作品だというところに、彼の個性を感じる。なんというか、人間のアイデンティティが揺らぐような話、異界に足を踏み入れるような話に惹かれる人なんじゃないかと思う。
 澄んだ、どこか枯れた色合いに魅力がある。特にインゲボルグのドレスの青色に透明感があってとても美しい。撮影監督のティモ・サルミネンはアキ・カウリスマキ作品を多く手掛けている人だそうで、なるほどと納得。モノクロに着色したような色合いが、四隅を丸く切り取った変形スタンダード画面と相性がいい。ショットの一つ一つに、カードや絵葉書のような「切り取られた」印象がより強くなっている。ガラパゴスの、見慣れていない人にとっては地の果てのように見える風景の効果もあって、絵の引力が強い。何しろファーストショットの画面奥にトドやらアシカ(らしきもの)やらが普通に映ってるから、それだけで何かとんでもないところに来ちゃったな!という気分が強まる。いきなり異世界っぽいのだ。
 しかしディネンセンはここから更に、異界へと入っていく。娘を追って奥地へ進んで行けば行くほど、この世の果てのような異世界感が強くなる。時間、ついには空間までも越えてしまったように見えるのだ。
 ディネンセンとインゲボルグは別たれたままだ。ディネンセンは娘を愛し、インゲボルグもまた父を愛しているのだろうが、ディネンセンが娘をよく理解しているというわけではなく、冒頭の会話からして少しすれ違っている気配がする。インゲボルグはディネンセンとは別の世界の住人であり、どの世界においてもお互いに不在であるように思えた。

『雪の轍』

 カッパドキアでホテルを経営する元俳優のアイドゥン(ハルク・ビルギナー)。地元の地主の家の生まれで、裕福な暮らしをしている。若い妻のニハルは慈善活動に打ち込み、離婚したアイドゥンの妹ネジラも一緒に暮らしている。アイドゥンが家を貸しているイスマイルは生活に困窮し、家賃を滞納している。その息子イリヤスはアイドゥンが乗る車に石を投げつけ、あわや事故になりかける。監督はヌリ・ビルゲ・ジェイラン。チェーホフのいくつかの作品をモチーフにしているそうだ。
 作中、対話の占める分量がかなり高く、しかもそれぞれが自分の倫理やら正義やらを語り、お互いに非難しあいがちという暑苦しいもの。チェーホフが底にあるからかどうかはわからないが、舞台劇っぽい語りのありかただなと思った。どの人もこれみよがしに話し始めるからかもしれないが・・・アイドゥンが元俳優というのも、ともするとわざとらしい語りをついやってしまう、というところからきた設定なのかな。
 良心と倫理、善と悪についての問答が続くが、白熱しても空しい。これが正解という答えが出るものではないからだ。加えて、アイドゥンの言うことは、その時々によって、自分に都合のいいものにすぎない。彼には確固とした自分の考えや立ち位置はないように見える。彼がニハルに対してもネジラに対しても、うっすらとモラハラ・パワハラめいた振る舞いを続けるのは、そうやって上に立つことで自分の立ち位置を固めようとしているからのように見えた。ホテルの客や地元住民に対する態度からしても、彼はとにかく相手に対して影響を与えたい、相手を支配下に置きたい願望が強いようだ。その影響力は、知識・経験の差であったり、金銭の差であったりする。特にニハルに対する、「お前は何もわかってないんだから私に任せておけば安心」的な物言いは、にこやかに相手の力を削ごうとするもので腹立たしい。それはニハルの誇りを傷つけることなのに。
 そのニハルは、慈善活動に打ち込むことで自尊心を保とうとする。が、彼女も相手との差を使って、相手の自尊心を傷つけることをしてしまう。彼女はよかれと思ってやるわけだが、はたから見たら不遜なことでもあるのだ。
 言葉のやりとりに注意がいきがちだが、映画としての絵の強度もすごく高い。カッパドキアの風景に強力な魅力があると言うのあるのだが、ひとつひとつのショットがばっちり決まりすぎているくらいに決まっている。本作、3時間越えの長さで正直きついなと思ったのだが、ダレはしないのは映像として完成度が高いからだと思う。

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