3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名ま行

『娘よ』

 パキスタン、インド、中国の国境付近にそびえたつカラコルム山脈の麓に暮らすアッララキ(サミア・ムムターズ)と10歳の娘ザイナブ(サレア・アーレフ)。アッララキの夫は部族の族長だが、敵対する部族との手打ちの証として、ザイナブを先方の老族長に嫁がせることを決める。アララッキはザイナブを守る為、部族の掟を破り村からの脱出を図る。監督はアフィア・ナサニエル。
  日本では初めて公開されるパキスタン映画だそうだ。素朴な作品かと思っていたら、思いのほかエンターテイメント度が高い。映画タイトルの出し方や、ファーストショット等からも、「映画」をやるぞ!という意気込みみたいなものが感じられた。ローカルでありつつ、エンターテイメントとして王道を目指している感じ。いかにして逃げるかというサスペンスとして見る側を引きつけ、勢いがある。「逃げる」という設定って汎用性があるなぁと妙に感心した。日本やハリウッド映画ではあまり見慣れない風景(都市部以外はとにかくだだっ広くて、ロングショットが映える)なので、ロードムービーとしても面白い。
 アララッキとザイナブのやりとりが、親子の細やかな情愛の感じられるものだった。ザイナブが学校で習った英語を、アララッキに教える様が印象に残る。アララッキが、TVドラマの時間だからそっちを見よう!と言うあたりからも、親子の距離の近さ、親密さが窺える。ザイナブは「子供」として可愛がられているのだ。
 ザイナブの言動が本当に子供としてのもので、結婚がどういうものなのかも、自分が置かれた状況もよくわかっていないということが、随所で示唆される。冒頭、子供の作り方についての友人とのやりとりや、アッララキにここで待ちなさいと言われたのに子犬を追いかけて勝手に動き回ってしまう様は、正に子供。親から引き離されて結婚なんて無理だし可愛そうと思わせるのと同時に、現状のよくわかっていなさにイラっとさせるあたりも、実に子供らしい。母娘の逃走に協力してくれるトラック運転手のソハイル(モヒブ・ミルザー)とのやり取りも、親戚の叔父さんや隣のお兄さんという感じで、単純に「子供」であることが強調されている。子供を結婚させることの無体さが際立ち、また、アッララキが捨て身で逃亡を図る理由も納得がいく。加えて、ソハイルに好意を示されても、アッララキは子供のことで手一杯でそれどころじゃないよなぁと腑に落ちもするのだ。
  部族間の闘争により殺人が起き、殺した人数はそっちの方が多いから不公平だ!という目には目をの価値観だったり、娘を差し出すことで調停を図ったりという、非常に前近代的な世界の話なのだが、さらっとスマートフォンが登場して不意を突かれる。現代でも、こういう世界があるところにはあるのだとはっとした。

『マイ・ビューティフル・ガーデン』

 毎日自分のルールに則った規則正しい生活をしているベラ・ブラウン(ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ)は、生き物が苦手。庭付きのアパートに住んでいるが植物の手入れは出来ず庭は荒れ放題だった。庭を愛する隣人のアルフィー・スティーヴンソン(トム・ウィルキンソン)は荒れたベラの庭が気に入らない。ある日、不動産会社から庭をきれいにしなければ退去させると言い渡されたベラは、アルフィーに助けを求める。監督はサイモン・アバウド。
 とても可愛らしく愛らしい作品。いわゆる名作秀作というわけではないが、ほっとする。アルフィーの庭が美しく(室内の観葉植物もいい)、ベラと同じく庭仕事興味がない私も楽しく見た。また、イギリス映画なのにと言っては語弊があるが、食事がちゃんとヘルシーそうかつおいしそう!アルフィーに雇われていたものの喧嘩別れをしてベラに雇われるシェフ・ヴァーノン(アンドリュー・スコット)が作る料理がカラフルで食べやすそう。ベラのいつもの食事は缶詰なのだが、徐々にヴァーノンの料理を食べるようになる様も可愛らしい。
 ベラはちょっと発達障害ぽい人で、『ザ・コンサルタント』のベン・アフレックを思い出した。決まった時間に決まった行動をしないと落ち着かず、料理の盛り付けも左右対称、同じ形の洋服を複数用意し着まわす等、行動パターンには類似が多い。もっとも、ベラは他人とのコミュニケーションは意外とちゃんと取れているし、冗談も言えるし、自分で小説を書くような創造性もある。ちょっと風変わりで、その風変りな部分が自分自身を窮屈にしていると言った方がいいかもしれない。
 庭造りの中で土や植物「無秩序」と接するうち、彼女が思う秩序とはまた違った形の秩序や美があることにベラは気付き、少しずつ心も行動もリラックスしていく。前述した食事の変化もその一つだが、家を出るときの一連の動作の変化も印象的だった。彼女は玄関がちゃんと施錠されたか心配するあまり、チェックしすぎて毎日仕事に遅刻してしまうのだが、ある時ぱっと飛び出ていく。理由も行動も他愛ないものなのだが、彼女の中では大きな変化なのではっとする。
 おとぎ話的な作品ではあるが、出演者が皆チャーミングで(基本悪人がいないし)気分よく見られた。ベラ役のフィンドレイは、ロセッティの女性像のような風貌で、レトロな服装が良く似合う。ちなみに舞台は現代なのだが、ベラの服装が妙にレトロなのだ。

『ムーンライト』

 マイアミの貧困地域に暮らすシャロンは、小柄で内気なことから学校ではいじめられていた。母ポーラ(ナオミ・ハリス)は仕事で不在がちなことに加え麻薬の常習者で、子供に構う余力がない。シャロンを気に掛ける大人は麻薬ディーラーのフアン(マハーシャラ・アリ)だけだった。10代になったシャロン(アシュトン・サンダース)は親友のケヴィン(ジャハール・ジェローム)に強い思いを抱くようになるが、誰にも言えずにいた。監督はバリー・ジェンキンス。第89回アカデミー賞作品賞、脚色賞、助演男優賞を受賞。
 シャロンの3つの時代を3人の俳優が演じる。小学生くらいの「リトル」、ティーンエイジャーの「シャロン」、大人の「ブラック」(トレバンテ・ローズ)、どれも素晴らしかった。3人は顔かたちがすごく似ているというわけではないのだが、流れの中で見るとちゃんと同一人物に見える。シャロンからブラックへの飛躍がすごいのだが、自衛の為にこうならざるを得なかったということが分かるので切ない。出演している俳優は総じて好演でとてもよかった。
様々な愛を目にするラブストーリーで、誰かを思いやる態度、誠実さの表出の仕方が素晴らしい。シャロンの3つの時代は、彼が(おそらく数少ない)愛を他者から受けた部分を切り取ったものではないかと思う。フアンは大人の男性として、父親のような愛をシャロンに向ける。彼に食事をさせ、海に連れ出して泳ぎ方を教える。学校にも家庭にも居場所がないシャロンにとっての避難所のようになってくれるのだ。シャロンが「オカマって何?僕もそうなの?」と質問した時の答え方は、子供に対する誠実さのある真剣、かつ非常に配慮されたものだと思う。しかし、フアンの仕事は麻薬のディーラーであり、シャロンの母親もフアンが売る麻薬によって蝕まれていく。この点のみ、フアンはシャロンを裏切っていると言えるだろう。シャロンに対する思いやりは、罪悪感からくるようにも見えるのだ。シャロンが自分内で納得してしまったことがわかる別れのシーンが切なかった。
また、ケヴィンのシャロンに対する態度も愛(友愛であれ性愛であれ)があふれるものだ。ケヴィンは社交的で女の子にもモテる、シャロンとは別のグループの生徒。それでも不良グループに絡まれるシャロンをいつも気に掛けている。彼の肝心な所をはずさない距離感は、シャロンにとって得難いものだ。だからこそ、ある事件の顛末が痛ましい。シャロンにとってはケヴィンを守る為でもあるが、ケヴィンにとってはシャロンへの裏切りになる。シャロンは2度、愛した人に裏切られるわけだ。
シャロンはケヴィンと成人後に再会する。シャロンの風貌にも振舞にもかつての弱弱しさはないが、ケヴィンの前ではかつての繊細な少年の顔を見せてしまう。その変わらない部分を、ケヴィンがちゃんと見つけていることにたまらなくなった。2人の言葉の選び方、動作の選び方の慎重さに、時間の流れとお互いの中に残り続けるものとを感じる。

『未来よ、こんにちは』

 高校の哲学教師をしつつ、自著の執筆や教科書の編集にも携わっているナタリー(イザベル・ユペール)は、同じく教師の夫と暮らしている。2人の子供は独立し、仕事も充実していたが、夫から離婚を切り出される。また年老いた母の依存が強まり、施設に入れざるを得なくなる。監督はミア・ハンセン=ラブ。
 夫に離婚を切り出されたナタリーはびっくりするが、泣いたり騒いだりはしない。ただ、「死ぬまで一緒にいると思っていたのに」とつぶやく。離婚は彼女にとってショックなことではあるが、それはそれとして仕事も生活も続けていくという姿勢が好ましい。ユペールの佇まいがすごくいいというのもあるのだが、凹むことがあっても、時間がたてばちゃんと大丈夫になるし、自分を失うほどには心を乱されない人というのは、見ていて安心する。
 ナタリーは夫との離婚は冷静に乗り切ったように見えるが、それ以上に母親の老いに心を乱される。これは見ていて身につまされた。どちらが大変かで言ったら、母親の方が夫(元夫)より厄介だ。感情の揺さぶられ方も無意識に縛り付けられている度合いも、夫の比ではない。疎ましくもあるがやはり愛しているし愛されたい、そして母親が今の自分を作ったという自覚もある。だからこそ面倒なのだ。ナタリーと母親の関係は、若い頃からこんな調子だったんだろうと思わせるものでげんなりもするが、母が娘を誇りに思っていたこともよくわかるので、そこがやるせない。
 冒頭、ナタリーが出勤すると、高校でデモが起きており校舎に入れない。デモに参加している若者たちにこんな時に授業をやるのかとなじられると、彼女は「私は教師だから授業をする権利がある」と言い、授業を続ける。生徒に政治的スタンスを尋ねられても、授業でそれは話さないと言う。ナタリーがどのような姿勢で仕事をしているのかわかるエピソードが随所にあった。元教え子に、先生は哲学者としての思想と行動が一致していないと指摘されると、おそらく痛い所を突かれたという気持ちもあるにはあるのだろうが、「生徒が自分で考えられるようにするのが私の仕事。あなたに関しては成功した」と返す。彼女は学者である以前に気持ちの上では教師で、自分の仕事を愛している。こういう姿勢でいられる人は羨ましい。出版コンサルタントとのやりとりから、彼女の仕事のあり方も、時代の中で変わりつつあることも垣間見られるのだが、彼女を慕う生徒はこれからも出てくるだろうし、彼女が生徒や元生徒を家に招くこともあるんだろうなと。
 所で、エリック・ロメール監督の『緑の光線』の中で、ヴァカンスを一人ぼっちで過ごすなんて良くないと友人たちが主人公に世話を焼いてくれるが、フランスでは女性がヴァカンスを一人で過ごすことに、あまりいいイメージがないのかな?本作でも、元教え子はおそらくナタリーのことを心配して山に誘っているんだろうし。『緑の光線』の主人公は若い女性で、ナタリーは壮年であるという違いはあるが。

『モアナと伝説の海』

 モトゥヌイ島で生まれ育った少女モアナ(アウリー・クラバーリョ)は、いずれは村長である父親の跡を継ぐよう教えられ、外洋に出ることは禁じられてきた。ある時、島の作物に異変が起き、周囲の海から魚が姿を消した。かつて世界を生んだ女神テ・フィティの心が、伝説の英雄と言われたマウイ(ドウェイン・ジョンソン)に奪われて闇が生まれ1000年が経つ、その闇の影響だとモアナの祖母は教える。モアナはマウイを探し出し、テ・フィティの心を元に戻そうと、父親の反対を押し切り海に出る。監督はジョン・マスカー&ロン・クレメンツ。
 2D字幕で鑑賞。アニメーションとしての質は当然高く安心して見られる。マウイの入れ墨がちょっと懐かしいカートゥーンのように動き回る演出は素晴らしかった。また、海の底の世界がなぜかギラギラにドラッギーで、これはこれで愉快。ロード・オブ・ザ・リングの竜の巣を思い出してしまった・・・。また『マッドマックス 怒りのデスロード』へのオマージュがあると聞いていたが、なるほどこれか!と笑ってしまった。確かにオマージュ捧げたくなる、というか一度やってみたくなるシチュエーションだもんなぁ。
 マッドマックスオマージュがあるくらいなので、モアナはいわゆる「プリンセス」的な造形の少女ではない。ラプンツェルもアナもエルサも今までのプリンセスとはちょっと違う方向付けだったが、本作では更にその路線が進められ、むしろアンチプリンセス的な含みが持たされているように思う。モアナ自身「プリンセスではない(村長の娘だから)」と明言するし、ディズニープリンセスの「お約束」を揶揄するようなジョークもある。特にマスコット的動物の可愛くなさは、これはグッズを売る気がないということなのだろうかと心配になるくらい。
 モアナは早い段階で、次期村長になることが決められているが、それを嫌がっているわけではなく、むしろ積極的に引き受けようとしている。しかし同時に、海に惹きつけられてやまない。村も家族も愛しているし自分の仕事への意欲もあるが、海へ憧れはそれとは別物として、彼女を掻き立てていく。この造形がとてもいいなと思った。現状に不満足というわけではないが、どうしても他の世界に心が向かってしまう人というのは、一定数いるだろうし、周囲からは理解されにくいだろうなと思う。
 また、モアナは不得意なこともあるが出来ることも多い(村での仕事はよくこなしているみたいだし、学習意欲も高い)。加えて戦闘力もあるところも、行動的なヒロインとしてはポイントが高い。マウイとの関係に、性的な要素が薄く恋愛関係に発展しなさそうなところもいい。マウイはモアナに船を操る技術を教えるが、立場は対等であくまで「相棒」的だ。マウイはやはり、モアナとは別の世界の人で時々ひょこっと姿を現す存在なんじゃないかと思う。
 

『マリアンヌ』

 1942年、秘密諜報員のマックス(ブラッド・ピット)はカサブランカに潜入。現地でフランスのレジスタンスであるマリアンヌ(マリオン・コティヤール)と夫婦を装ってあるミッションを遂行する。2人は恋に落ち結婚、ロンドンで暮らすようになり、娘も生まれた。しかしマリアンヌにある疑惑がかけられる。監督はロバート・ゼメキス。
 まさかここまで古めかしいメロドラマのルックスをしているとは。それがいい・悪いというのではなく、意外だった。本作、最初の舞台が「カサブランカ」なあたりにしろ主演2人の選出にしろ、往年のハリウッドのスター映画のオマージュという側面を持っていると思うのだが、そのスター感、クラシカルな佇まいと脚本と監督の作風とが、いまひとつマッチしていないように思う。私はゼメキス監督作にはあまり明るくないのであくまでそういう印象だということだが・・・(ゼメキスに対してはずっと苦手意識があったが『フライト』で和解いたしました)。
 妻は自分が見てきた妻のままなのかという疑いを夫が猜疑心に苛まれつつ晴らそうとする話なのだが、その疑いが出てくるタイミングが大分遅い。疑惑が生じてからも、マックスの右往左往が続きいまひとつ起伏に欠ける。マリアンヌが、自分が思ってきたような彼女である、愛して結婚したような彼女であると果たして断言できるのか、というサスペンスがあるはずなのだが、その揺らぎみたいなものもぼんやりとしている。ブラッド・ピットがぼんやりと胡乱な顔をしているというのも(そういう演出なのだと思うが)一因だが、ストーリーテリングの焦点が合っていないんじゃないかなという気がした。本来、マリアンヌが何者かという部分より、マックスが何を信じ何に賭けるかという、彼の内面の問題の方が主になる物語なのではないか。
 物語はほぼ一貫してマックスの視点で進む。マリアンヌは美しく快活で機転がきく、魅力的な人だ。マックスはあまり社交的ではなく、仕事上「夫婦」としてパーティーに出るのも気が重そう。人の輪の中で魅力を発揮するマリアンヌとは対称的だが、彼女の人当たりの良さと如才なさは彼にはないもので、いいコンビなのだ。彼女は任務中でも「感情には嘘がない」と言う。また出産時には「あなたが見ている私が私自身」とマックスに話す。終始、マックスの前で彼女がどういう人だったのか、彼女のこの言葉、彼女に対して自分が感じたことをマックスが信じ続けることができるのかという話なのだ。
 ちょっと冗長に感じたが、ああ映画だな!とはっとするシーンがいくつかあった(これは監督であるゼメキスの趣味か)。冒頭、マックスの足が映りこむところと、結婚式から出産への場面転換はドラマティック。この2か所で、すごく映画見たなという気分になった。

『未来を花束にして』

 1912年、ロンドンの洗濯工場で働くモード(キャリー・マリガン)は夫サニー(ベン・ウィショー)と幼い息子と暮らしていた。女性参政権運動活動家の同僚の代理として、公聴会で証言したモードは、自分達が置かれている環境に疑問を持ち始める。WSPU(女性社会政治同盟)のリーダー、エメリン・バンクハースト(メリル・ストリープ)の演説を聞いたモードは、活動に加わるようになる。監督はサラ・ガブロン。
 モードは最初、過激な政治活動には同意できず、公聴会でも渡された文面を読むだけのつもりだった。しかし、名前を名乗り話し始めると、彼女自身の生い立ちや暮らし、彼女の見聞きしてきたものが口からあふれ出す。妻でも母でも使い捨てられる労働力でもなく、自分はモードという1人の人間として語れるということに気付くシーンでもあったと思う。
 舞台となった当時、多くの女性には暴力をふるわれたり勝手に体を触られたりしたら怒って抵抗していいのだ、自分の体を他人に勝手に使わせてはならないのだという発想・概念が希薄だったのだろう(モードの職場では工場長がセクハラ、パワハラをしておりモードも少女時代に被害にあっていたことが示唆されるが、それに対して何か反抗するわけではない)。男性側は言うまでもなく、そういう概念は持っていないだろう。バンクハーストたちが女性の権利を唱えても、今までそういう概念がなかったものを提示しているので、話が通じないしそもそも相手に聞く気がない。法律の範疇で活動できるにこしたことはないが、法律自体が女性の権利という概念がない状態で作られたものであり、法律が守る人間の中に彼女らは往々にして含まれない。
 WSPUの運動には窓ガラスを割ったりポストを爆破したりという暴力的なものもあるのだが、聞く気がない相手に話を聞かせるにはガラスを割って暴動を起こし、怒りを示すくらいしか出来ない。まずは自分達にもそれぞれ発したい言葉がある、考えがあるとわからせる所から始めないと駄目なのか!とげんなりするが、それをやり続けた人たちがいるから、今の私たちの自由と権利があるわけだが。
 サニーはモードのことも息子のことも愛しているが、モードがWSPUの活動を始め自分の考えを隠さなくなると、彼女を追い出し息子を取りあげる(当時、離婚した場合女性に親権はなかったようだ)。モードがサニーの考える妻・母ではない面を見せることが、彼には我慢できないのだ。おそらく当時の平均的な男性像なのだろうと思うが、見ていると憎しみがつのるね・・・。

『マグニフィセント・セブン』

 利益の為なら手段を選ばない悪漢バーソロミュー・ボーグ(ピーター・サースガード)に支配されたローズ・クリークの町。夫をボーグに殺されたエマ・カレン(ヘイリー・ベネット)は賞金稼ぎのサム(デンゼル・ワシントン)に用心棒を依頼する。サムが集めた仲間は、ギャンブラーのジョシュ(クリス・プラット)、スナイパーのグッドナイト(イーサン・ホーク)、グッドナイトの相棒で暗殺者のビリー(イ・ビョンホン)、ハンターのジャック(ヴィンセント・ドノフリオ)、流れ者のメキシコ人ヴァスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)、アメリカ先住民族の戦士レッドハーベスト(マーティン・センズメアー)。7人のガンマンたちは町を守る為、多勢に無勢の闘いに挑む。監督はアントワーン・フークア。
 『七人の侍』『荒野の七人』のリメイクだが、黒人、更に東洋人やメキシコ人、フランス系カナダ人、ネイティブアメリカン等民族が入り混じっている所は現代的だし、今リメイクするならこうだろうな、という(歴史的考証は別として)納得感はある。サムがリーダーであったり、レッドハーベストを意外と皆フラットに受け入れている所など、あまりシビアな時代考証はしないからね、そういう作品だからね、という目配せのようでもある。また、グッドナイトはビリーに対して「白人のルールを教えてやった」と言うが、彼とのパートナーシップはフェアであるように見えるし親密そうでもある。サムが馬に乗って町に入った時に町民が一瞬固まったり、酒場の人達があからさまに嫌な顔をしたりというシーンもあるのだが(南北戦争の話も出てくるし)、ひどく迫害される描写はない。
 脚本はそんなに精緻ではない、というかとにかくキャラクターを揃えて後は銃撃、爆破、銃撃で転がしていく感じの大雑把さ。しかし主演の7人が出そろった様を見ると、もうこれでいいんだなという気分になってくる。特にデンゼル・ワシントンのデンゼル・ワシントン力がさく裂しているというか、「悪い奴絶対殺すマン」としての説得力がありすぎる。全然死にそうな感じがしないので最早卑怯なレベルだし、(弱者の側に立つ)正義のアイコン的である。彼にボーグを倒す個人的な理由がある所は『七人の侍』や『荒野の七人』と異なるが、デンゼル・ワシントンが演じたからこの理由が付随してきたようにも思う。「やった方は忘れてもやられた側は絶対忘れない、許されると思うな」というスタンスに説得力があるのだ。
 他の出演者でも、イ・ビョンホン演じるビリーのナイフを使ったアクションがやたらとかっこよかったり、相棒であるグッドナイトの弱弱しさと哀愁がイーサン・ホークのお家芸的だったり、ドノフリオ演じるジャックのちょっとクレイジーな強さだが女性に対しては紳士的(おそらくこの7人の中で最も紳士的)な所がチャーミングだったりと、キャラクターと俳優のはめ込み方がよかった。そしてとにかく全員セクシーである。いやーフークアいい趣味してるな!撮影楽しかっただろうな!ストーリーや全体の構成は正直大分ゆるいと思うが、出演者が魅力的なのと、抗争シーンにガンマンの対決というよりも戦争映画的な迫力があって、許せてしまう。
 何より、町を代表して戦いに挑むエマの佇まいがいい。『七人の侍』でも『荒野の七人』でも特定の女性が存在感を示すことはなかったので、これも今のリメイクならではの演出か。最後も、これは彼女の、彼女の町の闘いなのだと明確に示すものだったと思う。

『皆さん、ごきげんよう』

 パリのアパート管理人(リュフュ)は古書を対価に武器の販売もしている。悪友の人類学者(アミラン・アミラナシビリ)は頭蓋骨収集が趣味。アパートにはローラースケートを履いてスリをしている姉妹や、県かばかりしている楽器職人夫婦がいた。近所にはのぞき見が趣味の警察署長(マチアス・ルング)やホームレスたちもいる。ホームレスを追いだす取り締まりにデモで対抗したり、不思議な庭に迷い込んだりと日常は時ににぎやかに、時にしんみりと続く。監督はオタール・イオセリアーニ。
 冒頭、貴族がギロチンにかけられる様を街の女性達が見物している。どうもフランス革命時らしい。そして現代の戦争に場面は移り、兵隊たちが村の家々から略奪していく。一切合財、片っ端から持ち去っていき、機械的ですらある。撃ち合いや爆撃はあり、爆炎などはそれなりに生々しいが、兵士の倒れ方はわざとらしく血も出ず、ちょっと舞台的風ですらある。これどういう話なの?と思っているうちに、現代のパリの住民たちのエピソードへと切り替わる。パリでのエピソードは概ねユーモラスで長閑な群像劇なのだが、時々不条理な力が襲いかかって彼らを脅かしたりもする。ホームレスの一斉摘発もそうだし、警察署長が何かと威信を振りかざすのもそうだ。アパート管理人たちはこういった「権威」による理不尽に強く反発する。彼らにとっては、権力により秩序が保たれることよりも、混沌としていても自由と平等があることの方が大切なのだ。時に良識を無視したりもするが、それぞれが好き勝手に生きていて、かつゆるい共同体みたいな雰囲気が出来ているところがいい。
 おじいちゃん2人のいちゃいちゃ感、ぶーぶーいいつつも連れだって出かけるケンカップル感が微笑ましいが、この人たちはもうこの場から去りゆく存在なのかなという寂しい後味があった。彼らの昔馴染みらしい裕福な女性も、遺言状を用意し自分の人生を店じまいしようとしている。その遺言状を届けられたアパート管理人は、破り捨ててしまうのだが。きれいな退場なんてして、させてたまるかという感じ。彼が生きるのは今ここ以外にない。だから、極楽浄土的な美しい庭園に心惹かれつつも、立ち去るのだ。

『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』

 大学に勤めるマギー(グレタ・ガーウィグ)は既婚の文化人類学者ジョン(イーサン・ホーク)と恋に落ちる。ジョンは妻ジョーゼット(ジュリアン・ムーア)と離婚し、マギーと再婚。ジョンとジョーゼットの子供達は双方で面倒を見ることになった。ジョンとの間に子供が生まれ幸せを満喫していたマギーだが、大学を辞めて小説家を目指すジョンと暮らすうち、将来に不安を抱くようになる。子供の世話を通じてジョーゼットと親しくなったマギーは、彼女がまだジョンを愛していると知り、夫と前妻に返すという計画を思いつく。監督はレベッカ・ミラー。
 マギーにしろジョンにしろジョーゼットにしろ、我儘と言えば我儘に見えるかもしれないが、迷走はするものの最終的には自分のやりたいようにやる、自分本位の人生を生きることにするという所がとても良かった。自分本位というとちょっと語弊があるかもしれないけど、自分の人生の主役は自分である、というところがしっかりしているので見ていて安心できるのだ。あまり常識とされていることとか世間体とかを気にしないところがいい。大事なのは自分がどう考えているかだ。
 マギーはジョーゼットに言わせると「邪気がない」。悪意や損得はあまり感じられない人なのだ。しかし同時に、独自の合理性に基づき行動しているように見えるので、ともすると利己的と思われそうでもある。自分にとっての最適解が他の人にも適応するとは限らないことをたまに忘れてしまう人という感じなので、だから周囲が怒ったり呆れられたりするんだろうけど、心底嫌われることはなさそうだ。何か、人間として魅力的な所があるし、本人はとても真面目なのだ。それはジョーゼットに関しても同様だ。ジョーゼットの方がよりわかりやすく我儘かもしれないが。
 一方、ジョンの自分の都合のいいように解釈する傾向と、人のせいにしがちな傾向にはイラっとする。ジョーゼットと暮らしていた頃は彼女や子供の世話が重石になっていたが、何でもよくできるマギーと暮らし始めると、甘えが一気に出てくる。そりゃあ別れたくもなるな・・・。甘ったれではあるが、実は世話をする立場になっている方が物事がうまく回るタイプの人なんだろうな。イーサン・ホークは私にとってイラっとするタイプの男性を演じることが多い(というか殆どそう)のだが、本作も同様だった。

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