3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画題名ま行

『緑の夜』

 母国の中国から韓国へ渡ってきた、ジン・シャ(ファン・ビンビン)は、韓国人の夫がいるものの抑圧され息苦しさを感じている。ある日、職場である空港の安検査場で緑色の髪の女(イ・ジュヨン)と知り合った彼女は、ふとしたことから非合法的な取引の世界に足を踏み入れることになる。監督はハン・シュアイ。
 女性2人が共に逃避行を始めるまでのアバンはスリリングで勢いがありなかなか良いのだが、その後の中盤以降がぱっとしない。2人の逃避行は、なぜか元いた所に戻ってしまうような展開を見せる。危機に陥ったジン・シャは夫を頼るが、夫は敬虔なクリスチャンとして振舞う一方で、妻に対しては非常に支配的だ。ジン・シャが夫から性的な暴力を受けるシーンは結構きつい。本編前に「性的な暴力描写があります」という通知がされていたが、これは確かにトラウマよみがえる人もいそうなので通知した方がいい(というかチケット買う前の段階でしてくれた方がいいのでは…)かもしれない。
 一方で緑の髪の女も、恋人の指示の元で薬物の密輸を続けており、なかなか彼との繋がりを切ることができない。2人は自由を手に入れる為に賭けに出るのだが、何だかんだで男たちとの繋がりを断つことができないのだ。これがどうにももどかしかった。ラストも、女性が自由になるのにこのやり方というのは、少々感覚が古いように思う。今だったらもっと別のやり方も見せられるように思う。一見すると女性同士の連帯、ガールズフッドの物語のようだが、実際はそうでもなかった。
 感覚の古さという点では、ジン・シャたちが財布とホテルのキーをくすねた男性が実はドラッグクイーンないしはトランス女性だったらしいという所も、後味が良くない。社会の隅っこに追いやられがちな者同士で食い合わなくてもなぁと。「女になりたいなんて考えられない」というのも、そういう問題じゃないと思うんだけど…。

テルマ&ルイーズ
ハーヴェイ・カイテル
2019-07-01


恋する惑星 (字幕版)
ヴァレリー・チョウ
2020-08-31


『窓ぎわのトットちゃん』

 小学1年生のトットちゃん(大野りりあな)は、おしゃべりで落ち着きがないことを理由に、学校を退学させられてしまう。困った両親は独特の教育をしているというトモエ学園にトットちゃんを転校させる。小林校長先生(役所広司)が指導する自由な校風のもとで、トットちゃんはのびのびと成長していく。原作は黒柳徹子の同名エッセイ。監督は八鍬新之介。
 子供の動きのかわいらしさと不器用さ、どうかするとすごく不細工になったりする描写の細やかさ、ユニークさというアニメーション表現と、トットちゃんの想像世界を描くアートアニメーションパートのどちらもクオリティが高く、アニメーション好きは必見だろう。かわいいことはかわいいが、キャラクターデザインを含めキャッチーなかわいさにしすぎていない所に好感を持った。正しい児童向けアニメという趣だが、今の児童にキャッチーに刺さるかというとちょっと微妙な所はある。むしろ大人とこれから大人になる人たち(それを児童というわけだが…)に向けて作られたと言った方がいいのか。子供の頃に背景がよくわからないまま見て、後々もう一度見てああそういうことだったのかと見方が更新される、みたいな鑑賞のされ方になるといいなあと思える作品。
 物語は概ねトットちゃんの視点で進むので、基本的には子供の世界が描かれる。トットちゃんは発想が自由でおしゃべり、自分の世界をしっかりと持っている子供だ。それが一般的な学校教育にははまらない。はまらなさを両親は心配するのだが、小林先生は肯定する。小林先生が初対面のトットちゃんの話をじっと聞くシーンは、彼が子供を一人の人間として尊重している様が現れているようで、トットちゃんが先生を信頼するようになるのも納得できる。また、トットちゃんがくみ取りトイレに落とした財布を探す際、小林先生は「ちゃんと元に戻すんだぞ」とだけ言って彼女の気が済むまでやらせておく。気が済んだトットちゃんは納得して財布を諦めるのだが、トモエ学園の教育方針がよく表れているエピソードだったと思う。大人としては早い時点で止めさせた方が多分楽(何しろ臭いし汚くなるので原状回復は一苦労だろう)なのだが、そうはしない。また「尻尾」のエピソードも小林先生の教育者としての指針がはっきり示されていた。トモエ学園での授業そのものの描写にはそれほど時間が割かれていないのだが、こういう部分で学園の核みたいなものはわかるように提示されている。そして、その核になる部分が当時の日本の社会が徐々に向かっている方向とは相容れないものなのだろうということも察せられるのだ。
 物語はトットちゃんが小学生の時分の出来事だが、彼女がトモエ学園に編入した時点で、第二次世界大戦は既に始まっている。この頃は東京に戦争の影はあまり見えない。国語の授業で使う文章にその影が見える程度だが。しかし昭和16年~19年くらいの間で急激に戦争下の世相になっていく。この変化の見せ方がとても上手い。トットちゃんには大人の世界のことはあまりわからないわけだが、子供たちが描く絵や子供たちの発言にも影響が出てくるのだ。軍国教育とは無縁なトモエ学園でもこうなるかと、子供の世界と大人の世界が当然地続きであることを改めて感じた。トットちゃんの両親が自分たちを「パパ、ママ」ではなく「お父様、お母様」と呼びなさいと言うくだりは結構ぞっとするのだが、こういう世相だったんだなと。両親の(ことに父親の)忸怩たる思いも刺さってくる。クライマックスでトットちゃんが疾走するシーンでは、子供の世界に大人の世界、「世の中」が一気に流入してきて圧巻だし、しみじみと辛い。彼女の全くの子供としての世界が終わっていく気配が濃厚になるのだ。
 

続 窓ぎわのトットちゃん
黒柳徹子
講談社
2023-10-03


『モナ・リザ アンド ザ ブラッドムーン』

 12年間、精神病院に隔離されている少女モナ・リザ(チョン・ジョンソ)。赤い満月の夜、他人の肉体を操るという特殊能力を発揮し、自由を求めて施設から逃げ出す。彼女がたどり着いたのはニューオーリンズの街。そこでストリッパーのボニー・ベル(ケイト・ハドソン)を助けたことで、彼女の家に居候することになる。監督はアナ・リリー・アミールポアー。
 モナ・リザとボニーが共闘するシスターフッド展開になるのかと思いきや、どうもそうはならない。一見2人は助け合っているがボニーの目的は金であり、対等な支え合い・連帯が成立しているわけではないのだ。しかし一方で、冒頭で靴をくれた女性や終盤でシートベルトの付け方を教えてくれる男性、何よりボニーの幼い息子のように、さして含みもなく彼女に親切にする人たちも登場する。人は欲深い一方で、特に理由もなく他人に親切にもする存在だ。前半でこれは絶対下心ありきの援助だろうと思われたDJが、予想外に本気で彼女と関わるのにはちょっと笑ってしまったのだが、こういう形の善意が世界には少しはあるのだ(と思いたい)という、作り手の優しさを感じた。雰囲気はダークな作品なのだが人間の在り方に対しては結構ポジティブなのだ。
 モナ・リザはレオナルド・ダ・ヴィンチの名画からついたニックネームで、彼女には本名がある。しかしそれは結構後まで明かされないし一貫してモナ・リザと呼ばれる。ただ、彼女はモナ・リザのようには微笑まない。彼女はいわゆる美少女でも可愛い女でもなく、概ね無表情ないしはむすっとしている。周囲に愛想を見せたりおもねるようなところがない。いわゆる空気が読めない人なのだが、そこに魅力がある。彼女の特殊能力が彼女の為だけのものであるのと同様に、彼女の笑顔は彼女だけのものだ。だからラストの表情にぐっとくるのだ。


『マーベルズ』

 幅広く宇宙で活動していたキャプテン・マーベルことキャロル(ブリー・ラーソン)。彼女の過去の行為を恨み、復讐を企てるダー・ベン(ゾウイ・アシュトン)は宇宙の様々な箇所にワームホールを開けていた。一方、このワームホールの影響でキャプテン・マーベルと、ミズ・マーベルこと高校生のカマラ・カーン(イマン・ベラーニ)、強大なパワーを覚醒させたばかりのモニカ・ランボー(テヨナ・パリス)の3人が、それぞれの能力を発動すると物理的に入れ替わってしまうという謎の現象が起こる。3人が困惑するなかダー・ベンの脅威が迫り、キャプテン・マーベルはミズ・マーベル、モニカ・ランボーとチームを組んで立ち向かう。監督はニア・ダコスタ。
 軽めの雰囲気は製作のケビン・ファイギのテイストでもあるのか。軽快で、マーベル作品としてはかなりコンパクト(105分!)な尺も気楽に楽しむにはぴったり、といいたい所だが、本作に至る話の流れを知る為には『キャプテン・マーベル』だけでなくドラマシリーズも複数視聴していなくてはならない(マストではないがなんとなくの話程度は把握しておいた方がよさそう)という結構なハードルの高さ。フランチャイズ化で作品世界を広げに広げたマーベル映画の弊害が、大分響いてきているなという印象を受けた。売り方で楽しさの足を引っ張るのはそろそろやめてほしいな…。
 巨大シリーズの中の1作という事情を置いておいても、色々詰め込みすぎというか、とっちらかった話ではある。3人が入れ替わるシステムはまあわかるし視覚的な面白さもあり、入れ替わり故に3人が強制的にチームワークを作っていくという流れも悪くない。ただ、今更ながら入れ替わりの原因がそもそも大分ざっくりしていて、この世界のエネルギー理論はどうなっているんだという気分に流石になってくる。このあたりもマーベル作品として後続組が割を食っている(見る側がさすがにそろそろツッコミたくなってくる)所ではないかと思う。個人的にはディズニーランドっぽい惑星のエピソード(と惑星のコミュニケーション方法の設定)がそれいります?という感じでなぜ出てきたのかよくわからなかった。
 本作、「推しと一緒にお仕事することになってしまってどうしよう!」という夢女子的シチュエーションが発生している。そもそもキャプテン・マーベルの大ファンであるカマラだけでなく、個人的な関係性である「キャロルおばさん」への憧れを抱き続けてきた(そしてちょっと拗らせた)モニカも同様だ。カマラの浮かれ方はわかりやすいが、モニカは流石に大人だし屈託もある、一方キャロルにとってはずっとモニカは小さな女の子のまま、というギャップがちょっと面白い。ただ、段々「推し」ではなく同じチームの仲間、守るべき相手ではなく頼るべき仲間とそれぞれの意識が変わっていく様が微笑ましい。このあたりもうちょっと丁寧に見せてほしかった。

キャプテン・マーベル MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー+MovieNEXワールド] [Blu-ray]
アネット・ベニング
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2019-07-03


ミズ・マーベル:チーム・アップ
イグ・グアラ
小学館集英社プロダクション
2023-11-13


『名探偵ポワロ ベネチアの亡霊』

 名探偵エルキュール・ポアロ(ケネス・ブラナー)は一線を退き、ベネチアで隠遁生活を送っていた。ある日既知の作家アドリア二・オリヴァ(ティナ・レイ)が訪ねてくる。死者の声を話すことができるという霊媒師が有名歌手の屋敷に招かれたから、トリックがあるのか見極めようというのだ。子供の幽霊が出るという噂のある屋敷での降霊会に参加したポワロ。しかし参加者の一人が遺体で発見される。原作はアガサ・クリスティー『ハロウィーン・パーティー』。監督はケネス・ブラナー。
 ブラナーの監督主演によるポワロシリーズ3作目。原作の『ハロウィーン・パーティー』はポワロものの中でも個人的に好きな作品なのだが、原作要素のアレンジの方向がかなり大胆でちょっと笑ってしまった。そもそも舞台がなぜベネチア?!美術面や撮影はゴージャスだがホラーサスペンスに寄せようとして撮り方が逆に野暮ったくなっている箇所があるのは気になったし、原作とは大分違うのだが、これはこれでムードがあって面白いと思う。冗長だった『ナイル殺人事件』よりはむしろ思い切りが良くて飽きなかった。
 ブラナー版ポワロシリーズは、割と時代背景を意識した造りになっている。ポワロが第一次大戦によるトラウマを負っていることは1作目『オリエント急行殺人事件』でも提示されたが、本作では2つの対戦の後の時代という要素を打ち出している。本作では第二次大戦の戦地で深いトラウマ(第二次大戦だったら当然こういう方向のトラウマもあるのだとはっとした)を負った人、故郷から去らざるを得なかった人が登場する。彼らの傷はポワロがかつて負った傷とも重なっていく。彼らは大過から生き残ってしまった人たちであり、そういう人たちがどう生きていくのかという部分へのまなざしがある。原作にはそういった要素は全くないので邪道だという人もいるかもしれないが、ブラナーはこのあたりは結構真面目になっているのではないかと思う。ある時代を背景にするならこういう要素を含まずにはいられないだろうという判断があるのでは。


ナイル殺人事件 (字幕版)
Kemi Awoderu
2022-04-13


『ミッション:インポッシブル デッドレコニング PART ONE』

 ロシアの潜水艦が自身が発射した魚雷に撃ち落され沈没するという事件が起きた。IMFのエージェント、イーサン・ハント(トム・クルーズ)は新たな指令を受ける。全人類を脅かす新兵器を見つけ出し回収するというものだがその兵器の実態は不明。イーサンはルーサー(ビング・レイムス)、ベンジー(サイモン・ペグ)、イルサ(レベッカ・ファーガソン)と共にミッションに挑む。鍵を握る詐欺師のグレース(ヘンリー・アトウェル)に接触するが。監督はクリストファー・マッカリー。
 冒頭からアクションの見せ場がてんこ盛りでだんだん何の話かわからなくなってくる。冒頭で潜水艦事故のエピソードと「それ」の中身をある程度提示したのは、とりあえずこのくらいは提示しておかないと話の本筋を忘れられちゃうな!というストーリー構成上の配慮か。謎のままひっぱることもできたとは思うが、まだ第一部でこの先も話が続くことを考えるとなぁ…。
 今回、登場人物同士のやりとりが結構コントっぽい。「そうそうこれをああしてこうやって…ってできるか!」みたいな一旦ムリ目の話に突っ込みをいれるスタイルが定着したように思う。アクションがインフレ状態になってくるとギャグの領域に入るという状態。イーサンとグレースの2人連れカーアクション等相当楽しいことになっている。イーサンが多少間抜けな感じになってもOKな作品になったんだなと感慨深いものがあった。
 AI(らしきもの)とイーサンとの闘いは、現代の映画製作事情と相まって妙にタイムリーであり、今だに体をはって観客を魅了し「映画館で見るべき映画」を作り続けているトム・クルーズの奮闘とも重なる。ただ、イーサンの方がトムよりも危険行為に対してまともな感覚を持っているような気がしなくもないのだが。
 ストーリーが精緻な類の作品ではないと思うのだが、イーサンの決断の背中を押すのが、彼が関わった女性たちに降りかかるある運命であるというのはちょっとひっかかった。その為だけに彼女らの運命が用意されたようで少々古臭い。また、イーサンは常に自身が信じる大義の為、より良い世界の為に動く存在で、個人的な感情は二の次というイメージだったのだが。キャラの解釈違いか。



 

『マルセル 靴をはいた小さな貝』

 アマチュア映像作家のディーン(ディーン・フライシャー・キャンプ)は、諸事情から郊外の借家に仮住まいするため引っ越してきた。そこで出会ったのは、体長およそ2.5センチのおしゃべりな貝のマルセル(ジェニー・スレイト)とその祖母コニー(イザベラ・ロッセリーニ)。ディーンは彼らに興味を持ち、マルセルを追ったドキュメンタリーを作ってYouTubeに投稿したが。監督はディーン・フライシャー・キング。
 「人間」の登場人物であるディーンを監督自らが演じており、ディーンがドキュメンタリーを撮影しているメイキングフィルムみたいな、モキュメンタリー仕立てになっている作品。ストップモーションアニメとモキュメンタリーという組み合わせが新鮮。本作、キング監督がYoutubeで順次公開したショートフィルムを長編映画化したものだというから、現実の公開方法をフィクションである本作がなぞっているというところも面白い。
 更に、作中でマルセルはディーンに、撮影されることについての疑問をいくつも投げかける。君(ディーン)は僕(マルセル)に質問するのに僕が君に質問するのはなぜだめなのか、なぜ(被写体であるマルセルは)自然にしていないとならないのか、(会話をしていたら自分の声が映像に入ってしまうというディーンに)なぜ(撮影する人の)声が入ってはいけないのか。種族の違いからくるカルチャーギャップというよりも、ドキュメンタリーを作成する上で生じがちな問題に切り込んでいるように思った。そういう問題提示がアニメーションの中でされているという所にユニークさがある。ドキュメンタリーでは被写体だけでなく、撮影する側の問題も常に並走しているのだ。本作はマルセルの人生の物語であるが、その背後には撮影者であるディーンの人生の問題も横たわっている。そしてマルセルとディーンがどのような関係を作っていくのかという変化の物語でもある。マルセルとの関係が変化していくなかで、はっきりとは言及されないがディーン自身の問題への向き合い方もまた変化していくのだ。ラストのさわやかさはそれ故だろう。
 撮る者と取られる者の関係がフェアであることが、(例外もあろうが)ドキュメンタリーにおいては必要であること、カメラを向けることは時に暴力的であることを、フィクションを見ていて気付くというちょっと面白い作品だった。


『街をぶっ飛ばせ』

 シャンタル・アケルマン映画祭2023にて鑑賞。アパートの階段を駆け上る若い女性。パスタを作って食べ、部屋を散らかし洗剤をぶちまけ掃除する。鼻歌にのって一人で踊る彼女の行動は思いもよらない結末を迎える。1968年製作。監督・主演はシャンタル・アケルマン。
 当時18歳だったアケルマンがブリュッセル映画学校の卒業制作として監督、主演を務めたデビュー作である12分の短編。初監督(俳優としても)ということで荒っぽくはあるのだが、インパクトは強烈。傑作『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』の原型的な側面もある。
 主人公が口ずさむ鼻歌がずっと流れているのだが、メロディは不安定、テンポもぐらつき、彼女の気分の浮き沈みがそのまま見る側にフィードバックされてくるようだった。彼女は時にとても楽し気、時に苛立っている様子ではあるのだが、冒頭からとにかく不穏。ドアの細工をするあたりからあーこれは大分まずいやつだぞと予感させる。その後のやたらとテンションが高く勢いのある動きや、やけっぱちのような掃除やダンス等は、エネルギーの迸りと自暴自棄さがないまぜになっており、見ていていたたまれなくなってくる。何が彼女を追い詰めていったのか、背景は全く示唆されないし、彼女が自分の言葉で語ることもない。状況だけが提示され唐突にシャットアウトされる。人の内面に踏み込ませない頑固さみたいなものを感じた。



『マジック・マイク ラストダンス』

元ストリップダンサーのマイク(チャニング・テイタム)はダンサーを引退して家具工房を始めたものの、コロナ禍のあおりを受けて破産。今はバーテンダーとして働いていた。ある日仕事先で、パーティー主催者の女性マックス(サルマ・ハエック・ピノー)と知り合う。マイクの才能を見込んだマックスはショーの演出を依頼される。彼女はロンドンの老舗劇場のオーナーで、古い伝統を打破しようとしていた。マックスと共にロンドンに向かったマイクは、様々な場所から集まったダンサーたちと共にショーに挑む。監督はスティーブン・ソダーバーグ。
 「こういうのでいいんだよ」的に大分ざっくりとした作りで、展開にはかなり強引な所はあるし省略していい所はばんばん省略しているし、コメディ要素は笑わせようとしているのか単にスベッているのか微妙な所もある。とは言えダンスシーンは相変わらずパワフルで楽しい。むしろマイクとマックスの恋愛要素が不要に思えてしまうくらい。正直な所、私は本シリーズに登場する男性たちやダンスそのものにセクシーさはあまり感じない(ダンスの楽しさは「体が音楽にのってめちゃめちゃ動く」所にありセクシーさはそれほど感じない)。一方で、マイクとマックスの、マイクに「俺たちは最強じゃないか」と言わせるような関係にはむしろロマンスを感じる。表現者同士、何かを共に作り上げる者同士のガチンコのやりとりの方が見ていて燃える要素があった。マイクとマックスの演出の方向性のぶつかり合いや、それをどうやってすり合わせて作品に落とし込むのかという過程をもうちょっと見て見たかった。
 本作を見ていると、今の「モテる男性像」には、単なるセクシーさ、パワフルさだけではなく、相手の話をちゃんと聞く姿勢、話し合い一緒に歩もうとする姿勢や優しさ、ケアする姿勢が求められることがよくわかる。マイクはもちろんルックスはセクシーなのだが、相手がマックスであってもダンサーたちであっても話をちゃんと聞くし、頭ごなしに何か言ったりしない。常識とセンシティブさを備えたとてもまともな人で、むしろマックスの方がエキセントリック。

マジック・マイク(字幕版)
マット・ボマー
2019-10-01


マジック・マイクXXL(字幕版)
ガブリエル・イグレシアス
2016-02-17



『ミセス・ハリス、パリへ行く』

 第二次大戦後、1950年代のロンドン。戦争で夫を亡くした家政婦のハリス(レスリー・マンヴィル)は、勤め先の屋敷でクリスチャン・ディオールのドレスを目にし、その美しさに魅せられる。何としてもディオールのドレスを手に入れるため、お金をためてパリへ旅立つ。パリへ到着した彼女はディオールの本店を訪れるが、マネージャーのコルベール(イザベル・ユペール)に追い出されそうになる。監督・脚本はアンソニー・ファビアン。
 ディオールのドレスとそれにうっとりするハリスを、一昔前の少女漫画のようなキラキラ感をもって映し出すシーンがある一方で、労働と賃金、社会階級等が背景に見え隠れするところが面白い。ハリスの仕事先には裕福な家もあるが、そういう雇い主に限って賃金支払いを渋ったりする。また、ハリスが訪れたパリは清掃員がストライキ中で町中ゴミだらけ。ディオールのお針子たちがハリスを歓迎するのは、自分たちも彼女も富裕層の為に働く労働者であり、そこに共感したからだろう。上流階級向けに作られる商品を、でも正しく対価=お金を払えば労働階級でも入手できるではないか!と階級の垣根を越えようとするのがハリスであり、縫製した服を自分たちでは着ることがないであろうお針子たちにはそれが小気味よかったのでは。同時に、適切な対価を払わない相手に対しては、相手が富裕層であろうが社会的地位があろうが、サービスは提供しなくていいとハリスは悟る。ある意味資本主義はフェアなのだ。本作中の最後にディオールが選ぶ道はある垣根を超える行為だろうが、その背後には良くも悪くも資本主義がある。
 一方で、ハリスとパリと貴族男性との交流は、一見階級の垣根を越えたもののように見えるが、実ははっきりと垣根がある。男性がハリスを見ているとある人を思い出すというエピソードは、自分が伝統的な富裕層という特権的な地位にあることに無頓着な人だから言えることだと思う。ハリスはそれに気づくから浮かない顔をするのだ。決して対等の人間としての交流があったわけではないと思う。
 ハリスがディオールの服を欲しいと思うのは、それを着てどこかに行きたいとか何をしたいとかという目的があるからではない。ただ美しく自分を魅了するものだから欲しいのだ。それを着ていく場所なんてないだろうとハリスは揶揄されるが、好きだと言うことは、欲望とはそういうものではないだろう。どんな人でも憧れ、夢、欲望は持てるしそれを肯定する物語だと思う。欲望を持つ人に対する視線が温かい。ディオールのようなメゾンは、その欲望に乗っかった商売であるという面もあるからだろうが。
 50年代のディオールのドレスはもちろん素敵なのだが、パリでハリスが着ている借り物の服のコーディネートもかわいい。ディオールの若い会計士の妹の服を借りているので、明らかに若い娘さんのファッションなのだが、ハリスに不思議と似合ってくる。年齢相応のファッションというものは、そんなに真に受けなくていいのかもと思わせてくれるかわいらしさだった。


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アルバトロス
2022-09-02




 
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