3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画題名は行

『ファースト・カウ』

 西部開拓時代のオレゴン州。コックとして開拓者たちに雇われていたクッキー(ジョン・マガロ)は、中国人移民のキング・ルー(オリオン・リー)を助ける。2人は意気投合し、一緒に商売を始める。それは、この地に初めてやってきた牛からミルクを盗み、ドーナツをつくって売りさばくというものだった。監督はケリー・ライカート。
 西部開拓時代といえば一攫千金を狙う人たちが押し寄せ正にアメリカンドリームを掴むぜ!という夢と希望と欲望に満ちた時代という印象がある。クッキーとルーが流れ着いた村は開拓の波に多少なりとも乗れた人たちが集まっており、皆懐がかなり温かい状態。同時に開拓地なので娯楽や贅沢品はとぼしく小銭の使い道がない。そんな環境でドーナツというちょっとした嗜好品は大ヒットするのだ。人間は衣食住足りたら甘いものが欲しくなるんだなと妙に納得してしまった。そしてクッキーの作るドーナツは確かにおいしそうなのだ。ドーナツのタネに牛乳が使われている(から美味しい)ということに誰も気づかないのは奇妙に思えるのだが、料理をしない、そういう「生活」のことは自分のやることではないと思っている人ばかりということなのか。
 クッキーにも一攫千金の夢がないわけではないが、彼はいわゆる「強い男」的な野心や強欲さは見せない。彼が得意なのは日々の暮らしを良くする仕事だ。山師たちの間ではバカにされがちだが、彼の優しさやドーナツ作りでも垣間見られる仕事の細やかさが印象に残る。乳しぼりの時に牛に話しかける様には彼の人柄の良さが現れている。牛の表情がまた優し気でいいのだ。
 一方、ルーは結構野心満々で、ドーナツで一儲けして更に大きな事業をしようと目論む。しかしクッキーと共にいるうちに、徐々に彼の方に寄せていくというか、自分の野心・やり方よりもクッキーのやり方を優先しようとするのだ。男性2人の友情というと旧来はマッチョな描き方になりがちだったと思うのだが、本作での友情は決して強くはない人たちのいたわりあい・支え合いという、寄り添うような関係として描かれている。西部開拓時代というまあまあ荒っぽい舞台の上では、2人のいたわりあいはより美しいもののように思えた。2人の行く末は冒頭である程度わかっているわけだが、だからこそ一層、そっちの道を選んだということが友情の一つの形として深く印象に残る。

オールド・ジョイ
ターニャ・スミス
2022-07-18


ミークス・カットオフ
ポール・ダノ
2022-07-18


『ペルリンプスと秘密の森』

 太陽のエージェント・クラエと、月のエージェント・ブルーオ。敵対している2人だが、この地を支配している巨人から森を守っているという謎の存在“ペルリンプス”を探すという共通の目的を持つ。2人は協力しあいペルリンプスを求めて森の奥へ進んでいく。脚本・編集・監督はアレ・アブレウ。
 監督の前作『父を探して』は、カラフルで自由奔放なビジュアルとノスタルジーをはらむが現代社会に対する批評的な視線を含んだストーリーが印象深い作品だった。本作も映像表現の方向性はまた違うものの、色彩や質感の美しさ楽しさ、そして終盤で明らかになる世界の姿が胸に刺さってくる様は方向性が通じるものがある。場所によって色のトーンが変わっていき、全体的にやわらかいフォルムとポップな色彩でまとめられた美術がとても美しい。また、音楽がポップで楽しい、かつどことなくノスタルジックなもので耳に残る。
 クラエとブルーオは動物のような子供のような可愛らしい外見で、声も可愛らしい。2人はそれぞれの世界のエージェントだが、自称有能なわりにたどたどしく、エージェントの仕事も能力のあり方も、お互いのライバル意識や意地の張り合いも、どこか子供のごっこ遊びのように思えた。子供向け作品だとするとそれもまあ順当…と思っていたら終盤でなるほど!と。彼らが何者でこの世界がどういう形になっているのか腑に落ちると同時に、彼らに課されているものの残酷さが刺さってくる。急に現実に迫ってくるのだ。しかし、彼らの存在は希望でもある。クラエとブルーノは共に「潜入」したのだから、もしかすると未来を変えられるのかもしれないのだ。

父を探して [Blu-ray]
バップ
2017-01-11







ディリリとパリの時間旅行 [DVD]
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2020-01-22













『ビー・ガン ショートストーリー』

 孤独な黒猫は自由を求めるカカシに「この世の中で一番大切なものは?」と質問する。カカシは黒猫に3人の奇人と会うよう告げる。黒猫は、その3人とはほろ苦さと引き換えに希少な飴を配るロボット、忘却を促す麺を食べて愛する人を忘れようとする女、時間を操る魔法を使うため劇場に棲みついた悪魔。黒猫は3人に会う為の旅に出る。監督はビー・ガン
 15分の短編作品。寓話的なファンタジーだ。黒猫が3人の奇人を訪ねるというアウトラインはあるが、あまり一貫性のあるストーリーではない。少女の存在もいきなり終盤で出してきた印象。ただ、そもそも具体的なストーリーを提示するというよりも、夢の中の出来事のような提示の仕方なのではないかと思う。ある文脈が進行しているが途中でするっと別の文脈にずれていくということは、夢の中だとよくあると思う。それが連続するような効果を狙っているのでは。ビー・ガン監督の長編作品も、長い夢を見ているような雰囲気があった。夢と記憶の関係ってこういうものではないかなと思わされる。
 短い作品でわりとふわっと作られたような印象だが、はっとするような幻想的なショットもある。部屋が列車になってい動き出すシーン等やはり良い。


凱里ブルース(字幕版)
ユ・シシュ
2021-11-03


『白鍵と黒鍵の間に』

 1988年の東京、銀座。キャバレーでピアノ弾きのバイトをしていた博(池松壮亮)は、謎の男(森田剛)からのリクエストで「ゴッドファーザー 愛のテーマ」を演奏する。しかしこの曲は銀座を牛耳るヤクザの親分・熊野会長(松尾貴史)のお気に入りで、リクエストしていいのは熊野会長だけ、演奏を許されているのも会長お気に入りのピアニスト・南(池松壮亮)という暗黙の了解があったのだ。ジャズピアニスト志望の博と、ジャズピアニストとしての道に迷う南の人生は大勢を巻き込み交錯していく。原作はミュージシャン・南博の回想録『白鍵と黒鍵の間に ジャズピアニスト・エレジー銀座編』、監督は冨永昌敬。
 原作は「回想録」なのでノンフィクションなわけだが、私は未読ではあるがこの映画が原作に忠実とは到底思えないので、原作からエッセンスをもらって大胆にアレンジした原案に近い扱いのではないかと思う。かなりファンタジー感の強い、リアリティをデフォルメした見せ方なのだ。一方で80年代東京の(リアルかどうかはわからないが)エネルギーやある種の下品さのテイスト、少なくとも「2020年代ではない」感はわりと出ているのではないかと思う。美術面というよりも、セリフ回しやジョークのえげつなさに現れていた。特にバンマスの三木を演じる高橋和也の80年代感がすごく良い。名演だったと思う。
 池松が1人2役を演じていることで話題の作品だが、2人の男と見せかけ、1人の男の過去・現在・未来を幻視するような構成で、不思議な味わいがある。初心な学生と擦れたピアニストを演じ分ける(ちゃんと「違うバージョン」に見える)池松はやはり上手い。しゃべり方や声の出し方を変えているのはもちろんだが、表情の方向性みたいなものが使い分けられているように思う。だから、終盤のセッションで南が博のような表情を見せることにはっとするのだ。
 ジャズピアニストが主人公ということで音楽映画としての側面もあるが、正直もっと演奏シーン、音楽を鳴らすシーンが見たかった。一番いいところを予告編で使っちゃってるからなぁ…。歌手を演じるクリスタル・ケイのパフォーマンスもとてもよかった。


『北極百貨店のコンシェルジュさん』

 様々な動物のお客様が訪れる「北極百貨店」。顧客の中でも絶滅種である「V.I.A(ベリー・インポータント・アニマル)」は特に重要顧客だ。新人コンシェルジュの秋乃(川井田夏美)は熱意故に絡まりしつつも、悩みを抱える動物たちの思いに寄り添うべく奔走する。原作は西村ツチカの同名漫画。監督は板津匡覧。
 私は原作ファンだが、原作とは若干テイストを変えつつも、絵の良さを損なわない美しい作品になっている。特に絵の質感と色の設計(広瀬いづみによるコンセプトカラーデザイン)がすごくよくできていると思う。イメージボードと思われるものがエンドロールで使われているが、デザイン、色使いがおしゃれで洗練されている。対して動画は「まんが映画」的な楽しさを指向したのかなと思わせるややオーバーアクションな所が目についた。美術とミスマッチではと最初はひっかかったのだが、目が慣れてくるのか演出のすり合わせがされてきたのか、段々気にならなくなってきた。
 かつて百貨店はこういう華やかな気分になる所、心が浮き立つ所だったよなと懐かしい気持ちになった。物語は子供時代の秋乃が北極百貨店に迷いこむシーンから始まるが、私も子供の頃、祖父母に連れられてデパートに行くのがとても楽しみでわくわくした。その楽しさを抽出したようなデパート映画でもあるのだ。コンシェルジュの仕事はそういったお客様のわくわく・楽しさの下支えの為尽くすことだと、秋乃は学んでいく。
 しかし、北極百貨店の重要顧客は絶滅した動物たちであり、決して明るさ一辺倒の世界ではない。亡霊たちを慰める為の鎮魂の施設でもあるのだ。ただ、その鎮めるための場は「百貨店」という金銭によって物欲を満たす為の場だ。この欲望は、動物たちを絶滅に追いやった人間の欲望と同じものではないかという所が非常に皮肉な設定だ。そもそもコンシェルジュという仕事のあり方も、どんなに心を尽くすと言ってもそれは商売の倫理、資本主義の仕組みの一環としてのものなので、全くの無私というわけではない。そういった皮肉な要素を含みつつ、それでもハレの場であるといううらはらさも本作の味わいではないか。



TVアニメ「ボールルームへようこそ」第1巻【Blu-ray】
富田健太郎
ポニーキャニオン
2017-11-29


『羊の怒る時 関東大震災の三日間』

江馬修著
 1923年9月1日11時58分32秒、関東大震災が発生し、建物の崩落に伴う火災によって東京は火の海になった。大きな災禍に混乱し不安に駆られる人たちの間では「朝鮮人が暴動を起こし火をつける」というデマが広がり、自警団的にふるまう集団によって多くの朝鮮人が虐殺された。実体験をもとに小説化した実録小説。
 本著は記録文学の金字塔と呼ばれているそうだが、震災の翌年から連載が始まったというから記憶が相当生々しいはずで、それを一応フィクションという形に落とし込むのは精神的にかなり苦しかったのではないか。よっぽど書き残さなければならないという思いがあったのだろう。ただ文章自体はむしろ平坦で、却って日常の延長としての災禍、そして虐殺であるということが伝わってくる。主人公「自分」は著者自身がモデルなのだろうが、朝鮮人の友人がいるにも関わらず暴動の噂を半ば信じ、浮足立つ人たちを諫めることもできず流されていく。良心あるインテリだがそこまで勇気が持てない、筋を通せないという造形の等身大さだ。集団の熱気を目の当たりにするとそうそう反論できない(反論したら自分がやられるだろう)という肌感覚がある。
 あくまで一市民の視点で書かれていることで、本当に当時は何が起きているのかわからなかった、だから噂ばかり広がって大惨事になったということがよくわかる。ただ、そもそも社会のベースに朝鮮人への差別意識がごく普通のものとしてあり(主人公自身も朝鮮人と親しくはしているが暴動の噂にそれほど疑問は持たない)、非常時はそういったものが不安の拠り所になってしまうという側面も見える。異質とみなす誰か・何かのせいにして叩くことで自分の中で理屈が通って安心できる、みたいな心理があるのだろう。どこか嬉々として人々が暴力に乗っていく様が本当に怖い。が、どこで起きてもおかしくない、いや今現在も起きている現象だろう。
 なお主人公は明治神宮の近く、代々木あたりに住んでいたようなのだが、当時この辺りは「東京」という認識ではなかったということに改めて驚いた。あのあたりは震災前は田舎だったと知識としては知っていたけど、代々木付近から今の文京区の方に行くこと「東京に行く」と言っていると、ちょっとびっくりする。


『バーナデット ママは行方不明』

 シアトルの古い屋敷で暮らしているバーナデット(ケイト・ブランシェット)は、若くして成功した天才建築家だった。今は仕事からは引退し、自宅の改装や娘のビー(エマ・ネルソン)・夫のエルジー(ビリー・クラダップ)と過ごす時間の捻出に奮闘していた。しかし彼女は人間嫌いで、隣人やママ友たちとの付き合いは極端に苦手。特に隣人のオードリー(クリステン・ウィグ)との関係は悪化していた。家族で南極へ旅行する予定だったバーナデットだが、ある事件でストレスは限界に達し姿を消してしまう。原作はマリア・センプル『バーナデットをさがせ!』。監督はリチャード・リンクレイター。
 邦題の「ママ」は不要なのではないかと思った。バーナデットは家族のことを深く愛しており、特に娘ビーとの間には親友同士のような信頼関係がある。ただ、妻として母としての役割をどうしてもうまくできない時がある。それらは彼女にとって後付けの属性で、本質は芸術家・建築家なのだ。その部分が満たされていないと何をやっても満たされない。バーナデットは出産とある事件をきっかけに建築家としての道を断念し、妻として母としての役割に専念するようになるが、専念しようとすればするほど上手くいかなくなっていく。本来の自分から目を背けるとその人の生は損なわれていってしまうのだ。車中でバーナデットがビーに今はどうしても無理と漏らすシーンは痛切だ(そして2人が熱唱する「Time After Time」の泣けること)」。バーナデットは「ママ」であることから一旦逃避し、ただの「バーナデット」になりたいのではないか。ビーが「わからなくても理解しようとしないと」と言うのだが、家族の間であっても努力は必要なのだ。エルジーはバーナデットに配慮してはいるが、甘えすぎだったのでは。序盤で「君はどう思う?」とバーナデットに判断をゆだねるのは、彼女を尊重しているようでいて実際の所面倒なあれこれを押し付ける態度だったと思う。
 観ていて気になったのは、バーナデットの医療との付き合い方だ。彼女はどうも精神科の処方薬をため込んでいるようで、どうしようもなくなると市販薬でなんとかしようとする(が失敗する)。エルジーが勝手に連れてきた精神科医を拒否するのは無理もないのだが、医師の言っていることはそこまで的外れではなく、客観的に見るとバーナデットは何らかの医学的な対処を受けた方がいいのでは?(エルジーの医療導入の仕方は最悪ではあるが)という気がした。バーナデットの気持ちもわかるが薬やカウンセリングに全く意味がないような話の作り方はちょっとどうかなと思った。
 なお、作中で出てくるバーナデットの建築作品や彼女を取り上げたドキュメンタリーが本当にそれっぽい!ちゃんとセンスが良く見える。こういう部分の作りこみが丁寧でないと一気に説得力がなくなるのでほっとした。



 
30年後の同窓会 LAST FLAG FLYING (字幕版)
ローレンス・フィッシュバーン
2018-10-02


 

『ヒンターラント』

 第1次世界大戦後、オーストリアの元刑事ペーター(ムラタン・ムスル)は戦友らと共にロシアでの長い捕虜収容所抑留からようやく解放され、何とか帰国を果たす。しかし母国は敗戦国となり変わり果てていた。ペーターの妻子は知人を頼って家を出ていたが、ペーターは彼女らに会うのをためらっていた。そんな中、仲間の1人が殺される。遺体には拷問の跡があり、残された痕跡から犯人も帰還兵だとペーターは推理し捜査を始める。監督はステファン・ルツォビツキー。
 全編ブルーバック撮影だそうで、色調の冷やかさと透明感、パースのデフォルメの仕方などアニメーションやバンドデシネのような印象を受けた。特に画面の奥行や建物のゆがませ方等、遠近感のデフォルメに特徴があり、これは好きな人はツボにはまるだろうなぁという気がした。あっという間に劇場上映が終わりそうだがカルト的に愛されそう。また時代物翻訳ミステリ好きにもおすすめ。
 とはいえミステリとしては急に「実は!」的設定が投入されたりあの設定どうなった?的中途半端さがあったりと、粗いことは粗い。しかしペーターの現世地獄巡りという側面があり、主人公があちらこちらをうろうろとし、観客はそれに並走するというハードボイルド小説的構造なので、謎の粗さ自体はそこまで気にならなかった。ペーターは地獄のようだった戦場からようやく帰還するのだが、それでもなお地獄は続く、彼(そして戦友たち)の中の戦争の終わりが見えないという話であり、時代背景的にはそれが第二次世界大戦への伏線となっている。なかなか陰鬱なのだ。
 一方で、本作は男性の弱さ、弱さとの向き合えなさについてかなり意識的に描いているように思う。ペーターは元腕利きの刑事であり、軍人としても功績のある、社会的には強さを期待され本人のセルフイメージも強い男だろうという人だ。しかし彼は自身の傷つきや恐怖からずっと逃げ続け、それが時に他者・あるいは自身への暴力的な振る舞いにもなる。自分は傷ついている、恐れているという自覚を回避しようとしていることがある意味ミステリの一つのトリックになっているという構成なのだ。自分は弱いし卑怯者だと自覚し受け入れている彼の旧友の方が、いけすかない奴ではあるが正直だし強いのではないか。

HHhH プラハ、1942年 (創元文芸文庫)
ローラン・ビネ
東京創元社
2023-04-28


ヒトラーの贋札 (字幕版)
デーヴィト・シュトリーゾフ
2013-05-15




『ファルコン・レイク』

 14歳のバスティアン(ジョゼフ・アンジェル)は母の親友ルイーズの別荘で夏を過ごすため、家族4人でケベックの湖畔を訪れる。ルイーズの娘である16歳のクロエ(サラ・モンプチ)は最初よそよそしかったが、徐々にお互いの距離は縮まっていった。湖で遊んだりパーティーに行ったりと楽しく過ごす2人だったが、ルイーズのボーイフレンドが現れたことで関係は揺らぎ始める。監督はシャルロット・ルボン。
 いわゆる「ひと夏の思い出」的な建付けのストーリーで実際そういう側面はあるものの、むしろ「ひと夏の思い出」とは本当に美しくノスタルジックなものなのか、その負の側面を見逃していないかというアンチテーゼ的な意思を感じた。この手の思い出エピソードは大抵性的な体験とセットになっているのがセオリーで、本作も確かにそういう要素はあるのだが、それがポジティブなもの、甘やかなものとしては捉えられていないと思う。むしろそのセオリーに乗っかってしまった人が安易に発した一言が他の人を深く傷つける、更に事態を取り返しのつかない方向へ動かしていく。非常に慎重に、注意深く作られた作品という印象を受けた。
 場によって生み出されたストーリー(クロエがそうだと信じるストーリー)に物事が実際に吸収されてしまうという、伝承の逆回転状態とでもいうようなものなのだが、もしクロエがこういうストーリーを思いつかなければこんなことにはならなかったのでは、と一瞬思う。しかし、彼をひきずっていくのは彼女のストーリーではなく、男性たちの「ノリ」だ。バスティアン本人はあまりそういうノリに同調するタイプではなさそうで、欲望が薄そうなのだが、それでもあの集団から認められたい、参入したいと思ってしまうものなのか。そこに「若い男の子はこういうもの、こうした方がいい」という通念がこびりついているようでなかなかしんどい。



ショート・ターム(字幕版)
ラミ・マレック
2015-07-03







ペーパーボーイ 真夏の引力 (字幕版)
ジョン・キューザック
2014-03-03




『ほつれる』

 夫・文則(田村健太郎)との関係がすっかり冷え切っている綿子(門脇麦)は、友人を介して知り合った木村(染谷将太)と付き合っている。将太と密かに旅行に行った帰り際、将太は交通事故に遭う。綿子は強いショックを受け、彼女の生活は変化していく。監督・脚本は加藤拓也。
 綿子と将太はそれぞれ別のパートナーがおり不倫しているわけだが、不倫行為自体にはあまり悪びれた感じはしない。罪悪感よりもパートナーにバレたら面倒くさい、現状を大きく変えたくないから秘密にしておきたいという意志の方が強そうで、あまり過剰な意味を設定していないところがいい。好きなんだからしょうがない、ただ今のパートナーと別れて不倫相手と結婚したいかというとそういうわけでもないというバランスが、実際浮気ってこういう感じだろうなという気がする。綿子にとって木村との関係は自分個人のものであって、そこに世間は介入しない。しかし事故によって個人のことだったものが急に世間に引き出されてしまいそうになる。綿子はそれに動揺したのではないか。
 綿子と文則との関係の微妙さは冒頭から非常に上手く表現されており、この人たちはお互いにもう本気で一緒にいたいとは思っていないんだなとわかる。お互いの存在はタスクみたいなもので、個人と個人としてのコミュニケーションになっていないのだ。文則に至っては序盤では顔がまともに映されないという念の入れようだ。これは綿子にとってはそういう存在になっているということで、対して木村の顔はしっかりと映し出され綿子の記憶に強く残っていることがわかる。しかし文則とのやりとりも、徐々に個人と個人のぶつかりあいになっていかざるを得ない。文則のいけ好かなさの造形が実に見事。演じる田村がはまりすぎているくらいはまっており(あの声質でこういう人、うわーいそう!という説得力がすごい)、説得力がすごい。序盤の布団についてのやりとりや文則のやたらと説得してくる、マウント取り勝ちな話法とか、監督は人間のことよく見ているなーと唸った。

ドードーが落下する/綿子はもつれる
加藤 拓也
白水社
2023-05-11


寝ても覚めても
田中美佐子
2021-12-22


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