3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名は行

『パーソナル・ショッパー』

 モウリーン(クリステン・スチュワート)は、服やアクセサリー等の買い物を代行するパーソナル・ショッパーをしている。今のクライアントはパリに住むセレブのキーラ(ノラ・フォン・バルトシュテッテン)だ。一方、モウリーンは双子の兄アランを亡くし、彼の亡霊が自分にメッセージを送るのではという思いを捨てきれずにいた。アランとモウリーンは霊媒の資質があり、特にアランは霊感が強かったのだ。監督・脚本はオリヴィエ・アサイヤス。第69回カンヌ国際映画祭コンペティション部門監督賞受賞作。
 アサイヤスがこういう作品撮るの?!という意外性にあふれる作品だった。幽霊の表現のあまりのベタさには、ちょっと笑ってしまいそうになった。アートというよりも、ホラー映画の文法にオーソドックスに従っている感じ。ちゃんとエクトプラズマ吐く(欧米の幽霊はなぜ頻繁に嘔吐するんだろうか・・・)しなぁ・・・。アサイヤス監督作でこういうものを見るとは思わなかったよ!ある意味律義な見せ方なので、妙に感心した。
 パーソナルショッパーという要素と、オカルト的な要素という、まったく関係がなさそうなものを混ぜているのには、なぜ?別々の作品でよくない?と最初は思ったのだが、見ているうちに、何となく腑に落ちるような気もしてきた。パーソナルショッパーとしてのモウリーンは、どこか所在なさげに見える。「そんな仕事」と揶揄される立場であることや、物理的な本拠地を持たない(自宅はあるが本当に寝に帰るだけみたいな感じだし、常に移動し続けている)ことが、彼女のフラフラしている感じを強めている。その所在なさげな立ち位置は、「あちら側」からの干渉を受けやすいのではないかと思った。ひいては、付け入られやすさに繋がってくるのだが。
 また、パーソナルショッパーという仕事は、クライアントの代理で買い物をするわけだが、指定された品物だけではなく、クライアントが好むであろう品物を選んで買うこともある。クライアントの意向を読む、気分をくみ取るわけだ。そのくみ取ろうという姿勢は、モウリーンが霊的なものとの対峙した時のやり方と似ているのだ。霊は具体的なメッセージを送ってくるわけではない。メッセージがあることはわかるが、その内容は受け手が推し量るしかないのだ。そういう意味では、ショートメールは明らかに異質なのだ。メッセージの正解がわかるとも限らないので、モウリーンの「くみ取り」は自家中毒的にもなっていったのではないか。ラスト、心がざわつくのはそのためだったと思う。どこで「終わり」とすればいいのかわからないのだ。

『フリー・ファイヤー』

 とある倉庫に集まった男女。クリス(キリアン・マーフィー)とフランク(マイケル・スマイリー)が率いるグループは秘密裡に銃を入手しようとしており、ジャスティン(ブリー・ラーソン)とオード(アーミー・ハマー)が仲介に立ち、密売人のヴァーノン(シャールト・コプリー)と取引しようとしていたのだ。しかし話はこじれにこじれ、ついに銃撃戦にもつれこむ。監督はベン・ウィートリー。
 監督が『ハイ・ライズ』の人だと気付いてびっくりした。全然方向性違うよ!でもクールな美に徹した一応文芸作品的な『ハイ・ライズ』よりも、本作の方が性に合っているんじゃないかなという気がする。少なくとも、撮っている側も出ている側も楽しそうだ。一種の密室ものであり、閉鎖空間でばんばん銃を撃ちまくる、当然デスゲーム的になるというアクション映画でありサスペンス映画なのだが、登場人物全員が妙に間が抜けており、かつ脚本がわりと精緻ではない、というか大雑把な為に、ユルいアホっぽさが醸し出されている。とにもかくにもバカとは商売を(同じチームとしても相手チームとしても)するなよ!という教訓に満ちている。お前がいなければもっと話は早かったんだよ!と登場人物の一部も観客も思うに違いない。
 空間内の構造と位置説明(各人の位置関係の見せ方の演出)があまり上手くないので、お互いが今どういうふうに移動しているのか、銃弾の軌道がどうなったのか等、いまひとつわかりにくい。電話の登場の仕方やそれに対する登場人物たちの反応も、一定距離を移動させるイベントを発生させる為なんだろうけど、あんまり必要じゃなかったんじゃないかな・・・という気がしなくもない。そもそも、さっさと出口目指せよ!って話だろうしなぁ・・・。シチュエーション的に、いわゆるコンゲーム的な内容かな?と思う人もいると思うが、その部分には全く期待はできない。むしろ、とにかく銃を撃ちまくる、しかもかっこ悪く!という、バカバカしいシチュエーションの為の作品だろう。どの登場人物も、絶対にかっこよくしないぞ!という意気込みが窺えるので、この点は良かった。
 設定、脚本は大雑把でいわゆる「上手い」映画ではないのだが、映画「ぽさ」の出し方はツボを心得ているように思った。画面の雰囲気に何となく昔の「午後のロードショー」的な良さがあり、特に音楽の嵌め方のセンスがいいので、それだけで何となく見てしまう。90分という短さもちょうどよかった。

『パリが愛した写真家 ロベール・ドアノー〈永遠の3秒〉』

 フランスの国民的写真家、ロベール・ドアノーの人生と作品を追うドキュメンタリー。パリの街並みやそこで生きる庶民の姿を撮影し、ヴォーグやLIFEでファッションやポートレートの仕事もしたドアノー。彼の家族や親しかった人たちの言葉、また彼を撮影した映像等から構成される。監督はドアノーの孫娘であるクレモンティーヌ・ドルディル。
 ETVで放送されるドキュメンタリー的な、わりとあっさりとした口当たりの作品なので、既にドアノーの生涯や作品についてある程度知っている人には特に新鮮味はないかもしれない。しかし、家族の話やドアノーの映像(晩年はTV番組等にもそこそこ出演していたようで、動画が結構残っている)からは、彼の人柄が感じられ、なかなか面白かった。
 現在、彼の作品の管理は2人の娘が行っているそうだが、事務所には元々アトリエ兼住居(娘たちもここで育った)だった物件をそのまま使っている。父親とその仕事、ここでの暮らしに対して、いい思い出がいっぱいあるんだなと何となくわかる。若い頃のドアノーは、広告写真やカード用の写真のモデルに妻子や親戚を使っていたという話は何かで読んだことがあったのだが、モデルを務めた当人たちから当時の話を聞くことができる。とにかく写真、写真で家族総出で手伝っていたらしいのだが、それが嫌だったという話は出てこないし、家族も結構楽しんでいたようだ。かつてモデルを務めた親戚や知人友人一同が集まって当時の写真を見るという「モデル会」みたいな集まりの様子が映されるが、皆当時の思い出話に興じて、実に和やかだし楽しそう。
 ドアノーは反権威主義で、仕事の上ではすごく頑固なところもあったようだが(かつての仕事仲間が、仕事の内容によっては何かと理由をつけて出てこなくなるので困ったと話している)、基本的に、一緒にいて楽しい人だったのではないか。仕事仲間の話からしても、あまり相手を威圧するところがなく、感じのいい紳士という風。ドアノーは著名人ポートレートの仕事も(おそらくLIFE誌の依頼で)多数手掛けており、個展でいくつか見たことがあるが、どれもいい写真だった。写真撮影の中でも特に人間を撮影する際には、撮影する側の人柄によって作品の出来がかなり左右されるような印象がある。撮影技術の高低はもちろん影響するだろうが、人対人の仕事である、という側面が強いように思う。
 ドアノーと言えば、「パリ市庁舎前のキス」が本人の名前よりも有名なくらいだが、この作品が知られるようになったのは撮影当時よりも大分後、1980年代になってからだという話が面白かった。キャッチーさを先取りしすぎたわけだが、当時のパリでは路上でキスするような習慣はなかったそうで、ドアノーの作品によってパリの「恋人たちの街」としてのイメージが定着したという側面もあるようだ。それだけキャッチーだったってことだよなー。なお、ドアノーは文才もあって、自身による随筆はなかなかいいのでお勧め。本作中には、ドアノーと付き合いがあった文学者たちの名前も出てくる。私が大好きなブレーズ・サンドラールとの共同仕事の話も出てきてうれしかった。


『バーニング・オーシャン』

 メキシコ湾沖約80㎞に位置する石油掘削施設「ディープウォーター・ホライゾン」。2010年4月20日、技師のマイク・ウィリアムズ(マーク・ウォルバーグ)は勤務シフトに入り、同僚らとヘリコプターで施設に到着した。しかし海底油田から天然ガスが逆流、引火して大火災が起きる。マイクら作業員たちは被害を食い止めようと奔走しつつ、なんとか脱出しようとする。監督はピーター・バーグ。
 実際に起きた事件が元になっているが、ヒューマンドラマ方向にはもっていかず、ディザスタームービーに徹している。主役は人ではなく炎。何しろ海上のある種の孤島で大火災、しかも石油掘削所だから燃料がなかなか尽きないという、人間にはなすすべがない状況だ。視点が人間に近づきすぎないことで、炎の圧倒的な力がより際立っていた。こういう施設で火災が起きるとどうなるか、という災害の進み方みたいなものにひきこまれた。当然なんだけど、爆発が起きれば物が飛んでくるわけだよね・・・。
 この災害が天災ではなく、ほぼ人災であるというのがやりきれない。ストーリーの端々で、ここで別の選択をしていれば事故は起きなかった、あるいは起きたとしても規模をもっと小さくできたのではないかという運命の分かれ道が示唆されるのだ。運不運はどうしようもないが、コスト削減の為にテストを軽視したり、メンテナンスを怠ったりしたことの積み重ねで取り返しのつかないことになってくる様には、あー・・・とへたりこみたくなる。技師たちはそれなりに頑張っているのに、親会社の方針で全部ひっくり返されちゃなぁ・・・。でもこういうのって下請あるあるだよなぁとどんよりとした。マイクが言うように、コスト面の余裕のなさはいざと言う時のリカバリー能力を奪っていく。人員にも物資にもある程度余裕があることが、安全確保に繋がっていくというのは、どの現場でも同じだろう。
マイクは絶望的な状況の中でも、自分の知識と技術をフル活用し、同僚も自分も助かろうと全力を尽くす。彼の行為は、客観的には勇敢で英雄的なものに見えるだろうし、よくある「実話もの」だったら、彼をヒーローとした感動ものとして描くだろう。しかし、事態を乗り切った後の彼の振る舞いにはっとした。同僚の家族を見て動揺しまくりまともな対応はできず、一人になると泣き崩れる。ああ全然平気じゃなかったんだよなぁと、彼が受けたダメージ目の当たりにした気がした。

『はじまりへの旅』

 森の中で、独自の教育方針に基づいて6人の子供と生活しているベン・キャッシュ(ヴィゴ・モーテンセン)。毎日のトレーニングと勉強により、子供達はアスリート並の体力を持ち、6か国語を喋れるようになっていた。ある日、入院していたベンの妻レスリーが死んだという知らせが入る。レスリーは仏教徒で火葬を希望していたが、カソリックである彼女の両親は土葬しようとしていた。ベンは妻の遺体を取り戻す為に子供達と旅に出る。
 アメリカ北西部からニューメキシコまで、2400キロのバスでの旅は、楽しそうでもあり過酷そうでもある。森の中から殆ど出たことのない子供達にとってはカルチャーショック、かつベンも子供達も資本主義の世の中には強い反抗心を持っているので、珍道中ロードムービーとしても楽しい(資本主義・物質主義への反抗の仕方が子供っぽいが・・・)。一家が移動に使っているバスの内装が、キャンピングカーのようにベッドやソファーがしつらえてあって羨ましくなってきた。
 楽しい映画ではあるのだが、色々と問題もあると思う。ベンの教育方針は、古典的自由主義に基づき、超リベラルなはずなのだが、現代の中に置くと遅れてきたヒッピーのようでもある。アナーキーを突き詰めて逆にステレオタイプ的な、古典的な型にはまってしまっている(資本主義の否定、宗教の否定といったような)。ベンが若かった頃のリベラル像のまま現代に至っているようにも見え、一種のパロディのようだ。ベンは非常に頭がよく教養豊かで、子供達にどの分野であれそれなりに教えることが出来る。しかし、子供の自主性を尊重しているようでいて、教育方針はベンが良かれと思っているものでありそれ以外の選択肢がない。子供が反抗すると自分を論破しろと言うのだが、どの子も口が達者というわけではない。言葉で説明するのが難しい子もいるし、ベンは知識も豊富で口も達者だから無茶ぶりだろう。同等に扱っているようでアドバンテージが全然違うというずるさ。
 長男と次男は、この不自然さにうすうす気づいてはいるのだが、彼らにとってはモデルとなる「大人」の選択肢が父親しかないないのだ。これは結構きついと思う。色々な大人がおり、色々な考え方があるということを体感できないから。ベンがなまじ頭が良くてカリスマ性があるので、いくら「自由」で個人を尊重すると言っても、子供達は父親の支配下から逃れられないのではないかと思う。レスリーの死は全てがベンのせいというわけではないが、森での生活の影響であることは否めないだろう。元々弁護士として働いていた人なので、社会との繋がりが絶たれた生活を続けることは、やはり辛かったのではないか。本作、そのあたりの掘り下げが少々甘く、ベンに優しすぎな気がした。

『ひるね姫 知らないワタシの物語』

 東京オリンピック開催が迫る2020年。岡山県の港町に住む高校生のココネ(高畑充希)は、車の改造ばかりしている父モモタロー(江口洋介)と2人暮らし。ココネは居眠りばかりしており、夢の中では魔法使いのエンシェン王女が青年モモと冒険を繰り広げていた。ある日、モモタローが理由もわからないまま警察に逮捕されてしまう。ココネは父が残したタブレットを手がかりに、幼馴染のモリオ(満島真之介)の力を借りて父を助けようとする。監督・脚本は神山健治。
 本作、神山監督が原案・脚本も兼任しているのだが、原案はともかく、脚本には専任者を立てた方がよかったんじゃないかなと思った。神山監督がシリーズ構成やストーリーまで手がけた作品を見ているとしばしば思うのだが、具体的なストーリーやテーマのボリューム設定が、物語の外枠と一致していないケースが多いように思う。時間的な尺や世界設定に対して、中身の要素が飽和状態になるというか、変なねじれを生じさせやすい印象がある。面白くないわけではないんだが、微妙に楽しめない部分が残る。このあたりは自分との相性の問題かもしれないが。
 本作では、ココネの家庭が抱えてきた秘密・問題を、彼女の夢とリンクさせていく。現実の問題をファンタジーと重ねて紐解いていくという構造は、ファンタジー作品の一つのパターンとしてとてもいいと思う。ココネの夢の中の世界のスチームパンク感滲むディティールや、諸々の機械仕掛けのデザインもいい。スチームパンク的世界になぜタブレット?という疑問が沸くのだが、そもそもこの夢の世界が何から生まれたものか、という部分への伏線にもなっており、これも納得。
 しかし、この夢・ファンタジーの部分と、ココネの現実世界で起きているトラブルとの摺合せ、シームレス加工があまり上手くいっていないように見える。主人公の身近な(家庭や友人関係などの)問題がファンタジーの中に形を変えて登場する、という構図が定番だと思うのだが、本作の場合、現実世界の問題のスケールが妙に大きいのだ。しかも、そういう理由でそんな強引なことやります?というもの。この人はなぜわざわざ、こんなリスキーな方法をとる(しかも不慣れっぽいのに)の?話の趣旨としては、ココネの日常と夢の中の冒険だけで収められそうだし、その方がファンタジーとしては際立ちそう。夢は見る人にとってはごくごくプライベートなもの、世界にとってはささやかなことだ。しかしココネ(と家族)にとっては大冒険のように壮大なものになりうる。その対比がいいのではないだろうか。本作では現実世界の大企業の陰謀の方が壮大になってしまい、メリハリがないのだ。
 作中の大企業、組織の描写に説得力がないというのも、奇妙な印象になっている一因かと思う。フィクションとしてのデフォルメの度合いをどのへんに設定したのかよくわからなかった。ちょっとコミカルというか、取締役の頭悪すぎないか?会長にしても、その立場でそのタイミングでそこに拘るのっておかしくない?別のやり方があるんじゃない?と突っ込みたくなるのだ。フィクションであっても、こういう組織なんですよという説得力があればいいんだけど、そのあたりが曖昧で雑に見えた。

『パッセンジャー』

 入植先の惑星を目指し、5000人の乗客を乗せて地球から飛び立った宇宙船アヴァロン号。目的地に到着するまでの120年間、乗客は冬眠装置で眠り続けるはずだった。しかし、エンジニアのジム(クリス・プラット)と作家のオーロラ(ジェニファー・ローレンス)だけが予定よりも90年近く早く目覚めてしまう。このままでは目的地を見ることなく寿命を終えてしまうのだ。2人は状況を打開しようとするうち、惹かれあっていく。監督はモルテン・ティルドゥム。
 本作、ネタバレせずに感想を書くのがすごく難しいんだけど、ちょっと頑張ってみる。このネタバレ部分のせいで、賛否が大きく分かれると思われる。また、ネタバレ部分のせいで、映画の前半と後半はジャンルが違うんじゃないのというくらいの捩れを起こしているのだが、個人的には面白いと思った。前半はスタンダードかつどちらかというと端正なSFなのだが、中盤以降、何でもありになってくる。いきなり盛りがよくなるというか闇鍋が始まるというか・・・。
 宇宙船内のデザインがちょっと昔の洗練されたSFという雰囲気で、懐かしいのにスタイリッシュで美しい。SF考証として正しいのかどうかわからないが、こういうシーンを作ってみたい!というやる気が感じられる部分が多く、ビジュアル面での楽しさは大きかった。バーテンロボットの下半身が「省略」されている所とか、この辺は(宇宙船メーカーが)あんまり注力しないんだなという部分もいい。ルンバの進化形みたいなお掃除ロボットの動きも可愛かった。
 さて本作の評価の是非、というか好き嫌いの別れる原因は、ジムのある行動によるものだろう。他人の人生を自分の欲望の為に使うことであり、倫理的には許されない。しかし、極限状態(何が極限状態化については人によって意見が違うと思うが)で人は倫理的に振舞うことができるかというと、かなり難しいのではないか。ジムの行動は許されないが、強く糾弾できるかというと、ちょっと心もとない。ジム役にプラットが起用されたというのは納得の人選。本作のような役でもぎりぎりでアウトにならない程度の愛嬌があるのだ。彼は『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』でも、無能ではないが人としての弱さが目立つという役所だったし、その程度の頼りない「ヒーロー」がはまる。弱い人だからこそ、その弱さを押し殺して挽回しようとする様がインパクトを与えるのだ。基本的に、人は弱いという思想で作られた作品なように思う。また、オーロラ役のローレンスが、プラットの1人や2人や3人くらいは捻り殺せるような圧を持っているのも、なるほどこのキャスティングでないと駄目だったんだなと納得させる。
 しかし最も気になったのは、アヴァロン号を運営する企業には相当問題があるんじゃないかという所だ。船内で生じる不調の原因はこれだったのでは?というシーンが序盤にあるのだが、120年間宇宙を旅していたら、この規模のアクシデントは相当数起きるんじゃないかと思うし、それは容易に予測できると思う。なぜ事前に対策を練っておかなかった?!と企業を糾弾したくなる。乗客5000人全員を無事に搬送しようという設計には思えないんだよな・・・。また、乗客からの費用搾取システムや船内格差も結構エグい。エコノミークラスの朝食、もう泣きたくなってくるもん・・・。

『フランシスカ』

 特集上映「永遠のオリヴェイラ」にて鑑賞。マヌエル・ド・オリヴェイラ監督、1981年の作品。1850年代のポルト。小説家のカミーロと友人のジョゼは、フランシスカと呼ばれるイギリス人の娘ファニーに惹かれる。ファニーはジョゼと結婚するが、3人の関係は悲劇的な結末を迎える。原作はアグスティ・ベッサ=ルイスの小説『ファニー・オーウェン』。実際にあった話を元にしているそうだ。
 カミーロとジョゼが、あるいはフランシスカとジョゼ、また他の人たちが対話するシーンはいくつもあるが、双方の意思疎通の為の会話という気がなぜかしない。特にカミーロとジョゼはお互いばらばらの方向を見て、会話の内容も噛み合っているのか噛み合っていないのかという印象の方が強い。それぞれがそれぞれの思いを口にはするものの、それは届くべき人のところに届かない。お互いの間には高い壁のようなものがあり、思いが通じ合うことを阻んでいるかのようだ。劇中時間を止めるような、そこだけ空間が切り取られた独白シーンが印象に残るのも、その独白があまりに孤独で、誰にも届かなさそうだからかもしれない。
 カミーロは小説家という職業柄か、ジョゼのこともファニーのことも俯瞰して自分が彼らをコントロールしている気でいる。彼はジョゼにもファニーにも情熱がなく、結婚生活は上手くいかないだろうと踏んでダメ出しばかり。ジョゼはカミーロに反発しつつ、ファニーを自分のものにしたくなる。ファニーはジョゼを愛するが、徐々にジョゼの全てを支配したくなる。お互いの支配欲と「マウント取りたい」感がえぐく迫ってくる。特にカミーロの神の采配気取りには笑ってしまう。ファニーに選ばれなかったことのあてつけでもあるのだろうが、自分はあの2人よりも優れている、と本気で思っている風なところが何様だ感を強めるのだ。
 しかし不思議なことに、ファニーを巡る三角関係であるのに、ファニーの存在感が薄い。彼女の意思表示が弱いというよりも、カミーロとジョゼの2人の張り合いのトロフィーとしてファニーが位置づけられており、2人にとって、独立した人間としての彼女はさほど重要ではないのではと思えてくるからだ。いわゆる恋愛上の三角関係とは一線を画しているように思った。根深い愛憎があるのはカミーロとジョゼの間で、お互い嫌だ嫌だと言いつつ縁は切らない。とは言え、ファニーも当然人格を持った個人なので、その行動はカミーロやジョゼの思惑からは外れていく。そのことにカミーロもジョゼも思い当たらなかったことが、悲劇の発端だったように思う。

『百日告別』

 自動車の玉突き事故によって、結婚間近の婚約者を亡くしたシンミン(カリーナ・ラム)と、妊娠中の妻を亡くしたユーウェイ(シー・チンハン)。2人は愛する人の死を受け入れられずにいたが、初七日、四十九日、七十七日と時間は過ぎていく。監督はトム・リン。
 愛する人の死という題材であっても過剰なウェットさ、ドラマティックさはなく、むしろつつましやかな印象の作品。シンプルな物語だが、パートナーを突然亡くして頭も心も状況についていけない感じがありありと描かれる。親戚が葬儀の手筈を相談していることに苛立ったり、周囲がよかれと思ってやってくれることが的外れに感じられてしょうがなかったりと、周囲の状況から置いていかれている、自分だけ時間が動かない感じが切実だった。 一人で喪失と向き合う時間が必要なのだろうが、周囲の状況はどんどん進むし、一人でいすぎると死に近づきすぎてしまい危険でもある。前に進むことと引き戻されることとの間で、シンミンもユーウェイも揺れているのだ。
 最初のうちは自分と亡くしたパートナーとの間のことしか考えられず苦しんでいた2人だが、時間がたつにつれ、視界が広がっていく。自分以外にも死者を悼む存在がおり、自分にとっての死者とはまた違う側面を見ていたのだということ、また死者が残していったものがあったことに気付いていくのだ。ここまでくれば、あとはきっと大丈夫という気持ちになってくる。四十九日とか七十七日、死者との距離を測るシステムとしてよくできていたんだな・・・。
 台湾の映画だが、街中にしろ山の上のお寺の周囲にしろ、風景に味わいがあった。お寺まではバスで山道を登っていくのだが、木漏れ日の中をぐねぐね進んでいく様がとてもいいのだ。ちょっといつもと違う場所に行くような非日常感を感じる。また、シンミンは新婚旅行で行くはずだった沖縄を1人で旅するのだが、日本国内で自分も実際に行ったことがある場所の風景なのに、海外の映画の中に出てくると海外のように見えるというのが何だか不思議。映画の中の沖縄は、シンミンにとっての沖縄なんだなと。シンミンの婚約者は料理人だったので、(彼が食べたかった、また彼が残したレシピによる)色々な料理が出てくるが、どれもおいしそうだった。
 なお、台湾でも日本の漫画は相当読まれているのね。稲中とか、神の雫とか、将太の寿司とか・・・。

『バッドガイズ!』

 「未体験ゾーンの映画たち2017」で鑑賞。ニューメキシコ州アルバカーキ。警官のテリー(アレクサンダー・スカルスガルド)とボブ(マイケル。ペーニャ)のコンビは、パトロール中に暴力沙汰を起こし、強盗を見つけては現金をピンハネ、ドラッグを横流しと悪事を繰り返して上司からも目を付けられていた。ある日、ギャングが100万ドルの強盗計画を立てていると知り、その金を横取りしようと企む。しかしその計画には、裏社会の大物も関わってきた。監督・脚本はジョン・マイケル・マクドナー。
 同時期に公開されている『ナイスガイズ!』にあやかった邦題なのだろうが、意外と内容と合っていた。そして『ナイスガイズ!』の3倍くらいストーリー展開がだらだらとしている。途中でそういえばこの金どこから出てきたんだっけ?と道筋を見失いかけた。どちらかというと警官コンビの掛け合いや小ネタの数々にニヤニヤする類の作品で、ストーリーを追おうとすると正直つらかった。本作、なぜか文学ネタがしばしば投入されており、映画の作りは雑だし頭悪そうなのに小ネタには教養が見え隠れするという不思議なバランス。まさかこんな映画で三島由紀夫が引き合いに出される(まあ文学的な功績によってではないんですが・・・)とは思わなかった。
 テリーとボブは絵にかいたような悪徳警官でやりたい放題。これに比べると『あぶない刑事』なんて発砲量が多いだけで全然ちゃんとした刑事だわ・・・。テリーもボブも自分達がやっていることは悪事だとわかっているが、悪いとは思っていないのであっけらかんとしている。その一方で、自分たちなりの正義感、この一線は越えないぞという矜持が感じられるところは、警官バディものならでは。テリーがある少年を保護しようとする姿勢(彼なりの超論理があるんでなんとも言えないんだけど・・・)にはそれが感じられるし、トラブルばかり起こすテリーを庇い続けるボブの姿勢もそうだろう。
 なお、警官としての立場を利用して悪事やりほうだいということで、女性にも手を出しまくっているというのがこの手の設定のパターンだが、本作には意外とその部分がない。テリーは惚れっぽいが本命一筋だし、ボブは妻との息が合っている(妻がテリーについてどうこう言わないところが良かった)。そういう点では意外とマッチョっぽくない作品。女性に対するセクハラネタが少ないところは良かった。

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