3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名は行

『星の子』

 中学生のちひろ(芦田愛菜)は両親と2人暮らし。両親は新興宗教に深く傾倒していた。病弱だった幼いころのちひろを救ったのがこの宗教で清められた水の力だと信じているのだ。中学3年になり受験を控えたちひろは、憧れている南先生(岡田将生)に、宗教儀式を行っている両親の姿を見られてしまう。原作は今村夏子の同名小説。監督・脚本は大森立嗣。
 ちひろの父(永瀬正敏)も母(原田知世)も、彼女のことを愛し大切にしているが、世間から見たら変な環境でかわいそう、ということになる。実際、子供を大切にしてはいるが日々の食事や住環境については少々おろそか、というより宗教内の価値観で行動してしまうので世間の「ケア」とはずれていると言った方がいいだろう。ちひろは両親を愛しており自分がかわいそうとは思っていない(と思われる)ので、世間とのギャップが生じる。なんとなくわかっていたそれが、南の言葉で突き付けられてしまう。
 ちひろにとっては宗教に傾倒していることも含めて自分の両親であり、そういう両親がいるということが自分を構成するパーツになっている。そこに対する否定はなく、両親の愛を信じ、自身も彼らを愛する。とは言えその愛は、15歳の子供の視野の中での愛であり選択だ。子供にはそもそも選択肢がない。伯父一家からの提案をきっぱり断るちひろの姿は毅然としているが、それは選択肢がないから、他を知らないからだということを見落としてはいけないだろう。
 ちひろの友人とそのボーイフレンドの存在感がいい。ちひろの家が宗教にはまっていることは知っており、それを口にもするが、揶揄はしない。ボーイフレンドもちょっと抜けているけどちひろに対する態度はフラットだ。距離の取り方が適切なのだ。対して、南の態度の失礼さが際立つ。大人げないな!彼の授業も、こいつ生徒の話絶対聞いてないなという姿勢のもので大分独りよがりだったと思う。

星の子 (朝日文庫)
今村 夏子
朝日新聞出版
2020-01-31


タロウのバカ
國村隼
2020-02-18




『フェアウェル』

 ニューヨークで暮らすビリー(オークワフィナ)は、中国で暮らす祖母ナイナイ(チャオ・シュウチェン)が末期がんで余命僅かだと知る。各地で暮らしていた親族は中国に帰郷することになるが、その名目はビリーの従弟の結婚式の為。中国では回復の見込みがない患者には病状は伏せておくのが慣習なのだ。ビリーは祖母に真実を告げるべきだと反発するが、親戚から説き伏せられる。監督はルル・ワン。
 ビリー、両親、祖母はそれぞれ別の文化圏で生きている。世代の違いもあるし、中国系移民と中国人の意識の違い、またビリーに関してはアメリカに渡ってきたのは幼いころなので中国人としてのアイデンティティはかなり薄く、中国語も流暢ではない。ビリーの伯父は、西洋と東洋とでは個人の在り方が違うのだと言うが、ビリーは納得出来ない。末期がんの宣告を当人にしないというのはアメリカでは罪になる為、ビリーは自分が所属する文化圏の倫理に従うと、家族が所属する文化圏の倫理にふれることになってしまう。また、結婚式の支度で張り切る祖母を見ると何も言えなくなってしまうという面もあるだろう。このジレンマが全編続き、解消されることはない。
 アメリカの文化と中国の文化、また世代ごとの軋轢はずっと継続しており、多少歩み寄ったりなんとか折り合いをつけたりはするが、まじりあうことはないように見えた。食事の席で、中国は好景気だから帰ってきたら?と投げかけられたビリーの両親は、アメリカに行ったらお金が一番ではなくなるのだと言う。個人の在り方が違うからということだろうが、中国に暮らす伯父たちにはその感覚はわからないだろう。一方で伯父たちも自分の息子は海外留学させるし、息子が海外に永住するかもともうっすら思っている。色々と矛盾はあるが、そういったものが並立しているところに、人の心や生活の割り切れなさを感じた。ビリーは祖母の価値観を全て共有できるわけではないし、おそらく中国に戻りたいとは本気では思っていない。それでも祖母を愛しているしウマが合う。割り切れないまま付き合っていくのだ。
 本作に出てくる披露宴や墓参りは、ひと昔前の日本のものと近いが、こういうイベントごとは個人的には非常に苦手で、トラウマが甦りそうになった。特に披露宴の、周囲を楽しませなければ、喜ばせなければ(これも個ではなく共同体が重視される文化圏ということか)というプレッシャーがきつい。こういう披露宴はもう一生出席したくないな…。

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)
イーユン リー
新潮社
2007-07-31


恋人たちの食卓<普及版> [DVD]
ウー・チェンリン
マクザム
2017-06-30


『ブリング・ミー・ホーム 尋ね人』

 看護師のジョンヨン(イ・ヨンエ)と夫のミュウングク(パク・ヘジュン)は、6年前に行方不明になった息子ユンスを探し続けていた。ある日「ユンスに似た子をある漁村で見た」という情報が寄せられる。ジョンヨンは漁村を訪ねるが、ユンスが見かけられたという釣り場を営む一家は、彼女を追い返そうとする。監督・脚本はキム・スンウ。
 勢いがある展開でぐいぐい見せてくる。終盤はこの絵を撮りたいという熱意の方が先に立ってしまって登場人物の行動経緯が展開上ちぐはぐな所もあり、決して精緻な脚本というわけではないのだが、緊張感が途切れず面白い。イ・ヨンエの母親演技から、子供を失った絶望とわずかな可能性にすがる切迫とがひしひしと迫ってくる。
 ジョンヨンとミョングクは子供が失踪するという悲劇にみまわれているが、そこを面白半分につつく世間の冷酷、また無関心が辛い。こんなに無頓着に他人を傷つけるのかと。そして何より、釣り場の一家のように、自分よりも弱い存在を平気で食い物にする、消費していいものとして扱っている様がそら恐ろしかった。更に、彼らが子供や女性を食い物にして守ろうとする利権が全く持ってショボいのだ。こんなことのためにジョンヨンたちはボロボロにされたのか!と愕然とする。全然バランスとれていない気がするのだが、ホン署長(ユ・ジェミョン)たちはそんなこと考えもしないのだろう。すごく狭い世界で展開している小さい悪であることが逆に怖い。

母なる証明 [Blu-ray]
チョン・ミソン
TCエンタテインメント
2020-07-22


私の少女 [DVD]
ソン・セビョク
ポニーキャニオン
2015-10-02


『ぼんくら』

 2016年8月、富山のローカルTV局チューリップテレビのニュース番組が、「自民党会派の富山市議、政務活動費事実と異なる報告」というスクープを報道した。富山市議のドンといわれている準陳市議はその後不正を認め辞職。これを皮切りに市議たちの不正が続々と発覚し、半年で14人の辞職者が出た。議会の腐敗と議員たちのその後を追ったドキュメンタリー。監督は当時ニュース番組のキャスターだった五百旗頭幸男・砂沢智史。
 テレビ番組として放送された後の3年間の取材分を追加したドキュメンタリー映画。大変な労作で(資料の突合せとか見るだけでやる気なくなりそう)すごく面白かった。次々と市議の不正が明らかになっていくわけだが、次々と明らかになりすぎてもはやコント。登場する市議たちがこれまた実に悪そうな下卑た顔に見えてくる。政治家って基本的にいい顔した人が稀だなという、勝手かつあまりよろしくない(見た目で判断しているわけだからね…)先入観があるのだが、本作に登場する市議たちは地方の灰汁の強いおじさんたちという感じ。多分当人たちは悪いことをしている意識もあまりなく、こういうものだから、という通例に基づいてやっていたんだろうなという気がするし、そこに怖さがある。謝ればいいだろう、辞めればいいだろうというレベルで彼らの中では収束してしまいそうなのだ。
 その普通の基準おかしいでしょ、と指摘したのが報道サイドというわけだけど、わざわざ指摘されないと気付かなかったの?平気だったの?スルーしてきたの?と問いただしたくなる。議員当人だけでなく、周囲の関係者たち、他の公務員たちもそういう感覚なのだ。多分富山市に限ったことではなく、地方の議会ってこういう感じなのではないだろうか。日本の政治の風景がそら恐ろしくなる。
 TV局側の調査取材は特別なことをやっているわけではなく、話を聞きだし資料公開請求をし得られた情報をひとつひとつ照らし合わせていくという地道なもの。そういう地道な取材と報道で、決して大きくはない若い(2016年開局)地方局がこれだけの仕事をした、ということには希望が持てる。が、終盤のキャスターたちの顛末を見ると何らかのしがらみが窺えて心配になってしまう。

選挙 [DVD]
紀伊國屋書店
2007-12-22


『フェイシズ』

 離婚の危機に直面している中流階級夫婦の36時間。夫リチャード(ジョン・マーレイ)は友人と高級娼婦ジェニー(ジーナ・ローランズ)の元に入り浸る。妻マリア(ジーナ・ローランズ)は主婦友達とクラブに繰り出し、青年チェット(シーモア・カッセル)と一夜を共にするが浮かない顔だ。監督はジョン・カサヴェテス。1968年製作。本作でマーレイはヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞している。
 夜遊びにおける男女の不均等を目の当たりにしてしまった。リチャードは男友達と高級娼婦の元に上がり込み、酒に酔ってくだをまき、(リチャードじゃなくて友人が言うのだが)ジェニーにいくらで寝るんだと迫る。一緒に酒と女で遊べば仲間、みたいなマチズモとホモソーシャルが背景にある、嫌な「おじさんの遊び」だ。そこに妻や家族に対する罪悪感はないし、あっても「こういう所でしか愚痴を言えないかわいそうな自分」という自己憐憫が上回っているし娼婦たちもそれを慰めてくれる。一方マリアも友人たちも、クラブに繰り出しても羽目を外しきれない。はしゃいでも板についておらず、夫の知らない所で遊んでいるという罪悪感がつきまとう。何でそんなに気にしないとならないのかともどかしくもなる。マリアの方が逃げ場がないのだ。逃げ場のなさが、彼女をある行動にまで追いやってしまったのだろう。
 カサヴェテス監督作品では、登場人物がよく酒を飲み酔っぱらうが、それが楽しいもの、愉快なものとしてはあまり描かれていない。こんな酒の席は嫌だ!と思うようなものだったり、自分を壊していくような一人飲みだったりする。本作ではリチャードと仲間が大いに酔っぱらうが、その姿は決して気分のいいものではない。絡み酒だったりマウント合戦だったりと、日本のサラリーマンの世界でもよく目にされそうな光景が繰り広げられる。こういう部分は50年以上たっても変わらないのかとがっくりきた。カサヴェテスは酒飲みの醜悪さをよくわかっていたんだろう。
 また、人が笑うシーンに幸せがあまり伴っていないというのもカサヴェテス作品の特徴ではないかと、本作を見て改めて思った。登場人物たちは結構よく笑ってはいるが、楽しい、幸福なシーンなのかというとそうでもない(そもそもカサヴェテス作品には幸福なシーン自体があまりないけど…)。彼らの笑いはむしろ周囲を不安・不快にさせるものだ。笑い声に暴力性があるということが意識されているように思った。

フェイシズ [DVD]
ジーナ・ローランズ
キングレコード
2018-07-04


こわれゆく女 2014年HDリマスター版 [DVD]
ピーター・フォーク
キングレコード
2018-08-08


『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』

 勉強一筋に打ち込み名門大学への進学を決めたモリー(ケイトリン・デヴァー)とエイミー(ビーニー・フェルドスタイン)は、パーティー三昧だった同級生たちもハイレベルな進学先を決めていることを知り愕然とする。卒業前夜、失った高校生活を取り戻すべく同級生のパーティーに乗り込もうとするが。監督はオリヴィア・ワイルド。
 アメリカの学園コメディのテンプレートを現代的に諸々アレンジした作品なのだろうが、評判ほどの新鮮さ、革新度は感じなかった。確かに高校生たちはルーツや趣味嗜好セクシャリティが様々だし、エイミーは同性愛者であることをカミングアウトしているが同級生も両親もそこを取り立てていじることはない。もうそこは特別なことじゃないよ、という共通認識がある。モリーとエイミーの「女子同士」のやりとりも「女子」性を強調したものではなく、フラットな描き方になっている(「何すか?!」といった字幕の台詞翻訳もよかった)。ただ、同級生たちの造形は多様だけど、ひとつひとつはステレオタイプ的で、チャラそうなやつが実は優秀という見せ方も古典的。表層的なブラッシュアップにとどまっており、作品の構造自体はむしろコンサバな学園ドラマのままなように思った。ボンクラ男子の女子版というだけ新しくはならないんだな…。モリーは自分が多面的で「面白い」と知ってほしい!と主張するが、彼女自身が同級生らの多面性、「面白さ」に目を向けていなかったと気付くという流れは悪くないんだけど。
 何よりひっかかった、ちょっと古いなと思ったのは、モリーとエイミーが自分たちの高校生活はつまらないものだった、「楽しい高校生活=パーティー等で仲間とはしゃぎまくること」と思ってしまうことだ。彼女らは確かに勉強一筋だったが、そもそも元から勉強熱心な人たちだ。そして2人の間ではバカ騒ぎも悪ノリもある。好きなことを一生懸命やったわけで、だったらわざわざ卒業間際になってわかりやすい「パーティー」をやることもないのではないか。彼女らにパーティーに行かなくてはと思わせるものは何なのかという所に切り込んでいかないと、新しさは感じられないのではと思った。「楽しい学園生活」の概念自体が変わらないとだめなんじゃないだろうか。
 なお、自分はアメリカのコメディ、特に学園コメディはやっぱり苦手なんだなと実感した。下ネタ必須みたいなノリが笑えないんだよな…。モリーもエイミーのプライベートに踏み込みすぎで、こういうのが親友と言う関係なら親友いらないわと思ってしまった。

22ジャンプストリート (字幕版)
アイス・キューブ
2015-03-04


ゴーストワールド [DVD]
ブラッド・レンフロ
角川映画
2009-06-19





『ぶあいそうな手紙』

 ブラジル南部の町、ポルトアレグレに暮らすエルネスト(ホルヘ・ボラーニ)は妻に先立たれ一人暮らし。78歳になり目はほとんど見えなくなったが、息子の元に身を寄せる気にもなれず自宅のアパート売却にも消極的。ある日、昔の女友達から手紙が届いた。エルネストはたまたま知り合った若い女性ビア(ガブリエラ・ポエステル)に手紙の朗読と口述筆記を頼む。監督はアナ・ルイーザ・アゼヴェード。
 見ず知らずの相手、かつ実は少々手癖が悪いビアを自宅に招き入れるとは、エルネストは少々不用心すぎないか?と思いきや、彼女を全面的に信用していたわけではないという「テスト」のエピソードが挿入される。まあ可愛らしいものなのだが、このエピソードがあることでファンタジー度合いが少々下がり、それぞれの事情がある人対人の物語に見えてきた。基本善人たちの話でほんわか寄りではあるが、ほんわかに寄せすぎず、人生の寂しさほろ苦さも織り交ぜバランスを取っていると思う。
 DV男と付き合っているビアは、孤独だと誰でもいいから側にいてほしくなってしまうのだとエルネストに言う。エルネストは自分は孤独を感じたことはないと言うのだが、これは彼が全く孤独ではない(孤独を感じない)ということではなく、孤独であっても大丈夫だということではないか。エルネストには旧友たちとの関係や亡き妻や隣人と積み重ねてきた時間がある。今一緒にいないとしても関係性のバックアップがあるのだ。そういう人は孤独にさいなまれにくく、安易な関係に飛びつきにくいのかなと。ビアは家族とも疎遠らしいので、長期的に安定した信頼関係が持てなかったのだろう。
 エルネストとビアは友人に、親子のようになっていく。エルネストが少々浮かれている描写はあるものの、恋愛ではなく広義の愛であるところがいい。2人に必要だったのは信頼と友愛によってお互いの世界を広げることだ。そもそもエルネストは過去に思い残しがあるし、恋愛は同年代とした方がいいというラストでもあるな。
 また、エルネストとビアのある意味わかりやすい交流よりも、隣人との腐れ縁的なやりとりの方が、高齢者の友情の在り方として心に染みる。立ち入りすぎず、具体的に何かを残しあうわけではないが、どうということのない時間の積み重ねによって残るものがあるのだ。別れ際のあっさりとした様もまた染みる。

ウィスキー [DVD]
ホルヘ・ボラーニ
アミューズソフトエンタテインメント
2005-10-28


ラッキー(字幕版)
ロン・リビングストン
2018-12-05


 

『フライデー・ブラック』

ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー著、押野素子訳
 文字通り戦場となるブラックフライデーに、モールに押し寄せる魍魎のような客を次々とさばき衣料品を売りさばく「俺」(「フライデー・ブラック」)。体験型テーマパークのキャストとして毎日プレイヤーに殺される役の男の葛藤(「ジマー・ランド」)。男無差別殺人に走った加害者と被害者が、死後に新たな惨事を防ごうとする(「ライト・スピッター 光を吐く者」)。角度を変えて見た日常の奇妙さ・理不尽を描く短編集。
 各方面から絶賛されたというのも納得。「今」読まれるべき作品だろう。収録された作品のほとんどが何らかの暴力を描いている。「ジマー・ランド」は正義という名の暴力で遊ぶテーマパークの世界だし、「ライト・スピッター」は殺人事件。また「旧時代<ジ・エラ>」は建前や平等さへの配慮がなくなった弱肉強食世界の暴力性を描く。「ライオンと蜘蛛」では家庭内のボスとしての父親の支配的な暴力性(物理的な暴力でないにしろ)が垣間見えた。そして「フライデー・ブラック」「アイスキングが伝授する「ジャケットの売り方」」「小売業界で生きる秘訣」のモールシリーズとでも言いたくなる連作では、消費欲を駆り立て従業員同士の競争意識を煽る、しかしどんなに売り上げても従業員への見返りはわずかという資本主義の暴力性が見える。ここに登場する客たちはもはやお買い物ゾンビと化しており、特に「フライデー・ブラック」のスプラッタさには笑ってしまった。しかもモールに集まる客たちはブラックフライデーでしか買えない(富裕層はそもそもブラックフライデーを利用する必要ないもんね…)所得水準で、それゆえ必死であるというところに、更に残酷さを感じる。
 また、アフリカ系アメリカ人として生活するということは、どういう視線にさらされることなのか、はっとする作品も。冒頭に収録された「フィンケルスティーン5<ファイヴ>」は、黒人の少年少女が白人男性に「自衛」の為に殺害された事件と、それに対する世間の反応、そして黒人であるエマニュエルの行動を描く。エマニュエルが「ブラックネス(黒人らしさ)」を上げたり下げたりする様はユーモラスであると同時に、そういう行為を強いられる(なぜオフィシャルな場では「ブラックネス」を下げないとならないのか?)という不均等、気持ち悪さを感じさせる。ふと気づくと世界は奇妙でグロテスクなのだ。

フライデー・ブラック
ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー
駒草出版
2020-02-03


地下鉄道 (早川書房)
コルソン ホワイトヘッド
早川書房
2017-12-15


『ポルトガル、夏の終わり』

 女優のフランキー(イザベル・ユペール)はポルトガルのリゾート地シントラに家族を呼び寄せる。がんの進行が発覚し、自分がいなくなった後のことを考え、余命宣告家族や友人に良かれと思って色々と采配していたのだ。しかし家族らにもそれぞれの事情があった。監督はアイラ・サックス。
 森、山、町、海と緩急に富んだシントラの風景が美しい。目に映るものはまぶしくキラキラしているが、少し寂しい。この味わいが夏休みぽかった。家族親族が集まって、まあ楽しいことは楽しいけど表面上取り繕った感が否めない所も、また夏休み感を強める。。夏休みってこんな感触だったという記憶が呼び起こされる。
 フランキーは自身のことであれ周囲の人間関係であれ、何でも自分の思い通りにコントロールしたがるし、それを実践してきた人だということが窺える。とは言えそこに悪意はなく、家族を自分の友人と息子とがお似合いだからと引き合わせようとする(夫にたしなめられるが)のも、自分が良かれと思ってのことだ。周囲の人間からすると、それぞれ事情ががあるし別の人格なんだから勘弁してほしいという所だろうが。フランキーは何でも一方的に決めてしまうので、周囲は振り回されてしまう。そんな彼女が、一番コントロールしたいであろう自分の体については力が及ばないというのが皮肉だ。
 とは言え、周囲の人たちもフランキーの思惑通りには動かない。家族とは言えそれぞれ別個の人格で他人である、ということが痛感される。本作中では「あなたと同じ考え」という関係性は描かれない。愛し合う夫婦でも親子でも友人でも、考えていることは別でそれが当たり前だ。愛の有無は関係ない。この手のストーリーだとばらばらだった家族が関係を構築しなおすというのが一つのセオリーだが、本作では家族も恋人も他人、いずれは別れ行くものという諦念が底にある。クライマックスの夕暮れシーンはそれを象徴するもののように思った。

『ハニーボーイ』

 人気子役のオーティス(ノア・ジュプ)は“ステージパパ”の父親ジェームズ(シャイア・ラブーフ)とモーテル暮らし。ジェームズは時に感情を爆発させオーティスを混乱させる。演技の道に進もうとするオーティスは、ジェームズに「普通の父親」になってほしいと願うが。監督はアルマ・ハレル。
 成人しプロの俳優として活躍するオーティスが飲酒問題で療養施設に入れられる、という所から映画はスタートする。アバンとタイトル提示直後の流れ・演出があまりに退屈なので(ワイヤーつけてのアクションシーンの成長後/成長前の呼応などうまいことやってやったぜ感が出すぎていて、思っているほど面白くないですよ!と水を差したくなってしまう)どうなることかと思ったが、その後はまあまあ悪くない。こういう演出・構成にしようという意図の方が前に出てしまいかなり図式的で、演出意図が読み取りやすすぎて興ざめする所はあるのだが。
 この手の「至らない親」案件映画を見る度、愛情は免罪符にならないということをつくづく思う。ジェームズは彼なりにオーティスのことを愛し、可愛がって入る。機嫌のいい時には愉快な父親だとも言える。しかし子供を十分に守り、養育するという面では不備が多いと言わざるを得ない。撮影所に迎えに来ないジェームズをオーティスが待ち続ける姿には胸が痛くなる。困っていることを周囲の大人に言えないというところがまた辛いのだ。自分がケアされていないということを周囲に知られれば父親が苦境に立たされるし、自分自身も「かわいそうな子」と思われたくないのだろう。そういう状況がかえってオーティスの首を絞めていく。
 愛情は免罪符にならないというのは子供側においても同様で、どんなに親を愛していても離れた方がいい親というのはいる。なかなか諦められないから辛いんだけど…。コメディドラマでの演技に関する双方の意見不一致の様子など、ジェームズのずれ方が痛々しい域だし、ジェームズの感情的な言動や他の大人の関わりをかたくなに拒む態度は、一歩間違うと虐待やネグレクトになりかねないだろう。問題ある親に対して必要な態度は、許容や許しではなく諦めなのでは。

荒野にて(字幕版)
スティーヴ・ザーン
2019-09-03


フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法(字幕版)
ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ
2018-10-03


 
ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ