3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名は行

『パワーレンジャー』

 それぞれの事情から補習クラスに通う羽目になった高校生のジェイソン(デイカー・モンゴメリー/吹替:勝地諒)、キンバリー(ナオミ・スコット/広瀬アリス)、ビリー(RJ・サイラー/杉田智和)、同じ高校に通うが欠席がちなトリニー(ベッキー・G/水樹奈々)、ザック(ルディ・リン/鈴木達央)は偶然、同じ場所に居合わせ不思議なコインを手に入れる。しかしそのコインのせいで彼らに超人的なパワーが生まれた。不思議に思いコインを発見した場所に戻った彼らは、かつて世界を守った「パワーレンジャー」の1人ゾードン(ブライアン・クラストン/古田新太)と、機械生命体アルファ5(ビル・ヘイダー/山里亮太)に出会う。ゾードンがかつて戦った悪の戦士リタ・レバルサ(エリザベス・バンクス/沢城みゆき)を阻止する為、ジェイソンらが新たなパワーレンジャーに選ばれたと言うのだ。監督はディーン・イズラライト。
 日本のスーパー戦隊シリーズをアメリカ向けにローカライズしたテレビドラマを、映画としてリブートした作品。当然日本では東映が配給しているのだが、洋画の前に東映のロゴが表示されるのって何か新鮮だわ・・・。作品自体はとてもお金がかかってブラッシュアップされたやや年長向けの戦隊ものといった感じなのだが、今回吹替え版で見たので、自分が馴染のある「戦隊もの」感をより味わえたように思う。ジェイソン役の勝地はアニメ吹替えの実績があるので特に心配はしていなかったが、キンバリー役の広瀬が達者とはいかないまでもなかなか頑張っていて、好感が持てた。本業声優の皆さんに関しては当然全く心配ないので、吹替え版も結構お勧めできる。特に沢城みゆきの沢城みゆき感はあーこれこれ!って感じで素晴らしかった。安心感ばっちり。
 パワーレジャーとなる5人の少年少女それぞれが、家庭や自分自身の問題を抱えていたり、学校に馴染めなかったりという背景が設定されている。自閉症やセイクシャルマイノリティという設定も盛り込まれているあたりは現代的だ。5人が何事もなく学校に通っていたら、同級生であっても特に仲良くはならない「別ジャンル」の人同士(ジェイソンとキンバリーはアメフトの花形選手とチアリーダーだから接点あるだろうけど)というあたりは、特撮版『ブレックファスト・クラブ』とも言える。全然「別ジャンル」の相手であっても協力し合えるし話してみたら面白いかもしれないし仲良くなれるかもしれないよ、という示唆はティーン向け映画として真っ当。5人の造形はなかなか良く、通り一遍から若干ずらした感じなので、むしろTVシリーズをこのキャラクターで見てみたくなった。映画だと、やはり5人の背景までちゃんと見せるのは時間的に難しいんだろうな。映画だから当然全員それなりのルックスではあるが、いわゆる美男美女、スタイル抜群という感じではない所も良かった。年齢相応な雰囲気が出ていて、女の子たちも、意外と寸胴だったりする。
 5人がパワーレンジャーに変身するのが大分後半で、しかも1度のみというあたりも、彼ら個人のドラマを見せようという意図だろう。変身や巨大メカというガジェットはあるものの、ベースは思春期の少年少女たちの青春ドラマだ。そこが間口の広さでもあるが、大人が見るには若干物足りないかなという気もする。戦隊もののお約束的カットや音楽の特徴もちゃんと踏まえているが、それに興ざめする人もいるだろうしなぁ。

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『ブラザーズ・クエイの世界 Fプログラム 21世紀のクエイ兄弟』

 特集上映『ブラザーズ・クエイの世界』のうち、Fプログラムを鑑賞。2000年代の作品をセレクトした以下のラインナップだった。現在、渋谷区の松濤美術館で開催中の企画展「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」(私は神奈川県立近代美術館葉山別館で開催した際に見た)と連携した特集上映。

『ソングス・フォー・デッド・チルドレン』(2003)
 以前のブラザーズ・クエイ特集上映で鑑賞したことがある。当時の感想はこれ。ブラザーズ・クエイ作品の中でもかなり好きな作品になる。コーラスとマリンバを多用した音楽と相まって、異様な高まりを感じる。チョークと子供の手の鬼ごっこのような円環運動等、中毒性が高い。クエイ・ブラザーズの作品て、実部を見るとわかるのだが決して人形やセットが大きいわけではない。それをさも奥行があるように見せるのは、撮影技術が高いからなんだなとよくわかる。また(本作に限ったことではないが)同じ映像を何度も反復しても手抜き感とか使い回し感が出ないところは、編集センスの良さなんだろうなぁ。やや強迫神経症的な作風との相性の良さかもしれないが。

『ファントム・ミュージアム』(2003)
 ロンドン科学博物館の医学コレクションを取り上げた作品。今回初見かと思っていたら、以前の特集上映でこれも見ていた。コレクション自体はいたって真面目なもので、過去の医療機器や人体模型等を収集したものなのだが、フェティッシュさを強く感じる。対象物自体がフェティッシュさをまとっているというよりも(そもそも大半は実用の「道具」だから)、自分の中にあるフェティシズムを喚起させられるような撮り方をされている、と言った方がいいかもしれない。ただし、女性型の人体内臓模型(人体内臓の模型で、横たわった女性の「蓋」を開けると内臓が見える)には作った人の執念というか、強いこだわりみたいなものを感じた。素朴とは言え胎児とへその緒まで再現してある。この女性型内臓模型、当時同じようなものが流行したという話をどこかで読んだことがあるのだが、何か一部の人の心に訴えるものがあるのだろうか・・・。クエイ・ブラザーズの手腕というより、対象物の強烈さが印象に残る。

『ワンダーウッド』(2013)
 題名の通り木材を使ったアニメーション。研磨された木材の質感、木目を活かしたビジュアルは、クエイ・ブラザーズ作品の中では異色かもしれない。他の作品に比べると世界観が明るくクリアというか、アクがないなと思っていたら、コム・デ・ギャルソンからの発注だったのね・・・(同名の香水の発売に合わせて制作されたらしい)。予想外のヘルシーさだったが、松ぼっくりや蓮の根のアップは少々禍々しく、朽ちて液体化するイメージも付きまとう。

『涙を流すレンズを通して』(2011)
 フィラデルフィア医師会内にある医学コレクションを取り上げた作品で、『ファントム・ミュージアム』の発展形とも言える。フェティシズムが更に加速しているが、これはコレクションの内容にもよるのかな。個々の死亡背景まで伝えられる大量の頭蓋骨や、骨外性骨形成の少年の骨格標本は、その標本の背後にある死者の物語込みで妙に人を引きつける美しさがある。それは死者の尊厳、死者との思い出を冒涜することなのかもしれないが・・・。収集した人の妄執みたいなものは、『ファントム・ミュージアム』よりも強く感じられた。同じタイプのものを大量に、というのが(それこそがコレクターということなのだろうが)何となく怖いのだ。

『正しい手:F.Hへの捧げもの』(2103)
 ある貴婦人を巡る短編。ラテン文学のマジックリアリスムのような味わい。ナレーションがついているのだが、何か原作となった小説等があるのかな?水辺を舞台に、蒸し暑さ、湿度、夜の風みたいなものに満ちている。熱気をはらんだ空気感は、クエイ・ブラザーズ作品としては珍しいかもしれない。夢の中で感じるような水の気配の再現度が高かった。自分を映し出すものとしての水=鏡と、自分を(船で)運んでいくものとしての水の存在感が大きい。




『プリズン・ガール』

LS・ホーカー著、村井智之訳
 21歳のペティは18年間、父親と2人暮らしだった。父親は彼女を学校には通わせず、夜は部屋に閉じ込め、銃器やナイフの扱いと対人戦術を叩き込むという、常軌を逸した教育をしていた。そんな父親が突然死亡。遺言内容は、遺言執行人と結婚しないと全ての財産を取り上げられるというとんでもないものだった。このままでは自由になるチャンスが奪われ、囚人のように一生を送ることになる。ペティは父の遺品を奪い、逃亡を図る。
 一気読みに最適な面白さ!父親に護身術を叩き込まれており滅法強いものの、家の外の世界を全く知らないペティの行動は危なっかしい。何しろテレビすらろくに見たことがなく、車の運転もできない(アメリカの田舎住まいで車の運転ができないというのは、いかに致命的かよくわかる小説でもある)し、父親以外の人間と接したことがないから一般的な人づきあい、適度なコミュニケーションの取り方もわからない。冒頭、警察が父親の遺体の確認にやってきたときの彼女の言動の「不自然」さの造形が上手い。ここでぐっと引きこまれた。父親はなぜ彼女をそのように育てたのか、父親はいったい何者だったのか、その痕跡を辿ることで彼女が自分の人生を切り開いていく。庇護を拒否し、初めて自分の生活を獲得しようとするペティを応援したくなる。初めて「世界」に触れる彼女の視線と通して、世界が新鮮に見えてくるシーンも。同時に、彼女に同行することになった青年の成長物語でもある。気はいいが意志が弱く流されがちだった彼が、本気でペティの力になろうとしていく。ペティの父親の遺言は、彼が忌避したものと同じものになってしまうのでは、何でこんな遺言になるんだという疑問点は残るのだが、勢いがあり息をつかせない。なおこういう設定の場合、日本だったら主人公を10代の少女にしがちなところ、ちゃんと成人なのでほっとしました(笑)

プリズン・ガール (ハーパーBOOKS)
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音もなく少女は (文春文庫)
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『ハクソー・リッジ』

 敬虔なキリスト教徒で、人を殺してはならないという信念を持ち、宗教上の理由で銃を手にすることも忌避している青年デズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は、衛生兵として軍に志願するものの、武器を持たない彼は仲間からは疎んじられ上官からは理解されない。彼の所属部隊が派遣されたのは沖縄。ハクソー・リッジと呼ばれる断崖絶壁がアメリカ軍を拒んでおり、そこは激戦地となっていた。監督はメル・ギブソン。
 第二次世界大戦中、沖縄戦で武器を使わず75人の命を救った米軍衛生兵、デズモンド・ドスの実話を映画化した作品。第89回アカデミー賞で編集賞と録音賞を受賞している。録音賞受賞は納得。音の距離感や奥行がはっきりと感じられる。銃を撃つ際の、引き金を引く作動音、火薬の爆発音、薬莢が落ちる金属音まで音の粒が立っていると言えばいいのか、音のひとつひとつがクリアでインパクトがある印象だ。音の設計や画面上の構成が3D映画ぽい(本作は2D上映のみ)気がした。
 メル・ギブソンてこんなにテンポのいい映画を撮る人だったっけと驚いた。映画の段取が良く、必要な情報を順次開示していくという感じの、よく整理されている話の運び方だと思う。少年時代のエピソードでドスの信念の根っこの部分を提示し、更に父親との関係が銃を忌避する伏線として後からきいてくる。子供の頃の遊びから、岩山を走り回る体力と敏捷さが身についたんだなという情報も得られる。父親(ヒューゴ・ウィービング)の造形もいい。彼は第一次世界大戦で従軍したが、その時の体験により人が変わってしまった。今ならPTSDと名前がつくのだろうが、当時はそういう概念はなかっただろう。戦中を舞台にした物語だが、父親のあり方は戦争の後に生じること、戦争の後には彼のような人たちが大勢現れるであろうことも提示しているのだ。
 新兵の訓練では、当然銃を扱う課題がある。課題をすべてクリアしないと一人前の兵士としては認められないのだが、ドスは宗教上の主義としてこれを拒む。上司や同僚からすると戦場で武器を持たないというのは理解しがたい。ドス本人が危機にさらされるだけでなく、無力な隊員を守らなくてはならないという「手間」は隊全体にとってリスクとなるからだ。ドスは上官に逆らったことで軍法会議にかけられるのだが、ある手紙によって窮地を救われる。この手紙の内容が、なるほどアメリカは腐っても立憲主義国ということなんだなと納得させられるものだ。憲法は信仰の自由を守る、軍は憲法を守る為に存在するというスタンスなのだ。ダンを疎んじていた上官や同僚も(表面上とは言え)この指摘に納得するし、映画を観ている観客も納得するはずと思われているのだろう。ダンの行動は理にかなっているとは言い難いだろうし、上官も同僚も理解はしていないと思う。とは言え、彼には信仰を持ち続ける権利も、信仰を持ちつつ兵士になる権利もある。理解は出来ないがその権利は認める、ということなのだろう。

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『昼顔』

 お互いパートナーがいながら不倫関係にあった木下紗和(上戸彩)と北野裕一郎(斎藤工)は、北野の妻・乃里子(伊藤歩)によって引き離され、二度と会わないし連絡も取らないという念書を交わしていた。離婚して海辺の町で一人暮らしをしていた紗和は、大学の非常勤講師として北野が講演に訪れていることに気付く。再会した2人は何度も逢瀬を重ねるようになるが。テレビドラマ『昼顔 平日午後3時の恋人たち』の劇場版。監督は西谷弘。
 私はテレビドラマは何となく話の流れを知っているという程度なのだが、映画版を見るのに特に支障は感じなかった。本作、予想外の展開がほぼないのだ。主役2人が不倫をするドラマだったらまあこういう展開があるだろうな、というテンプレのみでほぼ出来上がっている。テンプレを使うことに対する照れとか躊躇みたいなものが全くなく、やるからには堂々とど真ん中をやるぜ!といった面持で、一回廻ってむしろ挑戦的なんじゃないかという気までしてきた。
 とはいえ、テンプレの連打だから退屈かというとそんなことはない。テンプレ=型であり、型をちゃんとふまえたものは間口が広く、普遍性があるのだ。TVシリーズを見ていなくてもそれなりに楽しめるというのは、そういうことだろう。所々、何でこの曲を使うの?ここは笑うところなの?というような違和感を感じたが、TVシリーズを踏まえての演出だったのかな?とは思った。
 前半は紗和と北野が再会し、何度もデートを重ねていくが、2人のいちゃいちゃ感がいちゃいちゃのお手本的で、幸せ感だだ漏れな感じに若干退屈してくる。ドラマとして盛り上げてくるのは、しっぺ返しが待っている後半だろう。正にメロドラマという展開でまあそうくるよなーとは思うのだが、伊藤歩の熱演もあって結構面白い。気持ちを切り替えたつもりだったのに、実はそうでもなかったと自分で気づいてしまう乃里子の姿に説得力がある。紗和と対面した時の態度は、決して演技ではないのだろう。土壇場で自分でもコントロールできない気持ちがあふれてしまう。このコントロールできなさは、紗和と北野が陥った関係と同じなのだ。感情に翻弄されていく人たちの話と言える(恋愛ドラマは不倫だろうがそうでなかろうが大体そんなものか)。
 古典的なメロドラマなのだが、不倫した人は世間に対しても後ろめたく、申し訳なさそうにしていないとならない、不幸にならないと納得されないというのは、何だかつまらないなとも思う。お互いの関係者に対してならわかるけど、職場の同僚とかには関係ないよなぁ・・・。紗和の過去を知った同僚たちは彼女に冷たくあたるが、それが不思議だった。仕事を一緒にする上では、仕事が出来る人かどうか、最低限コミュニケーションを取れるかどうかの方が圧倒的に大事だと思うけど・・・。

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『パトリオット・デイ』

 2013年4月15日。愛国者の日(パトリオット・デイ)に開催されるボストンマラソンの警備の為、ボストン警察殺人課に所属する刑事トミー・サンダース(マーク・ウォールバーグ)は現場に駆り出されていた。会場には50万人の観衆が集まっており、マラソン参加者が次々にゴールしていく中、2度にわたって爆発が起きる。ボストン警察の警官たちは状況を把握できないまま必死に救護活動を行う。現場に到着したFBI捜査官リック・デローリエ(ケビン・ベーコン)は事件をテロと判断。多数の街中の監視カメラが撮影した、膨大な画像を解析する中で、「黒い帽子の男」と「白い帽子の男」が容疑者として浮上する。監督はピーダー・バーグ。
 2013年に起きたボストンマラソン爆弾テロ事件を題材にしたドラマで、実際に事件に関わった捜査関係者や市民たちが本人名(もちろん俳優が演じているが、関係者本人の名前が役名)で登場人物になっている。主人公格のサンダースは完全にフィクションだそうだが、彼がいることで物語としての動線整理がされている。とは言え、あまり出しゃばる主人公ではなく、基本的には群像劇だ。
 パニック映画としても、警察ドラマとしても、アクション映画としても面白い。事件直後の現場の混乱ぶりと視界の悪さは臨場感たっぷりだし、警察側も状況を把握しきれておらず指揮系統も乱れているあたりが生々しい。FBIが到着してからの捜査本部の作り方とか捜査の進め方など、どの程度事実に基づいているのかはともかく、なるほどなぁという説得力がある。監視カメラに残った断片的な映像から、容疑者の動きを推測し遡っていく流れは、「町の刑事」であるサンダースの能力がFBIの捜査力と噛み合った見せ場でありわくわくする(このエピソードが一番フィクショナリーではあるのだが)。また、中盤の銃撃戦は(これまたどの程度事実に基づいているのかはわからないが)車両と住宅地内というロケーションを活かしたユニークさがあった。民家のすぐ脇で銃撃戦プラス爆弾というとんでもないシチュエーションではあるのだが。
 とても面白かったのだが、同時にもやもやするものが残る。本作、FBIと警察、そして市民の総力戦で迅速なテロリスト逮捕に至るという物語だが、捜査の大きな手がかりとなるのは、町中に取り付けられた監視カメラなのだ。前述の、サンダースがカメ映像から犯人の行動経緯を推測していくシーンだが、犯人の動きが数分(本当に1,2分)ごとに記録できるくらいの台数のカメラがあるということに他ならない。これらの映像をFBIが一挙に収集することができ、かつ市民が積極的に撮影した映像を提供する。アメリカはここまで監視社会になっているのかと驚いたが、この監視状態がすんなりと受け入れられている所に、違和感を感じた。慣れていないからと言えばそれまでなのだが、本当にいいのか?という疑問は付きまとう。また、容疑者の画像を公開して市民の協力を仰ぐと言えば聞こえはいいが、(作中でデローリエが懸念するように)密告大会、リンチ大会になりかねない危うさもある。本作、ボストン市民が真の主役であり英雄であるというスタンスの地元愛映画でもあるのだが、「我が町」「我が国」に対する愛は、それ以外の排斥と繋がりかねない。色々と紙一重な感じだと思うのだが、それに対する自覚を(意図的なのか無意識なのか)見せないのだ。そういう意図の作品じゃないからしょうがないといえばしょうがないのかもしれないが、やはり気になる。犯人たちの英語以外の会話には字幕(英・日ともに)がつかない演出も、彼らを「他所の人」として分別しているように思った。彼らもボストン市民ではあるのだろうが(中国系男性が話す中国語には字幕がついていたので余計に)。

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2016-02-17



『光』

 視覚障害者向けの映画音声ガイド製作を仕事にしている美佐子(水崎綾女)は、音声ガイドの試作モニターの1人だった雅哉(永瀬正敏)と知り合う。雅哉の批判は言葉はきついものの、的を得たものだった。元カメラマンの雅哉は弱視の為に仕事は引退したが、更に視力が失われていくことに苛立ちと恐怖を募らせていた。監督は河瀬直美。
 冒頭、美佐子が作る音声ガイドの最初のバージョンを聴いていると、最後の部分の文章に違和感を感じる。すると、その違和感そのものを雅哉が指摘する。これは美佐子と雅哉という、全く別個の人間同士がコミュニケーションの壁を越えていく様を描いていると同時に、映画を見るという行為を描いている作品でもあるのだ。雅哉の批判は、視覚障害者の世界を理解していない美佐子への批判であると同時に、映画を見るという行為の幅を狭めてしまう美佐子のガイド=映画解釈への批判にもなっている。美佐子のガイド作成は、どこを説明してどこを割愛するのかという、文章量の調整に四苦八苦する。ともすると彼女の主観に寄りすぎ観客にとっては窮屈なものになる。反対に簡潔すぎると十分な情報が観客に伝わらない。一番最初に出てくる彼女のガイドは、ちょっと彼女自身の主観が入りすぎだ。
 とはいえ、映画を見ること、解釈するということは、常に見る側の主観が入る。自分が望むものを映画の中に見てしまうのだ。それは美佐子も雅哉も同じで、彼らが映画の中でひっかかる部分に、それぞれが抱える屈託や問題が垣間見えてくる。
 作中映画の監督(藤竜也)に美佐子が取材するシーンがある。美佐子は映画のラストにはっきりとした希望、明るいものを見出したい、これはそういう映画ではないのかと問う。監督ははっきりとした答えは言わず、あなたが(作中映画の)主人公にそれを見出してくれるなら嬉しいとだけ言う。多分、監督はある程度はっきりとした答え、解釈を持ってはいるのだろう。ただ、映画を見る観客にそれを明示はしない。それをしないのが映画の送り手としてのつつしみであり矜持であるのではないか。映画は作った人のものであると同時に、見た人のものでもある。
 河瀬監督の作品を見るのは久しぶりだったのだが、こんなにわかりやすい映画を撮るようになったのかと驚いた。本作は音声ガイドという素材の都合上(本作自体も音声ガイド対応している)、言語化される部分が多いのでよけいにそう感じられたのかもしれない。

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『光をくれた人』

 第一次大戦から帰還したトム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)は、オーストラリアの孤島ヤヌス・ロックに灯台守として赴任する。やがて溌剌としたイザベル(アリシア・ヴィキャンデル)と結婚するが、イザベルは立て続けに流産に見舞われる。失意の中にいた2人は、ある日、男性の遺体と赤ん坊を乗せたボートが流れ着いているのを発見。イザベルは本土に連絡しようとするトムを止め、赤ん坊を2人の子供として育てようと説得する。原作はM・L・ステッドマンの小説『海を照らす光』、監督・脚本はデレク・シアンフランス。
 トムもイザベルも善良な人たちだ。しかし善人であっても、本当に追い詰められた時、憔悴している時、人は他人のことには思いが及ばないものだ。トムとイザベルが赤ん坊を発見した時、2人は同乗していた男の生死を確かめる。孤児とな赤ん坊を施設に入れるのは忍びない、今なら自分たちの子供として育てても疑問に思われないというのがイザベルの言い分だ。2人は子供のことを思って行動する。しかし同時に、この子供、また死んだ男の家族は生きているかもしれないという言葉は、2人の口からは出てこない。どこかに家族がいて、赤ん坊や男の身を案じているかもしれないという発想は、冷静な状態なら当然出てくるだろうが、この時の2人は(半ば意図的に)失念してしまう。イザベルは赤ん坊を失って深く傷ついている。トムはそんなイザベルのことを心から案じている。その傷や思いやりから、倫理的には大分問題のある行為に及んでしまうのだ。そこで倫理的な正しさを全うできるほど、2人は強くない。
 2人は大きな嘘をつくことになるが、とあることからその嘘がほころび始める。一旦そのほころびに気付いてしまうと、なまじ善人なだけに嘘は揺らぎ始める。ことにトムは、善良故にある行為をするが、その行為がある人をより苦しめることになる。嘘なら嘘で最後まで突き通せばいいのに・・・と思ってしまったが、突き通すほどの強さはトムにはないのだ。弱くて善良だから嘘をつき、やはり弱くて善良だから嘘をつきとおすことも出来ない。しかしその一方で、深く苦しんでいたはずのある人が自分のことを捨てても他者を思いやる気高さを発揮し、トムもまた、自分の人生をなげうって償いをしようとする。人間の弱さと強さははっきりと分かれているものではなく、時に入り混じり、反転し続けるのだ。
 邦題はいまいちかなと思っていたのだが、見た後は内容にちゃんと即していたとわかる。赤ん坊がトムとイザベルの人生に光を与えたという意味合いはもちろんあるのだが、むしろ、2組の夫婦がお互いの人生を照らしあう物語なのだ。片方が消えても光が照らしたものは残るということを、もう1組の(トムとイザベルではない方の)夫婦のあり方から強く感じた。この人たちもやはり弱い、しかし強いのだ。

『BLAME!』

 過去の「感染」により、人間が都市コントロール権を失い、無限に増殖し続ける階層都市。都市防衛システム「セーフガード」は、人間を不正な居住者と見なして排除するようになっていた。僅かに残った人間たちによる小さな集落が点在していたが、食料不足によって絶滅も間近と思われた。シボ(花澤香菜)は食料を探しに出た所をセーフガードに襲われるが、旅の男。霧亥(キリイ)(櫻井孝宏)に助けられる。霧亥はネット端末遺伝子を持つ人間を探し続けていた。原作は弐瓶勉の同名漫画、監督は瀬下寛之。製作はポリゴン・ピクチュアズ。
 ストーリーやキャラクター云々というよりも、ポリゴン・ピクチュアズのセルルック3DCG表現が今どういう地点にあるのか、という点で面白い作品だった。原作、監督、スタジオの組み合わせは『シドニアの騎士』と同じ。SFとしての世界設定やキャラクター造形は正直そんなに新鮮味のあるものではない。原作がかなり前に発表されたものだということもあるが、発表された当時でも、そんなに新しいっていう感じではなかったのではないかな・・・。ただ、王道と言えば王道、ベタと言えばベタなストーリーや設定が、本作の映像だと不思議と新鮮に見える。映像が「出来上がっている」というよりもまだ進化しそう、発展途上な伸びしろ感を感じさせるのも一因かもしれない(完成された商品としてそれはどうなんだという見方もあるが)。
 近年のポリゴン・ピクチュアズは、(技術面の素人から見ても)いわゆるアニメ的な「かわいい」「かっこいい」をセルルックの3DCGでやるにはどのあたりが落としどころなのか、ずっと試行錯誤し続けている気がする。『シドニアの騎士』と比較すると、本作の女性キャラクターは明らかに、セルルックの「アニメ」としてのかわいさをより獲得している。技術の進歩を目の当たりにしている感じ。また、ポリゴン・ピクチュアズ制作作品は、この原作・題材を映像化するにはどうするか、というよりも、自社が持っている技術は、どういった傾向・特質の題材・世界観で最も活かされるのか、という方向でのネタの選び方、作り方をしているように見える(実際は全然関係ないのかもしれないけど・・・)。一つのスタジオの作品を追っていく面白さを、今最も味あわせてくるスタジオではないだろうか。

『僕とカミンスキーの旅』

 売れない美術評論家ゼバスティアン(ダニエル・ブリュール)は一山当てようと、スイスの山村で隠遁生活を送る伝説的画家マヌエル・カミンスキー(イェスパー・クリステンセン)を訪問する。カミンスキーは視力を失いつつ製作を続けたことで、1960年代に「盲目の画家」としてスターダムになったのだ。スキャンダルを掴もうと画策するゼバスティアンだが、カミンスキーに振り回されていく。監督はボルフガング・ベッカー。
 冒頭、実際の当時のニュース映像や実在のアーティストの映像を取り入れた疑似ドキュメンタリーパートの出来が良くて、そのもっともさに笑ってしまった。カミンスキーのやっていること、立ち居振る舞いが見るからに「あの時代のアーティスト」然としている。彼は才気あふれるアーティストだが、同時にいかにもアーティストぽい振る舞いによる自己演出で、より自分の伝説化を図っていたきらいもある。ゼバスティアンは彼が当時失明しつつあったというのも演技ではないかと疑い、「大ネタ」を掴もうと企んでいるのだ。
 高齢になったカミンスキーは、物忘れは激しく少々痴呆も始まっているのか、最初は偏屈なおじいちゃんといった雰囲気だ。気にするのは食事と昼寝の時間と、娘の目を盗んでの喫煙。ゼバスティアンは彼をかつての恋人に会わせて自作のネタにしようとするが、マイペースなカミンスキーに妨害されてばかり。珍道中ロードムービー的な側面を見せてくる(からっけつのはずのゼバスティアンがどんどん身銭を切らなければならないので見ていてヒヤヒヤした・・・)。
 しかし、徐々にカミンスキーが芸術、絵画やその制作について言及するようになる。芸術に人生を賭けた人としての矜持や腹のくくり方が垣間見えるのだ。そういう時に限ってゼバスティアンは彼の話をよく聞いておらず、女性関係等スキャンダラスな話題ばかり引き出そうとしているのが皮肉だ。彼が批評の対象として取り上げてきた芸術家としてのカミンスキーが目の前にいるのに、批評の本来の趣旨ではないはずの「おまけ」的話題の方にばかり目がいってしまい、見るべきものを見逃してしまう残念さ。それは、批評家ではなくスクープ屋の仕事だよ・・・。
 なお、エンドロールの名画パロディ風アニメーションがとても楽しい。本編はちょっと長すぎでダレるのだが。

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