3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名は行

『ひるね姫 知らないワタシの物語』

 東京オリンピック開催が迫る2020年。岡山県の港町に住む高校生のココネ(高畑充希)は、車の改造ばかりしている父モモタロー(江口洋介)と2人暮らし。ココネは居眠りばかりしており、夢の中では魔法使いのエンシェン王女が青年モモと冒険を繰り広げていた。ある日、モモタローが理由もわからないまま警察に逮捕されてしまう。ココネは父が残したタブレットを手がかりに、幼馴染のモリオ(満島真之介)の力を借りて父を助けようとする。監督・脚本は神山健治。
 本作、神山監督が原案・脚本も兼任しているのだが、原案はともかく、脚本には専任者を立てた方がよかったんじゃないかなと思った。神山監督がシリーズ構成やストーリーまで手がけた作品を見ているとしばしば思うのだが、具体的なストーリーやテーマのボリューム設定が、物語の外枠と一致していないケースが多いように思う。時間的な尺や世界設定に対して、中身の要素が飽和状態になるというか、変なねじれを生じさせやすい印象がある。面白くないわけではないんだが、微妙に楽しめない部分が残る。このあたりは自分との相性の問題かもしれないが。
 本作では、ココネの家庭が抱えてきた秘密・問題を、彼女の夢とリンクさせていく。現実の問題をファンタジーと重ねて紐解いていくという構造は、ファンタジー作品の一つのパターンとしてとてもいいと思う。ココネの夢の中の世界のスチームパンク感滲むディティールや、諸々の機械仕掛けのデザインもいい。スチームパンク的世界になぜタブレット?という疑問が沸くのだが、そもそもこの夢の世界が何から生まれたものか、という部分への伏線にもなっており、これも納得。
 しかし、この夢・ファンタジーの部分と、ココネの現実世界で起きているトラブルとの摺合せ、シームレス加工があまり上手くいっていないように見える。主人公の身近な(家庭や友人関係などの)問題がファンタジーの中に形を変えて登場する、という構図が定番だと思うのだが、本作の場合、現実世界の問題のスケールが妙に大きいのだ。しかも、そういう理由でそんな強引なことやります?というもの。この人はなぜわざわざ、こんなリスキーな方法をとる(しかも不慣れっぽいのに)の?話の趣旨としては、ココネの日常と夢の中の冒険だけで収められそうだし、その方がファンタジーとしては際立ちそう。夢は見る人にとってはごくごくプライベートなもの、世界にとってはささやかなことだ。しかしココネ(と家族)にとっては大冒険のように壮大なものになりうる。その対比がいいのではないだろうか。本作では現実世界の大企業の陰謀の方が壮大になってしまい、メリハリがないのだ。
 作中の大企業、組織の描写に説得力がないというのも、奇妙な印象になっている一因かと思う。フィクションとしてのデフォルメの度合いをどのへんに設定したのかよくわからなかった。ちょっとコミカルというか、取締役の頭悪すぎないか?会長にしても、その立場でそのタイミングでそこに拘るのっておかしくない?別のやり方があるんじゃない?と突っ込みたくなるのだ。フィクションであっても、こういう組織なんですよという説得力があればいいんだけど、そのあたりが曖昧で雑に見えた。

『パッセンジャー』

 入植先の惑星を目指し、5000人の乗客を乗せて地球から飛び立った宇宙船アヴァロン号。目的地に到着するまでの120年間、乗客は冬眠装置で眠り続けるはずだった。しかし、エンジニアのジム(クリス・プラット)と作家のオーロラ(ジェニファー・ローレンス)だけが予定よりも90年近く早く目覚めてしまう。このままでは目的地を見ることなく寿命を終えてしまうのだ。2人は状況を打開しようとするうち、惹かれあっていく。監督はモルテン・ティルドゥム。
 本作、ネタバレせずに感想を書くのがすごく難しいんだけど、ちょっと頑張ってみる。このネタバレ部分のせいで、賛否が大きく分かれると思われる。また、ネタバレ部分のせいで、映画の前半と後半はジャンルが違うんじゃないのというくらいの捩れを起こしているのだが、個人的には面白いと思った。前半はスタンダードかつどちらかというと端正なSFなのだが、中盤以降、何でもありになってくる。いきなり盛りがよくなるというか闇鍋が始まるというか・・・。
 宇宙船内のデザインがちょっと昔の洗練されたSFという雰囲気で、懐かしいのにスタイリッシュで美しい。SF考証として正しいのかどうかわからないが、こういうシーンを作ってみたい!というやる気が感じられる部分が多く、ビジュアル面での楽しさは大きかった。バーテンロボットの下半身が「省略」されている所とか、この辺は(宇宙船メーカーが)あんまり注力しないんだなという部分もいい。ルンバの進化形みたいなお掃除ロボットの動きも可愛かった。
 さて本作の評価の是非、というか好き嫌いの別れる原因は、ジムのある行動によるものだろう。他人の人生を自分の欲望の為に使うことであり、倫理的には許されない。しかし、極限状態(何が極限状態化については人によって意見が違うと思うが)で人は倫理的に振舞うことができるかというと、かなり難しいのではないか。ジムの行動は許されないが、強く糾弾できるかというと、ちょっと心もとない。ジム役にプラットが起用されたというのは納得の人選。本作のような役でもぎりぎりでアウトにならない程度の愛嬌があるのだ。彼は『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』でも、無能ではないが人としての弱さが目立つという役所だったし、その程度の頼りない「ヒーロー」がはまる。弱い人だからこそ、その弱さを押し殺して挽回しようとする様がインパクトを与えるのだ。基本的に、人は弱いという思想で作られた作品なように思う。また、オーロラ役のローレンスが、プラットの1人や2人や3人くらいは捻り殺せるような圧を持っているのも、なるほどこのキャスティングでないと駄目だったんだなと納得させる。
 しかし最も気になったのは、アヴァロン号を運営する企業には相当問題があるんじゃないかという所だ。船内で生じる不調の原因はこれだったのでは?というシーンが序盤にあるのだが、120年間宇宙を旅していたら、この規模のアクシデントは相当数起きるんじゃないかと思うし、それは容易に予測できると思う。なぜ事前に対策を練っておかなかった?!と企業を糾弾したくなる。乗客5000人全員を無事に搬送しようという設計には思えないんだよな・・・。また、乗客からの費用搾取システムや船内格差も結構エグい。エコノミークラスの朝食、もう泣きたくなってくるもん・・・。

『フランシスカ』

 特集上映「永遠のオリヴェイラ」にて鑑賞。マヌエル・ド・オリヴェイラ監督、1981年の作品。1850年代のポルト。小説家のカミーロと友人のジョゼは、フランシスカと呼ばれるイギリス人の娘ファニーに惹かれる。ファニーはジョゼと結婚するが、3人の関係は悲劇的な結末を迎える。原作はアグスティ・ベッサ=ルイスの小説『ファニー・オーウェン』。実際にあった話を元にしているそうだ。
 カミーロとジョゼが、あるいはフランシスカとジョゼ、また他の人たちが対話するシーンはいくつもあるが、双方の意思疎通の為の会話という気がなぜかしない。特にカミーロとジョゼはお互いばらばらの方向を見て、会話の内容も噛み合っているのか噛み合っていないのかという印象の方が強い。それぞれがそれぞれの思いを口にはするものの、それは届くべき人のところに届かない。お互いの間には高い壁のようなものがあり、思いが通じ合うことを阻んでいるかのようだ。劇中時間を止めるような、そこだけ空間が切り取られた独白シーンが印象に残るのも、その独白があまりに孤独で、誰にも届かなさそうだからかもしれない。
 カミーロは小説家という職業柄か、ジョゼのこともファニーのことも俯瞰して自分が彼らをコントロールしている気でいる。彼はジョゼにもファニーにも情熱がなく、結婚生活は上手くいかないだろうと踏んでダメ出しばかり。ジョゼはカミーロに反発しつつ、ファニーを自分のものにしたくなる。ファニーはジョゼを愛するが、徐々にジョゼの全てを支配したくなる。お互いの支配欲と「マウント取りたい」感がえぐく迫ってくる。特にカミーロの神の采配気取りには笑ってしまう。ファニーに選ばれなかったことのあてつけでもあるのだろうが、自分はあの2人よりも優れている、と本気で思っている風なところが何様だ感を強めるのだ。
 しかし不思議なことに、ファニーを巡る三角関係であるのに、ファニーの存在感が薄い。彼女の意思表示が弱いというよりも、カミーロとジョゼの2人の張り合いのトロフィーとしてファニーが位置づけられており、2人にとって、独立した人間としての彼女はさほど重要ではないのではと思えてくるからだ。いわゆる恋愛上の三角関係とは一線を画しているように思った。根深い愛憎があるのはカミーロとジョゼの間で、お互い嫌だ嫌だと言いつつ縁は切らない。とは言え、ファニーも当然人格を持った個人なので、その行動はカミーロやジョゼの思惑からは外れていく。そのことにカミーロもジョゼも思い当たらなかったことが、悲劇の発端だったように思う。

『百日告別』

 自動車の玉突き事故によって、結婚間近の婚約者を亡くしたシンミン(カリーナ・ラム)と、妊娠中の妻を亡くしたユーウェイ(シー・チンハン)。2人は愛する人の死を受け入れられずにいたが、初七日、四十九日、七十七日と時間は過ぎていく。監督はトム・リン。
 愛する人の死という題材であっても過剰なウェットさ、ドラマティックさはなく、むしろつつましやかな印象の作品。シンプルな物語だが、パートナーを突然亡くして頭も心も状況についていけない感じがありありと描かれる。親戚が葬儀の手筈を相談していることに苛立ったり、周囲がよかれと思ってやってくれることが的外れに感じられてしょうがなかったりと、周囲の状況から置いていかれている、自分だけ時間が動かない感じが切実だった。 一人で喪失と向き合う時間が必要なのだろうが、周囲の状況はどんどん進むし、一人でいすぎると死に近づきすぎてしまい危険でもある。前に進むことと引き戻されることとの間で、シンミンもユーウェイも揺れているのだ。
 最初のうちは自分と亡くしたパートナーとの間のことしか考えられず苦しんでいた2人だが、時間がたつにつれ、視界が広がっていく。自分以外にも死者を悼む存在がおり、自分にとっての死者とはまた違う側面を見ていたのだということ、また死者が残していったものがあったことに気付いていくのだ。ここまでくれば、あとはきっと大丈夫という気持ちになってくる。四十九日とか七十七日、死者との距離を測るシステムとしてよくできていたんだな・・・。
 台湾の映画だが、街中にしろ山の上のお寺の周囲にしろ、風景に味わいがあった。お寺まではバスで山道を登っていくのだが、木漏れ日の中をぐねぐね進んでいく様がとてもいいのだ。ちょっといつもと違う場所に行くような非日常感を感じる。また、シンミンは新婚旅行で行くはずだった沖縄を1人で旅するのだが、日本国内で自分も実際に行ったことがある場所の風景なのに、海外の映画の中に出てくると海外のように見えるというのが何だか不思議。映画の中の沖縄は、シンミンにとっての沖縄なんだなと。シンミンの婚約者は料理人だったので、(彼が食べたかった、また彼が残したレシピによる)色々な料理が出てくるが、どれもおいしそうだった。
 なお、台湾でも日本の漫画は相当読まれているのね。稲中とか、神の雫とか、将太の寿司とか・・・。

『バッドガイズ!』

 「未体験ゾーンの映画たち2017」で鑑賞。ニューメキシコ州アルバカーキ。警官のテリー(アレクサンダー・スカルスガルド)とボブ(マイケル。ペーニャ)のコンビは、パトロール中に暴力沙汰を起こし、強盗を見つけては現金をピンハネ、ドラッグを横流しと悪事を繰り返して上司からも目を付けられていた。ある日、ギャングが100万ドルの強盗計画を立てていると知り、その金を横取りしようと企む。しかしその計画には、裏社会の大物も関わってきた。監督・脚本はジョン・マイケル・マクドナー。
 同時期に公開されている『ナイスガイズ!』にあやかった邦題なのだろうが、意外と内容と合っていた。そして『ナイスガイズ!』の3倍くらいストーリー展開がだらだらとしている。途中でそういえばこの金どこから出てきたんだっけ?と道筋を見失いかけた。どちらかというと警官コンビの掛け合いや小ネタの数々にニヤニヤする類の作品で、ストーリーを追おうとすると正直つらかった。本作、なぜか文学ネタがしばしば投入されており、映画の作りは雑だし頭悪そうなのに小ネタには教養が見え隠れするという不思議なバランス。まさかこんな映画で三島由紀夫が引き合いに出される(まあ文学的な功績によってではないんですが・・・)とは思わなかった。
 テリーとボブは絵にかいたような悪徳警官でやりたい放題。これに比べると『あぶない刑事』なんて発砲量が多いだけで全然ちゃんとした刑事だわ・・・。テリーもボブも自分達がやっていることは悪事だとわかっているが、悪いとは思っていないのであっけらかんとしている。その一方で、自分たちなりの正義感、この一線は越えないぞという矜持が感じられるところは、警官バディものならでは。テリーがある少年を保護しようとする姿勢(彼なりの超論理があるんでなんとも言えないんだけど・・・)にはそれが感じられるし、トラブルばかり起こすテリーを庇い続けるボブの姿勢もそうだろう。
 なお、警官としての立場を利用して悪事やりほうだいということで、女性にも手を出しまくっているというのがこの手の設定のパターンだが、本作には意外とその部分がない。テリーは惚れっぽいが本命一筋だし、ボブは妻との息が合っている(妻がテリーについてどうこう言わないところが良かった)。そういう点では意外とマッチョっぽくない作品。女性に対するセクハラネタが少ないところは良かった。

『パリ、恋人たちの影』

 ドキュメンタリー映画作家のピエール(スタニスラス・メラール)の才能を信じ、共に製作を支える妻マノン(クロティルド・クロー)。しかしピエールは若い研修生エリザベットと浮気していた。エリザベットはある日、マノンが浮気相手といるところを目撃し、ピエールに妻が浮気していると告げる。監督はフィリップ・ガレル。
 ガレルの作品では大概、カップルが浮気したのしないの(まあ大体する)で揉める、というかほぼそういう要素のみで出来ている気もする。あらすじだけ聞くと結構な下世話さだが、実際に見てみるとそうでもない。下世話な話をやっているのに違いはないが、見せ方が下世話ではない。また修羅場の当事者たちは至って真剣で、それを茶化すような意図もないからだろう。
 ピエールは自分が浮気していることを棚に上げてマノンを責め、エリザベットに対しても何も責任を持たないし自分からは何も決めないというクズ感漂う男性だが、彼の行動に対して「ひどいもの」と定義したナレーションがいちいち流れるので、あ・・・やっぱりクズ認識でいいんだ・・・という安心感が得られ、映画を見ている側のクズに対するイライラ感が緩和されたように思う。ピエールのクズさは、すごくひどい男とか卑怯な男、あるいはDVをはたらくといった明瞭なものではなく、カップル間、夫婦間でついやってしまいがちなことなのだと思うが、だからこそ性質が悪い。彼の八つ当たりやいじわるを、マノンもエリザベットも、自分が悪いんだろうと考えてしまう。浮気相手と別れた後のマノンが、ピエールの機嫌を窺うようなそぶりをする、それにピエールが更に機嫌を損ねるという流れがなかなかにげんなりするものだった。お互いにセックスだけのつもりだったエリザベットとの仲も、彼女が本気になってしまったことでバランスが崩れる。エリザベットをうっとおしく思いつつも別れず、マノンを憎みつつも彼女が浮気を続けていないかつい尾行してしまう(しかもバレる)ピエールの弱さが、徐々に際立ってくる。
 葬儀で再会したピエールとマノンは、最初は距離がありよそよそしい。しかし、新作映画のネタの話になると、急に距離が縮まってくる。この夫婦の間にはもちろん愛があったのだろうが、仕事=映画への情熱、それを共有する同士愛みたいなものの方がむしろ長続きしているのかもしれない。マノンは若い頃、「ピエールと一緒に仕事をすることが喜び」だと言って母親からは少々呆れられる(確かに若いなぁという感じはする)のだが、あながち嘘ではなかったのだ。

『ホワイト・バレット』

 救急病棟に、頭に銃弾を受けた強盗犯チョン(ロー・ホイパン)が搬送されてきた。警察との銃撃戦で負傷したのだ。チョンから仲間の情報を得たいチャン警部(ルイス・クー)らは殺気立つが、チョンは口を割らない。加えて、至急の手術を勧める医師トン(ビッキー・チャオ)に対しても説得に応じず、手術を拒んでいた。監督はジョニー・トー。
 次々と事件が起き、目まぐるしくスピード感がある。スリリングで引き込まれるが、着地点がずっと見えない不思議な作品だった。医療群像劇サスペンスとクライムサスペンスを無理矢理合体させたみたいだ。また、やたらとエピソード量がありもたれそう。トンが担当する神経外科の患者たち個々のエピソードも語られるのだが、それがやたらと濃い。トンの当初の所見が外れて下半身の自由が奪われたと絶望する青年や、難手術に挑む中年夫婦、認知症らしきにぎやかな老人。1組ずつでも1本の映画になりそうな悲喜こもごもなのだが、それをぎゅうぎゅう詰めにしてくる。チョンと警察のかけひきの伏線となる部分もあるのだが、おおよそはそれほど関係ない。また、トンは外科医なので手術シーンが頻繁に出てくるが、セットも内臓も結構ちゃんと作って撮影している。でも、ストーリー上これもあんまり必要ないんだよね・・・。少なくとも、内臓を出す必要はない。やれることは全部やろうみたいな変な意気込みを感じた。
 登場人物が全員ぴりぴりしており、ややヒステリック。手術を失敗しかけ、自分の技量への自信を失っているトンは情緒不安定だし、チョンに翻弄され汚職まがいの行為に手を出してしまうチャンも、強盗団への対応に右往左往する警官たちも、神経を削られていく。その中心にいるのはチョンだが、彼もまた頭に銃弾が埋まったままで、命のタイムリミットは迫っている。どんどん追い詰められていく緊張感でストーリーを引っ張るが、その緊張感の果ての、謎のクライマックス。いや起きていることは謎じゃないんだけど、見せ方がこうくるの?!というもので、見応えはあるんだけど笑ってしまった。音楽含め、過剰なエレガントさがいきなり投入されるのだ。いきなり奇跡みたいなことが起こってしまうのも、まあありかな!という気分になってくる。

『ヒトラーの忘れもの』

 1945年、ナチス・ドイツによる占領から解放されたデンマークだが、ドイツ軍は海岸線に無数の地雷を埋めたままだった。その除去に動員されたのは捕虜となったドイツの少年兵たちだった。彼らを監督し除去作業を行うことになったデンマーク軍のラスムスン軍曹(ローラン・ムラ)はナチスを強く憎んでいるものの、少年たちと共に過ごすうちに心が揺らぐ。しかし少年たちは次々と命を落としいき、ラスムスンは葛藤する。監督・脚本はマーチン・サントフリート。
 とにもかくにも、ドイツ軍地雷埋めすぎ!基本的に人力除去するしかないので戦後どうするつもりだったんだと思ってしまうが、戦争中ってそんな先のこと考えないものなんだろうな。地雷の非人道的な側面はいやというほど見せてくれる作品。除去作業自体が難しいこと、全て除去できたかという確証がなかなか持てない(どこにいくつ設置したという記録が残っているとは限らない)ことが悲劇を生む。
 当初、ラスムスンはナチス・ドイツ、ひいてはドイツ人を許す気持ちは毛頭ない。彼が世話になる農家の女性も同様だ。デンマークは5年間ドイツに占領されていたわけで、デンマーク人の恨みや憎しみは溜まりに溜まっていたのだろう。ラスムスンにとって少年兵たちは、まとめて「憎いドイツ人」で、最初はろくに食事は与えないし厳しいノルマを課す。しかし毎日顔を突き合わせていれば1人1人の性格の違いや背景も見えてきて、それぞれの人生を生きる個人としての彼らの姿が立ち上がってくる。そうなると彼らを使い捨てにするようなやり方には疑問もわくし、疑似父子のような情も沸いてくる。
 とは言え、彼らがドイツ兵であるのも事実で、農家の女性や他のデンマーク軍人、アメリカ軍人は彼らを相変わらず憎み蔑むし、ラスムスン自身も怒りに襲われ激高したりもする。敵だった存在を許すことはそう簡単には出来ないのだろう。少年たちがデンマーク人をどう思っているのか、自分たちの国がやったことがどういうことだったのかわかっているのか、作中では明示されないが(多分よくわかっていないんだろうなぁ・・・)、そこも気になった。許す、と理解し合う、というのとはまたちょっと違う。ラスムスンはおそらく少年たちのことを理解はしなかったが、ぎりぎりの線で許したのだと思う。ラストは一つの寓話のようでもあった。

『ポッピンQ』

 中学校卒業を控えた伊純(瀬戸麻沙美)は、陸上部での記録に心残りがあった。浜辺で不思議な石「時のカケラ」を拾った伊純は、「時の谷」と呼ばれる不思議な世界に迷い込む。伊純の他にも時のカケラを持った少女たちが時の谷を訪れていた。彼女らはその世界の住民・ポッピン族の長老から、世界の危機を知らされる。危機を回避するには、時のカケラを持った5人が心をひとつにして踊らないと成らないと言う。監督は宮原直樹。
 東映アニメーション創立60周年記念作品だそうだが、これでいいのか東映?という気が。東映の女児アニメと言えばプリキュア、監督の宮原はプリキュアEDのダンス作画で有名な人なので、作品の方向性と起用としては妥当なのかもしれないが、ドラマ作りがとにかく残念。キャラクターデザインはかわいらしいし動画もいいのに、脚本がどうにも不器用だなという気がした。
 5人の少女はそれぞれ、今の自分を嫌だと思っており、克服したいものがあるがそれと向き合う勇気がない。元の生活に戻りたい気持ちと戻りたくない気持ちの間で揺れている。自分の未来を怖がらなくていい、自分をもうちょっと好きになれるはずというあたりが作品のコンセプトなのだろうが、それぞれの事情が異なるところを「私たち同じだね」と括ってしまうのはちょっと乱暴な気がした。言うほど同じには見えなかったんだよな・・・。また、作品のコンセプトに各キャラクターの言動を添わせすぎようとしていて、セリフが上滑りになっているところが気になった。行動とセリフの流れが取ってつけたように見える。ドラマの運び方がこなれていないということなんだと思う。そのへんが、不器用だなと言う印象の原因か。
 作画的な見所はやはりダンスシーンなのだろうが、これも違和感を感じた。時の谷は人間の世界とは違い、異なる文化が発展している不思議な世界だ。その世界で流れる音楽がいかにもなJポップとアイドル的なダンスというのは、奇妙な感じがする。えっそこだけ人間界と同じなの?と。

『ヒッチコック/トリュフォー』

 フランソワ・トリュフォーによるアルフレッド・ヒッチコックのインタビュー集であり、映画の教科書として名高い『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』。当時のインタビューの音声(動画はない。インタビュー当時も写真のみの撮影だったようだ)や、マーティン・スコセッシやウェス・アンダーソン、クリストファー・ノーランら、現在活躍している監督たちへのインタビューにより構成されたドキュメンタリー。監督はケント・ジョーンズ。なお日本語字幕は日本における『定本~』の翻訳者、山田宏一が担当している。
 私は『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』は未読なのだが、なぜヒッチコックとトリュフォーなのかということは前々から不思議に思っていた。ヒッチコックの作家性を世に知らしめたのがトリュフォーということだったのか。それまでヒッチコックは職人的な監督、商業監督という認識だったのだろうが、トリュフォーはヒッチコックの技法を分析し、本人に確認していく。その技法が後々どのように見られ、影響を与えてきたのかを、現代の監督たちが語る。私はヒッチコックに対してトリュフォーに対しても熱心な観客ではないし、映画の技法面にも疎いので何だか申し訳ない気分にもなったが、とても面白かった。ヒッチコックの演出、画面の作り方はシステマティックでもあるのだが、それを極めていくと実にヒッチコックぽい、というスタイルになる。
 いいインタビュアー、聞き手というのはどういうものか、ということを見ながら考えた。単に聞き上手なだけではだめだろう。トリュフォーはヒッチコックへのインタビューの際、時間をかけて入念に下準備をしてから臨んだそうだ。インタビュー対象(とその作品)に対する知識はもちろん、映画というジャンル全体について知識がある、かつ映画だけではなく様々な引出しがあって相手の反応に応じて取り出せる、という状態があってこそのインタビュー・・・だとすると大分ハードルが高い。しかしその高いハードルを越えてきたから、ヒッチコックはトリュフォーを信頼し話をしたのだろう。相手が自分(と自分がいる分野)のことをわかってるな、よく見てくれてるなと思えれば、そりゃあ積極的に話したくなるよな。色々なインタビューを読んでいても、分野に関わらずいいインタビューってインタビュアーの知識が広いし深いケースが殆どだと思う。

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