ティト(マルチェロ・デュラン)とポール(アドリアーノ・デュラン)兄弟はレストランのデリバリーで働きながら語学学校へ通っている。母ラファエラ(マガリ・ソリエル)はダイナーのウェイトレスをしている。彼らは祖国ペルーからアメリカへ渡り、ニューヨークで不法移民として暮らしているのだ。ティトとポールは語学のクラスに入ってきたクリスティン(タラ・サラー)に一目ぼれするが。監督はマーク・ウィルキンス。
エピソード同士の繋がりが奇妙だと思ったら、過去のエピソードと現在のエピソードが入り混じっているのだと段々わかってくる。そういう構造の映画だという気配がしないまま時間軸がスライドするので少々戸惑った。
ティトとポールは、自分たちは透明人間だと言う。それがどういうことなのか、冒頭の事故のエピソードを筆頭に随所で実演されるのだが、これが結構しんどかった。つまりいてもいなくてもいい、尊重しなくてもいい存在として扱われ続けるということなのだ。移民である、女性である、シングルマザーである等々、ある属性によって粗雑に扱っていい存在にされてしまう。ラファエラのボーイフレンドが段々増長し上から目線になるのも、クリスティンと恋人との顛末もそういうことだ。特にラファエラのボーイフレンドの態度はなかなかの気持ち悪さだった。相手を大雑把な属性でくくって、その属性故に尊重しているような振る舞いをするが、実のところ自分にとって扱いやすい相手と見下している。
このボーイフレンド以外にも、人をざっくりと括る人がちょいちょい登場する。語学学校の教師など、様々な言語・文化的背景の人と日々接しているはずなのに、相手の多様さに全く興味を示していないし無神経。授業の中での質問の投げかけ等雑すぎて怖い。相手に対する解析度があまりに低いのだ。あえて低くして面倒な思考を排しているようにも見えた。すごく失礼なのだが、これは意外と人が陥りがちな思考の省略化な気もする。
ティトとポールが言う透明人間状態は、移民としてだけではなく、家庭内でも生じる。ラファエラがボーイフレンドを連れてきている時は彼らはいないものとしてスルーされがちだ。ラファエラは息子たちを愛しているが、物理的にスペースがない状態ではお互いを透明人間化せざるを得ない時もある。お互いに尊重し合うには物理的なスペースや豊かさがないと難しいのかもしれない。