3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名な行

『ノクターナル・アニマルズ』

 美術商として成功しているスーザン(エイミー・アダムス)の下に、前夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)から小説の原稿が送られてきた。スーザンは原稿を読み進めるうち、小説の世界に引き込まれていく。原作はオースティン・ライトの小説。監督・脚本はトム・フォード。
 トム・フォード監督、前作『シングルマン』では非常に美しいが構成がやや弱いなという印象だったのだが、本作は構成力がめちゃめちゃ上がっている!更に、原作の枠組みをかなり忠実に再現している。原作に沿いつつ、スーザンとエドワードの属する階層差、またスーザンと母の各室という設定を新たに取り入れていることで、原作とは違った視座を得ている。原作の読み込みと再構成がかなりいい形で成功していると思う。ライトの原作小説は、これを読んで映像化しようという気にはあまりならない(小説がつまらないのではなく、文章でないと難しい表現の仕方なので)と思うのだが、よくやったなぁ。
 小説を読むときに、頭の中で映像化してみるという人は少なくないだろう。映像化はしないまでも、何らかのイメージを持って読むことは多いと思う。しかし、そのイメージは作者が想定したものとイコールではなく、あくまで読者の頭の中にある世界だ。本作でエドワードが書いた小説『ノクターナル・アニマルズ』は映像として(本作は映画だから当然だが)描かれる。ビジュアル上、主人公トニーはエドワードであり、エドワードの妻はスーザンだ。これはエドワードがそのように想定して書いたというわけではなく、スーザンはそうイメージして読んだということだ。エドワードが同じように想定していたとは限らない。
 本作、実の所エドワード本人は不在のようなもので、延々とスーザンの独り相撲が続く。エドワードの姿は現れるものの、スーザン思い浮かべる、彼女の記憶の中のエドワードにすぎない。映像で再現される小説の中身は、スーザンはこのように読んだということに他ならない。エドワードにとっては、トニー=スーザンだったかもしれないし、スーザンは全然関係なかったのかもしれない。本作は、スーザンの内面が延々と続くような話だと言ってもいいのではないか。小説を読むことは自分ではない別の誰かの視座を得るということにもなりうるが、その視座すら、主体である自分を一度通したものである。
 自分から離れられないという苦しみは、スーザンがずっと抱き続けているものなのではないか。彼女と母親とのやりとりにも顕著だ。これは原作にはなかった要素だが、スーザンは富裕層の生まれでエドワードはそうではない。スーザンは違う自分になれるかもと期待してエドワードと結婚した側面もあったのではないか。母親は、自分が育った階層から離れるのは難しいと彼女を諭す。結局その通りだったのだが、エドワードは彼女に勇気がない、自分を閉じ込めているんだとなじる。
 とは言え、自分を通してしか物事を見ることはできない、変われないという点では、エドワードも同じだ。結婚していた頃のエドワードは、スーザンが芸術の道を諦めたと知り、君には才能があるはずなのに何で諦めるんだとなじる。それは、エドワードがスーザンを芸術家として見たかったにすぎないとも言えるだろう。スーザンがエドワードの世界にいられなかったように、エドワードもスーザンの世界にいることはできなかったのだ。





『ナラタージュ』

 大学2年生の工藤泉(有村架純)の元に、高校時代の演劇部顧問教師・葉山貴司(松本潤)から電話がかかってきた。後輩たちの卒業公演を手伝ってほしいというのだ。高校時代、葉山に恋していた泉は、再会したことで思いが再燃してしまう。原作は島本理生の同名小説。監督は行停勲。
 原作は未読なのだが、多分原作小説だとこのへんはもっと情念がどろどろしているんじゃないかなぁと思わせる部分がちらほらとあった。のっぴきならない感情を描いた作品ではあるものの、映画のトーンはかなり淡く、輪郭がぼんやりとしている。本作、大学を卒業し社会人となった工藤が過去を回想する(現在のシーンは冒頭とラストだけなんだけど)構成だ。葉山との恋は既に思い出の中のことであり、だからこそ生々しさにはフィルターがかかり、美しくノスタルジー漂うものに見える。淡々としたストーリー運びが時に平坦すぎる気もしたが、それも思い出として工藤の中に既に距離感が生じているからとも思える。
 工藤は高校時代、周囲から浮いていじめにあっており、学校の中に居場所がなかった。そんな時、声をかけて居場所を作ってくれたのが葉山。そりゃあ(何しろ見た目はまつじゅんだし)好きになっちゃうよなぁという説得力はある。実際、卒業式後のある出来事までは、葉山は普通に「良い先生」だと言えるし、工藤との距離感も教師と生徒のそれを踏み越えるものではない。なんで最後の最後で踏みとどまれないの・・・恋愛物語だから話の流れ上踏みとどまられちゃ困るわけだが、先生にはがっかりだよ!大人は大人であれ!という気分にもなってしまう。
 とは言え、葉山には葉山で色々大変な事情があり、救いを求めて工藤に手を伸ばしたということが徐々にわかってくる。葉山の弱い面がぼろぼろと露呈していくのだが、自分より一回りほど年下の相手に対して甘えすぎではと、気になってしょうがなかった。工藤のセリフではないが、なぜそのタイミングで電話してくるの!本作、工藤と恋愛関係になる男性として葉山の他に同年代の小野(坂口健太郎)も登場する。小野は工藤が葉山に思いを寄せていることを知っており、その上で彼女を大切にしようとするのだが、やはり葉山の存在を意識せずにはいられない。その結果、大分器の小さい言動をとってしまう。工藤を連れて実家に行くエピソードで小野いい奴だな!と思っていたのでこれにはがっかり。まあ焦るでしょうねとは思いつつも、こういうことされたらちょっと許せないかもなー。小野自身も自分が嫌な奴になっているというのはわかっているんだろうけど。

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『夏の娘たち~ひめごと~』

 養父の容体悪化を知り、故郷の小さな町に戻ってきた看護師の直美(西山真来)。義弟・裕之(鎌田英幸)と直美はかつて男女の関係があった。義妹はそれを知ってか知らずか、「お兄ちゃんと直美ちゃんが結婚して家を継げばいいのに」と言いだす。そんな折、直美と裕之の幼馴染・義雄(松浦祐也)が町に戻ってくる。監督は堀禎一。
 ロケは全編上田市だそうだが、山間の町の、夏の空気感がとてもよかった。しっとりと若干重苦しいが、同時に瑞々しい。直美の実家の旅館として使われている建物(実際に旅館の建物で、出演者は撮影中宿泊していたそうだ)のひなびた、しかし趣のある雰囲気もよかった。昔の木造の旅館ならではの、アップダウンが大きい構造なのだが、2階の縁側や階段の多さが演出に活かされている。この建物でなかったら、本作の魅力は大分落ちるだろうなと思った。
 少人数の集団の間で、男女の組み合わせがいつのまにか変わっていく。狭い集団でのくっついたり離れたりというのが田舎っぽいというか、土着的な(偏見かもしれないが)感じだった。それに対して特になぜ・どうしてという説明がないあたりに、逆に説得力を感じる。流れでこちらとこちら、あちらとあちらというふうに近づいたり離れたりする。作中、ある人物が直美に対して、なぜ自分たちは別れたんだ、自分に悪い所があるなら直すから復縁したいと迫る。しかし、悪い所があったから別れたわけではないだろう(このシーンのある人物のセリフ、本当に「こういうこと言われても困るよな・・・」というもので、ちょっと直美に同情した)。直美は「運命じゃなかった」という言葉を別の場で漏らすのだが、それもまた正解というわけではなく、具体的には何だか当人にもわからないがそうなってしまった、というところではないか。私はそういう流れの方が自然だと思うが、それに納得できない人もいる。前出のある人物は、納得できずに極端な方法を選んでしまうのだ。
 どうということのない会話のシーンに不思議と魅力がある。父親のお通夜での、久しぶりに会った親戚や幼馴染とのやりとりの妙なテンションの上がり方とか、直美と女友達とが旅館(直美の実家)で酒盛りする様とか。こういう、現実で普通にやっているであろうことが、なんとなしな魅力をまとって撮られているというのが、映画っぽさというものかもしれないなと思った。

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『ナイスガイズ!』

 1976年のデトロイト。シングルファーザーの探偵マーチ(ライアン・ゴズリング)と腕っぷしの強い示談屋ヒーリー(ラッセル・クロウ)は、なりゆきでコンビを組み、失踪した少女アマンダを探すことになる。アマンダはポルノ映画の撮影に関わっていたらしいが、その映画の関係者である女優も監督も殺されていた。監督・脚本はシェーン・ブラック。
 予想以上に70年代感漂う作品で、ストーリー展開のユルさものたのた進行も70年代の探偵映画の雰囲気を狙ったのかな?ってくらい。どこか懐かしいのだ。そしてライアン・ゴスリングは70年代ファッションが異様に似合う。現代のファッションよりも似合っているんじゃないだろうか。本作、ゴズリングが痛さのあまりにキーキー言ったりえぐえぐ泣いたりあたふたしたりする、基本的にあまりかっこいいところがないゴズリング映画なのだが、今まで見た彼の演技の中では一番好きかもしれない。情けないが憎めない味わいがある。そしてラッセル・クロウはいつものラッセル・クロウ(殴る・唸る・暴れる)な感じだった。一見穏やかで常識人に見えるマーチが諸々だらしなくぼんくらで、一見暴力で全部解決する系のヒーリーは意外と常識人で頭も回るという凸凹感も楽しい。
 加えて、マーチの娘ホリーが聡明かつ心が優しい良い子で、清涼剤のようだった。本当は色々思う所あるけれど言わないという健気さにも泣ける。マーチは終始、彼女に支えられているのだ。ちょっと娘に寄りかかりすぎじゃないのと思わなくもないが、多分娘がいるから道を踏み外さなくて済んでる(それでも結構外してるけど・・・)タイプの人なんだろうな・・・。ホリーに対しては父親であるマーチはもちろん、強面のヒーリーも誠実にならざるを得ない。ホリーに「殺したの?」と問われるヒーリーの表情には何とも言えないものがあった。まあそう答えるしかないよ・・・。
 妙に脇道が多く、同じ場所をぐるぐる回っていくようなストーリー展開で、これ回転数もうちょっと減らせるんじゃないかな?とも思ったが、そこもまた味か。ユルいコメディとユルいサスペンスを足して2で割った感じで、肩の力を抜いて楽しく見られる。子供の頃、テレビで午後放送されていた映画の中の「大当たり」作品といった味わい。とは言え、能天気な話かと思っていたら(実際最初はかなり能天気だし)、意外と生臭い展開になってくる。デトロイトの現状を見ると、無常感を感じざるを得ない。
 ところで、マーチは借家とは言え結構いい家に住んでいる。元の家も近所なので、実はそこそこ稼いでるってことなのかな?それとも妻が稼いでたの?彼の探偵仕事は腕がいいとは考えにくいんだけど・・・。

『ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男』

 南軍の兵士として南北戦争に従事していたニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)は、戦死した甥の遺体を故郷であるミシシッピ州ジョーンズ郡に届けようと脱走。やがて農民から食料をむりやり徴収する軍と衝突し、追われる身となる。湿地帯に身を隠して黒人の逃亡奴隷たちと共に闘うようになった彼は、白人と黒人が共存する反乱軍を結成し、軍と対立していく。監督・脚本はゲイリー・ロス。
 実話を元にした話だそうだが、ナイトの存在は近年まであまり知られていなかったそうだ。当時としてはかなり型破りな人だったんだろうけど。(本作中の)ナイトは白人だろうが黒人だろうが個人は個人だという考え方で、黒人に対しても(他の白人と比べると)自分と同じ人間として接する。一方で彼が軍に反旗を翻す理由は、奴隷制度に反対しているからではなく、軍が自分達の作物や家畜を根こそぎ奪うから、搾取するからだ。白人だろうが黒人だろうが自分が育て収穫したものはその人のもので、それを奪うのは不当だから闘う、というのが彼の方針だ。これはとてもアメリカ的な考え方ではないかと思う。自分達の生活と権利を守るのが一番大事という考え方はともすると、「それ以外」を阻害する排他的なものになりかねないが、ナイトは意外と来るもの拒まずだし自分の妻子そっちのけで地元の農家を救いに奔走したりするので、そのあたりも稀有な人ではある。
 とは言え、彼の理想は当時の世間にはまだ早すぎた。南北戦争が終わっても、名称や形が変わっただけで黒人が差別されることに変わりはなく、ナイトの勢いも衰えていく。史実ベースとは言え、もの悲しい。更にきついのは、ナイトの時代から約90年後のある裁判の顛末だ。これだけ時間がたってもこんなもんか!と唖然とした。どんなに傑出した人でも1人で歴史を変えられるわけではない(ナイトの場合は傑出したというか、タイミング的に活躍できた時期があったという方がいいのかも)のだ。
 なお、冒頭の戦場の描写はかなり生々しく迫力がある。当時の兵士って、半分くらいは死ぬことを前提として配置されていたんだろうなと実感させられる。とにかく大量の死人が出た戦争だったんだなとビジュアル的に納得するし、各地の農家で男手が足りなくなり食い詰めるというのも説得力が増す。
 歴史ものとしても面白い作品だったが、後年のある裁判の挿入の仕方が唐突で、流れが悪くなる。この裁判が作品にとって大きな意味を持つというのはわかるのだが、構成に難がある。

『ネオン・デーモン』

 トップモデルを夢見て田舎からロサンゼルスへ出てきた少女ジェシー(エル・ファニング)は、モデル事務所と契約を交わし、人気カメラマンのテストモデルになる。若さと天性の魅力によってカメラマンやデザイナーの心を捉えたジェシーはトップモデルへの階段を上り始めるが、彼女の魅力はライバルたちの嫉妬心に火をつけるものでもあった。監督はニコラス・ウィンディング・レフン。
 メタリックな蛍光色に彩られた夢のように美しく血みどろな世界という、「いつものレフン」感満載の新作。見る側としてはまたこれ?という気分もあるが、ビジュアルの癖こそがこの監督の最大の持ち味なんだろう。『ドライヴ』にしろ『オンリー・ゴッド』にしろ本作にしろ、物語自体は非常にオーソドックスな恋愛であったり復讐譚であったりという、ごくありふれたものだしストーリーライン自体もそんなに捻ってこない。見せたいのは物語を媒介とした映像そのものということか。話がどうこうとかはあんまり興味ないのかもなー。美しさ=ビジュアルが全てという本作のモチーフは、レフン監督の作風と一致しているとも言える。それにしても、若さと美しさの追求が人を狂わせていくというのは、今時それかよって感じが否めない。未だにそれがネタになるくらい、ハリウッドは美と若さが持てはやされる世界ってことなのだろうが。
 本作の設定の前提として、ジェシーを演じるエル・ファニングに絶対的な魅力がなければならないのだが、正直な所、それほどとは(私個人の趣味では)思えなかった。なので、カメラマンもデザイナーもジェシーを見ると息を呑み夢中になっていくという展開には、なんだかなという気分になってしまう。また、周囲の女性達も彼女に嫉妬し、あるいは魅了されてとんでもないことになるのだが、何というハイリスクローリターン!的な感想しか出てこないのね・・・。わざわざそんなことするほど、ジェシーに魅力ある?って思ってしまう。また「そんなこと」後の3人の女性も、特に魅力が増したようには見えないし、カメラマンにインスピレーション与えるようにも見えない(ので終盤の抜擢が茶番に見えてしまう)。美の基準て難しいなー。「ネオン・デーモン」とは一見ジェシーのようでもあるが、彼女の中にそういうものを見出してしまう周囲の心理、そしてそういうもの、外的な美に固執してしまう監督の性分のことを指しているようにも思った。
 それにしても、前2作よりも悪趣味だなと(自慰はともかく満月の晩のあれは、大昔のすっごく安い悪魔崇拝ネタみたいで何か観客バカにしてる?って気分に・・・)思うところが多くげんなりした。自分の趣味の方向に舵を切りすぎるとどん引きされるタイプの監督だと思う。
 なお、なぜかキアヌ・リーヴスが出演しているのだが、彼が演じるモーテルの主だけ他の登場人物とは異質に見えるところが面白い。ジェシーに何か特別なものを感じている風にも見えない。キアヌは(世間的に一応)美形ということになっていると思うのだが、作中の美と若さを巡るあれこれにはとんと興味がなさそうなのだ。彼にとっては女は女、男は男、ピューマはピューマでそれ以外の何かは付加されていないのだろう。

『人魚姫』

 実業家のリウ(ダン・チャオ)は香港郊外の自然保護区域を買収し、イルカや魚を追い払って海を埋め立て、リゾート開発を狙っていた。この計画を阻止しようと、人魚族はリウの暗殺を計画する。若い女性人魚シャンシャン(リン・ユン)を人間に変装させリウの元に送り込むが、リウとシャンシャンは恋に落ちてしまう。監督・脚本はチャウ・シンチー。
 アクション映画以外のチャウ・シンチー監督作って、どうもキワモノ感が拭えないのだが、これは私の先入観かなー。満席立ち見も出るほどの客入りだったけど、そこまで面白い作品とは思えなかった。どうも監督のギャグセンスと相性が悪い。冒頭の観光客の面子がいかにもマヌケ、不細工といった面々でマヌケ、不細工だったらこういう振る舞いだろうというテンプレな振る舞いをするあたりからして苦手意識を感じてしまった。不細工ギャグとか、嘔吐ギャグを必ず入れるところとかもきつい。あとCGの出来が悪いというのではなく、色と質感がギラギラ寄りなのは多分好みなんだろうけど、これもきつい。ギャグが上滑りしている感じなんだけど・・・。
 ただ、なかなかぐっとくる所もある。貧しい出身から這い上がり、無理して「セレブ」をやっていたリウが、屋台の焼き鳥の味に涙ぐんでしまうエピソードは、王道人情ものっぽく、またリウが結構無理してきたんだなという背景が窺えるものだった。焼き鳥がきっかけでシャンシャンとの距離がぐっと縮まる、更に不思議なミュージカルシーンにも発展するというのも楽しい。
 ところで、シャンシャンの兄貴分はタコの人魚なのだが、タコの移動能力がチートというのは、『ファインディング・ドリー』と同じだった。やっぱり使い勝手がいいんだろうな。『ファインディング~』に出てくるタコの方が大分かっこよかったですが・・・。

『ニーゼと光のアトリエ』

 1944年のブラジル。精神科医のニーゼ(グロリア・ピレス)は精神病院に赴任するが、電気ショックやロボトミー手術等暴力的な治療に反感を示し、ナースが運営する作業療法部門に配属される。ニーゼは絵具や粘土を癇じゃに与えて彼らの表現を引き出そうとする。実在の医師のエピソードをドラマ化した作品。監督・脚本はホベルト・ベリネール。
 ニーゼが赴任した精神病院の様子からは、当時、精神病患者は独立した個人として扱われていなかったことが見て取れる。患者というよりも収容者といった扱いで、治療の概念も現代のものとはだいぶ違う。何しろロボトミー手術が普及し始め持てはやされていた時代だ。病院側の言う治療とは、患者が言うことを聞くようになる、扱いやすくなるということで、そこに患者本人が幸福かどうか、その人らしくいられるかどうかという発想はない。 ニーゼが目指す治療とは正にその部分で、患者(ニーゼはクライアントと呼ぶ)にとってどういう形でいることが幸せなのか、内面の調和を得られるのかを配慮している。しかしそういった考え方も、作業療法や現代で言うところのアニマルセラピーも、当時は型破りもいい所だったはずだ。当然、他の医師たちは強く反発し彼女への協力を拒む。また患者の家族も、精神疾患についての理解は乏しい。ある家族が病状の好転に対して、(患者は)もう良くなった・完治したんだろうと言うが、ニーゼの表情は微妙だ。こういった症状に完治というものはなく、いい状態をキープしていくというのが実際の所だと思うのだが、そういった理解は家族にはない。そして家族の言う「治った」とは本人がどうこうというより、家族にとって負担が少なく、理解しやすい状態になったということなのだ。
 本作の最後に、実在のニーゼ医師へのインタビュー映像が挿入される。その言動からも、彼女が様々なものと闘ってきた人だということがわかってくる。作中でもニーゼは戦い続けるが、実を結ぶとは限らない。特に時代との戦いはきつかったのではないかと思う。彼女の治療方法も女性医師であることも現代では珍しくないが、当時は時代を先取りしすぎたものだったのだろう。
 ニーゼは患者らに親身になって接し、創作意欲を引出していくが、彼女の立ち位置はあくまで治療者であり医であり、その線引きは明確にされている。全て「医療」としてやっていることなのだ。患者に深入りしすぎる若いスタッフを叱責するのも、患者の作品の展示方法について「日付順でないと意味がない」と指摘するのもそれ故だろう。医師は医師でしかなく、患者の家族にもパートナーにもなれないのだ。彼女の支援者が医療ではなく芸術分野から出てきたのは皮肉でもある。彼女にとっては、アートが主目的ではなかったのだろうから。

『人間の値打ち』

 不動産業者のディーノ(ファブリツィオ・ベンティボリオ)は、娘セレーナ(マティルデ・ジョリ)の恋人マッシミリアーノ(フリエルモ・ピネッリ)の父親で有名な投資家のジョバンニ・ベルナスキ(ファブリツイォ・ジフーニ)に近づき、彼のファンドへ投資させてほしいと頼み込む。ベルナスキ夫人のカルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は空疎な毎日を送っていたが、古くからある町の唯一の劇場が取り壊されそうだと知り、劇場再建の為の出資を夫に頼み、地元の劇作家や評論家らによる運営委員会を立ち上げる。セレーナは継母でカウンセラーのロベルタの職場で、ルカ(ジョヴァンニ・アンザルド)と知り合う。そしてクリスマスイヴ前夜、1人の男性がひき逃げにあう事件が起きた。監督・脚本はパオロ・ヴィルズィ。
 エンドロール前の字幕による解説が、題名の「値打ち」ってそのものずばりで、このことかーとげんなりさせる。やっぱり金か!ただ、お金で量られることそのものというよりも、その計量が、その人がどういう人なのかどういう人生なのかということとは関係なく、全くの第三者に表層的な部分でシステマティックに決められてしまうということが辛い。お金で量るというのは、そういうこと(あからさまにわかりやすくすること)なのだろうけど。
 ディーノの貪欲さ、「上流社会」への憧れみたいなものが実にいやらしいのだが、ちょっと不思議でもあった。自宅の様子や、セレーナを富裕層の子女が通っているらしい私立校に入れていることからすると、彼はそこそこいい暮らしをしていると言えるだろう。詐欺まがいの嘘までついて無理な借金をし投資するというのは、リスクが高すぎて現実的とは思えないが、そこまでしてお金がほしい、あるいはベルナスキが象徴するような富裕層の世界に入ってみたかったのか。自分ではベルナスキの仲間になったつもりでも、周囲はそうは見ないと思うが。いずれにせよ、いやちょっと現実見て!他にやることあるだろ!と突っ込みたくなる。
 ディーノと比べるとベルナスキがやたらとちゃんとした人に見えてしまうし、ちゃんとした人ではあるのだろう。しかし、妻や息子をアクセサリー扱いしていることが分かってくる。利己的という点ではディーノと同じなのかもしれない。また、夫にアクセサリー扱いされる日々に空疎さを抱えているカルラも、その空疎さを埋める為、手近にあった物・人を利用しただけに見えてくるのだ。人間の身勝手さ、貪欲さが前面に押し出されているので、ぱきっとして湿度は低い作風ながらも、ちょっとげんなりとする。
 唯一、誰かを守る為に動く(それも自分本位なやり方と言えなくはないものの)セレーナだけが、危なっかしくも頼もしかった。彼女に比べると、マッシミリアーノもルカも頭悪いわメンタル弱いわで、年齢相応とはわかっていても若干イライラした。セレーナの八方塞感を察知できる人がいないのだ。唯一、彼女の異変に気付き気遣えるのが、彼女とは血縁がなく、親子の内情も知らないはずのロベルタだというところが面白い。カウンセラーという職業柄もあるのかもしれないが、家庭内ではともすると大雑把に見えた彼女の側面が垣間見える。

『永い言い訳』

 津村啓というペンネームで執筆している人気作家の衣笠幸夫の元に、バス事故で妻・夏子(深津絵里)が亡くなったという知らせが入る。しかし知らせが入った時、幸夫は浮気中だった。夫婦の間に既に愛情はなく、幸夫は悲しみに暮れる夫を演じるだけだった。そんな幸夫の前に、同じバス事故で、夏子の友人であった妻を亡くした大宮(竹原ピストル)が現れる。2人の子供を抱える大宮は、妻を亡くした悲しみに耐えかねていた。幸夫は大宮家に通い、トラック運転手の大宮に代わって子供達と留守番をするようになる。監督・脚本・原作は西川美和。
 幸夫のいけ好かなさが、夏子にヘアカットをしてもらうシーン数分間で如何なく発揮されており、西川監督の演出の上手さと、人間のかっこ悪さに対する感覚の鋭さに唸る。こういう、自分の不備を引き受けられなくて言い訳ばかりする人っているよなー!というか自分がやっちゃうよなー!という大変居心地の悪い気分にさせられる。幸夫はルックスはいいし立ち居振る舞いにもあたりさわりがない、ぱっと見はちゃんとした社会人だが、実の所は利己的で自分がどう見られているのか気になってしょうがない(エゴサーチするシーンの検索ワードの組み合わせには笑ってしまった)。妻が死んで初めて、彼女が何を考えていたのか、というよりも彼女にも彼女の感情と人生があり、夫に向けた感情があったと気付く。しかし相手は既にいなくなっており、彼女の感情がどのようなものだったのかは、永遠にわからない。
 幸夫はなりゆきで大宮家の子供達の世話をするようになるが、マネージャーからは現実逃避だと指摘される。それももっともで、幸夫は妻の不在、妻に対するわからなさと向き合いたくないのだろう。しかし、現実逃避だった行動が、徐々に彼にとって本当に「現実」になっていく。他人に関心を向けなかった幸夫が、本気で子供達を案じ、可愛がるようになっていく。もちろん彼は子供達の家族ではないし、家族の代わりにもなれない。幸夫にとって人生を分かち合うはずだった家族は、既に失われている。その出遅れ感、取り返しのつかなさが、ずっとつきまとうのだ。
 もっとも、仲良く見える大宮父子の間にも、やはりわからなさはある。大宮は幸夫とは対称的に、不器用だが自分の思いをそのまま口に出すことに躊躇がない。洗練されてはいないし、時によっては「それはまずいんじゃ・・・」ということもあるが、時には幸夫の「言葉プロ」としての言葉よりも他人の心を打つ。しかし、大宮の長男にとって、それは気恥ずかしいことだ。息子は息子で母親の死を悲しんでいるのだが、その表出の仕方が大宮とは違うし、大宮にはそれがぴんとこない。家族にしろ何にしろ、誰かと共に生きることは素晴らしいことなのだろうが、同時に、関係性が続く限り相手をわかろうとし続けなければならない、相手へはたらき続けなければ維持できない厄介なものでもあるのだろう。幸夫と夏子は戸籍上の夫婦としては維持されていたが、もう相手をわかろうとすることはなくなっており、関係性としては終わっていたのかもしれない。
 本作のラスト、今までの西川監督作品と比べるとかなり優しい、人によっては温いと感じられるものだ。しかし、監督はそういう指摘を受けるであろうことは当然予測して、あえてこの締め方にしたのだろう。そういう選択を今回あえてした、という所がとても面白いなと思った。

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