3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名な行

『ナイスガイズ!』

 1976年のデトロイト。シングルファーザーの探偵マーチ(ライアン・ゴズリング)と腕っぷしの強い示談屋ヒーリー(ラッセル・クロウ)は、なりゆきでコンビを組み、失踪した少女アマンダを探すことになる。アマンダはポルノ映画の撮影に関わっていたらしいが、その映画の関係者である女優も監督も殺されていた。監督・脚本はシェーン・ブラック。
 予想以上に70年代感漂う作品で、ストーリー展開のユルさものたのた進行も70年代の探偵映画の雰囲気を狙ったのかな?ってくらい。どこか懐かしいのだ。そしてライアン・ゴスリングは70年代ファッションが異様に似合う。現代のファッションよりも似合っているんじゃないだろうか。本作、ゴズリングが痛さのあまりにキーキー言ったりえぐえぐ泣いたりあたふたしたりする、基本的にあまりかっこいいところがないゴズリング映画なのだが、今まで見た彼の演技の中では一番好きかもしれない。情けないが憎めない味わいがある。そしてラッセル・クロウはいつものラッセル・クロウ(殴る・唸る・暴れる)な感じだった。一見穏やかで常識人に見えるマーチが諸々だらしなくぼんくらで、一見暴力で全部解決する系のヒーリーは意外と常識人で頭も回るという凸凹感も楽しい。
 加えて、マーチの娘ホリーが聡明かつ心が優しい良い子で、清涼剤のようだった。本当は色々思う所あるけれど言わないという健気さにも泣ける。マーチは終始、彼女に支えられているのだ。ちょっと娘に寄りかかりすぎじゃないのと思わなくもないが、多分娘がいるから道を踏み外さなくて済んでる(それでも結構外してるけど・・・)タイプの人なんだろうな・・・。ホリーに対しては父親であるマーチはもちろん、強面のヒーリーも誠実にならざるを得ない。ホリーに「殺したの?」と問われるヒーリーの表情には何とも言えないものがあった。まあそう答えるしかないよ・・・。
 妙に脇道が多く、同じ場所をぐるぐる回っていくようなストーリー展開で、これ回転数もうちょっと減らせるんじゃないかな?とも思ったが、そこもまた味か。ユルいコメディとユルいサスペンスを足して2で割った感じで、肩の力を抜いて楽しく見られる。子供の頃、テレビで午後放送されていた映画の中の「大当たり」作品といった味わい。とは言え、能天気な話かと思っていたら(実際最初はかなり能天気だし)、意外と生臭い展開になってくる。デトロイトの現状を見ると、無常感を感じざるを得ない。
 ところで、マーチは借家とは言え結構いい家に住んでいる。元の家も近所なので、実はそこそこ稼いでるってことなのかな?それとも妻が稼いでたの?彼の探偵仕事は腕がいいとは考えにくいんだけど・・・。

『ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男』

 南軍の兵士として南北戦争に従事していたニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)は、戦死した甥の遺体を故郷であるミシシッピ州ジョーンズ郡に届けようと脱走。やがて農民から食料をむりやり徴収する軍と衝突し、追われる身となる。湿地帯に身を隠して黒人の逃亡奴隷たちと共に闘うようになった彼は、白人と黒人が共存する反乱軍を結成し、軍と対立していく。監督・脚本はゲイリー・ロス。
 実話を元にした話だそうだが、ナイトの存在は近年まであまり知られていなかったそうだ。当時としてはかなり型破りな人だったんだろうけど。(本作中の)ナイトは白人だろうが黒人だろうが個人は個人だという考え方で、黒人に対しても(他の白人と比べると)自分と同じ人間として接する。一方で彼が軍に反旗を翻す理由は、奴隷制度に反対しているからではなく、軍が自分達の作物や家畜を根こそぎ奪うから、搾取するからだ。白人だろうが黒人だろうが自分が育て収穫したものはその人のもので、それを奪うのは不当だから闘う、というのが彼の方針だ。これはとてもアメリカ的な考え方ではないかと思う。自分達の生活と権利を守るのが一番大事という考え方はともすると、「それ以外」を阻害する排他的なものになりかねないが、ナイトは意外と来るもの拒まずだし自分の妻子そっちのけで地元の農家を救いに奔走したりするので、そのあたりも稀有な人ではある。
 とは言え、彼の理想は当時の世間にはまだ早すぎた。南北戦争が終わっても、名称や形が変わっただけで黒人が差別されることに変わりはなく、ナイトの勢いも衰えていく。史実ベースとは言え、もの悲しい。更にきついのは、ナイトの時代から約90年後のある裁判の顛末だ。これだけ時間がたってもこんなもんか!と唖然とした。どんなに傑出した人でも1人で歴史を変えられるわけではない(ナイトの場合は傑出したというか、タイミング的に活躍できた時期があったという方がいいのかも)のだ。
 なお、冒頭の戦場の描写はかなり生々しく迫力がある。当時の兵士って、半分くらいは死ぬことを前提として配置されていたんだろうなと実感させられる。とにかく大量の死人が出た戦争だったんだなとビジュアル的に納得するし、各地の農家で男手が足りなくなり食い詰めるというのも説得力が増す。
 歴史ものとしても面白い作品だったが、後年のある裁判の挿入の仕方が唐突で、流れが悪くなる。この裁判が作品にとって大きな意味を持つというのはわかるのだが、構成に難がある。

『ネオン・デーモン』

 トップモデルを夢見て田舎からロサンゼルスへ出てきた少女ジェシー(エル・ファニング)は、モデル事務所と契約を交わし、人気カメラマンのテストモデルになる。若さと天性の魅力によってカメラマンやデザイナーの心を捉えたジェシーはトップモデルへの階段を上り始めるが、彼女の魅力はライバルたちの嫉妬心に火をつけるものでもあった。監督はニコラス・ウィンディング・レフン。
 メタリックな蛍光色に彩られた夢のように美しく血みどろな世界という、「いつものレフン」感満載の新作。見る側としてはまたこれ?という気分もあるが、ビジュアルの癖こそがこの監督の最大の持ち味なんだろう。『ドライヴ』にしろ『オンリー・ゴッド』にしろ本作にしろ、物語自体は非常にオーソドックスな恋愛であったり復讐譚であったりという、ごくありふれたものだしストーリーライン自体もそんなに捻ってこない。見せたいのは物語を媒介とした映像そのものということか。話がどうこうとかはあんまり興味ないのかもなー。美しさ=ビジュアルが全てという本作のモチーフは、レフン監督の作風と一致しているとも言える。それにしても、若さと美しさの追求が人を狂わせていくというのは、今時それかよって感じが否めない。未だにそれがネタになるくらい、ハリウッドは美と若さが持てはやされる世界ってことなのだろうが。
 本作の設定の前提として、ジェシーを演じるエル・ファニングに絶対的な魅力がなければならないのだが、正直な所、それほどとは(私個人の趣味では)思えなかった。なので、カメラマンもデザイナーもジェシーを見ると息を呑み夢中になっていくという展開には、なんだかなという気分になってしまう。また、周囲の女性達も彼女に嫉妬し、あるいは魅了されてとんでもないことになるのだが、何というハイリスクローリターン!的な感想しか出てこないのね・・・。わざわざそんなことするほど、ジェシーに魅力ある?って思ってしまう。また「そんなこと」後の3人の女性も、特に魅力が増したようには見えないし、カメラマンにインスピレーション与えるようにも見えない(ので終盤の抜擢が茶番に見えてしまう)。美の基準て難しいなー。「ネオン・デーモン」とは一見ジェシーのようでもあるが、彼女の中にそういうものを見出してしまう周囲の心理、そしてそういうもの、外的な美に固執してしまう監督の性分のことを指しているようにも思った。
 それにしても、前2作よりも悪趣味だなと(自慰はともかく満月の晩のあれは、大昔のすっごく安い悪魔崇拝ネタみたいで何か観客バカにしてる?って気分に・・・)思うところが多くげんなりした。自分の趣味の方向に舵を切りすぎるとどん引きされるタイプの監督だと思う。
 なお、なぜかキアヌ・リーヴスが出演しているのだが、彼が演じるモーテルの主だけ他の登場人物とは異質に見えるところが面白い。ジェシーに何か特別なものを感じている風にも見えない。キアヌは(世間的に一応)美形ということになっていると思うのだが、作中の美と若さを巡るあれこれにはとんと興味がなさそうなのだ。彼にとっては女は女、男は男、ピューマはピューマでそれ以外の何かは付加されていないのだろう。

『人魚姫』

 実業家のリウ(ダン・チャオ)は香港郊外の自然保護区域を買収し、イルカや魚を追い払って海を埋め立て、リゾート開発を狙っていた。この計画を阻止しようと、人魚族はリウの暗殺を計画する。若い女性人魚シャンシャン(リン・ユン)を人間に変装させリウの元に送り込むが、リウとシャンシャンは恋に落ちてしまう。監督・脚本はチャウ・シンチー。
 アクション映画以外のチャウ・シンチー監督作って、どうもキワモノ感が拭えないのだが、これは私の先入観かなー。満席立ち見も出るほどの客入りだったけど、そこまで面白い作品とは思えなかった。どうも監督のギャグセンスと相性が悪い。冒頭の観光客の面子がいかにもマヌケ、不細工といった面々でマヌケ、不細工だったらこういう振る舞いだろうというテンプレな振る舞いをするあたりからして苦手意識を感じてしまった。不細工ギャグとか、嘔吐ギャグを必ず入れるところとかもきつい。あとCGの出来が悪いというのではなく、色と質感がギラギラ寄りなのは多分好みなんだろうけど、これもきつい。ギャグが上滑りしている感じなんだけど・・・。
 ただ、なかなかぐっとくる所もある。貧しい出身から這い上がり、無理して「セレブ」をやっていたリウが、屋台の焼き鳥の味に涙ぐんでしまうエピソードは、王道人情ものっぽく、またリウが結構無理してきたんだなという背景が窺えるものだった。焼き鳥がきっかけでシャンシャンとの距離がぐっと縮まる、更に不思議なミュージカルシーンにも発展するというのも楽しい。
 ところで、シャンシャンの兄貴分はタコの人魚なのだが、タコの移動能力がチートというのは、『ファインディング・ドリー』と同じだった。やっぱり使い勝手がいいんだろうな。『ファインディング~』に出てくるタコの方が大分かっこよかったですが・・・。

『ニーゼと光のアトリエ』

 1944年のブラジル。精神科医のニーゼ(グロリア・ピレス)は精神病院に赴任するが、電気ショックやロボトミー手術等暴力的な治療に反感を示し、ナースが運営する作業療法部門に配属される。ニーゼは絵具や粘土を癇じゃに与えて彼らの表現を引き出そうとする。実在の医師のエピソードをドラマ化した作品。監督・脚本はホベルト・ベリネール。
 ニーゼが赴任した精神病院の様子からは、当時、精神病患者は独立した個人として扱われていなかったことが見て取れる。患者というよりも収容者といった扱いで、治療の概念も現代のものとはだいぶ違う。何しろロボトミー手術が普及し始め持てはやされていた時代だ。病院側の言う治療とは、患者が言うことを聞くようになる、扱いやすくなるということで、そこに患者本人が幸福かどうか、その人らしくいられるかどうかという発想はない。 ニーゼが目指す治療とは正にその部分で、患者(ニーゼはクライアントと呼ぶ)にとってどういう形でいることが幸せなのか、内面の調和を得られるのかを配慮している。しかしそういった考え方も、作業療法や現代で言うところのアニマルセラピーも、当時は型破りもいい所だったはずだ。当然、他の医師たちは強く反発し彼女への協力を拒む。また患者の家族も、精神疾患についての理解は乏しい。ある家族が病状の好転に対して、(患者は)もう良くなった・完治したんだろうと言うが、ニーゼの表情は微妙だ。こういった症状に完治というものはなく、いい状態をキープしていくというのが実際の所だと思うのだが、そういった理解は家族にはない。そして家族の言う「治った」とは本人がどうこうというより、家族にとって負担が少なく、理解しやすい状態になったということなのだ。
 本作の最後に、実在のニーゼ医師へのインタビュー映像が挿入される。その言動からも、彼女が様々なものと闘ってきた人だということがわかってくる。作中でもニーゼは戦い続けるが、実を結ぶとは限らない。特に時代との戦いはきつかったのではないかと思う。彼女の治療方法も女性医師であることも現代では珍しくないが、当時は時代を先取りしすぎたものだったのだろう。
 ニーゼは患者らに親身になって接し、創作意欲を引出していくが、彼女の立ち位置はあくまで治療者であり医であり、その線引きは明確にされている。全て「医療」としてやっていることなのだ。患者に深入りしすぎる若いスタッフを叱責するのも、患者の作品の展示方法について「日付順でないと意味がない」と指摘するのもそれ故だろう。医師は医師でしかなく、患者の家族にもパートナーにもなれないのだ。彼女の支援者が医療ではなく芸術分野から出てきたのは皮肉でもある。彼女にとっては、アートが主目的ではなかったのだろうから。

『人間の値打ち』

 不動産業者のディーノ(ファブリツィオ・ベンティボリオ)は、娘セレーナ(マティルデ・ジョリ)の恋人マッシミリアーノ(フリエルモ・ピネッリ)の父親で有名な投資家のジョバンニ・ベルナスキ(ファブリツイォ・ジフーニ)に近づき、彼のファンドへ投資させてほしいと頼み込む。ベルナスキ夫人のカルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は空疎な毎日を送っていたが、古くからある町の唯一の劇場が取り壊されそうだと知り、劇場再建の為の出資を夫に頼み、地元の劇作家や評論家らによる運営委員会を立ち上げる。セレーナは継母でカウンセラーのロベルタの職場で、ルカ(ジョヴァンニ・アンザルド)と知り合う。そしてクリスマスイヴ前夜、1人の男性がひき逃げにあう事件が起きた。監督・脚本はパオロ・ヴィルズィ。
 エンドロール前の字幕による解説が、題名の「値打ち」ってそのものずばりで、このことかーとげんなりさせる。やっぱり金か!ただ、お金で量られることそのものというよりも、その計量が、その人がどういう人なのかどういう人生なのかということとは関係なく、全くの第三者に表層的な部分でシステマティックに決められてしまうということが辛い。お金で量るというのは、そういうこと(あからさまにわかりやすくすること)なのだろうけど。
 ディーノの貪欲さ、「上流社会」への憧れみたいなものが実にいやらしいのだが、ちょっと不思議でもあった。自宅の様子や、セレーナを富裕層の子女が通っているらしい私立校に入れていることからすると、彼はそこそこいい暮らしをしていると言えるだろう。詐欺まがいの嘘までついて無理な借金をし投資するというのは、リスクが高すぎて現実的とは思えないが、そこまでしてお金がほしい、あるいはベルナスキが象徴するような富裕層の世界に入ってみたかったのか。自分ではベルナスキの仲間になったつもりでも、周囲はそうは見ないと思うが。いずれにせよ、いやちょっと現実見て!他にやることあるだろ!と突っ込みたくなる。
 ディーノと比べるとベルナスキがやたらとちゃんとした人に見えてしまうし、ちゃんとした人ではあるのだろう。しかし、妻や息子をアクセサリー扱いしていることが分かってくる。利己的という点ではディーノと同じなのかもしれない。また、夫にアクセサリー扱いされる日々に空疎さを抱えているカルラも、その空疎さを埋める為、手近にあった物・人を利用しただけに見えてくるのだ。人間の身勝手さ、貪欲さが前面に押し出されているので、ぱきっとして湿度は低い作風ながらも、ちょっとげんなりとする。
 唯一、誰かを守る為に動く(それも自分本位なやり方と言えなくはないものの)セレーナだけが、危なっかしくも頼もしかった。彼女に比べると、マッシミリアーノもルカも頭悪いわメンタル弱いわで、年齢相応とはわかっていても若干イライラした。セレーナの八方塞感を察知できる人がいないのだ。唯一、彼女の異変に気付き気遣えるのが、彼女とは血縁がなく、親子の内情も知らないはずのロベルタだというところが面白い。カウンセラーという職業柄もあるのかもしれないが、家庭内ではともすると大雑把に見えた彼女の側面が垣間見える。

『永い言い訳』

 津村啓というペンネームで執筆している人気作家の衣笠幸夫の元に、バス事故で妻・夏子(深津絵里)が亡くなったという知らせが入る。しかし知らせが入った時、幸夫は浮気中だった。夫婦の間に既に愛情はなく、幸夫は悲しみに暮れる夫を演じるだけだった。そんな幸夫の前に、同じバス事故で、夏子の友人であった妻を亡くした大宮(竹原ピストル)が現れる。2人の子供を抱える大宮は、妻を亡くした悲しみに耐えかねていた。幸夫は大宮家に通い、トラック運転手の大宮に代わって子供達と留守番をするようになる。監督・脚本・原作は西川美和。
 幸夫のいけ好かなさが、夏子にヘアカットをしてもらうシーン数分間で如何なく発揮されており、西川監督の演出の上手さと、人間のかっこ悪さに対する感覚の鋭さに唸る。こういう、自分の不備を引き受けられなくて言い訳ばかりする人っているよなー!というか自分がやっちゃうよなー!という大変居心地の悪い気分にさせられる。幸夫はルックスはいいし立ち居振る舞いにもあたりさわりがない、ぱっと見はちゃんとした社会人だが、実の所は利己的で自分がどう見られているのか気になってしょうがない(エゴサーチするシーンの検索ワードの組み合わせには笑ってしまった)。妻が死んで初めて、彼女が何を考えていたのか、というよりも彼女にも彼女の感情と人生があり、夫に向けた感情があったと気付く。しかし相手は既にいなくなっており、彼女の感情がどのようなものだったのかは、永遠にわからない。
 幸夫はなりゆきで大宮家の子供達の世話をするようになるが、マネージャーからは現実逃避だと指摘される。それももっともで、幸夫は妻の不在、妻に対するわからなさと向き合いたくないのだろう。しかし、現実逃避だった行動が、徐々に彼にとって本当に「現実」になっていく。他人に関心を向けなかった幸夫が、本気で子供達を案じ、可愛がるようになっていく。もちろん彼は子供達の家族ではないし、家族の代わりにもなれない。幸夫にとって人生を分かち合うはずだった家族は、既に失われている。その出遅れ感、取り返しのつかなさが、ずっとつきまとうのだ。
 もっとも、仲良く見える大宮父子の間にも、やはりわからなさはある。大宮は幸夫とは対称的に、不器用だが自分の思いをそのまま口に出すことに躊躇がない。洗練されてはいないし、時によっては「それはまずいんじゃ・・・」ということもあるが、時には幸夫の「言葉プロ」としての言葉よりも他人の心を打つ。しかし、大宮の長男にとって、それは気恥ずかしいことだ。息子は息子で母親の死を悲しんでいるのだが、その表出の仕方が大宮とは違うし、大宮にはそれがぴんとこない。家族にしろ何にしろ、誰かと共に生きることは素晴らしいことなのだろうが、同時に、関係性が続く限り相手をわかろうとし続けなければならない、相手へはたらき続けなければ維持できない厄介なものでもあるのだろう。幸夫と夏子は戸籍上の夫婦としては維持されていたが、もう相手をわかろうとすることはなくなっており、関係性としては終わっていたのかもしれない。
 本作のラスト、今までの西川監督作品と比べるとかなり優しい、人によっては温いと感じられるものだ。しかし、監督はそういう指摘を受けるであろうことは当然予測して、あえてこの締め方にしたのだろう。そういう選択を今回あえてした、という所がとても面白いなと思った。

『夏の黄昏』

カーソン・マッカラーズ著、加島祥造訳
最近、『結婚式のメンバー』として村上春樹による新訳が出た、マッカラーズの代表作。本著は1990年に福武文庫から出たバージョンになるが、ご厚意により読み比べることが出来た。作品の印象はそれほど変わらない。ただ、村上版の方がより乾いており、主人公であるフランキーと周囲の「ずれ」が際立っていたと思う。また、特にベレニスの言葉や彼女に関する表現は村上訳の方が生き生きとしている気がする。対して加島訳の本著は、夏のねばっこい暑さやけだるさ等、フランキーを取り巻く空気感がより感じられた。ただ、文章上には表れていないが、訳者解説で言及されている加島の本作に対する解釈は、ちょっと違うんじゃないかなと思った。加島は本作を、フランキーが大人になる一夏の物語としてとらえている。それは間違いではないのだが、本作は「一夏」ではなく、おそらくフランキーがこの先ずっと、大人になっても抱えていく如何ともし難さを描いているように思う。大人になっても住むところが変わっても、フランキーはフランキーでそれ以外になれない、というところに苦しさがあるのではないか。「(中略)あたしはどこまでいってもあたしでしかないし、あんたはどこまでいってもあんたでしかない。こういうこと今まで考えたことない?変だと思わなかった?」

『虹蛇と眠る女』

 オーストラリアの小さな町に越してきたキャサリン(ニコール・キッドマン)とマシュー(ジョセフ・ファインズ)一家。ティーンエイジャーの娘と小学生の息子は狭い田舎町に馴染めず、うんざりしている。ある夜、子供たちが姿を消した。砂漠に囲まれた土地で暑さに耐えられるのは2~3日。警官のレイ(ヒューゴ・ウィーヴィング)を筆頭に大規模な捜索が行われるが、子供たちは見つからず、夫婦に疑いの目が向けられていく。監督はキム・ファラント。
 出演者はビッグネームだが作品自体はこぢんまりとして地味。しかし不思議な雰囲気がある。オーストラリアの風土によるところも大きい。本作の舞台となるのは、オーストラリアの中でも内陸の荒野と岩山が連なる地帯。乾燥しており作中ではすさまじい砂嵐も起きる。(特に日本のような水の豊かな土地の住んでいると)人間を突き放すような「遠い」感じがする風土だ。とにかく日差しが強くて暑そうなのも印象に残る。こんな土地で迷子になったら、レイが危惧する通り、生きて帰れないだろう。一方で、こういう土地だったら人1人くらい神隠しにあっても不思議ではないという気もしてくる。
 もっとも本作、謎に対して明らかな解があるわけではない。焦点があてられているのは失踪事件ではなく、子供の失踪によって夫婦の関係、そしてキャサリンとマシューそれぞれがどんどん崩れていく様だ。実は長女は過去にある問題を起こし、その為一家は引っ越したのだ。以来、夫婦の間でも、娘との間でも溝があからさまになっていく。本作において謎であるのは、失踪事件ではなく、人の心の中、特にごく身近な人の心の中だろう。キャサリンもマシューも娘の日記を見てショックを受けるが、それは娘の別の一面を目の当たりにしたからだろう。また、キャサリンがマシューに対してセックスを求めるのは、彼女が彼に対して「わかる」と思える方法が、目下それしかないからではないか。2人の言葉はずっと噛み合わず、子供たちを心配する度合いもどこかずれている。
 また、キャサリンは町という共同体からも「わからない」もの扱いされている。彼女らが暮らす小さな町は、荒れているというわけではないが、何しろ周囲は砂漠みたいなものなので殺風景だし、都会からは遠く隔たれている。町の中でもお互いが顔見知りみたいなものなので、時には息が詰まりそうになるだろう。そんな中で、子供の失踪事件が起きる。キャサリンたちは元々よそ者で異質な存在だが、この事件をきっかけに更に異質なものとして見られていく。その視線に連動するように、キャサリンの言動は不安定さを増し、自ら共同体からはみ出ていくのだ。マシューへの態度とは対称的で、相手を自ら突き放してしまうようでもある。
 一つの事件をきっかけとして、家族同士、また家族と周囲とのかろうじてあったコミュニケーションのあり方が、がたがたに崩れ、再生の兆しは見えない。キャサリンはこの後この町に住み続けることが出来るのだろうかとふと考えてしまう。

『名もなき塀の中の王』

 少年院でトラブルばかり起こしたエリック(ジャック・オコンネル)は、19歳にしてとうとう刑務所に移送されてしまう。そこには彼の父・ネビル(ベン・メンデルスゾーン)も収容されていた。囚人の更生に尽力する心理療法士オリバー・バウマー(ルパート・フレンド)のグループ療法に参加するうち、エリックは徐々に変化していく。しかし彼の行動を問題視する人たちもいた。監督はデヴィッド・マッケンジー。
 マッケンジー監督作品は『猟人日記』『パーフェクト・センス』と見てきたが、毎回方向性は違うが、どこか似た不思議な雰囲気がある。どこか強く緊張させられる、何かに脅かされそうな気配があるのだ。本作の場合、刑務所という荒っぽい舞台と、何をしでかすかわからず爆発しそうなエリック達のぴりぴり感が緊張を強いる。実際、ちょっとしたことで誰もが暴力を爆発させるし、そうしないとこの場では臆病者扱いされてなめられるのだ。しかし彼らの暴力は、周囲を威嚇するものであると同時に、周囲に対する怯えの一つの形でもある。
 バウマーは怒りや恐怖をコントロールする方法をエリックに教えようとする。怒りや暴力に流されないこと、周囲に派生させないことが自分を守ることになるのだ。ただ、バウマーが教える自衛の方法は、出所した後、一般社会の中で最も有効であり、刑務所という特殊な世界の中では必ずしもエリックを守らない。一方ネビルは、刑務所の中の作法をエリックに教え込み、自身もその作法でエリックを守ろうとする。しかしそのやり方は刑務所の中でしか有効ではなく、エリックをその世界に縛り付けること、彼が自立していく力をそぐことになりかねない。
 ネビルとエリックの間には、一般的な父子のような情愛や絆はない。そもそも一緒に生活していたことがあまりないようだ。それでもネビルはエリックのことを彼なりに愛している。その愛は一方的かつ利己的でエリックを自分の所有物のように扱うものでもあるのだが。変わっていく息子の前で狼狽しいらつくネビルの姿は、滑稽でもあるがどこか物悲しくもある。そんな彼が最後に見せる底力が深く記憶に残る。
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