3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名た行

『台北ストーリー』

 不動産会社で働くアジン(ツァイ・チン)と稼業の布地問屋で働くアリョン(ホウ・シャオシェン)は幼馴染で、過去に色々あったらしいが何となく関係が続いている。昇進を控えたアジンだが、勤務先が大企業に買収され解雇されてしまう。渡米したアリョンの義兄を頼って、2人でアメリカへ移住しようとも考えるが、アリョンはなかなか踏ん切りがつかない。監督はエドワード・ヤン。4Kデジタル修復され、待望の日本公開となった。1985年の作品。
 80年代、日本と同じく好景気に沸く台北が舞台。冒頭、アジンは念願のマンションを購入する。徐々に内装が整うマンションの室内は、当時の「ちょっとおしゃれな単身者の住まい」風で、うーんこれは仕事も私生活もぶいぶいゆわせてゆく系の調子良好な都会人たちの話なのかしら・・・と思っていたら、アジンがいきなり失職するし再就職なかなかしないしで、むしろ調子悪くなっていく話だった。なんとなく続けていた青春時代の名残、モラトリアム期間が、とうとう霧散していくようなはかない味わいがある。
 アジンはアメリカへの移住を望むが、台北での生活に具体的な支障があるわけではない。今の生活に行き詰まりを感じており、環境を変えたいのだ。アリョンは彼女に、結婚しても移住しても何かが変わるとは限らないと言い放つが、確かにその通りでもある。ただ、アリョンはアリョンで今の自分の生活に所在なさを感じている。アリョンが少年野球のエースとして活躍し周囲からも期待されていたらしいという話が何度も出てくるが、今の彼は野球選手ではない。彼の人生のピークはあまりにも早く来てしまった。アリョンはアメリカへ行ったり日本へ行ったりもしているみたいだが、やはり自分の居場所を掴みあぐねている。継いだ稼業にも向いているとは思えないし、同年代の起業家たちのように貪欲にもなれない。アリョンのふらふらとしているうち、なんとなくここまで来てしまったがこの先どこへいけばいいのかわからないという状況は、身につまされるものがあった。2人はもし結婚したとしても、アメリカに移住したとしても、どこへも行けない気持ちのままだったのではないか。「どこか」「いつか」などないと断念するしか、今ここから抜け出す方法はないのかもしれないが、それがちょっときついのだ。
 好景気が背景なのに、アジンとアリョンの周囲は金に困っているという話ばかりだ。世間の景気と自分の景気は違うという所も、なんだか身につまされた。アジンは父親の借金のとばっちりをずっと受けているし、アリョンは安易に人に金を貸してしまいトラブルになる。アジンが母親に金を都合した後のシーンが印象深い。アジンはすぐにその場を立ち去るが、母親は帰り道がわからず往生している。アジンには母を案ずる余裕がないのだ。2つの世代の間にはっきりと断絶がある(子は親を、親は子を最早理解できない)のに、親子の関係は切ることができないというもやもやを、アジンもアリョンも抱えているように見えた。



『T2 トレインスポッティング』

 20年前に仲間を裏切り退勤を持ち逃げしたレントン(ユアン・マクレガー)は、全てを失い故郷のスコットランドのエディンバラに返ってきた。シック・ボーイことサイモン(ジョニー・リー・ミラー)はさびれたパブを経営する傍ら、売春や恐喝で金を稼いでいる。スパッド(ユエン・ブレムナー)は薬物依存を断ち切ろうとするも家族に愛想を尽かされ自殺を図る。ベグビー(ロバート・カーライル)は刑務所に服役していたが脱獄し、レントンへの復讐に燃える。原作はアービン・ウェルシュの小説、監督は前作に引き続きダニー・ボイル。
 はー20年か!と思わずため息をついてしまう。前作『トレイン・スポッティング』は当然劇場に見に行ったし周囲ではTシャツやらポスターやらクリアファイルやらが大流行りしていたし、サウンドトラックは当然買った。まさか今になって続編見ることになるとは・・・。見ている自分たちは当然年を取っているわけだが、作中のレントンたちもきっちり20歳老いているし、ユアン・マクレガー以外はそもそもスクリーンで見るのが久しぶりすぎる!皆、年取ったな・・・。その姿を見るだけで感慨深くもありしんみりさもあり。
 加えて、20年後の彼らは相変わらずジャンキー(スパッドは脱ジャンキーを目指しているが)で特に成長しておらず、社会的に成功しているわけでもない。見ている自分もレントンを笑えないくらい成長していないし生活はきゅうきゅうなわけで、しょっぱさ倍増である。前作では「未来を選べ」というフレーズが多用されていた。今回もレントンがヴェロニカに当時こういうフレーズが流行ったんだ、みたいなことを教えるが、当時の「未来を選べ」と今の彼にとっての「未来を選べ」は全く意味あいが違うだろう。20年前は、まだ未来は選び取るものとして、希望を孕んだものとしてあった。40代になった今、未来の枠は狭まり、先はそこそこ見えている。自分が選べるであろう中に選びたい未来などないにもかかわらず、選ばざるを得ないという辛さがあるのだ。これから世界を牛耳っていくのは自分達ではなく、ヴェロニカら下の世代なんだということが、レントンやサイモンに突きつけられていく。何者にもなれずに取り残されていくのは辛いのだが、それでもまた明日をこなしていなかなくてはならない。ラストのレントンの行動には、何だか泣き笑いしそうになった。結局そこに戻っちゃったなぁ。
 唯一前進した、未来を少し掴んだと感じられるのはスパッドだろう。本作の良心のような存在になっているが、彼は「書く」ことで自分と過去を相対化できるようになった。そうすると、未来も見えやすくなってくるのかもしれない。

『タレンタイム 優しい歌』

 マレーシアのとある高校で、音楽コンクール「タレンタイム」が開催されつことになった。ピアノの弾き語りで出場するムルーは、彼女の送迎役になった耳の聞こえないマヘシュと恋に落ちる。オリジナル曲をギターの弾き語りで披露するハフィズは、母が末期の脳腫瘍で入院中。二胡奏者のカーホウは、何でも一番になれという父親からのプレッシャーに苦しみ、成績優秀なハフィズがカンニングをしたと嘘をついてしまう。監督はヤスミン・アフマド。
 ロミオとジュリエット的な恋愛、難病、同級生への嫉妬や家族問題等、ベタに泣かせてきそうな要素がてんこ盛りなのだが、不思議とそういう印象を受けない。一歩間違うと下品、通俗的すぎになりそうなところを、品よく踏みとどまっており、ベタだがとても瑞々しい。要素がトゥーマッチなのにそう感じさせないところが、面白いと思う。風通しがいいのだ。マレーシアは多民族、多宗教の多文化国家で特に都市部は様々な文化が入り混じっているようだが、その様々加減が本作に現れているように思う。
 群像劇であり、ムルーとマヘシュの恋愛が中心にあるのだが、強く印象に残るのは様々な家族の姿だった。ムルーの両親は父親が英国人、母はムスリムのマレーシア人で、結構裕福層な家庭だ。そしてとても仲がいい。特に父親と娘たちがダンスを披露しあう姿、足を「挙手」する父親の姿等には、通り一遍の「仲の良さ」演出ではない手応えがある。こういうやりとりが日常的で、関係性が密である様子がよく伝わるのだ。
 一方、マヘシュの家は父親が亡くなっており経済的には厳しいながらも、やはり家族仲はいい。しかし母親はある事件が起きたことで心を閉ざし、更にマヘシュがムスリムのムルーと恋に落ちたことに激怒する(マヘシュの家はヒンドゥー教)。また、ハフィズと母親の間には強い絆があり、ハフィズは本当に献身的なのだが、母親は自分が苦しむ姿を見せたくはない。お互いに愛情はあるが、それゆえに苦しんだりすれ違ったりする。基本的に、仲が険悪な家族は描かれていない為に、そのすれ違いが一層際立つのだ。また、仲がいい家族であっても、親は親、子供は子供であり、子供は保護される存在だが、同時に親子それぞれ独立した人格だという部分は踏まえられており、安心感があった。

『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』

 南太平洋に氷山が流れてきたというニュースを知ったのび太(水田わさび)たちは、真夏の暑さから逃れる為にさっそく氷山にやってきた。ドラえもん(大原めぐみ)の秘密道具「氷細工ごて」を使って遊園地を作り遊んでいたところ、氷に閉じ込められた金色のリングを見つける。リングのまわり氷は10万年前の南極のものだった。10万年前に高度な文明が存在したのではと、一行は南極へ向かう。そこで見つけたのは氷の下に閉じ込められた巨大な遺跡だった。監督・脚本・演出は高橋敦史。劇場オリジナル作品となる。
 ドラえもんの「新」劇場版は旧作のリメイク、というよりもリブート作品だが、本作はオリジナル。しかし、富士子・F・不二雄テイストが案外強く(一番らしいなと思ったのは「ヒョーガヒョーガ星」というネーミングですね・・・)、何だか懐かしい気持ちになった。そうそう、子供の頃に見たドラえもんてこんな雰囲気だったよなぁと。SFマインドを忘れず、自然科学の知識を織り込み、遺跡での冒険はインディ・ジョーンズみたいでわくわくする。タイムトラベルに関する整合性を結構きっちり詰めて説明しようとしているので、小さいお子さんにはちょっと難しくなっちゃうかなというきらいはあったが、これをやってくれないとつまらないしな。また、映画ドラえもんには度々、この先もう会うことがなくても、友達はずっと友達だ、という要素が含まれているように思うが、本作も同様。そこに妙なウェットさとか悲壮感みたいなものはなく、フラットな感覚で「ずっと友達」としている感じが良かった。ラストシーンはぐっとくる。
 従来のドラえもんと異なる特色があるとしたら、本作ではのび太が結構賢い(笑)。あんまり慌てない(単にぼーっとしているだけかもしれないが)し、リーダーシップをそれなりに取ろうとしたりする。おおいつになく出来るのび太だ・・・と思ったけど、現代ではあまりにも出来ない子、というのは逆に共感しにくいのかもしれない。
 高橋監督は『青の祓魔師 劇場版』に続く長編監督作2作目ということだが、所々ちょっとはしょったな、雑だなと思う所はあったが(特にジャイアン、スネ夫、しずかのキャラクターがあまり活かされていない)コンパクトにまとめていてなかなかいい。『青の祓魔師』の時も思ったけど、ドラマ展開でバーンと見得を切るというよりも、ちょっとした部分の情感の細やかさ、可愛らしさに持ち味のある作風なように思った。私の好みでそういう部分に目がいってしまうだけかもしれないけど。また、食事シーンに時間を割いており、一緒に食べるご飯はおいしいね!的シチュエーションには持ち味を感じる。

『トリプルX 再起動』

 謎の集団がパンドラの箱と呼ばれる兵器を奪い、それを使って人工衛星を落下させた。元シークレットエージェントのザンダー・ケイジ(ヴィン・ディーゼル)は国家安全保障局に召集され、チーム「トリプルX」を結成しパンドラの箱奪還に挑む。監督はD・J・カルーソ。
 ストーリーを追う必要がない、というよりもそもそもストーリーをちゃんと見せる気がないんだろうなと思ってしまうくらい、アクションの見せ場でつないでいく作品。前作に登場した人のことはその都度説明してくれるので、初心者にもやさしい仕様だ。冒頭、電波塔からテレビへの流れからして、なぜスキー?!なぜスケボー?!と突っ込みつつも人間の運動自体が目に気持ち良くてとても楽しい。ザンダーがわざわざ危険を冒した理由も、じゃあしょうがないよね!と納得してしまう(冒頭で登場するゲストとの関連もあるのだろうが)。
 12年ぶりのシリーズ新作だそうで、なぜ今わざわざ?と思ったのだが、これはドニー・イェンがハリウッドで活躍するようになるのを待っていたからだよ!と言われれば納得せざるを得ない。ゲスト的な扱いなのかな?と思っていたが、ディーゼルとの2枚看板と言えるくらい、意外と活躍している。そしてアクションは速い!高い!強い!の3拍子で当然のごとく見応え抜群。そして高さ速さで言うとトニー・ジャーも投入されている(今回珍しくすごくチャラいキャラクターだった)。ディーゼルはさすがに動きがもったりしてきているので、早さ・高さがイェンとジャーによって補完されている感じだった。中国資本が入ったからしょうがなくなんじゃないの?と言う人もいそうだが、何であれ、様々な人種の人がチームになって挑むというのはやはり燃える。インド映画で大活躍しているディーピカー・パードゥコーンが凄腕として大活躍しており、こちらも魅力的。ルビー・ローズ演じるスナイパー・アデルとバディを組んだ銃撃戦は、予告編でも使われているが最高だった。
 ディーゼル主演ということでうっかりワイルドスピードシリーズと混同しそうになるのだが、本作の方がワイルドスピードよりもメンバーの人種、性別、セクシャリティがまちまちでカラフルだ。そのまちまちさが、特に前説明なく投入されていて、これが「普通」だよという振る舞いになっている。これからの大作アクション映画は、こういう方向になっていくんじゃないかな。一応、ディーゼルは見た目マッチョで女性にモテモテになったりするが、「お約束だから義務としてやった」的な取って付けた感がある。マッチョな肉体だけどあまり肉食系に見えないという不思議なことになっている。こういう「お約束」も、今後は減っていくのかもしれない。本作、異性間にはあまりイチャイチャ感がなく、むしろ同性間の方がイチャイチャしているんだよな・・・。

『たかが世界の終り』

 作家のルイ(ギャスパー・ウリエル)は自分の死期が近いことを家族に告げる為、10数年ぶりに実家に帰る。母マルティーヌ(ナタリー・バイ)は息子の帰郷にはしゃぐが、兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)や年の離れた妹シュザンヌ(レア・セドゥー)の態度はぎこちない。アントワーヌの妻カトリーヌ(マリオン・コティヤール)は家族と衝突しがちなアントワーヌのフォローでマルティーヌにもルイにも気を遣う。ルイは告白するタイミングを見失っていく。原作は劇作家ジャン=リュック・ラガルスの舞台劇『まさに世界の終り』、監督はグザヴィエ・ドラン。
 相変わらず劇中音楽の選曲が上手い。あまりに嵌めすぎ、ショットの切り替えを音楽に合わせすぎで鼻につくという部分もなきにしもあらずなのだが、音楽と映像のリズムが合っているとそれだけで気分が上がるので、これはこれでいいと思う。ちゃんと物語のシチュエーションに合っている。ただ、それ以外の部分は意外とテンポが悪いのは残念。元々舞台劇だったからか、幕間のように何度か画面が暗転するのだが、それによってリズムが乱れているように思った。あんまり小刻みにしない方がよかったのかな。映像は概ね美しく、鮮やかな色の洗濯物や毛布が風に舞うシーンなどドラン監督が一躍スターダムになった『わたしはロランス』を彷彿とさせる。また、室内に差し込む光のとらえかたが美しい。ただ、本作の場合はその美しさ、スタイリッシュさがあまり機能していないように思った。むしろ、もっと泥臭い映像と演出だったらより印象が深まったかもしれない。
 ルイはゲイで、家族にはカミングアウトしていることがさらっと冒頭に明かされる。とは言え、ゲイだからというだけで家族から受けいられなかったというわけではなさそう。また彼は小説家、しかもそこそこ売れているらしいという文化的背景があるのでよけいに他の家族からすると異物感があるのだろう。そもそもこの家族は、お互いがお互いに対して異文化であり、会話を続けることがとにかく困難そうなのだ。家族として全く愛情がないわけではない。思いやりの心もある。しかしそれがプラスに働くことがないという、家族という泥沼を見てしまった感がある。家族だから理解しあえる、心が通じるというのは幻想で、距離を置いた方が円満に収まる家族もいるのだ。
 マルティーヌ、アントワーヌ、シュザンヌがやたらと大声で話すので、ヒステリックな印象を受ける。マルティーヌはひたすら自分の話を聞いてほしがり、アントワーヌはそれに反発して怒鳴り、さらにそれに反発してシュザンヌがわめくという悪循環。相手の話を聞く態勢が出来ないまま、ここまで来てしまった家族なのだろう。ルイは物静かではあるのだが、彼もまた相手の話に耳を傾けるという風ではない。彼は観察者ではあるが、対話者ではないのだ。彼だって変わる気がないという点では、他の家族と大差ない。自分の人生の終わりが見える時点になってもなお、人は変われないものなのか。

『沈黙 サイレンス』

 17世紀、キリスト教が禁じられ信者が弾圧されている日本で、ある宣教師が棄教したという噂がポルトガルに届く。その宣教師の弟子である若い宣教師ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は真相を確かめる為に日本への密入国を試みる。中継地のマカオで、遭難していたという日本人漁師のキチジロー(窪塚洋介)を案内人にし、ようやく日本にたどり着くが、日本でのキリシタン弾圧は2人の想像を超えるものだった。原作は遠藤周作の小説『沈黙』、監督はマーティン・スコセッシ。
 3時間近い長尺の作品だが、見ている間はあまり長さを感じなかった。今更ながら、スコセッシってやっぱり映画作り上手いんだな・・・。私は彼の監督作はあまり好きではないのだが、本作はとても面白かったし、自分にとって2017年のベスト入りしそうな作品だった。スコセッシがキリスト教信仰について真剣に悩み、考え続けた結果生み出されたことがよくわかる。映像も美しい。空の空撮や、霧に包まれた山海の美しさ等どこかエキゾチックな雰囲気もあり、昔の日本映画にオマージュを捧げるようなシーンも(夜の海を小船で行くシーンとか、あっこれ見たことあるけど何だったっけと気になった)。主なロケ地は台湾だが、さほど違和感はない。原作では長崎近辺が舞台だったと思うので、もうちょっと南下した土地の雰囲気になっている。そのせいか、全体的に空気がしっとりとした感触。また、音楽は抑制されており、冒頭とエンドロールで虫の声と風や波の音だけが響く様が印象に残った。「沈黙」というのは、言葉が聞こえない・人の中に入ってこないということであって、世界自体には音が満ちている。人間が繰り広げる物語は過酷なのだが、それを取り巻く風景は依然として美しくしいのだ。
 信仰心の篤いキリシタンたちは踏み絵を踏むことを拒み、拷問され、処刑されていく。また、ロドリゴが信仰を守っている限り彼らも信仰を貫こうとするのだと、キリシタンを弾圧する大名・井上(イッセー尾形)は「お前(ロドリゴ)が彼らを不幸にしている」と言う。井上の言葉はロドリゴの隙につけこむ詭弁(そもそも彼らを迫害することにしたのは幕府、大名だし命令を下しているのは井上だ)なのだが、ロドリゴはその言葉に揺さぶられてしまう。そもそも、元々キリスト教がなかった土地で布教をすること自体、一種の暴力的な行いとも言える。通訳の武士(浅野忠信)は「お前たちが来なければ(農民たちは)こんな目に遭うこともなかった」と言う。それは言いがかりなのだが、ロドリゴは反論できない。信仰は弱い者を支え、救済する為のものだったのに、彼らを却って過酷な目にあわせてしまう。では何の為の信仰なのか。踏み絵を踏んだら棄教者としてキリスト教会からは蔑まれるが、そこまで強いることが教会に出来るのか。最初は信仰と正義に燃えていたロドリゴだが、自分達の信仰が日本のキリシタンたちを救ったのか、また日本で土着化した信仰はキリスト教として正しいと言えるのか、自信を無くしていく。
 一方、キチジローはキリシタンだが信仰を捨てなかった家族のようにはなれず、何度も踏み絵を踏み「転ぶ」。彼の信仰はもろくいい加減なように見える。しかし、その度にロドリゴを追い、聖職者としての赦しをこうのだ。そのしつこさにロドリゴは嫌悪感も示すが、切実に信仰と赦しを必要としているのは、キチジローのように「良き信徒」になりきれない心の弱い人たちではないのか。一貫して揺るがない信仰、その果てとしての殉教を求めるのは、弱い人たちを切り捨てることになりかねないのではと思えてくるのだ。
 終盤の「その後」のエピソードは、ロドリゴが教会に所属する神父ではなく、個人として神と向き合い続けた結果であるように思う。個人対神という構図が大元にある以上、教会から離れても彼はクリスチャンであり続けたと言えるのではと。ただそれだと、教会の存在意義とは何かという疑問が出てきてしまうが・・・。こういう作品を、クリスチャンであるスコセッシ監督が撮った(そもそも原作小説に強く感銘を受けたということ)ということがとても面白い。

『タンジェリン』

 クリスマス・イブのロサンゼルス。娼婦のシンディは留守にしている間に恋人が浮気したと知り激怒、浮気相手の女を引きずり出すと意気込む。仕事仲間のアレクサンドラはシンディをなだめるが、今夜クラブのステージで歌うことで頭がいっぱい。2人はシンディの恋人とその浮気相手を探して町を行ったり来たりする。監督はショーン・ベイカー。
 全編iPhoneで撮影したことで話題になっている作品だが、そこばかりクローズアップされるのは、ちょっと違うんじゃないかなと思った。本作、スタンダードな娯楽映画として見られるようにかなり配慮されていると思う。意外とドラマ部分に注力しているのだ。特に、キャッチーな(ベタと言ってもいいくらい)音楽のはめ込み方のテンポの良さ、シンディとアレクサンドラの丁々発止なやりとり、下世話なもめごと等、キャッチーな要素が多い。特に音楽と動きのテンポを合わせることをかなり意識している。編集もキレがよくもたつかない。本編中、シンディもアレクサンドラもずっと移動し続けている、動き続けているのだが、動きに音楽が乗ると楽しい、見ていて気分が乗ってくるという単純なことをきちんと踏まえている。なんにせよ、映画を見る側を楽しませようという意欲が旺盛で、インディペンデンスである、低予算であるということを言い訳にしていない。低予算の割に音質、音の調整具合がいいことも、「映画」っぽさを支えている。監督が自分の手腕に酔っていないというか、作品に対して一定の距離感を保ち続けている感じ。
 シンディ、アレクサンドラを筆頭に、トランスジェンダーの娼婦たちのネットワークが描かれるが、トランスジェンダーという要素ばかり取り沙汰されると、トランスジェンダーと言っても色々な層の人がいるだろうし、更にトランスジェンダーの娼婦というくくりでも色々な人がいるだろうしな・・・とやや戸惑う。作中で出てくるトランスジェンダーの人たちがちょっと一様だなという印象だった(いわゆる"立ちんぼ”の娼婦たちのネットワークなので似たり寄ったりになるということかもしれないけど、皆が皆かしましいわけではないだろう)。トランスジェンダーという要素よりも、社会的な保障がなく、非常に不安定な立ち位置の人たちの話という要素の方が大きいのではないかと思った。シンディたちにしろ、常連客のタクシードライバーにしろ、仕事は不安定だしお金もなさそう。ちょっとしたトラブルが起きると一気に生活が崩れていきそうな怖さがある。彼らは表面上にぎやかでエネルギッシュだが、その下には大きな不安を抱えており、陰影が深い。

『特捜部Q Pからのメッセージ』

 未体験ゾーンの映画たち2017にて鑑賞。未解決事件を扱う特捜部Qに新たに依頼された案件は、海辺で見つかった瓶の中に「助けて」と書かれた手紙が封入されていたというもの。手紙は7~8年前に書かれ文字は劣化しており、唯一の手がかりは差出人の頭文字「P」だった。原作はユッシ・エーズラ・オールスンの同名小説。監督はハンス・ペテル・モランド。
 このシリーズは原作がどれも結構なボリュームなのだが、映画化作品は1作目も2作目も本当によくまとまっていて感心する。大体2時間以内で収まっているのだ。話の運び方の要領が的確でさくさく進むし、情報の整理が上手い。今回は1作目に通ずるような嫌なシチュエーション、嫌な話ではあるのだが、話の展開にスピード感があるのでストレスはそれほど感じなかった。なお、前作見ていなくても大丈夫だが、マークが前回の事件で精神的にボロボロであるという部分だけ踏まえておくといいかも。
 マーク(ニコライ・リー・コス)とアサド(ファレス・ファレス)の関係がまた一歩前進している。マークはアサドに対していまひとつ信頼感を示さないが、ちょっと心を開いてきている様子がわかる。今回は信仰が大きなファクターになっている。無神論者であるマークは、神の存在を信じるアサドを理解できないし、信心深い事件関係者の行動原理も理解できない。それでも、それはそれとして黙認しようという所までは譲歩するのだ。アサドが敬虔なクリスチャン(キリスト教系新興宗教なので厳密には違うのかもしれないが・・・)から自宅への入室を拒否されるシーンがあるのだが、アサドは何も言わないし、マークはむっとしつつ堪える。アサドにとっては理不尽な仕打ちだが、彼は他人の信仰、信条を極力尊重する。それが彼にとっての正しさであり、処世術であるのかもしれないと思った。
 とは言え、本作での事件のファクターである信仰、というよりも信仰への絶望感は理不尽で恐ろしい。理屈による説得は通じず、相手の行動原理もこちらの理解を越えている。元々信仰自体は邪悪なものではないはずなのだが、それが屈折したことで邪悪さを生み出してしまったという構図がやりきれない。
 今回はこれまでの特捜部Qによる単独捜査という側面よりも、警察組織で捜査しているという側面の方が前面に出ている。おお警察ものっぽい!とこれはこれでうれしくなる。半信半疑だった警官たちが、マークとアサドの熱意に感化されて必死になっていく様もいい。また、ローサの地味な活躍ぶりも生きている。彼女を若いアイドル的な女性キャラクターにはしていない所は正解(そもそも原作でもいわゆる「かわいい女性キャラ」ではないし)だろう。

『ドクター・ストレンジ』

 天才的な技術を持つ外科医師ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)は交通事故で両手の神経を損傷し、医者としての道を閉ざされる。なんとかして手を治療しようと模索するストレンジは、下半身麻痺だった男性が地力で歩けるようになったという話を聞き、ネパールの僧院を目指す。そこで彼を導くエンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)は強大な力を持つ魔術師だった。ストレンジは修行に励み魔術の力を手に入れるが、闇の魔術の存在とそれを手にしようとする魔術師カエシリウス(マッツ・ミケルセン)の存在を知り、大いなる戦いに巻き込まれていく。監督はスコット・デリクソン。
 原作だとチベットのアジア系魔術師(男性)に師事するんだそうだが、ネパールに変更されている所に諸々の都合が垣間見えてしまう・・・。映画のエンシェント・ワンはケルト民族らしいが、なぜネパールに流れ着いたのか謎なので、彼女のこれまでの物語も(本作見た後はなおさら)見たくなってしまう。
 初めて3D・IMAXで鑑賞したのだが、これはよかった!作品の方向性と上映形式がぴったり合っていた。明らかに3D前提で作られた作品だと思うのだが、画質、音響共になるべくいい環境で見た方が楽しいと思う。劇場用プログラムとしては最適。自宅で見ても、あんまり楽しくないんじゃないかな。予告編の街が畳み込まれるシーンでも明らかだが、とにかく面白い、初めて見るような映像を!という意識がとても強く感じられた。
 逆に、キャラクター造形やストーリーは既視感のあるもので、さほどユニークではない。ただ、ストレンジはもちろんだがエンシェント・ワンにしろ悪役であるカエシリウスにしろ、善悪がそれほどはっきりしていない所は面白い。カエシリウスは恐ろしい敵ではあるのだが、邪悪さとはちょっと方向性が違うのだ。また、善の側であろうエンシェント・ワンも、目的の為ならダーティな手段も多少やむを得ないという、清濁併せのむ人物。併せ呑んだものがとんでもないので揉めに揉めるわけですが・・・。
 ストレンジは医者としては天才的、かつ魔術の才能も発揮するが性格は傲慢で、カンバーバッチのクセのある風貌も相まっておおよそ世界を救わなさそうなキャラクターだ。しかし傲慢ではあるものの、彼には医者として他人を救うことが自分の本分だという矜持がある。だから執拗に「ドクター」という呼称に拘る。彼が事故に遭った時、救うべき患者を選別していた(救わない患者を選んでいた)というのも象徴的だ。救うなら、全部だ!という境地に至ったのが本作のクライマックスでの奇策なのかもしれない。
 ドクター・ストレンジの能力はかなりチートなのだが、使用範囲や条件が今一つはっきりしない所が気になった。また、アベンジャーズに合流するらしいけど、アベンジャーズの面々とすごく反りが合わなさそう・・・。ストレンジ、能力以外は比較的一般人の感覚だもんね・・・。アントマンあたりとならまだ話が通じるかな・・・。

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