3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名た行

『ダブルミンツ』

ごく普通の会社員、壱河光夫(淵上泰史)に1本の電話がかかってきた。発信元は高校の同級生で今はチンピラまがいの生活をしている市川光央(田中俊介)。光夫は高校時代、光央の「犬」として下僕扱いをされていた。光央は「女を殺した、なんとかしろ」と言う。数年ぶりで光央と再会した光夫は彼の共犯者になり、2人の関係は徐々に変化していく。原作は中村明日美子の同名漫画。監督・脚本は内田英治。
 根強いファンがいる漫画なり小説なりが原作の場合、あくまで原作に沿うのか映像作品として新たな解釈をするのか、さじ加減が難しい所だと思う。特に漫画原作の場合はビジュアルのイメージが既に固まっているから、どこまで原作のイメージに寄せるかという部分は活字原作よりもやりにくいだろう。ビジュアルイメージがかけ離れ過ぎたら原作ファンの反感をかう、かといって原作そっくりにすれば映画が面白くなるのかというとそうでもない。本作は、このあたりのどこを寄せてどこを寄せないか、という取捨選択が上手くいっていたように思う。漫画はあくまで原作、実写映画には実写映画としての見せ方があるという、当然と言えば当然のことがきちんとできているなという印象だった。脚本も内田監督が手がけているが、原作の咀嚼・再構成が上手くいっていると思う。
 光夫と光央の関係は、倒錯した主従関係でありつつ、時に主と従が逆転しそうな兆しも見せる。光央は傲慢で光夫を翻弄するが、どこか不安定で脆さも見える。ヤクザにもなりきれず、かといって気質に戻る気骨もない。彼の不遜さはその不遜さをぶつける光夫がいればこそだ。一方光夫は光央に翻弄されているようでありつつ、何でも従うことで逆に光央をじわじわ縛り付けているようにも見える。この反転し続ける共依存的な主従関係はBLの定番ではある(んですよ・・・)が、あえて関係性に名前をつけられないような演出にしているところにわかっている感がある。お互いに執着はあるが恋愛とも言い切れず、おそらく彼ら自身(特に光央は)も自分の行動が何を意味するのかよくわかっていない。あいまいで多面的な関係であるからこそ面白い。
 主演俳優2人が好演していた。わかりやすいルックスの良さではなく、ちょっとアクのある風貌の俳優を起用したのは正解だったのでは。特に光夫役の淵上は、冒頭のオフィスのシーンが大根役者っぽかったので大丈夫かな?と思ったのだが、後半でどんどん追い上げてきた感じ。また要所でベテラン俳優を起用して安定感を保っているので、割と安心して見られた。

ダブルミンツ (EDGE COMIX)
中村 明日美子
茜新社
2009-07-24




下衆の愛DVD
渋川清彦
SDP
2016-11-25


『20センチュリー・ウーマン』

 1979年、サンタバーバラに住むドロシア(アネット・ベニング)は、一人で育ててきた15歳の息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズユン)の教育に悩んでいた。ジェイミーの幼馴染ジュリー(エル・ファニング)と間借り人のアビー(グレタ・ガーヴィグ)に彼を助けてやってほしいと頼む。監督はマイク・ミルズ。
 世代間の価値観の違い、生きてきた時代の違い、そして時代が急速に変わっていく様をそこかしこに感じる作品だった。ジェイミーらの語りが、現在から過去であるあの頃を振り返るものだからというのも一因だが、登場人物それぞれが背負う世界の差異が、世相の変化を如実に表している。長年一人で働き子育てをしてきたドロシアは、この世代の人としては「進んでいる」かもしれないが、より若い世代であるジュリーやアビーから見ると、保守的な部分も多々ある。カーター大統領の演説に対するそれぞれの反応で、あっここに大きな溝が・・・と強烈に感じた。こういった対比の見せ方、何かに対する個々人の反応の見せ方が上手い作品でもある。
 ドロシアは息子や彼女らが生きる「今」を知り、受け入れようとはしているが、受け入れがたさも感じている。夕食会での「生理」をめぐるやりとりや、ジェイミーの朗読に対するリアクションは、自分の価値観にそれはない、とはっきり拒否するものだ。同時に、彼女は相手に対しては結構ぐいぐいいくのだが、自分に対して内面に踏み込まれることは好まない人だとわかる部分でもあった。そこは話し合わなければならない、自分のことを開示しないとならない所なんじゃないかなというシーンで、彼女はどもったり一歩引いたりと、自分の内面を見せない。
 一方、ドロシアに対して保守性を感じているであろうジュリーとアビー、そして当時としては「進んでいる」だろうアビーがジェイミーに読ませるフェミニズム関連書籍も、今の視線で見ると決して「進んでいる」とは言い切れない。進もうという意思と、まだ前世代をひきずっている部分とか混在している感じ。ジュリーとアビーがジェイミーに対して「(モテる)男らしさ」をレクチャーするが、異性に対するイメージや役割の押しつけという意味ではフェミニズムに反するのではないか。
 とはいえ、時代を越えた普遍的なものも感じる(だからこそ現代の映画として成立するんだけど)。どんなに理解がある母親でも、その「理解ある」感があからさまだったり、自分(子供)の世界に立ち入られすぎたりすると、うざったいだろう。子供のアシストを無断で他人に頼むなよ!というジェイミーの立腹はもっともだと思う。ドロシアは基本的に公明正大にやりたい人だからそういう行為をしてしまいがちなんだろうけど、ちょっとデリカシーたりないよなと。加えて、ドロシア側は自分の中に立ち入られるのを拒むので、子供としては一方的だと感じてしまうのかも。
 親子関係という面では、ドロシアとジェイミーの関係は諸々あっても基本的に良好だし信頼感はある。問題があるのは、むしろジュリーの家庭だろうなぁ・・・。自分主催のグループセラピー(ジュリーの母親はセラピスト)に娘を参加させる母親って、かなりまずいと思う。
 なお、色々な書籍が登場する作品だったが、ダイアンが読んでいた「ウサギ」ってアップダイクのこと?気になってしまった。

『トンネル 闇に鎖(とざ)された男』

 車のディーラー、イ・ジョンス(ハ・ジョンウ)は車での帰宅中、トンネルの崩落事故に遭い、がれきの中に閉じ込められてしまう。車中にはバッテリー残量78%の携帯電話、娘へのバースデーケーキと水のペットボトル2本。事故は全国ニュースになり、国を挙げての救助活動も始まるが、現地の状況は救助隊の創造を越えるものだった。監督・脚本はキム・ソンフン。
 特に前半のテンポが良く、今後ポイントとなってくるアイテムの示唆や設定の見せ方、伏線の提示などひとつひとつちゃんとやっているよ!という印象。妙な言い方だが、パーツのひとつひとつが機能的な映画だ。所々突っ込みたくなる点はあったが(バッテリーの持ちがよすぎるとか、ドローンに対して電波障害が起きるのに携帯電話は通じるのかとか)、見ている間はそれほど気にならない。脱出できるのかどうか、救出できるのかどうかというサスペンスとして、最後まで見る側を引っ張っていく。
 本作のような「閉じ込められる」系のシチュエーションは私はどちらかというと苦手なのだが、ハラハラするものの、割と落ち着いて見ることが出来た。これは、事故にあったジョンスの行動によるところが大きいと思う。ジョンスはごく普通の営業マンで特殊技能や特別な知識はない(カーディーラーなので車には多少詳しいが)。しかし、普通の人としての善良さや思いやりを持っており、それを保ち続ける。極限状態でどこまで人間性を保てるか、私だったらこんなにちゃんとした「大人」をやれないよ・・・等とぐっとくる。ジョンスも何を優先するかで大いに迷うのだが、それでも「あるべき人としての姿」を全うしようとする。そして、発狂しそうにはなるが諦めない。それは、救助隊隊長のキム・デギュン(オ・ダルス)も同様だ。彼ら2人の、個人としての勇気と真っ当さが本作の救いになっているのだ。
 ただ、個人としての振る舞いが救いになっているということは、組織としての姿にはあまり期待できるものがないということでもある。そもそもこれって人災じゃないの?!とも言いたくなる。カリカチュアされているだろうとは言え、本作での政治家官僚やマスコミ、ひいては世論の振る舞いはなかなかゲスくて辛かった。どこの国でも多かれ少なかれ、こういうものなのかもしれないが。日本でも、1人の命と多数(救助隊員等)の命とどれを取るんだ!?経済面での損害を考えろ!みたいなことは言われるんだろうなぁ。作中の事故の報道の際、アナウンサーが「またしても国民の信頼を裏切る~」的なフレーズを使うのだが、韓国では国の公共工事に対する信頼度が落ちているということなのだろうか。何か具体的な時事背景があるのかな?

『帝一の國』

 エリート学生たちが集まる超名門校・海帝高校。歴代の総理大臣は海帝高校の生徒会長出身者が多く、政財界にも強力なコネがある。主席入学した赤場帝一(菅田将暉)の野望は総理大臣になって「自分の国」を作る事。その為にはまず生徒会に食い込まねばならない。2年後の生徒会長選挙で優位に立つべく、次期生徒会長を見定めその懐に入る為、生徒会長選に身を投じる。原作は古屋兎丸の同名漫画。監督は永井聡。
 原作未読の状態で見たのだが、アバンの時点から反則的に面白い。その面白さは、主にテンポの良さと、何より主演の菅田をはじめ、出演俳優たちの全力投球ぶりによるものが大きいと思う。もちろんプロの俳優である以上何に出演しても全力投球だろうが、この作品が何を要求しているのか的確に判断し、そこに向かって思いっきり突っ込んできてるなって感じ。菅田の顔芸の数々が素晴らしく、この人最近映画に出過ぎだけど、まあ出したくなるわな!と思った。
 帝一の天敵である東郷菊馬を演じる野村周平の、下品な方向に振り切っているけどぎりぎりで下品にはならない下衆感も抜群。ベテラン勢では、帝一の父親役の吉田鋼太郎は、最近すっかりおもしろおじさんになってしまった気がするが、間の取り方等やはり上手い。帝一と一緒に試験の答え合わせをするくだりは、2人の息の合い方と吹っ切れ方が素晴らしかった。
 また、「その他」の生徒役、エキストラ的な出演者に対しても演出がしっかりしており、動きを揃えなくてはならないところの動かし方や、集団内での馴染み方がとても良かった。指導するの本当に大変だったろうな・・・。 ストーリーも設定も実に馬鹿馬鹿しく、生徒会の「権力」感等最早アナクロでそれ故にギャグになっているのだが、そういう馬鹿馬鹿しいものをすごく真面目に、フルスイングで演じ、作っている所になんだかぐっときた。
 建て付けはギャグだし、相当カリカチュアされたものでもあるのだが、帝一たちがやろうとしていることは民主主義ということだろう。帝一はとある事件により権力志向まっしぐらになるのだが、彼が加担している行為は、いわば帝政システムから、権力の一点集中と自由な行使を抑制するシステムに移行するためのものだという所が面白い。

『台北ストーリー』

 不動産会社で働くアジン(ツァイ・チン)と稼業の布地問屋で働くアリョン(ホウ・シャオシェン)は幼馴染で、過去に色々あったらしいが何となく関係が続いている。昇進を控えたアジンだが、勤務先が大企業に買収され解雇されてしまう。渡米したアリョンの義兄を頼って、2人でアメリカへ移住しようとも考えるが、アリョンはなかなか踏ん切りがつかない。監督はエドワード・ヤン。4Kデジタル修復され、待望の日本公開となった。1985年の作品。
 80年代、日本と同じく好景気に沸く台北が舞台。冒頭、アジンは念願のマンションを購入する。徐々に内装が整うマンションの室内は、当時の「ちょっとおしゃれな単身者の住まい」風で、うーんこれは仕事も私生活もぶいぶいゆわせてゆく系の調子良好な都会人たちの話なのかしら・・・と思っていたら、アジンがいきなり失職するし再就職なかなかしないしで、むしろ調子悪くなっていく話だった。なんとなく続けていた青春時代の名残、モラトリアム期間が、とうとう霧散していくようなはかない味わいがある。
 アジンはアメリカへの移住を望むが、台北での生活に具体的な支障があるわけではない。今の生活に行き詰まりを感じており、環境を変えたいのだ。アリョンは彼女に、結婚しても移住しても何かが変わるとは限らないと言い放つが、確かにその通りでもある。ただ、アリョンはアリョンで今の自分の生活に所在なさを感じている。アリョンが少年野球のエースとして活躍し周囲からも期待されていたらしいという話が何度も出てくるが、今の彼は野球選手ではない。彼の人生のピークはあまりにも早く来てしまった。アリョンはアメリカへ行ったり日本へ行ったりもしているみたいだが、やはり自分の居場所を掴みあぐねている。継いだ稼業にも向いているとは思えないし、同年代の起業家たちのように貪欲にもなれない。アリョンのふらふらとしているうち、なんとなくここまで来てしまったがこの先どこへいけばいいのかわからないという状況は、身につまされるものがあった。2人はもし結婚したとしても、アメリカに移住したとしても、どこへも行けない気持ちのままだったのではないか。「どこか」「いつか」などないと断念するしか、今ここから抜け出す方法はないのかもしれないが、それがちょっときついのだ。
 好景気が背景なのに、アジンとアリョンの周囲は金に困っているという話ばかりだ。世間の景気と自分の景気は違うという所も、なんだか身につまされた。アジンは父親の借金のとばっちりをずっと受けているし、アリョンは安易に人に金を貸してしまいトラブルになる。アジンが母親に金を都合した後のシーンが印象深い。アジンはすぐにその場を立ち去るが、母親は帰り道がわからず往生している。アジンには母を案ずる余裕がないのだ。2つの世代の間にはっきりと断絶がある(子は親を、親は子を最早理解できない)のに、親子の関係は切ることができないというもやもやを、アジンもアリョンも抱えているように見えた。



『T2 トレインスポッティング』

 20年前に仲間を裏切り退勤を持ち逃げしたレントン(ユアン・マクレガー)は、全てを失い故郷のスコットランドのエディンバラに返ってきた。シック・ボーイことサイモン(ジョニー・リー・ミラー)はさびれたパブを経営する傍ら、売春や恐喝で金を稼いでいる。スパッド(ユエン・ブレムナー)は薬物依存を断ち切ろうとするも家族に愛想を尽かされ自殺を図る。ベグビー(ロバート・カーライル)は刑務所に服役していたが脱獄し、レントンへの復讐に燃える。原作はアービン・ウェルシュの小説、監督は前作に引き続きダニー・ボイル。
 はー20年か!と思わずため息をついてしまう。前作『トレイン・スポッティング』は当然劇場に見に行ったし周囲ではTシャツやらポスターやらクリアファイルやらが大流行りしていたし、サウンドトラックは当然買った。まさか今になって続編見ることになるとは・・・。見ている自分たちは当然年を取っているわけだが、作中のレントンたちもきっちり20歳老いているし、ユアン・マクレガー以外はそもそもスクリーンで見るのが久しぶりすぎる!皆、年取ったな・・・。その姿を見るだけで感慨深くもありしんみりさもあり。
 加えて、20年後の彼らは相変わらずジャンキー(スパッドは脱ジャンキーを目指しているが)で特に成長しておらず、社会的に成功しているわけでもない。見ている自分もレントンを笑えないくらい成長していないし生活はきゅうきゅうなわけで、しょっぱさ倍増である。前作では「未来を選べ」というフレーズが多用されていた。今回もレントンがヴェロニカに当時こういうフレーズが流行ったんだ、みたいなことを教えるが、当時の「未来を選べ」と今の彼にとっての「未来を選べ」は全く意味あいが違うだろう。20年前は、まだ未来は選び取るものとして、希望を孕んだものとしてあった。40代になった今、未来の枠は狭まり、先はそこそこ見えている。自分が選べるであろう中に選びたい未来などないにもかかわらず、選ばざるを得ないという辛さがあるのだ。これから世界を牛耳っていくのは自分達ではなく、ヴェロニカら下の世代なんだということが、レントンやサイモンに突きつけられていく。何者にもなれずに取り残されていくのは辛いのだが、それでもまた明日をこなしていなかなくてはならない。ラストのレントンの行動には、何だか泣き笑いしそうになった。結局そこに戻っちゃったなぁ。
 唯一前進した、未来を少し掴んだと感じられるのはスパッドだろう。本作の良心のような存在になっているが、彼は「書く」ことで自分と過去を相対化できるようになった。そうすると、未来も見えやすくなってくるのかもしれない。

『タレンタイム 優しい歌』

 マレーシアのとある高校で、音楽コンクール「タレンタイム」が開催されつことになった。ピアノの弾き語りで出場するムルーは、彼女の送迎役になった耳の聞こえないマヘシュと恋に落ちる。オリジナル曲をギターの弾き語りで披露するハフィズは、母が末期の脳腫瘍で入院中。二胡奏者のカーホウは、何でも一番になれという父親からのプレッシャーに苦しみ、成績優秀なハフィズがカンニングをしたと嘘をついてしまう。監督はヤスミン・アフマド。
 ロミオとジュリエット的な恋愛、難病、同級生への嫉妬や家族問題等、ベタに泣かせてきそうな要素がてんこ盛りなのだが、不思議とそういう印象を受けない。一歩間違うと下品、通俗的すぎになりそうなところを、品よく踏みとどまっており、ベタだがとても瑞々しい。要素がトゥーマッチなのにそう感じさせないところが、面白いと思う。風通しがいいのだ。マレーシアは多民族、多宗教の多文化国家で特に都市部は様々な文化が入り混じっているようだが、その様々加減が本作に現れているように思う。
 群像劇であり、ムルーとマヘシュの恋愛が中心にあるのだが、強く印象に残るのは様々な家族の姿だった。ムルーの両親は父親が英国人、母はムスリムのマレーシア人で、結構裕福層な家庭だ。そしてとても仲がいい。特に父親と娘たちがダンスを披露しあう姿、足を「挙手」する父親の姿等には、通り一遍の「仲の良さ」演出ではない手応えがある。こういうやりとりが日常的で、関係性が密である様子がよく伝わるのだ。
 一方、マヘシュの家は父親が亡くなっており経済的には厳しいながらも、やはり家族仲はいい。しかし母親はある事件が起きたことで心を閉ざし、更にマヘシュがムスリムのムルーと恋に落ちたことに激怒する(マヘシュの家はヒンドゥー教)。また、ハフィズと母親の間には強い絆があり、ハフィズは本当に献身的なのだが、母親は自分が苦しむ姿を見せたくはない。お互いに愛情はあるが、それゆえに苦しんだりすれ違ったりする。基本的に、仲が険悪な家族は描かれていない為に、そのすれ違いが一層際立つのだ。また、仲がいい家族であっても、親は親、子供は子供であり、子供は保護される存在だが、同時に親子それぞれ独立した人格だという部分は踏まえられており、安心感があった。

『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』

 南太平洋に氷山が流れてきたというニュースを知ったのび太(水田わさび)たちは、真夏の暑さから逃れる為にさっそく氷山にやってきた。ドラえもん(大原めぐみ)の秘密道具「氷細工ごて」を使って遊園地を作り遊んでいたところ、氷に閉じ込められた金色のリングを見つける。リングのまわり氷は10万年前の南極のものだった。10万年前に高度な文明が存在したのではと、一行は南極へ向かう。そこで見つけたのは氷の下に閉じ込められた巨大な遺跡だった。監督・脚本・演出は高橋敦史。劇場オリジナル作品となる。
 ドラえもんの「新」劇場版は旧作のリメイク、というよりもリブート作品だが、本作はオリジナル。しかし、富士子・F・不二雄テイストが案外強く(一番らしいなと思ったのは「ヒョーガヒョーガ星」というネーミングですね・・・)、何だか懐かしい気持ちになった。そうそう、子供の頃に見たドラえもんてこんな雰囲気だったよなぁと。SFマインドを忘れず、自然科学の知識を織り込み、遺跡での冒険はインディ・ジョーンズみたいでわくわくする。タイムトラベルに関する整合性を結構きっちり詰めて説明しようとしているので、小さいお子さんにはちょっと難しくなっちゃうかなというきらいはあったが、これをやってくれないとつまらないしな。また、映画ドラえもんには度々、この先もう会うことがなくても、友達はずっと友達だ、という要素が含まれているように思うが、本作も同様。そこに妙なウェットさとか悲壮感みたいなものはなく、フラットな感覚で「ずっと友達」としている感じが良かった。ラストシーンはぐっとくる。
 従来のドラえもんと異なる特色があるとしたら、本作ではのび太が結構賢い(笑)。あんまり慌てない(単にぼーっとしているだけかもしれないが)し、リーダーシップをそれなりに取ろうとしたりする。おおいつになく出来るのび太だ・・・と思ったけど、現代ではあまりにも出来ない子、というのは逆に共感しにくいのかもしれない。
 高橋監督は『青の祓魔師 劇場版』に続く長編監督作2作目ということだが、所々ちょっとはしょったな、雑だなと思う所はあったが(特にジャイアン、スネ夫、しずかのキャラクターがあまり活かされていない)コンパクトにまとめていてなかなかいい。『青の祓魔師』の時も思ったけど、ドラマ展開でバーンと見得を切るというよりも、ちょっとした部分の情感の細やかさ、可愛らしさに持ち味のある作風なように思った。私の好みでそういう部分に目がいってしまうだけかもしれないけど。また、食事シーンに時間を割いており、一緒に食べるご飯はおいしいね!的シチュエーションには持ち味を感じる。

『トリプルX 再起動』

 謎の集団がパンドラの箱と呼ばれる兵器を奪い、それを使って人工衛星を落下させた。元シークレットエージェントのザンダー・ケイジ(ヴィン・ディーゼル)は国家安全保障局に召集され、チーム「トリプルX」を結成しパンドラの箱奪還に挑む。監督はD・J・カルーソ。
 ストーリーを追う必要がない、というよりもそもそもストーリーをちゃんと見せる気がないんだろうなと思ってしまうくらい、アクションの見せ場でつないでいく作品。前作に登場した人のことはその都度説明してくれるので、初心者にもやさしい仕様だ。冒頭、電波塔からテレビへの流れからして、なぜスキー?!なぜスケボー?!と突っ込みつつも人間の運動自体が目に気持ち良くてとても楽しい。ザンダーがわざわざ危険を冒した理由も、じゃあしょうがないよね!と納得してしまう(冒頭で登場するゲストとの関連もあるのだろうが)。
 12年ぶりのシリーズ新作だそうで、なぜ今わざわざ?と思ったのだが、これはドニー・イェンがハリウッドで活躍するようになるのを待っていたからだよ!と言われれば納得せざるを得ない。ゲスト的な扱いなのかな?と思っていたが、ディーゼルとの2枚看板と言えるくらい、意外と活躍している。そしてアクションは速い!高い!強い!の3拍子で当然のごとく見応え抜群。そして高さ速さで言うとトニー・ジャーも投入されている(今回珍しくすごくチャラいキャラクターだった)。ディーゼルはさすがに動きがもったりしてきているので、早さ・高さがイェンとジャーによって補完されている感じだった。中国資本が入ったからしょうがなくなんじゃないの?と言う人もいそうだが、何であれ、様々な人種の人がチームになって挑むというのはやはり燃える。インド映画で大活躍しているディーピカー・パードゥコーンが凄腕として大活躍しており、こちらも魅力的。ルビー・ローズ演じるスナイパー・アデルとバディを組んだ銃撃戦は、予告編でも使われているが最高だった。
 ディーゼル主演ということでうっかりワイルドスピードシリーズと混同しそうになるのだが、本作の方がワイルドスピードよりもメンバーの人種、性別、セクシャリティがまちまちでカラフルだ。そのまちまちさが、特に前説明なく投入されていて、これが「普通」だよという振る舞いになっている。これからの大作アクション映画は、こういう方向になっていくんじゃないかな。一応、ディーゼルは見た目マッチョで女性にモテモテになったりするが、「お約束だから義務としてやった」的な取って付けた感がある。マッチョな肉体だけどあまり肉食系に見えないという不思議なことになっている。こういう「お約束」も、今後は減っていくのかもしれない。本作、異性間にはあまりイチャイチャ感がなく、むしろ同性間の方がイチャイチャしているんだよな・・・。

『たかが世界の終り』

 作家のルイ(ギャスパー・ウリエル)は自分の死期が近いことを家族に告げる為、10数年ぶりに実家に帰る。母マルティーヌ(ナタリー・バイ)は息子の帰郷にはしゃぐが、兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)や年の離れた妹シュザンヌ(レア・セドゥー)の態度はぎこちない。アントワーヌの妻カトリーヌ(マリオン・コティヤール)は家族と衝突しがちなアントワーヌのフォローでマルティーヌにもルイにも気を遣う。ルイは告白するタイミングを見失っていく。原作は劇作家ジャン=リュック・ラガルスの舞台劇『まさに世界の終り』、監督はグザヴィエ・ドラン。
 相変わらず劇中音楽の選曲が上手い。あまりに嵌めすぎ、ショットの切り替えを音楽に合わせすぎで鼻につくという部分もなきにしもあらずなのだが、音楽と映像のリズムが合っているとそれだけで気分が上がるので、これはこれでいいと思う。ちゃんと物語のシチュエーションに合っている。ただ、それ以外の部分は意外とテンポが悪いのは残念。元々舞台劇だったからか、幕間のように何度か画面が暗転するのだが、それによってリズムが乱れているように思った。あんまり小刻みにしない方がよかったのかな。映像は概ね美しく、鮮やかな色の洗濯物や毛布が風に舞うシーンなどドラン監督が一躍スターダムになった『わたしはロランス』を彷彿とさせる。また、室内に差し込む光のとらえかたが美しい。ただ、本作の場合はその美しさ、スタイリッシュさがあまり機能していないように思った。むしろ、もっと泥臭い映像と演出だったらより印象が深まったかもしれない。
 ルイはゲイで、家族にはカミングアウトしていることがさらっと冒頭に明かされる。とは言え、ゲイだからというだけで家族から受けいられなかったというわけではなさそう。また彼は小説家、しかもそこそこ売れているらしいという文化的背景があるのでよけいに他の家族からすると異物感があるのだろう。そもそもこの家族は、お互いがお互いに対して異文化であり、会話を続けることがとにかく困難そうなのだ。家族として全く愛情がないわけではない。思いやりの心もある。しかしそれがプラスに働くことがないという、家族という泥沼を見てしまった感がある。家族だから理解しあえる、心が通じるというのは幻想で、距離を置いた方が円満に収まる家族もいるのだ。
 マルティーヌ、アントワーヌ、シュザンヌがやたらと大声で話すので、ヒステリックな印象を受ける。マルティーヌはひたすら自分の話を聞いてほしがり、アントワーヌはそれに反発して怒鳴り、さらにそれに反発してシュザンヌがわめくという悪循環。相手の話を聞く態勢が出来ないまま、ここまで来てしまった家族なのだろう。ルイは物静かではあるのだが、彼もまた相手の話に耳を傾けるという風ではない。彼は観察者ではあるが、対話者ではないのだ。彼だって変わる気がないという点では、他の家族と大差ない。自分の人生の終わりが見える時点になってもなお、人は変われないものなのか。

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