3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名た行

『ターミネーター ニューフェイト』

 メキシコシティで父と弟と暮らすダニー(ナタリア・レイエス)。彼女の前にグレース(マッケンジー・デイビス)と名乗る女性が現れる。彼女は未来からダニーを抹殺するために送り込まれたターミネーター「REV-9」’ガブリエル・ルナ)から彼女を守るため、同じく未来から来たというのだ。REV-9の猛攻に追い詰められていくが、2人の前にかつてターミネーターと戦い人類を滅亡から守ったサラ・コナー(リンダ・ハミルトン)が現れる。監督はティム・ミラー。ジェームズ・キャメロンはプロデューサーを務めた。
 ターミネーターといえばアーノルド・シュワルツェネッガー演じるT800だが、今回は意外と出番が少ない。むしろこれシュワルツェネッガー出てなくても全然成立するんじゃないかな?という感じ(とはいえ出てくると画面が華やかになるのでやはりスターなんだなとは思った)。対してサラ・コナーはもちろん、女性3人が非常にかっこいい。ハミルトンの「きれいなおばあちゃん」「かわいいおばあちゃん」とは一線を画した年齢の重ね方にはぐっとくる。この路線の女優、役柄がもっと増えるといいのに…。またグレースを演じるデイビスのアクションが予想外に素晴らしい。ストーリー上もグレースの献身が熱い。まさかこのシリーズから良い百合が爆誕するとは…。
 本作、女性が活躍するが「女性」という要素に特別な意味づけはなく、ニュートラル。また女性たちの強さが今までのような「母強し」的なもの、聖母的なものとは切り離されている。これまでのシリーズとはもう違うんだよということだろうか。
 女性陣のかっこよさで楽しく見たが、ストーリーはわりと中だるみしているし、歴史改変SF要素は粗が多い。そもそも、それ根本的な問題解決になってないですよね?と突っ込みたくなる。次回作を作りたいということなのかなー。この点は本シリーズの限界を見てしまった気がする。

ターミネーター [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2018-03-16


ターミネーター2 [DVD]
アーノルド・シュワルツェネッガー(玄田哲章)
KADOKAWA / 角川書店
2019-08-29


 

『タロウのバカ』

 戸籍を持たず、一度も学校に通ったことがない少年タロウ(YOSHI)。いつもつるんでいる高校生のエージ(菅田将暉)とスギオ(伊賀太賀)と、半グレの吉岡(奥野瑛太)を襲い、一丁の拳銃を手に入れた。はしゃぐ3人だが、吉岡らが報復にやってくる。脚本・監督は大森立嗣。
 タロウは明らかにネグレクトされた子供だし、エージは学校から見放され(体育教師の対応がひどい。えらいパワハラである)ている。スギオは2人に比べるとまだ「普通」の家庭らしく、父親も登場するが、彼を守るほど強くはない。スギオはタロウとエージの無軌道さにおびえるものの、最終的にはふらふらと吸い寄せられてしまう。
 3人の少年たちの行動には、今よりも先のことを考えている様子が見受けられない。そこが見ていて落ち着かない、不安にさせられる一因でもあるだろう。彼らには「今」しかないのだ。彼らの言動の考えのなさ、即物性にはちょっとインパクトがあった。吉岡を襲うのはともかく、その先何をしたいのかがわからないし隠蔽する度胸も知恵もなく、結局自分たちの首を絞めるようなことになってしまう。暴力的だが、暴力がどのようなものなのか、何が暴力なのかという想像力がない(殴る、殺す、レイプみたいな発想だ)。銃一丁で無敵みたいな気分になって盛り上がるのもあからさまに子供っぽい。衝動ばかりが空回りするのだ。経済的な貧しさも苦しいが、想像力の貧しさ・知の貧しさもなかなか見ていてしんどいものだなと思った。
 タロウがピザ配達のバイクにエンジンをかけるシーンが妙に心にひっかかった。エンジンをかけてはいるが、自分がバイクに乗って走るという段階になかなかならない。ようやくバイクに乗ってエンジンをかけると、今度はかからない。結局走り出す契機を逃してしまうのだ。






ケンタとジュンとカヨちゃんの国 [DVD]
松田翔太
ポニーキャニオン
2011-01-19


『荒野の誓い』

 1892年、アメリカ、ニューメキシコ。戦争の英雄で今は看守をしているジョー・ブロッカー(クリスチャン・ベール)は、かつて戦争で宿敵だったシャイアン族の酋長イエロー・ホーク(ウェス・ステューディ)とその家族をモンタナに護送する任務を受ける。イエロー・ホークは病を患い余命いくばくもないのだ。道中、コマンチ族の襲撃によって家族を殺されたロザリー・クウェイド(ロザムンド・パイク)と出会い、彼女も旅に加わるが。監督はスコット・クーパー。
 産業革命が進み、開拓地が広がっていく時代のアメリカが舞台。時代背景と場所は西部劇といえば西部劇だが、もう旧来の意味合いでの「西部劇」は成立しないんだよなと実感した。ブロッカーは土地の奪い合いのためにアメリカ先住民と熾烈な戦いを繰り広げ、その戦争で仲間を大勢亡くした。そのため、イエロー・ホークはじめ先住民らを強く憎んでいる。家族を殺されたクウェイドも同様だ。とはいえ、仲間を殺され憎しみにかられるのはイエロー・ホーク側も同じだろう。
 そもそも、この土地にとってはブロッカーら白人の方がよそ者のはずだ。ブロッカーにとっては自分たちの開拓を邪魔し生活を脅かす存在との闘いだったろうが、先住民側にとっては自分たちを追い立て迫害する存在からの自衛のつもりだろう。旅の道中、ブロッカーはシャイアン族の人たちにもそれぞれ人としての人格や尊厳があることに気付いていく。派閥同士は敵対していても、一緒に苦境を乗り越えるとその人の尊敬すべきところや信頼できるところが見えてくるのだ。それは、群れ対群れとして憎しみ一辺倒でいるよりも、心の中に矛盾や葛藤を抱えることになりしんどいかもしれない。相手の立場を想像できるようになると、自分たちの戦いに正当性があったのかわからなくなっていく。ブロッカーの友人のようにいち早くそれに気づき、自責の念に堪えられなくなる者もいる。正当性のない戦争を勝者として生き延びてしまった者はどうすればいいのか、ブロッカーの肩にも重くのしかかってくるのだ。
 クーパー監督とベールは相性がいい。私はクーパー監督作が割と好きなのだが、映画としてそんなに尖っていたり洗練されていたりするわけではない。わりとオーソドックスだ。ただ、ストーリーのハッピー度とは関係なく、毎回どこか地獄の一丁目をさまよっているような部分がある。ここはつらい、しかし他に行くところもないというような。その地獄感とベールのともすると悲壮な雰囲気がよく合っているのだ。

ファーナス/訣別の朝 Blu-ray
クリスチャン・ベイル
ポニーキャニオン
2016-03-16



『ディリリとパリの時間旅行』

 ベル・エポック期のパリ。ニューカレドニアからやってきた少女ディリリ(プリュネル・シャルル=アンブロン)は配達人の少年オレル(エンゾ・ラツィト)と共に、パリで起きている少女誘拐事件に挑む。監督・脚本はミッシェル・オスロ。
 アニメーションの魅力は動き、動き方をどのように表現するかという点にあると私は思っているが、本作は決して「動き」のアニメーションではない。ではアニメーション固有の魅力がないのかというとそんなことはなく、アニメーションならではの魅力がふんだんにある。動きで魅せる活劇としてのアニメーションとは発想の起点がちょっと違っており、そこが面白い。リアルなパリの風景を、きり絵のように単純化されたアニメーションの人物が駆け抜けるというコントラストの妙がある。キャラクターの動き自体にはそれほど面白みはないのだが、画面全体がひとつの絵としての美しい。当時のパリの風景を様々な角度から見せる、観光映画のようでもあった。ディリリとオレルは三輪車でパリを駆け抜け、とても爽快なのだが、他にも馬車、ボート、飛行船等乗り物が次々と登場する。乗り物によって目線の高さや移動ルートが違うので、風景にバリエーションがあって楽しい。衣装の色合いのビビッドさも美しかった。
 パリの風景だけではなく、学者や芸術家等、歴史上の人物たちが次々と登場する。有名な絵画作品に描かれた風景がそのまま再現されていたりもする。ムーラン・ルージュで画家ロートレックと出会う時には、舞台の上も客席でも、彼の作品に登場した人たちがその姿で現れるので嬉しくなった。ロートレック本人もディリリと一緒に三輪車に乗る姿がきゅーとなのだが、ドガに作品を褒められて喜ぶ姿もまた微笑ましかった。
 ディリリ達の敵は明確に性差別主義者たちだ、女の子も自由に学び生きる権利があるということをディリリが体現しており彼らにNOを突き付けるわけだが、いまだにこれを言わないとならない世の中だというのが何とも辛い(作品の舞台は19世紀だたそのメッセージは現代の私たちに向けられているわけだから)。一方、本作の冒頭で、ディリリは「未開の民族」として、アトラクションの一部になっている。パリ万博では実際に様々な地域の先住民を見世物として「展示」(展示の中に現地の住居を再現し生活させ、来場客に見せる)していたそうだが、これは彼らを「未開人」として見世物扱いしている、同等の人間としては扱っていないということになるだろう。先住民とフランス人の間に生まれたディリリは、宣教師によりヨーロッパの教育を受け「文明化」されたというわけになる。確かにディリリの世界は教育により広がったわけで、宣教師としては彼女を「野蛮から救い出した」という意識があるのだろう。とはいえ、彼女のバックボーンはヨーロッパ側からは無視されたままなのでは。そこにある差別には本作は言及していない点にはひっかかった。

アズールとアスマール [Blu-ray]
シリル・ムラリ
スタジオジブリ
2007-12-19





世界を変えた100人の女の子の物語
エレナ・ファヴィッリ
河出書房新社
2018-03-24

『ダンスウィズミー』

 一流企業で働く「勝ち組OL」の鈴木静香(三吉彩花)は、ある日姪っ子と訪れた遊園地で怪しげな催眠術師のショーを見学する。しかし姪っ子にかけられるはずだった「音楽が流れると歌って踊らずにはいられない」というミュージカルスターになる催眠術にかかってしまう。街中に流れる音楽や携帯の着信音などあらゆる音楽に反応してしまうようになった静香は、催眠を解いてもらうために催眠術師の行方を彼のアシスタントだった千絵(やしろ優)と共に捜すが。監督は矢口史靖。
 ミュージカルが苦手な人にとってのミュージカルのとっつきにくさは、作中で静香が言うように日常の中でいきなり歌い踊りだす、冷静に考えたら変な人じゃん!という奇妙さにあるだろう。その奇妙さをそのまんまやってしまおう、それが主観的にはどう見えて客観的にはどう見えるのか両方やろうという作品。ミュージカルの奇妙さを逆手にとっているわけだが、それが上手くいっているとはあまり言えないように思う。ミュージカルシーン自体はそれなりに楽しいのだが、「日常の中でついやっちゃう」というコンセプト故か単純に俳優のスキル故か、パフォーマンスがどこか素人くさい。それが狙いだと言うならしょうがないが、ミュージカルの楽しさって動きと音楽がバッキバキにきまる所にあると思うので、私は素人っぽさがあると気持ちが冷めてしまうんだよね・・・。カメラワークも、ミュージカルシーンに自信があるならもっとロング中心で全体の動きがどうなっているのか見せてほしい。全般的になんだか野暮ったいなと思った。
 また序盤、静香が同僚との会話の中で感じているであろう違和感とか、やり手男性社員への憧れ、「玉の輿」発言とか、労働観が大分古いように思った。作中で言及があるように静香の勤務先は超大手企業で、入社は狭き門。静香自身「すごく頑張った」と言うし、それは他の女性社員も同じだろう。そういう人たちが悩むのは玉の輿とかについてではないのでは?という違和感があった。現代の職場での話題とか悩みとかって、もっと他のことだと思う。オーソドックスさと古さは違うだろう。そもそも、静香は今の仕事が嫌いというわけではないんだと思うし。
 静香は子供の頃の体験から本来好きだったミュージカルにトラウマが生じてしまい、そのせいで催眠に強くかかってしまう。このトラウマ克服という要素と、今の仕事のままでいいのかという迷いという要素が、ひとつの物語としてあまり上手くかみあってないように思った。入口とその先と出口が乖離しているというか・・・。

『トイ・ストーリー4』

 ウッディ(トム・ハンクス/唐沢寿明)の新しい持ち主になった女の子ボニーは、幼稚園の工作で作った「フォーキー(トニー・ヘイル/竜星涼)」を持ちかえってきた。ウッディたちはおもちゃ仲間としてフォーキーを迎え入れようとするが、先割れスプーンやモールで作られたフォーキーは自分をゴミだと認識し、事あるごとにゴミ箱へと逃げ出してしまう。キャンプ旅行中に逃げ出したフォーキーを連れ帰ろうとしたウッディは、アンティークショップでかつての仲間ボー・ピープ(アニー・ポッツ/戸田恵子)のランプを発見する。監督はジョシュ・クーリー。
 トイ・ストーリーシリーズには私はあまり思い入れはないのだが、ウッディがちょっと面倒くさい上司みたいになっていてやるせないものがありますね・・・。もうそれはあなたの仕事ではないんじゃないですかね、ということに彼が執着し続けている、それがアイデンティティになってしまっているというのが見ていてしんどい。今回はそのアイデンティティに関わるストーリーだった。おもちゃのアイデンティティとは、というテーマは今までもシリーズ内で語られてきたが、今回はそこから更に一歩進んで、持ち主がいなくてもおもちゃはおもちゃである、という領域に入っていく。個人的には「おもちゃ」自体をやめてしまっても(子供と関わる存在ではなくなっても)彼らは彼らだと思うのだが。
 フォーキーのアイデンティティが「ゴミ」から「おもちゃ」に変化していくように、おもちゃのアイデンティティが何か別のものに変容していってもいいと思うし、アイデンティティってもっと自由でいいんじゃないかなと思う。というか個人的にそうであってほしい。
アニメーション技術面の進歩が目覚ましく、特にボー・ピープの陶磁器の肌のなめらかかつ硬質そうな質感、衣装の布目の表現の仕方など素晴らしかった。髪の毛のカールの畝に釉薬が溜まっている感じとか、もう唸るしかない。

トイ・ストーリー DVD・トリロジー・セット (期間限定)
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ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2012-11-21






『鉄道運転士の花束』

 鉄道運転士のイリヤ(ラザル・リストフスキー)は列車の運行中、線路を歩いていた少年をひき殺しかける。その少年は自殺したいから構わないのだと言う。そして10数年後、イリヤの養子となったその少年シーマ(ペータル・コラッチ)は自分も定年間近のイリヤの跡を継ぎ鉄道運転士になりたいと考える。しかしイリヤは猛反対。事故で人を殺してしまうことは避けられない、その重みをシーマに負わせたくないのだ。反対を押し切りシーマは鉄道運転士になるが。監督・脚本はミロシュ・ラドビッチ。
 イリヤは鉄道事故で累積28人を殺しており、その中には最愛の女性も含まれていた。自分のような苦しみを子供には味わせたくないというと良い話みたいだけど、「人をひいたら一人前」「一人ひいたら気が楽になる」等イリヤも運転士仲間もぽんぽん言うので信用できない。無事故無違反ありきではなく、事故も違反もあることが前提なのだ。日本だったら不謹慎!と怒られそうなセリフだ。
 早く人をひいて楽になりたい!と訴えるシーマ(その訴えもどうなんだと思うが)に対するイリヤの行動は、予想は出来るが結構極端。子供への愛情の示し方がちょっといびつだし、良くも悪くも融通がきかない。イリヤはシーマが自分を愛しすぎないように、自分もシーマを愛しすぎないようにずっと気をつけているように見えた。その試みは結局のところ失敗していることがわかってくるが、イリヤの愛は屈折しているのだ。その屈折を補うのが、同僚夫婦。ストレートな愛情をシーマに示す姿は心温まるし、とてもいい「近所のおじさんとおばさん」という感じ。おばさんが作るズッキーニの肉詰め、イリヤ達には不人気なのだが食べてみたくなった。
 一見牧歌的でハートウォーミングな印象だが、かなりブラックユーモアが強い。題名の「花束」の意味だって、えっそっち?!という方向でまずは見せてくる。運転士たちが引き殺した人数を出し合うのといい、この人をひくのはまずいけどあいつならOKという差別化も、あっけらかんと黒い。
 イリヤの自宅が列車車庫の中にあったり、同僚夫婦やカウンセラーの自宅は車輛を改装したものだったりと、舞台がとても楽しい。特にカウンセラー女性の自宅は、一面が本棚になっていてアンティークっぽい内装で素敵だった。車輛に住むというシチュエーション、子供の頃に大分憧れたので、映画の中で見られて嬉しいしうらやましくなってしまった。

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キングレコード

『田園の守り人たち』


 1915年、第一次世界大戦中のフランスの田園。未亡人オルタンス(ナタリー・バイ)は、長女で夫が出征中のソランジュ(ローラ・スメット)と農園を取り仕切っていた。人手不足の中、身寄りのない若い娘フランシーヌ(イリス・ブリー)を雇うが、彼女は働き者で家族同然になっていく。ある日、前線から二男ジョルジュが一時休暇で帰ってくる。ジョルジュとフランシーヌは惹かれあっていくが。監督はグザヴィエ・ボーヴォワ。  音楽が何だかいいなと思っていたらミシェル・ルグランだった。最晩年の仕事ということになるのか。全般的には控えめな音楽の使い方なのだが、エピソードの節目節目で印象に残る。また、四季を通して描かれるフランスの田舎の風景が美しい。ジョルジュが農場の周りの森に拘るのもわかる。  女性ばかりの農園が舞台ということで、大地母神神話的に母性賛歌みたいな方向だとちょっと困るなと思っていたら、あまりそういう側面は感じられずほっとした。農園のあり方はむしろ、経営、経済活動という側面が目についた。男性は出征していて働いているのは女性と老人ばかりなのだが、耕運機など農耕器具が改良され(作中描かれているのは3,4年程度なのだが、その中でも結構進化している)、生産量が上がっていると言及されるシーンがある。技術が発展すると労働力としての男性のアドバンテージはそれほど高くなくなっていくのだ。ソランジュが帰郷した夫に得意げな顔で農耕器具を見せるシーンが印象に残った(夫が君すごいな!的リアクションなのもいい)。農場主であるオルタンスの個性は、母性よりもむしろ経営者、事業者としての有能さに象徴されている。  とはいえ、オルタンスは経営者であると同時に娘、息子たちの母親であることは間違いない。彼女の「母」としての側面が強く出るのは、特に息子に対してだ。それまで冷静でフェアだった人が、息子の為には急にひとりよがりで卑怯なことをしてしまう。母親の業みたいなものなのかもしれないが、息子に対する執着が見え隠れしてちょっと怖かった。  女性たちの強さ、有能さが印象に残るが、女性故に我慢しなくてはならない側面は依然としてある。「女」として扱われる不愉快さが、主にアメリカ兵相手に漂う。あるシーンで、ジョルジュはフランシーヌが立場上そうせざるを得ないということが多分わからないのだろう。その時彼もフランシーヌが感じる不愉快さに加担していることになるのだが、その自覚もないのだろう。オルタンスはそれがわかっていて、やはり加担してしまうというのが辛い。



神々と男たち [DVD]
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紀伊國屋書店
2011-10-29



『隣の影』

静かな住宅地。老夫婦のインガ(エッダ・ビヨルグヴィンズドッテル)とバルドウィン(シグルズール・シーグルヨンソン)が隣家の中年夫婦エイビョルグ(セルマ・ビヨルンズドッテル)とコンラウズ(ソウルステイン・バックマン)にクレームをつけられた。庭木がポーチに影を落とすので切ってほしいというのだ。これを皮切りに2家の関係は悪化。身の回りで起こる災難は全て相手の嫌がらせに見えてくる。一方、インガ夫婦の息子アトリ(ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン)は妻アグネス(ラウラ・ヨハナ・ヨンズドッテル)との関係が破綻しそうになり、実家に転がりこんできた。監督はハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うかなんというか・・・。相手のやることなすこと気に食わない!というご近所付き合いの闇が広がっていく様をブラックユーモアで描いている。アイスランドの映画のユーモアってちょっと独特というか、人間の可能性にあまり期待していない感じがする。かなりシニカルだ。
2つの家庭がぶつかりあっていくが、双方の憎しみの度合いは同等のものではない。インガは少々被害妄想に走っているように見える。彼女の憎しみは大分理不尽だ。エイビョルグの妊娠を知った時の一言には、えっそっちに反応する?!そんなこと言う?!というもの。そしてコンラウズは妻の異変に気づいているが、肝心な所で逃げる。インガの変調は長男の死がきっかけらしいということが徐々にわかってくるものの、そもそも愛情のあり方にちょっと問題のある人なのでは。夫婦共にその問題、そして長男の死とちゃんと向き合ってこなかったのではと思えてくる。アトリの妻子に対する態度もかなり問題あるが、当人は自覚していない。この一家「そういう所だぞ」という部分が多すぎるのだ。隣家とのもめごとにしろ妻から愛想尽かされることにしろ、今に始まったことではなさそう。
エイビョルグとコンラウズは彼らに巻き込まれてしまったように見えてくる。2人の言動は確かに無神経だし傲慢なところもあるのだが、そこまで病的な印象ではない。何の因果で・・・。不条理劇ホラーのような作品だった。

馬々と人間たち [DVD]
イングヴァル・E・シグルズソン
オデッサ・エンタテインメント
2015-06-02






ひつじ村の兄弟 [DVD]
シグルヅル・シグルヨンソン
ギャガ
2016-07-02

『トム・オブ・フィンランド』

 第二次大戦後のフィンランド。帰還兵のトウコ・ラークソネン(ペッカ・ストラング)は広告会社でイラストレーターの仕事をしつつ、自分の為だけにたくましくセクシーな男性の絵をスケッチブックに描き続けていた。当時のフィンランドでは同性愛は法律で禁止されており、ゲイであるトウコは自分のセクシャリティを明かすことも、公の場でパートナーのヴェリ(ラウリ・ティルカネン)との関係を明かすこともできなかったのだ。トウコは作品をアメリカに送るようになり、雑誌の表紙に起用されたことがきっかけで、世界中でその作品は評判になっていく。監督はドメ・カルコスキ。
 本名で作品を発表できないトウコのペンネームが「トム・オブ・フィンランド」。実在したゲイアートの先駆者、トム・オブ・フィンランドの伝記映画だ。フィンランドでは法的に同性愛が禁止されているため、アメリカに作品を送って売っていたわけだが、トウコがあずかり知らぬところで彼の絵がどんどん知られるようになり、ゲイの人々の間で愛されるように、また彼らをエンパワメントするようになる。その流れを作家当人は全然知らないままだったという所に時代背景を感じた。ファンの招きにより渡米して初めて、トウコは自分の作品がどのように受けいられているのかということ、そして作品に勇気づけられた人たちがいることを知る。このエピソードはアートの持つ力、役割を感じさせ感動的ではあるのだが、同時にヘルシンキとカリフォルニアとの状況が違いすぎて辛くもある。同じ時代であっても生まれた場所が違うだけでこんなに自由の度合いが違うのかと。カリフォルニアで警官の振る舞いを見たトウコの表情が何とも言えない。トウコにとって警官は自分を迫害し痛めつけるもので、礼儀も尊重もなかったのだから。
 トウコの戦時中の体験と、戦後の生活、そして晩年とを行き来する構成で、彼の人生を追っていく。また同時に、彼の作品がどのように受容されていったのか、ゲイ社会がどのように変化していったのかという社会背景も映画いている。トウコが初めて渡米した頃は解放感に満ちていたのに、エイズの発症が確認されるようになると同性愛者差別が加速し、また時代が逆行したようになっていく。同性愛が法に触れなくなった後も、トウコはヴェリと外で手をつなごうとしないし、「ゲイっぽい」振る舞いをすることに抵抗があるように見えた。妹にも自分とヴェリの関係をちゃんと説明していたのかどうか、はっきりしない。職場でヘテロっぽさを強調するあまりちょっと女性へのセクハラっぽくなるあたりはいただけなかった。トウコ自身はかなり保守的というか、ゲイに対する差別と闘うといった意欲は長らくなかったように見える。長い間そういったことが禁じられていたから、隠すことが習い性になってしまっていたというのもあるだろう。彼の意識がちょっとずつ変わっていく過程を描いた物語でもある。終盤、カーテンにまつわるエピソードにはちょっとほろっとしてしまった。あの時無理だと言っていたことが、ちゃんとできるようになっているじゃないかと。時代は確実に変わるのだ。
 彼の作品はゲイの人々をエンパワメントするものだったが、作者当人はなかなか自由にはなれなかった。作品の方が作家よりも早く遠くに行けた、作家当人にはその自覚がずっと希薄だったところが面白いし、皮肉でもある。それがアートの面白さなのかもしれない。

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