3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画題名さ行

『サントメール ある被告』

 作家のラマ(カイジ・カガメ)はある裁判を傍聴していた。被告は若い女性ロランス(ガスラジー・ラマンダ)。彼女は生後15か月の娘を浜辺に置き去りにし、殺人罪に問われている。セネガルからフランスへ留学し大学で哲学を学んでいたというロランスだが、証言者の見方はまちまち。またロランスの発言もあやふやで、真相は見えてこない。監督はアリス・ディオップ。第79回ヴェネチア映画祭銀獅子賞、新人監督賞受賞作。
 実際の裁判記録をそのままセリフに使用しているそうだが、ロランスのことをどのように見ればいいのか戸惑う。彼女の話し方は知性的で教養が感じられるが、彼女の発言は証言者の証言とはしばしば食い違う。自身の言葉を翻すこともあり、質問に対して頻繁に「わからない」という。おそらく陪審員制度の裁判だったら決して印象の良くない被告なんだろうと思うが、彼女の「わからない」ははぐらかしではなく、本当にわからないのではないか。そのわからなさが、裁判を傍聴しているラマにとっては恐怖なのだと思う。ラマは妊娠しており、このままでいくとロランスと同様に母親になる。ロランスはラマの将来の姿かもしれないのだ。2人とも移民で高等教育を受けた女性である、また親との関係は微妙であるという似通った背景を持っている。ラマにとってこの裁判は取材や研究対象では収まらない、個人的に切実なものだ。
 裁判の証人たちは、ロランスについてしばしば失礼なことを言う。もしネイティブのフランス人で白人女性が被告だったらこういう言い方はしないんじゃないかな、というものだ。彼女の境遇や文化的背景を勝手に設定してしまい、自分の発言が差別になるということにも気づかない。おそらくロランスもラマもずっとこういう視線にさらされてきたのではないかと思わせるし、ロランスの行動もそういう背景の元、押し流されるように起こしてしまったものではないかと思われる。しかし裁判関係者は、そこに差別的な視点があることには言及しないので、気付いていないのかスルーしているのかもやっとした。
 娘と母の関係の厄介さもまた、ラマと母の関係、ロランスと母の関係という二重構造で描かれ、やはり2人の体験が重なってくる。ラマが実家を訪問したときの所在ない感じがなかなか生々しくてイタい。彼女の母親はシングルマザーとして子供たちを育て大変苦労したようで、今では心身を病み家族からは「人生に壊された」と言われる。ラマは母のことを愛していないわけではないし心配はしているが、母とは別の世界に生きており距離がある。一方でロランスの母親は裁判の傍聴に来て証言もするくらい娘のことを愛しており誇りにしているが、それは自分の中の娘像であってロランスの実像とはギャップがあることが伺えるし、それがロランスを母から遠ざけたのではないか。親と自分の文化が違う、情はあるが分かり合えない、しかしわかってほしいという苦しさが彼女らの根底にあるように思った。

なにかが首のまわりに (河出文庫)
アディーチェ,チママンダ・ンゴズィ
河出書房新社
2019-07-08


『小説家の映画』

 有名小説家のジュニ(イ・ヘヨン)は、執筆から遠ざかってしばらくになる。彼女は音信不通になっていた後輩を訪ねるため、ソウルから離れた河南市を訪れる。書店を運営している後輩に会った後、偶然女優のギルス(キム・ミニ)と知り合う。彼女もまた人気を博したものの表舞台から姿を消していた。ジュニは、彼女を主演に短編映画を制作したいと提案する。監督はホン・サンス。
 今回はホン・サンスが監督の他脚本、製作、撮影、編集、音楽までこなしており出演しているキム・ミニは監督の私生活上でもパートナーという、ホン・サンス濃度がいつになく高い布陣になっている。作品自体はいつものホン・サンスという印象だったが、より自由にやれたのかなという感じはした。
 ジュニはある部分では敏感だが、ある部分は鈍感で、そのちぐはぐさが危なっかしくもありおかしくもある。人の見た目に関わること(太ったとか)を気軽に口にするのだが、これは結構失礼だろう。一方で(若いのに、才能があるのに)「勿体ない」という言葉に対しては、それを決めるのはあなたではないだろうと敏感に反応する。この敏感な部分がギルスを助けることにはなるのだが、結局自分の中で共有できる部分に対してしか人は敏感になれないのかなとも思った。ジュニはおそらくスランプで、彼女自身が「読者が待っているんだから書けばいいのに」「才能があるのに勿体ない」と言われることにうんざりしていた。だからメジャーな場に出なくなったギルスが同じようなことを言われて困っているのがわかったのだろう。ただ、ジュニの抱えている問題とギルスが抱えている問題は同じものであるはずもなく、そこに過剰に入れ込んでしまうジュニの姿勢は少々危なっかしくも見える。
 ジュニだけではなく、登場人物たちの会話は時にお互いの地雷を踏むのではないかという気まずさ、危なっかしさをはらむものだ。ホン・サンス監督作品中のお酒を飲むシーンは、この場に交じりたくないわ~としみじみさせる気まずいものが多いのだが、本作の酒盛りシーンもやはり同様だった。酔うな!余計なことを言うな!とはらはらさせられる。本作はほぼ会話劇と言ってもいいのだが、それぞれの過去にひと悶着あったろうことが薄っすら感じられるので、いつそのわだかまりが露呈するのかという不穏さがある。冒頭、店頭にジュニがいるシーンで、女性がおそらくアシスタントを怒鳴りつける音声だけがかぶさるのだが、これはジュニがかつてアシスタント、もしかしたら後輩に対して投げつけてしまった言葉、彼女の過ちなのでは。そう思って観ると、その後の後輩とのやりとりは表面的な和やかさとはまた違った意味合いを持って見える。
 ところでジュニが撮った映画はどういうものだったのだろうか。終盤、どうも彼女の作品の一部らしきフィルムが映し出されるのだが、なんというかダサい…。映画を見た後のギルスの表情が何とも判断しがたいものだったので気になってしまう。

逃げた女(字幕版)
ハ・ソングク
2021-12-10


夜の浜辺でひとり(字幕版)
ソ・ヨンファ
2019-04-17


『ザ・フラッシュ』

 地上最速のヒーロー、フラッシュとして、科学捜査研究所員の仕事と同時にヒーロー活動にいそしむバリー・アレン(エズラ・ミラー)。ある日、高速移動の臨界点を越えると時間を超越できることに気付き、子供の頃に何者かに殺された母と、その容疑をかけられ裁判の判決間近な父を助けようと過去にさかのぼり、歴史を改変してしまう。バリーと母と父が家族3人で幸せに暮らす世界にたどり着くが、その世界には共に戦ったスーパーマンやワンダーウーマンはおらず、バットマンは全くの別人になっていた。さらにフラッシュ自身は特殊能力をなくし、かつてスーパーマンが倒したはずのゾッド将軍が襲来してくる。監督はアンディ・ムスキエティ。
 最近の映画はマルチバース流行りなのか、先日見た『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』に引き続き本作もマルチバース設定。ただ、厳密にはマルチバースではなく時間軸の分岐による変化なので、歴史改変SFに近いのだろう。バリーは両親を救いたい一心で何度もリトライするのだがその度に妙なことになってしまう。ヒーローが個人的な願いとヒーローとしての責務を両立させようとすると悲劇が起こるという設定は『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』と共通しているのだが、本作の方が諦念に満ちている。作品のトーン自体はコミカルなのだが、フラッシュが置かれている状況はなかなかに悲劇的ではないか。あちらを立てればこちらが立たずみたいに、どんどん状況がこじれてきりがないのだ。そもそもの発端が彼の個人的な願いに基づいており、その願いは人情として否定しにくいというのが辛い。フラッシュ=バリーはヒーローとしては実はそんなに突出した才能、センスがあるわけではない。そんな彼が孤軍奮闘するところに本作の持ち味があるのだが、ある境地への至り方はやはり切ない。
 一方で本作のマルチバース設定は、これまでのDCコミック映画を見続けてきたファンにとってのサービス的な要素、コミックと映画の在り方に対する理屈付け的な側面もある。「別人」のバットマンの登場を筆頭にかなりメタ的なのだ。映画単体としてはかなりハードルが高いのだが(「これご存じですよね」という体で概ね進行するので)全ての過去作、また会ったかもしれない作品への肯定になっているように思う。

THE FLASH / フラッシュ <ファースト・シーズン> コンプリート・ボックス(4枚組) [Blu-ray]
ジェシー・L・マーティン
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2015-09-16


バットマン [Blu-ray]
キム・ベイシンガー
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2016-02-24



『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』

 スパイダーマンとして町の平和の為に奔走するマイルス(シャメイク・ムーア)は別のバースのスパイダーマンであるグウェン(ヘンリー・スタインフェルド)と再会する。彼女はマイルスをあるユニバースに連れていく。そこにはスパイダーマン2099ことミゲル・オハラやピーター・B・パーカーら、さまざまなユニバースから選ばれたスパイダーマンたちが集う秘密基地だった。彼らはマルチバース全体の安定のために働いており、グウェンもその1人に選ばれたのだ。しかしスパイダーマンには愛する人と世界を同時には救うことができないという宿命がある。マイルズはこの運命を変えようとするが、あらゆるバースのスパイダーマンたちが彼の前に立ちはだかる。監督は ホアキン・ドス・サントス 、ケンプ・パワーズ 、ジャスティン・K・トンプソン 。
 『スパイダーマン スパイダーバース』の続編であり、更に本作のあとにもう1作が続く三部作構成。三部作であることを失念して見ると基本設定がわからなかったり、えっここで終わるの?!とショックを受けたりするかもしれないので要注意だ。単独作品として楽しみにくいは難点なのだが、それを補いすぎるくらいのビジュアルの楽しさがある。各バースはそれぞれ違ったタッチの絵柄で表現され、キャラクターデザインもそれに沿っている。前作を見た人には言うまでもないが、現代的な立体感のあるアニメーションで表現されるマイルスやグウェンがいる一方で、カートゥーン風のスパイダーマンがいたり、レトロなコミック風のスパイダーマンがいたりする。何とレゴのスパイダーマンも。スタンダードなアメコミのスパイダーマンだけでも相当種類があるんだろうが、ちゃんと少しずつテイストが違うのが面白い。これらのそれぞれタッチの違うスパイダーマンたちが同じ画面の中にいても違和感がないという、バランスの取り方が素晴らしい。アニメーションだからこそできる表現だろう。更に音楽もバースごとにテイストが変わっていて使い方がいいなと思った。とにかくビジュアルがおしゃれである。
 大人と子供の関係が大きな要素の一つになっているのはアメコミヒーロー映画としては少数派なのでは。マイルスは自分はもう子供ではないと主張するが、一般的に15歳は子供だろう。彼は自分なりに最善を尽くそうとするが、その行動も判断も頼りなく粗削りだ。しかし子供だから「もう決まっていることだから」という論理に納得せずに世界も愛する人もどちらも救うと躊躇せず言えるのかもしれない。経験値が少ないことが逆に強みになっている。そもそもスパイダーマンの掟みたいなものは本当に掟なのか?単に数が多いというだけでは?という疑問もわいてくる。このあたりは何をもってスパイダーマンと称する、読者が見なすのかというかなりメタ的な視点がある。
 一方、親の側の迷いが描かれるのも主人公が子供ならではの展開だろう。マイルスの父の、子育てに慣れた頃には親は用済みになっているというぼやきはなかなかリアルだ。マイルスの両親は本当にちゃんとしたいい人たちだ。母親の、息子が嘘をついていると察知しているけど追求しない(できない)という心理は、別に子供が密かにヒーローをやっているなんて事情がなくともよくあるケースなのでは。また、親としての喪失感に耐えられなかったのがミゲルとも言えるのだが。ミゲルはマルチバース概念について妙に頑なで、この先どう動いていくのか気になる。

スパイダーマン:スパイダーバース プレミアム・エディション(初回生産限定) [Blu-ray]
マハーシャラ・アリ
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2019-08-07


マイルス・モラレス:ストレイト・アウタ・ブルックリン (MARVEL)
サラディン・アーメッド
小学館集英社プロダクション
2023-05-25


 

 一方、
 

『ジャンヌ・ディエルマンをめぐって』

  特集上映「シャンタル・アケルマンをめぐって」にて鑑賞。シャンタル・アケルマン監督の『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1976年)の撮影現場を、主演のデルフィーヌ・セイリグのパートナーであったサミー・フレイが撮影し、アケルマンが編集したドキュメンタリー。1975年製作。
 『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』は衝撃的だったのだが、その撮影過程を記録したドキュメンタリーである本作も興味深かった。主演のセイリグは当時既に大御所だったわけだが、アケルマンに対して指示された動きやショットの意図を繰り返し尋ねる。どうもアケルマンは最初から明確に言語化できているわけではなく、自分で自分の意図するところをとらえきれていないように見えた。それが、セイリグとのディスカッションを重ねるうちに段々はっきりとビジョンが見えてくる。この構築の仕方がとてもスリリングで面白い。セイリグは自身でも自分ははっきりとした説明が欲しいのだと言うが、彼女くらいの経験があればそこまで説明されなくても、やろうと思えばそれなりの演技はできるだろう。しかしそこであえて何度も監督の意図を確認するところに、セイリグのプロ意識、映画に対する誠実さが見えたように思う。映画というのは監督だけ、俳優だけが突出していれば出来上がるというのではなく、やはり共同作業なんだなと再確認できる。
 撮影は実際にアパートの一室を使って行われているのだが、スペースが限られている=カメラの可動域が限られているので、フレームをどこに設定してその中でどう動くのかという設計が非常に難しかったということもよくわかる。『ジャンヌ~』は印象的なショットが多いのだが、あのショットのインパクトは物理的な制限から生まれた部分もあったのだなと。また、料理の手順やベッドの整え方等、家庭によってまちまちなやり方のどれを採用するかという試行錯誤も興味深かった。どうもアケルマンは料理は苦手だったみたいで、料理のできるスタッフの回答待ちになっているあたりも面白い。確かに不自然な手順で料理してたら気になるもんな。
 セイリグが若いスタッフ(音響技師らしい)を叱責するシーンが印象に残る。セイリグのこの時代を生きる映画人としての覚悟と蓄積が伺える、そしてそれが若い世代にはぴんときていないというもどかしさが感じられるシーンだった。セイリグの女性俳優としてどう生きるかという姿勢も垣間見られるドキュメンタリーだった。


ロバと王女(字幕版)
ミシュリーヌ・プレール
2019-04-09





『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』

 2118年1月。公安局統括監視官・常守朱(花澤香菜)のもとに事件の知らせが入る。朱は厚生省統計本部長・慎導篤志(菅生隆之)と共に現場である外国船舶へ向かうが、捜査権は外務省海外調整局行動課にあると告げられる。船からは、篤志が会議のゲストとして呼んだストロンスカヤ博士の遺体が発見された。犯行は行動課が以前から追っていた組織・ピースブレイカーによるものだと判明し、刑事課一係と行動課との共同捜査になる。一係の面々は、かつて公安局から逃亡し、行動課の所属となった狡噛慎也(関智一)と再会する。監督は塩谷直義。
 シリーズ集大成の10作目だが、作中時間は2019年公開の劇場版「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に」とテレビアニメ3期の間に位置するという奇妙な立ち位置。時間軸を遡っての完結編(なのかどうかはわからないが一応一区切りではあるだろう)というのは作る側にとってもやりにくいのでは?と思ったが、常守が至るある境地は、確かに本シリーズの一つの結末と言えるだろう。常守は私にとっては、いまひとつどういう人なのかわからないキャラクターだったのだが、ここにきてああこういう人だったのかと腑に落ちた感がある。常守の決断を受けての狡噛のリアクションにも、この人はこういう風に変化したのかという感慨深さがあった(このシーンはすごく良い。ちゃんとこういう見せ方をできたのは偉いと思う)。正直、テレビシリーズ1作目の段階ではキャラクターの奥行をここまで持ってこれるとは思っていなかった。シリーズ重ねて作っていく中で、製作側の中でもこの人はこういう人、という解析度が高まっていったのだろう。常守と狡噛の重なる部分と相容れない部分、そこがどのように変化したのかという点においても、本作はクライマックスと言える。
 解析度が高まるという点は、作品世界全体に関しても言える。これまたテレビシリーズ1作目の段階ではここまでシリーズとして続けられるとは思っていなかったので、正直驚いた。ここ数作に関してはシリーズ構成・脚本に関わった冲方丁と深見真の力が相当大きいのではないかと思う。脚本て大事だなとしみじみ実感するシリーズでもあった。どういう社会が背景にある話なのか、という部分が明確に意識されていったのでは。
 劇場版はアクション映画としての側面も強くなったシリーズだが、本作もアクション、特に肉弾戦で魅せる。一見地味だが人体の関節をかなり意識したアクション演技ですごく面白かった。私が好きなアニメーションのアクション(戦闘)はこういう方向性なんだなと再確認した。また宜野座(野島健児)の義手の使い方は、これやっておきたかったんだろうなーというもので(『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰』でも同じことを思ったのだが)少々制作側のフェティッシュを感じる。




 
 

『それでも私は生きていく』

 サンドラ(レア・セドゥ)は夫を亡くし、8歳の娘リン(カミーユ・リバン・マルタン)と2人暮らし。通訳・翻訳の仕事の合間をぬって高齢の父ゲオルグ(パスカル・グレゴリー)の介護もしていた。しかしゲオルグの病状は進行し、記憶の欠落や身体の不自由が目立つようになっていく。そんな折、亡き夫共々友人として交際していたクレマン(メルヴィル・プポー)と再会する。サンドラとクレマンは恋に落ちていくがクレマンには妻子がいた。監督はミア・ハンセン=ラブ。
 レア・セドゥといったらもはや大スター、ゴージャスなヒロインというイメージなのだろうが、本作で演じているのは地に足の着いた、生活感が濃厚な人物。生活もファッションも(さすがにシュっとしているけど)いたって地味だ。こういう役柄を演じてもちゃんと「その人」に見える俳優だったんだなと再確認した。今まではどこか「夢の女」要素を引き受けた役柄が多く今一つ魅力を感じられなかったのだが、本作のセドゥはとてもいい。作中のサンドラのファッションも魅力。いわゆるおしゃれな服装ではないのだが、サンドラという人の人とない・暮らしぶりとマッチしている。ハンセン=ラブ監督の作品はいつもヒロインの服装がこなれていて素敵だ。
 サンドラと父親の関係が物語の一つの柱となっている。父親は元・哲学教授で知、言語の人だった。しかし病のせいで彼の人となりの根幹とも言える知性の部分がどんどん崩れていく。家族にとってそういう姿を見るのはとても辛いことだろう。特にサンドラは職業上、父親と共有する部分が多く親密だった様子がうかがえる。しかし肝心の父親は時に家族のことも思い出せないし、自分の恋人にばかり会いたがる。日本同様、介護施設への入居の困難さも加わり、彼女がどんどん疲弊していく様が切実だった。彼女の母親(父親とは離婚済)のように手助けはするけど一線を引ける人の方がこういう時は強いだろう。父親の蔵書の引き取りをはっきり断る、自分には自分の生活があると言える母親の姿が好ましかった。
 物語のもう一つの柱はサンドラとクレマンの恋愛だ。恋愛の一番いいところというか、浮き立つような感じに満ちている。リンを交えての3人家族のようなやりとりも微笑ましい。ただクレマンには妻子がおり、サンドラは段々彼を待つばかりの存在になっていく。妻子と別れるとも別れないともつかないクレマンの態度は不誠実と言えば不誠実なのだろうが、サンドラへの愛が嘘というわけではない。そこが両立してしまう所が面倒くさい。しかしサンドラはその面倒くさいことをちゃんとやっていき、自分の人生を見失わない。そこが眩しかった。彼女らの幸せな時間の幸福感が強烈なのは、その裏側にある面倒くささを引き受けているという描写があるからかもしれない。

ベルイマン島にて(字幕版)
アンデルシュ・ダニエルセン・リー
2022-07-17
 





あの夏の子供たち [DVD]
エリック・エルモスニーノ
紀伊國屋書店
2011-04-28


『search/サーチ2』

 ロサンゼルスから南米・コロンビアに恋人と旅行に行った母が、突然消息を絶った。高校生の娘ジューン(ストーム・リード)は警察に捜索依頼を出した一方で、何とか母を見つけようと検索サイトや代行サービス、SNS等を駆使して情報を集める。コロンビアの代行サービス業者・ハビ(ヨアキム・デ・アルメイダ)の力を借りて母が失踪した地点を突き止めるものの、事態は予想外の方向に展開していく。監督はウィル・メリック&ニック・ジョンソン。
 失踪した娘を探す父親の奮闘がパソコンの画面上の映像でのみ展開していくというアイディアが光った『search サーチ』のシリーズ2作目。とはいっても、前作との繋がりはない(同じ世界の話だということが冒頭でわかるが、その数年後の設定)ので本作単品で見て全く問題はない。一発芸的な作品で2匹目のドジョウが狙えるのか?と正直疑問だったのだが、本作もしっかり面白かった。よくよく考えるとわざわざこんなことするか?このエピソードは不自然では?と気になる部分は出てくるのだが、見ている間は飽きさせずにどんでん返しを重ねてきっちり終わる、という娯楽作として正しい作りだった。前作の監督・脚本だったアニーシュ・チャガンティは今回は原案・製作を担当し、前作の編集を担当したメリックとジョンソンが監督に回った。経験者が主導しているのがよかったのか、シリーズのキモをわきまえた見せ方になっている。今回は各種ツールを更に使いこなすティーンエイジャーが主人公なので、情報提示のバリエーションがより広がり飽きさせない。アプリが万能すぎ、話がトントン調子で進みすぎなきらいはあるのだが(ハビの英語急に達者になってないか?とか)、スピード感重視でコンパクトにまとまっているところがいい。
 気軽に見られる娯楽作なのだが、事件の真相は前作よりも怖かった。冒頭のアドレスやアカウントを削除する動作が、誰が何のために行ったのか結びついてくるとぞわっとする。恐怖の原因が現代的というか、より具体的な恐怖を感じさせるものになっている。

search/サーチ
ミシェル・ラー
2019-09-06


THE GUILTY/ギルティ(字幕版)
オマール・シャガウィー
2019-10-16






『セールス・ガールの考現学』

 原子工学を学ぶ大学生サロール(バヤルツェツェグ・バヤルジャルガル)は、骨折した同級生からアルバイトの代理を頼まれる。そのバイトとはアダルトショップの店員だった。経歴も年齢も不詳なオーナーのカティア(エンフトール・オィドブジャムツ)と交流するうち、サロールは自分が本当にやりたいことに気付いていく。監督・脚本はジャンチブドルジ・センゲドルジ。
 風変りなアルバイトを通じて若者が変化していくという筋立てはオーソドックスなのだが、舞台がモンゴルの首都ウランバートルだという所が、日本で見る映画の中では珍しい。ただ、ウランバートルは都市部なので他のアジア圏の都市部と人々の生活様式はそんなに変わらない。今のモンゴルの都市部の若者がどういう生活をしているのかという側面が垣間見られることが新鮮だった(私の中のモンゴルのイメージが乏しいという要因が大きいが)。いわゆるエキゾチズムのようなものはなく、私たちと同じような(そしてそれぞれ違う)青春があるんだなと親近感を覚えた。冒頭、「バナナ」に至るまでのリズムの良さで捕まれる。
 年代の離れた女性2人の間に友情めいたものが生まれてくる様が清々しい。2人の間にはジェネレーションギャップ、価値観のギャップもあるが、それを踏まえた上での思いやりもある。若者であるサロールの方が人生観がコンサバだというあたりは、逆に現代的なのかもしれないと思った。サロールはカティアの人生は中身が空っぽだと言うが、それは空っぽなのではなくサロールが思う「人生」にはまらないというだけでは。カティアの過去も内面も実際のところはわからないままそういう指摘をしてしまうあたりが、若いな…という感じで苦笑いをしたくなる。自分や自分の親が送ってきたような人生を否定したくないというのはわかるのだが、そうでない人生にも実も花もある。サロールはやがてそれに気付くから、自分がしたいことへの道を踏み出すことができたのでは。彼女がどんどんすきにやっていくようになる様がよかった。アダルトショップでは最初から意外と落ち着いて接客しているので、元々度胸がある人なのでは?とも思ったが。
 なかなか良い青春映画だが、アダルトショップ=セックスに関わることで一皮むけるというのはあまりに紋切り型で正直少々古臭い。これが新しい・冒険であると思えるような環境にサロールがいたしそういう価値観にはまれる性質だった(そして本作が作られた環境がそういうものだった)ということなのかもしれないが。

ローラーガールズ・ダイアリー (字幕版)
クリステン・ウィグ
2013-05-15


いとみち(特典DVD付き2枚組) [Blu-ray]
古坂大魔王
Happinet
2022-01-07



『せかいのおきく』

 安政5年。22歳のおきく(黒木華)は武家の娘だが、父親(佐藤浩市)が失脚し今は貧乏長屋暮らしだ。ある日、雨宿りがきっかけで下肥え買いの矢亮(池松壮亮)とその弟分・中次(寛一郎)と言葉を交わすようになる。おきくは中次に密かに恋心を抱くようになる。監督は阪本順治。
 青春と恋愛と糞便という組み合わせが奇妙にも思えるが、本作は元々、プロデューサーを務める美術監督の原田満生が、地球環境を守るための課題を映画で考えるという意図の元に立ち上げた企画「YOIHI PROJECT」の第1作として作られたのだそうだ。江戸時代の糞便を回収して田畑の為の堆肥にするという循環システムを背景においたのはその為だろう。
 ただ確かにそういった社会システムが物語の背景にあるものの、いわゆるエコロジーやリサイクル社会については、見ている間はほぼ意識に上がってこなかった。確かに循環型社会の一部が描かれているわけだが、それが作中の人々(当時の人々)にとってはごく普通のこと、生活の一部で、いちいち再利用だと意識しているわけではないからだろう。それがいいもの、環境に配慮したものだという意識も当然ない。映画を見ている間は彼らの視点で世界を見ていたということかもしれない。下肥え買いという商売の仕組み、やり方を垣間見られるという点では興味深かった。糞便を買い取って堆肥化した後に売るのだが、値段を吊り上げる売り主がいる(排泄物なのに…)とか、畑に堆肥を撒くのも仕事の一環なのかとか、お仕事映画的でもある。ストライキ(と言う言葉は当然出てこないが)してやろかみたいなセリフも出てくるのだが、彼らがストライキしたら本当に町中が困るわけだ。
 文字通り糞にまみれて仕事に励む矢亮と中次の悲喜こもごもはバディものとして味わいもある。矢亮の商売の為なら何を言われてもうけ流せ口が減らない、頭を下げるのも罵倒されるのも商売のうちという態度は一見タフだ。一方で中次はあまりものを考えていなさそうというか、どこかぼんやりしている。そんな中次に、口ばっかりで行動できないのは心の弱さだと指摘される矢亮のピリつきが印象に残った。このシーン自体は唐突に挿入された感があるのだが、矢亮の人柄の一面を指摘しているし、その後の矢亮のある行動がより小気味よく感じられる。
 おきくが恋する様の描写は古典少女漫画的と言ってもいいくらいで、ちょっと笑ってしまうくらい純情。糞便が日常だとすると恋は非日常だ。ただ本作、恋をすると世界が変わる・広がるという話でもなく、世界は常にそこにある。その中で人と人が出会うと、そこにお互いのいる世界がある、ということがより強く意識されるという感じがした。おきくと中次が動作のみで何とか思いを表現しようとする様は、私のいる世界にあなたがいる、と伝えあっているようにも思えた。
 本作はモノクロなのだが、ところどころでカラーになる。糞便が頻繁に出てくる以上、これは確かにモノクロで正解だったかもと思っていたら、ちゃんとカラーで見せるシーンもあった。糞便を仕事にしている人たちを描く以上ここでフィルターかけたらだめだろうという、妙に生真面目な姿勢を感じた。そのほかは主におきくの心情に大きな揺れや華やぎがあった時にカラーになるのだが、それと同列の扱いなのだ。

冬薔薇 [Blu-Ray]
余 貴美子
Happinet
2022-12-02


まめで四角でやわらかで 上 (トーチコミックス)
ウルバノヴィチ香苗
リイド社
2023-04-14


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