作家のラマ(カイジ・カガメ)はある裁判を傍聴していた。被告は若い女性ロランス(ガスラジー・ラマンダ)。彼女は生後15か月の娘を浜辺に置き去りにし、殺人罪に問われている。セネガルからフランスへ留学し大学で哲学を学んでいたというロランスだが、証言者の見方はまちまち。またロランスの発言もあやふやで、真相は見えてこない。監督はアリス・ディオップ。第79回ヴェネチア映画祭銀獅子賞、新人監督賞受賞作。
実際の裁判記録をそのままセリフに使用しているそうだが、ロランスのことをどのように見ればいいのか戸惑う。彼女の話し方は知性的で教養が感じられるが、彼女の発言は証言者の証言とはしばしば食い違う。自身の言葉を翻すこともあり、質問に対して頻繁に「わからない」という。おそらく陪審員制度の裁判だったら決して印象の良くない被告なんだろうと思うが、彼女の「わからない」ははぐらかしではなく、本当にわからないのではないか。そのわからなさが、裁判を傍聴しているラマにとっては恐怖なのだと思う。ラマは妊娠しており、このままでいくとロランスと同様に母親になる。ロランスはラマの将来の姿かもしれないのだ。2人とも移民で高等教育を受けた女性である、また親との関係は微妙であるという似通った背景を持っている。ラマにとってこの裁判は取材や研究対象では収まらない、個人的に切実なものだ。
裁判の証人たちは、ロランスについてしばしば失礼なことを言う。もしネイティブのフランス人で白人女性が被告だったらこういう言い方はしないんじゃないかな、というものだ。彼女の境遇や文化的背景を勝手に設定してしまい、自分の発言が差別になるということにも気づかない。おそらくロランスもラマもずっとこういう視線にさらされてきたのではないかと思わせるし、ロランスの行動もそういう背景の元、押し流されるように起こしてしまったものではないかと思われる。しかし裁判関係者は、そこに差別的な視点があることには言及しないので、気付いていないのかスルーしているのかもやっとした。
娘と母の関係の厄介さもまた、ラマと母の関係、ロランスと母の関係という二重構造で描かれ、やはり2人の体験が重なってくる。ラマが実家を訪問したときの所在ない感じがなかなか生々しくてイタい。彼女の母親はシングルマザーとして子供たちを育て大変苦労したようで、今では心身を病み家族からは「人生に壊された」と言われる。ラマは母のことを愛していないわけではないし心配はしているが、母とは別の世界に生きており距離がある。一方でロランスの母親は裁判の傍聴に来て証言もするくらい娘のことを愛しており誇りにしているが、それは自分の中の娘像であってロランスの実像とはギャップがあることが伺えるし、それがロランスを母から遠ざけたのではないか。親と自分の文化が違う、情はあるが分かり合えない、しかしわかってほしいという苦しさが彼女らの根底にあるように思った。