3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名さ行

『スプリット』

 見知らぬ男に拉致され、密室に閉じ込められたケイシー(アニヤ・テイラー=ジョイ)、マルシア(ジェシカ・スーラ)、クレア(ヘイリー・ルー・リチャードソン)。ドアの外で男性と女性が話し合う声を聞いた3人は助けを求めるが、そこに現れたのは女性の服を着て女性のように振舞う誘拐犯だった。彼/彼女である「ケビン」(ジェームズ・マカヴォイ)には23の人格があり、先程の男もそのうちの1人だというのだ。監督・脚本はM・ナイト・シャマラン。
 監禁される恐怖の盛り上げ方、要所要所での小道具の使い方や伏線(フレッチャー医師の振る舞い等)は、ストレートにサスペンスとして面白いのだが、物語の要であろう「出現」シーンで、は?と脱力してしまった。そのまんまじゃん・・・。それまでのやりとりから見ている側が予想するであろうものからさほど外れないことに加え、視覚的にもさほど面白くない。あれ意外と地味・・・?と拍子抜けしてしまった。ケイシーの幼少時代の回想が随所で挿入されるのだが、これも早い段階でこの先何が起きるのかがわかってしまい、予想がつくこと自体はストーリー上の疵ではないが、まあげんなりさせられる内容ではある。
 ある変化がクライマックスとなっているわけだが、その「力」の根拠が、それってちょっとおかしくない?というものだった。私はシャマラン監督の『アンブレイカブル』の面白さがさっぱりわからないのだが、それと同じような納得のいかなさがある。人の傷や辛さってそれを被った本人にしかわからないのではないか、他人が評価するものではないのではないかと。ある人物の物言いに、「お前が言うなよ!何様だよ!」という気分になってくるのだ。そういう考え方が登場人物を救うんだろうなというのはわかるが。
 とは言え、面白いことは面白いし、何よりマカヴォイの1人23役はやはり見事。人格が入れ替わる瞬間がわかる、更に人格Aが人格Bを「演じている」姿まで、やり抜く様には唸った。

『スウィート17モンスター』

 17歳のネイディーン(ヘイリー・スタインフィルド)は家庭でも学校でも浮いた存在で、不満たらたらな日々を送っている。ある日、無二の親友である幼馴染のクリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)がハンサムで社交的な自分の兄・ダリアン(ブレイク・ジェナー)と付き合うことになり、自分とは全くタイプの違う兄を嫌っていたネイディーンは大ショック。クリスタに絶交宣言をし突飛な行動に出てしまう。監督はケリー・フレモン・クレイグ。
 ネイディーンにはクリスタ以外に友達がおらず、彼女を兄にとられたような気分になってすねてしまう。とは言え、ネイディーンは少々浮いてはいるものの、非常に変人であるとか、キャラクターが強烈であるとかいうわけではない。人並みの常識はあるし、やろうと思えば無難に振舞うことは出来る。むしろこのくらいの浮き方は、「普通」の範疇だろう。彼女が担任教師のブルーナー(ウッディ・ハレルソン)曰く「嫌われっ子」なのは、ひとえに普段の彼女の態度がちょっと感じ悪いからだろう。ブルーナーの言葉尻を捕えていちいち指摘し、「いちいち人のあげ足取って楽しいか?」と皮肉交じりで尋ねられるのだが、一考した後「うん」と答えるような子なのだ。
 この、浮いているけど「普通」の範疇で、感じ悪さも突き抜けたものではなく「普通」の範疇、というところが却ってシビアだ。こんなの自分でどうにかしないとどうにもならない!突出した個性がないということは、自分にとってこれだという強固な世界もない、よって逃げ場もないということだ。例えばすごく読書好きであるとか芸術のセンスがあるといった特徴があれば、そこが辛いときの拠り所になるのだが、ネイディーンにはそこまで思い入れのあるものはない。はぐれ者にすらなれない辛さというのもあるんだよなとしみじみとした。ネイディーンは相手とシチュエーションによっては感じよく振舞えるので、単に不器用、かつ人間関係の手間暇を面倒くさがっているんだろうけど・・・。このあたりが気遣いの人であるダリアンとの差異であり、彼女のコンプレックスを増大させている原因でもある。
 ネイディーンのちょっと面倒な青春物語であると同時に、彼女の家族の物語としての側面もある。私はむしろ、家族映画としてとても面白いし、細部に配慮がされていると思った。実は彼女の父親は数年前に死亡しており、その死がいまだに家族に影を落としている。ネイディーンの中では、自分は父親のお気に入り(兄は母親のお気に入り)であり、父親はウマの合わない母親との仲介役でもあった。父親が突然いなくなったことで、家族内が母親&兄 VS ネイディーンになってしまったという思いがある。母親も兄も父親がいなくなって大変ではあるのだが、自分のことでいっぱいいっぱいな彼女にはまだそこが見えていない。
 特に、母親が息子に依存気味でダリアンがいないと家庭崩壊しそうな気配が垣間見えてくるので、ネイディーンの動向よりもむしろ母と兄とのやりとりにハラハラしてしまった。ダリアンはルックス良好、成績も運動神経も良好で一見人生勝ち組だし実際ネイディーンに勝ち組宣言するのだが、ちゃんとした「出来のいい息子」だからこそ、母も妹も見捨てられず逃げ場がない。勝ち組以外の道がそもそも許されないのだ。ネイディーンは周囲に当たり散らす(このあたりは母親も似ている)ことができるが、彼はそれもできない。20歳になるかならないかくらいの若者にとっては荷重が重すぎ相当しんどいのではないかと思う。
 とは言え、なんだかんだ言ってもネイディーンが最終的に自分でなんとかしようとするところには希望がある。彼女に好意を示す同級生のアーウィン(ヘイデン・ゼトー)もブルーナーもバランスの取れた、返しの軽妙な人物なので、彼女が暴投しても荒れないところも良かった。ネイディーン(と母親)以外の人が人間出来すぎな気もするが、周囲の出来がいいから彼女がコンプレックス拗らせたって側面もあるのか・・・。


『人生タクシー』

 政府から映画監督としての活動を禁じられたジャファル・パナヒは、テヘランの町でタクシー運転手をしていた。ダッシュボードに設置されたカメラには、教師や海賊版ソフト業者、交通事故に遭った夫婦、そして監督の姪ら、様々な人たちを映し出す。監督・脚本はジャファル・パナヒ。
 『これは映画ではない』の延長線上にあるような、フェイクドキュメンタリー風の作品だが、今回は舞台が移動しつつ話が進むので『これは~』のような閉塞感はない。人の出入りが頻繁で案外風通しがいいのだ。タクシーの乗客たちは皆好き勝手によく喋るのだが、パナヒ監督の境遇を知っている乗客は「あっこれも映画にするんでしょ?!」とあれこれ聞いてきたりもする。
 また、学校の課題でドキュメンタリー映画を撮っているのだという姪が、イラン国内で上映できない映画の条件を読み上げると、パナヒが「読まなくていいよ」と朗読をやめさせる。確かに、もう耳にタコができるくらい言われただろうしな・・・。姪は、なぜそういう条件が定められているのかは考えていないようで、「上映できないシーンは入れなければいい」「上映出来ない部分があるなら、変えればいい」と言う。それが映画=フィクションということなのだと言わんばかりだ。彼女は、自分が撮影していたゴミ拾いの少年が、映画として少々都合の悪いことをすると、彼にやり直しをさせる。その時点で「ドキュメンタリー」って何だ?という疑問が沸いてくるが、映画の演出と言えばそうも言えるし、何より彼女らの国で上映できる映画にする為には、そのシーンを「訂正」しなければならないのだ。しかし、「訂正」したら零れ落ちてしまうものもある。
 映画ってどんなものなんだろう、とふと考えてしまうシチュエーションがいくつも重ねられており、やはりこれは映画についての映画でもあるんだろう。「映画」と「記録」の線引きは出来るものなのか、トライし続けているように見える。パナヒが今現在映画制作を禁止されていることを忘れそうになるが、彼が急にそわそわし出し、車を出て行った理由がわかると、さっと体温が下がる。そういう世界があって、そういう世界で映画を作り続けるというのは、こういうことなんだと。

『サラエヴォの銃声』

 2014年6月28日、第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件から100周年の記念式典を控えたサラエヴォ。式典が行われるホテル・ヨーロッパでは、ホテル支配人やフロントマネージャーが準備に余念がない。同時に、従業員の間では賃金未払いに対するストライキが計画されていた。演説の練習をするVIPや、サラエヴォ事件について対談企画を収録中のTVスタッフとジャーナリスト等、様々な人々が行きかう群像劇。監督はダニス・タノヴィッチ。
 舞台をホテル内に限定した群像劇なのだが、屋上からの街の景色が挿入されるからか、意外と閉塞感はない。職業上のポジションとしても、経済格差としても、民族的な背景としても、様々な人たちが交錯していくが、それぞれの物語、物理的な動線のさばき方の手際がいい。もっとコンパクトにできたんじゃないかなと(本作も90分程度なので相当コンパクトではある)思うくらい。こんなにスピーディかつ整理された映画を撮る監督だったのか!と驚いた。先日見た『汚れたミルク あるセールスマンの告発』は語りの方法のユニークさに目がいったが、手際がいいという印象ではなかったので。物語の内容によって見せ方をどんどん変えてくるタイプなのか。そういえば、一貫した作風というものはあまり強くない作家性ではあると思う。
 登場する人たちはホテルの中を行ったり来たりするが、それぞれが何かしらの問題を抱えており、その多くは自分では如何ともし難い。その問題故に、対立する人たちもいる。そして対立の焦点となっている問題は、そうそう解決しそうにないし双方が妥協する接点も見えてこない。ホテル支配人と従業員の意見は平行線をたどるだろうし、TVキャスターとジャーナリストも、お互いに許せない部分がある。危ういバランスで全てが推移していくのだ。
 こういった、お互いに相入れない部分を孕みつつも、様々な集団が同じ場で何とか生活している、というのが現在のこの地域ということなのだろう。サラエボ事件以降(いやそれ以前からか)、ずっとバランスがぐらつきつつ(時に大きく乱れるが)なんとかかんとやっている、という感じなのだ。ホテルの中の人の行き来は、外の世界の影絵のようでもある。

『ジャッキー ファーストレディ最後の使命』

 1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ大統領はダラスでのパレードの最中銃撃され死亡。ジョンソンが新大統領に就任し、ホワイトハウス内が急速に次期政権に移行する中、ケネディの妻ジャッキー(ナタリー・ポートマン)は夫の名前を後世に残すべく葬儀に全てを賭ける。監督はパブロ・ラライ。プロデューサーはポートマンと『ブラック・スワン』で組んだダーレン・アロノフスキー。
 プロデューサーとは言え、アロノフスキーの味わいが強く出ているように思う。『ブラック・スワン』と同様、ポートマンが演じるのは自分自身(ジャッキーの場合は夫の付属品としての自分)を虚構として完璧に作り上げようとする女性だ。本作は、記者がジャッキーの元に取材に来て、取材の中でジャッキーが事件を振り返り語るという構成になっている。ジャッキーは記者に度々、ここは書かないで、こう書いて、と指示を出す。彼女が語るのは国民が知るべき真実であって、事実ではないと言える。ケネディは政治上の大きな功績は残していないというのが、 ジャッキーも認める政界の共通認識だった。それを越えて人々の記憶に残る歴史になるには、一種の伝説、神話を作り上げるしかない。ジャッキーが参考にするのがリンカーンの葬儀だというのには、彼女の並々ならぬ本気度が窺える。彼女はメディアの力も良く理解しており、映像として強力な記憶を作る事がケネディを、ひいては自分や子供達を守ることになると考える。先見の明があるのだ。
 しかし夫と共にアメリカの神話になるということは、生身の自分を葬るということにもなりかねない。本作には死の影が常にまとわりつく。冒頭から重低音の不協和音が響いて不穏この上ないのだが、これはケネディが暗殺されるということと同時に、ジャッキーが既に死者、死んで「神話」になったものとして振舞うからであるからのようにも思った。
 ポートマンの演技に凄みがあり、ジャッキーという人間を様々な面から見せる。ホワイトハウス紹介番組出演時のいかにも「ファーストレディ」的な振舞や、夫の暗殺でショックを受け憔悴する姿、葬儀の手筈を整える行動力、そして記者と対峙する強かさ等、これまでのジャッキーのオフィシャルイメージとは一線を画しているように思う。アカデミー賞主演女優賞はポートマンの方がふさわしかったのではないか。

『しゃぼん玉』

 女性や老人ばかりを狙ってひったくりや強盗を繰り返してきた青年・伊豆見(林遣都)は、とうとう人を刺してしまう。逃亡の末に、宮崎県の椎葉村(しいばそん)に辿りついたところ、交通事故で怪我をし動けなくなっている老女スマ(市原悦子)を助ける羽目になる。なりゆきで彼女の家に寝泊まりすることになった伊豆見は金を盗んで逃げる気だったが、スマは彼を「ぼん」と呼び深く詮索することはなかった。原作は乃南アサの同名小説。監督・脚本は東伸児。
 ロケ地である椎葉村の風景や祭りの情景、地元の伝統料理(というよりもおばあちゃんたちが日常的に食べているお惣菜。大変おいしそう)等を織り込んだ、いわゆるご当地映画的な側面も強い。とは言え、原作の力もあるのだろうが、ドラマとしてなかなかよかった。ご当地要素が上手くドラマの装置として組み込まれているように思う。お祭りの時期だけどっと観光客が来るが、基本的に過疎地かつ高齢者ばかりなので祭りの準備の人出が足りない、だからよそ者の伊豆見でも、さしあたって労働力としてありがたがられ、素性についてさほど突っ込まれないという理由づけが出来るのだ(具体的にそう説明されるわけではないが、見ている側にとってまあまあ納得がいく)。
 伊豆見は親のケアをろくに受けられないまま大人になってしまった人間だ。彼の言動、所作からは、親はもちろん、身近に一緒に生活してあれこれ教えてくれる人がいなかった様子が窺える。スマからも注意される箸の持ち方だけでなく、食事の作法や水道の使い方、煙草の吸い方も、いわゆるマナーが悪いものだ。伊豆見がだらしないというよりも、だらしないと指摘する人がいなくてやり方がわからないんだろうなという面持。誰かとずっと一緒に生活するという経験に乏しい人なんだろうなとわかってくるのだ。
 スマとの生活で、伊豆見はもう一度育ち直すことになる。ではスマは理想の親・祖母・保護者なのかというと、そういうわけではない。彼女は彼女で、実子との関係は破綻している。2人とも家族関係には失敗(伊豆見は彼が失敗したわけではなく不運なわけだが)しており、失敗した人同士がお互いに育て合いやり直すという構図なのだ。スマの、実の息子に対する言葉は悔恨に満ちているが同時に恐ろしくもあり、うすら寒くなる。親のエゴ、息子が故郷に戻らなかった一因(概ね彼本人の失敗のせいではあるが)を垣間見た気もするのだ。この凄みは市原が演じたからこそで、他の俳優だったら単に気の毒な母親に見えてしまったかもしれない。市原が主演していることで、確実に映画の格が上がっている。


『SING/シング』

 コアラのバスター・ムーン(マシュー・マコノヒー/内村光良)が支配人として運営する劇場は、赤字続きで危機に陥っていた。バスターは劇場をよみがえらせようと、街の人たちに歌唱コンテストの参加を募る。しかし秘書のミス・クローリー(ガース・ジェニングス/田中真弓)が賞金の桁数を間違えて広告を作ったせいで、高額賞金目当ての応募者が殺到する。監督はガース・ジェニングス。
 手際よくコンパクトに纏めた、ちょうどいい感じのエンターテイメント。老若男女で楽しめそうなところがいい。私は2D・吹替え版で鑑賞したが、吹替えセリフの翻訳、歌の歌詞の翻訳(こちらは一部苦戦しているなーという印象はあったが)はかなり頑張っていると思う。楽曲は翻訳許可が出たものと出なかったものがあるようで、日本語版と英語版が混じっているのだが、それほど気にならない。なお、演技は素人なMISIA(ミーナ役)と大橋卓弥(ジョニー役)が意外と好演で意表を突かれた(つたないが気になるほどではない)。2人とももちろんプロの歌手なので、セリフのぎこちなさと歌の流暢さ・エモーショナルさがちょうどいい対比になっているのだ。ミーナは極端に内気であがり症なのでそもそも喋りが得意でないキャラクターだし、ジョニーもギャングの父親からのプレッシャーで萎縮気味なので、キャラクターと演技のつたなさとのマッチングが良かったのかもしれない。
 信じれば夢は叶う、という言葉は出てくる(そしてバスターが自分の境遇を顧みてがっくりしたりする)が、そんなに大上段に構えた姿勢ではなく、歌が好き、だから歌うんだというシンプルさに貫かれているところが良かった。本作に登場するキャラクターたちは当然歌の才能があるわけだが、仮に才能がそれほどではなかったとしても、好きなことを好きなままでいていいんだという肯定感の方が強い。ミーナにバスターが「歌えばいいんだ」と励ますシーンにはぐっとくる。、また出場者の中でも、ロジーナ(リース・ウィザースプーン/坂本真綾)などはスターになりたいわけではなく、自分が好きなことを思いっきりやってみたい、その「好き」を家族にもわかってほしいという気持ちなんだろうし。
 このキャラクターはこういう性格で、こういうバックグラウンドがあって、といちいち説明せずに、物語の流れの中で提示していく序盤の手際がいい。また、ステージで歌われる以外の、サウンドトラックとしての楽曲の選び方が上手いなと思った。このキャラクターは今こういう気分だよ、こういうシチュエーションなんだよといういい補足になっている。特に「True Colors」には、なるほどここでか!と。

『スペース金融道』

宮内悠介著
人類が最初に移住・開拓に成功した太陽系外の星、通称、二番街。新生金融の二番街支社に勤務する“ぼく”は、上司ユーセフと共に債権回収に励んでいる。顧客の多くは大手があまり相手にしないアンドロイド。アンドロイドだろうがコンピュータウイルスだろうがバクテリアだろうが返済能力がある奴には貸す、そして核融合炉内だろうと零下190度の惑星だろうと地獄の底だろうと追いかけて取り立てるというのが会社のモットーだ。要領のいいユーセフとは違い、ぼくは貧乏くじばかりをひいていく。
取り立て屋コンビが活躍する連絡短篇集。先日読んだ著者の『彼女がエスパーだったころ』はしっとりとした中にミステリ的なトリックを織り込んでいたが、本作は著者初といっていいくらいの軽いノリ、かつガチなSF。アンドロイドが人間と同じように生活する、しかし人間と対等とは言い難い世界が舞台で、ロボット三原則ならぬアンドロイド三原則も登場する。債務者はアンドロイドだけではなく、それどうやって取り立てるんだよ!そもそも何に金使ったんだよ!という存在ばかり。どういう存在の仕方なら金を貸せる=取り立てられるのか、という問いが、何を持って独立した人格を持つ存在と言えるのか、という問いに繋がっていく。終盤、小説としてはこれは禁じ手なのでは?という演出もあるのだが、アンドロイドがこの先どう進化していくのか、不穏さと期待を感じさせる。

『シンクロナイザー』

 大学勤務の研究者・長谷川(万田祐介)は人間と動物の脳派を同期させる実験を無許可で続けていた。同僚の木下(宮本なつ)の手を借りて研究を続けるうち、この実験が脳機能障害の改善につながる可能性に気付く。長谷川は認知症の母・春子(美谷和枝)の治療になるのではと、倫理を踏み越えて人体実験に踏み切る。監督は万田邦敏。立教大学心理学部の映像生態学プロジェクトの一環として製作された。
 入口と出口が違うような不思議な作品だった。一見、SFサンペンスぽいのに、どんどん土着的なホラーっぽい世界へ進んでいく。春子の存在、母と息子との関係に物語全体が引っ張られていくようだった。長谷川の二男としてのコンプレックスと、痴呆が始まってからは自分のことは忘れてしまい、長男の名前ばかり呼ぶ母親への執着は一応提示されているので不自然というほどではないのだが、物語のモチーフとしての母息子関係の強力さに、少々たじろんだ。最初は、他者(人間であれ動物であれ)とリンクすることへの違和感、恐怖が描かれていたように思うのだが、親子間だと何かしら同質なものが含まれる。含まれていないとしてもそのように見てしまう。そこに近親相姦的なタブー感が重なり、どんどんそちらの方向に引っ張っていかれてしまった気がした。素材の引力の抗いがたさみたいなものがあるのかなと(キャッチーというより、そこに据えておくと恰好がつくというか)思う。
 長谷川と二人三脚状態だった木下の存在が、徐々に長谷川を引き留められなくなり、彼はどんどん母親との「実験」にのめり込んでいくというのも、長谷川の研究者としての業というよりは、母に対する執着、また母の子に対する執着のように見えてくる。終盤の展開は欲望がだだ漏れになってくるようでちょっとぞっとする。
ただ、こうなってしまうと、脳派の同調設定って必要だったか・・・?という気になってくる(特にオチの部分)のだが。最初からホラーだよと言われていればそんなに違和感感じなかったのかもしれないけど。

『ショコラ 君がいて、僕がいる』

 1897年のフランス北部。小さなサーカスで職探しをしていたベテラン道化師のジョルジュ・フティット(ジェームス・ティエレ)は黒人芸人ラファエル・パディーヤ(オマール・シー)と出会い、彼と名付けコンビを組むことを思いつく。ショコラと名乗るようになったラファエルとフティットは一躍人気芸人となり、パリの劇場と専属契約を結ぶ。スターとして名声を手に入れた2人だが、ショコラはギャンブルにおぼれていく。監督はロシュディ・ゼム。
 ちょっとストーリー展開の起伏がゆるくてだらだらしているかなぁ・・・。淡々としていると言えば聞こえはいいのだが。もっとも、そんなにエモーショナルに盛り上げる類の話ではないというのも確かだ。なんとなく、白人と黒人の感動バディもの的な雰囲気を漂わせた宣伝だったが、実際の所はバディになりきれなかった哀しみの方が濃くにじむ。
 フティットとショコラの芸は、今見ると明らかに人種差別意識があるものだし、当時はそれが普通だった。フティットはショコラとコンビを組もうと思うくらいなので黒人に対する嫌悪感はないが、真に同等だとは思っていなかったのではないか。そもそも差別意識にも無自覚だったろう。作中でも描写はあるが、愚か者役がフティットで、黒人が白人の尻を蹴る芸であっても、芸として完成されていれば笑いは起きる。ただ、役割の入れ替わりという発想がフティットにはなかった。彼はショコラを一人前の芸人にしようとしてはいるのだが、その前提として2人は対等であるという認識がいまひとつなく、だからショコラに彼の熱意は伝わらなかったのかもしれない。
 一方、ショコラはスターとして振舞うようになるが、彼に求められるのは依然として「白人に尻を蹴られる黒人」役で、フティットと対等な芸人だからでもアーティストだからでもない。これはショコラの技能・才能とは関係ないことだ。白人と同等のアーティストとして振舞えば、彼に才能があろうがあるまいがブーイングを受ける。ショコラはこの理不尽に打ちのめされていく。彼に出来ることやりたいことと、世間が彼に許すことがどんどんずれていってしまうのだ。万国博覧会の(悪名高い)「野蛮人」展示をまのあたりにする様は痛ましい。黒人としてのアイデンティティも、芸人としての自覚も中途半端なまま、どんどん崩れていくのだ。
 とは言え、苦しむのはショコラだけではなく、フティットにはフティットの苦しさがある。あるシーンで彼はゲイであることが示唆されるが、彼はそれをオープンにすることはできないし、公的にパートナーを持つことも出来ない。彼はおそらくショコラを愛しているが、相手が同性である、黒人であるという二重のタブーとなってしまう。生まれる時代を選ぶことは出来ないが、生まれた時代による運不運というのを痛感せずにはいられない。

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