3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名さ行

『サンドラの小さな家』

 夫のDVに耐えかね、2人の娘を連れて逃げ出したサンドラ(クレア・ダン)。福祉の支援を受けホテルで仮住まいをしているが、公営住宅への入居は長井順番待ち、民間のアパートは家賃が高すぎで、入居の見込みは立たないままだった。サンドラはインターネットでセルフビルドの設計図を見て、自分で小さい家を建てられないかと思いつく。監督はフィリダ・ロイド。主演のダンが原案と脚本(マルコム・キャンベルと共作)を兼ねている。
 サンドラがDVのフラッシュバックを起こすシーンが度々あるのだが、これが真に迫ってきて結構つらかった。心身ともに虐げられていると、自分で恐怖やパニックをコントロールできなくなってくる。また、サンドラは自分が受けた被害や怪我の痛みについて、周囲に相談できない。相談できそうな相手もいないし、言語化すること自体が難しい、知られたくないという事情もあるだろう。夫婦間の問題については、「もっとよく話し合えば」とか「反省しているし許してあげれば」みたいな的外れな言葉も往々にしてあるだろうし、動揺している姿を見せると子供に対する責任能力を問われるという側面もあるだろう。DV問題の相談のしにくさが垣間見えた。
 また、サンドラは(主に調停の場で)「DV被害について皆にわかるように話せ」「平静に話せ」ということを度々要求されるのだが、これはDV被害者にとってすごく難しい、酷なことだというのがよくわかる見せ方になっている。言語化できるようになるまでは時間がかかるのだ。そして、恐怖で考える力を奪いコントロールしたいという支配欲が、DV加害者の動機だということもよくわかるのだ。終盤のあんまりにもあんまりな展開も、相手を打ちのめしたい、希望を奪い無力化したいという欲望があるのだと端的に示すものだ。
 サンドラが助けを求める相手が、さほど濃い付き合いではない人たちだという所が面白い。アドバイスを求める建設業者のエイドはホームセンターでたまたま会った人だし、娘の同級生の母親ともさほど話したことはない。元々サンドラの母親の雇い主だった清掃仕事先の雇い主も、サンドラ本人とはすごく親しいというわけではない。皆、薄目の好意と親切心で繋がっていくのだ。そういうものが最終的なセイフティネットになるのだとすると、助けを乞う側の人間力が問われすぎなのではと、少々暗澹たる気持ちになった。私にはできそうもない…。

サンドラの週末(字幕版)
カトリーヌ・サレ
2015-11-27


自分でわが家を作る本。
氏家 誠悟
山と溪谷社
2008-11-10


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

 ミサト(三石琴乃)率いる反ネルフ組織ヴィレは、パリ市街地であるミッションを開始していた。コア化で赤く染まったパリを復元し、エヴァ修復に必要なパーツをかつてのネルフ支部から回収するのだ。復元オペの作業時間はわずか720秒。その時間を確保するため、マリ(坂本真綾)の改8号機がネルフのEVA大群を迎え撃つ。一方、シンジ(緒方恵美)、アスカ(宮村優子)、(仮)アヤナミレイ(林原めぐみ)は日本のどこかをさまよっていた。脚本・総監督は庵野秀明。
 3時間近い長尺なのだが、あー終わった!お疲れ!解散!これで本当に終了、もう続きはないだろう。本作を見てから先日放送されたNHKのドキュメンタリー『プロフェッショナル仕事の流儀』庵野監督回を見たのだが、本当にお疲れ様ですねとしか言えない。監督もスタッフも何年にもわたって心身削ってここまで来たんだなとしみじみた。シリーズに強い思い入れがある人はまた違った感慨や不満があるのかもしれないが、さほどコアなファンではなく一応リアルタイムで並走してきたという程度の視聴者(私にとってのエヴァはやはりTVの延長線なので)にとっては、まあこの終わり方でいいかなと思う。
 ただ、エヴァはもう新しいコンテンツではなくなったんだなということも強く感じた。TVシリーズ放送が1995年~1996年だから最先端でいろというのが無理な話ではあるのだが、ここ20年近く「エヴァ以降」のものを見続けてしまったので、もう本家で何やってもそれを越えた新しさというのは感じないんだろうなと。『プロフェッショナル仕事の流儀』の中で庵野監督は、自分の頭の中にあるものだけでは新しいものは出てこない、自分の外側のものが必要なのだと言う。スタッフを追い込むのも何か予想外のものが出てくることを期待してのことだ。しかし完成したものにそんなに新しさは感じられない(これは私が映像表現の「新しさ」に疎いという面もあるが)、また逆に庵野監督のパーソナルな部分の反映が色濃いのではと思えてしまうというのは皮肉だ。やはり20年前に終わらせておく(本作のようなラストにたどり着いておく)べき作品だったと思う。もっと早くにエヴァの幕引きができていれば、庵野監督によるアニメーション作品をもっと見られたかもなぁという、アニメファンとしての惜しさもある。
 また本作、地に足をつけて現実を生きろ、成熟しとというメッセージ(多分)はこれまでの劇場版と変わらないのだが、生き方・成熟のモデルがかなりコンサバなのではという印象受けた。それを今更やられてもなぁ…先人が散々やった後では拍子抜けだ。とは言え庵野監督も還暦と思うと、年齢的な限界なんだろうかとも。














 

『ザ・ライダー』

 カウボーイのブレイディ(ブレイディ・ジャンドロー)はロデオ中に頭に大怪我を負う。復帰を願うが後遺症が残り、引退を考えざるを得なくなる。監督はクロエ・ジャオ。出演者はモデルとなった実在の人物本人たちだそうだ。
 アメリカ中西部のサウスダコタ州が舞台なのだが、だだっ広く荒涼とした風景が素晴らしい。ロデオ自体の魅力はさっぱりわからないのだが、こういう土地を馬で走ることの解放感は伝わってくるし、ブレイディがロデオ込みでこの土地を離れられないのもわかる。
 ただ、ブレイディがこの土地を離れられないのはロデオへの拘りだけではなく、ロデオ中の事故で障害を負った仲間のケアや、軽い知的障害があるらしい妹の保護者として振舞わなくてはならないという事情もある。ブレイディ自身だけのことを考えると、いっそ地元も家族も捨てて一人で出ていけたら楽なのかもしれないが、そうはできない真面目さがある。カウボーイやロデオというと荒っぽいマッチョな世界、アウトローの世界を連想するが、ブレイディやロデオ仲間たちからは意外にマチズモは感じられない。ボーイズクラブ的な連帯はあるが、それほど悪ノリみたいな振る舞いは見られない。事故に遭った仲間の為に皆で祈るシーンが印象に残った。
 カウボーイにしろロデオにしろ、それのみでは職業として食っていけない時代だろう。実際、ブレイディは(事故後でロデオはできないという事情もあるが)生活費の為にスーパーで働いている。しかしブレイディにとっては馬と接している時、ロデオをしている時こそが生きている・働いていると実感できるものであり、彼にとっての生はそこにある。その生き方は現代の資本主義的な価値観からすると時代から取り残されたものだろう。ただ、ブレイディは自分にとってベストな生き方は何なのか、何をやりたいのか掴んでおり、諦念は漂うが全く諦めているわけではない。自分の生のあり方を知っている人は、幸せかどうかは別として強い。本作が苦いがよどんでいないのは、そのあたりに要因があるのでは。

ザ・ライダー (字幕版)
リリー・ジャンドロー
2018-11-07


すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)
コーマック マッカーシー
早川書房
2001-05-01


 

『ステージ・マザー』

 テキサスの田舎町に住む主婦メイベリン(ジャッキー・ウィーバー)の元に、長年絶縁状態だった息子リッキーの訃報が届く。葬儀の為にサンフランシスコに向かったメイベリンだが、教会で待ち受けていたのはドラァグクイーンたちのパフォーマンス。リッキーはパートナーのネイサン(エイドリアン・グレニアー)と共にゲイバーを経営し、ドラァグクイーンとしてショーに出ていたのだ。息子を受け入れてこなかったメイベリンをネイサンは拒否するが、経営破綻寸前のバーを立て直すため、メイベリンは奮闘する。監督はトム・フィッツジェラルド。
 メイベリンが暮らすテキサスの町は非常に保守的、かつ彼女はバプテスト派の教会で合唱団の指揮をしているくらいなので、その文化の中にどっぷりとつかっている。そんな彼女と夫は息子のセクシャリティを受け入れられず、リッキーは居場所がなくて去っていった。ただ、メイベリンはリッキー本人のことを受け入れられなかったというよりも、彼を忌避する夫や世間の目を恐れていた、そして息子と衝突することを恐れていたのだということが垣間見えてくる。「弱さ」を巡るメイベリンと夫とのやりとり、男性の暴力に相対した時のメイベリンの振る舞いは、それまで彼女が押し殺していたものが表面化したもののように思えた。保守的な地域で女性として生きるというのはこういうことなのだろうと。彼女は夫と不仲というわけでも地域で浮いていたわけでもないのだろうが、それでも元々、何かしらはみ出る所がある人だったのではと。
 メイベリンはリッキーに対して十分に母親でいられなかった。バーのキャスト達を親身になってケアするのはその償いとも言える。リッキーは既に死んでおり、彼にしてあげられることはもうないが、メイベリンは彼の思い出と対峙できるようになる。息子の死がきっかけで自由になっていくというのは少し悲しいが、何歳になっても変わっていける可能性があるというのは清々しい。それだけ歌えるならなぜリップシンクにしてたの?とか作中の時間経過がよくわからないというわきの甘さはあるのだ、人が少し自由になっていく話はやはり気分がいい。

マイ・マザー [DVD]
グザヴィエ・ドラン
TCエンタテインメント
2014-06-04


パークランド ケネディ暗殺,真実の4日間 [Blu-ray]
ポール・アジマッティ
ポニーキャニオン
2014-11-19



『すばらしき世界』

 殺人の罪で13年間服役した三上(役所広司)は、身元引受人の庄司弁護士(橋爪功)の力を借りながら経済的に自立しようとしていた。ある日、TVの若手ディレクター津乃田(仲野太賀)とやり手ディレクターの吉澤(長澤まさみ)が近づいてい来る。三上が再起を目指す姿をドキュメンタリーにしたいというのだ。原作は佐木隆三の小説『身分帳』。監督・脚本は西川美和。
 面白いのだが、私にとってはどこか捉えどころのない作品だった。これまでの西川監督作品よりも見得を切っている感じで、戯画的な見せ方が目立ったように思う。ラストは舞台演劇の幕引きのような味わいだった。また、三上とアパートの迷惑住人とのやりとりなどかなりコミカルに描かれている。三上の伝統的やくざとしての言動はあまりにアイコン的すぎて、今の世の中では時にギャグのように見えてしまう。三上と世間のずれを使ったコミカルな見せ方が多かったように思う。
 そのずれに目をつけたのが吉野と津乃田ということになるのだろうが、津乃田は世間受けしそうな題材としてだけではなく、個人として三上という人間のことを知ろうとしていく。彼の真っすぐさは(それが常に正解というわけではないだろうが)ストーリー上のほのかな救いになっている。庄司夫妻やスーパーの店長・松本(六角精児)のようにわかりやすく「(やはり常に言動が正解なわけではないが)まあまあいい人」は出てくるのだが、津乃田は彼らよりももう一段人物造形に奥行があるように見える。
 三上が世間に馴染めず苦戦する様について、吉澤は(三上を言いくるめる為ではあるが)社会構造によるものだと言う。失敗も「世間」からのはみだしも許されず空気を読み続けなければならない世の中は、三上のような存在を許容しない。一度はみ出ると再起が難しく、結局またはみ出てしまう。三上の兄弟分の現状を見ると、今の日本でのやくざ稼業は決して割のいいものではないのだが、そこしか行く場所がないからたどり着いてしまうという事情が垣間見える。また、津乃田は三上の暴力性や激しやすさは幼少時の体験によるものではと考える。
 どちらもそれなりに正しいのだろうが、それと同時に、三上の中で修正しようがない性分のようなものも多分にあるのではないかと思わせる、多面的な見せ方だった。三上は自分を「一匹狼」といい生活保護を受けることに非常に抵抗を見せるが、その自負ははたから見ると根拠のない、不確かなものに見える。何かに頼ることは彼のプライドを損なうのだが、その自負と暴力団という組織のバックアップを受けて生活することとは矛盾しないのだろうかと。彼は「一匹狼」と自分を称するのだが、やくざはそもそも集団であって一匹狼ではないよな、等と思ってしまう。三上が生活保護担当職員に「孤立してはだめだ、社会と関わって生きていかないと」と諭されるシーンがあるが、この言葉はある程度的を得ているが皮肉。三上にとっては殺人を犯して服役することが、社会と関わるということだったのではとも思えたのだ。世間が求める関わり方に軌道修正したことで最後の顛末につながってしまったのではと。

永い言い訳
深津絵里
2017-02-16


身分帳 (講談社文庫)
佐木隆三
講談社
2020-07-15



『聖なる犯罪者』

 少年院で熱心なキリスト教徒となった20歳のダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は、前科者は聖職者になれないと知りつつも、神父になることを夢見ていた。仮釈放となり、田舎の製材所で働くことになったダニエルは、立ち寄った教会で新任の司教と勘違いされ、緊急入院した司祭の代理をすることになってしまう。村人たちは聖職者らしからぬダニエルに戸惑うが、徐々に彼の言葉に動かされ、信頼するようになる。監督はヤン・コマサ。
 元犯罪者が司祭になりすましたという実際の事件を元にしているそうだ。そもそも前科者は聖職者になれないという規定は、キリスト教の精神にのっとっているのか微妙なようにも思えるが…。ダニエルは非常に若いし見た目はチンピラだし、振る舞いも年齢相応でいまいち落ち着きがないので、村人は不審の眼で見る。また、信仰に熱心とはいえ説法も祭事も少年院内の礼拝で体験した知識しかないので、スマートフォンでやり方をいちいち検索する(時間が押しているから結構必死)のがおかしいやら心配になるやら。
 いつボロが出るかもわからない状態で、対応しないとならない問題が起きる度に早くとんずらすればいいのに!と思うし、ダニエル自身も最初は逃げようとする。が、その都度思いとどまったり引っ込みがつかなくなったりで、ずるずると居続けてしまう。彼がニセ司祭を辞められないのは自身の夢もあるだろうが、司祭という職業が地域社会内で尊敬されるもの、一目おかれるものだからという側面も大きいだろう。そこに根拠がなくても周囲からの承認や地域内で相応のポジションがあるというのは、おそらく居場所がなかった彼にとってはやみつきになる環境だったのでは。長くいればいるほどリスクは増すのにそこにしがみついてしまうダニエルの姿は、愚かしいと同時に切なくもある。
 ダニエルは交通事故の遺族たちを癒そうとあれこれ模索するが、参考にしているのが少年院内で行われるアンガーマネジメントや説教なので、傍から見ていると奇妙だ。これが不思議と遺族の悲しみにはまりはじめる。ダニエルのパフォーマンスの派手さと、この人は私の苦しみをわかってくれる!と思わせてしまう共感が合わさると、その信憑性とか知識教養の裏付けとは別問題として、説得力を持ってしまう。カルトの誕生みたいでちょっと気持ち悪かった。
 一方、ダニエルが交通事故加害者遺族のことも救済しようとし始めると、村人たちは一気に手のひらを反す。加害者遺族に対する被害者遺族の許せなさはわからなくはないが、執拗な村八分は理解し難い。そういうことをしていても、「この村の人たちは善良」「信仰が支え」と言い切ってしまうメンタリティが気持ち悪いのだ。元犯罪者がニセ聖職者に、と言う切り口のストーリーだが、村社会の閉塞感、ごく普通の人達の狭量さの負のインパクトの方が強烈に残る。

ディア・ドクター [DVD]
香川照之
バンダイビジュアル
2010-01-08


冬の光 [DVD]
グンネル・リンドブロム
ハピネット・ピクチャーズ
2001-08-25



『さんかく窓の外側は夜』

 三角康介(志尊淳)は幼いころから霊が見えることに苦しんできた。ある日、冷川理人(岡田将生)に「助手にならないか」と声を掛けられる。冷川は除霊師で、三角と一緒にいるとよりはっきりと「見える」のだという。一緒に働き始めた2人は、冷川と懇意にしている刑事の半澤(滝藤賢一)から、1年前に起きた連続殺人事件の調査を依頼される。遺体の一部がまだ見つかっていないというのだ。原作はヤマシタトモコの同名漫画、監督は森ガキ侑大。
 意外と手堅くまとめており、改変部分はあるが原作のイメージも損なっていないと思う。原作漫画に非常に愛着がある人にとっては微妙な所もあるのかもしれないが、映画単体としては悪くない。省略していいところはさっくり省略したメリハリのある脚本の方向性と、映像の組み立て方とが上手くかみ合って、コンパクトにまとめられていると思う(102分という尺は非常に好感度高かった)。モブ含め出演者の衣装を黒ベースで統一するという視覚的な演出への拘りも見られたが、これはそれほど効果を発揮していなかったように思う。ちょっとファンタジー寄り・フィクショナルな雰囲気を強めたかったのかもしれないが、拘る所そこ?という釈然としない気分になってしまった。一方、霊の見せ方等のVFXはやりすぎない感じに見える所が良い。単にそこにいる、という本作の霊のありかたに合っているように思った。
 冷川は情緒に乏しく心情の機微がわからない人間だが、岡田の「心のない人」演技が上手い。表面上にこにこしており過剰に明晰だが、内面は何を考えているのかわからない、そもそも感情があるのかわからない、という奇妙さが出ていたと思う。前半での冷川の得体の知れなさと、後半で内面の揺らぎが生じる様との微妙な変化を感じさせる演技だったと思う。
 原作では呪いの鍵を握る非浦英莉可(平手友梨奈)がストーリー上閉める割合がもっと高いが、本作では三角のトラウマと冷川の「呪い」を解くという点にストーリーを絞っている。冒頭と終盤でのあるシーンが対比になった構成には、製作側のドヤ顔とやってやった感がにじむが、1本の映画としては正解だろう。この冒頭と終盤の呼応によって、本作はバディームービーとして成立しているのだ。
 ラスト、続編への色気がちらつくし実際そういう予定だったのかもしれないが、現状ではなかなか難しいのではという気がする。公開時期でかなり損しているのが勿体ない。なお、非浦英莉可役の平手友梨奈の芝居している姿を初めて見たのだが、常に教室の隅っこにいそうな個性がユニークで、好演だったと思う。


重力ピエロ
渡部篤郎
2013-11-26





『声優夫婦の甘くない生活』

 1990年、ソ連からイスラエルへ移住したヴィクトル(ウラジミール・フリードマン)とラヤ(マリア・ベルキン)夫婦。映画の吹替え声優としてのキャリアを活かして再就職しようとするが、需要がなく仕事が見つからない。ラヤはヴィクトルには内緒でテレフォンセックスの仕事を始めるが、意外な才能を発揮し贔屓客も着いてくる。一方ヴィクトルは海賊版ビデオ店で映画吹替えの仕事を得るが。監督はエフゲニー・ルーマン。
 監督自身が旧ソ連圏からの移民だったそうで、ヴィクトルとラヤが体験するカルチャーショックやギャップは、実体験によるものなのだろうか。邦題はフェリーニの『甘い生活』(ヴィクトルはフェリーニを敬愛している)のパロディだが、ヴィクトルとラヤの生活は邦題の通り甘くなく、ほろ苦いししょっぱい。若くはない状態で仕事が見つからないという状況は経済的にもプライド面でもかなりきつい。また、自分たちと同じ民族の国だが言葉は通じない、風土も生活環境もちょっと違うという、生活する中でのストレスが少しずつ溜まっていく。同じだけど違う、という微妙さは、傍で思うよりも結構きついものなのだろうなと思わされる。
 更に、夫婦間の溝も深まっていくのだ。ヴィクトルが新しい環境に馴染めないのに対し、ラヤは早々に仕事を見つけ、ヘブライ語の学習もしていく。語学学校での2人の姿勢の違いが対称的だった。ヴィクトルは自分のキャリアを輝かしいものと自負しているが、ラヤは「その他大勢」扱いだったことに不満があり未練がないからかもしれない。こういう夫婦間のギャップは移民ならずとも、定年退職後等にはありそうだなと思った。妻はそれぞれ自由に暮らしたいと思う一方、夫はようやく夫婦2人で過ごせると思っているという。でも2人で過ごし続けるにはそれまでの積み重ねが必須なんだよなと。ヴィクトルはラヤのことを愛してはいるが、独りよがりで彼女が実際何を考えているのかには思いが及ばない。記念写真の撮り方も、彼にとっては記念なんだろうけどラヤにとってはどうなんだろうと。記念写真は2人で撮るものではないのか?

甘い生活 プレミアムHDマスター版 ブルーレイ [Blu-ray]
アヌーク・エーメ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2012-05-25


『ザ・プロム』

 ブロードウェーの「元」スター・ディーディー(メリル・ストリープ)とバリー(ジェームズ・コーデン)は新作が大コケし窮地に立たされていた。原因は2人のイメージがナルシスト、エゴイストで好感度が最悪だからだという。そんな折、インディアナ州の田舎町に住む高校生エマ(ジョー・エレン・ペルマン)がガールフレンドとプロムに出たいと願っているが、PTAに猛反対されたというニュースを知る。ディーディーたちはエマを助けてイメージアップを図ろうと田舎町に向かう。監督はライアン・マーフィー。
 エマの暮らす田舎町では、学校やモールにいる人たちはそこそこ他民族なのだが、ことセクシャリティに関してはものすごく保守的。カミングアウトしたエマは両親に家から追い出され、校内の味方は校長(キーガン=マイケル・キー)のみ。ガールフレンドのアリッサ(アリアナ・デボース)も生徒会長という立場上、2人の関係を秘密にしており表立ってかばうことができない。今時「同性同士のカップルはプロム禁止」なんて言ったら大炎上しそうなのに大丈夫?!と逆に心配になるPTAの硬直ぶりだ。そんな超保守的な土地にゲイのアイコン的なディーディーや「100%ゲイ」だというバリーが乗り込んでくるので、文化間のギャップが激しい。そのギャップを埋めていく、というより田舎の偏見を打開していく話だ。自身も自分のセクシャリティー故に田舎を飛び出してきたバリーのエマに対する思いやりや、彼のプロムへの思いが昇華される過程にはぐっときた。またちょっとマヌケなキャラだったトレント(アンドリュー・ラネルズ)が地元の価値観(やはりキリスト教強し…)を逆手にとって高校生たちの視野を開いていく様も意外性がある、かつやはり若い方が頭柔らかいよね、と思わせるいいナンバーだった。
 ただ、ゲイのカップルがプロムへ向かうという現代的なストーリー。だが、その現代性とプロムというイベントがアンマッチな気がした。プロムに行かなくては、という部分は旧来の価値観に乗っかっているのだ。そんな排他的なイベントなんて粉砕するぜ!という方向にはいかない。元々あるものを色々な人が享受できるように随時ブラッシュアップしていく、という姿勢は社会の構成員としては正しいのだろうが、個人的にはつまらないと思う。そこから脱出しちゃうという選択肢はないのかなと。『ブックスマート』見た時も同じことを思った。ベースの価値観はあんまり変わらないんだなと。プロムは異性にしろ同性にしろカップル文化の産物なので、その点は非常に保守的だと思うんだけど…。一人でいるという選択肢はないんだよなと。

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2021-02-26


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ジョン・トラボルタ
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2015-12-18




『シカゴ7裁判』

 配信で鑑賞。1968年、鹿安護で開かれた民主党全国大会の会場近くの公園に、ベトナム戦争に反対する大勢の市民・学生らが集まった。警察との間で激しい衝突が起き、デモの首謀者としてアビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)、トム・ヘイデン(エディ・レッドメイン)ら7人が起訴される。監督はアーロン・ソーキン。
 ソーキンは実際の事件を元にした作品を得意としているが、本作は陪審員の買収・盗聴が相次ぎ悪名を残すことになった「シカゴ7裁判」をドラマ化したもの。勝ち目の薄い裁判で正義を問うというハードな題材だが、導入部分が結構ポップでテンポがいい。登場人物の氏名テロップが表示され、どの組織のどういう立場の人か初登場時にぱっと見せていくという親切設計だが、説明過剰ではなくさらっと処理していく。全体的に手さばきがいい、構成が整理された作品だ。公園で実際に誰が何をやってどういうことが起きたのか、という部分は終盤まで映像としては見せられず、関係者の証言から部分的に語られるのみだ。それが集約されて終盤で全体像が見えてくる。そこでつい失言したかに思えたヘイデンの言葉を、彼とはそりが合わず反発していたホフマンが正しく文脈を理解し読み解く。ライバルと書いて友と読む的な、少年漫画的シチュエーションも熱い。ストーリーの山の作り方が上手いのだ。
 陪審員の構成を操作し、検察側の証言者は警官ばかりで客観的な証言とは言い難く、被告側の証人の証言は様々な理由をつけて却下され、そもそも判事が最初から実刑ありきで裁判に臨んでいるという、被告側にとっては非常に不利な裁判。法律はどういう立場の人にも等しく働くように作られているものだが、司法側にその気がなければ法の公正さは失われてしまう。力を持つものが自分の都合のいいように司法をコントロールしようとすると、司法のそもそもの土台が崩れてしまうという話で、今(というか2020年)のアメリカでこの話を映画化しなければ!という意志を感じた。「世界が見ている」という言葉が何度も出てくる。私たちが見ている、だから不正はするなということだろう。デモにはそもそもそういう(お前たちを見ているぞ、異議があるぞと知らせる)ものだと思うが、映画もまたそういうことができるのだと。 


モリーズ・ゲーム(字幕版)
マイケル・セラ
2018-10-17


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