3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名さ行

『サラエヴォの銃声』

 2014年6月28日、第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件から100周年の記念式典を控えたサラエヴォ。式典が行われるホテル・ヨーロッパでは、ホテル支配人やフロントマネージャーが準備に余念がない。同時に、従業員の間では賃金未払いに対するストライキが計画されていた。演説の練習をするVIPや、サラエヴォ事件について対談企画を収録中のTVスタッフとジャーナリスト等、様々な人々が行きかう群像劇。監督はダニス・タノヴィッチ。
 舞台をホテル内に限定した群像劇なのだが、屋上からの街の景色が挿入されるからか、意外と閉塞感はない。職業上のポジションとしても、経済格差としても、民族的な背景としても、様々な人たちが交錯していくが、それぞれの物語、物理的な動線のさばき方の手際がいい。もっとコンパクトにできたんじゃないかなと(本作も90分程度なので相当コンパクトではある)思うくらい。こんなにスピーディかつ整理された映画を撮る監督だったのか!と驚いた。先日見た『汚れたミルク あるセールスマンの告発』は語りの方法のユニークさに目がいったが、手際がいいという印象ではなかったので。物語の内容によって見せ方をどんどん変えてくるタイプなのか。そういえば、一貫した作風というものはあまり強くない作家性ではあると思う。
 登場する人たちはホテルの中を行ったり来たりするが、それぞれが何かしらの問題を抱えており、その多くは自分では如何ともし難い。その問題故に、対立する人たちもいる。そして対立の焦点となっている問題は、そうそう解決しそうにないし双方が妥協する接点も見えてこない。ホテル支配人と従業員の意見は平行線をたどるだろうし、TVキャスターとジャーナリストも、お互いに許せない部分がある。危ういバランスで全てが推移していくのだ。
 こういった、お互いに相入れない部分を孕みつつも、様々な集団が同じ場で何とか生活している、というのが現在のこの地域ということなのだろう。サラエボ事件以降(いやそれ以前からか)、ずっとバランスがぐらつきつつ(時に大きく乱れるが)なんとかかんとやっている、という感じなのだ。ホテルの中の人の行き来は、外の世界の影絵のようでもある。

『ジャッキー ファーストレディ最後の使命』

 1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ大統領はダラスでのパレードの最中銃撃され死亡。ジョンソンが新大統領に就任し、ホワイトハウス内が急速に次期政権に移行する中、ケネディの妻ジャッキー(ナタリー・ポートマン)は夫の名前を後世に残すべく葬儀に全てを賭ける。監督はパブロ・ラライ。プロデューサーはポートマンと『ブラック・スワン』で組んだダーレン・アロノフスキー。
 プロデューサーとは言え、アロノフスキーの味わいが強く出ているように思う。『ブラック・スワン』と同様、ポートマンが演じるのは自分自身(ジャッキーの場合は夫の付属品としての自分)を虚構として完璧に作り上げようとする女性だ。本作は、記者がジャッキーの元に取材に来て、取材の中でジャッキーが事件を振り返り語るという構成になっている。ジャッキーは記者に度々、ここは書かないで、こう書いて、と指示を出す。彼女が語るのは国民が知るべき真実であって、事実ではないと言える。ケネディは政治上の大きな功績は残していないというのが、 ジャッキーも認める政界の共通認識だった。それを越えて人々の記憶に残る歴史になるには、一種の伝説、神話を作り上げるしかない。ジャッキーが参考にするのがリンカーンの葬儀だというのには、彼女の並々ならぬ本気度が窺える。彼女はメディアの力も良く理解しており、映像として強力な記憶を作る事がケネディを、ひいては自分や子供達を守ることになると考える。先見の明があるのだ。
 しかし夫と共にアメリカの神話になるということは、生身の自分を葬るということにもなりかねない。本作には死の影が常にまとわりつく。冒頭から重低音の不協和音が響いて不穏この上ないのだが、これはケネディが暗殺されるということと同時に、ジャッキーが既に死者、死んで「神話」になったものとして振舞うからであるからのようにも思った。
 ポートマンの演技に凄みがあり、ジャッキーという人間を様々な面から見せる。ホワイトハウス紹介番組出演時のいかにも「ファーストレディ」的な振舞や、夫の暗殺でショックを受け憔悴する姿、葬儀の手筈を整える行動力、そして記者と対峙する強かさ等、これまでのジャッキーのオフィシャルイメージとは一線を画しているように思う。アカデミー賞主演女優賞はポートマンの方がふさわしかったのではないか。

『しゃぼん玉』

 女性や老人ばかりを狙ってひったくりや強盗を繰り返してきた青年・伊豆見(林遣都)は、とうとう人を刺してしまう。逃亡の末に、宮崎県の椎葉村(しいばそん)に辿りついたところ、交通事故で怪我をし動けなくなっている老女スマ(市原悦子)を助ける羽目になる。なりゆきで彼女の家に寝泊まりすることになった伊豆見は金を盗んで逃げる気だったが、スマは彼を「ぼん」と呼び深く詮索することはなかった。原作は乃南アサの同名小説。監督・脚本は東伸児。
 ロケ地である椎葉村の風景や祭りの情景、地元の伝統料理(というよりもおばあちゃんたちが日常的に食べているお惣菜。大変おいしそう)等を織り込んだ、いわゆるご当地映画的な側面も強い。とは言え、原作の力もあるのだろうが、ドラマとしてなかなかよかった。ご当地要素が上手くドラマの装置として組み込まれているように思う。お祭りの時期だけどっと観光客が来るが、基本的に過疎地かつ高齢者ばかりなので祭りの準備の人出が足りない、だからよそ者の伊豆見でも、さしあたって労働力としてありがたがられ、素性についてさほど突っ込まれないという理由づけが出来るのだ(具体的にそう説明されるわけではないが、見ている側にとってまあまあ納得がいく)。
 伊豆見は親のケアをろくに受けられないまま大人になってしまった人間だ。彼の言動、所作からは、親はもちろん、身近に一緒に生活してあれこれ教えてくれる人がいなかった様子が窺える。スマからも注意される箸の持ち方だけでなく、食事の作法や水道の使い方、煙草の吸い方も、いわゆるマナーが悪いものだ。伊豆見がだらしないというよりも、だらしないと指摘する人がいなくてやり方がわからないんだろうなという面持。誰かとずっと一緒に生活するという経験に乏しい人なんだろうなとわかってくるのだ。
 スマとの生活で、伊豆見はもう一度育ち直すことになる。ではスマは理想の親・祖母・保護者なのかというと、そういうわけではない。彼女は彼女で、実子との関係は破綻している。2人とも家族関係には失敗(伊豆見は彼が失敗したわけではなく不運なわけだが)しており、失敗した人同士がお互いに育て合いやり直すという構図なのだ。スマの、実の息子に対する言葉は悔恨に満ちているが同時に恐ろしくもあり、うすら寒くなる。親のエゴ、息子が故郷に戻らなかった一因(概ね彼本人の失敗のせいではあるが)を垣間見た気もするのだ。この凄みは市原が演じたからこそで、他の俳優だったら単に気の毒な母親に見えてしまったかもしれない。市原が主演していることで、確実に映画の格が上がっている。


『SING/シング』

 コアラのバスター・ムーン(マシュー・マコノヒー/内村光良)が支配人として運営する劇場は、赤字続きで危機に陥っていた。バスターは劇場をよみがえらせようと、街の人たちに歌唱コンテストの参加を募る。しかし秘書のミス・クローリー(ガース・ジェニングス/田中真弓)が賞金の桁数を間違えて広告を作ったせいで、高額賞金目当ての応募者が殺到する。監督はガース・ジェニングス。
 手際よくコンパクトに纏めた、ちょうどいい感じのエンターテイメント。老若男女で楽しめそうなところがいい。私は2D・吹替え版で鑑賞したが、吹替えセリフの翻訳、歌の歌詞の翻訳(こちらは一部苦戦しているなーという印象はあったが)はかなり頑張っていると思う。楽曲は翻訳許可が出たものと出なかったものがあるようで、日本語版と英語版が混じっているのだが、それほど気にならない。なお、演技は素人なMISIA(ミーナ役)と大橋卓弥(ジョニー役)が意外と好演で意表を突かれた(つたないが気になるほどではない)。2人とももちろんプロの歌手なので、セリフのぎこちなさと歌の流暢さ・エモーショナルさがちょうどいい対比になっているのだ。ミーナは極端に内気であがり症なのでそもそも喋りが得意でないキャラクターだし、ジョニーもギャングの父親からのプレッシャーで萎縮気味なので、キャラクターと演技のつたなさとのマッチングが良かったのかもしれない。
 信じれば夢は叶う、という言葉は出てくる(そしてバスターが自分の境遇を顧みてがっくりしたりする)が、そんなに大上段に構えた姿勢ではなく、歌が好き、だから歌うんだというシンプルさに貫かれているところが良かった。本作に登場するキャラクターたちは当然歌の才能があるわけだが、仮に才能がそれほどではなかったとしても、好きなことを好きなままでいていいんだという肯定感の方が強い。ミーナにバスターが「歌えばいいんだ」と励ますシーンにはぐっとくる。、また出場者の中でも、ロジーナ(リース・ウィザースプーン/坂本真綾)などはスターになりたいわけではなく、自分が好きなことを思いっきりやってみたい、その「好き」を家族にもわかってほしいという気持ちなんだろうし。
 このキャラクターはこういう性格で、こういうバックグラウンドがあって、といちいち説明せずに、物語の流れの中で提示していく序盤の手際がいい。また、ステージで歌われる以外の、サウンドトラックとしての楽曲の選び方が上手いなと思った。このキャラクターは今こういう気分だよ、こういうシチュエーションなんだよといういい補足になっている。特に「True Colors」には、なるほどここでか!と。

『スペース金融道』

宮内悠介著
人類が最初に移住・開拓に成功した太陽系外の星、通称、二番街。新生金融の二番街支社に勤務する“ぼく”は、上司ユーセフと共に債権回収に励んでいる。顧客の多くは大手があまり相手にしないアンドロイド。アンドロイドだろうがコンピュータウイルスだろうがバクテリアだろうが返済能力がある奴には貸す、そして核融合炉内だろうと零下190度の惑星だろうと地獄の底だろうと追いかけて取り立てるというのが会社のモットーだ。要領のいいユーセフとは違い、ぼくは貧乏くじばかりをひいていく。
取り立て屋コンビが活躍する連絡短篇集。先日読んだ著者の『彼女がエスパーだったころ』はしっとりとした中にミステリ的なトリックを織り込んでいたが、本作は著者初といっていいくらいの軽いノリ、かつガチなSF。アンドロイドが人間と同じように生活する、しかし人間と対等とは言い難い世界が舞台で、ロボット三原則ならぬアンドロイド三原則も登場する。債務者はアンドロイドだけではなく、それどうやって取り立てるんだよ!そもそも何に金使ったんだよ!という存在ばかり。どういう存在の仕方なら金を貸せる=取り立てられるのか、という問いが、何を持って独立した人格を持つ存在と言えるのか、という問いに繋がっていく。終盤、小説としてはこれは禁じ手なのでは?という演出もあるのだが、アンドロイドがこの先どう進化していくのか、不穏さと期待を感じさせる。

『シンクロナイザー』

 大学勤務の研究者・長谷川(万田祐介)は人間と動物の脳派を同期させる実験を無許可で続けていた。同僚の木下(宮本なつ)の手を借りて研究を続けるうち、この実験が脳機能障害の改善につながる可能性に気付く。長谷川は認知症の母・春子(美谷和枝)の治療になるのではと、倫理を踏み越えて人体実験に踏み切る。監督は万田邦敏。立教大学心理学部の映像生態学プロジェクトの一環として製作された。
 入口と出口が違うような不思議な作品だった。一見、SFサンペンスぽいのに、どんどん土着的なホラーっぽい世界へ進んでいく。春子の存在、母と息子との関係に物語全体が引っ張られていくようだった。長谷川の二男としてのコンプレックスと、痴呆が始まってからは自分のことは忘れてしまい、長男の名前ばかり呼ぶ母親への執着は一応提示されているので不自然というほどではないのだが、物語のモチーフとしての母息子関係の強力さに、少々たじろんだ。最初は、他者(人間であれ動物であれ)とリンクすることへの違和感、恐怖が描かれていたように思うのだが、親子間だと何かしら同質なものが含まれる。含まれていないとしてもそのように見てしまう。そこに近親相姦的なタブー感が重なり、どんどんそちらの方向に引っ張っていかれてしまった気がした。素材の引力の抗いがたさみたいなものがあるのかなと(キャッチーというより、そこに据えておくと恰好がつくというか)思う。
 長谷川と二人三脚状態だった木下の存在が、徐々に長谷川を引き留められなくなり、彼はどんどん母親との「実験」にのめり込んでいくというのも、長谷川の研究者としての業というよりは、母に対する執着、また母の子に対する執着のように見えてくる。終盤の展開は欲望がだだ漏れになってくるようでちょっとぞっとする。
ただ、こうなってしまうと、脳派の同調設定って必要だったか・・・?という気になってくる(特にオチの部分)のだが。最初からホラーだよと言われていればそんなに違和感感じなかったのかもしれないけど。

『ショコラ 君がいて、僕がいる』

 1897年のフランス北部。小さなサーカスで職探しをしていたベテラン道化師のジョルジュ・フティット(ジェームス・ティエレ)は黒人芸人ラファエル・パディーヤ(オマール・シー)と出会い、彼と名付けコンビを組むことを思いつく。ショコラと名乗るようになったラファエルとフティットは一躍人気芸人となり、パリの劇場と専属契約を結ぶ。スターとして名声を手に入れた2人だが、ショコラはギャンブルにおぼれていく。監督はロシュディ・ゼム。
 ちょっとストーリー展開の起伏がゆるくてだらだらしているかなぁ・・・。淡々としていると言えば聞こえはいいのだが。もっとも、そんなにエモーショナルに盛り上げる類の話ではないというのも確かだ。なんとなく、白人と黒人の感動バディもの的な雰囲気を漂わせた宣伝だったが、実際の所はバディになりきれなかった哀しみの方が濃くにじむ。
 フティットとショコラの芸は、今見ると明らかに人種差別意識があるものだし、当時はそれが普通だった。フティットはショコラとコンビを組もうと思うくらいなので黒人に対する嫌悪感はないが、真に同等だとは思っていなかったのではないか。そもそも差別意識にも無自覚だったろう。作中でも描写はあるが、愚か者役がフティットで、黒人が白人の尻を蹴る芸であっても、芸として完成されていれば笑いは起きる。ただ、役割の入れ替わりという発想がフティットにはなかった。彼はショコラを一人前の芸人にしようとしてはいるのだが、その前提として2人は対等であるという認識がいまひとつなく、だからショコラに彼の熱意は伝わらなかったのかもしれない。
 一方、ショコラはスターとして振舞うようになるが、彼に求められるのは依然として「白人に尻を蹴られる黒人」役で、フティットと対等な芸人だからでもアーティストだからでもない。これはショコラの技能・才能とは関係ないことだ。白人と同等のアーティストとして振舞えば、彼に才能があろうがあるまいがブーイングを受ける。ショコラはこの理不尽に打ちのめされていく。彼に出来ることやりたいことと、世間が彼に許すことがどんどんずれていってしまうのだ。万国博覧会の(悪名高い)「野蛮人」展示をまのあたりにする様は痛ましい。黒人としてのアイデンティティも、芸人としての自覚も中途半端なまま、どんどん崩れていくのだ。
 とは言え、苦しむのはショコラだけではなく、フティットにはフティットの苦しさがある。あるシーンで彼はゲイであることが示唆されるが、彼はそれをオープンにすることはできないし、公的にパートナーを持つことも出来ない。彼はおそらくショコラを愛しているが、相手が同性である、黒人であるという二重のタブーとなってしまう。生まれる時代を選ぶことは出来ないが、生まれた時代による運不運というのを痛感せずにはいられない。

『ザ・コンサルタント』

 会計士のクリスチャン・ウルフ(ベン・アフレック)は田舎町で小さい事務所を構える一方、大企業やマフィアの裏帳簿を管理する凄腕で、年間10億円を稼ぎ出していた。ある日、大手精密機械メーカーから財務調査依頼が舞い込む。経理担当のカミングス(アナ・ケンドリック)が帳簿に不審な点を発見したというのだ。ウルフは不正を発見するが、依頼は社長によって一方的に打ち切られ、ウルフもカミングスも何者かに襲撃される。監督はギャビン・オコナー。
 冒頭、パズルが印象的な使われ方をするが、伏線回収もパズル的で、精緻ではないがピースがはまった瞬間の快感を味わえるように作ってあると思う。 ウルフは高機能自閉症という設定なのだが、彼の立ち居振る舞い、仕事も含めての行動原理がその設定に基づいており、かなり丁寧に調べて作っていることがわかる。生活のルーティンやルールがかっちりと決まっていることや、いわゆる世間話のようなやりとりが苦手であること、何かを始めると最後までやらなければ気が済まないことといった特徴がよく描かれており、それがストーリーの一部としてちゃんと機能している。むしろ、ウルフがこういう特徴を持った人だからこういう展開(特に後半)になったということがわかるのだ。
  ウルフにとっての「普通」は世間一般での「普通」ではなく、それが彼をどこかピントのずれた(ウルフ当人にとってはずれていないのだが)存在にしている。彼は父親からは肉体の制御の仕方と闘い方、刑務所で同室だった元会計士からは世間一般でのコミュニケーションの「型」を教え込まれており、その「型」をなぞることでかろうじて社会人として生活をおくることが出来ている。会話がちぐはぐになるのは「型」ではカバーできないからだろう。彼は度々「冗談だ」と言う言葉を口にするが、別に冗談を言っているわけではなく、自分の言葉に相手が困惑したらそう言いなさいよって教えられたってことなのだと思う。業務以外でのコミュニケーションは、彼にとっては大概愉快ではないのだろう。事務所に相談に来た老夫婦が長々とお礼を言う時、ランチ中にカミングスが話しかけてきた時、あー早く立ち去って・・・と思ってるんだろうなぁとじわじわ伝わってくるあたりがおかしかった。
 とは言え、ウルフにも当然人間らしい感情はある。表現の仕方が人とは違うだけだ。数字という共通の関心を通してだったらカミングスと興奮を分かち合える。カミングスは自閉症ではないが、やはり周囲から浮いている所があり(プロムにまつわるエピソードから察せられるように)、ウルフはおそらくそこにも共感している。だからこそ、彼女にメモを残すのだ。メモの文面は、それまでの2人のやりとりやウルフの人となりを考えるとちょっと泣けるものだ。
 ウルフが感情を表に出さないので分かりやすく表出はしていないのだが、熱く、ある意味粘着質な家族愛が根底に流れている。兄を見つめる弟のまなざしも、実の父親だけではなくキング(J・K・シモンズ)や元会計士、精神科医に分散された父性も印象に残った。終盤はまさかここでそういうネタ投げ入れる?!と驚いたが。

『静かなる叫び』

 1989年12月6日、モントリオール理工科大学の学生らはごく普通の日常を送っていた。バレリーはインターンシップの面接を受け、ジャン=フランソワは課題に追われていた。しかし1人の男子学生がライフル銃を校内に持ち込み、女子学生を狙って発砲し始める。犯人は14人の女子学生を殺害した後自殺し、バレリーは重傷を負ったものの生還。しかし生き残った人達にも深い傷が残った。1989年にモントリオール理工科大学で起きた銃乱射事件をモチーフに作られた作品。監督はドゥニ・ヴィルヌーブ。
 犯人の少年、被害にあった学生たち、それぞれの1日を静かなトーンで追っていくが、見ていてどんどんいたたまれなくなってくる。犯人が何をするつもりか、映画を見ている側には最初からわかっているわけだが、何かタイミングがちょっと違えば彼が思い直す機会があったのでは、あるいは被害をもっと小さくできたのではと思わずにはいられないからだ。犯行はそれほど計画的にも見えず、むしろ行き当たりばったりだし射撃の腕がすごくいいというわけでもない。なんとかできたのではと思えてしまうと言う所が辛いのだ。事件で無事だったとしても、助かった者は強い後悔に駆られ、ジャン=フランソワは自責の念に押しつぶされてしまう。生き残った人達がずっと苦しむというのがまた辛い。
 犯人は、女性が、フェミニストが憎い(彼は就職に失敗しており、女子学生が就職先を奪ったという思いがある様子)とメッセージを残す。彼の憎しみは何だったのだろうと茫然とする。自分と因縁のある誰かならともかく、漠然とある属性を憎むというのは、何なのだろうと。ヴィルヌーブ監督は一貫してその疑問と向き合っている気がする。
 バレリーは面接の際、面接官から「女性は妊娠したら(仕事を)辞めてしまうから正直採用したくない」と言われる。彼女はその場では何も言わないが、その言葉にとても傷ついたということがわかる。面接官の言葉の延長線上に、犯人の憎しみがあるようにも思った。終盤、ある選択を迫られるであろうバレリーが、それでも力強い表情であることにほのかな希望がある。 
                                                                 

『疾風スプリンター』

 自転車ロードレースチームに加入したチウ・ミン(エディ・ポン)とティエン(ショーン・ドウ)はチームのエース、チョン・ジウォン(チェ・シウォン)のアシストをすることになる。2人はチームメイトとして、ライバルとして友情を深め、チームは台湾各地のレースで好成績を残す。しかし資金難でチームは解散することになり、チウ・ミン、ティエン、ジウォンはそれぞれ別のチームに移籍し、競い合うことに。監督はダンテ・ラム。
 序盤は紋切型でどこか古臭い。監督の娘がポニーテールにサロペット姿なのは、80年代の少年マンガのヒロインかよ!と突っ込みたくなった。しかし尻上がりに面白くなっていく。俳優たち自ら走っている(スタントも使っていると思うが、かなりの部分自分で走っているみたい)レースシーンに迫力があり、俳優たちが必死すぎて変顔になるのも厭わないという気合の入り方。ここは本当に見応えがあるし、このレースシーンがあるから映画として引き込まれる。他が若干大雑把で盛りだくさんすぎるのだが、レースシーンを見るといいものを見た!と納得してしまうのだ。
 チウ・ミンとティエンは、最初はとんとん拍子で実績を積んでいく。しかしチームを移籍し、スターとしてもてはやされたりエースとしての重圧に苦しんだりするうちに、人生に躓いてしまう。そこからの再起を賭けた展開が熱い!チウ・ミンとティエンは性格的に決して馬が合うというというわけではないが、レーサーとしての技量は認め合っており、共闘していく様が清々しい。強敵(ライバル)と書いて友と呼ぶ、という少年漫画王道の関係性が見られるのがうれしい。また、彼らの先輩でもあるエースのジウォンがちゃんとした模範的な人というか、エースとしてのお手本のようでもあり、彼を後輩の2人がアシストし、やがて追うようになるという構造も王道感あってよかった。
 なお、韓国で競輪に出場するというエピソードで、2人1組で行うレースが出てくるのだが、こういうシステムのレースって韓国には本当にあるの?物語の演出の一部としてすごくいい機能なんだけど、実際のレースとしては結構大変そう。

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