3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名さ行

『裁き』

 ムンバイの下水道で、下水清掃人の死体が発見された。逮捕されたのは民謡歌手のカンブレ(ヴィーラー・サーティダル)。歌の歌詞が自殺を駆り立てるものだったと容疑を掛けられたのだ。弁護士のヴォーラー(ヴィヴェーク・ゴーンバル)、検察官のヌータン(ギータンジャリ・クルカルニー)、裁判官のサダーヴァルテー(プラディープ・ジョシー)が法廷に集い、裁判が進んでいく。監督はチャイタニヤ・タームハネー。
 法廷という限られた場で、現代のインドの様々な側面が垣間見られとても面白かった。カンブレが逮捕される理由や彼を有罪とする根拠だと検察が主張する法律の解釈などは、えっ冗談でしょ?と言いたくなるものなのだが、インドではこれも司法の一つの姿なんだろうなぁ。法律の「どうとでも解釈出来る」領分にはひやりと寒くなった。司法が人の心のあり方にまで踏み込んでくるというのは、やはり恐ろしい。警察の捜査のずさんさ、有罪確定ありきで捜査は後付にすぎないのではという投げやりさは、インドに限らず往々にしてあることだろうが、ちょっと勘弁してほしいよな・・・とため息をつきたくなるもの。弁護士とのいたちごっこのようでもある。
 弁護士のヴォーラーと検察官のヌータンは、法廷外での私生活が映し出される。弁護士と検察官という職業上の立場の違いもあるが、この2人はそもそも住んでいる世界が違う。ヴォーラーは親が不動産を持っている裕福な家の息子で独身、もちろんインテリ層だし友人も同じような階層の人たち。ヌータンはおそらく中流層で、夫と2人の子供と暮らしている。ヴォーラーは自家用車で通勤し、ヌータンは電車。2人とも娯楽で音楽や芝居を楽しみ、家族と外食をするが、その方向性も全然違う。カンブレや死亡した下水清掃人はさらに貧しく異なる階層にいるが、ヴォーラーとヌータンの階層の違い、考え方の違いは特に強調されている。それぞれ似たような行動をしているがその中身が違う、という照らし合わせるような見せ方だった。法廷でやりとりされる言語の差異(ヴォーラーはローカルな言語はよくわからない様子で、英語で話してくれというシーンがある)も、それぞれが違う世界で生きていることを感じさせた。そして、その世界はなかなか重ならないし、歩み寄ろうという意思もあまり感じない。この人たちが法廷以外で交流することはないのではないかなという気がするのだ。
 異なる世界を生きているという点では、ヴォーラーと両親との間にある文化の差も強く感じた。これはインドに限ったことではないだろうが、両親が思っている「普通」と、ヴォーラーが生きる「普通」は違うんだなと。そして、その違いは両親にはなかなか理解されない。ヴォーラーは高級スーパーでワインやデリを買い、ジャズを好み、バーでポルトガルのファドを聞くような趣味嗜好の人なので、両親との価値観の違いは、結構大きそう。実家で食事しているシーンからも、あー色々苦労してそう・・・と同情してしまった。

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『ジョン・ウィック チャプター2』

 ロシアン・マフィアへの復讐劇から5日後。ジョン・ウィック(キアヌ・リーブス)の元へイタリアン・マフィアのサンティーノ(リッカルド・スカマルチョ)が訪れる。実の姉である組織のトップの殺害依頼をもちかけてきたが、ジョンは断り、見せしめとして自宅を爆破されてしまう。かつての盟約により依頼を受けざるを得ないジョンだが、依頼遂行の後にはサンティーノへ復讐すると宣言。命の危機を感じたサンティーノは高額の懸賞金をジョンに掛け、世界中の殺し屋が動き始める。監督はチャド・スタエルスキ。
 キアヌ・リーブスって演技派かというと正直いまだに微妙だし、ハンサムではあるがトム・クルーズのような「ザ・スター」感もいまひとつだし、個性が薄い割に、決してどんな役柄にでも適応できる使い勝手の良さがあるわけでもないと思う。しかし本作のように彼にハマる役柄を演じると、やっぱりスター感あるし魅力的だ。メジャーど真ん中の大ヒット主演作を持っているにも関わらず、何となくカルトスター感がいつまでも漂っている、不思議な俳優だと思う。ちょっと浮世離れした感じというか、実体感が薄い役柄だとハマるなぁと改めて思った。
 前作の5日後という設定で、ストーリーは直接つながっており、前作でのエピソードは特に説明されない。とは言え、そんなに入り組んだ話ではないので、単品で見ても大丈夫そうではある。前作よりも世界観のスケールが広がっているが、これは良し悪しだな・・・。殺し屋専用ホテルは今回も登場するが、更にその背後にある殺し屋ビジネスの存在も垣間見える。これはホテルが総元締めってことなんだろうけど、だとすると完全な中立って難しいんじゃないのかな?そしてなぜそのレトロな電信・・・スマホとタイプライターが並立する世界・・・単にビジュアル的にやりたかったんだろうけど。「やりたい」が先に立ちすぎて設定が色々とちぐはぐな気もするが、ビジュアルは確かに良いので眺めていて楽しい。
 アクションも前作より更に多く、長く、増量している。本作、冒頭から常にベース音がなっているような、一定のリズムで進行しようとしている気がした。アクションはふんだんにあるが、意外とめりはりがない。ペースが一定なので気持ち良く眠くなってきてしまった。だからつまらない、というわけではなく、体感として気持ちがいい。遠距離射撃系の武器が出てこないのは、リズムが崩れるからじゃないだろうか。基本的に、近距離の射撃と格闘による殺し合い(ジョンがいちいち相手をしとめるあたり、プロ殺し屋感ある)で殺すという目的のみで考えると不自然は不自然なのだが、これが殺し屋の美学なんだろうな・・・。
 ジョンは生きた伝説になるレベルの凄腕の殺し屋なのだが、意外とすぐに怪我をするし、攻撃されればちゃんとダメージを受けるし、痛そうな顔もするし、なかなか回復しない。今回、かなり早い時点でフラフラになっており、ほぼ全編ヨロヨロしつつ闘い続けるところが、キャラクター性として面白く味がある。死にそうで死なない、というよりも今にも死にそうなままで居続ける存在なのかなと。また、前作から引き続き、一貫して怒っているキャラクターでもある。自分にとってかけがえのないものを侵されたら怒るし、その怒りは消えないという主張がすごくはっきりしているのだ。

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『しあわせな人生の選択』

 カナダに妻子と暮らすトマス(ハビエル・カマラ)はスペインに住む長年の親友、フリアン(リカルド・ダリン)を突然訪ねる。フリアンは余命わずかと宣告され、治療を諦め身辺整理を始めたとフリアンの従妹パウラ(ドロシス・フォンシ)から聞いたのだ。フリアンはトマスと一緒に愛犬トルーマンの引き取り手を探し、アムステルダムに留学中の息子に会いに行く。2人の4日間を描く作品。監督はセスク・ゲイ。
 トマスとフリアンは長らく(おそらくトマスがカナダに移住してから)会っていなかったようだが、再会すると徐々に昔と変わらないであろうやりとりを始める。フリアンがぶつくさ言い、トマスが受け流すという関係性が確立しているようで、この2人は若い頃からずっとこの調子だったんだろうなと思わせる、深い部分での友達というのは、何年も直接会わなくてもやっぱり友達なのだと思う。ただ、この2人のように、自分の一部を相手に委ねられるかどうかというと、なかなかこの域にいくのは難しいなとも。最後のフリアンの行動は、(多分こうなるんだろうなという予感はずっとするものの)自分の一部を相手に渡す、自分の死後もそれが残るようにするということにほかならず、結構な重さだ。相手がそれに耐えうる人だと信じてやるわけだけど、信じられる側の責任も重い。
 フリアンは犬の引き取り手に会って回ったり、自分の葬式の手続きをしに行ったり、(自業自得なのだが)絶縁状態だった旧友に挨拶をしたりと自分の「始末」をつけていこうとする。彼はそういった作業を出来るくらいには自分の死期を受け入れているかのように見えるが、折に触れて、そんなことはないのだとわかってくる。特に葬儀社で説明を受けるが頭に入っていないような様子で、結局トマスが担当者の話を受けるという流れには、そりゃあそうだよあなとしみじみした。そこまで達観できないよなと。いくら「そのつもり」でいても、いざ具体的な話になるとすくんでしまう。
 なお、葬儀社の担当者が、「私の葬式です」と言われて一瞬止まるもののすぐ通常運転になるあたりは、プロの仕事!と妙に面白さがあった。フリアンが動揺しているのを察してトマスに話を振るあたりも、「普通」の振る舞いに徹している。普通に徹すると言う意味では、トマスの振る舞いも正に普通で、過度に心配したり干渉したりしない、平熱感がある。そう振る舞い続けるには結構な意思の力が必要ではないかと思う。フリアンにとっては、トマスの平熱感がありがたかったのではないか。

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体の贈り物 (新潮文庫)
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2004-09-29

『ジーサンズ はじめての強盗』

 ジョー(マイケル・ケイン)、ウィリー(モーガン・フリーマン)、アルバート(アラン・アーキー)は長年の親友同士。ある時、40年以上勤めた会社の合併が決まり、仕事場の工場は閉鎖、年金も打ち切られてしまう。更にジョーは住宅ローンを延滞しており、家を失いそうになる。たまたま銀行強盗の現場に出くわしたジョーは、自分も銀行強盗をしようと思い立ち、ウィリーとアルバートを誘う。監督はザック・ブラフ。マーティン・ブレスト監督『お達者コメディ シルバーギャング』(1979)のリメイク作品。
 他愛ないと言えば他愛ないのだが、気負わず気楽に見られる作品で、空いた時間にぷらっと楽しむには最適だと思う。正直それほど期待していなかったので、得した気分になった。なぜこの名優3人を?!という疑問はあるのだが(彼らが演じる必然性はそれほど感じないので)さすがの安定感で全く危なげがない。マイケル・ケインがブルーカラーを演じるというのは結構珍しい気がするが、孫娘と「親友」な素敵おじいちゃん感がいい。フリーマン演じるウィリーのマイナス思考とぼやき、アーキー演じるアルバートのぱっと見口は悪いが結構常識人で慎重な所もチャーミングだった。この3人はもちろん、彼らの家族や銀行強盗の「先生」となるペットショップオーナー、またいきつけのダイナーのウェイトレスやスーパーの店長に至るまで、脇役が全員いい感じだった。「こういう人」感がちゃんと出ており、愛嬌がある。「イヤな奴」ポジションの銀行員もどこか憎めない。
 3人が銀行強盗を決意する経緯には、アメリカの労働者は本当に銀行が嫌いなんだろうなと妙なインパクトがあった。本作だけでなく、銀行に抗議に行くけど鼻であしらわれてどうにもならない、というシチュエーションはアメリカ映画には頻繁に出てくる。私はこういうシチュエーションが苦手で見ていて辛くなってしまうので、そんな時に銀行強盗がやってきたらやったー!って思っちゃうけど・・・。また、企業年金がなくなるというのもインパクトあり、そりゃあ銀行強盗でもかますしかないよな!と見ているこっちも俄然やる気になってきた。
 3人の「特訓」とか「アリバイ工作」とかかなり詰めが(特に時間的に)甘いところもあるのだが、パタパタとパーツが組み合わさっていく様は愉快だった。最後の「彼女」と「彼女」の視線のやりとりも、出来すぎなんだけどそれが嫌みにならない。
 なお、デザート代を節約しようとした3人にウェイトレスが「パイがないなんてダメよ!」とサービスしてくれたり、3人からの老人クラブへの差し入れがパイだったりと、なぜかパイ推しが目立つ。パイを食べることが、ちょっとした心のゆとり、財布のゆとりの象徴みたいだった。

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三匹のおっさん (文春文庫)
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『セールスマン』

 小さな劇団に所属する俳優夫婦、エマッド(シャハブ・ホセイニ)とラナ(タラネ・アリシュスティ)は、アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』に出演中だった。ある日、引っ越したばかりのアパートで、エマッドの留守中にラナが何者かに襲われる。ラナは警察へ届けることを拒み、エマッドは独自に犯人を捜し始める。監督・脚本はアスガー・ファルハディ。
 ファルハディ監督の作品は、『別離』にしろ『ある過去の行方』にしろ、カップル間のすれ違い、溝の開いていく過程のとらえ方が鋭く、毎回ひやりとする。本作も、エマッドとラナが事件が起こったことによって段々すれ違っていく様や、ふとした言葉で決定的な亀裂が入ってしまう様が生々しい。事件によってラナがどういう立場に立たされ、どういう傷を負っているのかということが、エマッドには今一つぴんときていない。あっそれ絶対言っちゃダメなやつー!という言葉が出た瞬間にはぴりついた。例えば、これがひき逃げ等交通事故のようなものだったら、ここまで溝は広がらなかっただろう。性犯罪の被害者は、被害者側にも落ち度があったと往々にして責められがちだが、ラナもそれを恐れて警察に届けない。警察の聴取に耐えられるかどうかも定かではないし、とても話せる状態ではないだろう。世間体が悪くて通報したくないのではなく、世間がどのように自分を見るか予想できるから通報したくないのだ。エマッドはその部分に思いが至らないので妻の態度に困惑し、自分での犯人探しに踏み切る。しかしラナがエマッドに求めているのはそういうことではないんだろうなぁ・・・。
 面白い、良くできた作品なのだが、監督の過去作『彼女の消えた浜辺』や『別離』に比べるときちんとしすぎているきらいがあって、スリリングさはさほどでもない。所定のものが、所定の場所に収まっていくという感じで、物語の枠からはみ出してくる強烈な違和感みたいなものがないのだ。犯人の背景の設定や、いわゆる「悪人」が登場するわけではなくタイミングの食い違いや心の隙等、諸々の連鎖によって悲劇が起きる、しかし誰を責めればいいというわけでもないという構造等、あえてわりきれない話にしていく、意図的な「収まらなさ」はある。しかし、それすら設計通り感が強く、ちょっとお行儀が良すぎるというか、整理されすぎな気がした。
 私が『セールスマンの死』をちゃんと見た(読んだ)ことがないのも、物足りなさの一因かもしれない。おそらく、『セールスマンの死』とリンクしてくる部分があるはずで、そこがわかるとより味わい深く見られるのでは。

別離 [DVD]
レイラ・ハタミ
Happinet(SB)(D)
2012-12-04


『ジェーン・ドゥの解剖』

 バージニア州の田舎町。ベテラン検視官のトミー(ブライアン・コックス)が息子のオースティン(エミール・ハーシュ)と経営している遺体安置所兼火葬場に、身元不明の女性の遺体“ジェーン・トゥ”(オルウェン・ケリー)が運び込まれてきた。一家3人が惨殺された家の地下室に裸で埋まっていたというのだ。トミーとオースティンは解剖を進めるが、次々と奇妙な点を発見する。監督はアンドレ・ウーブレダル。
 ほぼワンシチュエーションの設定で、いかに緩急つけて観客を引き込むか一生懸命考えたんだろうなぁという作品。低予算映画でありつつ安っぽくならない、下品にならない為にはどうすればいいか、という工夫が随所に見受けられた。その工夫が、本作のユニークな部分になっていると思う。コンパクトで面白い作品だった。
 解剖に伴い怪奇現象が起きるが、その怪奇現象をどう見せるか、何を見せないかという部分で、予算と怖さの調節をしている。具体的な「それ」が見えなくてもちゃんと怖いあたりは演出の上手さだろう。また、怖さの部分よりも、ジェーン・ドゥは何者なのか、彼女に何があったのかという謎解き部分に興味を引かれた。トミーとオースティン親子は解剖の知識だけではなく、色々と博学かつプロ気質で、特にトミーは彼女に何があったのか何とか解明しようとする。その背景に、ある事件が存在するという設定が上手い。その事件のせいで、トミーはジェーン・ドゥに対して過剰な責任感、使命感を抱いてしまうのだ。
 ただ、その熱意や誠意の顛末の在り方は、こちらとあちらは全く別のものである、コミュニケーションは不可能と感じさせるもの。この突き放し方が、実に「呪い」っぽいなと思った。こちら側の意思は知ったこっちゃない、という存在の仕方なのだ。

『スプリット』

 見知らぬ男に拉致され、密室に閉じ込められたケイシー(アニヤ・テイラー=ジョイ)、マルシア(ジェシカ・スーラ)、クレア(ヘイリー・ルー・リチャードソン)。ドアの外で男性と女性が話し合う声を聞いた3人は助けを求めるが、そこに現れたのは女性の服を着て女性のように振舞う誘拐犯だった。彼/彼女である「ケビン」(ジェームズ・マカヴォイ)には23の人格があり、先程の男もそのうちの1人だというのだ。監督・脚本はM・ナイト・シャマラン。
 監禁される恐怖の盛り上げ方、要所要所での小道具の使い方や伏線(フレッチャー医師の振る舞い等)は、ストレートにサスペンスとして面白いのだが、物語の要であろう「出現」シーンで、は?と脱力してしまった。そのまんまじゃん・・・。それまでのやりとりから見ている側が予想するであろうものからさほど外れないことに加え、視覚的にもさほど面白くない。あれ意外と地味・・・?と拍子抜けしてしまった。ケイシーの幼少時代の回想が随所で挿入されるのだが、これも早い段階でこの先何が起きるのかがわかってしまい、予想がつくこと自体はストーリー上の疵ではないが、まあげんなりさせられる内容ではある。
 ある変化がクライマックスとなっているわけだが、その「力」の根拠が、それってちょっとおかしくない?というものだった。私はシャマラン監督の『アンブレイカブル』の面白さがさっぱりわからないのだが、それと同じような納得のいかなさがある。人の傷や辛さってそれを被った本人にしかわからないのではないか、他人が評価するものではないのではないかと。ある人物の物言いに、「お前が言うなよ!何様だよ!」という気分になってくるのだ。そういう考え方が登場人物を救うんだろうなというのはわかるが。
 とは言え、面白いことは面白いし、何よりマカヴォイの1人23役はやはり見事。人格が入れ替わる瞬間がわかる、更に人格Aが人格Bを「演じている」姿まで、やり抜く様には唸った。

『スウィート17モンスター』

 17歳のネイディーン(ヘイリー・スタインフィルド)は家庭でも学校でも浮いた存在で、不満たらたらな日々を送っている。ある日、無二の親友である幼馴染のクリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)がハンサムで社交的な自分の兄・ダリアン(ブレイク・ジェナー)と付き合うことになり、自分とは全くタイプの違う兄を嫌っていたネイディーンは大ショック。クリスタに絶交宣言をし突飛な行動に出てしまう。監督はケリー・フレモン・クレイグ。
 ネイディーンにはクリスタ以外に友達がおらず、彼女を兄にとられたような気分になってすねてしまう。とは言え、ネイディーンは少々浮いてはいるものの、非常に変人であるとか、キャラクターが強烈であるとかいうわけではない。人並みの常識はあるし、やろうと思えば無難に振舞うことは出来る。むしろこのくらいの浮き方は、「普通」の範疇だろう。彼女が担任教師のブルーナー(ウッディ・ハレルソン)曰く「嫌われっ子」なのは、ひとえに普段の彼女の態度がちょっと感じ悪いからだろう。ブルーナーの言葉尻を捕えていちいち指摘し、「いちいち人のあげ足取って楽しいか?」と皮肉交じりで尋ねられるのだが、一考した後「うん」と答えるような子なのだ。
 この、浮いているけど「普通」の範疇で、感じ悪さも突き抜けたものではなく「普通」の範疇、というところが却ってシビアだ。こんなの自分でどうにかしないとどうにもならない!突出した個性がないということは、自分にとってこれだという強固な世界もない、よって逃げ場もないということだ。例えばすごく読書好きであるとか芸術のセンスがあるといった特徴があれば、そこが辛いときの拠り所になるのだが、ネイディーンにはそこまで思い入れのあるものはない。はぐれ者にすらなれない辛さというのもあるんだよなとしみじみとした。ネイディーンは相手とシチュエーションによっては感じよく振舞えるので、単に不器用、かつ人間関係の手間暇を面倒くさがっているんだろうけど・・・。このあたりが気遣いの人であるダリアンとの差異であり、彼女のコンプレックスを増大させている原因でもある。
 ネイディーンのちょっと面倒な青春物語であると同時に、彼女の家族の物語としての側面もある。私はむしろ、家族映画としてとても面白いし、細部に配慮がされていると思った。実は彼女の父親は数年前に死亡しており、その死がいまだに家族に影を落としている。ネイディーンの中では、自分は父親のお気に入り(兄は母親のお気に入り)であり、父親はウマの合わない母親との仲介役でもあった。父親が突然いなくなったことで、家族内が母親&兄 VS ネイディーンになってしまったという思いがある。母親も兄も父親がいなくなって大変ではあるのだが、自分のことでいっぱいいっぱいな彼女にはまだそこが見えていない。
 特に、母親が息子に依存気味でダリアンがいないと家庭崩壊しそうな気配が垣間見えてくるので、ネイディーンの動向よりもむしろ母と兄とのやりとりにハラハラしてしまった。ダリアンはルックス良好、成績も運動神経も良好で一見人生勝ち組だし実際ネイディーンに勝ち組宣言するのだが、ちゃんとした「出来のいい息子」だからこそ、母も妹も見捨てられず逃げ場がない。勝ち組以外の道がそもそも許されないのだ。ネイディーンは周囲に当たり散らす(このあたりは母親も似ている)ことができるが、彼はそれもできない。20歳になるかならないかくらいの若者にとっては荷重が重すぎ相当しんどいのではないかと思う。
 とは言え、なんだかんだ言ってもネイディーンが最終的に自分でなんとかしようとするところには希望がある。彼女に好意を示す同級生のアーウィン(ヘイデン・ゼトー)もブルーナーもバランスの取れた、返しの軽妙な人物なので、彼女が暴投しても荒れないところも良かった。ネイディーン(と母親)以外の人が人間出来すぎな気もするが、周囲の出来がいいから彼女がコンプレックス拗らせたって側面もあるのか・・・。


『人生タクシー』

 政府から映画監督としての活動を禁じられたジャファル・パナヒは、テヘランの町でタクシー運転手をしていた。ダッシュボードに設置されたカメラには、教師や海賊版ソフト業者、交通事故に遭った夫婦、そして監督の姪ら、様々な人たちを映し出す。監督・脚本はジャファル・パナヒ。
 『これは映画ではない』の延長線上にあるような、フェイクドキュメンタリー風の作品だが、今回は舞台が移動しつつ話が進むので『これは~』のような閉塞感はない。人の出入りが頻繁で案外風通しがいいのだ。タクシーの乗客たちは皆好き勝手によく喋るのだが、パナヒ監督の境遇を知っている乗客は「あっこれも映画にするんでしょ?!」とあれこれ聞いてきたりもする。
 また、学校の課題でドキュメンタリー映画を撮っているのだという姪が、イラン国内で上映できない映画の条件を読み上げると、パナヒが「読まなくていいよ」と朗読をやめさせる。確かに、もう耳にタコができるくらい言われただろうしな・・・。姪は、なぜそういう条件が定められているのかは考えていないようで、「上映できないシーンは入れなければいい」「上映出来ない部分があるなら、変えればいい」と言う。それが映画=フィクションということなのだと言わんばかりだ。彼女は、自分が撮影していたゴミ拾いの少年が、映画として少々都合の悪いことをすると、彼にやり直しをさせる。その時点で「ドキュメンタリー」って何だ?という疑問が沸いてくるが、映画の演出と言えばそうも言えるし、何より彼女らの国で上映できる映画にする為には、そのシーンを「訂正」しなければならないのだ。しかし、「訂正」したら零れ落ちてしまうものもある。
 映画ってどんなものなんだろう、とふと考えてしまうシチュエーションがいくつも重ねられており、やはりこれは映画についての映画でもあるんだろう。「映画」と「記録」の線引きは出来るものなのか、トライし続けているように見える。パナヒが今現在映画制作を禁止されていることを忘れそうになるが、彼が急にそわそわし出し、車を出て行った理由がわかると、さっと体温が下がる。そういう世界があって、そういう世界で映画を作り続けるというのは、こういうことなんだと。

『サラエヴォの銃声』

 2014年6月28日、第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件から100周年の記念式典を控えたサラエヴォ。式典が行われるホテル・ヨーロッパでは、ホテル支配人やフロントマネージャーが準備に余念がない。同時に、従業員の間では賃金未払いに対するストライキが計画されていた。演説の練習をするVIPや、サラエヴォ事件について対談企画を収録中のTVスタッフとジャーナリスト等、様々な人々が行きかう群像劇。監督はダニス・タノヴィッチ。
 舞台をホテル内に限定した群像劇なのだが、屋上からの街の景色が挿入されるからか、意外と閉塞感はない。職業上のポジションとしても、経済格差としても、民族的な背景としても、様々な人たちが交錯していくが、それぞれの物語、物理的な動線のさばき方の手際がいい。もっとコンパクトにできたんじゃないかなと(本作も90分程度なので相当コンパクトではある)思うくらい。こんなにスピーディかつ整理された映画を撮る監督だったのか!と驚いた。先日見た『汚れたミルク あるセールスマンの告発』は語りの方法のユニークさに目がいったが、手際がいいという印象ではなかったので。物語の内容によって見せ方をどんどん変えてくるタイプなのか。そういえば、一貫した作風というものはあまり強くない作家性ではあると思う。
 登場する人たちはホテルの中を行ったり来たりするが、それぞれが何かしらの問題を抱えており、その多くは自分では如何ともし難い。その問題故に、対立する人たちもいる。そして対立の焦点となっている問題は、そうそう解決しそうにないし双方が妥協する接点も見えてこない。ホテル支配人と従業員の意見は平行線をたどるだろうし、TVキャスターとジャーナリストも、お互いに許せない部分がある。危ういバランスで全てが推移していくのだ。
 こういった、お互いに相入れない部分を孕みつつも、様々な集団が同じ場で何とか生活している、というのが現在のこの地域ということなのだろう。サラエボ事件以降(いやそれ以前からか)、ずっとバランスがぐらつきつつ(時に大きく乱れるが)なんとかかんとやっている、という感じなのだ。ホテルの中の人の行き来は、外の世界の影絵のようでもある。

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