3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名さ行

『その手に触れるまで』

 13歳の少年アメッド(イディル・ベン・アディ)はイスラム指導者に感化され、過激な思想にのめりこんでいく。とうとう学校の教師をイスラムの敵として危害を加えようとするが。監督・脚本はジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。
 ダルデンヌ兄弟作品の主人公は、必ずしも共感できる人ではない、何を考えているのか行動原理がわからない人物であることが少なくない。本作の主人公であるアメッドはその中でも特に不可解であり、共感できない主人公だろう。アメッドがなぜ過激な思想に傾倒していくのか、何をもって教師を敵とみなしているのか、周囲からはわからないし、作中で説明もされない。カメラはアメッドの行動をじっと見つめるのみだ。
 アメッドの母親は彼の変化を理解できず「昔のあなたに戻って」と泣くが、アメッドにそれが響いている様子は見られない。また更生施設の職員たちや、実習先の農場主やその娘など、彼に関わり、彼を引き戻そうとする。しかし、その言葉も試みもなかなか届かない。特に、農場主の娘はアメッドと同年代で彼と親しくなるが、届きそうで届かないままだ(彼女のアプローチがちょっとセクハラまがいだというのもあるけど…)。アメッドは彼女に好意はあるのだろうが、彼女に提示する「条件」は、他者、特に女性を対等の存在として扱っていない、尊重していないものだ。カウンセラーがアメッドに教師との面会を許さないのは、彼にその自覚がないからでもあるだろう。どうすればそこに気が付けるのかというアメッドの周囲の格闘を見ているようでもあったが、自分で気付くしかないんだろうな…。アメッドが「気付く」、というかぽろっと引き戻されるシチュエーションがあんまりにもあんまりなので、そこまでやられないとだめなのか!かつそこで終わるのか!という衝撃。
 アメッドはイスラムのコミュニティの中で生活しているが、イスラム教徒であっても信仰との向き合い方が様々な様子が垣間見えた。アメッドの学校の教師が地元のイスラムのコミュニティで、放課後学級でのイスラム語指導の仕方について話し合いをする。保護者の中には、授業の内容についてもあくまでコーラン上の言葉を扱うべきだという人も、将来働くためにも世俗的な言葉に慣れておくべきだという人も、様々だ。そういうコミュニティと関わり続ける教師の労力は大変なものだし、アメッドらに関わり続けようとする姿勢には頭が下がる。しかし彼女の誠意が地元のイスラム指導者は気に入らず、アメッドが起こす事件につながる。教師としてのまともさがリスクになる世界って何なのだろう。イスラム指導者とアメッドの言動から垣間見られるミソジニーの強烈さ・根深さもきつい。もし教師が男性だったら、彼らの敵意はここまでエスカレートしなかったのでは。

午後8時の訪問者(字幕版)
オリヴィエ・グルメ
2017-10-06


サンドラの週末(字幕版)
カトリーヌ・サレ
2015-11-27


『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』

 南北戦争時代のアメリカ。父親が北軍兵として戦地に赴いているマーチ家には、しっかり者のメグ(エマ・ワトソン)、わんぱくで作家志望のジョー(シアーシャ・ローナン)、内気で音楽好きのベス(エリザ・スカンレン)、絵を描くことが得意でおしゃまなエイミー(フローレンス・ピュー)の4姉妹と、優しい母(ローラ・ダーン)が暮らしていた。女性の働き口が限られていた時代、ジョーは作家になる夢を諦めずに突き進む。原作はルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』。監督はグレタ・ガーヴィグ。
 ニューヨークで作家を目指し下宿生活を始めたジョーが、家族と暮らした頃を折に触れて思い出すという、時制を行き来する構成。かつ、これが「書かれた」物語であるということが示唆される構成になっていく。邦題の評判がすこぶる悪かった本作だが、この構造が見えてくると案外的を得たものだったのかなと思えた。「わたしの」とはジョーの体験としての物語であり、彼女が記した物語ということでもある。一部メタ構造になっているのだ。 
 そして「わたし」には、原作者オルコットも含まれるのではないか。ジョーが出版社で言われる「ヒロインが結婚しないと作品は売れない(人気が出ない)」という言葉は、原作者であるオルコットが実際に言われたことだそうだ。オルコット自身は生涯独身だったが、作品を売る為に自作の中ではジョーを結婚させた。作家としては不本意だっただろう。彼女が本来望んでいたであろう展開を取り入れつついかに原作小説に添わせるか、というアクロバティックな構造なのだ。原作に忠実(実際、びっくりするくらい原作エピソードが盛り込まれている)でありつつ現代に即した作品になっており、ガーヴィグはこんなに腕のある人だったかと唸った。古典は古典として素晴らしいが、それを今作るのならどうやるか、ということをよくよく考えられている。
 自分で働き生計を立てることや資産を持つことが難しかった当時の女性にとって、結婚は自分や家族の生活を守る為の手段だった(現代でも未だその側面が強いというのがまた辛いが)。作中で言及されるようにまさに「結婚は経済」なのだ。マーチ伯母(メリル・ストリープ)がメグの結婚を祝福せずジョーを見込みなしとするのは、そういった社会背景がある。彼女自身は独身のままだったが、「お金があるからいいのよ」というわけだ。彼女はエイミーに資産家と結婚して家族を支えるのがあなたの役目だという。一家の命運を背負わされてしまうエイミーが気の毒だった。彼女の子供時代はあの瞬間に終わったのだなと。
 本作、4姉妹皆魅力的なのだが、特にエイミーの造形が新鮮だった。過去の映像作品では少々わがままでおしゃれでおしゃまなキャラクターとして描かれることが多かったと思うが、本作でもそれは踏襲されている。ただ、本作のエイミーは良くも悪くも普通の少女だ。メグのような美貌も、ジョーのような独立心と才能も、ベスのような天使の心も持ってはいない。可愛らしく聡明で絵の才能はあるが、どれもあくまで「ほどほど」。普通の女性に残されている道は経済の為の結婚である、というのはなんとも息苦しくやるせない。フローレンス・ピューが演じているというのも非常に効果的だった。貴婦人ぶりになんとなく、これはこの人の本分ではないのではという雰囲気が出るのだ。エイミーが後々ジョーやローリー(ティモシー・シャラメ)よりも大人びていくのは、年齢を重ねて大人になったというよりも、社会通念に自分を適応せざるをえなかったからだと思う。そういう形での子供時代の終わりはちょっと悲しいのだ。
 ジョーとローリーのじゃれあい、一緒に遊び回る姿は本当に幸福そうだ。男性/女性がまだ未分化な時代だから成立する幸福だったというのが寂しくもある。本来は分化した後も成立するはずのものだが、当時の(多分現代も)社会はそれを許さない。いつか失われる幸福だからこそより強烈に目に映るのか。

レディ・バード (字幕版)
ティモシー・シャラメ
2018-09-20


若草物語 1&2
ルイザ・メイ・オルコット
講談社
2019-12-12


『ジョゼとピラール』

 EUフィルムデーズにて配信で鑑賞。ポルトガル語圏唯一のノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴと、彼のパートナーであるピラールを追ったドキュメンタリー。2010年製作、監督はミゲル・ゴンサルヴェス・メンデス。
 サラマーゴといえばパンデミック小説とも言える『白の闇』(映画化された『ブラインドネス』も佳作だった)、そして今年はサラマーゴ没後10周年。半分は予期せずだがタイムリーな作品になってしまった。本作は晩年、80代のサラマーゴの活動を追うが、非常に若々しく精力的だ。執筆はもちろんだが、各種講演、シンポジウム、サイン会(時間と体力温存の為に献辞は遠慮願うというやり方)、はたまた次作の芝居に出演までという幅広い活動ぶり。しかもそれがスペイン(サラマーゴはスペインのランサローテ島にに移住)だけでなく様々な国で開催されるので、かなりあわただしく海外を飛び回ることになる。講演にもサイン会にも大勢の人が訪れ、文化や政治に関する発言も注目を集める。その注目度は日本における「作家」のあり方とは大分様子が違う。作家という立場のプライオリティの高さや、実際に彼の作品を読んでいる読者の多さが垣間見える。
 サラマーゴのあわただしい活動をマネージャー的にサポートするのがピラール。日常生活はもちろん、仕事のスケジュール管理やイベントの手配、マスコミ対応等、こちらもまた大変な仕事量。サラマーゴの絵画遠征にももちろん同行するし、一方で彼女自身の仕事もばりばりこなす。やたらとエネルギッシュなカップルなのだ。2人の会話の掛け合い、ぶつかり合いも小気味良い。ピラールがインタビュー内でプレジテントと呼ばれ「プレジデンテです」と訂正する(プレジデントは男性名詞、プレジデンテは女性名詞。プレジデンテという名詞が定着していないのはそのポジションが男性ばかりだからという文脈)様や、「セクシャルマイノリティに対して寛容ですよね」というな質問を投げかけられて寛容とかそういう問題でなくて(彼らは現に存在するわけだから)人権問題だと怒る様が彼女の人となり、立ち位置を示していた。
 とはいえば、サラマーゴも高齢は高齢なので、ある時点でがたっと調子を崩す。これが生々しくて(ドキュメンタリーだから当然「生」なんだけど)心がざわつく。彼の最晩年の映像だとわかっているだけに。それを支え続けるピラールの姿は、献身というよりも、チームの一員としての責務としてやっているように思えた。それが2人にとっての愛の形なのだろう。
 サラマーゴはポルトガルで生まれ育って、作家として成功した後にスペインで暮らすようになったという背景がある(当時のポルトガル政府の方針に同意できなかったらしい)。彼とポルトガル、スペインという2つの国の関係への言及が作中でやはり出てくるのだが、なかなか微妙。サラマーゴ展の開幕にポルトガル政府の関係者は出席しなかったというし、ポルトガルからは裏切り者扱いされている向きもあるのだろう。本人のアイデンティティはおそらくポルトガルにあり、祖国への愛もあるのだろうが、そこで生きやすいかどうかはまた別問題だ。

白の闇 (河出文庫)
ジョゼ・サラマーゴ
河出書房新社
2020-03-16


ブラインドネス スペシャル・エディション(初回限定生産2枚組) [DVD]
ガエル・ガルシア・ベルナル
角川エンタテインメント
2009-04-03


『3人の夫』

 配信で鑑賞。船の上で年老いた「父」と暮らす娼婦のムイ(クロエ・マーヤン)は、情人離れした性欲で次々と客を取っていた。彼女に恋した青年は彼女の「父」を口説き落として結婚し、陸上で新婚生活を始める。しかしムイの性欲は留まることがなく、また地上での生活にもなじめない様子だった。監督はフルーツ・チャン。
 とにかく男女が頻繁にセックスしている作品なのだが、ムイにとってはやらないと体調が悪くなる、死ぬくらいの必死さなので、あまりハッピーな感じではない。ムイにとっての自然な生き方は一般的な社会の中では不自然と捉えられる。また、彼女をとりまく3人の「夫」は協力して売春ビジネス(当然ムイを売るわけだが)を始め、ファミリービジネスとして勝手に盛り上がっていく。その盛り上がりはコミカルではあるが、ムイの意思を確認しようという様子が全然ないので少々気持ち悪い。
 とは言え、ムイの意思、彼女が自分をどう位置付けて何を感じているのかということは、一貫して示されない。もちろん彼女にも意思はあるのだが、それを他の人間がうかがい知ることが難しい。別の言語、別のルールで生きている存在のように見える。青年は彼女を伝説の人魚と重ねるが、まさに人魚のような異界の存在で、普通の人間社会からははみ出ている。海の上ではあんなに妖艶だったのに、陸で生活するうちどんどん色あせていく(撮影と演じるマーヤンの上手さが映える)のも人魚のようだ。海に帰りたくて彼女は暴れるのかもしれない。終盤、3人の夫たちは、彼女と共に異界に入っていくようにも思えた。最初はカラフルだった映像がどんどんモノクロに近づいていくのも、異界に近づいていく過程のようだった。
 ただ、ムイが「夢の女」すぎて今時これかと鼻につくところはある。意思疎通のできない、勝手に動いていく女という点では古典的な夢の女ではないと言えるが、性的な存在として都合がよすぎるようには思う。

三人の夫(字幕版)
チン・マンライ
2019-10-19


ハリウッド★ホンコン [DVD]
ウォン・ユーナン
レントラックジャパン
2003-12-19


『スケート・キッチン』

 郊外の住宅地に暮らす17歳のカミーユ(レイチェル・ビンベルク)はスケートボードに夢中だが、怪我が原因で母親からスケートボードを禁止されてしまう。こっそりとスケートボードをしに街に出掛けたカミーユは、女の子だけのスケートクルー「スケート・キッチン」に出会い、メンバーになる。しかしこのことで母親との関係はよりこじれてしまう。監督はクリスタル・モーゼル。
 カミーユが暮らしているのは住宅地(長屋風の集合住宅が並んでおり、わりと庶民的な雰囲気)だが、スケート・キッチンのクルーらがつるんでいる市街地に出るには、電車でそこそこ時間もお金もかかるらしい。ティーンエイジャーにとって距離とお金というのは大きなハードルだ。これは自分ではどうにもならない。
 そしてどういう親の元で生活しているかということも、自分ではどうにもならない。このもどかしさは万国共通だろう。カミーユの母親は決して悪い人ではないし母親としての責任を担える人ではあるが、娘が愛しているもの、彼女の内面の世界についてはあまり理解していない。母親としてはスケートボードは危ないからやめてほしい、せっかくかわいいんだからメイクしておしゃれすればいいのに…という気持ちなのだろうが、それはカミーユがやりたいこと、やりたいファッションとはずれている。心配とは言え、娘のフィールドに土足で踏み込んでくるのはちょっといただけない。友達の前で親と揉めなければならないのはきついなあ(特に10代にとっては)と、あるシーンを見ていていたたまれなくなった。母親は娘が自分が思う「娘」像とは大分違う人間らしいということになかなか気づかないのか、受け入れられないのか。ラストで若干歩み寄りが見えてほっとしたが。最終的に戻るのが親元の「家」であるのは、カミーユの年齢を考えると年齢相応なのだ。

 自宅と街との距離は、カミーユと母親との距離にも思える。かといって彼女が別居している父親の元に行きたいのかというとそういうわけでもない。後にカミーユが自分で家族の事情を口にするのだが、娘が成長していくことを受け入れられない(大人の女性の身体になっていくことを相談できる相手ではない)父親というのはかなり問題があるのでは…。カミーユの生理用品に関する知識に偏りがあって、17,18歳でその理解って大分ずれているのでは?と思ったのだが、そういうことをちゃんと教えてくれる・話し合える相手がいなかったということで、それは心細いだろう。彼女がスケート・キッチンの仲間と一緒にいたがるのはそういう話ができるから、というのも一因なのだと思う。
 女の子たちがボードで町中を疾走し、大声で笑ったり怒鳴ったりしているは小気味良い。よく描かれがちな「女子ならでは」みたいな感じではなく、単につるんで騒いでいるというニュートラルさ、雑さがいいのだ。ただ、会話の中では女性だから遭遇する不愉快さや迷惑行為などがぽろぽろ出てきてなかなかしんどい。また、男の子が絡むと一気にいわゆる「女の子集団にありがちな面倒くささ」みたいな表現になってしまうのは残念だった。恋愛であれ友情であれ個対個の関係だから、親友である自分への報告がないことをそんなに怒ったり裏切り者扱いするか?と思っちゃうんだけど…。

スケート・キッチン(字幕版)
ジェイデン・スミス
2020-04-01



SK8R’S(3) (ビッグコミックス)
トジツキハジメ
小学館
2015-07-10


『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』

 ダウン症の青年ザック(ザック・ゴッツァーゲン)は長年の夢だったプロレスラーの養成学校に入る為、施設を脱走する。その道中で漁師のタイラー(シャイア・ラブーフ)と出会い旅を共にするが、彼は漁師仲間の獲物を盗み網に火をつけたことで追われる身だった。ザックを追ってきた介護士のエレノア(ダコタ・ジョンソン)も加わり、ザックを目的地に送り届けようとする。監督はタイラー・ニルソン&マイケル・シュワルツ。
 ザックが暮らしているのはどうやら老人ホームらしいのだが、高齢者介護と障碍者支援とは別のスキルを必要とするものだろう。多分、他に手近な施設がないから無理やり入れられているんだろうが、ザックに適切な手助けをしてくれる、あるいは適切な施設を手配してくれる家族が介助者がいないということなのだろう。エレノアはザックのことを気にかけてはいるが、過保護すぎて彼に出来ることを見落としている。見た限りではザックは身の回りのことはそこそこ自分で出来るし、つきっきりでケアをしなければならないというわけでもない。ザックは自分が本来がいるべきではない場所から脱出したのだと言える。
 タイラーも同様で、地元の漁師仲間との関係は修復しようがない。彼の自暴自棄な振る舞いは兄の死によるものだとわかってくる。兄がタイラーにとってのいるべき場所で、彼はその場所を失ってしまったのだ。エレノアについても、タイラーと同様に大切な人と離別している。居場所をなくした人たちが自分がいるべき場所を見つけにいくロードムービーだと言える。いるべき場所とは具体的な場があるというよりも、ここは自分がいるべき場所だと思わせてくる人がいるかどうかなのだろう。
 心温まるストーリーではあるのだが、話の軸もディティールもわりとぼんやりしている。3人の間に何で信頼関係が成立したのかという描写が大分ふわっとしており、多分にご都合主義的だ。そんな簡単に流されちゃうの?!という感じは否めない。全体的に散漫な所が残念だ。音楽も含め、アメリカ南部の風土には魅力があるので勿体ない。なお、シャイア・ラブーフ出演作を久々に見たのだが、年齢重ねて痩せてきたらクリスチャン・ベールに似てきた気がする。

ザ・ピーナッツバター・ファルコン [Blu-ray]
トーマス・ヘイデン・チャーチ
Happinet
2020-08-05



ハックルベリー・フィンの冒けん
マーク・トウェイン
研究社
2017-12-19


『精神0』

 2008年に製作された『精神』に登場した山本昌知医師は、82歳を迎え引退することに決める。「病気ではなく人を看る」「本人の話に耳を傾ける」「人薬(ひとぐすり)」をモットーに、長年患者と対峙し続けてきた医師の引退に、戸惑い不安を示す患者たち。一方で山本医師には妻・芳子さんとの生活があった。監督は想田和弘。
 前作から12年後、。山本医師が引退を決めても不思議ではないが、どういう形で医師という仕事に幕引きをするのか難しい。患者たちには引退することは伝えてあり、引継ぎ先の医師も紹介しているが、患者側は不安と戸惑いが隠せない。医師と患者の関係が深く信頼が厚いほど他の医師への変更には抵抗があるだろう。2者の関係が長年続きがち(それこそ10年20年なんてざらだろう)、かつ信頼関係が治療に直結している精神科ではその傾向はより顕著なのでは。特に山本医師の患者は症状が重度かつ長期の通院をしている方が多いので、なおいっそうだと思う。山本医師の「病気ではなく人を看る」「本人の話に耳を傾ける」「人薬(ひとぐすり)」という診療方針は個人と個人として相手を尊重するものだが、それは山本医師という一個人と結びついている。同じような姿勢を持った医師であっても、患者にとっては替わりにならない。山本医師の診察でないとだめなのだ。医師も年を取っていつかは引退していく(だけでなく病気や事故等色々な都合があるだろうが)以上、個人の特性に結びつきすぎた医療は危ういのかもしれないが、個として行うからこそ上手くいくというジレンマがある。遠方でも通う、先生でないと困るという患者側の必死さが伝わってきた。これは、他の精神科医、日本の病院の精神科医療に対する不信感の表れかもしれないが。
 精神科医としての山本医師の店じまいが前半だとすると、後半は山本医師と妻である芳子さんとの関係にフォーカスしていく。これは最初からそのつもりで撮影されたわけではなく、お二人の状況の経緯上そうなっていったということなのだと思うが、正直なところ前半をもっと見てみたかった。作品の軸が大分揺らいでしまっている。ただ、その揺らぎが「観察映画」の持ち味でもあるだろう。今回は山本医師も患者も想田監督とは既知の関係であり、そのせいで撮影者も全くの観察者には徹しにくくなっている。話しかけられる頻度は高くなるし、自宅で一緒に寿司を食べようと言われたりするし、ここは踏み込むべきか引くべきかという監督の躊躇があったように思う。被写体が観察者を巻き込む度合いが高くなっているのだ。特に自宅で山本医師がお茶を出そうとするくだりや、墓参りのくだりなど、うっかり手を貸してしまいそうな危うさがある。過去作品を見ると想田監督は相当ハートが強いようだが、本作のようなシチュエーションで踏みとどまるにも別方向でのハートの強さが必要そう。
 山本夫妻の老々介護の生活には、自分の祖父母を思い出した。芳子さんが引き出しを探っていたりテーブルの上のものをいじってみたり、何かしようとする気持ちはあるが何をどうすればいいのか、点と点が繋がっていない感じは痴呆が進みつつあった時期の祖母の行動に重なり切ない。山本医師のゆっくりとした動きと息遣いは、晩年の祖父のものにとても似ていた(祖父は炊事に慣れていたが)。

精神 [DVD]
ドキュメンタリー映画
紀伊國屋書店
2010-07-24


港町 [DVD]
紀伊國屋書店
2019-05-25


『白い暴動』

 配信で鑑賞。経済が破綻状態にあり、働き口と福祉を奪われる不満から移民排斥主義運動が高まっていた、1970年代後半のイギリス。イギリス国民戦線(NF)を中心に排斥運動の過激化が進む中、芸術家のレッド・ソーンダズらは差別に対してロックで対抗する組織「ロック・アゲインスト・レイシズム(ARA)」を発足。ザ・クラッシュ、スティール・パルスらパンクやレゲエミュージシャンのライブを開催し反レイシズムを訴える彼らの活動は、多くの若者たちに支持されていく。監督はルビカ・シャー。
 RARの活動を追ったドキュメンタリーだが、レッドにしろ中心的スタッフのケイト・ウェブにしろ、表現は政治活動であるという認識は一貫している。これは日本だとなかなか抵抗を感じる人が多いし反感をかいそう。とは言え、社会の中で生きている以上政治にかかわらない活動というものはない(政治的主張を表現活動として表現するかどうかはまた別の話だし、やってもやらなくてもいい)。アーティストが政治を語ると「がっかりした」等の声が湧き出る今の日本とは大分様子が違う。当時はデビッド・ボウイやエリック・クラプトンまでNF支持を表明していたというから、そこに反対していったレッドらの覚悟は相当なものだったろう。実際、激しい嫌がらせにあったり知人から身辺に気を付けるよう忠告されたと言う。
 ARAのユニークな所は、NFの支持層である白人青年たちに人気のパンクバンドをイベントに起用して、そのファンとの対話を試みたという所だろう。ある意味、人間に対する信頼があるからできることではないかと思う。また、人種差別だけでなく性差別、LGBT差別、宗教や経済格差等、様々な差別問題を不公正なものとして包括的に反対運動が進められていた点も面白い。不公正・不正義には声を上げろという姿勢が一貫している。1978年のデモとフェスには10万人以上の人が集まったというから、その姿勢が様々な人々の共感を呼び行動されたということになる。相当数の人びとが声を上げたという所に健全さと言うか、救いがある。正直羨ましい。インタビューされた若者が「NFは国の問題を個人の問題にしている」と話していたのも印象に残った。国の経済状況が落ち目になると排斥運動は起こりやすく、それは経済問題だし、レイシズムへの流れを押し止めるのは「差別をやめましょう」という道徳よりも、国の経済政策やアナウンス、教育によるものだということだろう。
 RARの広報誌の紙面が結構かっこよく、何かを訴える為にはデザイン、ビジュアルも大事なんだなと改めて感じた。若い層の支持を得たというのはこういう要素もあったからだろう。なお、ザ・クラッシュは右翼的な白人男性の支持が強かったそうだが、バンドメンバーは「歌詞ちゃんと読めよ!(レイシズム要素はないから)」と話しているのがおかしかった。

白い暴動 (字幕版)
スティール・パルス


白い暴動
ザ・クラッシュ
SMJ
2013-03-06


『PSYCO-PASS3 FIRST INSPECTOR』

 2120年、シビュラシステムによって管理された社会。刑事の慎導灼(梶裕貴)と炯・ミハイル・イグナトフ(中村悠一)は連続テロ事件の背後にある陰謀、そして過去の灼の父の死の謎と炯の兄の死の謎を追い続けていた。ある陰謀の為に暗躍する梓澤廣一(堀内賢雄)は、刑事課職員たちを人質にとり公安局ビルを占拠。人質を解放する条件として都知事・小宮カリナ(日笠陽子)の辞任を求めてくる。監督は塩谷直義。脚本はTVシリーズから引き続き冲方丁・深見真。
 TVシリーズの3シーズン目最終回から直接つながっているストーリーなので、基本的にシリーズを追ってきた人向け。そういう意味では劇場版作品というよりシリーズの一環としてイベント的に劇場上映したという体なのだろう(実際、劇場では2週間限定上映でメインは配信だし)。でも、だったら全部ちゃんとTVシリーズとして放送してほしかったな…。しかもきれいに完結するわけではなく、もうちょっと続くよ!アピールを残した終わり方なので。どちらにしろ続きがリリースされれば見るつもりだけど、メディア・形態を変えつつずるずる続けるというのは個人的にはあまり好きではない。とは言え、それと本作が面白いかどうかは別問題だが(面白いです)。またシリーズを見続けてきた人にとっては、この人はこういう風に変化したのか等、感慨深い部分も多いと思う。
 とは言えこのシリーズ、作品のクオリティとは別問題として本来は自分の嗜好にはそんなに沿っていないんだなということの確認にもなった。本シリーズはシビュラという高クオリティ管理社会システムとでもいうべきものの管理下にある社会と、そのシステムの中で適応する、あるいは適応しきれなかったりすり抜けたりする人々を描いてきた。そしてシリーズ3ではシュビラの盲点をついて「ゲーム」を行い勝ち残ろうとするグループが登場する。ディストピアSFとして王道と言えば王道、それなりに面白いが、私個人はシステムの中で生き残ることやシステムを出し抜くこと、ゲームをする・ゲームに勝ち抜くことにあんまり興味がない。本作に限らずゲームのルールを掌握することやシステムの穴を突くストーリー、特権的な視点が物語世界を俯瞰する構造に一種の全能感を持つ観客は多そうだが、個人的にははまらない。なので、作中で梓澤が持っている願望は随分と退屈なものに思えた。それ、何か楽しい…?
 では自分が本シリーズ(特にSinners of the System以降)の何が好みと言ったら、やはりアニメーション表現の部分、特にアニメーションで実写的な組み立てのアクション演技をどう見せるかという部分だ。一連のアクションがどうつながっているのかわかるよう、キャラクターの全身を見せてくれるあたりが楽しい。この点は、俳優(ないしはスタントマン)の身体能力に依存する実写よりも有利かもしれない。ヘリや宜野座の義手を使ったアクションシーン等、やりたかったんだろうなぁ。ストーリー上そんなに必然性ないから。


『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』

 2006年。人気俳優のジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)が29歳で突然死した。10年後、若手俳優のルパート・ターナー(ベン・シュネッツァー)は著書出版に際したインタビューを受けていた。ジョンの大ファンだったルパート(ジェイコブ・トンブレイ)は、11歳の頃、彼と文通しており100通以上の手紙を交わした。その内容を本に記したのだ。監督はグザヴィエ・ドラン。
 ドラン監督の作品は常に感情の圧が高く、そこで好き嫌いが分かれそうな気がするが、本作は割と間口が広いように思う。青年ルパートの目を通したジョンの生涯という入れ子構造の立て付けなので、感情にフィルターがかかっている。「私の声」としての生々しさやどぎつさは若干和らぐのだ。また、これまでのドラン作品と同じようにジョンと母親との間、またルパートと母親との間には愛があると同時に大きな拗れ、わだかまりがある。ただ、その描写もさほどとげとげしいものではない(とは言え実家帰省のシーンなどを見ると、こんな親子関係・親戚関係だったらちょっとしんどいなとは思わせるけど)。根底には愛があり共感が生まれる瞬間もある。加えて少年ルパートの母親(ナタリー・ポートマン)は息子の為に本気で奔走し、それがルパートの心を再び動かす。2人の心が通う感動的な瞬間があるが、この瞬間がなければ後のルパートはいなかったかもしれない。これはおそらくジョンが得られなかった体験で、あったかもしれないジョンの人生をルパートがやりなおしているようにも見えるのだ。親子関係の運任せな部分を垣間見たようで切なくもあるのだが。
 とは言え、本作に出てくるジョンのエピソードは、ルパートが語るものという側面が強い。実際の彼がこのようだったかどうかはわからない。ルパートは信用できない語り手でもあるのだ。彼が必要とした物語が本作におけるジョンの物語であり、彼がジョンに自分を重ねることで生まれた物語とも考えられる。憧れのスターに自分を重ねる、共感を重ねるという気持ちは個人的にはあまりわからないのだが、こういう物語の在り方を必要とする人はいるし、スターはそれを許容するからこそスターなのかなとも思えた。
 それにしても、ジョンが生きていた2006年は思った以上に窮屈そうで、意外だった。セクシャリティに対する許容度ってアメリカでもこんなものだったのかな?対して、2016年を舞台とするラストシーンの幸福感がまぶしい。ある映画へのオマージュになっているのだが、ここで堂々とハッピーエンド感を出せる所が2020年(作中は2016年、製作は2018年だが)なのだと思う。

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2017-09-06


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