3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画題名か行

『栗の森の物語』

 1950年代、イタリアとユーゴスラビアの国境に位置する、栗の森に囲まれた小さな村。長引く政情不安から、人々は村を離れていった。老大工マリオ(マッシモ・デ・フランコビッチ)は音信不通の息子からの便りを待ち、妻と共に村に留まり続けていた。栗売りのマルタ(イバナ・ロスチ)は、戦争へ行ったまま帰ってこない夫を待ち続けている。数通の手紙の内容によると、夫はオーストラリアにいるらしい。監督はグレゴル・ボジッチ。
 映像が非常に美しい。森の風景がそもそも魅力的なのだが、ライティングと色合い、質感の調整がとても美しい。監督はフェルメールやレンブラント等のオランダ印象派の画家に影響を受けたそうで、ライティングの繊細さも頷ける。特に室内のライティングは確かにフェルメールっぽい。暗い部分は本当に暗くてぱっと見何が起きているのかわかりにくかったりもするのだが、その分、光本来の稀さみたいなものが感じられる。舞台となる季節は栗の収穫時期である秋から初冬にかけてと思われるのだが、空気の冷たさや木や草の匂いまで感じられそうな映像。花だか綿毛だかみたいなものが舞うシーンなど非常に美しく刺さってきた。自分の中の原風景みたいなものに触れる感じ。ただこの美しさは、その中に実際に暮らしていないから無防備に享受できるものではないかという気もした。かつてここに住んでいた人たちの記憶としての美しさなのか、全くの部外者だから他人事として受け止められる美しさなのか。
 人々は村から離れていき、見捨てられた地になっていくわけだが、土地の記憶は残る。作中に登場する亡霊たちはその記憶で、それが生きている人たちを迎えに来ているように思えた。故郷を捨てることは悲しいことではあるのだろうが、その土地から解放されるという面もある。特に女性にとってはそういう面が強いのではないかと、マルタの姿を見ていて思った。馬車に乗っていた2人の女性(この人たちが村から出て行くのかはわからないが)も全然悲壮感なくて楽しそうだ。マルコの妻への態度は彼固有のものというより、そういう文化の土地なのだという側面が強そう。そりゃあ出て行きたくなるよな。

ノベンバー
ディーター・ラーザー
2023-11-08


帰れない山
スラクシャ・パンタ
2023-11-08






『心は孤独な狩人』

 1930年代末、アメリカ南部の町。聾唖の男シンガーは、一緒に暮らしていたやはり聾唖のアントナプロースが施設に入れられたことで、町の下宿屋に部屋を借りて近くのカフェに通うようになる。カフェの店主ビフ、カフェに通う少女ミック、ミックの家で働く黒人女性ポーシャとその父親であるコープランド医師、流れ者のジェイク。カフェに集う人々の語りをシンガーは静かに受け止めるように見えた。
 シンガーは耳は聞こえないが、人の唇の動きを見て相手の話を理解する。彼の「聞き方」は相手に信頼感を抱かせシンガーは自分のことを分かってくれる、受け止めてくれると思うわけだが、シンガーにとってはそういうわけでもない。誠実に話を聞いてはいるが、相手がそこを過剰評価しており、シンガーにはシンガーの都合があるということを彼が発言できない故に失念しているのだ。そのすれ違いがシンガーをiある種神格化していく。シンガー本人とのずれが徐々に気持ち悪くなってきた。本作は群像劇だが、登場する人たちは交流はあるがお互いに相手のことをよくわかっていない。章ごとに主人公格が交代していくので、親しいつもりが一方通行だったという様が露わになっていくのだ。皆自分のことで精いっぱいで他人のことを考える余裕があまりないという面もある。社会的、経済的、精神的に追い詰められていく人ばかりだ。彼らはその苦しみをシンガーに吐き出すが、シンガーにもまた苦しみがある。彼の苦しみだけ誰にもわからない(他の人たちのものは多少周囲にわかる)というのがまた痛ましい。
 登場人物たちの造形の多くは現代では「クィア」と称されるものだろう。それが彼らを世の中の多数派から遠ざける。特にビフのミックに対する渇望のようなものは大分まずいと思われるのだが、本人もうすうす自覚がある、ただあの時代ではこれを何と名付けどう対処していいかわからないからより混乱するのでは。

心は孤独な狩人
マッカラーズ,カーソン
新潮社
2020-08-27


結婚式のメンバー (新潮文庫)
マッカラーズ,カーソン
新潮社
2016-03-27




『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

 1956年、日本の政財界を裏で牛耳る龍賀一族の当主が死亡した。血液銀行に勤める水木(木内秀信)はその弔問という建前で、会社から密命を受けて龍賀一族の本拠地である哭倉村を訪れる。次期党首の座を巡り、村には険呑な空気が漂っていた。そんな中、遺言により次期党首に選ばれた者が何者かによって殺害される。村にさ迷いこんだ謎の男(関俊彦)が捕らえられるが、彼は行方不明の妻を探しているのだと言う。水木は謎の男と協力して龍賀一族の秘密を探り始める。監督は古賀豪。『ゲゲゲの鬼太郎』原作者である水木しげるの生誕100周年記念作品となる。
 2018〜20年に放送されたテレビアニメシリーズ「ゲゲゲの鬼太郎」第6期をベースに、鬼太郎の父親である目玉おやじの過去と鬼太郎誕生にまつわる物語を描く長篇作品。本作の舞台は太平洋戦争後、これから高度成長期を迎えようという1956年だが、現代パートもあり、鬼太郎(第6期ver)も登場する。とは言えメインは1956年、鬼太郎第6期に少しだけ登場したことがあり、一部でやたらと人気だった鬼太郎の父親と彼と出会う人間・水木が中心となる物語。テレビシリーズを彷彿とさせる様式としての派手なバトルシーン(なんというか、あー東映アニメーション!という気分になる)がある一方で、妙に個性的なアクション作画もあり、また時代設定を踏まえた美術面も力が入っていてビジュアル面はなかなか楽しい。ストーリーも、因習にまみれた村で陰惨な殺人事件勃発、そこに巻き込まれる探偵役というまんま横溝正史的なフォーマットにゲゲゲの鬼太郎世界を落とし込み、更に謎の男と水木との交流と友情も盛り込むという、というミステリ+怪奇+バディームービーという盛りの良さ。
 本作、おそらく暴力描写故にPG12設定なのだが、そもそも時代設定やストーリーは大人向けだろう。太平洋戦争の記憶はまだ生生しいものの、社会は経済的復興に向けて邁進していく。水木もその流れに乗り、戦地での記憶を封印して出世のみを目標にがむしゃらに進む。そういった熱気が急速な復興を支えたという側面はあるだろうが、一方向への大きな流れの中で切り捨てられていくもの、踏み台にされていくものがあるということが、物語の根底になっているのだ。(6期鬼太郎はわりとそういう側面があるが)本作の怪奇と謎のベースにはこの構造が織り込まれており、予想外に戦中~戦後、そして現代へ至る日本社会への視線と批評がある。ことの顛末を目撃した水木はある人物の生き方に対して「つまらない」と言うが、この言葉が画一的な「成功」「成長」を目指してきた社会に対するカウンターになっており、それは原作の精神を踏まえたものではないかと思う。エンドロールまでみっしりと使ったストーリー展開になっているのだが、原作ファンにはここでそうきたか!といううれしさがあるのでは。更にこの人たちがいたからこその鬼太郎(本作では原則6期verで、原作鬼太郎とのテイストは違うと思うが)のキャラクターであるという、人間と共に生きようとする妖怪という人物造形の説得力が生まれてくるあたりにもファンとしてはぐっとくる。


墓場鬼太郎 第一集 [DVD]
野沢雅子
角川エンタテインメント
2008-04-23


 

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』

 1920年代、オクラホマ州オーセージ郡の居留地に暮らす先住民オーセージ族は、この土地で石油が見つかり発掘が行われたことによって莫大な富を得た。しかしその富に目を付けた白人は「後見人」制度を作って彼らを操り、支配しようとしていた。伯父ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼ってオーセージ郡にやってきたアーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)はオーセージ族の女性モーリー・カイル(リリー・グラッドストーン)と結婚する。モーリーには姉妹がいたが病気や他殺で次々に亡くなる。町では彼女らの他にもオーセージ族の人々が多数亡くなっていた。原作はジャーナリストのデビッド・グランによるベストセラーノンフィクション『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』(文庫版は映画と同題名)。監督はマーティン・スコセッシ。
 面白いがやはり長い(206分)。この長さが必要だということは理解できるが上映時間が劇場へ行くことのハードルを上げているのは勿体ない。また、ストーリー構成も力作だが少々勿体なさというか、それでいいのかと気になる所があった。私は原作を先に読んでから見たのだが、それ故映画の切り口の難点が目についた。ドラマとして成立するようによく構成しなおしてあるなと感心はしたが、この切り口だと原作で書かれてた本質的な問題から目が逸れてしまうのではないかと思う。
 本作(映画)だと主人公格はアーネストで、彼が伯父であり一帯を仕切る有力者であるヘイルの計略に取り込まれていくという構図が前面に出ている。アーネストは頭はそれほど切れないがヘイルからの指示を忠実にこなす程度の器用さはある。ただ自分がしていることがどういう意味を持つのかまでは考えない。彼の愚かさが目につくということもあり、ある男が一族のしがらみ、ファミリービジネスから逃れられないという話に見えてくる。そうなると、連続殺人事件はある一族が欲に駆られて行った犯行と解釈されるのではないかと思う。
 ただ、確かにあるヘイルが主導で行ったという側面はあるが、その背後にあるのは何なのかという所がこの話の重要な所だろう。連続殺人の背景にあるのは後見人制度に見られるようなオーセージ族に対する搾取の構造、「先住民は殺してもいい存在だ」という強烈な人種差別だ。これは特定の一族に限ったことではなく、白人社会全体にあった通念だろう。作中で後見人制度やモーリーに対する「無能者」というカテゴライズ等でその背景は察せられるが、当のオーセージ族がどのように感じていたのかという面はあまり見えない。本作はあくまで白人側の物語なのだ。モーリーに存在感があるだけに、彼女(ら)側の物語として描いた方が史実に対して誠実だったのではないかと思う。本作の構造だと、ラストに自虐ネタのように挿入されるショーと同じく「白人向けエンターテイメント」になりかねないのではないか。原作は大量の資料と調査に基づく力作であり、原作に基づく本作もオーセージ族の文化・歴史へのリサーチ等はきちんと行っているようだし、オーセージ族の登場人物には実際に先住民の俳優を起用しているようなので、非常に勿体ないと思う。


グッドフェローズ (字幕版)
ジョー・ペシ
2014-02-24








 
 

『カンダハル 突破せよ』

 イラン国内で核開発施設の破壊工作を行ったCIA工作員トム・ハリス(ジェラルド・バトラー)は、娘の卒業式に出席する為に急ぎ帰国の準備をしていた。しかし新たな任務を依頼され、通訳モーことモハメド(ナビド・ネバーガン)と合流。しかしCIAの内部告発によりマスコミに情報が洩れ、トムの正体が明らかとなってしまう。トムが中東から脱出するには、30時間後に離陸する英国SAS連隊の飛行機に搭乗するしかない。モーと共にアフガニスタン南部のカンダハルにあるCIA基地を目指すが、イランの精鋭集団・コッズ部隊、パキスタン軍統合情報局(ISI)、タリバンの一派により追われることになる。監督はリック・ローマン・ウォー。
 時代設定は明言されていないものの、米軍撤退後の出来事ということは示唆される。要するにトムのミッションはCIAの指示でバックアップは受けているが非公式のものであり、ことが公になったら国際的な非難は免れないということだ。だからCIAから内部告発があったということになる。そういう背景なのでCIAもおおっぴらにはトムを支援できない。一方でイランのコッズ舞台にしろSISにしろタリバンにしろ、それぞれの思惑があり「反米」であっても必ずしも利害関係が一致しているわけではない。そしてどの組織も優位に立ちたい・勝ちたいが、必ずしもイコール戦争を終わらせるということではない。イラン政府はタリバンからの非難を恐れ、ISIを煙たがっている様子や、ISIはタリバンに接近するが全面的に支持しているわけでもなさそうな様子が見える。こういった各組織間の関係が手際よく提示され、特に前半の脚本の出来がいい。内容的には自分にとってあまり見ないジャンルの作品なのだが、組み立てがしっかりしている感じ。終盤の火薬大盤振る舞いは少々大味かなと思ったが、逆に考えるとこういう背景がある以上、あれくらいしか落としどころがない(当然、現実の中では更に落としどころが難しい)ということだろう。予想外に真面目に練られた作品だった。
 一方で、トムをはじめ登場人物たちの人間ドラマにもきちんと注力されている。トムは工作員としては非常に敏腕・豪胆であることが冒頭から示唆されるが、同時にちょっとやばい人というか、危機的状況が好すぎるから家庭が破綻しても戦地から離れられないのでは?という疑問が湧いてくる。娘の卒業式に出たいんだと新ミッションを渋るものの、いざミーティングに入ると急に生き生きし始めるのだ。パンフレットを読んだらやはり戦争依存気味であるという意図で演出されているそうで、なるほどと。娘へのプレゼントを何にすればいいかわからず迷うシーンも、月並みではあるが長期間顔を合わせていない(成長度合いがわからない)ことが的確に示唆され、バトラーの困惑顔もあいまって悪くなかった。またコッズ部隊の生真面目で本来は不条理な命には従いたくない素振りや、ISIエージェントの組織の因習には嫌気がさしている、しかし組織に忠実でいざるをないという裏腹さ等、どの登場人物も立体的に見せたいという意図が感じられた。
 ジェラルド・バトラーというと絶対死ななそうなアクション映画主人公というイメージがあるし本作もまあその系譜ではあるのだろうが、実はもっと幅が広い、使い勝手のいい俳優だと思う。調べてみたら自分も意外と出演作見ていた。

ザ・アウトロー[Blu-ray]
ジェラルド・バトラー
ポニーキャニオン
2019-02-20

エンド・オブ・キングダム(字幕版)
アロン・モニ・アブトゥブール
2022-03-03


 

『熊は、いない』

 ジャファル・パナヒ監督(ジャファル・パナヒ)はトルコで偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている若い男女を主人公にした映画の製作中だ。イランでの映画製作は政府から禁じられている為、国境近くの村からリモートで助監督レザに指示を出して撮影を行っている。ある日、滞在先の村の住民がパナヒを訪ねてくる。昔からの掟で許嫁同士の男女がいるが、女性に思いを寄せるもう1人の男性がおりもめているというのだ。監督・脚本・主演はジャファル・パナヒ。
 パナヒ監督が自身をモデルにしたような同名の監督を演じ、そのパナヒが撮影している作中作、その撮影のスタッフと出演者、そして監督であるパナヒが滞在している村での出来事という3層から成るストーリーだ。トルコの男女が偽造パスポートを使って出国しようとしていることが冒頭で提示され、さらにそれが撮影中の映画の中の話だということがわかる。じゃあ監督はどこにいるのかというと遠く離れた場所からリモートで指示を送っているとわかるというふうに、映画を見る側の視点がストーリー構成の層を移動していく。どういう構成になっているのかを感覚にすんなりとわからせるつなぎ方が上手い。Wifiが弱くて現場への指示がままならなかったり、村人がやたらと絡んできたりとユーモラスに始まるのだが、徐々に不穏な雰囲気になってくる。俳優カップルは現実でも出国を何度も試みているが上手くいかず困っている。村人たちはパナヒが村の慣習を妨害するのではと彼に不信感を募らせていく。村人たちがパナヒの顔をつぶさないようにという体で徐々に圧をかけてくる様はザ・田舎!という感じ。
 という撮影現場と村には共に国境を越えて逃げようとしているカップルがいる。どちらのカップルも、この国・村では自由に生きることができないからだ。どちらのカップルも自分たちの人生がかかっており葛藤は深い。そんな中、俳優カップルが抱える事情を踏まえつつ、そういう問題を抱えていたカップルが無事に出国できたというストーリーを演じさせ、それを「希望のある物語」として提示するという行為は残酷なものではないかという側面が見えてくる。ことにその「希望」は当事者ではなく監督や映画観客が想定している(都合のいい)ものだとすると。本作の監督であるパナヒは自分たちの行為の不遜さに自覚的で、それに対する批判も引き受けなくてはならないという覚悟が見えた。現実の脱出の顛末には、監督は何ら関わることが出来ないしその結果生じたことに責任を持つこともできない。そういう立ち位置で出演者の人生に立ち入ることは果たしてフェアなのかと、作劇法自体が問われていくのだ。
 2組のカップルのうち、1組のカップルの女性は最後まで姿を現さない。彼女に思いを寄せる男性や村の人々は彼女の心情はああだこうだと言うが、本人の言葉が語られることはない。許嫁ではない男性と愛し合ったという話だが、それが真実なのかどうかは結局わからない。俳優カップルの女性も私の願いを勝手に決めるなと怒る。女性たちの声に直接耳を傾ける人がいないのだ。彼女らが脱出したいのはこういう環境なのではないかと思えるが、それも確かめられることがない。声自体ないことにされているままなのだ。

これは映画ではない [DVD]
モジタバ・ミルタマスブ
紀伊國屋書店
2015-05-30


人生タクシー (字幕版)
ジャファル・パナヒ
2021-10-01




『グレイラットの殺人』

M・W・クレイヴン著、東野さやか訳
 貸金庫を襲った強盗団のうち1人が現場で殺され、ネズミの置物が残された。その3年後、サミット開催が迫る中、要人搬送用ヘリコプター会社の社長が殺された。サミットを狙ったテロを懸念する政府は、殺人事件の専門家としてポーに捜査を命じる。しかしMI5の存在はポーには邪魔なだけで捜査はなかなか進まない。それでも手がかりを追っていく中、容疑者が浮上するものの状況は二転三転していく。
 刑事ワシントン・ポーシリーズ4作目。冒頭はちょっとユーモラスでこんな映画過去に見たことあるような気が…と思ったらいきなりシリアスになる。これが真相と思ったら新たな展開、そしてまた新たな事実、そして背後にあるものは…という組み立て方、ミステリ・サスペンスの要素が多方向にてんこ盛りになっている、ちょっとやりすぎなサービス精神の旺盛さは前作『キュレーターの殺人』の構成と似ているように思う。1作の中に何作も入っているような感じなのだ。ただ、著者あとがき(これがまた長い)によるとプロット自体は本作の方が先にできており、一旦保留されていたネタだそうだ。ちゃんと再利用できてよかった!ただ、ミステリ・サスペンスとしては盛りが良すぎてちょっと食傷気味になった。このへんでもう打ち止めにしては…という所で更に追加していくのは作風なのか。これはちょっと不自然では?と気になった部分がちゃんと回収されているのはよかったが。
 ポーの仲間は相棒のティリーを筆頭に女性ばかり。ポーがそこに何か思う所あるわけでもなく、キャラクター小説的なサービス感というわけでもなく、単に有能な人材が女性だったという温度感は現代的だと思う。ポーは逆に男性集団の中での方がやりにくいタイプなのかもしれない。男性集団特有のマウントとグルーミングが一体になったようなノリに興味なさそうだ。タフでひねくれものの一匹狼タイプというといかにもマッチョそうだが、意外とマッチョではないという所がポーの良さではないか。





『グランツーリスモ』

 カーレースゲーム「グランツーリスモ」に熱中する青年ヤン・マーデンボロー(アーチー・マデクウィ)は、ゲームのトッププレイヤーたちを本物のレーサーとして育成するプログラム「GTアカデミー」に選抜される。プログラムの発起人ダニー(オーランド・ブルーム)は、ゲームプレイヤーの才能と可能性を信じ賭けに出たのだ。一方、指導を引き受けた元名レーサーのジャック(デビッド・ハーパー)は現実のレースの世界はゲームプレイヤーが対応できるような甘いものではないと考えていた。世界中から集められたトッププレイヤーたちが厳しいトレーニングに挑む中、ヤンは徐々に頭角を現していく。監督はニール・ブロムカンプ。
 グランツーリスモというゲームはゲームではなくレースシュミレータだという製作者側の言葉が作中で出てくる。カーレースの楽しさ、レーシングカーの美しさ・かっこよさを伝えたい、それが車を持つという文化が生き残る道だと。そういう意味では本作はグランツーリスモの精神に誠実に沿っていると言えるだろう。車はかっこいいし楽しい、自在に運転できるともっと楽しいという高揚感が伝わってくる。ソニーと日産のプロモーション映画という側面は否めないが、実話が元だからしょうがない。グランツーリスモというゲームがいかに精巧にできているか証明される話でもある。
 ドラマとしては大変オーソドックスな修行によるのし上がり、スポ根的なものなのだが、そのストレートさが娯楽としてちょうどいい。こういうのでいいんだよ!ブロムカンプ監督にとってはいわゆる雇われ仕事ということになるのだろうが、意外と手堅く過不足なく作っており、職人的な誠実さを感じた。こういう作り方もできる人なんだという一面を見ることが出来て、それもうれしい発見。
 ドラマ上はさほどひねりはないのだが、ヤンと父親の関係を分量は少ないもののきちんと描いている所にも職人的な手堅さ、目配りの良さを感じた。これは脚本の良さだろう。ヤンの父親はおそらく最後まで、息子がどのような世界を見て目指しているのかぴんときていないだろう。しかしわからないながら、息子がが今自分が好きなことに一生懸命である、自分らしい生き方をつかもうとしていることを理解し感動する。その「わからなくとも愛し支持する」距離感の大切さをさらっと見せていたように思う。そしてヤンも、父親も父親自身が好きなことに夢中だった時輝いていた、それが今の父親を形作っていると理解しているのだ。
 ヤンが本当にゲームが好きなのだということが一貫しておりブレがない。レースシーンもゲーム上の演出に則って表現されるのだが、レーサーであるヤン視点でも上手く運転できている時は更にゲームの中のように感じられるという一貫性。ゲーマーからレーサーになるのではなく、ゲーマーのままレーサーになるのだ。ゲームに耽溺することを否定しない、すごく好きなことから道が開けていく所が気持ちよかった。
 
【PS5】グランツーリスモ7
ソニー・インタラクティブエンタテインメント
2022-03-04



「ALIVEHOON アライブフーン」Blu-ray
野村周平
バップ
2023-07-12


『クライムズ・オブ・フューチャー』

 環境の変化に適応しようと人類の肉体も進化し、痛みの感覚が消えた世界。体内で新たな臓器が生み出される加速進化症候群という病をわずらうアーティストのソール(ヴィゴ・モーテンセン)は、元外科医のカプリース(レア・セドゥ)をパートナーとして、自身の臓器にタトゥーを施し摘出するというパフォーマンスを披露し、人気を博していた。人類の間違った進化を食い止めるために政府が作った臓器登録所もまた、ソールに注目していた。ある日、ソールの元に生前プラスチックを常食していたという子供の遺体を解剖してみないかという話が持ち込まれる。監督はデビッド・クローネンバーグ。
 ヴィゴ・モーテンセンのルックスがクローネンバーグに寄せられている気がしてちょっと笑ってしまった。クローネンバーグにとってのあらまほしき自分という側面もあるのかもしれないが、ナルシズムの発露みたいでちょっと面白いし可愛げがある。また、本作で描かれる身体の問題というのはクローネンバーグにとっては案外パーソナルなものなのかもしれないとも思った。
 痛みのない世界で肉体的に傷をつけ合うことが性的な興奮に繋がるという描写もあるが、本作は性的欲望の多様さ、フェティッシュについては実はそれほどフォーカスしていない。どちらかというとより根源的な、「食」の部分の方が前面に出てくる。どうも本作で描かれる世界では、人類の身体は変容しており通常の食に困難を抱えている人が出てきているらしい。ソールもその一人で、食事を介助する為の補食機(なぜそのデザイン…みたいなクローネンバーグらしさはあるのだが)を使っている。また、従来なら人間には毒になる成分を好んで摂取する人間も生まれている。従来の「普通」や「健康」がその人にとって苦痛な場合、その苦痛さを病として扱うのは適切なのか?その人の体に合った固有の「普通」や「健康」があるのでは?という、人間の肉体の在り方に対する疑問の提示思えたにも。ラストでソールが見せる表情はようやく自分のあるべき形が許されたという安堵のものではないかと。ディティールはいかにもクローネンバーグ作品らしくグロテスクさもあるのだが、案外生真面目な作風ではないかと思う。

スキャナーズ リストア版 [Blu-ray]
パトリック・マクグーハン
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2013-05-10


ヒストリー・オブ・バイオレンス [DVD]
エド・ハリス
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2017-12-16


『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』

今井むつみ、秋田喜美共著
 人間は言語がないと日常生活を送ることができない。人間社会を成立させるための必須アイテムである言語だが、そもそも言語はどのように発生し進化してきたのか。そして子供はどのように言葉を覚えるのか。言語の成り立ちと拡大を、オノマトペとアブダクション(仮説形成推論)を鍵として紐解いていく。
 本著、内容は専門的だが結構売れているらしく意外だった。言語に興味を持つ人が多いのはやはり生きていくことと切っても切れない(音声言語にしろ手話にしろどういう形状の言語を使うかは様々だが)からだろうか。特にオノマトペの特質についての解説は興味深い。どこの国の言語にもオノマトペはあるが、互換性は薄い。ただ、特定の音が特定のイメージを思い起こさせるという作用はある程度被るところがある。言語が体の動きと連動したものであるということなのだろうが、こういう所から言語はどのように発生するのか、オノマトペを言語と言えるのはなぜか、という内容に展開していく。言語研究というのはこういう風に進めていくものなのか、こういう実験を行うのかという、片鱗を見た感じで新鮮だった。特に6章、7章あたりは、おお…人間頭いいな!と妙に感心してしまう。推論ができるというのはすごいことなんだな。


ことばと思考 (岩波新書)
今井 むつみ
岩波書店
2010-10-21


ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ