3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名か行

『コリーニ事件』

 新米弁護士のカスパー・ライネン(エリアス・ムバレク)は、大物実業家ハンス・マイヤー(マンフレート・ザパトカ)が67歳のイタリア人ファブリツィオ・コリーニ(フランコ・ネロ)に殺された事件で、コリーニの国選弁護士を担当することになった。マイヤーは少年時代のライネンの恩人だった。全く接点のなさそうなマイヤーとコリーニの間に何があったのか。原作はフェルディナンド・シーラッハのベストセラー小説。監督はマルコ・クロイツパイントナー。
 ライネンはマイヤーとコリーニの繋がりを解き明かすために、過去の公文書を紐解いていく。調査する過程に結構分量を割いているのだが、公文書類がちゃんと保管されており公開されているって本当に大切なんだなと実感できる。記録は取れ!そして残して閲覧できるようにしろ!とどこかの国にも言いたくなる。
 「当時は事情が違った」「当時の価値観では普通だった」「組織に命令されただけだ」というのは、よく言われることだ。しかしそれは免罪符になるのか。でも今なら正せるじゃないか、あなたにはそれができるはずだと突き付けてくる作品だ。法律上時効があったとしても、過去の延長上にいる存在として、過去を検証し認識を正していく責任はあるのではないかと。ライネンは個人的な情や絆と倫理観との間で葛藤する。こういう部分と向き合い続けられるかどうかで、その文化圏の倫理性、文化の強靭さが分かれていくような気がする。
 ライネンがトルコ系移民だというのは本作の一つのポイントだろう。ドイツは彼の祖国ではあるのだが、そこでの彼はアウトサイダーだ。少年時代に同世代の子供からトルコ野郎!と罵倒されるシーンがあるのだが、そんなお気軽に罵倒されるものなのかとぎょっとする。その子供はライネンの幼馴染かつ親友となっていくのだが、彼、そして彼の家族の中にはそういう差別意識がずっとあったのではないか。何かの拍子でぽろっと差別意識が出てきそう(というか出る)のが怖い。

コリーニ事件 (創元推理文庫)
フェルディナント・フォン・シーラッハ
東京創元社
2017-12-11


手紙は憶えている(字幕版)
ブルーノ・ガンツ
2017-05-03


『凱里ブルース』

 凱里市の小さな診療所で、老齢の医者を手伝いひっそりと暮らすチェン(チェン・ヨンジン)。彼は服役していた時期があり、出所した時には妻はこの世にいなかった。また故郷の弟とも折り合いが悪く、可愛がっていた甥は弟の意向で他所にやられていた。甥を連れ戻し、医者のかつての恋人に思い出の品を渡すためにチェンは旅に出る。たどり着いたのはダンマイという小さな町だった。監督・脚本はビー・ガン。
 『ロング・デイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』が鮮烈だったビー・ガンの長編監督デビュー作。しかし本作品の構造は『ロング~』をほぼ同じで、本作が『ロング~』の原型である、ないしはビー・ガン監督にとっての物語の一つの原型がこういうものだということがわかる。自分の記憶の中のある人、もしかしたら自分のイメージの中にしか存在しない人を探して旅をする。その中で自分が自分の、あるいは誰かの記憶・イメージの中に突入していくような、入れ子構造が開始するような瞬間がある。『ロング~』では幻想的な長尺長回しシーンのインパクトが鮮烈だったが、本作でもそこそこの長回しが使われている。本作の方が地に足がついている(とうか手作り感の強い)が、町の地形を利用した視界の変わり方が新鮮で楽しかった。低予算故の面白さ(ここは所要時間を何度も確認したんだろうなーと感慨深くなるような)みたいなものを感じた。
 チェンの旅路に明確な答えは出ない。弟や甥との関係も、医者の恋人の思い出も「落ち」はつかずに漂い続ける。どこか夢の中の出来事のようでもあり、なんだかおぼつかない。チェンは誰かに会うために移動し続けるのだが、移動の目的よりも、この移動という動きそのものの方が「今ここにある」といった手応えを感じられる。景色が変わっていくのが気持ちよく、特に終盤の列車に乗っているシーンには、ああこの感じ!(自分にとって列車に乗って長距離移動する機会がとんとなくなっているのも一因かと思うが)と強烈ななつかしさを感じた。


薄氷の殺人
グイ・ルンメイ


『コロンバス』

 韓国系アメリカ人のジン(ジョン・チョー)は、突然倒れた建築学者の父を見舞う為、小さな街コロンバスにやってくる。そこで出会ったのは図書館で働くケイシー(ケイシー・ルー・リチャードソン)。彼女は母親の体を案じ、この街を離れられずにいた。監督はコゴナダ。
 一風変わった監督名だが、小津安二郎作品の脚本を手掛けたことで知られる、脚本家の野田高悟への敬意からだそうだ。言われてみると本作も小津作品ぽくなくもない、か。本作は基本、会話劇なのだ。コロンバスはモダニズム建築の名作が多数存在することで有名で、ジンとケイシーは建築を眺めながら会話を交わす。ケイシーはモダニズム建築好きで、お気に入り建築のマイリストを作っているほど。対してジンは父親に対するわだかまりから、建築に対してあまりいい顔をしない。しかし会話のそこかしこから、造形の深さも垣間見えるのだ。2人が歩き回る建物の外見や内側を眺めているだけでも目に楽しく、モダニズム建築を巡る建築観光映画(作中ではツアーガイドは揶揄されてるけど)としても見られる。建築好きにはお勧め。また、名作とされる建築物以外でも、ジンが泊っているホテルの部屋の内装がクラシカルかつエレガントでとても素敵だったり、ケイシーの自宅は全くリッチではないが、色の取り合わせがかわいらしく彼女が自分と母の家を居心地よくしようとしていることがわかったりと、様々な面で建物、部屋がもう一つの主役。
 ジンは父親への反感をずっと抱いており、昏睡状態の父との向き合い方がわからない。ケイシーは麻薬に溺れた過去のある母を心配するあまり、自分の夢を諦めてしまう。2人ともこのまちを離れたいのだが、親との関係によって引き止められているのだ。2人の人生はこれはこれでいいのだが(そういう人生もありだ)、少し背中を押されればまた違う一歩を踏み出せそう。2人がお互いにそっと背中を押しあうような、恋愛ではない男女の関係が好ましい。たまたま出会った2人が、それができるような深い部分での会話を交わすようになるというのも面白かった。




『恐竜が教えてくれたこと』

 11歳のサム(ソンニ・ファンウッテレン)は「地球上最後の恐竜は自分が最後の一頭だということを知っていたのか」と思い悩む。家族内で末っ子である自分は最後に取り残される、そのために孤独に慣れなくてはと特訓を開始する。バカンスで訪れた島で、年上の少女テス(ヨセフィーン・アレンセン)に出会い、一緒に遊ぶようになる。テスは母親と二人暮らしだが、会ったことのない父親を島に招いたのだという。原作はアンナ・ウォルツ『ぼくとテスの秘密の七日間』、監督はステフェン・ワウテルロウト。
 サムはそんなに気難しい子ではなく素直なのだが、一人で色々考え実験してみたいという気持ちが強い。一緒に出掛けようと誘ってくる父親がちょっと迷惑な時もあるのだが、彼が安心して実験・修行に励めるのは、自覚有無にかかわらず家族が自分をバックアップしている、尊重されているという安心感があるからだろう。サムは自分を助けてくれた老人に「思い出を作れ」と言われるが、思い出を作るとはこのバックアップを上書きしていくことかもしれないなと思った。
 一方、テスはある男性を父親だとみなして彼との距離を詰めようとする。計画はうまくいくかのように思えるが、この男性が彼女にある言葉を放つ。当人は全く悪気はないのだが、これはテスが子供であるということへの配慮を欠いたものだ。子供を一個人として尊重することと、大人と同等に扱うことは、似ているようで違う。子供はどんなにしっかりしていても子供で、大人が対応する時にはそれなりのケアが必要なのだ。大人相手と同じように接することは、子供へのケアを放棄することでもある。彼のふるまいは子供であるテスに甘えているとも言える。サムの両親は子供からしたら時々うざいかもしれないが、このあたりの塩梅をちゃんと理解し、「親」「大人」であることを実践しているように思えた。だからサムは安定しているのだ。
 子供2人がとても生き生きとしていて、児童映画として良作。ラストの大団円はちょっとファンタジーぽい(ある人物が責任を引き受けるとは考えにくいので)が、子供が見て安心できる映画かなとは思った。サムが一貫して優しい子なのでほっとする。彼の優しさは、個が確立しているからこそのものに思えた。他人は自分と違うが尊重するという姿勢がある。これは彼の父親にも見られるもので、時々頼りないけどやっぱりちゃんとした大人なのだ。

ぼくとテスの秘密の七日間 (文学の森)
アンナ ウォルツ
フレーベル館
2014-09T


あの夏の子供たち [DVD]
エリック・エルモスニーノ
紀伊國屋書店
2011-04-28


『黒い司法 0%からの奇跡』

 1980年のアラバマ州。若き弁護士ブライアン・スティーブンソン(マイケル・B・ジョーダン)は、犯していない殺人罪で死刑宣告を受けたウォルター・マクミリアン(ジェイミー・フォックス)の弁護をすることになる。しかし虚偽の証言や白人の陪審員たち、証人や弁護士事務所への脅迫、そして根強い人種差別という壁が立ちはだかる。監督はデスティン・ダニエル・クレットン。
 「顔を見れば(有罪だと)わかる」と裁判官が言い放ってしまうレベルの強烈な人種差別が横行しており、死刑判決もあまりに雑(びっくりするくらいろくに捜査をしていない感じ)なのでだいぶ昔の話なのかと思ったら、まさかの80年代で愕然とした。アラバマという土地柄もあるのだろうが、ついこの間までこういう価値観がまかり通っていたのかと。
 ブライアン自身は他の土地からマクミリアンの為にやってくるのだが、母親に「大学を出る前はもっと賢かったのに」と嘆く。アラバマで黒人が黒人死刑囚の弁護をやるというのは、そのくらい損なこと、危険なことということなのだろう。せっかくいい大学を出たのに出世を棒に振るなんて、というわけだ。そもそも親としては自分の子供を危険な目に遭わせたくないだろう。とは言え、そういう賢さ、如才なさは世界を良くはしない。ブライアンの仕事のような、無謀にも見える正しいことをやろうとする意志が世の中を変えていくのだろう。
 ブライアンは頭はいいのだろうが、突出して切れ者なわけではない。アラバマでの偏見や嫌がらせに対しては当初少々見込みが甘くて、はらはらさせられる。彼がやるのは地道な調査と交渉、何よりクライアントと真摯に向き合い続けることだ。ちゃんとした弁護士としてはごくごく一般的なことだろう。ただ、その一般的なことをずっとやり続ける、心を折られてもあきらめずに立ち上がり続けることがいかに難しいか。
 被告という立場でありブライアンのクライアントとなるマクミリアンもまた、絶望的な状況の中で人間としての倫理や思いやりを維持し続けようと耐えてきた人間だ。受刑者仲間を励ます彼の言葉には真摯な思いやりがある。そういう人だからブライアンと共に戦い続けられたのではとも思った。

ラビング 愛という名前のふたり(字幕版)
マイケル・シャノン
2017-09-01


ショート・ターム [Blu-ray]
キース・スタンフィールド
TCエンタテインメント
2015-06-03



『風の電話』

 東日本大震災で岩手県大槌町にあった家と家族を失い、広島の呉で叔母と暮らしている17歳のハル(モトーラ世理奈)。ある日叔母が倒れ、一人残された彼女は震災以来訪れていなかった大槌町へ向かう。広島の土砂災害被災地域で母親と暮らす公平(三浦友和)や、元原発作業員の森尾(西島秀俊)らと出会いながら、ハルは故郷を目指す。監督は諏訪敦彦。
 ハルは非常に口数が少ない。一見平静に見えるが、8年間ずっと大丈夫ではなかったということがぽろぽろと見えてくる。毎日学校に行く前に叔母にぎゅっと抱きしめてもらう習慣からも、多分まだ色々怖いんだろうなと窺えるのだが、叔母が入院してからの行動は危うく痛々しい。肉体はこの世にいるまま、精神はインナーワールドに入ってしまったような行動の仕方なのだ。公平に発見される直前の振る舞いなどかなりやばい人のものだし、ヒッチハイクで広島から岩手に向かおうとするのも(10代の少女が制服姿でそれをやるのも)平常時の判断とは言えないだろう。ヒッチハイクしていた彼女を車に乗せてくれた人にその危険さを指摘されるし、実際かなり危ない目にも遭う。しかし、そういう行動はツッコミどころというよりも、そういうことをしてしまうくらい「大丈夫ではない」状態だということなのだ。
 公平が自分の家が土砂災害に遭わなかったことについて、「たまたま」だ、近所の家は皆やられたと言う。ハルが生き残ったのも家族が死んだのもまさにこの「たまたま」なことであり、それこそがハルを苦しめるのだと思う。理由がないのでなぜ自分が生き残って家族は死んだのか、という遺族の苦しみが終わることがない。納得ができないのだ。ハルが終盤、悲しみではなく悔しさを示すのも、納得できないからだろう。ただ、彼女は自分は納得していないということを口にすることができた。悲しみ・苦しみはなくなることがないが、少し距離をとることができるようになるのではないか。
 ハルが旅の途中で会う人たちは、公平や森尾のような被災者だけではなく、クルド人難民の一家もいる。一家の家長は入管に収容されいつ出てこられるのかもわからない。子供たちは日本社会の中に生活の基盤を築き将来を見据えているのに、社会的には彼らはないものとされている。それは「復興」から取り残された被災者と同様だ。理不尽な出来事に翻弄され、国の中央がよしとするものから取り残された、周縁の人たちの生活にそっと言及するような作品。


ライオンは今夜死ぬ [DVD]
ジャン=ピエール・レオー
紀伊國屋書店
2018-07-28


『彼らは生きていた』

 第一次大戦中に撮影された2200時間に上る記録映像を修復・着色し、BBCが保管していた退役軍人たちへのインタビューから音声や効果音を追加。ピーター・ジャクソン監督による記録映像の再構築。イギリスの芸術プログラム「14-18NOW」と帝国戦争博物館の共同制作。
 大変な労作だということが見るだけでわかる。100年前の映像だから当然劣化しているし音声はついていない。それを修復、着色し、映像と一致するインタビュー内容を音声として加え、更に被写体の唇の動きから何を話しているのかを割り出しているそうだ。付け加えられた映像内でのやりとりはかなり正確なものということだろう。まさに技術の勝利というべき作品。単に「記録」としてしか見られなかったであろう当時の映像が、色と音が加えられるとこんなに生き生きと蘇るのかという驚きがあった。この人たちは実際にあそこにいて生きていた、個々の人生があった様子が立ち上がってくるのだ。また、全体の構成・編集も上手い。99分というコンパクトさなのだが、若者たちが高揚しつつ戦場に向かうところから、軍隊でしごかれ、徐々に変化していき、前線は泥沼化していくという経緯を記録映像だけでなく当時の広告や新聞記事等も交えてテンポよく見せていく。ここぞというシーンの選び方、つなぎ方が効果的でドラマティックに、面白くなっている。ジャクソン監督、この手さばきを他の自作で見せてくれればよかったのに…。
 とても面白く興味深かったのだが、面白いが故にもやもやする。あまりにも演出が上手く、「面白い映画」になってしまっているのだ。本作に映し出された情景はもちろん実際にあったものであり、出てくる人たちは一人一人の身元はわからなくとも実在した人々だ。積み重なる死体も、実際に生きていて死んだ人たちのものだ。彼らの生き死に、死体の映像を娯楽として無邪気に享受してしまっていいのか?という葛藤を感じた。通常ドキュメンタリーを撮る際は当然ながら実在の人物・事象が目の前にあり、撮影することは時に暴力的だという意識を持ち続けなければならないものだと思う。撮影者と被写体との間には常に何らかの緊張感があるだろう。
 しかし本作の場合、対象はすでにいなくなっている人たちであり、監督が被写体と直接接したことはもちろんない。撮影ではなく編集であることで、そういった緊張感がうやむやになっているように思った。また、これだけ加工、編集したら歴史資料とは厳密には言えないのでは?という気もする。確かに面白いのだが、倫理的にこの面白さはOKなのか?と悩んでしまう。


演劇1・2 [DVD]
平田オリザ
紀伊國屋書店
2013-12-21


『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』

 著名なフランス人ミステリ作家の人気作『デダリュス』完結編の翻訳の為、各国から9人の翻訳家が召集された。彼らが集められたのは人里離れた洋館。情報流出を防ぐ為、電話、インターネットを含み外部との接触を一切絶って、毎日1章ずつ翻訳を進めろというのだ。しかし編集者の元に、「冒頭10ページをネット公開した。24時間以内に500万ユーロを支払わなければ次の100ページも公開する」とメールが入る。監督・脚本はレジス・ロワンサル。
 百科事典や参考文献はあるがインターネットが使えない環境での翻訳、しかも通し読みなしでページ順に翻訳するのって現実離れしていない?と翻訳経験のない私ですら想像がつくから、プロの翻訳家の方が見たらこの部分の設定はかなりおかしいのではないだろうか。ただその一方で、翻訳のみで生活するのは厳しいとか経済的に汲々だとか、仕事をするのに家族は邪魔(これは翻訳に限らずそういうタイプの人はいるだろう)とか、翻訳家の地位の低さとか、これは「翻訳家あるある」なんじゃないかなと想像がつくものも。特にお金関係と、「創造力」関係はなかなかせちがらい。「創造力」に関しては、そういう動機で翻訳の道を進む人ばかりではないと思うが。
 フランスのミステリ小説やミステリ映画に触れると、故・殊能将之氏ではないがフランス人のミステリ観てちょっと変だなと思ことが多い。ちゃんと筋の通った謎解きになっていても、妙に過剰というか、ケレン味の盛りが良いのだ。謎解きのロジック、整合性そのものよりも、あっと言わせること、意外性があることの方に重きが置かれている気がする。本作も同様で、論理性を無視しているわけではないのだが、びっくり度の高さの方が優先されている。そもそも原稿流出が発覚した際、一番ありそうな可能性に言及されない。なぜかなと思っていたら、終盤でなるほどと。ある程度読めてしまうのだが、そこに至るまでの構成がひねられており、どこがどこに結びつくのかという部分で意外性と観客の興味をキープしている。
 ケレン味は強いのだが、翻訳という仕事に対する敬意が一貫しており、何より文学への愛がある。作中で一番のクズとして造形されている人物の職業ポジションを鑑みると、出版業界で一番憎まれているのがどういう人なのかが見えてきてしまうかも。

全身翻訳家 (ちくま文庫)
鴻巣 友季子
筑摩書房
2011-08-09


『キャッツ』

 飼い猫も野良猫もいるが皆したたかに生きる「ジェリクルキャッツ」と呼ばれる猫たち。年に一度開かれる舞踏会で、新しい人生への生まれ変わりを許される、ただ1匹の猫が選ばれる。1981年に初演されて以来、愛され続けているミュージカルの映画化。監督はトム・フーパー。
 「猫人間」とでも言えばいいのか、かなり奇妙なルックの「猫」の姿に予告編段階で映画ファンを騒然とさせていた本作。映画本編を見ても、「猫人間」に慣れることはなかった。猫コスプレがだめというのではなく、コスプレ・加工度合いをなぜそこに落ち着かせたのかという、奇妙な美的センスに皆ひっかかったのだと思う。人間の体のフォルムや顔つきが出すぎで、特にボディラインは目のやりばに困る。舞台だと猫耳・ヒゲを付けたダンサーが四つん這いになったり2本足で踊ったりする様が、「あれは猫ですよ」という観客とのお約束=見立てによって成立するわけだが、映画だとその見立てが成立しない。映画は基本的に、カメラに映ったものは映ったままのものとして観客は認識するんだなと再認識した。特にトム・フーパーはクロースを多用して撮っているので、猫のコスプレをした人間というそのままの姿が更に強調されるというかごまかされないというか…。映画と舞台の表現方法の差異、観客のスタンスの差異が確認できる。そういう意味では面白い。
 何しろ大ヒットミュージカルなのでダンスと音楽はちゃんとクオリティが高い。有名曲の「メモリー」はちょっと情感盛りすぎな歌唱だと思ったが、ここが泣き所ですよ!!というわかりやすい提示。映画として駄作とか失敗作とかとはちょっと違うんだよな。ただただ奇妙。基本的に猫の自己紹介ショーの連打なので、ストーリー性には乏しく映画向きとは思えないんだけど…。

キャッツ [DVD]
“サー”ジョン・ミルズ
ジェネオン・ユニバーサル
2012-04-13


キャッツ (ちくま文庫)
T.S. エリオット
筑摩書房
1995-12-06


『カイジ ファイナルゲーム』

 2020年、東京オリンピック終了後、急速に景気が悪化し階層化が進んだ日本。弱者は踏みつぶされていく世の中で、カイジ(藤原竜也)は「バベルの塔」なるイベントへの参加を持ち掛けられる。主催者は富豪の老人・東郷(伊武雅刀)。彼はカイジにある提案をする。監督は伊藤東弥。脚本で原作者の福本伸行が参加している。
 本作がやろうとしているのはもはや映画ではなく「カイジ」というコンテンツなんだなと実感した。ちゃんと「ざわ…ざわ…」音の入った配給会社ロゴ、怒涛の説明台詞、正直しょぼいセット、荒唐無稽だが力業で理屈が通っているかのように納得させられるゲームの数々、そしてとにかく声を張る藤原竜也。映画としてはあまり褒められたものではない演出多々なのだが、本作の場合はそれでいいのだろう。目指しているところがすごくはっきりしている作品で、いっそ潔い。これはこれで正解なのだと思う。一緒に「キンッキンに冷えてやがる…!」とビールをあおれる応援上映には最適。色々茶々入れつつ誰かと一緒に楽しむ作品だろう。それも映画の一つの形だよな。
 ただ、俳優の役割については、なんぼなんでも藤原竜也に頼りすぎだろうとは思った。テンプレ演技でも場を持たせてしまう藤原がえらいのだが、他の俳優はそこまで場が持たない。この演技2時間見続けるのはだいぶ辛いぞ…という人も。そういう所を見る作品ではないということなんだけど。
 なお、本作は東京オリンピックの経済効果に全く期待していない(笑)!働いて豊かになるという期待がほぼ消えた世界設定で、原作スタートから現在に至るまでに現実世界がこの領域にどんどん近づいてきた気がする。正直笑えない。


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