父親に虐待され、10代で望まぬ結婚を強いられた黒人女性セリー(ファンテイジア・バリーノ)。夫からも虐待され、唯一の心の支えである妹とも離れ離れになってしまう。そんな中、夫ミスターの連れ子の恋人であるソフィア(ダニエル・ブルックス)、夫と愛人関係にある人気歌手のシュグ(タラジ・P・ヘイソン)らとの出会いにより、自分の価値に気付いていく。原作はアリス・ウォーカーの同名小説。監督はブリッツ・バザウーレ。
思っていたよりもがっつりミュージカルだった。原作小説とスピルバーグ監督版は未見なのだが、ミュージカルだからすっと見られたという面はあると思う。1900年初頭から始まる話なので、黒人差別は非常に厳しく、また女性に対する抑圧も厳しかった。セリーは実家では父親の使用人のようにこき使われ、更に父親から性的虐待を受けていた。結婚(といってもずっと「ミス」と呼ばれているので内縁の妻的な立場かもしれない)した後はミスターから使用人扱いされ、父親から逃げてセリーを頼ってきた妹は今度はミスターにレイプされそうになり拒むと家を追い出され、といった具合に女性であることの苦難が山積みなので歌と踊りでもないと辛くて見ていられなくなりそう。セリーに男性たちが要求するのは労働力として、性的欲求を処理する為の道具としての在り方のみで、彼女の人格は考慮されない。そんな人生がずっと続くのだ。しかし一方で、自身の意志と欲望を明言し無視させない、自分をコケにする相手とは徹底して戦おうとするソフィアやシュグのような女性もいる。特にソフィアはいわゆるスタイル抜群な美女というわけではないが、自分は自分として価値があるのだと堂々と振舞う。男性の視線や言葉に屈しない彼女の豪快な言動は小気味いい。
しかし、そんなソフィアの精神を折るものがある。本作の物語は基本的に黒人コミュニティの中で展開されているので、一見そこに人種差別があることはわかりにくい。しかしソフィアに対して白人女性が何を言ったのか、それを受けてソフィアがどのような言動をとったか、それによって何が起きたかという経緯を見ると、そこには歴然と差別がある(そしてそれが解消される様は本作では描かれない)ことがわかる。ソフィアから反骨精神を奪ったものは、セリーの独立心を奪ったものと同じだ。差別・虐待はより弱い方へ弱い方へと流れていき、自尊心を奪っていく。差別対象から自尊心を奪うことで、反抗を抑え濃い差別構造はなくならないという負の連鎖が見える。
一方、女性への抑圧の背景には家父長制があるわけだが、それは女性だけではなく男性にとっても圧力になっているということも垣間見えてくる。ミスターはセリーを虐待し息子を牛耳り「強い男」であろうとするが、その振る舞いは自分の父親の影響による、それしか生きる上でのモデルがなかったのではと思える。それによって彼の所業がチャラになることはないが、許しの可能性が提示されるところは今の時代の気分なのだろうか。
なお、セリーとシュグとの愛情がやたらとプラトニックな描き方になっているのは気になった。シュグの関わり方はセリーの人生のかなり深い所に立ち入ってくるわけだし、おそらく2人の間にははっきりと性愛があると思われる(原作未読なので推測だが)のだが、現代に本作映画化するのにこれでいいのか?と疑問に感じた。