3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

映画題名か行

『カラーパープル』

 父親に虐待され、10代で望まぬ結婚を強いられた黒人女性セリー(ファンテイジア・バリーノ)。夫からも虐待され、唯一の心の支えである妹とも離れ離れになってしまう。そんな中、夫ミスターの連れ子の恋人であるソフィア(ダニエル・ブルックス)、夫と愛人関係にある人気歌手のシュグ(タラジ・P・ヘイソン)らとの出会いにより、自分の価値に気付いていく。原作はアリス・ウォーカーの同名小説。監督はブリッツ・バザウーレ。
 思っていたよりもがっつりミュージカルだった。原作小説とスピルバーグ監督版は未見なのだが、ミュージカルだからすっと見られたという面はあると思う。1900年初頭から始まる話なので、黒人差別は非常に厳しく、また女性に対する抑圧も厳しかった。セリーは実家では父親の使用人のようにこき使われ、更に父親から性的虐待を受けていた。結婚(といってもずっと「ミス」と呼ばれているので内縁の妻的な立場かもしれない)した後はミスターから使用人扱いされ、父親から逃げてセリーを頼ってきた妹は今度はミスターにレイプされそうになり拒むと家を追い出され、といった具合に女性であることの苦難が山積みなので歌と踊りでもないと辛くて見ていられなくなりそう。セリーに男性たちが要求するのは労働力として、性的欲求を処理する為の道具としての在り方のみで、彼女の人格は考慮されない。そんな人生がずっと続くのだ。しかし一方で、自身の意志と欲望を明言し無視させない、自分をコケにする相手とは徹底して戦おうとするソフィアやシュグのような女性もいる。特にソフィアはいわゆるスタイル抜群な美女というわけではないが、自分は自分として価値があるのだと堂々と振舞う。男性の視線や言葉に屈しない彼女の豪快な言動は小気味いい。
 しかし、そんなソフィアの精神を折るものがある。本作の物語は基本的に黒人コミュニティの中で展開されているので、一見そこに人種差別があることはわかりにくい。しかしソフィアに対して白人女性が何を言ったのか、それを受けてソフィアがどのような言動をとったか、それによって何が起きたかという経緯を見ると、そこには歴然と差別がある(そしてそれが解消される様は本作では描かれない)ことがわかる。ソフィアから反骨精神を奪ったものは、セリーの独立心を奪ったものと同じだ。差別・虐待はより弱い方へ弱い方へと流れていき、自尊心を奪っていく。差別対象から自尊心を奪うことで、反抗を抑え濃い差別構造はなくならないという負の連鎖が見える。
 一方、女性への抑圧の背景には家父長制があるわけだが、それは女性だけではなく男性にとっても圧力になっているということも垣間見えてくる。ミスターはセリーを虐待し息子を牛耳り「強い男」であろうとするが、その振る舞いは自分の父親の影響による、それしか生きる上でのモデルがなかったのではと思える。それによって彼の所業がチャラになることはないが、許しの可能性が提示されるところは今の時代の気分なのだろうか。
 なお、セリーとシュグとの愛情がやたらとプラトニックな描き方になっているのは気になった。シュグの関わり方はセリーの人生のかなり深い所に立ち入ってくるわけだし、おそらく2人の間にははっきりと性愛があると思われる(原作未読なので推測だが)のだが、現代に本作映画化するのにこれでいいのか?と疑問に感じた。

カラーパープル (集英社文庫)
柳沢 由実子
集英社
1986-04-04


カラーパープル(字幕版)
オプラ・ウィンフリー
2015-04-30


『ゴースト・トロピック』

 ブリュッセルで暮らす清掃作業員のハディージャ(サーディア・ベンタイブ)は、帰宅時に最終電車で寝入り、終点でまで乗り過ごしてしまう。電話もバスもなく徒歩で帰るしかなくなった彼女は寒空の下家を目指すが、道中で様々な出来事が起きる。監督はバス・ドゥボス。
 夜のブリュッセルを舞台にしたロードムービーとも言える。いわゆる「美しい(ライトアップされた)夜景」というわけではないのだが、夜の町の映像が素晴らしい。16ミリフィルムで撮影しているそうで、暗さの中にグラデーションがあるというか、質感の柔らかさが味わい深い。冒頭と終盤、室内が暗くなる・明るくなる様を固定カメラで延々と撮っているシーンがあるのだが、この明暗の変化する様を撮りたかったのだろう。作中、何度か夜のブリュッセルの道路をゆっくりとカメラが移動し映し出されるシーンが挿入されるのだが、どうということはない風景なのに美しく、ちょっと夢の中の景色のような味わいがある。
 ハディージャの家への旅路の中では、大事件が起きるわけではない。ホームレスの男性の為に救急車を呼んだり、昔家政婦として働いていた邸宅に寄り道したり、自分の娘が夜遊びしているのを目撃してしまったりと、色々な出来事はあるのだが、それによって彼女の道中が大幅に狂ったりするわけではない。また決して心地よい出来事ばかりではないのだが、流れていく時間はゆったりとしていて穏やかに感じられる。夜中に歩き続けるわけだから大分疲れているはずなのに、あまりせかせかがつがつしている感じがないのだ。全体的に夢の中のような出来事にも思えてくる。
 ハディージャも彼女が出会う人たちもどこか優しい。ただ、その優しさは相手に深く立ち入るようなものではなく、一定の距離を保ったものに思える。ハディージャが救急搬送されたホームレスを訪ねに行くエピソード、また雑貨屋の店員が彼女を車で送ってくれるエピソードはある程度相手に立ち入った行為と言えるだろうが、その後も関係が維持されるようなものではなく、その時だけの関係、はかないものだ。ただ、そういったその時々の優しさによって世の中がちょっとだけ良い方向に保たれているのではという気もしてくる。ハディージャは娘が夜中に出歩いている様を見て動揺するが、彼女に声をかけたりはしない(娘たちが酒を買っていた焦点を、未成年に酒を売っている酒屋があると警備隊に通報してしまうのだが)。また娘がつるんでいる仲間や、彼女が思いを寄せているらしき少年も、彼女に何か悪さをするわけではなく、一定の距離感を保つ。どう転ぶかわからない気配はあるのだが、ハディージャが娘を信頼する、事態を彼女にゆだねる所が、ラストの晴れやかさに繋がっているように思った。

ナイト・オン・ザ・プラネット(字幕版)
ロベルト・ベニーニ
2020-09-01


BPM ビート・パー・ミニット [DVD]
アントワン・ライナルツ
TCエンタテインメント
2018-10-05


『コット、はじまりの夏』

 大勢の姉弟と両親と、アイルランドの田舎町で暮らしている少女コット(キャサリン・クリンチ)。無口で物静かな彼女は家族の中でも異質な存在だった。母親が出産を控えている為、夏休みを母の従姉夫婦の家で過ごすことになる。コットを預かるショーン(アンドリュー・ベネット)とアイリン(キャリー・クロウリー)の夫婦は彼女に静かに愛情を注ぎ、コットは徐々に生き生きとした表情を見せていく。原作はクレア・キーガンの小説「Foster」、監督はコルム・パレード。
 子供が自分の周囲の世界をどのように見ているか、その中で自身をどのように捉えている、また捉えなおしていくのかを丁寧に、かつストイックに描いており素晴らしい。目線が子供の高さにあるというか、あまり画面が広くなりすぎないように(体が小さい子供の視界は大人より狭いだろう)演出されているように思う。序盤のコットの何か言いたげな目、動きを押さえつけているようなぎこちない仕草が刺さってきた。ずっと周囲に遠慮している感じというか、自分の自由に発言し動くことを遠慮せざるを得ない環境で育ってきたんだと思わせるのだ。コットの両親は別に彼女を虐待しているわけではない。父親は子供に興味ない(コットをアイリン夫妻宅に送った時に荷物を下ろし忘れて帰っちゃうのにはさすがに驚いたが)ことを隠そうともしないのだが、母親は彼女を愛しているだろう。ただ子供が多く妊娠中であまりにいっぱいいっぱいでコット1人に時間を割く余裕はないのだ。コットは他の姉妹とタイプがちょっと違うということも見て取れて、家にも学校にも居場所がない。
 序盤から、子供にとって生まれ育つ環境は如何ともしがたいという苦しさがひしひしと伝わってくる。子供にとって選べるもの・発言できることは限られている。だから周囲の大人が気付いてサポートしないとならないのだが、コットにはそれが不十分で、いつも不安そうに見える。ショーンとアイリンはそこを補ってくれるのだ。何か明確にかわいがるというのではなく、ただそばにいて一緒に作業をし、体や衣服のケアを食事をするという、日常の中で傍についている、ただ見守るのだが、それがコットの存在を肯定することになっていく。子供は安心していれば自分で話せるし動けるようになるんだなと。
 ただアイリン夫妻にもある過去があり、その余波としての見守りの姿勢なのだとも伺えてくる。このあたりはあまり突っ込んで描かず、コットにわかる世界の範疇で提示しているところが抑制がきいていてよかった。コットの変化を明確に示すラストの余韻も染みる。

青い野を歩く (EXLIBRIS)
クレア キーガン
白水社
2009-12-01






 

『カラオケ行こ!』

 中学生の岡聡実(齋藤潤)は合唱部の部長。合唱コンクールからの帰り際、聡実らの歌声を耳にしたと言うヤクザ・成田狂児(綾野剛)からカラオケに誘われる。組長が主催するカラオケ大会で最下位になった者に待ち受ける罰ゲームを免れるため、どうしても歌がうまくならなければならない、ついては聡実に歌を教えてほしいのだという。聡実は渋々コーチを引き受け、狂児とカラオケに通うようになる。原作は和山やまの同名漫画。監督は山下敦弘。
 テレビドラマ『MIU401』等を手掛けた野木亜紀子が脚本を手掛けているのだが、意外と山下監督の持ち味とも合っている。原作の「ヤクザと中学生」という設定は、一歩間違うと即犯罪感が出てしまい実写化するとどうなんだろうと少々心配だったが、割と大丈夫だった。狂児の聡実に対する物理的な距離感がおかしい、かつ綾野が例によって色気駄々洩れなので「近い!近い!」と突っ込みたくはなるのだが…。人と人の物理的な距距離って漫画だとあまり気にならないけど、生身の人間が演じていると気になるものだなと妙な所で再認識した。
 基本的に原作に忠実なのだが、狂児の持ち歌であるXの『紅』の扱い方が大きく違う。この曲、あまりに有名かつキャッチーなので、最近は何かで目にしてもネタ的な扱いなことが多かったように思う(原作もどちらかというとそう)。しかし本作は『紅』が何を歌った楽曲なのかということに真面目に取り組む。『紅』という楽曲を歌うということ自体にちゃんと意味を持たせているのだ。まさかこんなところで『紅』の歌詞分析を目にするとは…。これは確かに実写化でないと演出しにくい部分だと思う。狂児の『紅』が聡実の『紅』になるという構図の立ち上げ方が上手い。
 聡実の両親や同級生の描き方には山下監督の持ち味が出ていたように思う。聡実に対する家族の視線が入ることで、彼が成長過程にある子供だという側面がより感じられる。また、「映画見る部」の部員(1人しかいない)と聡実の距離感がすごくよかった。この部だったら私も入部したい。またそれとは真逆の真面目で熱心すぎる合唱部後輩・和田の造形も原作からパワーアップされていた。和田のような子はともすると「うざい」扱いされそうだが、本作はそういった真っすぐさを忌避するなという話でもあると思う。一方で合唱部の副部長女子はあまりに人間が出来ていて、魅力的だけどちょっと都合が良すぎるのではないか。子供同士でこういうケア要員を作らないでほしんですよね…。 



天然コケッコー
藤村聖子
2023-05-15

 

『きっと、それは愛じゃない』

 ドキュメンタリー監督のゾーイ(リリー・ジェーズ)は幼なじみの医師カズ(シャザト・ラティフ)が見合い結婚をすると知らされる。今時の英国でなぜ親が選んだ相手と結婚するのかと納得できないゾーイは、制作会社からドキュメンタリーの新ネタを要求された際、見合い結婚の軌跡を追うドキュメントを撮ると勢いで断言してしまう。渋るカズを説得して撮影を始めるが、自分のカズに対する気持ちに気付いてしまう。監督はシェカール・カプール。
 ゾーイとカズは幼馴染で家族ぐるみの付き合い。シングルマザーであるゾーイの母親にとってはカズ一家が家族の代わりでもあった。じゃあゾーイの母親は異文化に対しての理解も深いのかと思ったら、差別的な発言がポロポロある所がなかなかリアルだしハラハラさせられる。パキスタンからの移民であるカズの家族と仲は良いが、彼らの文化や社会背景を理解しているというわけではないのだ。このあたりの、悪意はないが結果として差別的になっているという表現の匙加減が上手い。また親が子の結婚相手を選ぶことが普通である文化の姿、そのメリットも描かれ、基本ラブコメだが異文化ギャップコメディとしても目配りがきいている。どちらの文化がいいと断言するわけではないのだ。
 ゾーイは世代的にも母親よりは異文化を受容・理解しているが、それでも親の為に結婚するという文化圏の考え方には同意できない。とは言え恋愛による「運命の人」を探す彼女が付き合う相手が押しなべてクズなので、これはもう親の采配を頼った方がいいんじゃないかとも思わせる。親の紹介で親しくなる獣医がすごくいい人っぽいし(そこが物足りないんだろうけど…)。彼女がなぜクズに惹かれてしまうのか自分を見つめなおす過程になっているのだ。結婚と家族と個人を巡るあまり浮つかないラブコメで、ラブコメがそんなに好きでない私にも楽しめた。
 それだけに、ラブコメが基本にある以上やはりそのオチになるかという物足りなさもあった。もうちょっと攻めてもいいんじゃないかなー。

あと1センチの恋(字幕版)
サム・クラフリン
2021-01-27


クレイジー・リッチ!(字幕版)
ソノヤ・ミズノ
2020-11-13


『枯れ葉』

 フィンランドの首都ヘルシンキ。スーパーで働くアンサ(アルマ・ポウスティ)は突然クビになり次の仕事を探さなければならない。工事現場で働くホラッパ(ユッシ・バタネン)は飲酒がやめられない。2人はカラオケバーで出会い、お茶を飲み、一緒に映画を見る。しかしお互いの名前も知らないまま、不運が相次ぎ気持ちがすれ違ってしまう。監督、脚本はアキ・カウリスマキ。
 寄る辺ない男女のメロドラマという非常にシンプルな話で、特にひねったところもないのに、こんなに胸に迫ってくるとは。しかも81分というコンパクトさ。映画ってこういうのでいいんだよ!とカウリスマキの映画を見るたびに思っている気がする。冒頭のスーパーのシーンから妙に面白い(レジのベルトコンベアー上に肉がたまっていくのとか)し、ホラッパと同僚の「禁煙」看板の前でのやりとりもじわじわくる。最小限のセリフとショットでここまで登場人物の心情や情感を表現することができるという、監督の自信を感じる。一つ一つのショットがやはり強いのだ。だらだらつなげる必要が全然ない。
 普遍的なすれ違いラブストーリーでどの時代を舞台にしても通用しそうだが、本作ははっきりと「今」が舞台であることを示す。ラジオからはロシア・ウクライナ戦争のニュースが流れるし、アンサがスーパーをクビになる経緯もいかにも現代の経営ルールに則ったものだ。アンサもホラッパも労働市場の末端にいる使い捨ての労働力と言っていいが、この使い捨て感、経済活動の中で人が数字として扱われる様がすごく現代を感じさせる。2人の生活は実につましい。思わず部屋のブレーカーを落とすアンサの行動の切実さが胸に刺さってきた。
 世界に目を向ければ暴力的で理不尽な出来事ばかり、自分の生活も苦しく貧しい。それに抗う道として愛がある、というのがアンサとホラッパの道であるように思う。この愛には恋愛だけではなく、アンサと一緒に上司に反抗する同僚らとの連帯や、ホラッパに対する年長の同僚のさりげない思いやりやユーモア等も含まれている。本作の暖かさ、風通しのよさはそういった他人同士の思いやり、いたわりによるところが大きいように思う。濃い関係ではなく薄い関係の中でのいくつもの助け合いが世の中を支え、変えていくのだと。

希望のかなた [Blu-ray]
カティ・オウティネ
松竹
2018-07-04


街のあかり (字幕版)
マリア・ヘイスカネン
2023-11-01


『栗の森の物語』

 1950年代、イタリアとユーゴスラビアの国境に位置する、栗の森に囲まれた小さな村。長引く政情不安から、人々は村を離れていった。老大工マリオ(マッシモ・デ・フランコビッチ)は音信不通の息子からの便りを待ち、妻と共に村に留まり続けていた。栗売りのマルタ(イバナ・ロスチ)は、戦争へ行ったまま帰ってこない夫を待ち続けている。数通の手紙の内容によると、夫はオーストラリアにいるらしい。監督はグレゴル・ボジッチ。
 映像が非常に美しい。森の風景がそもそも魅力的なのだが、ライティングと色合い、質感の調整がとても美しい。監督はフェルメールやレンブラント等のオランダ印象派の画家に影響を受けたそうで、ライティングの繊細さも頷ける。特に室内のライティングは確かにフェルメールっぽい。暗い部分は本当に暗くてぱっと見何が起きているのかわかりにくかったりもするのだが、その分、光本来の稀さみたいなものが感じられる。舞台となる季節は栗の収穫時期である秋から初冬にかけてと思われるのだが、空気の冷たさや木や草の匂いまで感じられそうな映像。花だか綿毛だかみたいなものが舞うシーンなど非常に美しく刺さってきた。自分の中の原風景みたいなものに触れる感じ。ただこの美しさは、その中に実際に暮らしていないから無防備に享受できるものではないかという気もした。かつてここに住んでいた人たちの記憶としての美しさなのか、全くの部外者だから他人事として受け止められる美しさなのか。
 人々は村から離れていき、見捨てられた地になっていくわけだが、土地の記憶は残る。作中に登場する亡霊たちはその記憶で、それが生きている人たちを迎えに来ているように思えた。故郷を捨てることは悲しいことではあるのだろうが、その土地から解放されるという面もある。特に女性にとってはそういう面が強いのではないかと、マルタの姿を見ていて思った。馬車に乗っていた2人の女性(この人たちが村から出て行くのかはわからないが)も全然悲壮感なくて楽しそうだ。マルコの妻への態度は彼固有のものというより、そういう文化の土地なのだという側面が強そう。そりゃあ出て行きたくなるよな。

ノベンバー
ディーター・ラーザー
2023-11-08


帰れない山
スラクシャ・パンタ
2023-11-08






『心は孤独な狩人』

 1930年代末、アメリカ南部の町。聾唖の男シンガーは、一緒に暮らしていたやはり聾唖のアントナプロースが施設に入れられたことで、町の下宿屋に部屋を借りて近くのカフェに通うようになる。カフェの店主ビフ、カフェに通う少女ミック、ミックの家で働く黒人女性ポーシャとその父親であるコープランド医師、流れ者のジェイク。カフェに集う人々の語りをシンガーは静かに受け止めるように見えた。
 シンガーは耳は聞こえないが、人の唇の動きを見て相手の話を理解する。彼の「聞き方」は相手に信頼感を抱かせシンガーは自分のことを分かってくれる、受け止めてくれると思うわけだが、シンガーにとってはそういうわけでもない。誠実に話を聞いてはいるが、相手がそこを過剰評価しており、シンガーにはシンガーの都合があるということを彼が発言できない故に失念しているのだ。そのすれ違いがシンガーをiある種神格化していく。シンガー本人とのずれが徐々に気持ち悪くなってきた。本作は群像劇だが、登場する人たちは交流はあるがお互いに相手のことをよくわかっていない。章ごとに主人公格が交代していくので、親しいつもりが一方通行だったという様が露わになっていくのだ。皆自分のことで精いっぱいで他人のことを考える余裕があまりないという面もある。社会的、経済的、精神的に追い詰められていく人ばかりだ。彼らはその苦しみをシンガーに吐き出すが、シンガーにもまた苦しみがある。彼の苦しみだけ誰にもわからない(他の人たちのものは多少周囲にわかる)というのがまた痛ましい。
 登場人物たちの造形の多くは現代では「クィア」と称されるものだろう。それが彼らを世の中の多数派から遠ざける。特にビフのミックに対する渇望のようなものは大分まずいと思われるのだが、本人もうすうす自覚がある、ただあの時代ではこれを何と名付けどう対処していいかわからないからより混乱するのでは。

心は孤独な狩人
マッカラーズ,カーソン
新潮社
2020-08-27


結婚式のメンバー (新潮文庫)
マッカラーズ,カーソン
新潮社
2016-03-27




『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

 1956年、日本の政財界を裏で牛耳る龍賀一族の当主が死亡した。血液銀行に勤める水木(木内秀信)はその弔問という建前で、会社から密命を受けて龍賀一族の本拠地である哭倉村を訪れる。次期党首の座を巡り、村には険呑な空気が漂っていた。そんな中、遺言により次期党首に選ばれた者が何者かによって殺害される。村にさ迷いこんだ謎の男(関俊彦)が捕らえられるが、彼は行方不明の妻を探しているのだと言う。水木は謎の男と協力して龍賀一族の秘密を探り始める。監督は古賀豪。『ゲゲゲの鬼太郎』原作者である水木しげるの生誕100周年記念作品となる。
 2018〜20年に放送されたテレビアニメシリーズ「ゲゲゲの鬼太郎」第6期をベースに、鬼太郎の父親である目玉おやじの過去と鬼太郎誕生にまつわる物語を描く長篇作品。本作の舞台は太平洋戦争後、これから高度成長期を迎えようという1956年だが、現代パートもあり、鬼太郎(第6期ver)も登場する。とは言えメインは1956年、鬼太郎第6期に少しだけ登場したことがあり、一部でやたらと人気だった鬼太郎の父親と彼と出会う人間・水木が中心となる物語。テレビシリーズを彷彿とさせる様式としての派手なバトルシーン(なんというか、あー東映アニメーション!という気分になる)がある一方で、妙に個性的なアクション作画もあり、また時代設定を踏まえた美術面も力が入っていてビジュアル面はなかなか楽しい。ストーリーも、因習にまみれた村で陰惨な殺人事件勃発、そこに巻き込まれる探偵役というまんま横溝正史的なフォーマットにゲゲゲの鬼太郎世界を落とし込み、更に謎の男と水木との交流と友情も盛り込むという、というミステリ+怪奇+バディームービーという盛りの良さ。
 本作、おそらく暴力描写故にPG12設定なのだが、そもそも時代設定やストーリーは大人向けだろう。太平洋戦争の記憶はまだ生生しいものの、社会は経済的復興に向けて邁進していく。水木もその流れに乗り、戦地での記憶を封印して出世のみを目標にがむしゃらに進む。そういった熱気が急速な復興を支えたという側面はあるだろうが、一方向への大きな流れの中で切り捨てられていくもの、踏み台にされていくものがあるということが、物語の根底になっているのだ。(6期鬼太郎はわりとそういう側面があるが)本作の怪奇と謎のベースにはこの構造が織り込まれており、予想外に戦中~戦後、そして現代へ至る日本社会への視線と批評がある。ことの顛末を目撃した水木はある人物の生き方に対して「つまらない」と言うが、この言葉が画一的な「成功」「成長」を目指してきた社会に対するカウンターになっており、それは原作の精神を踏まえたものではないかと思う。エンドロールまでみっしりと使ったストーリー展開になっているのだが、原作ファンにはここでそうきたか!といううれしさがあるのでは。更にこの人たちがいたからこその鬼太郎(本作では原則6期verで、原作鬼太郎とのテイストは違うと思うが)のキャラクターであるという、人間と共に生きようとする妖怪という人物造形の説得力が生まれてくるあたりにもファンとしてはぐっとくる。


墓場鬼太郎 第一集 [DVD]
野沢雅子
角川エンタテインメント
2008-04-23


 

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』

 1920年代、オクラホマ州オーセージ郡の居留地に暮らす先住民オーセージ族は、この土地で石油が見つかり発掘が行われたことによって莫大な富を得た。しかしその富に目を付けた白人は「後見人」制度を作って彼らを操り、支配しようとしていた。伯父ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼ってオーセージ郡にやってきたアーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)はオーセージ族の女性モーリー・カイル(リリー・グラッドストーン)と結婚する。モーリーには姉妹がいたが病気や他殺で次々に亡くなる。町では彼女らの他にもオーセージ族の人々が多数亡くなっていた。原作はジャーナリストのデビッド・グランによるベストセラーノンフィクション『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』(文庫版は映画と同題名)。監督はマーティン・スコセッシ。
 面白いがやはり長い(206分)。この長さが必要だということは理解できるが上映時間が劇場へ行くことのハードルを上げているのは勿体ない。また、ストーリー構成も力作だが少々勿体なさというか、それでいいのかと気になる所があった。私は原作を先に読んでから見たのだが、それ故映画の切り口の難点が目についた。ドラマとして成立するようによく構成しなおしてあるなと感心はしたが、この切り口だと原作で書かれてた本質的な問題から目が逸れてしまうのではないかと思う。
 本作(映画)だと主人公格はアーネストで、彼が伯父であり一帯を仕切る有力者であるヘイルの計略に取り込まれていくという構図が前面に出ている。アーネストは頭はそれほど切れないがヘイルからの指示を忠実にこなす程度の器用さはある。ただ自分がしていることがどういう意味を持つのかまでは考えない。彼の愚かさが目につくということもあり、ある男が一族のしがらみ、ファミリービジネスから逃れられないという話に見えてくる。そうなると、連続殺人事件はある一族が欲に駆られて行った犯行と解釈されるのではないかと思う。
 ただ、確かにあるヘイルが主導で行ったという側面はあるが、その背後にあるのは何なのかという所がこの話の重要な所だろう。連続殺人の背景にあるのは後見人制度に見られるようなオーセージ族に対する搾取の構造、「先住民は殺してもいい存在だ」という強烈な人種差別だ。これは特定の一族に限ったことではなく、白人社会全体にあった通念だろう。作中で後見人制度やモーリーに対する「無能者」というカテゴライズ等でその背景は察せられるが、当のオーセージ族がどのように感じていたのかという面はあまり見えない。本作はあくまで白人側の物語なのだ。モーリーに存在感があるだけに、彼女(ら)側の物語として描いた方が史実に対して誠実だったのではないかと思う。本作の構造だと、ラストに自虐ネタのように挿入されるショーと同じく「白人向けエンターテイメント」になりかねないのではないか。原作は大量の資料と調査に基づく力作であり、原作に基づく本作もオーセージ族の文化・歴史へのリサーチ等はきちんと行っているようだし、オーセージ族の登場人物には実際に先住民の俳優を起用しているようなので、非常に勿体ないと思う。


グッドフェローズ (字幕版)
ジョー・ペシ
2014-02-24








 
 
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