3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名か行

『カフェ・ソサエティ』

 1930年代。ニューヨーク育ちの青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、叔父で大物エージェントであるフィル(スティーブ・カレル)を頼ってハリウッドにやってくる。フィルの雑用係として働き始めたボビーは、フィルの秘書ヴォニー(クシツエン・スチュワート)に恋をする。しかしヴォニーの恋人は意外な人物だった。監督はウッディ・アレン。
 他愛ない話、2人の人を同時に好きになっちゃったけどどうしよう、というだけの話ではあるし、いつものアレン監督作といった感じではあるのだが、割と好き。ウッディ・アレン作品は面白かろうがつまらなかろうが自分にとって気楽な作品が多い。あっさりと浮気したり殺人が起きたりして、そういうこともあるからしょうがない、みたいな突き放した距離感があるからかもしれない。
 本作では、同時に2人の人を愛してしまう人が登場し、話の流れ上どちらか一方を選ぶ。しかし、選ばなかった一方も、ずっと心の中で生き続ける。今の人生、今のパートナーを愛していないというわけでも不誠実だというわけでもなく、1人の人の中で両立してしまうもので、これはもうしょうがないのかもな・・・。そういうのは許せないという人もいるかもしれないが、私はどちらかというと共感する。「夢は夢だ」というセリフが出てくるのだが、正にその通りで、そういう夢を一生抱えていく人もいるのだと思う。選ばなかった人生への憧憬という部分では、『ラ・ラ・ランド』を思い出した。ハリウッドという舞台は、そういう儚いものとの相性がいいのか。
 相変わらず衣装が素敵なのだが、ヴォニーがプライベートで着ているヘソ出しファッションは、ちょっと当時のモードとはずれている気がする。相当攻めたおしゃれをする人という設定なのだろうか。後々登場する時には、いかにも30年代風のタイトなロングドレスを着ているので、そのあたりのニュアンスが今一つわからなかった。
 ユダヤ人ギャグみたいなフレーズが結構出てくる(ボビーはユダヤ系家庭の息子なので)のだが、これはセーフなの?アウトじゃないの?とちょっとハラハラしてしまった。ユダヤ系であるアレン自らやってるわけだからまあセーフなんだろうけど、大丈夫なのかな・・・。
 なお、女性2人の名前がヴェロニカなのは、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『ふたりのヴェロニカ』(1991年)へのオマージュなのかな?話の内容は全然関係ないんだけど。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』

 宇宙の平和を守るヒーローとして、黄金の惑星ソヴリンの指導者アイーシャ(エリザベス・デビッキ)からの依頼を完了した、ピーター・クイル(クリス・プラット)をはじめとするガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々。しかしロケット(ブラッドリー・クーパー)がソヴリンの高エネルギー源の電池を盗んだせいで、アイーシャは激怒。一行はソヴリンから執拗に追われる羽目になる。危機に陥った彼らの前に現れたのは、ピーターの父親を名乗るエゴ(カート・ラッセル)だった。監督・脚本はジェームズ・ガン。
 1作目ではガーディアンズの面々が本当に「ガーディアンズ」になるまでが描かれ、少年漫画っぽさに熱くなったが、本作ではピーターと父親の問題を軸に、家族を巡る物語が中心に描かれている。ピーターを巡る、悪しき父親と良き父親の対決の物語でもあり、ある登場人物の活躍には目頭熱くせずにはいられないだろう。父親は子供を無事に送り出さなければならない、という姿勢の健全さにもほっとする。また、ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)と妹の確執の顛末や、ベビー・グルート(ヴィン・ディーゼル)の「育児」に試行錯誤するロケットの姿には、まだ上手くはやれないけど何とかこいつとやっていきたいんだ!という一生懸命さがあって、なんだかほのぼのする。
 ガーディアンズの面々の愛すべき所は、皆愛情の出し方、好意の伝え方が上手くはないが、伝えようという意欲は捨てていないという所じゃないかなと思う。他者とのコミュニケーションに希望を持っている人たちなのだ。口が悪いロケットですら、その点に関しては前作程皮肉っぽくはない。本作に登場する「ヒーロー」たちのかっこよさは、ある意味愚直な一生懸命さにあり(ようするに全然クールではない)、悪ノリはあってもシニカルさはない。そこが、作品の愛嬌に繋がっているように思う。
 なお、前作ではドラックス(デビッド・バウティスタ)が筋肉バカみたいな振る舞いだったが、今回は意外と良いことを言っている気がする。彼は比喩表現がわからず文字通りの率直な言い方しかできない、ある意味とっても素直なので、素直になれない他のメンバーたちの心情をずばりと(多分本人は意図していないのだろうが)言い当てているような所があった。マンティス(ポム・クレメンティエフ)へのブスいじりにはハラハラさせられたが、それでも彼女に好意を持っているということではあるからなぁ(ドラックスの種族がそういうことを他人の評価基準にしていないということかもしれないけど)。ブスだから嫌いだとは言っていないんだよね。

『午後8時の訪問者』

診察時間終了1時間後、診療所の玄関ベルが鳴った。医師ジェニー(アデル・エネル)は玄関に向かおうとした研修医を、業務時間外だからと制止する。翌日、身元不明の少女の遺体が発見され、警察が診療所の監視カメラを確認しにきた。録画された映像の中には、彼女が診療所のベルを鳴らす姿があった。責任を感じるジェニーは、少女の身元を判明させようとあちこち聞きまわる。監督はジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。
ジェニーが診療所のドアを開けなかったのは、診療時間が過ぎていたからということもある。しかし同時に、研修医に対して自分がここのボスであるということを示したかったからでもあると、彼女自身が漏らす。もし彼女が一人で残業していたら、ドアを開けたかもしれないのだ。彼女の行動は強く責められるものではないだろうし(実際の所、業務時間終了後いつまでも診察を受け付けていたら仕事として維持できないだろう)、少女が死んだのは直接的には彼女のせいではない。しかし、ジェニーにとっては医師という職業を仕事として割り切るのかどうか、自分の迷いに突き刺さる出来事になってしまったのだと思う。彼女は大学病院(研究センターのようなものか?)への就職が決まっていたのだが、自分の人生を大きく変える決断をしてしまう。これはぱっと見衝動的なのだが、ずっと迷っていたものが噴出して踏ん切りがついたと言うことなのだと思う。
少女の死に対するジェニーの責任感、少女の名前を知る事への執念は少々行き過ぎ、警察にもたしなめられるほどだ。しかし、その責任感を失くしてしまっては自分はおしまいだ、これをちゃんとしておかないと人としてダメだ、というような焦燥感に突き動かされているようでもあり、彼女が医師という仕事に対して保持し続ける矜持のようにも思えた。匿名の誰かではなく、名前のある個人の為に自分は働いているし、誰でも名前を持った存在として扱われるべきなのだと。ジェニーは往診にも駆けずり回るが、徐々に患者の信頼を得ているように見える。彼女が、個人対個人として相対するようになったからではないか。
あの時、あの場でこうしていれば、ああしていればという後悔に突き動かされる人たちの物語でもある。自分の行動を悔いているのはジェニーだけではない。皆、魔がさすというか、ちょっとした倫理観のゆらぎ、嫉妬や欲望により、判断を誤ってしまうのだ。そしてその判断が誤っていたということは、後からでないとわからない。これがどうしようもなくやりきれない。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』

 生身の肉体の「義体」への置き換えが進む未来。全身義体化する技術の成功例だが自身の記憶の殆どを失くした「少佐」(スカーレット・ヨハンソン)は、公安9課の捜査官。サイバーテロ事件を追う中で、義体化前の記憶が少しずつ呼びさまされてくる。監督はルパート・サンダース。
 士郎正宗の『攻殻機動隊』を原作とした押井守監督のアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のハリウッド版リメイク。原作漫画は知らなくても問題ないが、押井版は見ておいた方がいいかもしれない。ストーリー上云々というよりも、本作、押井版攻殻が好きでたまらない人があのシーンやこのシーンを実写で再現したい!という一念で作ったように見える。あまりにそのまんまでびっくりしたシーンがいくつかあった。原作へのリスペクトってそういうことか?映画としてそれでいいのか?と疑問には思うが、てらいながさすぎて強く非難する気にもならないんだよな・・・。あー本当に押井監督作品好きなんだなってことはよくわかる。アパートの名前とか、犬の名前とか、そこまで目配せしなくてもいいんですよ!って気分にはなったが。ある種のファンレターと言えなくもないが、これ貰った方も微妙だよな・・・。
 本作中の日本の都市の造形は、今のSF映画(や小説など)の傾向からするといわゆる「なんちゃってTOKYO」風で古臭くもある。巨大な広告ホログラムやゲイシャロボット等、あえて悪趣味、キッチュな方向に振った造形なのだろうが、こういういかがわしさ、怪しさが好きな層は一定数いると思う。私もヘンテコな漢字とか蛍光色のネオンサインとかスラム風の市場とか、嫌いではない。リドリー・スコット監督『ブレード・ランナー』の影響が今現代まで続いているということを実感した。あれが一つの型になっているんだろうなぁ(押井版ももちろん、その影響下にあるわけだし)。
 ストーリーは押井版に則った上でオリジナルの設定、展開を入れたものだが、人間の身体、記憶に対する価値観は真逆と言ってもいい。本作では、この身体を通した体験・記憶にこそ価値があるという方向性で、押井版ほど抽象的な方向にはいかない。本作の作家性なのか、それともハリウッドのエンターテイメントとしてはこのあたりが妥当だという判断なのだろうか。本作の時代設定が、おそらく押井版よりももうちょっと前になっていて、全身義体に付加価値が高いというのもポイントか。義体のオンリーワン性が高い(だからわざわざ美しいスカーレット・ヨハンソンのボディなのかと)。義体開発者のオウレイ博士(ジュリエット・ビノシュ)が少佐の義体に愛着心を持つのも、そういった背景があるからだろう。まだ、(人工のものであれ)「身体」に対する信頼、執着が強い世界なのだ。
 ストーリーは大分ユルいし、SFとしても作品世界の科学技術の度合いとか組織の構成とか、行き当たりばったり感は否めない。もうちょっと頑張ればいいのに(特に少佐の元の体を巡る経緯は、より掘り下げられそうな部分ではある)と思わずにはいられない。ちょっと色物っぽい作品ではあるが、カルト的に一部で愛される、というか嫌われなさそうな気がする。なお日本人キャストについて、ビートたけしの佇まいは見ていてちょっと笑っちゃいそうになったが、桃井かおりが好演していて、予想外の良さがあった。

『劇場版 黒子のバスケ LAST GAME』

 ウィンターカップで優勝し念願の全国制覇をした誠凛高校バスケ部。黒子テツヤ(小野賢章)と火神大我(小野友樹)は2年生になり、夏のインターハイが終わる頃、アメリカのストリートバスケチームJabberwork(ジャバウォック)が来日。強烈な強さを見せつける一方で日本のバスケを馬鹿にする彼らに、黒子と火神、そしてキセキの世代と呼ばれた選手たちがドリームチームVORPAL SWORDS(ヴォーパル・ソーズ)を結成し試合に挑む。原作は藤巻忠俊の大ヒット漫画の続編『黒子のバスケ EXTRA GAME』。監督は多田俊介。
 何かあらすじ書いているうちに空しくなってきたんだけど、とりあえずすごい強くて悪い奴(本当にあっけらかんと悪くて背景説明とかほぼないあたり潔い。90分尺なのでこれで十分だと思う)が来る、バスケで勝負、というシンプルさ。とは言えシリーズのボーナストラックにして真の完結編的作品なので、やはり単品で見るのは厳しいだろう。逆に、個々のキャラクターの成長を見ることが出来るので、原作ないしはTVシリーズを見てきたファンには十分満足できる内容だと思う。少なくとも私はすっごく楽しかった。
 見ている間ずっと、あージャンプっぽい!ジャンプのバトル漫画っぽい!(というか実際ジャンプの漫画なんだけど)という強烈なジャンプ臭のようなものに襲われ、自分の体にジャンプ成分が染みついていることを再確認する羽目に。ジャンプ的な対戦もの、キャラクターの立て方のお作法を踏まえつつ、妙に地に足がついた部分もあるところが本シリーズの面白さだったと思う。根っこにある「バスケが好きか」という部分がブレない。ジャバウォックと対戦するのも、「日本の」バスケを馬鹿にされたからではなく「(上手い下手関係なく)バスケをする人」を馬鹿にされたから、というニュアンス。真面目にやっている人を馬鹿にしない、好きなことは(才能の度合いと関係なく)一生懸命やるといい、というシンプルな所が踏まえられているあたり、いい少年漫画だと思う。
 原作(とTVシリーズ。原作を最後までアニメ化しているので)は週刊少年ジャンプ連載の人気作品としては例外的なくらい、引き延ばさないきれいな終わり方をしている。番外編とも言える本作は蛇足では?とも思ったのだが、本作のラスト、いや蛇足ではないな、これが本当の完結編だなと深く納得した。文字通り「黒子のバスケ」の話であり、彼のバスケが周囲をどのように変えてきたかという話を最後までやったんだなと。
 なお、キャラクター人気に寄るところが大きい作品と思われがちだが、作画面ではキャラクターの一枚画の美麗さを見せようという意図はあまり感じない。あくまで試合の中での動きで魅せたい、そこにキャラクターの魅力が一番発揮されるはずという姿勢が感じられた。

『キングコング 髑髏島の巨神』

 発見された謎の島へ、環境探索の為の調査遠征隊が派遣されることになった。調査の中心となるのは長年未知の生物を研究してきたビル・ランダ博士(ジョン・グッドマン)。研究者たちの案内役として雇われた傭兵ジェームズ・コンラッド(トム・ヒドルストン)とヘリの誘導を行う軍人ブレストン・パッカード(サミュエル・L・ジャクソン)を中心に、一行は島に上陸しようとする。しかし、島の上空でな巨大なゴリラに襲われ、ちりぢりになってしまう。監督はジョーダン・ボート=ロバーツ。
 これまで何度もリメイクされたり他作品にゲスト出演してきたキングコングの最新版。直近だと2005年のピーター・ジャクソン監督による『キングコング』があるが、私はこの作品が全然面白くなかったので、今更キングコングって・・・と少々ひきぎみだった。しかし面白い!すごく楽しい!盛りが良すぎる日本版ポスターは全然嘘じゃない、むしろ本国版よりも内容に即していて素晴らしいということがわかった。アバンの時点で、太陽や目のアップを多用したキャッチー、ともするとあざといショットを多用しておりこれはなかなか楽しそうだなと思っていると、早い時点からどんどん派手な絵を披露してくれる。なお今回、爆音上映で見たのだが、爆音 上映が本当によく合うので、極力大きな画面、大きな音で見ることをお勧めする。
一応トム・ヒドルストン主演作ということになるが、主役はあくまでコングを筆頭とする巨大生物たち。大きいものばばーんと登場してどーんと大活躍!というシンプルさ、そしてそれをさほど邪魔しない人間たちという、人間が分を弁えている内容がいい。人間ドラマなどさほどなくて構わないのだ。一応主役らしきコンラッドは、知恵と経験を披露してはいるものの、さほど活躍するでもない。パッカードは何しろL・ジャクソンが演じているからクレイジーではあるのだが、こちらもいつものL・ジャクソンほど無敵かつクレイジーではない。説教もしない。ただ、本作はベトナム戦争直後(現地からアメリカ軍が引き上げていくタイミング)という時代設定なのだが、パッカードが戦場でこそ生きている実感を得られるタイプの人で、新たな敵を発見して生き生きとしてく様はなかなか面白かった。部下の弔い合戦と言ってはいるが、戦っていないと死んじゃうタイプの人なんだなぁと。人間側のドラマとして一番気になったのは、第二次大戦中に島に辿りついたマーロウ(ジョン・C・ライリー)とグンペイ(MIYAVI)の数十年間ですね・・・。そこ何とか垣間見せてもらえませんかね!まさかライリーが日本刀振り回す姿にあんなにぐっとくるとは思わなかった。
 コングと人間側とに下手に友情や愛情が芽生えない(と私は見た。あれは小動物をつぶしちゃったらかわいそうね、くらいの感じなんじゃなかろうか)ところもいい。人間とは全くの別物だからこそ怪獣は魅力があると思う。


『哭声/コクソン』

 山間の村コクソンで、村人が自分の家族を殺害するという事件が相次いで起きていた。殺人者たちには、肌が原因不明の湿疹でただれ、目はうつろ、会話も出来ないような茫然自失の状態で発見されたという共通点があった。事件を担当することになった警官ジョング(クァク・ドウォン)は、村の噂から、山の中に住む、どこからか来たよそ者の日本人(國村隼)が事件の背後にいると推理。しかし同じころ、自分の娘にも殺人犯たちと同じ湿疹が出ていることに気付く。娘を救いたい一心でよそ者を追い詰めるが。監督・脚本はナ・ホンジン。
 ミステリであったりホラーであったり犯罪ものであったりという、複数のジャンルをさらっと横断しなおかつどのジャンルにも属さない、オンリーワンの凄みを見せる怪作。いや怪作というと語弊があるかな・・・。奇妙な映画ではあるのだが、映画としての強度は異常に高い。監督の過去作『チェイサー』『哀しき獣』よりもよりも個人的には好きだ。
 冒頭、聖書の一節が引用される。イエスの復活を信じられない人たちに、自分に触れてみよとイエスが告げるくだりだ。この引用は、終盤の2人の人物のやりとりと呼応してくる(手に痕があるあたり、少々やりすぎじゃないかという気もしたが)。目の前にあるものをなぜ疑うのか?と。しかし同時に、人間は目の前にあるものそのものを見ているのではなく、自分の頭の中に既にあるもの、自分内の既存の概念に基づくものしか見ることが出来ない、信じられないのではないかと問いかけられているように思った。終盤、よそ者がある姿に見えるのも、彼の正体がその姿だというのではなく、彼と相対する人にとっては、正体のよくわからないよそ者はこういう姿に見える、こういう先入観でしか見られないと言うことなのだと思う。
 作中ではしばしば、この人、この言葉を信じられるのか、どちらを信じるのかとジョングが問われる。彼は概ね、どちらが正しいという確信を持つことはできないし、頻繁に迷う。殺人者たちはキノコの中毒で錯乱状態になったのかもしれないし、祈祷師の呪いで操られたのかもしれない。ないしは、ジョングらの想像もつかない他の理由があるのかもしれない。結局のところ、信じたいものを信じるしかないのだ。彼はある「答え」を導き出し、それを信じて娘を助けようと暴走するが、それが正しかったのかどうかも最後まではぐらかされていく。これが正解かと思うと、それを疑わしくするものが立ち現れる。むいてもむいても真相には辿りつかず、中空状態が常にあるのだ。自分が見ているものを裏付けてくれるものがないという不安、気持ちの悪さをジョングらと共に味わうような鑑賞だった。

『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』

 1991年、エドワード・ヤン監督作品。2017年に4Kレストア・デジタルリマスター版としてよみがえった。1961年に台北で実際に起きた、少年によるガールフレンド殺害事件を元にしている。
 1960年年代初頭の台北。受験に失敗して夜学に通う小四(シャオスー)は、不良グループ“小公園”の王茂(ワンマオ)や飛機(フェイジー)らとつるんでいた。ある日、少女・小明(シャオミン)と知り合うが、彼女は小公園のボス"ハニー”の恋人だった。ハニーは対立グループ“217”のボスと小明を奪い合い、相手を殺して姿を消したと噂されていた。
 リマスター版だからか、映像の質感、光の強弱がとても美しい。特に、暗い部分、黒い部分の奥行がより細部までよく見える気がする。べたっとした暗さではなく、ニュアンスのある暗さなのだ。またエドワード・ヤンの映画はなぜだかいつも夏の空気感がある。登場人物が頻繁に夏服だからというのもあるだろうが、どこか湿度を感じる、クリアすぎない色合いの映像によるものかなとも思う。4時間近い長尺の作品だが、その映像の美しさに見入って、予想していたほど長さを感じなかった。
 不良グループ同士の対立はヤクザごっこのようでもあり、『クローズ』的な世界のようでもある。しかしファンタジーではなく、当人らは大真面目で「タマを取り合う」つもりなのが、滑稽でもあり痛ましくもある。世の中の不安定さ、大人たちの混乱が彼らを生んだと冒頭のナレーションにあるが、彼らの世界と大人たちの世界は断絶されているように見える。彼らは子供だが、子供の至らなさをフォローする大人がいないのだ。大人は大人で、自分たちの問題で手一杯だし、小四の父親のように自分ではなすすべもない不条理な処遇に追いつめられていく人もいる。
 小四は2人の少女に同じことを指摘される。「あなたの思った通りにしろというの?」と。小四は小明に好意があり、自分が彼女を守ると明言して行動に移す。が、それは彼女の立場も、自分と彼女の関係も客観視できていないということなのだ。彼のひとりよがりな愛が、取り返しのつかない悲劇を招いてしまう。若々しくてキラキラしている部分と、若さ故のしょうもない部分がないまぜになり、美しく苦い青春物語だ。

『彼らが本気で編む時は、』

 11歳の少女トモ(柿原りんか)は母親ヒロミ(ミムラ)と2人暮らしだったが、ある日母親がふらりといなくなってしまう。トモは叔父マキオ(桐谷健太)の元を訪ねるが、彼は恋人のリンコ(生田斗真)と同居していた。元男性であるリンコにトモは戸惑いを隠せないが、2人の元に身を寄せ同居生活が始まった。監督は荻上直子。
 真摯に作られた作品なんだろうなとは思う。特に、子供はどういう母親であっても母親を求めてしまうというところや、子供にとってどんな親の元に生まれてくるか、周囲にどんな大人がいるかということは、博打みたいなもので自分ではどうしようもないということのやるせなさは、主人公の少女だけではなくその同級生の少年の母子関係からも、よく伝わってくる。特に少年の母親は全部よかれと思ってやっているだけに、本当にやりきれない気分になる。
 ただ、いいなと思った部分の量を、ひっかかった部分の量が越えてしまった。まず、リンコの造形には、これでいいのかなとずっと疑問が付きまとった。リンコはトランスジェンダーの女性だが、そこが特別であるように描かれず、仕事は介護施設職員で同僚とも円満に付き合っており、フラットな描写なところはいい。ただ、いわゆる「女性らしい」と呼ばれる要素、社会的に女性に要求されがちな要素が盛られ過ぎているように思った。リンコは料理を筆頭に家事全般が得意で、服装はふわっとしたフェミニンなもの、いわゆる「かわいい」小物が好きで優しく穏やかな性格。介護という職業も、どちらかというと女性のものと捉えられがちだし実際現場は女性が多い。自認している性別が女性であるということと、社会が女性に要求するものを引き受けようとすることは別物だと思うのだが、映画を作っている側がそのあたりに無自覚で、とにかく「女性らしさ」を強調しよう!というキャラクター造形になっているように思った。こういうのって、逆に性別の幅を狭めるようなことになっている気がするのだが・・・。リンコ個人が(性別はどうあれ)かわいいものや料理が好きな人、というのはわかるのだが、そこを「女性らしさ」と安易に結び付けてないかなと。こういう部分が、シンプルに「かわいいものが好きな人」「手芸が好きな人」「料理が好きな人」と性別と関係なく見られるようになるといいんだろうけどなぁ。
 また、リンコが編み物をする理由も、ちょっとひっかかった。彼女は腹の立つことややりきれないことがあると、それを編み物にぶつける。処世術としては有効なのだがろうが、そこは率直に怒っていいんじゃないの?とも思う。怒りを表明しても役に立たないと悟った上での編み物ならば、ちょっと辛すぎる。それを子供に勧めるというのも辛い。そりゃあ何でもかんでもいちいち腹立てていたらやってられないだろうけど、本当におかしいと思ったことは、おかしいと指摘していいのだ、傷つけられたり不当に扱われたら怒っていいのだと、まず教えておかないといけないんじゃないのと。全部飲み込む必要なんてないと思う。

『クリミナル 2人の記憶を持つ男』

 CIAエージェントのビル・ポープ(ライアン・レイノルズ)が任務中に殺された。彼は米軍の核ミサイル発射装置まで沿革操作できる万能のプログラムを開発したハッカー「ダッチマン」(マイケル・ピット)の居場所を知る唯一の人物だった。テロリストのハイムダール(ジョルディ・モリャ)もまた、プログラムを狙いダッチマンを追っていたのだ。CIAはダッチマンを確保する為、ビリーの記憶を他人の脳に移植する手術を敢行。移植先は、死刑囚のジェリコ・スチュアート(ケヴィン・コスナー)だった。ジェリコは自身の人格とビリーの記憶とに引き裂かれつつ、テロリストとの戦いに巻き込まれていく。監督はアリエル・ブロメン。
 コスナーだけでなくビルの上司ウェルズとしてゲイリー・オールドマン、移植手術を行う医師フランクスとしてトミー・リー・ジョーンズが出演しておりなかなか豪華かつ渋いキャスティングなのだが、公開規模は小さいんだな・・・。何となくB級SF感が漂うが漂うからか、微妙に地味だからか。しかし、なかなか好きなタイプの作品だった。監督のブロメンて何を撮った人なのかなと思ったら、『THE ICEMAN 氷の処刑人』の人だったのか!これも奇妙なんだけど好きな作品だったなぁ。俳優の使い方に味のある監督だと思う。
 ジェリコは子供の頃の脳の損傷が原因で、感情を持たず、理知的な思考が苦手で粗暴だ。いわゆるサイコパスとはちょっと違って社会に適応する「振り」も出来ない為、刑務所と縁の切れない人生だった。そんな彼がビルの記憶を移植されることで感情と社会性、そしてCIAとしてのスキルを手に入れる。特殊技能の記憶が増えているとはいえ、ジェリコにとっては初めての「普通」の状態なのだ。それがあくまで借り物で、フランクスによればやがて(48時間程度で)消えていくものだということが、なまじ「普通」を経験してしまった故に何だか切ない。知れないままだったら心揺さぶられたりはしなかっただろうに。彼の大きな選択は、フランクスにとっては臨床実験の成功でもあるのだが、その感情がジェリコのものなのかビルのものなのかはわからない。フランクスがずっと、何とも言えない割り切れなさそうな表情なのは、そのせいかもしれない。彼は一貫してジェリコのことを気の毒(ではあるが自分にはどうもできない)に思っており、彼を道具としてフル活用しようとするウェルズとは対称的。
 ラストは無理矢理大団円ぽい雰囲気に持って行っているが、解釈によっては大分不気味でもある。「彼」はいったい誰なのか?という部分がより曖昧になっているように感じられるのだ。穏やか過ぎて、最早あの世の風景のようでもある。

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