3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名か行

『恐竜が教えてくれたこと』

 11歳のサム(ソンニ・ファンウッテレン)は「地球上最後の恐竜は自分が最後の一頭だということを知っていたのか」と思い悩む。家族内で末っ子である自分は最後に取り残される、そのために孤独に慣れなくてはと特訓を開始する。バカンスで訪れた島で、年上の少女テス(ヨセフィーン・アレンセン)に出会い、一緒に遊ぶようになる。テスは母親と二人暮らしだが、会ったことのない父親を島に招いたのだという。原作はアンナ・ウォルツ『ぼくとテスの秘密の七日間』、監督はステフェン・ワウテルロウト。
 サムはそんなに気難しい子ではなく素直なのだが、一人で色々考え実験してみたいという気持ちが強い。一緒に出掛けようと誘ってくる父親がちょっと迷惑な時もあるのだが、彼が安心して実験・修行に励めるのは、自覚有無にかかわらず家族が自分をバックアップしている、尊重されているという安心感があるからだろう。サムは自分を助けてくれた老人に「思い出を作れ」と言われるが、思い出を作るとはこのバックアップを上書きしていくことかもしれないなと思った。
 一方、テスはある男性を父親だとみなして彼との距離を詰めようとする。計画はうまくいくかのように思えるが、この男性が彼女にある言葉を放つ。当人は全く悪気はないのだが、これはテスが子供であるということへの配慮を欠いたものだ。子供を一個人として尊重することと、大人と同等に扱うことは、似ているようで違う。子供はどんなにしっかりしていても子供で、大人が対応する時にはそれなりのケアが必要なのだ。大人相手と同じように接することは、子供へのケアを放棄することでもある。彼のふるまいは子供であるテスに甘えているとも言える。サムの両親は子供からしたら時々うざいかもしれないが、このあたりの塩梅をちゃんと理解し、「親」「大人」であることを実践しているように思えた。だからサムは安定しているのだ。
 子供2人がとても生き生きとしていて、児童映画として良作。ラストの大団円はちょっとファンタジーぽい(ある人物が責任を引き受けるとは考えにくいので)が、子供が見て安心できる映画かなとは思った。サムが一貫して優しい子なのでほっとする。彼の優しさは、個が確立しているからこそのものに思えた。他人は自分と違うが尊重するという姿勢がある。これは彼の父親にも見られるもので、時々頼りないけどやっぱりちゃんとした大人なのだ。

ぼくとテスの秘密の七日間 (文学の森)
アンナ ウォルツ
フレーベル館
2014-09T


あの夏の子供たち [DVD]
エリック・エルモスニーノ
紀伊國屋書店
2011-04-28


『黒い司法 0%からの奇跡』

 1980年のアラバマ州。若き弁護士ブライアン・スティーブンソン(マイケル・B・ジョーダン)は、犯していない殺人罪で死刑宣告を受けたウォルター・マクミリアン(ジェイミー・フォックス)の弁護をすることになる。しかし虚偽の証言や白人の陪審員たち、証人や弁護士事務所への脅迫、そして根強い人種差別という壁が立ちはだかる。監督はデスティン・ダニエル・クレットン。
 「顔を見れば(有罪だと)わかる」と裁判官が言い放ってしまうレベルの強烈な人種差別が横行しており、死刑判決もあまりに雑(びっくりするくらいろくに捜査をしていない感じ)なのでだいぶ昔の話なのかと思ったら、まさかの80年代で愕然とした。アラバマという土地柄もあるのだろうが、ついこの間までこういう価値観がまかり通っていたのかと。
 ブライアン自身は他の土地からマクミリアンの為にやってくるのだが、母親に「大学を出る前はもっと賢かったのに」と嘆く。アラバマで黒人が黒人死刑囚の弁護をやるというのは、そのくらい損なこと、危険なことということなのだろう。せっかくいい大学を出たのに出世を棒に振るなんて、というわけだ。そもそも親としては自分の子供を危険な目に遭わせたくないだろう。とは言え、そういう賢さ、如才なさは世界を良くはしない。ブライアンの仕事のような、無謀にも見える正しいことをやろうとする意志が世の中を変えていくのだろう。
 ブライアンは頭はいいのだろうが、突出して切れ者なわけではない。アラバマでの偏見や嫌がらせに対しては当初少々見込みが甘くて、はらはらさせられる。彼がやるのは地道な調査と交渉、何よりクライアントと真摯に向き合い続けることだ。ちゃんとした弁護士としてはごくごく一般的なことだろう。ただ、その一般的なことをずっとやり続ける、心を折られてもあきらめずに立ち上がり続けることがいかに難しいか。
 被告という立場でありブライアンのクライアントとなるマクミリアンもまた、絶望的な状況の中で人間としての倫理や思いやりを維持し続けようと耐えてきた人間だ。受刑者仲間を励ます彼の言葉には真摯な思いやりがある。そういう人だからブライアンと共に戦い続けられたのではとも思った。

ラビング 愛という名前のふたり(字幕版)
マイケル・シャノン
2017-09-01


ショート・ターム [Blu-ray]
キース・スタンフィールド
TCエンタテインメント
2015-06-03



『風の電話』

 東日本大震災で岩手県大槌町にあった家と家族を失い、広島の呉で叔母と暮らしている17歳のハル(モトーラ世理奈)。ある日叔母が倒れ、一人残された彼女は震災以来訪れていなかった大槌町へ向かう。広島の土砂災害被災地域で母親と暮らす公平(三浦友和)や、元原発作業員の森尾(西島秀俊)らと出会いながら、ハルは故郷を目指す。監督は諏訪敦彦。
 ハルは非常に口数が少ない。一見平静に見えるが、8年間ずっと大丈夫ではなかったということがぽろぽろと見えてくる。毎日学校に行く前に叔母にぎゅっと抱きしめてもらう習慣からも、多分まだ色々怖いんだろうなと窺えるのだが、叔母が入院してからの行動は危うく痛々しい。肉体はこの世にいるまま、精神はインナーワールドに入ってしまったような行動の仕方なのだ。公平に発見される直前の振る舞いなどかなりやばい人のものだし、ヒッチハイクで広島から岩手に向かおうとするのも(10代の少女が制服姿でそれをやるのも)平常時の判断とは言えないだろう。ヒッチハイクしていた彼女を車に乗せてくれた人にその危険さを指摘されるし、実際かなり危ない目にも遭う。しかし、そういう行動はツッコミどころというよりも、そういうことをしてしまうくらい「大丈夫ではない」状態だということなのだ。
 公平が自分の家が土砂災害に遭わなかったことについて、「たまたま」だ、近所の家は皆やられたと言う。ハルが生き残ったのも家族が死んだのもまさにこの「たまたま」なことであり、それこそがハルを苦しめるのだと思う。理由がないのでなぜ自分が生き残って家族は死んだのか、という遺族の苦しみが終わることがない。納得ができないのだ。ハルが終盤、悲しみではなく悔しさを示すのも、納得できないからだろう。ただ、彼女は自分は納得していないということを口にすることができた。悲しみ・苦しみはなくなることがないが、少し距離をとることができるようになるのではないか。
 ハルが旅の途中で会う人たちは、公平や森尾のような被災者だけではなく、クルド人難民の一家もいる。一家の家長は入管に収容されいつ出てこられるのかもわからない。子供たちは日本社会の中に生活の基盤を築き将来を見据えているのに、社会的には彼らはないものとされている。それは「復興」から取り残された被災者と同様だ。理不尽な出来事に翻弄され、国の中央がよしとするものから取り残された、周縁の人たちの生活にそっと言及するような作品。


ライオンは今夜死ぬ [DVD]
ジャン=ピエール・レオー
紀伊國屋書店
2018-07-28


『彼らは生きていた』

 第一次大戦中に撮影された2200時間に上る記録映像を修復・着色し、BBCが保管していた退役軍人たちへのインタビューから音声や効果音を追加。ピーター・ジャクソン監督による記録映像の再構築。イギリスの芸術プログラム「14-18NOW」と帝国戦争博物館の共同制作。
 大変な労作だということが見るだけでわかる。100年前の映像だから当然劣化しているし音声はついていない。それを修復、着色し、映像と一致するインタビュー内容を音声として加え、更に被写体の唇の動きから何を話しているのかを割り出しているそうだ。付け加えられた映像内でのやりとりはかなり正確なものということだろう。まさに技術の勝利というべき作品。単に「記録」としてしか見られなかったであろう当時の映像が、色と音が加えられるとこんなに生き生きと蘇るのかという驚きがあった。この人たちは実際にあそこにいて生きていた、個々の人生があった様子が立ち上がってくるのだ。また、全体の構成・編集も上手い。99分というコンパクトさなのだが、若者たちが高揚しつつ戦場に向かうところから、軍隊でしごかれ、徐々に変化していき、前線は泥沼化していくという経緯を記録映像だけでなく当時の広告や新聞記事等も交えてテンポよく見せていく。ここぞというシーンの選び方、つなぎ方が効果的でドラマティックに、面白くなっている。ジャクソン監督、この手さばきを他の自作で見せてくれればよかったのに…。
 とても面白く興味深かったのだが、面白いが故にもやもやする。あまりにも演出が上手く、「面白い映画」になってしまっているのだ。本作に映し出された情景はもちろん実際にあったものであり、出てくる人たちは一人一人の身元はわからなくとも実在した人々だ。積み重なる死体も、実際に生きていて死んだ人たちのものだ。彼らの生き死に、死体の映像を娯楽として無邪気に享受してしまっていいのか?という葛藤を感じた。通常ドキュメンタリーを撮る際は当然ながら実在の人物・事象が目の前にあり、撮影することは時に暴力的だという意識を持ち続けなければならないものだと思う。撮影者と被写体との間には常に何らかの緊張感があるだろう。
 しかし本作の場合、対象はすでにいなくなっている人たちであり、監督が被写体と直接接したことはもちろんない。撮影ではなく編集であることで、そういった緊張感がうやむやになっているように思った。また、これだけ加工、編集したら歴史資料とは厳密には言えないのでは?という気もする。確かに面白いのだが、倫理的にこの面白さはOKなのか?と悩んでしまう。


演劇1・2 [DVD]
平田オリザ
紀伊國屋書店
2013-12-21


『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』

 著名なフランス人ミステリ作家の人気作『デダリュス』完結編の翻訳の為、各国から9人の翻訳家が召集された。彼らが集められたのは人里離れた洋館。情報流出を防ぐ為、電話、インターネットを含み外部との接触を一切絶って、毎日1章ずつ翻訳を進めろというのだ。しかし編集者の元に、「冒頭10ページをネット公開した。24時間以内に500万ユーロを支払わなければ次の100ページも公開する」とメールが入る。監督・脚本はレジス・ロワンサル。
 百科事典や参考文献はあるがインターネットが使えない環境での翻訳、しかも通し読みなしでページ順に翻訳するのって現実離れしていない?と翻訳経験のない私ですら想像がつくから、プロの翻訳家の方が見たらこの部分の設定はかなりおかしいのではないだろうか。ただその一方で、翻訳のみで生活するのは厳しいとか経済的に汲々だとか、仕事をするのに家族は邪魔(これは翻訳に限らずそういうタイプの人はいるだろう)とか、翻訳家の地位の低さとか、これは「翻訳家あるある」なんじゃないかなと想像がつくものも。特にお金関係と、「創造力」関係はなかなかせちがらい。「創造力」に関しては、そういう動機で翻訳の道を進む人ばかりではないと思うが。
 フランスのミステリ小説やミステリ映画に触れると、故・殊能将之氏ではないがフランス人のミステリ観てちょっと変だなと思ことが多い。ちゃんと筋の通った謎解きになっていても、妙に過剰というか、ケレン味の盛りが良いのだ。謎解きのロジック、整合性そのものよりも、あっと言わせること、意外性があることの方に重きが置かれている気がする。本作も同様で、論理性を無視しているわけではないのだが、びっくり度の高さの方が優先されている。そもそも原稿流出が発覚した際、一番ありそうな可能性に言及されない。なぜかなと思っていたら、終盤でなるほどと。ある程度読めてしまうのだが、そこに至るまでの構成がひねられており、どこがどこに結びつくのかという部分で意外性と観客の興味をキープしている。
 ケレン味は強いのだが、翻訳という仕事に対する敬意が一貫しており、何より文学への愛がある。作中で一番のクズとして造形されている人物の職業ポジションを鑑みると、出版業界で一番憎まれているのがどういう人なのかが見えてきてしまうかも。

全身翻訳家 (ちくま文庫)
鴻巣 友季子
筑摩書房
2011-08-09


『キャッツ』

 飼い猫も野良猫もいるが皆したたかに生きる「ジェリクルキャッツ」と呼ばれる猫たち。年に一度開かれる舞踏会で、新しい人生への生まれ変わりを許される、ただ1匹の猫が選ばれる。1981年に初演されて以来、愛され続けているミュージカルの映画化。監督はトム・フーパー。
 「猫人間」とでも言えばいいのか、かなり奇妙なルックの「猫」の姿に予告編段階で映画ファンを騒然とさせていた本作。映画本編を見ても、「猫人間」に慣れることはなかった。猫コスプレがだめというのではなく、コスプレ・加工度合いをなぜそこに落ち着かせたのかという、奇妙な美的センスに皆ひっかかったのだと思う。人間の体のフォルムや顔つきが出すぎで、特にボディラインは目のやりばに困る。舞台だと猫耳・ヒゲを付けたダンサーが四つん這いになったり2本足で踊ったりする様が、「あれは猫ですよ」という観客とのお約束=見立てによって成立するわけだが、映画だとその見立てが成立しない。映画は基本的に、カメラに映ったものは映ったままのものとして観客は認識するんだなと再認識した。特にトム・フーパーはクロースを多用して撮っているので、猫のコスプレをした人間というそのままの姿が更に強調されるというかごまかされないというか…。映画と舞台の表現方法の差異、観客のスタンスの差異が確認できる。そういう意味では面白い。
 何しろ大ヒットミュージカルなのでダンスと音楽はちゃんとクオリティが高い。有名曲の「メモリー」はちょっと情感盛りすぎな歌唱だと思ったが、ここが泣き所ですよ!!というわかりやすい提示。映画として駄作とか失敗作とかとはちょっと違うんだよな。ただただ奇妙。基本的に猫の自己紹介ショーの連打なので、ストーリー性には乏しく映画向きとは思えないんだけど…。

キャッツ [DVD]
“サー”ジョン・ミルズ
ジェネオン・ユニバーサル
2012-04-13


キャッツ (ちくま文庫)
T.S. エリオット
筑摩書房
1995-12-06


『カイジ ファイナルゲーム』

 2020年、東京オリンピック終了後、急速に景気が悪化し階層化が進んだ日本。弱者は踏みつぶされていく世の中で、カイジ(藤原竜也)は「バベルの塔」なるイベントへの参加を持ち掛けられる。主催者は富豪の老人・東郷(伊武雅刀)。彼はカイジにある提案をする。監督は伊藤東弥。脚本で原作者の福本伸行が参加している。
 本作がやろうとしているのはもはや映画ではなく「カイジ」というコンテンツなんだなと実感した。ちゃんと「ざわ…ざわ…」音の入った配給会社ロゴ、怒涛の説明台詞、正直しょぼいセット、荒唐無稽だが力業で理屈が通っているかのように納得させられるゲームの数々、そしてとにかく声を張る藤原竜也。映画としてはあまり褒められたものではない演出多々なのだが、本作の場合はそれでいいのだろう。目指しているところがすごくはっきりしている作品で、いっそ潔い。これはこれで正解なのだと思う。一緒に「キンッキンに冷えてやがる…!」とビールをあおれる応援上映には最適。色々茶々入れつつ誰かと一緒に楽しむ作品だろう。それも映画の一つの形だよな。
 ただ、俳優の役割については、なんぼなんでも藤原竜也に頼りすぎだろうとは思った。テンプレ演技でも場を持たせてしまう藤原がえらいのだが、他の俳優はそこまで場が持たない。この演技2時間見続けるのはだいぶ辛いぞ…という人も。そういう所を見る作品ではないということなんだけど。
 なお、本作は東京オリンピックの経済効果に全く期待していない(笑)!働いて豊かになるという期待がほぼ消えた世界設定で、原作スタートから現在に至るまでに現実世界がこの領域にどんどん近づいてきた気がする。正直笑えない。


『家族を想うとき』

 リッキー(クリス・ヒッチェン)はマイホーム購入という夢の為、フランチャイズの宅配ドライバーに転職する。妻アビー(デビー・ハニーウッド)は介護福祉士として一日中駆けずり回っている。両親が時間に追われる一方で、高校生の長男セブと小学生の娘ライザ・ジェーンは寂しさを募らせていた。監督はケン・ローチ。
 リッキーもアビーも家族を深く愛している。しかし、家族の為に励んできたはずの仕事が、家族と共にいる時間を奪い、繋がりを絶っていくという悪循環から逃れることができない。個人事業主とは名ばかりで、過酷な労働条件に縛られ、社員のような保証はろくにない。イギリスでもアメリカでも、日本でも今問題になっているシステムに押しつぶされそうになっていく人々を描いている。『わたしはダニエル・ブレイク』に続き、現代の労働とシステムをめぐる問題を扱った作品だが、前作よりも更に安易な救いうや慰めが訪れない(ここで終わる?!って終わり方で、ここでカットできるのは凄いと思う)あたり、監督引退宣言を撤回したケン・ローチ監督の怒りの深さが感じられるように思う。
 リッキーもアビーも真面目に働く人、働くことを当然と思って真摯に取り組む人だ。しかし彼らが取り込まれたシステムは、真摯であればあるほど当人にとってしんどくなっていく。介護士として働くアビーは、個々の「お客」を自分の親だと思って親身になって接したいと心掛けている。しかしそれができるだけの時間も、それに見合う賃金も与えられていない。きつきつのスケジュールで、時間外で対応しても賃金は出ず、良心的であればあるほど低賃金で重労働ということになってしまう。アビーの疲弊は体力面だけではなく、良心に恥じない仕事ができないという心理的なものでもあるのだ。作中、アビーの客でかつては労働組合運動に参加していた女性が、アビーの労働条件を聞いてびっくりするというシーンがある。彼女の時代は労働者同士で連帯することができたが、今はそれもできないのだ。過剰な自己責任論により、個々に分断されてしまっている。
 そんな個々であるリッキーとアビーをかろうじて支えるのは家族だ。ただ、これにも皮肉を感じてしまう。もしも2人に子供がいなかったら、結婚しておらず自分1人の心配だけしていればいいのだったら、ここまで苦しくはなかったのではないか。家族は心の支えになるが、家族の存在によって経済的には追い込まれてしまう面もあるというのがやりきれない。
 なお、疲れ果てたリッキーはアビーに「自分を思いやってほしい」と訴えるが、アビーには私だって疲労しておりいたわってほしいんだと一喝する。過剰な労働により甘えさせるゆとりがなくなるというよりも、関係性のフェアさが必要だということだと思う。ここも現代的だなと思った。

わたしは、ダニエル・ブレイク [DVD]
デイヴ・ジョーンズ
バップ
2017-09-06




『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

 2016年に公開された『この世界の片隅に』に新たなシーンを追加した長尺版。昭和19年に広島県の呉に嫁いだ19歳のすず(のん)は夫・周作(細谷佳正)、その両親、周作の姉・径子(尾身美詞)とその娘・晴美と暮らし始める。原作はこうの史代の漫画、監督・脚本は片淵須直。
 3時間弱はさすがに長すぎる!しかし、『この世界の片隅に』の単なるエピソード追加版ではなく、エピソードが追加されたことで違った様相が見えるような作りになっていた。『この世界の片隅に』は主人公のすずは観客にとって作品に対する入り口のような存在で、すずの視線で、彼女に共感しやすい構成だったと思う。対して本作は、すずという女性の一個人としての感情や思考へのフォーカスの度合いが強まり、こういう女性があの時代、こういう環境で生きていたという具体性が増しているように思った。映画の面白さの種類がちょっと変わった感じ。
 すずという女性の印影がより深くなったのは、遊郭で働く女性・リン(岩井七世)の存在によるところが大きいだろう。同年代の女性同士として淡い交流をするすずとリンだが、2人を繋ぐものがあり、それがすずの心を大きく揺さぶる。すずの元を海軍に入った水原が訪ねてくるというエピソードは、『この世界の片隅に』だとすずの周作に対する憤りがちょっと唐突に見えたのだが、あれこれやがあってのあの展開だとわかる本作だとすずの心境の流れがより自然に見えた。セクシャルな要素がはっきり加わっていることにより映画の雰囲気がちょっと変わっているように思う。当時の「嫁に行く」ということがどういうことなのか、女性にとって人生の選択肢がどの程度限られていたのかも、より浮彫になっていたと思う。
 ただ、一部の台詞やモノローグがちょっと理屈っぽい、全体のリズムを損ねているなという印象は変わらなかった。玉音放送を聞いた後のすずの激しいモノローグは、すずの言動ではなく作り手の言葉が前に出てきてしまって少々言い訳がましいんだよな。あれを入れたかったらもっと早い段階で率直に入れた方がよかったのでは。

この世界の片隅に [DVD]
のん
バンダイビジュアル
2017-09-15


『カツベン!』

 サイレント映画全盛期。活動弁士を夢見る青年・俊太郎(成田凌)は、泥棒の片棒を担がされ、小さな町の映画館・靑木館に流れ着く。靑木館は隣町の映画館に人気も人材も取られて閑古鳥が鳴いていた。雑用係として働き始めた俊太郎は、ふとしたことで弁士を任され、その語り口は評判になっていく。しかしかつての泥棒仲間が彼の正体に気付く。監督は周防正行。
 面白くないわけではないが、どうにも野暮ったさが否めなかった。こんなにもたついた映画を撮る監督だったかな?序盤の子供時代パートでの子役の演技がちょっとわざとらしいて「ザ・子役」な感じで興が削がれたというのもある。一度気が削がれるとなかなか映画に乗っていけないものだな…。俳優の演技が全体的にオーバー目なように思った。また、ドタバタ感が強すぎ、動きを使ったギャグなどもおおむね滑っている。かつての「活劇」を意識したのかもれいないが、現代の映画に慣れた目には少々煩い。過去の世界を描き、過去の名作らにオマージュを捧げるとしても、現代に公開される映画なら「今」の見せ方にしないと違和感が強い。せっかくいい俳優をそろえているのに、キャラクターばかり増えすぎてストーリー上あまり機能していないのも辛かった。
 活動弁士が俳優なみのスターとしてもてはやされた時代を舞台にしているが、私はそもそもこの活弁というシステムがあまり好きではないのかなと思った。もちろん、実際に体験したことがないからしっくりこないというのもあるだろうが、弁士の語りによって映画の面白さの度合いや方向性が大きく異なってしまうというのにひっかかる。あそこまでわかりやすさを前面に出してしまっていいのだろうかと。作中で永瀬正敏演じる往年の名弁士は、かつての朗々とした語りは放棄している。フィルムを見ろ、フィルムを見れば十分にわかるというのだ。それでこその映画だろう。語りによってフィルムに映ったもの以上の意味合いを載せてしまっていいのだろうかという疑問がぬぐえない。


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