3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名か行

『ゴースト・イン・ザ・シェル』

 生身の肉体の「義体」への置き換えが進む未来。全身義体化する技術の成功例だが自身の記憶の殆どを失くした「少佐」(スカーレット・ヨハンソン)は、公安9課の捜査官。サイバーテロ事件を追う中で、義体化前の記憶が少しずつ呼びさまされてくる。監督はルパート・サンダース。
 士郎正宗の『攻殻機動隊』を原作とした押井守監督のアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のハリウッド版リメイク。原作漫画は知らなくても問題ないが、押井版は見ておいた方がいいかもしれない。ストーリー上云々というよりも、本作、押井版攻殻が好きでたまらない人があのシーンやこのシーンを実写で再現したい!という一念で作ったように見える。あまりにそのまんまでびっくりしたシーンがいくつかあった。原作へのリスペクトってそういうことか?映画としてそれでいいのか?と疑問には思うが、てらいながさすぎて強く非難する気にもならないんだよな・・・。あー本当に押井監督作品好きなんだなってことはよくわかる。アパートの名前とか、犬の名前とか、そこまで目配せしなくてもいいんですよ!って気分にはなったが。ある種のファンレターと言えなくもないが、これ貰った方も微妙だよな・・・。
 本作中の日本の都市の造形は、今のSF映画(や小説など)の傾向からするといわゆる「なんちゃってTOKYO」風で古臭くもある。巨大な広告ホログラムやゲイシャロボット等、あえて悪趣味、キッチュな方向に振った造形なのだろうが、こういういかがわしさ、怪しさが好きな層は一定数いると思う。私もヘンテコな漢字とか蛍光色のネオンサインとかスラム風の市場とか、嫌いではない。リドリー・スコット監督『ブレード・ランナー』の影響が今現代まで続いているということを実感した。あれが一つの型になっているんだろうなぁ(押井版ももちろん、その影響下にあるわけだし)。
 ストーリーは押井版に則った上でオリジナルの設定、展開を入れたものだが、人間の身体、記憶に対する価値観は真逆と言ってもいい。本作では、この身体を通した体験・記憶にこそ価値があるという方向性で、押井版ほど抽象的な方向にはいかない。本作の作家性なのか、それともハリウッドのエンターテイメントとしてはこのあたりが妥当だという判断なのだろうか。本作の時代設定が、おそらく押井版よりももうちょっと前になっていて、全身義体に付加価値が高いというのもポイントか。義体のオンリーワン性が高い(だからわざわざ美しいスカーレット・ヨハンソンのボディなのかと)。義体開発者のオウレイ博士(ジュリエット・ビノシュ)が少佐の義体に愛着心を持つのも、そういった背景があるからだろう。まだ、(人工のものであれ)「身体」に対する信頼、執着が強い世界なのだ。
 ストーリーは大分ユルいし、SFとしても作品世界の科学技術の度合いとか組織の構成とか、行き当たりばったり感は否めない。もうちょっと頑張ればいいのに(特に少佐の元の体を巡る経緯は、より掘り下げられそうな部分ではある)と思わずにはいられない。ちょっと色物っぽい作品ではあるが、カルト的に一部で愛される、というか嫌われなさそうな気がする。なお日本人キャストについて、ビートたけしの佇まいは見ていてちょっと笑っちゃいそうになったが、桃井かおりが好演していて、予想外の良さがあった。

『劇場版 黒子のバスケ LAST GAME』

 ウィンターカップで優勝し念願の全国制覇をした誠凛高校バスケ部。黒子テツヤ(小野賢章)と火神大我(小野友樹)は2年生になり、夏のインターハイが終わる頃、アメリカのストリートバスケチームJabberwork(ジャバウォック)が来日。強烈な強さを見せつける一方で日本のバスケを馬鹿にする彼らに、黒子と火神、そしてキセキの世代と呼ばれた選手たちがドリームチームVORPAL SWORDS(ヴォーパル・ソーズ)を結成し試合に挑む。原作は藤巻忠俊の大ヒット漫画の続編『黒子のバスケ EXTRA GAME』。監督は多田俊介。
 何かあらすじ書いているうちに空しくなってきたんだけど、とりあえずすごい強くて悪い奴(本当にあっけらかんと悪くて背景説明とかほぼないあたり潔い。90分尺なのでこれで十分だと思う)が来る、バスケで勝負、というシンプルさ。とは言えシリーズのボーナストラックにして真の完結編的作品なので、やはり単品で見るのは厳しいだろう。逆に、個々のキャラクターの成長を見ることが出来るので、原作ないしはTVシリーズを見てきたファンには十分満足できる内容だと思う。少なくとも私はすっごく楽しかった。
 見ている間ずっと、あージャンプっぽい!ジャンプのバトル漫画っぽい!(というか実際ジャンプの漫画なんだけど)という強烈なジャンプ臭のようなものに襲われ、自分の体にジャンプ成分が染みついていることを再確認する羽目に。ジャンプ的な対戦もの、キャラクターの立て方のお作法を踏まえつつ、妙に地に足がついた部分もあるところが本シリーズの面白さだったと思う。根っこにある「バスケが好きか」という部分がブレない。ジャバウォックと対戦するのも、「日本の」バスケを馬鹿にされたからではなく「(上手い下手関係なく)バスケをする人」を馬鹿にされたから、というニュアンス。真面目にやっている人を馬鹿にしない、好きなことは(才能の度合いと関係なく)一生懸命やるといい、というシンプルな所が踏まえられているあたり、いい少年漫画だと思う。
 原作(とTVシリーズ。原作を最後までアニメ化しているので)は週刊少年ジャンプ連載の人気作品としては例外的なくらい、引き延ばさないきれいな終わり方をしている。番外編とも言える本作は蛇足では?とも思ったのだが、本作のラスト、いや蛇足ではないな、これが本当の完結編だなと深く納得した。文字通り「黒子のバスケ」の話であり、彼のバスケが周囲をどのように変えてきたかという話を最後までやったんだなと。
 なお、キャラクター人気に寄るところが大きい作品と思われがちだが、作画面ではキャラクターの一枚画の美麗さを見せようという意図はあまり感じない。あくまで試合の中での動きで魅せたい、そこにキャラクターの魅力が一番発揮されるはずという姿勢が感じられた。

『キングコング 髑髏島の巨神』

 発見された謎の島へ、環境探索の為の調査遠征隊が派遣されることになった。調査の中心となるのは長年未知の生物を研究してきたビル・ランダ博士(ジョン・グッドマン)。研究者たちの案内役として雇われた傭兵ジェームズ・コンラッド(トム・ヒドルストン)とヘリの誘導を行う軍人ブレストン・パッカード(サミュエル・L・ジャクソン)を中心に、一行は島に上陸しようとする。しかし、島の上空でな巨大なゴリラに襲われ、ちりぢりになってしまう。監督はジョーダン・ボート=ロバーツ。
 これまで何度もリメイクされたり他作品にゲスト出演してきたキングコングの最新版。直近だと2005年のピーター・ジャクソン監督による『キングコング』があるが、私はこの作品が全然面白くなかったので、今更キングコングって・・・と少々ひきぎみだった。しかし面白い!すごく楽しい!盛りが良すぎる日本版ポスターは全然嘘じゃない、むしろ本国版よりも内容に即していて素晴らしいということがわかった。アバンの時点で、太陽や目のアップを多用したキャッチー、ともするとあざといショットを多用しておりこれはなかなか楽しそうだなと思っていると、早い時点からどんどん派手な絵を披露してくれる。なお今回、爆音上映で見たのだが、爆音 上映が本当によく合うので、極力大きな画面、大きな音で見ることをお勧めする。
一応トム・ヒドルストン主演作ということになるが、主役はあくまでコングを筆頭とする巨大生物たち。大きいものばばーんと登場してどーんと大活躍!というシンプルさ、そしてそれをさほど邪魔しない人間たちという、人間が分を弁えている内容がいい。人間ドラマなどさほどなくて構わないのだ。一応主役らしきコンラッドは、知恵と経験を披露してはいるものの、さほど活躍するでもない。パッカードは何しろL・ジャクソンが演じているからクレイジーではあるのだが、こちらもいつものL・ジャクソンほど無敵かつクレイジーではない。説教もしない。ただ、本作はベトナム戦争直後(現地からアメリカ軍が引き上げていくタイミング)という時代設定なのだが、パッカードが戦場でこそ生きている実感を得られるタイプの人で、新たな敵を発見して生き生きとしてく様はなかなか面白かった。部下の弔い合戦と言ってはいるが、戦っていないと死んじゃうタイプの人なんだなぁと。人間側のドラマとして一番気になったのは、第二次大戦中に島に辿りついたマーロウ(ジョン・C・ライリー)とグンペイ(MIYAVI)の数十年間ですね・・・。そこ何とか垣間見せてもらえませんかね!まさかライリーが日本刀振り回す姿にあんなにぐっとくるとは思わなかった。
 コングと人間側とに下手に友情や愛情が芽生えない(と私は見た。あれは小動物をつぶしちゃったらかわいそうね、くらいの感じなんじゃなかろうか)ところもいい。人間とは全くの別物だからこそ怪獣は魅力があると思う。


『哭声/コクソン』

 山間の村コクソンで、村人が自分の家族を殺害するという事件が相次いで起きていた。殺人者たちには、肌が原因不明の湿疹でただれ、目はうつろ、会話も出来ないような茫然自失の状態で発見されたという共通点があった。事件を担当することになった警官ジョング(クァク・ドウォン)は、村の噂から、山の中に住む、どこからか来たよそ者の日本人(國村隼)が事件の背後にいると推理。しかし同じころ、自分の娘にも殺人犯たちと同じ湿疹が出ていることに気付く。娘を救いたい一心でよそ者を追い詰めるが。監督・脚本はナ・ホンジン。
 ミステリであったりホラーであったり犯罪ものであったりという、複数のジャンルをさらっと横断しなおかつどのジャンルにも属さない、オンリーワンの凄みを見せる怪作。いや怪作というと語弊があるかな・・・。奇妙な映画ではあるのだが、映画としての強度は異常に高い。監督の過去作『チェイサー』『哀しき獣』よりもよりも個人的には好きだ。
 冒頭、聖書の一節が引用される。イエスの復活を信じられない人たちに、自分に触れてみよとイエスが告げるくだりだ。この引用は、終盤の2人の人物のやりとりと呼応してくる(手に痕があるあたり、少々やりすぎじゃないかという気もしたが)。目の前にあるものをなぜ疑うのか?と。しかし同時に、人間は目の前にあるものそのものを見ているのではなく、自分の頭の中に既にあるもの、自分内の既存の概念に基づくものしか見ることが出来ない、信じられないのではないかと問いかけられているように思った。終盤、よそ者がある姿に見えるのも、彼の正体がその姿だというのではなく、彼と相対する人にとっては、正体のよくわからないよそ者はこういう姿に見える、こういう先入観でしか見られないと言うことなのだと思う。
 作中ではしばしば、この人、この言葉を信じられるのか、どちらを信じるのかとジョングが問われる。彼は概ね、どちらが正しいという確信を持つことはできないし、頻繁に迷う。殺人者たちはキノコの中毒で錯乱状態になったのかもしれないし、祈祷師の呪いで操られたのかもしれない。ないしは、ジョングらの想像もつかない他の理由があるのかもしれない。結局のところ、信じたいものを信じるしかないのだ。彼はある「答え」を導き出し、それを信じて娘を助けようと暴走するが、それが正しかったのかどうかも最後まではぐらかされていく。これが正解かと思うと、それを疑わしくするものが立ち現れる。むいてもむいても真相には辿りつかず、中空状態が常にあるのだ。自分が見ているものを裏付けてくれるものがないという不安、気持ちの悪さをジョングらと共に味わうような鑑賞だった。

『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』

 1991年、エドワード・ヤン監督作品。2017年に4Kレストア・デジタルリマスター版としてよみがえった。1961年に台北で実際に起きた、少年によるガールフレンド殺害事件を元にしている。
 1960年年代初頭の台北。受験に失敗して夜学に通う小四(シャオスー)は、不良グループ“小公園”の王茂(ワンマオ)や飛機(フェイジー)らとつるんでいた。ある日、少女・小明(シャオミン)と知り合うが、彼女は小公園のボス"ハニー”の恋人だった。ハニーは対立グループ“217”のボスと小明を奪い合い、相手を殺して姿を消したと噂されていた。
 リマスター版だからか、映像の質感、光の強弱がとても美しい。特に、暗い部分、黒い部分の奥行がより細部までよく見える気がする。べたっとした暗さではなく、ニュアンスのある暗さなのだ。またエドワード・ヤンの映画はなぜだかいつも夏の空気感がある。登場人物が頻繁に夏服だからというのもあるだろうが、どこか湿度を感じる、クリアすぎない色合いの映像によるものかなとも思う。4時間近い長尺の作品だが、その映像の美しさに見入って、予想していたほど長さを感じなかった。
 不良グループ同士の対立はヤクザごっこのようでもあり、『クローズ』的な世界のようでもある。しかしファンタジーではなく、当人らは大真面目で「タマを取り合う」つもりなのが、滑稽でもあり痛ましくもある。世の中の不安定さ、大人たちの混乱が彼らを生んだと冒頭のナレーションにあるが、彼らの世界と大人たちの世界は断絶されているように見える。彼らは子供だが、子供の至らなさをフォローする大人がいないのだ。大人は大人で、自分たちの問題で手一杯だし、小四の父親のように自分ではなすすべもない不条理な処遇に追いつめられていく人もいる。
 小四は2人の少女に同じことを指摘される。「あなたの思った通りにしろというの?」と。小四は小明に好意があり、自分が彼女を守ると明言して行動に移す。が、それは彼女の立場も、自分と彼女の関係も客観視できていないということなのだ。彼のひとりよがりな愛が、取り返しのつかない悲劇を招いてしまう。若々しくてキラキラしている部分と、若さ故のしょうもない部分がないまぜになり、美しく苦い青春物語だ。

『彼らが本気で編む時は、』

 11歳の少女トモ(柿原りんか)は母親ヒロミ(ミムラ)と2人暮らしだったが、ある日母親がふらりといなくなってしまう。トモは叔父マキオ(桐谷健太)の元を訪ねるが、彼は恋人のリンコ(生田斗真)と同居していた。元男性であるリンコにトモは戸惑いを隠せないが、2人の元に身を寄せ同居生活が始まった。監督は荻上直子。
 真摯に作られた作品なんだろうなとは思う。特に、子供はどういう母親であっても母親を求めてしまうというところや、子供にとってどんな親の元に生まれてくるか、周囲にどんな大人がいるかということは、博打みたいなもので自分ではどうしようもないということのやるせなさは、主人公の少女だけではなくその同級生の少年の母子関係からも、よく伝わってくる。特に少年の母親は全部よかれと思ってやっているだけに、本当にやりきれない気分になる。
 ただ、いいなと思った部分の量を、ひっかかった部分の量が越えてしまった。まず、リンコの造形には、これでいいのかなとずっと疑問が付きまとった。リンコはトランスジェンダーの女性だが、そこが特別であるように描かれず、仕事は介護施設職員で同僚とも円満に付き合っており、フラットな描写なところはいい。ただ、いわゆる「女性らしい」と呼ばれる要素、社会的に女性に要求されがちな要素が盛られ過ぎているように思った。リンコは料理を筆頭に家事全般が得意で、服装はふわっとしたフェミニンなもの、いわゆる「かわいい」小物が好きで優しく穏やかな性格。介護という職業も、どちらかというと女性のものと捉えられがちだし実際現場は女性が多い。自認している性別が女性であるということと、社会が女性に要求するものを引き受けようとすることは別物だと思うのだが、映画を作っている側がそのあたりに無自覚で、とにかく「女性らしさ」を強調しよう!というキャラクター造形になっているように思った。こういうのって、逆に性別の幅を狭めるようなことになっている気がするのだが・・・。リンコ個人が(性別はどうあれ)かわいいものや料理が好きな人、というのはわかるのだが、そこを「女性らしさ」と安易に結び付けてないかなと。こういう部分が、シンプルに「かわいいものが好きな人」「手芸が好きな人」「料理が好きな人」と性別と関係なく見られるようになるといいんだろうけどなぁ。
 また、リンコが編み物をする理由も、ちょっとひっかかった。彼女は腹の立つことややりきれないことがあると、それを編み物にぶつける。処世術としては有効なのだがろうが、そこは率直に怒っていいんじゃないの?とも思う。怒りを表明しても役に立たないと悟った上での編み物ならば、ちょっと辛すぎる。それを子供に勧めるというのも辛い。そりゃあ何でもかんでもいちいち腹立てていたらやってられないだろうけど、本当におかしいと思ったことは、おかしいと指摘していいのだ、傷つけられたり不当に扱われたら怒っていいのだと、まず教えておかないといけないんじゃないのと。全部飲み込む必要なんてないと思う。

『クリミナル 2人の記憶を持つ男』

 CIAエージェントのビル・ポープ(ライアン・レイノルズ)が任務中に殺された。彼は米軍の核ミサイル発射装置まで沿革操作できる万能のプログラムを開発したハッカー「ダッチマン」(マイケル・ピット)の居場所を知る唯一の人物だった。テロリストのハイムダール(ジョルディ・モリャ)もまた、プログラムを狙いダッチマンを追っていたのだ。CIAはダッチマンを確保する為、ビリーの記憶を他人の脳に移植する手術を敢行。移植先は、死刑囚のジェリコ・スチュアート(ケヴィン・コスナー)だった。ジェリコは自身の人格とビリーの記憶とに引き裂かれつつ、テロリストとの戦いに巻き込まれていく。監督はアリエル・ブロメン。
 コスナーだけでなくビルの上司ウェルズとしてゲイリー・オールドマン、移植手術を行う医師フランクスとしてトミー・リー・ジョーンズが出演しておりなかなか豪華かつ渋いキャスティングなのだが、公開規模は小さいんだな・・・。何となくB級SF感が漂うが漂うからか、微妙に地味だからか。しかし、なかなか好きなタイプの作品だった。監督のブロメンて何を撮った人なのかなと思ったら、『THE ICEMAN 氷の処刑人』の人だったのか!これも奇妙なんだけど好きな作品だったなぁ。俳優の使い方に味のある監督だと思う。
 ジェリコは子供の頃の脳の損傷が原因で、感情を持たず、理知的な思考が苦手で粗暴だ。いわゆるサイコパスとはちょっと違って社会に適応する「振り」も出来ない為、刑務所と縁の切れない人生だった。そんな彼がビルの記憶を移植されることで感情と社会性、そしてCIAとしてのスキルを手に入れる。特殊技能の記憶が増えているとはいえ、ジェリコにとっては初めての「普通」の状態なのだ。それがあくまで借り物で、フランクスによればやがて(48時間程度で)消えていくものだということが、なまじ「普通」を経験してしまった故に何だか切ない。知れないままだったら心揺さぶられたりはしなかっただろうに。彼の大きな選択は、フランクスにとっては臨床実験の成功でもあるのだが、その感情がジェリコのものなのかビルのものなのかはわからない。フランクスがずっと、何とも言えない割り切れなさそうな表情なのは、そのせいかもしれない。彼は一貫してジェリコのことを気の毒(ではあるが自分にはどうもできない)に思っており、彼を道具としてフル活用しようとするウェルズとは対称的。
 ラストは無理矢理大団円ぽい雰囲気に持って行っているが、解釈によっては大分不気味でもある。「彼」はいったい誰なのか?という部分がより曖昧になっているように感じられるのだ。穏やか過ぎて、最早あの世の風景のようでもある。

『虐殺機関』

 世界の紛争地域で鎮圧任務についていたアメリカ軍特殊部隊のクラヴィス・シェパード(中村悠一)大尉に、あるミッションの為チェコに向かえという指令が下る。ターゲットはジョン・ポール(櫻井孝宏)なるアメリカ人言語学者。世界の紛争の影には常に彼の姿があるというのだ。現地に赴いたシェパードは、ジョン・ポールと懇意にしていたチェコ語教師ルツィア・シュクロウポヴァ(小林沙苗)に近づく。原作は伊藤計劃、監督は村瀬修功。
 伊藤計劃作品3作の映画化企画の一環として製作された本作だが、製作中にスタジオが倒産、何とか新会社を立ち上げ完成にこぎつけたという経緯があるので、とにもかくにもちゃんと完成してよかった。公開時期が結構延びてしまったが、それも納得できるクオリティで更にほっとした。特にキャラクターにしろ諸々のガジェットにしろ、デザイン面が良くできていたと思う。キャラクターのビジュアルが、それぞれの民族の差異を感じさせるもので、これは日本のアニメーションでは珍しいのではないかと思う。シェパードと同僚のウィリアムズは共にアメリカ人だが、ウィリアムズの方がより顔の凹凸がはっきりとした骨格で、いわゆる白人男性の風貌。シェパードはつるっとしておりアジア系っぽい。ルツィアの方がシェパードよりも顔の骨格のめりはりがあるんじゃないかなというくらいで、彼女は全身の骨格も結構しっかりとしている。いわゆるアニメの女性キャラクターのような華奢さは感じさせない(むしろシェパードの方が軍人としては華奢に見えるくらいだ)。
 また、人工筋肉を使ったアイテムのデザインがユニークさと不気味さ(有機的な部分がおそらくそう思わせる)を醸し出していて面白い。飛行機内のシートベルトにも生き物の肉体が絡みつくような雰囲気があるが、作中の人たちにとってはそれが普通だから、全員無反応という所にシュールさを感じる。また、投下用ポッドやコンタクトレンズ(デバイスを直接目に装着するからか)が使用後に液化する様には、なるほどこれが軍事用ってことね!と妙にわくわくした。
 原作を読んだ時も思ったが、映画でより強く感じたのがシェパードのナイーブさ、若々しさだ。アメリカの軍人、しかもエリートがこんなに揺さぶられやすくていいのか?というくらい簡単にジョン・ポールの言葉に心乱されてしまう。ジョン・ポールが使う「言葉」の特質はあるものの、軍人メンタリティとはそれに対して「だから何だ」と(良くも悪くも)返せるようなものではないかと思うが。シェパードは作中何度も軍人としては珍しく文系大学出身であることをからかわれるのだが、言葉の使われ方に対するセンシティブさがある。
シェパードのルツィアに対する思い入れは少々説明不足ではある。とは言え、彼が見ない、感じないようにしていたものと対面しつつもジョン・ポールが見ている世界とは別の世界を見ている人が彼女だったのかもしれない。作中、最も強く逃げないキャラクターは、彼女なのだ。
 終盤、セリフとモノローグで一気に処理してしまったところがちょっと残念なのだが、そもそも言葉量が多い原作なんだよな・・・。各人がそれぞれの思想を垂れ流すタイプの小説は、こういう部分が映像化に不向きなんだろう。それにしても、ジョン・ポールの理屈は原作が書かれた当時はそれを言っちゃあお仕舞よ、的なものとして捉えられていたと思うのだが、今やその理屈に準じるようなことをあけっぴろげに言っちゃう政治家が出てくるようになったんだもんなぁ・・・。建前の崩壊とは恐ろしい。映画の製作が遅れたことで期せずしてよりタイムリーになってしまった感がある。

『クラッシュ・ゾーン』

 「未体験ゾーンの映画たち2017」にて鑑賞。違法公道レースをしたことで逮捕され、2年間服役していたロイ(アンドレス・バースモ・クリスティアンセン)はようやく出所し、妊娠中の恋人シルビアと前妻と娘であるニーナの為にもレースの世界から足を洗おうと決意する。しかし彼をライバル視するレーサーのカイザーが挑戦を挑んでくる。更にニーナの恋人チャーリーがレースに参加すると言いだし、ニーナも同乗すると言う。前妻からニーナを連れ戻せと言われたロイは、愛車のマスタングでカイザーらを追う。監督はハロルド・ブレイン。
 ノルウェー発のカーアクション映画『キャノンレース』の続編。前作での展開及びラストからそのまま続いているので、キャラクターの説明等が一切ないという潔さ。ノルウェーでは説明いらないくらいヒットしたってことだよな・・・。アバンで前作のダイジョエストは漠然とわかるので、単品でも大丈夫なことは大丈夫だと思うが。そもそもそんなに入り組んだ話ではないし、何なら前作より更に能天気になっていると思う。
 今回はノルウェーからスウェーデン、フィンランド経由でゴール地点がロシアというコースなのだが、季節は冬。しかも当然豪雪地帯。雪上でレースをし派手なカーアクションをかましているので、前作よりもカースタントの難易度は上がっているように思う。極端に寒い地域でないと出来ないようなネタもあり、えっそれ大丈夫なの?!CGじゃないよね?!と思わず二度見してしまいそうになる所も。カーアクションて色々あるけど、これは初めて見たわ・・・。登場する車の台数は減ったが、いい意味で泥臭く大変楽しかった。自動車が、ちゃんと自動車として走りアクションしているのがいい。『ワイルドスピード』シリーズみたいなのももちろん楽しいのだが、あれはカーアクションというよりも車を使った格闘技みたいな感じだからな・・・。
 本作、前作に引き続き父親と娘の物語でもあるが、父親であるロイが随分甘やかされるようになっちゃったなーという感は否めない。前作では疎遠だった娘との絆をレースで取り戻したが、本作では既に(恋人はいるが)ニーナはロイのことを大好きだし、父親としても夫としてもあまり役に立たないロイのかっこいい所をわかってくれている。ある意味夢の娘像だよなと。ロイはいわゆる「大人」として振舞えない人なので、娘との共犯関係みたいなものが余計に嬉しいのかも。前妻は良くも悪くも大人になってしまったんだよな。
 なお、一番驚いたのはノルウェーの刑務所の住環境が結構良さそうな所。そんなに重罪じゃなかったからだろうけど。刑務所内での仕事が裁縫というのも何かいい。

『こころに剣士を』

 1950年代初頭、第二次大戦終結によりドイツによる支配からは脱したものの、今度はソ連占領下に入り、スターリン政権下にあったエストニア。エンデル(マルト・アバンディ)はソ連の秘密警察から逃れ、田舎町の小学校教師として身をひそめていた。フェンシング選手だった彼は子供達にフェンシングを教えるが、校長は彼の素性を怪しむ。着実に上達していく子供達はレニングラードで開催される全国大会に出たいとせがむが、エンデルにとってレニングラードに出ることは、逮捕されかねない危険な行為だった。監督はクラウス・ハロ。
淡々と進む作品なのだが、終盤でいきなりスポ根的な演出が見られ、気分が一気に盛り上がる。子供達の勇気が発揮される場面であると同時に、エンデルにとっても自分の人生を賭け勇気を振り絞る、彼が自分の人生を選ぶシーンなのだ。
 エンデルはそもそも、教師になろうと思っていたわけではない。なりゆきで小学校に勤めるようになっただけで、子供は苦手だし教え方もわからない。序盤、子供達が授業で跳び箱を飛んでいる。上手に飛べた子供がぱっとエンデルの方を見るのだが、エンデルは他所を見ていて気付かない。子供が微妙にがっかりした顔をするのだ。子供達の見てほしい、気にかけてほしいという欲求や不安感を、彼はいまひとつわかっていないのだ。加えて戦争で若い男性が駆り出されていた為、父親のいない子供が多い。父親的な存在に飢えているので、よけいにエンデルを慕うのだろう。フェンシングによって彼らの苦しさが減るわけではないが、一生懸命学ぶこと、何かに夢中になることが、気持ちを支えていくことにもなるのだ。
 最初は子供は嫌いだと言っていたエンデルも、子供達と接するうちに、本気で教師として振舞うようになってくる。子供達にとって「教師」であり、模範とすべき「剣士」である為、自分の人生を賭けるまでになる。町にやってきた時からしたら予想外の方向に彼の人生が進む、そういう人生を彼自身が選び取る。おそらく彼にしろ子供達にしろ、抑圧された時代の中で選択できるものがごく少ない状況だ。そんな中での選択がこれである、という所に何だかぐっときた。希望が残るラストもいい。

 
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