3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名あ行

『あのこは貴族』

 配信試写で鑑賞。東京の医者一族に生まれ、何不自由なく育った華子(門脇麦)。結婚相手探しに奔走した結果、良家の生まれの弁護士・幸一郎(高良健吾)と縁ができる。一方、富山で生まれ大学進学に伴い上京した美紀(水原希子)は実家が経済難で退学。以来、東京で働き続けてきた。全く違う環境で生きてきた2人の人生が、ある一点で交錯する。原作は山内マリコの小説。監督は岨手由貴子。
 華子と美紀のキャスティングの妙があった。生まれながらの「いいおうち」の娘さんて実際こんな感じだよなという華子と、上京して洗練され華やかになっていく美紀の対比がくっきりしている。華子のような環境だと、華やかであることはあまり必要ないしさほど美点というわけでもないんだろうなと思わせる。対して「持ってない」美紀は自身の華やかさも使ってサバイブしないとならない。
 華子が年始をホテルの食事会で迎えるあたり、あーこういうおうちあるわ!という説得力だった。ちょっと戯画的すぎないかなという所もあるのだが、東京の「ある層」のニュアンスは出ているのでは。華子のような人々を美紀は「貴族」と呼ぶが、貴族の中にもヒエラルキーがある。幸一郎は華子よりも更に貴族。美紀が大人になったらクリスマスなんてやらないというのに対し、華子が信じられないと漏らすのだが、それをぽろっと口に出してしまうあたりが貴族ということか。
 美紀から見ると華子は非常に恵まれているように見える。しかし、彼女らが直面する困難や社会のしがらみはびっくりするほど似ている。華子の世界でも美紀の世界でも女性は結婚と出産を期待され、夫の不始末には「上手くやれ」と言われ、値踏みされ続ける。むしろ華子や幸一郎の方が「持っている」ものが多く捨てられないだけに、閉塞感は強いように見えた。日本の社会がそもそも持っている旧弊さ・閉塞感なのだ。美紀や友人は「持っていない」からこそそこから飛び出せる。階級の閉塞感から飛び出す為の手段がシスターフッドだという所にほのかな希望があった。そのシスターフッドは、かすかではあるが華子と美紀の間にもある。ただ、階層を越えた連帯というのはかなり成立しにくいんだろうなとも思わされたが…。同質の苦しみがあるが、それに対して取り得る手段が異なるというか。
 一方、幸一郎は自分が生まれた世界に骨を埋めるしかなさそうだ。ブラザーフッドとシスターフッドの決定的な違いを見た気がした。家父長制の中ではブラザーフッドはその強化の方向に働いてしまうのだろうか。男性の場合、同性同士でケアしあうという意識が希薄な気がする。

あのこは貴族 (集英社文庫)
山内マリコ
集英社
2020-07-03


パリ行ったことないの (集英社文庫)
山内 マリコ
集英社
2017-04-20


『イエスかノーか半分か』/『丸出せ!金太郎』

 人気若手アナウンサーの国江田計(阿部敦)は外面は完璧な王子様キャラ、内面は毒舌な裏表の激しい性格。取材で知り合った映像作家の都築潮(川原慶久)と再会するが、ジャージ・メガネ・マスクの国江田を、都築は彼と気付かない。怪我をした都築の仕事をいやいやながら手伝うことになった国江田だが、徐々に以後ことに良さを感じ始める。原作は一穂ミチの人気BL小説シリーズ、監督・脚本はたかたまさひろ(『イエスかノーか半分か』)。先代校長の遺言により学園中から貞操を狙われていた小野寺学園理事長兼生徒の真琴(斉藤壮馬)は、ボディーガード兼恋人の金太狼(森川智之)の活躍で平穏な日々を取り戻していた。しかし問題児揃いの川加羅分校から刺客が送り込まれてくる。原作は紅蓮ナオミの漫画、監督は荒木英樹(『丸出せ!金太狼』)。
 BLアニメの特集上映である「BL FES!2020」での同時上映作品。本来なら別個記事にするべきなのだがこの2作の対比で感想を言いたいことがあるので、まとめて1記事にする。
 まず『イエスかノーか半分か』。本作、原作は人気ロングセラーシリーズだし私も読んでいるが、きちんとしたオーソドックスなBL小説だと思う。アニメも原作の内容、イラストに忠実に、奇をてらうことなくつくられている。が、それがアニメーションとしての面白さにつながっているのかというと、ちょっと微妙な気がした。これは原作付きのアニメを見る度に思うことなのだが、特に活字からアニメーションに置き換える時は脚本・絵コンテの技量がもろに出てしまうのでは。漫画だと、コマ割りが多少コンテの参考になる向きがあるんだろうけど、活字からだと解釈力が問われるよな…。本作はアニメ表現として、小説からの立ち上げ方がそのまますぎというか、こなれていないように思った。ストーリーは2人がお互いを受け入れあっていく過程に説得力があるいい話なんだけど、アニメの足腰の弱さでそれが活かしきれておらず、何か勿体ないな…。話は面白いがアニメーション表現として面白くないという…。
 一方、『丸出せ!金太狼』はストーリー・設定は一応あるがないに等しい(そもそもストーリーテリングをしようという意欲がほぼ感じられない)。下ネタギャグの連打、というかほぼそれのみで成立している。ジャンルはBLだしBLとしてのギャグなんだが、ノリが『変態仮面』とか『おぼっちゃまくん』レベルで、むしろ昔の少年漫画誌のギャグマンガに近い。エロいことになっているのに馬鹿馬鹿しすぎてエロさが霧散しているというか…(荒木英樹監督はアダルトアニメの仕事が多い人だと思うのだが…)。これ『銀魂』あたりと抱き合わせにした方がマッチするんじゃないですか?という作風。同時上映2作の作風が真逆すぎて、あの「高低差で耳キーンとなる」という突っこみはこういう時に使うのか…と腑に落ちてしまった。ディアプラスとピアスではレーベルの方向性が違いすぎるのよ…なぜ抱き合わせた。カップリング不一致ですよ。
 この2作、BLという以外に共通項なさそうなのだが、作画カロリーをいかに削減するか、という面での取り組み方の対比が興味深かった。『丸出せ!~』は作画はそんなにクオリティ高くないTVアニメくらいで、これを大スクリーンで見る意義はさほど感じない。そもそもそこに注力していないのだろう。ではどこで作品を成立させているのかというと、豪華声優陣。この作品にこの面子か、と若干あきれるのだが、森川智之のプロ意識を実感した。何か、森川の演技で作品の体が保たれている感じがした。帝王の名は伊達じゃなかったんだな…。
 一方、『イエスか~』はメインキャラクターはそこそこ描くがモブの顔は省略、という割り切り方をしている。が、割り切りすぎて映像のリアリティラインがよくわからないことに…。背景はそれなりに地名特定できる描写になっているのでちぐはぐ。またキャラクター作画も、ここぞという所(主に濡れ場)は明らかに細かい演技、印影の付け方にしているのだが、他の部分との格差がわかりやすすぎて、違和感を感じた。読者が愛しているのは個々のキャラクターという部分は多々あるだろうが、基本的には作品全体を愛しているわけだから、キャラクターのみに注力されると、そういうことではないんだけどな…と思ってしまう。予算が限られた中でどう作るか、という点では、『丸出せ!~』の方が面白く割り切ってやってるんじゃないかなという気がした。


『生きちゃった』

 厚久(仲野太賀)、武田(若葉竜也)、奈津美(大島優子)は幼馴染。やがて厚久と奈津美は結婚し、娘が5歳になった。しかしある日、厚久が帰宅すると奈津美が見知らぬ男とセックスしており、3人の関係は急激に変わり始める。監督・脚本・プロデューサーは石井裕也。
 3人の男女の数年間を描いたドラマだが、途中途中で「その半年後」というふうに時間が飛ぶ。彼らの人生は断片的な見え方で、3人のこれまでに何があったのかということは会話の端々から伺える程度だ。その断片が段々繋がってくる。一方で、3人の関係性については冒頭からわかりやすい。厚久と武田は一緒に外国語教室に通い、未だに一緒に何かを目指す(といっても具体的なビジョンがあるわけでもなさそうだが)仲で、10代の頃の関係がそのまま続いているような間柄。対して厚久と奈津美の間には、10代の頃のような気安さは逆に薄れており、微妙なずれがある。そしてそのずれに奈津美は自覚的だが、厚久はぴんときていない。
 序盤、厚久と奈津美の家で武田も交えて酒を飲むシーンで、その気配は既に漂っている。厚久の実家に墓参りに行くエピソードでも、奈津美が一方的に話しており、厚久は彼女の話をあまり聞いていない様子だった。厚久と娘の「犬」を巡るやりとりからも、彼が相手の話をちゃんと聞いていない、どこかちぐはぐな様子が垣間見えた。厚久が相手に向き合うのは、取返しがつかない状態になってからなのだ。それが彼らの関係の非常に辛いところだ。あの時勇気を出していれば、言葉にしていればということの積み重ねなのだ。「英語なら言えるのに」という言葉が後々まで響いてくる。
 一方、厚久と武田の付き合いは言葉が少なくても噛み合っているように見えるし、厚久は武田に対しては率直にふるまえる。相手への親身になった態度や言葉、いたわりはこの2人の間では可視化されている。終盤の武田の献身、とでもいえばいいのか、思いやりにはぐっときた。厚久と奈津美の関係の拗れ方とは対称的で面白い。

映画演出・個人的研究課題
石井 裕也
朝日新聞出版
2020-09-18


『アウステルリッツ』

 ベルリン郊外で、バカンス中と思しき老若男女が大勢門をくぐっていく。様々な言語が飛び交い、スマホであたりを撮影したり、芝生でスナックをかじったりと楽し気だ。ここは第二次世界大戦中にホロコーストで大勢のユダヤ人が虐殺されたザクセンハウゼン収容所の跡地。監督はセルゲイ・ロズニツァ。2016年の作品。「群衆」三部作のうちの一作にあたる。
 人類の負の歴史の記念碑を社会で共有し、未来へつなげる試みとして実施されるようになったダークツーリズム。ザクセンハウゼン収容所が記念館として見学者を受け入れているのもこの一環ということになる。しかし、現地を訪れる人たちの様子を見ていると、ダークツーリズムからダークが抜け落ち、ただのツーリズム、観光になっているように思えた。単に見学する、単に写真を撮るという為だけの観光で、その歴史的背景やどういう思想に基づきこのような施設が作られたのか、それが現代にどのように繋がっているのかという流れについては、「観光」の中に含まれない。音声ガイド等を使っている人たちの姿も多く見られるのだが、この人たちがどういうスタンスでこの場に来たのかはわからない。背景を知っていたら、この場で無邪気に写真を撮るというのはためらわれそうな気がするが…。
 とは言え、悲惨な歴史の遺物だから神妙な顔をして見学しろ、ちゃんと勉強してから見学に来いというのも違うだろう。そういう人にも興味を持ってもらうためにダークツーリズムがあるのだろうし、結果興味を持てなかったとしてもそのことで云々言うのもおかしい。見れば見るほど非常にもやもやする情景なのだ。
 「群衆三部作」というだけあって、本作で映し出されるのはとにかく人。見学者の人々を延々と映し続ける。あまりに人が多くてちょっとひく(一大観光地化されすぎている)のだが、ダーク「ツーリズム」としてしまった以上、こうなることは免れない、むしろこれだけ人が来れば大成功と言えるのかもしれない。ただ、現地のガイドたちの解説の内容はちょっと気になった。本作、その場でどういう言葉が飛び交っているのか、字幕はほぼない。唯一翻訳されているのが様々なガイドによる解説だ。言語は様々なのだが、これは私が教わったり本で読んだりした内容とはちょっと違うのでは…?という部分もあった。すごく省略しているとか経年により研究が進んだとかもあるのかもしれないが、少々ガイドの「俺史観」になっていないか?面白感出そうとしすぎていないか?と気になった。映画『否定と肯定』で出てきた話と同じ流れもあったので…。

アウステルリッツ(新装版)
W・G・ゼーバルト
白水社
2020-02-29


否定と肯定 (字幕版)
ジャック・ロウデン
2018-06-20




『おらおらでひとりいぐも』

 75歳の桃子さん(田中裕子)は夫に先立たれ、子供たちとも疎遠になり孤独な一人暮らし。図書館で図鑑を読みふけり、46億年の生命の歴史をノートに記すうち、心の中の「寂しさ」たち(濱田岳、青木崇高い、宮藤官九郎)が姿を現し話しかけてくる。原作は若竹千佐子の同名小説、監督は沖田修一。
 これはもう傑作では?!原作小説をこういう形で映像化するとは!と唸りまくりだった。芥川賞受賞作である原作も方言による語りが解放感を与えておりすごく良かったのだが、映画は更に突き抜けた自由さがある。冒頭、恐竜たちの世界から哺乳類が生まれ原人が誕生し現在に至るという、いきなり壮大な始まり方なのだ。地球の歴史と桃子さんの個人史とは地続きなのだ。更に、桃子さんの心の中の声がそのままキャラクターとして具現化する。この「寂しさ」たちが自由奔放に動き、桃子さんの心の声のグルーヴ感を表現していく。「寂しさ」を演じるのが男性俳優(キャスティングが絶妙だった)だというのも面白い。桃子さんの精神が性別、ジェンダーからも解放されているのだともとれる。桃子さんは亡き夫・周造(東出昌大)の前では可愛い女、献身的な妻、母として振舞ってきた。それは故郷を飛び出した桃子さんが目指していた「新しい女」とは真逆の在り方だったろう。しかし1人になったことで、桃子さんは再び「新しい女」、というか性別関係なく桃子さんという一個人になっていく。彼女の生活は孤独と言えば孤独なのだが、精神の中には常に自分の声が響き、自分の中でボケ・ツッコミが展開する。ボケが始まった狂気混じりの世界と見る人もいるだろうが、むしろ自分を俯瞰する冷静な視線があるように思った。地球の歴史、桃子さんの過去と思い出、そして今現在の自分と自分の心の声たち、全部ひっくるめて桃子さんだ。夫も子供もいなくなっても、最後の最後まで自分には自分がいる。大切なのは愛よりも自由だ。そういう意味では孫の存在で生命の繋がりを演出するラストは少々蛇足だが。
 原作の語りをどのように映像で見せるか、という点でとてもユニークだったと思う。特に脳内自分リサイタルは最高だった。寂しさたちとのジャムセッションも、お供を引き連れた墓参りも、突き抜けた自由さがある。

滝を見にいく
黒田大輔
2016-10-05


おらおらでひとりいぐも (河出文庫)
若竹千佐子
河出書房新社
2020-06-26



『ウルフウォーカー』

 中世アイルランドの町キルケニーに、父ビル(ショーン・ビーン)と共にイングランドからやってきた少女ロビン(オナー・ニーフシー)。キルケニーでは護国卿が森を開拓しようとしていたが、森にすむ狼たちが人びとを脅かしており、ハンターであるビルが呼ばれたのだ。ロビンは森で不思議な少女メーヴ(エバ・ウィッテカー)と知り合う。彼女は人間と狼の魂を持つウルフウォーカーだった。監督はトム・ムーア&ロス・スチュアート。
 『ブレンダンとケルズの秘密』『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』に続く監督コンビのケルト三部作3作目。前2作よりも冒険物語、アクション映画としての側面が強くなり、躍動感にあふれたアニメーションだ。もちろん美術面も素晴らしく、キャラクターデザインが割と幾何学的なのにとても柔らかく動くところも魅力。町=人間の世界と森=狼の世界、キリスト教ベースの人間中心な世界とケルト神話の世界の間を主人公が行き来しその間でゆらぐという構造は『もののけ姫』っぽくもある。森の世界の美しさ、狼として体感する世界の鮮やかさが魅力なので(本作、人間の世界にはほぼ魅力がない)、もう人間やめますわ!という気持ちになってしまうが。
 本作を見てもう人間やめますわ!という気持ちになるのは、ロビンが女性であり、人間の社会の中では自由さが限られているという要素も大きいだろう。ただでさえ子供だからあれはダメこれはダメと言われるのに、女性となるとなおさらだ。ロビンは闊達で弓の腕にも自信があり、家事労働よりも狩りに出たいのだが、父親は許さない。娘を失うのではと心配でならないのだが、その心配はロビンの精神を「守る」ことにはならないのだ。ロビンはウルフウォーカーに加わることで、肉体的な自由も精神的な自由も得ていく。
 ただ、本作の世界でロビンが自由を手に入れるということは、自分がそれまで生きてきた世界から離れていくということでもある。共栄共存とはならないところにほろ苦さも感じた。どちらが正しいということではなく、あり方が相容れない。狼と敵対する護国卿も、最後まで敬虔なキリスト教徒として振る舞い自分の正しさを疑うことはないし、人間の為に人間の世界で生きる人ではあるのだ。

ブレンダンとケルズの秘密 【Blu-ray】
ミック・ラリー
TCエンタテインメント
2018-02-02


『異端の鳥』

 東欧のある村はずれで、1人の少年(ペトル・コラール)が叔母と暮らしていた。しかし叔母が亡くなり、少年は1人で旅に出る。行く先々で人びとは彼を不吉な存在として扱い、迫害し追い立てる。原作はポーランドの作家イェジー・コシンスキの小説。監督はパーツラフ・マルホウル。
 第二次大戦末期、ナチスドイツが台頭する世界らしい、少年はユダヤ人らしいということはわかるが、具体的な時代や場所は明示されず、寓話的な側面が強い。モノクロの美しい映像がまた、その寓話性を強める効果になっている(映像のせいでかなり漂白されているとは言える)。ただ、映像は非常に美しいのだが描かれる物語は、反比例するように陰惨だ。映像が美しいからまあ耐えられるという側面もある。人間の負の部分が煮詰まっていた。それは少年に対する周囲の態度もそうだし、彼の周囲で起きている事柄もそうだ。
 少年は様々な人たちの元を転々とするが、どの人も少年を1人の人間としては扱わない。道具や家畜と同じような扱いで、役に立たなくなれば用済みだ。大概の人が何らかの形で少年に暴力を振るう。肉体的なもの、精神的なもの、性的なものというオンパレードで、児童虐待が相当きつい(撮影時の状況が心配になるようなシチュエーションも)。ソ連兵のように少年を助けようとする人もいるが、彼が少年に見せるのが復讐殺人、手渡すものは拳銃だ。自分を守り生き抜く手段が暴力だと子供に伝えるような世界だというのが辛い。少年は暴力の道具を手にすることで、初めて暴力を振るわれる側から振るう側にまわる。ただ、それが自衛になったのかというと何とも言えない。ラスト、少年に初めて固有名詞が与えられる。が、その名前を持っていた時の自分に、少年は最早馴染めないのでは。ラストショット、一見美しいのだがどこへ向かっていくのか不安になる。

ペインティッド・バード (東欧の想像力)
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松籟社
2011-08-05


サタンタンゴ [Blu-ray]
ペーター・ベルリング
TCエンタテインメント
2020-09-09


『オン・ザ・ロック』

 作家のローラ(ラシダ・ジョーンズ)は夫ディーン(マーロン・ウェイアンズ)と2人の子供と暮らしている。ディーンは同僚女性との出張や残業が相次いでおり、もしや浮気?と疑い始めたローラは、プレイボーイな父フェリックス(ビル・マーレイ)に相談。フェリックスはこの事態を調査すべきと張り切り、ローラと共に素人探偵を始める。監督・脚本はソフィア・コッポラ。
 夫の浮気疑惑を相談するくらいだからローラは父親ととても仲がいいのかというと、そうでもない。浮気を繰り返してきた父に母もローラも苦しめられてきた。浮気について相談するには実体験豊かというわけだ。とは言え、彼は楽しい人ではある。フェリックスは画商でリッチ、かつ趣味が良くユーモアがある。父、夫としては失格でも遊び相手、祖父としてはかなり良いと言える。だが人生を託す相手、共に歩むパートナーにはなれない、というのがフェリックスの在り方であるように思った終盤、彼の自分本位な考え方が露わになってかなり退くのだが、当人は自分が不誠実だという自覚は全くないだろう。
 ローラは自分では認めていないだろうが、かなりの父親っ子なのだと思う。彼女の価値観はフェリックスとは違うが、趣味の良さや芸術に対する造形の深さは通じるものがある。何より、彼女は自分たちの元を去った父に愛してほしいという渇望を捨てられていないように見えた。そんな彼女が、自分は誰と人生を共に歩むのかを再確認していく。腕時計の使い方が非常にわかりやすく象徴的だった。
 一方、ディーンはフェリックスといまひとつウマが合わないらしいと示唆される。フェリックスがローラを溺愛しているからというのもある(冒頭のモノローグがなかなかの気持ち悪さだ)が、バックグラウンドの違いも大きいだろう。作中ではっきりとは言及されないが、おそらくローラの実家はそこそこ富裕層。フェリックスの身なりも実家のお茶会も、お金、しかも成り上がりではなく生まれた時からお金がある層特有の洗練と趣味の良さがある。ローラ当人はいつもボーダーシャツにジーンズというスタイルだからわかりにくいが、「良いもの」に囲まれた育成環境だったのだろう。その環境で培われたものには、なかなか追いつけない。ディーンはそこそこ稼いではいるみたいだが、やはり彼女の豊かさとは意味合いが異なるのだ。彼が終盤にローラに漏らす言葉は、そんなことを想っていたのか!というものなのだが(少なくともローラにとっては思いもよらないことだろう)、2人の背景の違いが反映されたもののように思った。


ロスト・イン・トランスレーション [DVD]
ジョバンニ・リビシー
東北新社
2004-12-03


『甘いお酒でうがい』

 40代独身の川嶋佳子(松雪泰子)はとある会社で派遣社員として働いている。職場の後輩・若林ちゃん(黒木華)との交流、撤収された自転車との再会、楽しみにしているお酒等、日々は続く。そんなある日、二回り年下の岡本君(清水尋也)と恋に落ちる。監督は大九明子。
 原作がお笑いコンビ「シソンヌ」のコントだそうなのだが、映画も全編コントみたいだった。松雪泰子が演じているし基本笑わせる演出ではない(コメディ部分もあるが)のだが、真面目に見るものなのどうなの?という中途半端さ微妙さを感じた。佳子の言動が、自意識強めのSNSやブログのパロディみたいで、見ているとお尻がむずむずしてくる。松雪の衣装があまり似合っていないので余計にそう思ったのかもしれない。40代女性の生活をかなりカリカチュアしているように見えてしまう。「こういう人いるでしょ」という前提に基づいた「あるある」を並べていく話だけど、その前提自体が実在しないものだという空虚さを感じた。生々しさの演出が生々しさのパロディでしかないというか…。やはりコント原作ゆえの特性だろうか。また、短いエピソードの連続による構成なので、実際の上映時間(107分)よりも大分長く感じられた。体感時間は二時間越え。このネタだったら1時間くらいでよかったんじゃないかな…。
 ただ本作、黒木華がやたらと可愛い。こういう後輩がいたらそりゃー好きになっちゃうし一緒に飲みに行くの楽しいだろうなーという説得力がある。松雪と黒木の掛け合いがかわいすぎて、もはや岡本君いらないじゃないかと思った。

勝手にふるえてろ
片桐はいり
2018-05-06


『浅田家!』

 浅田家の次男・政志(二宮和也)は写真専門学校に進学し、卒業写真の被写体として家族を選ぶ。浅田家の思い出のシーンを再現したその写真は学校長賞を受賞した。卒業後、仕事もせずふらふらしていた政志だが、再び写真に取り組もうと決意。その題材もまた家族だった。様々なシチュエーションに扮した写真は、やがて木村伊兵賞を受賞。プロの写真家として順調に歩みだすが、2011年3月11日、東日本大震災が起こる。監督は中野量太。
 かなりダラーっとした構成に思えた。もうちょっとカットしてもよかったんじゃないかなという気もしたが、構成・編集が下手でダラーっとするというよりも、このシークエンス内の流れをそのまま保存したい、このシーンのこの人の表情の変化を追い続けたいという意図が入りすぎてのことだったように思う。びっくりするくらいひねりがないというか、王道なつくりで、ダサくても直球でやろうとする作品だった。
 中野監督は一貫して家族の話を撮り続けているが、本作はそのものずばり「浅田家」なのでど直球で家族が中心にある。政志の兄(妻夫木聡)のモノローグで始まるので、これは家族から見た政志の話なのかと思って見ていると、最後は政志のモノローグで終わる。彼にとっての「家族」、自分の家族の姿であり様々な家族の姿であったことがわかる。
 政志が家族写真って何だろうと真剣に考え始めるのはおそらく後半だ。写真家として何をするのかという自覚も、後半になってから考え始める。それまではわりとフィーリングでやってきたけど、深く傷ついた人、自分の想像の及ばない人と相対しカメラを向けるのは、フィーリングだけでは無理なのだろう。ポートレートとは何かをやっと考え始めたな!という印象があった。
 家族の話ではあるのだが、政志本人は家族を愛してはいるけど、家族の為には生きられない人なのではないかと思った。思い付きでぱっと動いてしまうように、常に表現衝動の方が上回る。父親や兄のようには家族を想えないという面はあるのでは。それがダメだというのではなく、そういう人、そういう家族だということだが。
 母親役の風吹ジュンがすごくいい感じなのだが、中野監督は母親という存在に対する思い入れ、期待みたいなものが少々重すぎる気がした。また、黒木華演じる政志の幼馴染があまりにザ・幼馴染キャラというテンプレさで、主人公を支える女性キャラとしての役割しかないのにはちょっとがっかりした。

浅田家
浅田政志
赤々舎
2019-02-28


チチを撮りに
滝藤賢一
2016-04-28


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