3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名あ行

『お嬢さん』

 1930年代、日本統治下の朝鮮。詐欺師たちに育てられた少女スッキ(キム・テリ)は藤原伯爵と自称する詐欺師(ハ・ジョンウ)に、メイドの珠子としてある屋敷に連れて行かれる。その屋敷に暮らすのは日本文化に傾倒し稀覯本を収集している上月(チョ・ジヌン)と、その姪で莫大な財産の相続権を持つ秀子(キム・ミニ)。上月はいずれ秀子と結婚して財産を手に入れることをもくろんでおり、秀子を屋敷に閉じ込めていた。藤原伯爵は秀子を誘惑、結婚してから精神病院に入れて財産を奪い取ろうと計画しており、秀子を懐柔する手駒としてスッキを送り込んだのだ。秀子は徐々にスッキに心を開くようになり、スッキもまた秀子に惹かれていく。原作はサラ・ウォーターズの『茨の城』、監督はパク・チャヌク。
 原作はイギリスの話なので、舞台の置き換えの大胆さにまずびっくり。日本統治下の朝鮮にすることで、支配・被支配関係が更に重層的、かつ錯綜した構造になっている。スッキたち朝鮮人は秀子ら日本人に支配されており、日本人に対する感情があまり良くないものであることが冒頭で示唆される。一方で朝鮮人だが日本人と結婚した上月は日本文化に傾倒し、日本人と自身とを同一化してきた。その上で日本人女性である秀子を支配しセクシャルな「朗読」を強いる。自分を支配している階層の女性を自分の情欲の為に使役するという倒錯的な構図を楽しんでいるのだろう。
 その階層や性別による上下関係を、女性達は軽々と飛び越える。この女性の共闘と遁走があることが、原作との大きな違いではないかと思う。彼女たちが、既存の欲望の形、自分達が欲望され消費される欲望のあり方から抜け出し、自分自身の欲望のあり方を掴んでいく。秀子が藤原に対して啖呵を切るあるシーンは、それを端的に表していたと思う。
 とは言え、ここで描かれる女性たちの姿に自由さを感じたかというと、少々微妙だ。本作での女性同士の愛情・性愛の描かれ方は、やはり女性達に欲望を向ける男性の視線によるもののように思う(監督がヘテロの男性である以上仕方ないのかもしれないが)。セックスシーンなど、何だかだらだらと長くて退屈だしレズビアンもののポルノのパロディみたいで、少々興ざめ。撮っている側ばかりが楽しくなっているような気がした。
 衣装にしろセットにしろ、美術面が豪華で素晴らしかった。これだけお金かけてこういう映画を作れるなんて、韓国の映画界の懐の深さを見た感がある。

『アンダーカバー』

 FBIの若手捜査官・ネイト(ダニエル・ラドクリフ)は、白人至上主義者のカリスマ的存在であるラジオパーソナリティ、ダラス・ウルフを捜査する為、潜入捜査を命じられる。ネイトは元軍人の白人至上主義者を装い、ウルフと面識があるというネオナチの青年ビンスと知り合うことに成功するが。監督はダニエル・ラグシス。
 「未体験ゾーンの映画たち2017」にて鑑賞。今回の未体験ゾーンで見た中では最も掘り出し物感強く、面白かった。ラドクリフ主演だしクオリティ的には普通に公開してもよさそうなものなんだけど、このネタだと確かに日本ではウケない、というかニュアンスがわかりにくいのかもしれないな・・・。しかしおすすめです。ちょっと編集がぎこちない(報道映像等々のコラージュがあまり上手くない気がする)が、意欲的な作品だと思う。
 ネイトはあまり現場経験はなく、リサーチ重視な頭脳派。同僚に比べると小柄で華奢、肉弾戦は不得意そうで、職場でも「おぼっちゃん」的にからかわれている。そんな彼が、なぜかマッチョな団体と思われる白人始業主義者グループに潜入する羽目になる。最初はムリだムリだとしり込みするネイトだが、上司(トニ・コレットの仕事は出来るが人としてはくそったれっぽい上司感がすばらしい)に認められたい一心で、学習に学習を重ね組織のトップに近づいていく。ネイトの地頭は良いが如何せん経験不足で浮足立ちやすい感じ、冷徹な潜入捜査官にはなりきれない様子を、ラドクリフが好演している。ネイトの計画は少々行き当たりばったりな感があるが、彼の演技の上手さで作品がもっている。
 FBIが戦っているのは「外部」からのテロだけではなく、「内部」からのテロに対してでもある。こういう方向での「テロ」もあるということを描いているのだが、テロリスト候補たちのショボさも含めて、結構生々しい。今のアメリカのある一面、根深い問題背景の一部を垣間見る感じ。潜入捜査官としてなぜネイトが選ばれたのか、という部分が、白人始業主義に若者が走る要因を的確に説明していたと思う。妥当な拠り所みたいなものが得にくい世界になっているのかなと、暗鬱とした気分にもなった。
 ある人物の、人々が煽られたがっているから煽るだけ、面白ければいいんだと言わんばかりの言動は、先般の大統領選の結果を招いたものと同質なもののように思った。主義主張が先にあるというわけではないんだよな。

『アシュラ』

 都市開発の方向で揉めるアンナム市。刑事のハン・ドギョン(チョン・ウソン)は市長パク・ソンベ(ファン・ジョンミン)の為に暗躍し市長の汚職疑惑のもみ消しを図る。しかし検事キム・チャイン(クァク・ドウォン)に弱みを握られ、市長の犯罪容疑の証拠をつかむ為二重スパイになれと強要される。ドギョンは後輩刑事のムン・ソンモ(チュ・ジフン)も巻き込み生き残る為奔走する。監督・脚本はキム・ソンス。
 予告編がやたらと怖くかつ面白そうで自分の中での見る前の熱量は相当高かったのだが、期待したほどではなかったかな・・・。十分面白かったのだが、ちょっと飽きが来てしまった。緊張感はあるのだが、ドギョンにとっての状況が無間地獄すぎてどこまで行っても同じかよ・・・とぐったりしてくる。そこが狙いでもあるのだろうが。また、ややこしい状況に追い込まれている割には、ドギョンの行動はそれほど計画的ではなく、行き当たりばったりな傾向が強い。そんなんで生き残れるの?!大丈夫?!しのぎを削るコンゲームといった雰囲気ではない。特に冒頭、先輩刑事とソンモと手駒のチンピラが巻き起こすごたごたのやりとりは、頭が悪すぎる!上司も部下も頭が悪いと大変だな・・・とは思うが、それを収集できないドギョンも大概だ。一貫して、自分には重荷すぎるものを課されたドギョンが這いずり回るという構図なのだ。
ソンベは自分の欲望の為なら手段は選ばず非情な人物だ。しかし彼を追うチャインも、ドギョン本人も似たようなもので、基本的に本作に登場する人たちは手段を選ばず欲望に忠実だ。また、自覚していなかった欲望が引き出されることでお互いの関係性が大きく変わっていくこともある。ソンモはドギョンを先輩として慕いドギョンはソンモを出来の悪い弟的にいじる。そこには先輩・後輩という力関係が歴然としてあり、後輩は多少バカにしても、「出来が悪い」扱いをしていいものという暗黙の了解がある。これが見ていて結構つらかった。ドギョンはソンモに対して悪意はなく可愛がっているつもりだろうし、ソンモもおそらくそれはわかっている。が、バカ扱いされることが平気なわけではないだろう。彼の積もり積もった屈託が、ソンベに持ち上げられたことで爆発してしまう。ドギョンがソンモの屈託に気付いていない所がまた辛い。ドギョンが鈍感というよりも、社会構造として組み込まれているから見えにくいのだろう。

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』

 デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は交通事故にあい、車に同乗し運転していた妻は死亡した。妻の死に対して涙は出ず、悲しみも感じない彼は、妻の父親フィル(クリス・クーパー)が経営する金融会社での仕事には復帰したものの、周囲のものを分解・破壊したいという衝動を抑えられなくなる。監督はジャン=マルク・バレ。
デイヴィスは無感覚な状態に陥っており、自分が悲しんでいるのかどうかもよくわかっていないし、わかっていないということ自体に自覚がない。また、会議中に全く関係のないことを言いだしたり、自動販売機会社のお客様窓口にクレームに加え自分の近状を長々としたためた手紙を出したりと、はたからみたら突飛な行動に走っていく。
 妻が死んでからのデイヴィスの生活からは、彼は家族との関係はそんなに密ではないし、親しい友人もいない、職場の同僚ともそんなに仲良くしているわけではない(社長の娘婿なのでむしろ煙たがられてそう)な様子が垣間見られる。元々、そんなに空気読む方でも気遣いが細やかな方でもなく、ちょっと情緒に疎いのかなという雰囲気なのだ。フィルは娘の夫であるデイヴィスのことを気に掛けてはいるものの、ぽろっと「最初から気に入らなかった」と漏らすし、デイヴィスのことをよくわからん奴だよなと思って困惑している様子がありありとわかる。彼は一応親族ということにはなるのだろうが、デイヴィスにとって話相手にはならない。話す相手がいないから、自販機会社のお客様窓口担当のカレン(ナオミ・ワッツ)に長々と手紙を書き、彼女の自宅まで突き止めてしまうのだ。カレンへの接近の仕方はストーカーまがい(というか立派にストーキングだろう)でかなり怖く、更にカレンがデイヴィスを受け入れてしまうことで、本作に対する気持ちがかなり冷めてしまった。カレンのパートはない方がよかったような気もするが、彼女の息子がすごくいいキャラクターなんだよなぁ・・・。
 とは言え、破壊行動もカレンとの距離の取り方のまずさも、デイヴィスにとって自分と世の中との距離感がよくわからなくなっているからだろう。彼が周囲のものを分解して壊していくのは、自分をとりまく世界の成り立ちを理解しなおそうとしていることなのかもしれない。デイヴィスと唯一相互理解のあるやりとりをするのが13歳になるカレンの息子なのだが、彼はまだ「世の中」に出る前の存在だからだろう。「世の中」から落っこちてしまったようなデイヴィスには、子供の方が率直に話せる存在なのではないか。とは言え、セクシャリティに関する彼へのアドバイスは、こいつやっぱり情緒ないし想像力あんまり豊かじゃないな、ってものなのだが。

『エゴン・シーレ 死と乙女』

 1910年、美術学校を退学したエゴン・シーレ(ノア・サーベドラ)は仲間と「新芸術集団」を結成。妹ゲルティのヌード像を描き続けていた。さらに褐色の肌のモデル・モアの肖像画で注目を浴びる。敬愛するクリムトから赤毛のモデル・ヴァリを紹介されたシーレは製作に励むが、スキャンダルを起こしてしまう。監督はディター・ベルナー。
 第一次正解大戦末期のウィーンで病に倒れたシーレと妻エディットの元をゲルティが訪れるというシーンから始まる。そこから過去に遡り、時々現在の病床のシーレのエピソードに戻るという構成。シーレの人生の終盤から遡るという構成は悪くはないのだが、時代転換のタイミングが唐突で、切り替えがぎこちないように思った。切り替えの起点となるキーみたいなものがいまひとつ見つからない。これだったら、若い頃から晩年へと時間順でもよかったんじゃないかなという気もする。
 シーレは16歳の妹をヌードモデルにしていたが、妹との絆は少々深すぎ、危うい。冒頭、裸のゲルティとシーレがじゃれあう姿はセクシャルなものとして意図されていると思う。また、ゲルティはシーレが新しいモデルとしてモアに夢中になると強く嫉妬するし、シーレはシーレでゲルティがいざ結婚しようとすると猛反対する。ゲルティの結婚相手が自分の友人であることも、ゲルティが妊娠していることも許せないのだ。まだ結婚は早すぎる!21歳までダメ!って言うけどじゃあ16歳でヌードモデルさせるのはいいのかよ・・・と突っ込みたくなる。お互いに強い執着心を持っており、結局ゲルティは最後までシーレにつきあう。
 シーレはモアにもヴァリにも執着し、特にヴァリとは仕事上の頼りがいあるパートナー的な関係である様子が見て取れる。実際のヴァリは17歳の少女だったようだが、本作のヴァリは年上の女性風で、モアやエディットよりはぐっと頼りになりそうだし「ちゃんとした」大人っぽい。しかし、シーレの彼女たちに対する執着や愛情は、あくまでモデルというオブジェクト、セックスできる対象に対するもので、彼女らにそれぞれ別個の意思と欲望があるという意識があまりなさそうだ。ヴァリとエディットに「そりゃ怒るよね・・・」とため息つきたくなるような提案をする(史実だそうだ)のも、人間の心の機微が今一つわかっていないからかも。
 また、彼のスケッチにはゲルティより更に若そうな少女のヌードもあるのだが、相手の属性をあまり考えず描く対象としてしまう傾向がありそう。彼の作品には多分に性的な要素がある(本人は美術だと主張しておりそれはその通りなのだが、セクシャルな視線はあるだろう)から面倒なことに・・・。少女に告発されるエピソードは史実だそうだが。自分の行為が相手にとって、また社会的にどういう意味を持つか等考えずに製作に打ち込むというと芸術家肌っぽく聞こえるが、巻き込まれたり尻拭いをせざるを得なくなった側は大変だろう。作中のシーレはとにかく自分のこと、自分の芸術のことしか考えない人として描かれている。「新芸術集団」の仲間が創作を止めた時に激怒するのも、彼に才能があったからというより、自分が理想とする芸術家像からずれたからで、ゲルティの結婚に怒るのと同じなのだ。

『エリザのために』

 医師のロメオ(アドリアン・ティティエニ)は、イギリス留学を控えた娘エリザ(マリア・ドラグシ)を学校に送っていくが、いつもは学校の前まで送るところを手前で下した。しかしエリザは学校へ向かう間に暴漢に襲われてしまう。大事には至らなかったがショックを受け、留学の可否を決める試験に挑めそうもない。何としても娘を留学させたいロメオは、ツテとコネを駆使して裏取引を図る。監督はクリスティアン・ムンジウ。
 現代のルーマニアを舞台にした作品だが、もうコネと賄賂と汚職の世界!現代の韓国映画を見ているとコネ社会である様子がしばしば揶揄されているが、ルーマニアはそれ以上のように見える。良くも悪くも社会がこぢんまりとしていて、便宜を頼みやすいし頼まれやすい。断りたくても断れない空気があるんだろうなぁ。ロメオは民主化に失敗した母国に失望し、エリザをイギリスに行かせようとしているそこにしか未来への希望はないと考えているのだ。彼のなりふりかまわなさは、自国への絶望の反映でもあり、それがなんとも辛い。
 しかしそれ以前に、ロメオがエリザの話をちゃんと聞かない所が気になった。彼女が本当に留学したいのか、何をやりたいのかは、語られることがないしロメオがそれを尋ねることもない。また、暴行を受けてショックを受けているはずの彼女への対応が雑すぎないか。試験がどうなるかよりも、まず他に心配することあるだろ!と色々突っ込みたくなる。ロメオは頭では娘が傷ついているとわかっているのだが、どういう心情かというところはあまりぴんときていないようだ。娘のために必死なのは十分わかるのだが、娘がそれによってどういう心情になるのか、彼女のその後に精神的にどういう影響があるかは、あまり考えていないように見える。
 ロメオは悪い人間ではないし医師としては誠実と評されているが、妻や娘、また愛人に対しては独善的な面が見られる。彼のやることは概ね「よかれと思って」なのだが、その「よかれ」を決めるのは自分であり、相手とちゃんと向き合っていないのだ。妻に対しても愛人に対しても娘に対しても、彼女らには彼女らなりの指針があり人生があるということが、いまひとつ呑み込めていないようで、何ともいらいらする。本作における時代や国を越えて普遍的な部分は、この鈍さではないかと思う。ああこういうお父さん(だけじゃないけど)いるわ・・・というげんなり感がつのるのだ。

『エンド・オブ・トンネル』

 未体験ゾーンの映画たち2017にて鑑賞。事故で妻子を亡くし、自身は車椅子生活になったホアキン(レオナルド・スバラーリャ)は、自宅に引きこもっていたが、2階にストリッパーのベルタと幼い娘が間借りすることになる。ある日、ホアキンは地下室で奇妙な音を聞く。地下にトンネルを掘って銀行強盗を企む男達がいたのだ。好奇心から彼らの行動を監視し始めたホアキンだが、ベルタも彼らの仲間だと知る。ホアキンは彼らから現金を横取りしようと計画を立て始める。監督はロドリゴ・グランデ。
 ベルタが押しかけてきて、彼女とホアキンの距離が徐々に近づいていく前半は、ストーリーをどこに着地させるのかよくわからず、ちょっと捉えどころがない。ホアキン自作の監視システムの出来が妙にいいし、車椅子とは言え意外と機動力あるしで、出来すぎな感じもするのだ。銀行強盗たちの言動にしても、パーツを出すだけ出しておいてなかなか嵌めていかずに放置しっぱなしという印象。
 ところが、後半急に話が大きく動きだし、ラスト20分くらいで怒涛の伏線回収が始まる。前半にちょこちょこと出てきたあれやこれやは、この為だったか!と唸る。ストーリー構成としてはいびつなのだが、強引にどんどん回収していく気持ちよさがあり、つい笑ってしまう。いやー溜めたね!冒頭に仕込んだままだった「あれ」が登場すると、待ってました!という気分になってくる。
 ホアキンがなぜ車椅子生活なのか、妻子はどうなったのか等は、さほど詳しく説明せず、映像でさらっと匂わせる程度。それでも、彼の喪失感とそれ故の捨て鉢な生活であるということがよくわかる。見せすぎない良さがあった。荒れていた家の中が、ベルタの生活が定着するにつれ片付いていくところも、2人の関係の変化を思わせる。
 ホアキンにしろベルタにしろ、いわゆる善男善女ではないところがいい。ホアキンはベルタを救い出したいという気持ちはあるが、自分の計画の邪魔になると判断したらそれなりの処置をする。ベルタも自分と娘が最優先。ドライと言えばドライだし、それぞれの欲と打算がある。そういう人たちであっても、損得を越えて行動してしまうことがある。それ故ラストが清々しい。

『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』

 1950年代後半、ドイツの検事長フリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウス)はナチスの戦争犯罪の告発に執念を燃やしていた。ある時、数百万人のユダヤ人を強制収容所送りにしたアドルフ・アイヒマンに関する情報が、アルゼンチンから届く。バウアーはイスラエルの諜報機関モサドと接触、アイヒマン逮捕を狙うが、ドイツの捜査機関内にもナチスの残党がおり、バウアーの妨害を図る。監督はラース・クラウメ。
 似た題材の映画として、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』が記憶に新しいが、物語内の時系列としては、本作、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』ということになるのかな(『ハンナ・アーレント』は長期にわたる話なので全体をカバーするような形になるのかもしれない)。どの作品でも、主人公は政府や司法から、また国民から非難・攻撃される。皆、上向いてきた国内情勢に水を差すようなことをしたくないし、不愉快な過去と向き合いたくはないのだ。現在のドイツを見ると、第二次大戦時の反省が徹底されているというイメージなのだが、すぐにそういう状態になったというわけでは全然なく、バウアーのような人たちが粘り強く取り組んできた成果ということなのだろう。
 TV出演したバウアーが、ドイツの何を誇るべきかと若者に問われた際の言葉が印象に残った。バウアーは、土地や森は元々そこにあったものだから我々が誇ることではない、ゲーテもニーチェもアインシュタインもすごいのは彼ら個人だから我々が誇る事ではない、我々が誇れるのは自分達が親や子供に何をできたかということだ、というような話をする。バウアーにとってはナチスの犯罪を暴き、自国で司法の裁きを受けさせる(バウアーはアイヒマンを捕えるだけでなく、ドイツで裁判を行うことが重要だと考えた)ことが、国を愛することであり誇るなのだ。しかし、周囲は彼を(国の)裏切り者扱いをする。これが辛くもどかしい。愛国心て何だよ!と叫びたくなるのだ。
 バウアーはユダヤ人で収容所に送られた体験を持つ。執拗なナチスの残党狩りはその復讐だろうと揶揄する人もいるが、バウアーにとっては一度ナチスに屈した(収容所から出る代わりにナチスに従うという)ことへの後悔からの行動であり、今過去と向き合うことが自国の未来につながると信じてのことである。アイヒマン逮捕の顛末は史実通りで、本作の後味は苦い。しかし、本作の約十年後が舞台である『顔のないヒトラーたち』でも描かれたように、バウアーのような人が再び立ち上がるところに、ドイツという国の希望があったのではないかと思う。

『The NET 網に囚われた男』

 北朝鮮で妻子と暮らす漁師ナム・チョル(リュ・スンボム)は、ボートで漁に出たものの、エンジンが故障し韓国側に流されてしまう。韓国の警察は彼を拘束し、スパイ容疑で厳しい取り調べを行いつつ、韓国へ亡命しろと迫ってくる。監督はキム・ギドク。
 真綿で首を絞めていくような息苦しさだ。ナム・チョルは妻子の元に戻りたいだけなのだが、韓国の警察は彼をスパイだと決めつけ、自白を迫り拷問まがいの取り調べをする。「未来のスパイだから」だと言うのだが、それを言ったらきりがないだろう。警察はナム・チョル個人は見ず、北朝鮮から来たスパイ、あるいは自分達の手駒として使える可能性があるスパイ候補としか見ていないのだ。ナム・チョルが何を言っても信じてもらえないという状況がとにかく怖い。唯一彼と個人として接する若い警官は、彼を救おうと奔走するが無力だ。組織や国家の名を借りないものは、本作では何もできない。常に自分の上に覆いかぶさってくる何かを意識し、その存在に奉仕することを強いられる世界のなんと息苦しいことか。
 韓国警察がナム・チョルを転向させようと、街の豊かさを見せに連れ出すが、ナム・チョルは固く目を閉じ見ようとしない。見なければ北朝鮮に戻った時に何も答えなくて済むし、亡命希望と疑われなくて済むというのだ。韓国にとってナム・チョルは「哀れな国民」「気の毒」なのだが、当人にしてみれば亡命を強いる韓国の方が無体なことをやっている。またナム・チョルにとっては、韓国の豊かな生活は、物を無駄にしお金がないと何もできない世界でもある。
 とは言え、北朝鮮は北朝鮮で極端な監視社会であり、ナム・チョルは韓国の豊かさを見たことでスパイと疑われ、やはり厳しい取り調べを受ける羽目になる。南も北も、警察の振る舞いは大して変わらない。取り調べとはナム・チョルの行動を確認することではなく、自分達にとって望ましい自白を引き出すことなのだ。当然、彼が何を言っても、警察側が望まない答えは「嘘」として扱われる。尋問のやり方まで同じ(まあルーツは同じなんでしょうが・・・)なのには笑ってしまった。どこにいても、ナム・チョルは国家や組織といった「網」に囚われた男であって、逃げ場はない。現代の韓国と北朝鮮という実在の国を舞台にしているのでよりインパクトがあるが、どこの国・時代でも当てはまりそうな、寓話的な味わい。

『暗黒街の顔役』

 「山田宏一セレクション ハワード・ホークス監督特集」にて鑑賞。1932年の作品。原作はアーミテージ・トレイルの小説『スカーフェイス』。派閥抗争が続く暗黒街をのし上がっていくトニー・カモンテ(ポール・ムニ)の栄光と破滅を描く。
 影の使い方がとても印象的。壁にトニーの影が長く伸び、彼の口笛が響く冒頭の不吉さは、これはホークスもドヤ顔で撮っただろうというインパクトとキャッチーさ。トニーの口笛は暗殺の前触れであり、これが随所で反復される。もちろんモノクロ映画なので、光と影のコントラストも強く、美しい。
 トニーは大親分を裏切り、横並びだった各組織の親分を暗殺して次々と利権を手に入れていく。彼はバカではないはずなのだが、全て力で押し通していくやり方は、生き残りたいのか生き急いでいるのかよくわからない。ライバルを蹴落とす好機なのに観劇中で話の続きが気になるからと渋るあたりも、どこか捕えどころがない。一見気のいい「ワル」といった風だが、母親や妹に見せる姿は、支配的で相手にも感情があるということを理解しないものだ(母親の無能さにもイラっとするのだが・・・)。
 しかしそんな彼が、終盤一気に崩れていく。中盤まで勇猛で無敵感を打ち出しているだけに、ギャップに引き込まれた。今まで非情に徹していたのにこんなこと(と言うには大事だが)でガタガタになるのか、本当はこんなに弱かったのかとはっとするのだ。彼と妹との怒鳴り合い詰り合いながらも切れない絆は、愛憎混じって近親相姦的にも見える。
 カーチェイスや走る車内等、自動車がらみのシーンが短いながらも魅力的だった。当時としては結構思い切りのいいカーチェイスだったのではないか。意外とスピード感があってかっこよかった。

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