3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

映画題名あ行

『アリーキャット』

 元ボクサーで今は警備会社のアルバイトをしている朝秀晃(窪塚洋介)は、行方不明の野良猫・マルを探していた。保健所でマルを抱いた男を見つけ声をかけるが、その男・梅津郁巳(降谷建志)はこの猫はリリーという名前で自分が飼うんだと言い張る。猫を介してマル、リリーと呼び合うようになった2人は、元恋人からストーキングされている土屋冴子(市川由衣)のボディーガードの仕事を秀晃がしたことがきっかけで、彼女を東京まで送り届けることにする。監督は榊英雄。
 窪塚と降谷という、ある時代のアイコン的な2人の共演。私は「ある時代」ど真ん中の世代なので、感慨深くもあり懐かしくもあり。本作の雰囲気自体、90年代のVシネとか漫画とかを彷彿とさせるように思う。どこがどう、と問われると答えにくいのだが、全体の設定のふわっとしているところとか、いきなり黒社会や政界が絡んでくるところとかかな・・・。
 とは言え懐古趣味という感じは全然しないし、窪塚も降谷も現役感がしっかりある。窪塚はここ2,3年でやっぱりスター感あるなと思うことが増えたし、演技の技術も明らかに伸びている(何せスコセッシ監督作に出演したしなー)。また降谷は、ここにきてそんな直球のあざとさ見せちゃう?!可愛い感じ出しちゃう?!という意外さを見せている。こういう人懐こいわんこ系キャラがハマるとは・・・。諸々可愛すぎてやばかった(私が)。
 秀晃も郁巳も決していわゆる勝ち組、社会の強者というわけではないし、清廉潔白で正義の味方というわけでもない。郁巳は人のいいお兄ちゃんと言う感じではあるが、秀晃はボクサー時代に諸々やらかしており決して褒められたものではなかったことが、徐々にわかってくる。そんな彼らが、なけなしの勇気と意地でふんばる姿がかっこ悪くもいじらしい。冴子親子に自らの生い立ちを重ね、自分の過去を振り切るかのように無謀な策に出る秀晃と、そんな秀晃への共感からか憧れからか、一方的に彼を鼓舞する郁巳。特に郁巳の能天気さ、無邪気さは時に秀晃をイラつかせるものなのだが、周囲の人たちを和ませ、徐々に彼らの拠り所になっていったようにも思えた。
 楽しく見たが、作中の女性の処遇が暴力にさらされるものな所、女性登場人物の造形がわりと単純な所は気になった。一方的な暴力は、フィクションの中とは言えやっぱり見ていてあんまりいい気はしないので(こういう所も古さといえば古さなのか)。

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『甘き人生』

 1969年、イタリアのトリノ。9歳のマッシモは母親が大好きだったが、ある日突然、母親(バルバラ・ロンキ)がいなくなってしまう。司祭から母親は天国に行ったのだと告げられるが、マッシモはそれを信じられない。1990年代、新聞記者になりローマで暮らすマッシモ(バレリオ・マスタンドレア)はまだ母親の死について受け入れられず、父親(グイド・カプリーノ)との溝も深くなっていた。原作はマッシモ・グラメッリーニの自伝的小説。監督はマルコ・ベロッキオ。
 まだ幼いマッシモに対して父親は、母親の死をとっさに隠してしまう。後日司祭が母親が亡くなったと説明するものの、父親が最初に「お母さんは出かけた」というような説明をしてしまったことが、マッシモの中でずっと尾を引いている。子供に死、特にマッシモの母親のような死に方をどのように伝えればいいのかというのは、イタリア(カソリック国であるイタリアでは、マッシモの母親の死は更に説明しづらいだろう)のみならずどの文化圏でも悩ましいことだなとしみじみ思った。父親の説明は明らかにまずいのだが、彼も動転しているし子供にこういうことをどう話せばいいのかわからないのだ。父親はその後30年にわたって息子に本当のことを言うことができないのだが、いくらなんでもちょっと無責任だろう。この父親は大変不器用で、マッシモに対する愛情はあるのだろうが、お互いに理解しがたい存在だったように見えた。唯一一緒に盛り上がったのはサッカー観戦だが、それもマッシモの過熱により頓挫してしまう。
 母の死を受け入れることに対する躓きが、中年になってもマッシモを縛っている。幼少時代の様子を見ればわかるように、マッシモは母親との結びつきがとても強い子供だった。母親との一体感が強すぎる為に、母親の死が受け入れられなかったとも言える。一歩引いて他人として見てみれば、彼女の死の真相はおおよそ見当がつくものだ。真相があいまいにされ続けてきたことで、母親は自分とは別の人間であるということも、またあいまいになっていたのではないだろうか。母親の死の真相がわかってようやく、母親であっても他人であり、何を考えているのかなど本当にはわからない、ということが受け入れられたのではないか。母親が不可解な存在であることと、母親に愛されていたことは、両立するのだ。
 1970年代から90年代のイタリアの文化的な背景が垣間見えるところが面白い。特に、音楽映画的な側面もあり、当時の流行音楽が盛りだくさん。少年時代のマッシモの友人宅はヴィスコンティの映画に出てきそうな邸宅なのだが、友人が部屋で大音量で聞いているのがDeep Purpleというミスマッチ感が愉快。どの時代でもロック小僧はエアギターやるのか・・・。

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『ありがとう、トニ・エルドマン』

 元音楽教師のヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)とコンサルティング会社勤務のイネス(ザンドラ・ヒュラー)は今一つうまが合わない親子。多忙すぎるイネスを心配したヴィンフリートは、突然彼女の元を訪れる。しかしなぜか別人“トニ・エルドマン”として。職場やパーティー会場にまで押しかける“トニ・エルドマン”にイネスのイライラは募っていく。監督・脚本はマーレン・アデ。
 どちらかといえば渋い映画っぽいし、ほろ苦いヒューマンドラマ的な作品かなと思っていたら、まさかこんなに笑えるとは!確かに地味にじわじわくる感じの面白みが主体なのだが、後半、イネスの誕生パーティーに破壊力がありすぎて客席がどっかんどっかん沸いた。このシーン、一歩間違うとちょっと笑えないというか、セクハラ・パワハラになりかねないような構造なのだが、そこで笑いにちゃんと持っていくバランス感覚の良さがある。
 バランス感覚という点では、ヴィンフリート=トニ・エルドマンとイネスと、対照的な2人のどちらにも入れ込み過ぎない、肯定も否定もしないという距離感のバランスも良かった。ヴィンフリートがイネスを心配しているのは分かるが、彼の娘へのコンタクトの仕方は得てして一方的で、娘からしてみれば鬱陶しい!迷惑!と怒鳴りたくなるものだ。相手の状況を鑑みず自分がよかれと思って行動するので、イネスにとっては癇に障るばかり。一方、イネスはハードな仕事に邁進しており、生活は分刻みで携帯電話が手放せず、(トニ・エルドマンではなくヴィンフリートとして)訪ねてきた父親を適当にあしらう時間さえない。彼女の目下の仕事は企業にとっての「汚れ仕事」「憎まれ役」であり、そのことに対する葛藤も抱えている。イネスが仕事は出来るが要領がいいというわけではない、根が生真面目な部分がそこかしこに見え隠れし、何だか痛々しくもあった。
 2人は対照的な父娘で、お互い別の世界で生きている。多少歩み寄りはあるが、許容はするが理解はしきれないだろう。ヴィンフリートがイネスの仕事先の現地スタッフに対する処遇に抗議するのも、彼がよそ者であり当事者ではないから言えることだ。とは言え、反目しあうばかりではなく、イネスが急にトニ・エルドマンのでたらめさに自分の行動を合せて来たり、嘘に乗っかってきたりもする。この距離の詰め方が何となく親子っぽいし、イネスのユーモアを感じさせる部分でもある。ヴィンフリートとイネスは、おそらく価値観が違うままだし多かれ少なかれずっとぎくしゃくするだろう。それでも、2人の間に通い合うもの、親子として培ってきたものは確かにある。愛は単純ではないのだ。父と娘の物語だけど、全然甘美さを漂わせないあたりも、注意深く対象との距離を測っている感じだった。








『ある決闘 セントヘレナの掟』

 1886年、テキサス・レンジャーのデビッド(リアム・ヘムズワース)はメキシコとの国境を流れるリオ・グランデ川に数十体の死体が流れ着いているという事件の真相を調べる為、川の上流の町マウント・ハーモンへ、妻マリソル(アリシー・ブラガ)を伴い潜入する。その町は、「宣教師」と呼ばれるエイブラハム(ウッディ・ハレルソン)が支配していた。監督はキーラン・ダーシー=スミス。
 西部劇は西部劇でも派手さ、勇壮さとは縁遠く、渋く血なまぐさく泥臭い。デビッドとエイブラハムにはある因縁があるが、その闘いと決着は地を這うものであり、決して爽快なものではない。デビッドはレンジャーとしての仕事上の倫理や正義はもちろん持っているが、自分が「正義の味方」だという態度はとらない。彼はエイブラハムが悪人だと思っており、彼のやっていることは許せないとは思っているだろう。しかし、闘いの中で人を殺す自分もまた人殺しである。目的が何であれ、人殺しは人殺しとして生きるのだという突き放した視線がある。決闘にしろ復讐にしろ、爽快感も「正義が勝つ」的なカタルシスもないのは、そのせいだろう。終盤も、単純にタフな方が生き残るという展開の抑制のきかせ方も渋い。とはいえ、自分の心遣いに助けられるような展開もあるのは、ドラマ上のお約束というものか。
 エイブラハムと出会ってからのマリソルの変化は急激すぎるようにも見える。しかし、デビッドとマリソルの間には最初から溝がある。2人は仲の良い夫婦のように見えるが、マリソルのメキシコ人としてのアイデンティティや疎外感は、デビッドには(理解しようとはしているだろうけど)今一つ迫ってくるものがないのかもしれない。マリソルのトラブルは、おそらくそこに付け入れられたものだ。混乱する彼女が見た夢の話をしようとするのを、デビッドはさえぎって勝手に結論付けてしまう。あーそういうところがダメなんだよ・・・。愛し合っているようでいて、肝心なところですれちがってしまうところがもどかしかった。ラストも、マリソルが見た夢の内容を踏まえて見るとなんとも渋い。簡単に「めでたしめでたし」にはしてくれないのだ。

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『イップ・マン 継承』

 1959年、香港。詠春拳の師父として地位を築き、周囲からも尊敬されるイップ・マン(ドニー・イェン)は妻ウィンシン(リン・ホン)と息子と暮らしていた。しかし、息子の通う小学校を立ち退きさせようと、英国人フランク(マイク・タイソン)の手下が執拗な嫌がらせをしてきた。学校を守ろうとするイップ・マンだが、息子が巻き込まれてしまう。そして彼の妻もある問題を抱えていた。監督はウィルソン・イップ。
 『イップ・マン 序章』『イップ・マン 葉問』に続くシリーズ三作目。
本シリーズはどれも美術が素晴らしいのだが、本作もセットも衣装も素晴らしい!第二次大戦後、好景気で沸く香港の街並みは、建物に繊細さとどこかヨーロッパ風でもある異国情緒(イギリスの影響だろうから複雑ではあるけど)があって美しい。また、イップ・マンの自宅のインテリアの作りが細やか!ほどよくお金があり、かつきちんと手を入れて暮らしている雰囲気が出ている。ウィンシンの衣装も、どれも華美ではないがおしゃれで楽しい。 こういう所に予算を割いて映画を作れるって、やっぱりいいものだなとしみじみとした。
前2作では自分の拳を確立しようと模索していたイップ・マンだが、本作では「詠春拳の師父」としての地位は盤石で、がつがつしていない。弟子に稽古をつけるシーンも作中にはない。いわば「あがり」の状態だ。だからこそ、息子の学校が安全であるよう手を尽くすといった、地域活動みたいなものに専念できるわけだろう。ただ、これから同じ道でのし上がってやろうという野心に燃える人にとっては、イップ・マンの余裕は癇に障るものでもあるだろう。息子の同級生の父親で、同じく詠春拳の使い手であるチョン・ティンチ(マックス・チャン)がイップ・マン宅を訪問した時の表情には、屈託が滲んでいる。そりゃあ、同じ流派で腕も劣らないと自信があるのに、何で自分だけって思っちゃうよなぁ。とは言え、チョンは野心家だが拳に対しては彼なりのまっすぐさがあり、イップ・マンとお互いのまっすぐさをぶつけ合うクライマックスは爽快だ。マックス・チャンがやたらと色気を垂れ流す(ドニーについては言うまでもなく)ので、ちょっとくらくらしてくるが。
 カンフーアクションはもちろん見応えがありとても愉快。拳法で戦うという部分は毎回同じではあるのだが、今回はこういう風にしてみよう、みたいな新鮮味を出す為の工夫が感じられる。エレベーターからの階段経由の一連のアクションは、階段で「踏みとどまる」足の描写をいちいち入れるあたりが面白かった。
 本作、カンフー映画ではあるが、同じくらいの注力度で夫婦の愛と絆が堂々と描かれており、なんだかぐっときた。イップ・マンのある局面での選択は、王道アクション映画だったらやらないんじゃないかというものなのだが、彼にとっては、もう一方の方がもっと大事なのだ。また、ウィンシンも、イップ・マンにとって拳がどういうものなのか、よく理解している。詠春拳をふるうのはイップ・マンだが、その道はイップ・マンとウィンシンが一緒に戦い、守ってきたものだと明言するような作品だった。2人が並んで歩いていく後姿に、つい感動してしまった。ここまで真向から夫の妻への愛を描くカンフー映画って、なかったんじゃないかなー。

『お嬢さん』

 1930年代、日本統治下の朝鮮。詐欺師たちに育てられた少女スッキ(キム・テリ)は藤原伯爵と自称する詐欺師(ハ・ジョンウ)に、メイドの珠子としてある屋敷に連れて行かれる。その屋敷に暮らすのは日本文化に傾倒し稀覯本を収集している上月(チョ・ジヌン)と、その姪で莫大な財産の相続権を持つ秀子(キム・ミニ)。上月はいずれ秀子と結婚して財産を手に入れることをもくろんでおり、秀子を屋敷に閉じ込めていた。藤原伯爵は秀子を誘惑、結婚してから精神病院に入れて財産を奪い取ろうと計画しており、秀子を懐柔する手駒としてスッキを送り込んだのだ。秀子は徐々にスッキに心を開くようになり、スッキもまた秀子に惹かれていく。原作はサラ・ウォーターズの『茨の城』、監督はパク・チャヌク。
 原作はイギリスの話なので、舞台の置き換えの大胆さにまずびっくり。日本統治下の朝鮮にすることで、支配・被支配関係が更に重層的、かつ錯綜した構造になっている。スッキたち朝鮮人は秀子ら日本人に支配されており、日本人に対する感情があまり良くないものであることが冒頭で示唆される。一方で朝鮮人だが日本人と結婚した上月は日本文化に傾倒し、日本人と自身とを同一化してきた。その上で日本人女性である秀子を支配しセクシャルな「朗読」を強いる。自分を支配している階層の女性を自分の情欲の為に使役するという倒錯的な構図を楽しんでいるのだろう。
 その階層や性別による上下関係を、女性達は軽々と飛び越える。この女性の共闘と遁走があることが、原作との大きな違いではないかと思う。彼女たちが、既存の欲望の形、自分達が欲望され消費される欲望のあり方から抜け出し、自分自身の欲望のあり方を掴んでいく。秀子が藤原に対して啖呵を切るあるシーンは、それを端的に表していたと思う。
 とは言え、ここで描かれる女性たちの姿に自由さを感じたかというと、少々微妙だ。本作での女性同士の愛情・性愛の描かれ方は、やはり女性達に欲望を向ける男性の視線によるもののように思う(監督がヘテロの男性である以上仕方ないのかもしれないが)。セックスシーンなど、何だかだらだらと長くて退屈だしレズビアンもののポルノのパロディみたいで、少々興ざめ。撮っている側ばかりが楽しくなっているような気がした。
 衣装にしろセットにしろ、美術面が豪華で素晴らしかった。これだけお金かけてこういう映画を作れるなんて、韓国の映画界の懐の深さを見た感がある。

『アンダーカバー』

 FBIの若手捜査官・ネイト(ダニエル・ラドクリフ)は、白人至上主義者のカリスマ的存在であるラジオパーソナリティ、ダラス・ウルフを捜査する為、潜入捜査を命じられる。ネイトは元軍人の白人至上主義者を装い、ウルフと面識があるというネオナチの青年ビンスと知り合うことに成功するが。監督はダニエル・ラグシス。
 「未体験ゾーンの映画たち2017」にて鑑賞。今回の未体験ゾーンで見た中では最も掘り出し物感強く、面白かった。ラドクリフ主演だしクオリティ的には普通に公開してもよさそうなものなんだけど、このネタだと確かに日本ではウケない、というかニュアンスがわかりにくいのかもしれないな・・・。しかしおすすめです。ちょっと編集がぎこちない(報道映像等々のコラージュがあまり上手くない気がする)が、意欲的な作品だと思う。
 ネイトはあまり現場経験はなく、リサーチ重視な頭脳派。同僚に比べると小柄で華奢、肉弾戦は不得意そうで、職場でも「おぼっちゃん」的にからかわれている。そんな彼が、なぜかマッチョな団体と思われる白人始業主義者グループに潜入する羽目になる。最初はムリだムリだとしり込みするネイトだが、上司(トニ・コレットの仕事は出来るが人としてはくそったれっぽい上司感がすばらしい)に認められたい一心で、学習に学習を重ね組織のトップに近づいていく。ネイトの地頭は良いが如何せん経験不足で浮足立ちやすい感じ、冷徹な潜入捜査官にはなりきれない様子を、ラドクリフが好演している。ネイトの計画は少々行き当たりばったりな感があるが、彼の演技の上手さで作品がもっている。
 FBIが戦っているのは「外部」からのテロだけではなく、「内部」からのテロに対してでもある。こういう方向での「テロ」もあるということを描いているのだが、テロリスト候補たちのショボさも含めて、結構生々しい。今のアメリカのある一面、根深い問題背景の一部を垣間見る感じ。潜入捜査官としてなぜネイトが選ばれたのか、という部分が、白人始業主義に若者が走る要因を的確に説明していたと思う。妥当な拠り所みたいなものが得にくい世界になっているのかなと、暗鬱とした気分にもなった。
 ある人物の、人々が煽られたがっているから煽るだけ、面白ければいいんだと言わんばかりの言動は、先般の大統領選の結果を招いたものと同質なもののように思った。主義主張が先にあるというわけではないんだよな。

『アシュラ』

 都市開発の方向で揉めるアンナム市。刑事のハン・ドギョン(チョン・ウソン)は市長パク・ソンベ(ファン・ジョンミン)の為に暗躍し市長の汚職疑惑のもみ消しを図る。しかし検事キム・チャイン(クァク・ドウォン)に弱みを握られ、市長の犯罪容疑の証拠をつかむ為二重スパイになれと強要される。ドギョンは後輩刑事のムン・ソンモ(チュ・ジフン)も巻き込み生き残る為奔走する。監督・脚本はキム・ソンス。
 予告編がやたらと怖くかつ面白そうで自分の中での見る前の熱量は相当高かったのだが、期待したほどではなかったかな・・・。十分面白かったのだが、ちょっと飽きが来てしまった。緊張感はあるのだが、ドギョンにとっての状況が無間地獄すぎてどこまで行っても同じかよ・・・とぐったりしてくる。そこが狙いでもあるのだろうが。また、ややこしい状況に追い込まれている割には、ドギョンの行動はそれほど計画的ではなく、行き当たりばったりな傾向が強い。そんなんで生き残れるの?!大丈夫?!しのぎを削るコンゲームといった雰囲気ではない。特に冒頭、先輩刑事とソンモと手駒のチンピラが巻き起こすごたごたのやりとりは、頭が悪すぎる!上司も部下も頭が悪いと大変だな・・・とは思うが、それを収集できないドギョンも大概だ。一貫して、自分には重荷すぎるものを課されたドギョンが這いずり回るという構図なのだ。
ソンベは自分の欲望の為なら手段は選ばず非情な人物だ。しかし彼を追うチャインも、ドギョン本人も似たようなもので、基本的に本作に登場する人たちは手段を選ばず欲望に忠実だ。また、自覚していなかった欲望が引き出されることでお互いの関係性が大きく変わっていくこともある。ソンモはドギョンを先輩として慕いドギョンはソンモを出来の悪い弟的にいじる。そこには先輩・後輩という力関係が歴然としてあり、後輩は多少バカにしても、「出来が悪い」扱いをしていいものという暗黙の了解がある。これが見ていて結構つらかった。ドギョンはソンモに対して悪意はなく可愛がっているつもりだろうし、ソンモもおそらくそれはわかっている。が、バカ扱いされることが平気なわけではないだろう。彼の積もり積もった屈託が、ソンベに持ち上げられたことで爆発してしまう。ドギョンがソンモの屈託に気付いていない所がまた辛い。ドギョンが鈍感というよりも、社会構造として組み込まれているから見えにくいのだろう。

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』

 デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は交通事故にあい、車に同乗し運転していた妻は死亡した。妻の死に対して涙は出ず、悲しみも感じない彼は、妻の父親フィル(クリス・クーパー)が経営する金融会社での仕事には復帰したものの、周囲のものを分解・破壊したいという衝動を抑えられなくなる。監督はジャン=マルク・バレ。
デイヴィスは無感覚な状態に陥っており、自分が悲しんでいるのかどうかもよくわかっていないし、わかっていないということ自体に自覚がない。また、会議中に全く関係のないことを言いだしたり、自動販売機会社のお客様窓口にクレームに加え自分の近状を長々としたためた手紙を出したりと、はたからみたら突飛な行動に走っていく。
 妻が死んでからのデイヴィスの生活からは、彼は家族との関係はそんなに密ではないし、親しい友人もいない、職場の同僚ともそんなに仲良くしているわけではない(社長の娘婿なのでむしろ煙たがられてそう)な様子が垣間見られる。元々、そんなに空気読む方でも気遣いが細やかな方でもなく、ちょっと情緒に疎いのかなという雰囲気なのだ。フィルは娘の夫であるデイヴィスのことを気に掛けてはいるものの、ぽろっと「最初から気に入らなかった」と漏らすし、デイヴィスのことをよくわからん奴だよなと思って困惑している様子がありありとわかる。彼は一応親族ということにはなるのだろうが、デイヴィスにとって話相手にはならない。話す相手がいないから、自販機会社のお客様窓口担当のカレン(ナオミ・ワッツ)に長々と手紙を書き、彼女の自宅まで突き止めてしまうのだ。カレンへの接近の仕方はストーカーまがい(というか立派にストーキングだろう)でかなり怖く、更にカレンがデイヴィスを受け入れてしまうことで、本作に対する気持ちがかなり冷めてしまった。カレンのパートはない方がよかったような気もするが、彼女の息子がすごくいいキャラクターなんだよなぁ・・・。
 とは言え、破壊行動もカレンとの距離の取り方のまずさも、デイヴィスにとって自分と世の中との距離感がよくわからなくなっているからだろう。彼が周囲のものを分解して壊していくのは、自分をとりまく世界の成り立ちを理解しなおそうとしていることなのかもしれない。デイヴィスと唯一相互理解のあるやりとりをするのが13歳になるカレンの息子なのだが、彼はまだ「世の中」に出る前の存在だからだろう。「世の中」から落っこちてしまったようなデイヴィスには、子供の方が率直に話せる存在なのではないか。とは言え、セクシャリティに関する彼へのアドバイスは、こいつやっぱり情緒ないし想像力あんまり豊かじゃないな、ってものなのだが。

『エゴン・シーレ 死と乙女』

 1910年、美術学校を退学したエゴン・シーレ(ノア・サーベドラ)は仲間と「新芸術集団」を結成。妹ゲルティのヌード像を描き続けていた。さらに褐色の肌のモデル・モアの肖像画で注目を浴びる。敬愛するクリムトから赤毛のモデル・ヴァリを紹介されたシーレは製作に励むが、スキャンダルを起こしてしまう。監督はディター・ベルナー。
 第一次正解大戦末期のウィーンで病に倒れたシーレと妻エディットの元をゲルティが訪れるというシーンから始まる。そこから過去に遡り、時々現在の病床のシーレのエピソードに戻るという構成。シーレの人生の終盤から遡るという構成は悪くはないのだが、時代転換のタイミングが唐突で、切り替えがぎこちないように思った。切り替えの起点となるキーみたいなものがいまひとつ見つからない。これだったら、若い頃から晩年へと時間順でもよかったんじゃないかなという気もする。
 シーレは16歳の妹をヌードモデルにしていたが、妹との絆は少々深すぎ、危うい。冒頭、裸のゲルティとシーレがじゃれあう姿はセクシャルなものとして意図されていると思う。また、ゲルティはシーレが新しいモデルとしてモアに夢中になると強く嫉妬するし、シーレはシーレでゲルティがいざ結婚しようとすると猛反対する。ゲルティの結婚相手が自分の友人であることも、ゲルティが妊娠していることも許せないのだ。まだ結婚は早すぎる!21歳までダメ!って言うけどじゃあ16歳でヌードモデルさせるのはいいのかよ・・・と突っ込みたくなる。お互いに強い執着心を持っており、結局ゲルティは最後までシーレにつきあう。
 シーレはモアにもヴァリにも執着し、特にヴァリとは仕事上の頼りがいあるパートナー的な関係である様子が見て取れる。実際のヴァリは17歳の少女だったようだが、本作のヴァリは年上の女性風で、モアやエディットよりはぐっと頼りになりそうだし「ちゃんとした」大人っぽい。しかし、シーレの彼女たちに対する執着や愛情は、あくまでモデルというオブジェクト、セックスできる対象に対するもので、彼女らにそれぞれ別個の意思と欲望があるという意識があまりなさそうだ。ヴァリとエディットに「そりゃ怒るよね・・・」とため息つきたくなるような提案をする(史実だそうだ)のも、人間の心の機微が今一つわかっていないからかも。
 また、彼のスケッチにはゲルティより更に若そうな少女のヌードもあるのだが、相手の属性をあまり考えず描く対象としてしまう傾向がありそう。彼の作品には多分に性的な要素がある(本人は美術だと主張しておりそれはその通りなのだが、セクシャルな視線はあるだろう)から面倒なことに・・・。少女に告発されるエピソードは史実だそうだが。自分の行為が相手にとって、また社会的にどういう意味を持つか等考えずに製作に打ち込むというと芸術家肌っぽく聞こえるが、巻き込まれたり尻拭いをせざるを得なくなった側は大変だろう。作中のシーレはとにかく自分のこと、自分の芸術のことしか考えない人として描かれている。「新芸術集団」の仲間が創作を止めた時に激怒するのも、彼に才能があったからというより、自分が理想とする芸術家像からずれたからで、ゲルティの結婚に怒るのと同じなのだ。
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