3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2021年11月

『SAYONARA AMERICA』

 2019年、ミュージシャンの細野晴臣はデビュー50周年を迎えた。この年、ソロミュージシャンとして初のアメリカツアーを実施。その様子を収録したライブドキュメンタリー。監督は佐渡岳利。
 すごく撮影がいいとか録音がいいとかいうわけではないのだが、ファンにとってはやはり楽しい。と同時に、2019年当時の熱気あふれる、もちろんマスクなしのライブハウスの様子を見ると、遠い昔のことのように感じられ、懐かしいというか寂しいというか…。2021年現在の細野やバンドメンバーのコメントが挿入されるのでなおさら当時とのギャップが強まる。題名の「SAYONARA」は、あの当時へのさよならのようにも思えてくる。いくら感染状況が好転しても、パンデミックを経験してしまった世界、人々の心理は元の通りに戻るわけではないだろう。
 細野が演奏するのは古いカントリーやブギウギのカバー、もしくはその影響を強く受けた自作だ。敗戦後まもなく生まれた細野は、GHQによってもたらされたアメリカ文化の恩恵を受けて、その良き部分を吸収して成長したと言えるだろう。今のアメリカの若者はカントリーもブギウギもそうそう聞かない人が多いのでは。巡り巡ってそういったバックボーンを持つ日本のミュージシャンが、アメリカの観客の前でカントリーやブギウギを演奏するというのは、現地の人にはどういうふうに受け止められるのか気になった。逆に新鮮に受け止められているのだろうか。日本で行われた細のライブでも同様なのだが、意外と若い観客が多い。どういうルートで細野にたどり着いたのかが気になるが、インターネットとサブスクリプトによって、年代的に接点が薄い音楽にも触れやすい環境があるんだろうなと思う。未知の音楽へのアクセスはよくなったが、音楽の歴史的背景には触れにくくなったようにも思う。

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細野晴臣
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2021-02-10


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細野晴臣
ビクターエンタテインメント
2021-02-10


『愛のまなざしを』

 妻かおり(中村ゆり)を亡くした喪失感に苛まれる精神科医の貴志(仲村トオル)は、患者として現れた綾子(杉村希妃)に強く惹かれ、求めあうようになる。しかし綾子は貴志が香りを忘れられないことを責め続け、貴志とかおりの息子である祐樹(藤原大祐)を嫌う。監督は万田敏邦。
 シチュエーションも人物も書き割りみたいでリアリティは希薄なのだが、書き割りを突きつめることで発生する奇妙な力がある。万田監督の作品を見ているとしばしばそう思う。こういう作劇方法だから仲村トオルが起用されているんだろうなという納得感もある。仲村の演技は一見大根ぽい、達者には見えないものなのだが、実は監督の意向に忠実で、余計なことをしない演技なのではないかと思う。情感豊かとかではないんだけど、作品の一部としての機能力がすごく高いんじゃないだろうか。
 書き割りのようといと、綾子の造形は正に書き割りの「女性」。今時このテンプレート的な女性像は流石に厳しいと最初は思っていた。が、見ているうちに、彼女がなぜテンプレート的な女性として貴志の前に現れたのか、その理由が段々わかってくる。綾子は何度も貴志に愛されたかったと口にするが、彼が求めた・必要としたのがどういう女性なのかという話なのだ。そう考えると、本作の題名の怖さ・薄気味の悪さが浮き上がってくる。貴志は綾子を愛していると言うが、彼女の何を見て愛していると言えたのか。この部分が、観客の側にもほぼ説明されない。あえて彼女の何が貴志を引き付けたのかわからないようになっているのだ。貴志は自分が見たい女性の姿を一方的に綾子の中に見た、綾子がその「まなざし」を受け入れてそれを具体化しようとしていた、彼女自身と言えるものはなかったのではと思えてくる。綾子は綾子で、自分にとっての望ましい男性の姿を一方的に貴志に見ており、共依存的な関係になっていく。愛がお互い一方通行で、愛している(と思っている)主体の中にしかないように見えるのだ。
 貴志は綾子の中に「愛する女性」という形を見たのだろう。しかしそこに当てはまらなかった女性の姿もまた現れてくる。貴志が自分に関わる女性たちについて、他人の言葉に左右されっぱなしなのは、彼女らとまともに向き合わなかったという自覚があったからではないか。深く愛していたはずなのに、自分の中の「彼女」像が簡単にぶれてしまう。結局彼の中で独り相撲が続いているだけで、彼女との間の具体的な関係の手応えがないからだろう。本作、クリニックの事務員訳の片桐はいりだけがまともな人に見える。彼女は人の話に左右される局面がないのだ。

行きずりの街 [DVD]
江波杏子
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
2011-05-21


岸辺の旅
柄本明
2016-04-15





『皮膚を売った男』

 内戦の続くシリア。理不尽に不当逮捕された青年サム(ヤヤ・マヘイニ)は難民となって国外へ脱出する。恋人が外交官と結婚してベルギーに行ったと聞いたサムは、彼女の後を追って何とかベルギーに渡ろうとする。ある日サムは、現代アートの巨匠ジェフリー(ケーン・デ・ボーウ)からある提案を受ける。彼の背中に作品としてタトゥーを彫らせてほしい、「作品」になれば海外へ渡ることができるし対価も十分に払うというのだ。サムは提案を受けてジェフリーの「作品」となる。
 難民である主人公の境遇はなかなかハードそうだし、「作品」になってからの境遇も別の方向でハード。しかし、サムがあまり物事を深く考えないタイプなので、語り口はあまり重くならない。考えるより動いてしまうタイプなのだ。シリアを脱出するのにはその資質が役に立ったのだろうが、恋人を追いかける、かつスカイプでやりとりする段では、もうちょっと慎重になった方がいいのでは、彼女既婚者だしバレると面倒だぞ!でもその感じだと絶対バレる!とハラハラしてしまった。
 奇妙な味わいの小話的なものかと思ったら、現代美術市場のエグさ、倫理観の危うさが生々しい。もちろん本作はフィクション(アイディアの元になった美術作品はあるそうだが)なのだが、現代美術の世界ってこういう感じなのではという雰囲気が上手くできているように思った。サムは一人の人間なのだが、ジェフリーや美術館、美術収集家にとっては人間ではなく「作品」、モノなのだ。美術館で展示される時はどうするのか、収集家が作品としての彼を買った時にどうするのか等、こういう作品が実際にあったらこうなるだろうなというもので、ブラックユーモア的だ。保険会社による保険の適応に関する説明など笑ってしまうのだが、「ガンで死んでも(保険会社的には)問題ない(タトゥーには損傷ないので)」という言葉は、サムが人間としては扱われていないということを如実に表している。また「スイスは法律が進んでいる(から人身売買もどきのアート売買ができる)」という言葉も、いや法律が進むってそっち?!人権は?!と突っこみを入れたくなるし、スイスのイメージってどうなっているんだというおかしさがあった。社会常識や道徳に疑問を呈する、既存の価値観に切り込むのは現代アートの機能の一つではあるが、それが倫理に触れそうな時、どこまで許容すべきなのかという問題を考えざるを得ない。
 サムは「作品」になることで国境を越え、安全で快適な暮らしができるようになる。しかし、個人としての人生は彼が自覚していた以上に制限されていく。そこから自分の手に人生を取り戻す為の奇策のツイストが効いていた。ただ、このツイストの「損をしないやり方」というのも、やはり現代美術市場のエグさを感じるのだが。


刺青 4K デジタル修復版 [Blu-ray]
須賀不二男
KADOKAWA / 角川書店
2020-03-06


『アイの歌を聴かせて』

 クラスで孤立している高校生サトミ(福原遙)の前に、転校生のシオン(土屋太鳳)が現れる。シオンはサトミに会うなり「私が幸せにしてあげる!」とミュージカルのように歌いだす。様々な局面をミュージカル仕様にしてしまうシオンにサトミは振り回されるが、徐々に同級生とも打ち解けていく。しかしシオンには大きな秘密があった。原作・脚本・監督は吉浦康裕。
 ミュージカルってよく考えると変な形態だよないきなり歌いだすし…というミュージカルに対する違和感を、そのまま「まあおかしいですよね、いきなり歌いだす人がいたらひきますよね」という形で再現しているところがユニーク。周囲がちゃんとひいているからミュージカル映画ではないわけだ。だが同時に、ミュージカルって楽しいし気持ちをストレートに伝えるには効果的な仕組みなんだというのもわかる。シオンが関わる少年少女たちは、自分の気持ちを言葉に出来ない、言いよどんでしまう人たちだ。感情の背景に歌詞と音楽があると、それに乗っかって気持ちを出しやすくなるという効果はあるんだろうなと。アニメーションそのものはそれほど新鮮味はない、ちょっと野暮ったいものなのだが、映像が音楽にちゃんと乗っていると底上げされる。
 企業の臨床実験都市としての町の造形、生活の様々な部分でのAIの使われ方など、これはちょっと先の未来ならありそうだなという匙加減でなかなか楽しい。ただ、AIをフィクションの中で使う際、なぜ人の姿を与えるのか、特に女性の姿にしてしまうのはなぜなのかという疑問は強く感じた。これは日本のフィクション全般でありがちな現象だと思うのだが、未だにそこを疑問視しないのはなぜなんだろうな。ちょっと無頓着すぎるのでは。
 AI自体には肉体はないから、人間、更に言ったら生物的な形にする必要はないし、どちらかというと人間の思考を理解するが思考回路自体は人間とは全然違う、という方が個人的には見てみたい。監督の長編デビュー作である『イヴの時間』でも同じ所でひっかかって作品に乗れなかったことを思い出した。
 同じく無頓着という点でいうと、本作の世界はあらゆる場所にカメラが設置されている超監視社会。AIでインフラ管理している以上必要というわけなのだが、住民には抵抗感はないのだろうか。更にそのカメラを利用して覗き見をする人が複数いて、これは倫理的にはアウトなのではと思った。監視すること・され続けることをすごくポジティブに描いているので、強烈な違和感がある。監視はともかく、盗撮されるる側は恐怖しかないと思うんだけど…。

エクス・マキナ (字幕版)
エヴィー・レイ
2016-11-04


her/世界でひとつの彼女(字幕版)
スカーレット・ヨハンソン
2014-12-03



『ダロウェイ夫人』

バージニア・ウルフ著、土屋政雄訳
 6月のある日、クラリッサ・ダロウェイは今夜のパーティーの為の花を買いに出かける。その朝は昔の恋人ピーター・ウォルシュがインドから帰国し、突然訪ねてきたのだった。過去の思い出と現在の生活を行き来し、クラリッサとその家族や友人、公園や商店ですれ違った人たちの思いと視点が交錯していく。
 クラリッサの独白から始まり、彼女が花を買いに町へ出ると青年セプティマスの独白へとスライドする。ある人の独白がまたある人の独白へとリレーされ、6月のある1日の朝から夜までが描かれるのだ。流れるような文体が時間の経過を感じさせるが、その時間は現在と過去をそれぞれの人の中で行ったり来たりする。個々の登場人物は別々の人生を歩んでおり、直接かかわりあいがない、全く面識がない同士の人達もいる。しかし小説全体としては途切れることがなく、一つの大きな記憶のように感じられる。クラリッサという生きることにポジティブな人物が中心にいることで、悲惨な記憶も織り交ぜられるものの、全体的に穏やかな幸福感が漂う。ウルフの作品としては珍しいのか。爽やかな初夏の一日という舞台も効果的。
 第一次世界大戦後であることが明記されており、クラリッサの夫リチャード・ダロウェイが政治家という事情もあって、当時の時事問題が具体的に言及されている。特にセプティマスの状態は今でいうPTSDと思われるのだが、妻は元の夫に戻ってほしいと願うばかりだし、医者は静養が必要程度のことしか言えないし権威的でいまいち信用できないしで、周囲の理解が足らず痛ましい。なお、セプティマスは配属部隊の将校との間に深い愛情関係があったようなので、セクシャリティ所以のプレッシャーか?とも解釈できるように思った。
 様々な人の視点が描かれるので、1人の人物に対する見方が人によって違い、多面的な人物像が浮かび上がるのも本作の魅力の一つ。この人から見たら好ましいけど他の人が見たら不快、というように。この書き方によって、見られる人物だけでなく、見ている人物の価値観や社会的な階層、人柄、コンプレックス等も浮かび上がってくる。時に辛辣だし、自身は名門の家系の出で経済的にもさほど困らなかったであろう、ウルフの自虐に読める所もある。


『ルーティーンズ』

長嶋有著
 自転車の盗難に遭ったり、ロレックスの時計の日付変更の瞬間を見たくなったりと、ちょっとした出来事を交えつつ漫画家の「私」、作家の「俺」そして2歳の娘の生活は続く。新型コロナウイルスの感染拡大下であっても。『願いのコリブリ、ロレックス』と表題作の2編を収録。
 著者は似たような、しかし同一な瞬間は存在しないという微細な違いを積み重ねる生活の姿、ルーティンの積み重ねを、これまでの作品でも意識的に描いてきた。本作は題名がずばり『ルーティーンズ』なのだが、本作のルーティンには、ルーティンであってこれまでのルーティンとは決定的に違うというシチュエーションが描かれている。『願いのコリブリ、ロレックス』と『ルーティンズ』とは、新型コロナウイルス発生前か後かという違いがあるのだ。寝て起きて食事して働いて育児してという家族のルーティン自体は続いていく。が、彼らが投げ込まれた世界は未知のウイルス(作中時期はマスクが品薄で緊急事態宣言真っ只中の時期)と隣り合わせの世界だ。非常事態の中でも生活のルーティンは続いてしまうという、あの当時(と言えるほど過去にはなっていない、現在もその延長線上であるという実感が強い)の感覚が刻まれている。だからこそ日常が愛おしいという要素もあるにはあるが、ちょっと違う。どういう状況であれ日常は日常、生活は生活として成立してしまう、イレギュラーもルーティンに組み込まれていくということへの慄きの方が強く感じられた。あの時期の戸惑いとうっすらとした恐怖と不安が記録されている。あの時の気分を文学はどう扱うのかという課題に対する一つの答えではないか。子供を外で遊ばせる、もとい体力を消費させるのは不要不急だよ!という保護者の気持ち、近所の公園見ていても伝わってきたものだった。

ルーティーンズ
長嶋有
講談社
2021-11-09


『子供がもらって、そうでもないブローチ集』

光浦靖子著
 前作では男子がもらって困るブローチ、今回はターゲットを子供に変えてアプローチをする。ブッス‼手芸部部員たちの作品もあわせ、カラフルで盛りだくさんなブローチ写真集。簡単な製作手順紹介もあり。
 光浦さん(やっぱりさん付けで呼んでしまう)のブローチ作品集第二弾。カラフルでかわいいものは成人男性よりも子供の方が許容度が高いはず…!と思いきや結構ハードル高そう。ブローチ作る側は自分にとっての可愛い!を形にしていくわけだが、子供は子供で好みが強固だからね…。前作ではコラージュ的な構造のブローチが主体だったが、今回は動物の正面顔というユニークな切り口。でもこれがすごくかわいいし特徴をとらえている。飛び出すブローチ的な立体感が楽しいのだ。一応作り方も紹介されているのだが、これはあくまで羊毛フェルト経験者向けだと思う。素人が見てもちょっとぴんときませんでした。
 なお加藤浩次へのプレゼントリベンジに加え、おぎやはぎ小木への突撃プレゼントが収録されているが、小木のゲスさが非常によく表れた対談でキャラがぶれないなーと思った。また、芸人としてブス(ないしはデブ、ハゲ等身体的特徴)を切り口にするのは、自虐であれ相手へのいじりであれ、もう笑いとしてはなしだな、大して面白くもないなと改めて実感、かつ受け手側の意識の変化を認識した。光浦さんももうブスキャラやらなくてもいいんじゃないかと思いますね。

子供がもらって、そうでもないブローチ集 (Switch library)
光浦靖子
スイッチパブリッシング
2014-01-18






 

『男子がもらって困るブローチ集』

光浦靖子著
 小学生の頃から手芸を趣味としている著者が、せっせと作り続けた羊毛フェルトを使ったブローチ。その作品と製作手順、そして自ら部長を務める「ブッス‼手芸部」のメンバーの作品を紹介する作品集。
 光浦さん(とつい知り合いのように呼んでしまう)が手芸好きでなかなかのセンスというのは前々から聞いていたので、作品集を見てみたいなと思いつつ、自分が手芸をやらないものでいまひとつ手が伸びずにいた。ようやくちゃんと読んでみた(というよりほぼ写真集なので眺めたと言う方が正しいか)のだが、光浦さんやっぱり才能あるな~。作家の好きなものが詰まっている。一応、誰かにあげる程で作っているという立て付けになっているし、巻末に加藤浩次への突撃プレゼント企画も掲載されているのだが、実際のところは自分がこれがいいと思うから作る!自分の思う「かわいい」はこれだ!という意志が強固に感じられる(私は欲しいですが)。率直に言ってプレゼントには不向きだと思うのだが、自分の為の手芸としては最高。ブッス‼手芸部のメンバーも同様ですね。基本的に趣味で物を作るって自分ファーストだからね。
 なお本著、作品だけでなく光浦さんご本人の写真がどれもいい。スタイリングが素敵。昭和のマンションみたいな撮影場所も懐かしい雰囲気。

男子がもらって困るブローチ集 (Switch library)
光浦靖子
スイッチパブリッシング
2012-05-25


50歳になりまして (文春e-book)
光浦 靖子
文藝春秋
2021-05-29




『エターナルズ』

 7000年もの間、地球上の人類を陰ながら見守ってきたエターナルズ。サノスにより人類の半分が消滅した時も、アベンジャーズの戦いにより、その消滅した人類の半分が甦った時も、彼らは静観していた。しかし、その時に生じた強大なエネルギーによって新たな脅威が目覚め、地球を脅かす。人類には太刀打ちできない脅威に立ち向かう為、世界各地に散らばっていたエターナルズは再び集結する。監督はクロエ・ジャオ。
 これまでのマーベル・シネマティック・ユニバースとは大分方向性が違う。これはかなり賛否が分かれそうだ。そして、面白いと言う人もつまらないという人も、そのポイントは同じ所にあるのではないかと思う。今までのMCUはいわゆるヒーローが活躍する爽快なヒーロー映画だったが、本作は一般的な「面白さ」、ドラマティックさは追及していない作品であるように見えた。かなりの長尺なわりに構成はのっぺりしており、盛り上がりに欠ける。また、アクションシーンもストーリーもどこかで見たようなもので、そんなに新鮮味は感じない。脚本には結構問題がある(そもそもエターナルズの人類の危機レベルの取捨選択基準が謎)。ただ、それが全て瑕になっているのかというと、そうでもない。
 本作、わかりやすいヒロイックさを追求しない所がユニークだと思う。一応スーパーヒーローという言葉は出てくるのものの、エターナルズは人類に道筋をつけるくらいのことはするらしいが、その行いに対しては不介入が原則で、どちらかというと神に近い存在。「自分の世界」「自分の人生」「自分が愛する者」の為に存在するわけではないのだ(少なくともデフォルトとしては)。そういう、いわゆる人間的なアイデンティティのない存在が個人の生のあり方や自分の価値観を獲得し得るのか、するとしたらどういう形で成し得るのか、という方向に進むのだ。リーダーとなるセルシ(ジェンマ・チャン)の能力は物体を変質させることで、強い戦闘力やリーダーシップを持つわけではない。ただ、エターナルズが変質していく、それによって生きる道を探るというストーリーにはマッチしているのだ。今までのスーパーヒーロー映画だったら高い戦闘力を持った“ボス”的キャラのイカリス(リチャード・マデン)がリーダー格だったろうが、彼はリーダーに選ばれないというのも象徴的だ(そして、それをいじってOK(とイカリスが思っている)なのが物理的に超強いギルガメッシュ(マ・ドンソク)というあたりにイカリスの自意識が現れているね…)。
 なお、登場人物で一番懐の深さを感じたのはキンゴ(kメイル・ナンジアニ)の付き人。あの受け入れ方はすごい。エターナルズより全然人間出来ている。

エターナルズ
ニール・ゲイマン
ヴィレッジブックス
2021-10-28


月の子 MOON CHILD 1 (白泉社文庫)
清水玲子
白泉社
2013-08-09


 

『蛇の言葉を話した男』

アンドルス・キヴィラフク著、関口涼子訳
 森に暮らし、「蛇の言葉」で獣を捕らえて肉を食べ、蛇たちと会話をする少年レーメット。彼と母、姉は森での暮らしに満足していたが、農地を耕しキリスト教を布教しようとする村人たち、そして彼らが崇める騎士たちや修道士たちがやってくる。
 書き出しの「森には、もう誰もいない。」という一文で早くもぐっとくるのだが、以降も文章の流れに引力があり引き込まれる。森に暮らす人間はどんどん減っており、蛇の言葉を流暢に操れる男はもうレーメットだけだ。彼は畑を耕しパンを食べる村人たちをバカにしているが、一方で彼らが使う道具や村の少女たちに惹きつけられていく。ただ本作は森と村のどちらがいいかという判定はしない。村の修道士たちが唱える信仰・教義はでたらめばかりで欺瞞に満ちたものだし、一方、森に暮らす賢者が主張する森の精霊の力も迷信だ。自分たちが作り出したフィクションを信奉し他人に押し付けているという面では、森の人も村の人も同じだ。レーメットと家族はそのあたりは大変冷めており、動物たちと交わり森の豊かさを知ってはいるものの、そこに神秘性はない。村人も賢者もレーメットらを無知蒙昧扱いするが、レーメットからすると彼らの方が迷信に凝り固まった愚か者ということになる。
 ではレーメットが特権的な立場にいるかというと、そうも言えない。彼は「蛇の言葉」という人間が古来持っていた力を使えるものの、それは最早滅びゆく力であり、世の中に彼の居場所はなくなりつつある。自分が滅びゆく存在だと自覚していく、力があっても時流と数に負けていくというアイロニーは、物語が進むにつれて強まっていくのだ。

蛇の言葉を話した男
アンドルス・キヴィラフク
河出書房新社
2021-06-26


丸い地球のどこかの曲がり角で
ローレン・グロフ
河出書房新社
2021-02-19


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