3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2021年02月

『ベイビーティース』

 難病を抱える16歳のミラ(エリザ・スカンレン)は、不良青年モーゼス(トビー・ウォレス)に一目ぼれする。ミラの両親は素行不良で薬物にも手を出しているモーゼスとの交際に大反対だが、ミラのモーゼスへの気持ちは強まる一方。刺激的で色鮮やかな日々に夢中だったが、ミラの病状は悪化していく。監督はシャノン・マーフィ。
 色調と音楽がポップで楽しく、キラキラしている。音楽の選び方、シーンへのはめ方へのセンスで映画の格が一段上がっているように思う。短いエピソードのつなぎ合わせで、エピソード間の時間の経緯はあえて示さないという、散文的なスタイルだ。多分、ミラの症状が本当に悪くて辛い時期もあるはずなのだが、そこはあえて見せない。が、多分今このあたりのステージだよなということは見ていれば察しが付くといったように、情報の示し方と構成が上手い。若々しい作品なのだが、こういう部分のテクニックは意外とこなれていると思う。使い古されたネタでも料理の仕方次第でフレッシュになるのだ。
 一見、ミラとモーゼスのラブストーリーのようだが、この2人の間にあるのは本当に恋愛なのか微妙ではないだろうか。ミラはモーゼスにぞっこんだが、一方的すぎる。モーゼスもミラのことを可愛いとは思ったのだろうが、薬物ほしさにミラの家に押し入るくらいなのであまり信用できない。ミラにはその臆面のなさ、遠慮なく踏み込んでくるあたりが魅力だったのかもしれないが、2人の間の思いは噛み合っていない、お互いへの思いがかなり不均等なように思った。何より、モーゼスはミラよりも大分年上(両親もそこを指摘する)なので、倫理的にちょっとアウト寄りでは?フェアな力関係にならないのでは?と思ってしまった。そういった2人の間の齟齬を意図的に演出しているように思われた。2人の間に心の繋がりは生まれるが、実はそれほど「ラブストーリー」というわけではないのでは。
 リアとモーゼスよりも、リアの両親ら大人たちの姿の方が(私の年齢のせいもあるだろうが)印象に残った。リアの両親は彼女の幸せを祈るが、モーゼスとの関係にどう対処していいのか迷い続ける。母親は娘と薬に依存気味だし、父親は向かいの家の女性にときめいてしまう。両親は不仲と言うわけではなくむしろ愛し合っており結構いちゃつくのだが、なかなか立派な大人、立派な両親にはなれない。しかし娘の為に迷い続ける姿は、親ってこういう感じだろうなとしみじみさせられる。またちらりと登場するモーゼスの母親の姿も印象深かった。彼女はモーゼスのことを強く拒否するのだが、母親には母親なりのどうにもならない事情があり、モーゼスはおそらく相応のことをしたのだろうと思えるのだ。親たちの話という側面もある物語だと思う。




パンチドランク・ラブ [DVD]
ルイス・ガスマン
パラマウント
2016-06-03




『十日間の不思議』

エラリイ・クイーン著、越前敏弥訳
 作家で探偵のエラリイ・クイーンは、パリで知り合った青年ハワードから相談を受ける。度々記憶喪失に襲われその間何をしているのかわからない、自分を見張ってくれないかというのだ。ハワードの頼みに応じ、彼の故郷であるライツヴィルに三度赴いたエラリイだが、ある秘密を打ち明けられ、脅迫事件に巻き込まれていく。
 ライツヴィルシリーズ3作目にして、いわゆる「後期クイーン問題」の口火を切った作品と言われる本作。飯城勇三による解説でも言及されているが、本作を踏まえて『九尾の猫』を読むとより感慨深いと共に、本作を発展させたものが『九尾の猫』なんだなと改めて実感した。エラリイの人間としての不完全な姿、至らなさを描いた所も新機軸だったのだろう。また、当時心理学が流行っていた様子も垣間見える。
 本作、ミステリの構造は非常に人工的(神の視点が作品の中に置かれてしまう)でザ・本格という感じなのだが、エラリイの脆さ、ハワードとサリーの未熟さ・視野の狭さは等身大のものだ。特にハワードとサリーがもう少し勇気があり、事態を自分で引き受ける覚悟をしていたら、本作の「犯罪」は成立しなかったろう。2人が直面した問題に何かと背を向けてしまう、本当のことを言えない様はものすごくありがちな人間の姿だ。その弱さを深く理解してこその「神」というわけか。
 ライツヴィルシリーズは小さな町の出来事、クローズドな人間関係、愛憎渦巻く事件の背景といったあたりが横溝正史っぽいなーと思っていたのだが、悲劇を止められないあたり、本作ではいよいよエラリイの金田一耕助みが増している。


九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ クイーン
早川書房
2015-08-31





『リベルテ』

 「映画批評月間 フランス映画の現在」にて鑑賞。18世紀、フランス革命前夜。ルイ16世のピューリタン的に厳格な宮廷から追放された自由主義者の貴族たちは、ドイツ公爵ワルシャンの支援を求め国境を越える。2019年、アルベール・セラ監督作品。2019年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門受賞作。
 森の中でこっそりと墜ち合い、サド的な世界で享楽にふける退廃貴族たちの姿を見つめる。どのショットも、特に前半は覗き見的なニュアンスが濃厚だ。3台のカメラで撮影しているが、俳優には今どのカメラが撮影しているのかは明示していないので、常に緊張感が漂う。俳優がカメラ位置を把握していないことで覗き見感が煽られるのだ。ただ、後半ではそういったショットの縛りが緩まっているように思えた。
 サド的世界ということで、SM、スカトロ満載。ヌードどころか局部も露出(作り物っぽく解釈に困るものもあるのだが)しており、いわゆる「過激」な作品ということになるのだろう。ただ、現代においてこういったえぐい性癖をそのままビジュアルとして見せることは果たして過激なのか?既に通った道でありもはやアナクロなのでは?という気がしてならなかった。サド的世界を見せること自体が目的ではなく、視線=カメラのあり方を実践すること自体が趣旨ということなのかもしれないが、だとするとこういった撮影対象にする必要あるのか?と思ってしまう。セックス(ないしはそれに類するもの)シーンは俳優の負担も大きいし、特に本作のそれは肉体的に結構しんどそうなので、これを俳優に強いることにより本作のクオリティはどの程度上がっているのか?心身の危険はなかったのか?と現場の事情まで心配になってしまう。『ルイ14世の死』と比べるとショットの強度も弱い気がするし…
 なお18世紀の衛生環境で本作のようなセックスをするのはリスク高すぎるのでは…。後々大変だと思う。感染症がものすごく心配になりましたね。

ルイ14世の死 DVD
フィリッペ・ドゥアルテ
紀伊國屋書店
2019-04-27


閨房の哲学 (講談社学術文庫)
マルキ・ド・サド
講談社
2019-04-12


『どん底作家の人生に幸あれ!』

 優しい母と家政婦と暮らしていた少年デイヴィッド。しかし母が再婚し、横暴な継父によってロンドンの瓶詰工場で働かされる羽目になる。成長したデイヴィッド(デヴ・パテル)は母の死を知り口上から脱走。唯一の肉親である伯母ベッツィ(ティルダ・スウィントン)と彼女の同居人・ミスター・ディック(ヒュー・ローリー)を頼る。名門校に通い法律事務所に通い始め、順風満帆な人生に思えたが。原作はチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』、監督はアーマンド・イアヌッチ。
 なぜこの邦題にした?私は邦題が現代とかけ離れていても(文脈が大幅にずれていなければ)そんなに気にしない方なのだが、本作は普通ににデイヴィッド・コパフィールドのままでよかったのでは(映画原題は「The Personal History of David Copperfield」)。そこを変える・伏せると、かえって映画の意図が伝わりにくい作りなのだ。
 本作はユニークな人々の姿や言動を少年デイヴィッドが、そして作家となるデイヴィッドが書き綴った自分の人生の物語という構造になっている。小説として書いたのはこういう筋だが実際にあったのはこういうこと、といったメタ構造にもなっている。このメタさは「デイヴィッド・コパフィールド」はディケンズが自分の体験を元に書いた作品であり、そういう出自の作品の映画化である、という理解がないと意図が伝わりにくいだろう。観客がデイヴィッド・コパフィールドという作品を知っていること前提で作られているのだ。ということは題名でデイヴィッド・コパフィールドだと打ち出しておかないと、映画の意図する見せ方からずれてしまうのではないだろうか。原作知っているからこその面白さがある作品なのではと思う。
 出演者の民族が様々な点は現代ならではのユニークさだった。親子でも白人と黒人だったりで、一貫性がない。その自由奔放さが本作の寓話としての側面、普遍性を強めていたと思う。不自然に見えないのは本作全体が舞台演劇のような作り物感、「演じている」ことをあえて強調するような作りになっているからかもしれない。


デビッド・コパーフィールド [DVD]
マギー・スミス
アイ・ヴィ・シー
2001-01-25


 

『すばらしき世界』

 殺人の罪で13年間服役した三上(役所広司)は、身元引受人の庄司弁護士(橋爪功)の力を借りながら経済的に自立しようとしていた。ある日、TVの若手ディレクター津乃田(仲野太賀)とやり手ディレクターの吉澤(長澤まさみ)が近づいてい来る。三上が再起を目指す姿をドキュメンタリーにしたいというのだ。原作は佐木隆三の小説『身分帳』。監督・脚本は西川美和。
 面白いのだが、私にとってはどこか捉えどころのない作品だった。これまでの西川監督作品よりも見得を切っている感じで、戯画的な見せ方が目立ったように思う。ラストは舞台演劇の幕引きのような味わいだった。また、三上とアパートの迷惑住人とのやりとりなどかなりコミカルに描かれている。三上の伝統的やくざとしての言動はあまりにアイコン的すぎて、今の世の中では時にギャグのように見えてしまう。三上と世間のずれを使ったコミカルな見せ方が多かったように思う。
 そのずれに目をつけたのが吉野と津乃田ということになるのだろうが、津乃田は世間受けしそうな題材としてだけではなく、個人として三上という人間のことを知ろうとしていく。彼の真っすぐさは(それが常に正解というわけではないだろうが)ストーリー上のほのかな救いになっている。庄司夫妻やスーパーの店長・松本(六角精児)のようにわかりやすく「(やはり常に言動が正解なわけではないが)まあまあいい人」は出てくるのだが、津乃田は彼らよりももう一段人物造形に奥行があるように見える。
 三上が世間に馴染めず苦戦する様について、吉澤は(三上を言いくるめる為ではあるが)社会構造によるものだと言う。失敗も「世間」からのはみだしも許されず空気を読み続けなければならない世の中は、三上のような存在を許容しない。一度はみ出ると再起が難しく、結局またはみ出てしまう。三上の兄弟分の現状を見ると、今の日本でのやくざ稼業は決して割のいいものではないのだが、そこしか行く場所がないからたどり着いてしまうという事情が垣間見える。また、津乃田は三上の暴力性や激しやすさは幼少時の体験によるものではと考える。
 どちらもそれなりに正しいのだろうが、それと同時に、三上の中で修正しようがない性分のようなものも多分にあるのではないかと思わせる、多面的な見せ方だった。三上は自分を「一匹狼」といい生活保護を受けることに非常に抵抗を見せるが、その自負ははたから見ると根拠のない、不確かなものに見える。何かに頼ることは彼のプライドを損なうのだが、その自負と暴力団という組織のバックアップを受けて生活することとは矛盾しないのだろうかと。彼は「一匹狼」と自分を称するのだが、やくざはそもそも集団であって一匹狼ではないよな、等と思ってしまう。三上が生活保護担当職員に「孤立してはだめだ、社会と関わって生きていかないと」と諭されるシーンがあるが、この言葉はある程度的を得ているが皮肉。三上にとっては殺人を犯して服役することが、社会と関わるということだったのではとも思えたのだ。世間が求める関わり方に軌道修正したことで最後の顛末につながってしまったのではと。

永い言い訳
深津絵里
2017-02-16


身分帳 (講談社文庫)
佐木隆三
講談社
2020-07-15



『マイ・シスター、シリアルキラー』

オインカン・ブレイスウェイト著、粟飯原文子訳
 看護師のコレデに妹のアヨオラから連絡が入る。ねえコレデ、殺しちゃった。美しく快活で誰からも好かれる妹は、付き合っている男性を次々と殺してしまう。几帳面でしっかり者のコレデは、そのたびに犯行の隠蔽に奔走するのだ。昏睡状態の患者に秘密を打ち明けるのが息抜きになっていたが、警察の捜査の手が迫ってきた。更にコレデが好意を寄せている医者のタデがアヨオラに惚れてしまう。
 コンパクトさが魅力(ポケミスとしては異例の物理的薄さだ)で読みやすい。ナイジェリアの都市ラゴスを舞台にしている所が日本で読まれる翻訳ミステリとしては珍しいかもしれない。とは言え地域性はそれほど感じない。本作でおそらくローカルなものとして描かれている父系社会と父親の独裁状態は、日本でも珍しくないものだからだ。題名にはシリアルキラーとあるが、問題はなぜシリアルキラーにならなければならなかったのか、かつそんな妹であってもコレデはアヨオラを助け続けるを得ないという所にある。更に普遍性を感じるのは、コレデの「長女は辛いよ」体質。そんなに背負い込まなくてもいいし投げだしてもいいのにできない、私が何とかしなくてはと動いてしまう長女気質。そして母親は美しい妹ばかりを可愛がる。損な人生だが、そういう道をあえて選んでしまうという因果さにため息が出る。
 アヨオラは甘え上手で何でも人のせいにするのがこれまた上手い。姉妹や友人だったら周囲がとばっちりくいまくりなタイプだが、周囲はそうは見ないというところにルッキズムの強靭さを感じてため息が出る。とはいえ、美人はそういうものだろうと見られるからそう振舞わざるを得ない、というアヨオラの事情も多分あるのだろう。まあ姉妹だったら絶対腹立つけど…。

マイ・シスター、シリアルキラー (ハヤカワ・ミステリ 1963)
オインカン・ブレイスウェイト
早川書房
2021-01-07


『ホテル・ネヴァーシンク』

アダム・オファロン・プライス著、青木純子訳
 ニューヨーク州、キャッツキル山地にある「ホテル・ネヴァーシンク」。ポーランド系ユダヤ人のシコルスキー一家が大邸宅を買い取って開業し、やがて屈指のリゾートホテルに成長した。しかし幼い子供が行方不明になる事件が起き、決して沈まないと思われたホテルにも凋落の兆しが見え始めた。
 ホテルの経営者一族、従業員、宿泊客ら等、ホテルに関係した様々な人たちの語りによってつながれていくゴシック・ミステリ。大型観光ホテルは日本でも一時期大盛況だったが、やがて下火になったし今ではそう人気もないだろう。アメリカでもそうだったのだろうか。移民のいちかばちかの賭けから始まり、商機をつかんでどんどん成長するがやがて衰退していくという、おもしろうてやがて哀しき、といった味わいが全編に満ちている。人の人生の奇妙さや真っ暗ではないが陰になっているような微妙な部分が立ち現れていく。
 とは言え、ホテル誕生時に既に呪いがかけられているようなエピソードもあるのだが…。更に行方不明事件の謎がずっと解けないまま残り、ホテルに影を落とす。行方不明事件のせいで、ホテルそのものに不吉な場としての呪いがかかってしまったようでもあり、その謎の引っ張り方が、本作をミステリではなく「ゴシック・ミステリ」にしている。ホテルという場の力、そして過去への引き戻しの力が強いのだ。
 語り手たちは子供の失踪事件やホテルそのものについて直接的に語るわけではない。彼らが語るのはあくまで自身の人生だ。しかしその背景にはホテルがあり、行方不明事件に関わる情報がちらちらと見え隠れする。ただ、それぞれ主観による語りなので、真相「らしきもの」という曖昧さが最後まで残る。そこもゴシック・ミステリぽい。

ホテル・ネヴァーシンク (ハヤカワ・ミステリ)
アダム オファロン プライス
早川書房
2020-12-03


ゴスフォード・パーク [DVD]
ヘレン・ミレン
ジェネオン・ユニバーサル
2012-05-09



『五十八歳、山の家で猫と暮らす』

平野恵理子著
 母を亡くした後、実家の片付けに手がつかず、一時避難のつもりで猫を連れ、八ヶ岳の山荘に移り住んだ著者。2年余りがたつが離れがたく、山での暮らしが定着していく。四季の美しさと山の家での生活を綴ったエッセイ。イラストレーターである著者による挿絵も美しい。
 私は八ヶ岳方面が好きで毎年ドライブに行く(紅葉の時期は必ず行きたい)のだが、その風景や空気の感触が懐かしくなるエッセイだった。著者の住まいは両親が若いころに買った山荘で、近年まで給湯器がなかったという古さ。越冬することになってからようやく工事したとか。冬は当然水道管の凍結に四苦八苦するが、コンタクトレンズの保存液まで凍るとは、室内の寒さは相当なのではないか。山での暮らしは寒さや虫、はびこる野草といった不便さも多々あるが、やはり楽しいのだろう。いわゆる「優雅な高原の別荘」では全くない、家や庭の手入れをしたり鳥や植物の観察をしたりという、一人の生活の喜びが綴られている。作中、メイ・サートンの著作に思いをはせ「「孤独」ではなく「独立孤」のニュアンスを感じさせる言葉があると、よりサートンの気持ちを正確に表せるのではないか。」という一文があるのだが、確かにそうだなと思った。また山での生活を「日常を暮らしながらも、機が熟すのを待っているのです。モラトリアムですね」という一文には、大人でもしんどい時はモラトリアムに入ってもいいのかもなとちょっとほっとする(ただ、元々都会住まいの人にとってはモラトリアムになるということなわけだけど…)。
 山に暮らすきっかけになった母の死についての文章が刺さった。いつかはこういう痛切な寂しさに直面する日が来るのか。その訪れを具体的に想像できる年齢に自分がなった、年を取ったんだなとも思う。

五十八歳、山の家で猫と暮らす
平野 恵理子
亜紀書房
2020-03-27


散歩の気分で山歩き
平野 恵理子
山と溪谷社
1996-11T


『赤と白とロイヤルブルー』

ケイシー・マクイストン著、林啓恵訳
 アメリカ初の女性大統領の長男アレックスは、英国のフィリップ王子の結婚式に家族と共に参列するが憂鬱だった。退屈なイベントに加え、フィリップの弟ヘンリーとは反りが合わず苦手なのだ。晩餐会でもヘンリーの冷ややかな態度に苛立ち大トラブルを起こしてしまう。世評をなだめ名誉挽回するため、アレックスとヘンリーは「親友」として世界中に仲の良さをアピールすることになるが。
 大統領の息子と英国王子という超セレブ!ロイヤル!なカップルが嘘から出た実的に成立するロマンス。シチュエーションとしては結構王道だと思われるが、男性同士の恋愛という設定、かつ本作が全米ベストセラーになったという所が現代ならではか。アメリカでの出版は2019年、著者が着想したのが2016年ということで、トランプ政権下で書かれたロマンス(トランプっぽい政治家も登場する)と考えると、世界よこうであれ!という願いが込められたファンタジーでもある。現実では女性大統領はまだ誕生していないが副大統領は誕生した。日本での出版はとてもいいタイミングだったのでは。ロマンスが進展する一方、アメリカ大統領選の内情のえげつなさや州ごとの傾向についても言及されている所が面白かった。アレックスの故郷は保守大国テキサス。もし彼のホームがニューヨークやカリフォルニアだったら大分違うテイストになっただろう。
 自覚がなかった自分のセクシャリティへの戸惑いや、大統領の息子(しかも母親は大統領選を控えており、初の女性大統領の2期目挑戦として絶対に負けられない)という立場と自身の恋との間での葛藤など、アレックスの心情はこまやかに描かれているが、ヘンリーのそれは若干大味。主人公はアレックスだからという設定上の事情もあるだろうが、王室の一員としての帰属意識と葛藤は特殊すぎてフィクションとしては通り一遍になりがちなのかな。
 それにしても、アメリカ人は英国王室をもちろんセレブ好きすぎないか?という気はした。私がセレブに全く興味がないからぴんとこないのかもしれないけど、「セレブなまもの」ジャンルがあるのか?とちょっと慄きましたよ…人権的に問題ありそうな気がしちゃうんだけど…。


『世界のはての少年』

ジェラルディン・マコックラン著、杉田七重訳
 スコットランドのヒルダ島から無人島へ、子供9人大人3人を乗せた船が上陸した。海鳥を捕るため、毎年泊3週間無人島で生活するのがヒルダの恒例行事であり、少年たちの通過儀礼でもあった。しかしこの年、3週間を過ぎても迎えの船は訪れず、少年たちは島に置き去りにされた。不安が募る中、年長の少年クイリアムは子供たちを励まし続けるが。
 18世紀に実際にあった出来事を元に書かれた小説。十五少年漂流記か蠅の王かという内容なのだが、地に足がついているだけより過酷。海や島や天候、そして食料として燃料として(ウミツバメの蝋燭ってビジュアルがとんでもないですが…)少年らの命を支える海鳥ら等の自然描写が荒々しくも美しいのだが、人間の命を奪うものでもあると痛感させられる。極限状態の集団を舞台とした物語では、無益な権力争いやちょっとした諍いから増幅する憎悪などが描かれがちだが、更に恐ろしいのは自然環境と飢え。人間のあれこれなどちっぽけなものだ。
 クイリアムは不安に揺れる少年たちを勇気づける為、島の由来や神話を交えて彼らに様々な物語を語る。クイリアムは聡明で気丈で、頭もよい出来た少年だ。仲間と自分の正気を保とうとする彼の奮闘は涙ぐましい。想像力、物語の力が人間を支える話、というといかにも「物語」的だが、本作のきつさはそういった人間ならではの強さが結構な勢いで否定されていくという所にある。物語も想像力も信仰も、飢えと寒さの前ではものの役にも立たない。更に、少年たちが子供として全く保護されていない(時代的なものもあるだろうが)、大人たちの方が弱さを露呈していくというあたりもきつい。とにかく大人が役に立たないのだ。本作はカーネギー賞受賞作なので児童文学というくくりになるのだが、諸々やたらとハード。読者である子供を舐めていない作品とも言える。
 なお、過酷な経緯を経たある2人の再会とその後は取ってつけたもののようで、他の部分から浮いているように思った。そこだけきれいに纏められてもなぁ…。

世界のはての少年
ジェラルディン・マコックラン
東京創元社
2019-09-20


荒野へ (集英社文庫)
ジョン・クラカワー
集英社
2007-03-20




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