3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2021年01月

『さんかく窓の外側は夜』

 三角康介(志尊淳)は幼いころから霊が見えることに苦しんできた。ある日、冷川理人(岡田将生)に「助手にならないか」と声を掛けられる。冷川は除霊師で、三角と一緒にいるとよりはっきりと「見える」のだという。一緒に働き始めた2人は、冷川と懇意にしている刑事の半澤(滝藤賢一)から、1年前に起きた連続殺人事件の調査を依頼される。遺体の一部がまだ見つかっていないというのだ。原作はヤマシタトモコの同名漫画、監督は森ガキ侑大。
 意外と手堅くまとめており、改変部分はあるが原作のイメージも損なっていないと思う。原作漫画に非常に愛着がある人にとっては微妙な所もあるのかもしれないが、映画単体としては悪くない。省略していいところはさっくり省略したメリハリのある脚本の方向性と、映像の組み立て方とが上手くかみ合って、コンパクトにまとめられていると思う(102分という尺は非常に好感度高かった)。モブ含め出演者の衣装を黒ベースで統一するという視覚的な演出への拘りも見られたが、これはそれほど効果を発揮していなかったように思う。ちょっとファンタジー寄り・フィクショナルな雰囲気を強めたかったのかもしれないが、拘る所そこ?という釈然としない気分になってしまった。一方、霊の見せ方等のVFXはやりすぎない感じに見える所が良い。単にそこにいる、という本作の霊のありかたに合っているように思った。
 冷川は情緒に乏しく心情の機微がわからない人間だが、岡田の「心のない人」演技が上手い。表面上にこにこしており過剰に明晰だが、内面は何を考えているのかわからない、そもそも感情があるのかわからない、という奇妙さが出ていたと思う。前半での冷川の得体の知れなさと、後半で内面の揺らぎが生じる様との微妙な変化を感じさせる演技だったと思う。
 原作では呪いの鍵を握る非浦英莉可(平手友梨奈)がストーリー上閉める割合がもっと高いが、本作では三角のトラウマと冷川の「呪い」を解くという点にストーリーを絞っている。冒頭と終盤でのあるシーンが対比になった構成には、製作側のドヤ顔とやってやった感がにじむが、1本の映画としては正解だろう。この冒頭と終盤の呼応によって、本作はバディームービーとして成立しているのだ。
 ラスト、続編への色気がちらつくし実際そういう予定だったのかもしれないが、現状ではなかなか難しいのではという気がする。公開時期でかなり損しているのが勿体ない。なお、非浦英莉可役の平手友梨奈の芝居している姿を初めて見たのだが、常に教室の隅っこにいそうな個性がユニークで、好演だったと思う。


重力ピエロ
渡部篤郎
2013-11-26





『ランナウェイ』

ハーラン・コーベン著、田口俊樹・大谷瑠璃子訳
 音信不通になっていた娘ペイジの行方を捜していたサイモンは、娘をドラッグ漬けにしたボーイフレンドを殴ってしまう。その後刑事から殺人事件の知らせを受けたサイモンは、妻イングリッドと共にペイジとボーイフレンドの自宅に踏み込むが。
 薬物依存症になり姿を消した娘を探すサイモン、ある依頼により次々と殺人を重ねる殺し屋カップル、行方不明になった資産家の息子の捜索依頼を受けた私立探偵。3つのストーリーが交錯して事件の全体像が浮かび上がってくる。こういった構造自体は目新しいものではないが、次パートへの引きが強くリーダビリティが高いので、ぐいぐい読めてしまう。帯には「忌まわしい事実」という謳い文句が書かれているが、確かに忌まわしい。ペイジは薬物依存症だが、他にも広義の依存症的な現象が登場し、これが君が悪い。当事者ではないから気味が悪いのであって当事者はいたって真面目だという所が更に始末が悪いのだが。
 サイモンはペイジの失踪を発端とした一連の出来事について、何が悪かったのか、自分に原因があったのではないかと何度も振り返る。子育てに正解はないというが正にその通りで、何度シュミレーションしてもシュミレーションに過ぎず、回答が出ない問だというのが苦しい。ただ、ペイジの行動原理の方向付けをしたものの一端については、割と早い段階で察せられる(これに気付くとペイジの行動はおおむね腑に落ちるし拍子抜けする)。サイモンは気付かないまま現在まできてしまったのだが、気付いたからといって何かできたのか?というと何とも言えない。この「気付いたからといって何かできたのか?」と「気付いた以上やらざるを得ない」とがストーリー全体を通して交錯していくように思えた。事件の真相は「気付いた以上やらざるを得ない」ことにあり、それを知ってしまったサイモンもまた決断を迫られる。ある意味恐ろしい。

ランナウェイ: RUN AWAY (小学館文庫)
コーベン,ハーラン
小学館
2020-12-08


イノセント上 (ランダムハウス講談社文庫)
ハーラン・コーベン
ランダムハウス講談社
2006-03-02




『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』

 鬼に家族を殺された竈門炭治郎(花江夏樹)は鬼狩りとして生きる決意をし、修行に励む。短期間のうちに数十人の人々が行方不明になっている無限列車へ向かった炭治郎、禰豆子(鬼頭明里)、善逸(下野紘)、伊之助(松岡禎承)は「柱」の一人・煉獄(日野聡)と共に鬼挑む。原作は吾峠世晴の漫画、関東は外崎春雄。
 原作を通して読んでいる視聴者には問題ないのだろうが、TVシリーズの最終回から直接続くストーリー、かつ本作の続きはまたTVシリーズでという変則的な構成。これは果たして映画単体として成立しているのか?映画といっていいのか?という思いはぬぐえない。とはいえ、昨年一番ヒットした日本映画ということは、映画単体として成立してしまったということだろうなぁ…。映画の意味合い、位置づけが本作の成功によって大分変わった、というよりも既に変わってきたことを本作が大々的に証明したということかもしれない。TV放送、配信、映画館上映の差別化というものが、少なくともコンテンツの内容上は視聴者にとって均一にとらえられてきているのかなと思った。
 本作、作画は豪華でアクションはダイナミック(かなりすごいことをやっていると思う)。画面の奥行が過剰に深く華やかというイメージがUfotableの作品にはあるが、その特質が存分に活かされていると思う。とは言え、本作が「映画」として面白いのかというと、ちょっと微妙。シリーズ内のエピソードの抜粋という構成もなのだが、(原作は週刊誌連載でそこそこボリュームがあるし)ダイジェスト版を見ている感は否めない。すごくよくできたシリーズアニメのダイジェスト版をスクリーンで見ているという印象だった。また、台詞やモノローグ等言葉による説明が過剰という声が多々あるそうだが、確かに言葉での説明量が多い。ただ、個人的には見ている間は気にならなかった。本作は原作からしてそういう芸風だという了解の元で見ているというのも一因だが、本作を見ている時の意識が「映画」を見ている時のものとは違ったのではないかと思う。多分、実写映画で本作相当の説明台詞量だったら相当気になっていただろう。自分にとっての映画、アニメーション映画、アニメーションとは何なんだろうと意識させられる作品だった。


鬼滅の刃 1(完全生産限定版) [DVD]
大塚芳忠
アニプレックス
2019-07-31


 

『キング・オブ・シーヴス』

 かつて「泥棒の王」と呼ばれていたブライアン(マイケル・ケイン)は泥棒稼業を引退し平穏な日々を送っていた。しかし知人のバジル(チャリー・コックス)から、ロンドン随一の宝飾店街「ハットンガーデン」での窃盗計画を持ち掛けられる。ブライアンはかつての泥棒仲間を集めるが。監督はジェームズ・マーシュ。
 2015年に実際に起きた、英国史上最高齢かつ最高額の金庫破りとして世間を騒がせた事件をドラマ化した作品。おじいちゃんたちが昔取った杵柄で金庫破り!というと何やら愉快痛快な話を想像しそうだが、本作、意外と地味。実話をベースにしているからだろうが、犯罪が泥臭いと言うか、全然爽快ではなく「仕事」として面倒臭いのだ。更にメンバーも60代が「若手」扱いという高齢者集団なので、体は動かないしコンピューターには弱いしで、ブライアンの計画には色々と粗が出てくる。傍から見ていると、プロ集団のわりには詰めが甘い、計画が雑なように見えるのだ。そのスムーズにいかない雑さ、大雑把さこそがエンターテイメントのようにはいかない「仕事」っぽさなのだろう。結構渋い話なのだ。
 英国最高額の金庫破りのわりには、計画の破綻の仕方がショボいあたりも、実際の仕事ってこういう所あるよな…というしょっぱい気持ちになる。ちょっとした油断はもちろんなのだが、問題の大半が人間関係から生じてくるのだ。あいつのあそこが気に食わないとか、あいつは俺をバカにしているとか、もはや窃盗と関係なくどこの職場でもありそうなごたごた。加えて、やっていることが違法行為なため、裏切ったのでは・出し抜かれたのではという疑心暗鬼が積み重なっていく。誰がどうやって出し抜くのか、というとコンゲームのようだが全くそんなことはなく、なし崩しになっていくというのがなかなかのしょっぱさだ。
 結局ブライアンの計画はどう着地するはずだったのかとか、彼が途中で離脱するのが若干唐突だとか、いわゆる「よくできた」ストーリーではないしそんなに起伏にメリハリがあるわけでもない。それでも不思議とダレないのは、劇伴の乗せ方の効果だろう。ジャズをベースにした(ブライアンがジャズ好き)音楽が多用されており音楽入っていないシーンの方が少ないくらいなのだが、音楽のグルーヴで映画が駆動していくような印象を受けた。

ジーサンズ はじめての強盗(字幕版)
クリストファー・ロイド
2017-10-27


ミニミニ大作戦 (字幕版)
ラフ・ヴァローネ
2013-11-26




『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』

丸山正樹著
 元警察官の荒井尚人は手話通訳士をしている。ろう者の法廷通訳を担当したことがきっかけで、荒井はあるNPO団体から仕事を依頼された。ろう児施設の代表が殺された事件と、過去、同じ施設内で起きた事件とが交錯していく。
 「ろう者」の家庭に生まれたことで「ろう者」の世界と「聴者」の世界の間に生きてきた荒井を通じて、「ろう者」の文化、そして2つの文化の間のギャップを見せていく構造。日本手話と日本語手話があるということ程度は知っていたが、当事者にとってはこうも違和感のあるものだったのか…。荒井は手話文化にポジティブな思い入れがあるわけでもなく、そんなに好感度の高い人柄でもないし、立派な人でもない(むしろ小者感や配慮のなさが目立つ。交際相手の子供と元夫を巡る一幕など認識甘すぎて大人として相当まずい)。そういう所がかえって等身大に感じられる。その等身大な「立派ではない」人の眼を通しているところがポイントだと思う。そもそも本作、立派な人や私にとって好感度の高い人は出てこないのだが…。
 読んでいて違和感を感じたのが、荒井がしばしば「(ろう者と聴者の)どちらの味方なのだ」と問われる、また一方的に「味方」「敵」扱いされる所だ。敵か味方かのどちらかを選択しろという要求自体が大分失礼ではないかと思うが、通訳は、どちらの側にとっても「正確に通訳する」ことこそが正しい。そこに勝手に敵味方概念を乗せるなよと思ってしまう。また、ろう者家庭に育った聴者の子供は通訳の役割を果たすようになるという事情も、それはそれで一つの家族の形だと理解はできるが、ひっかかるものがあった。聴者の子供のに大人になることを強いてしまうのではないか(親の通訳をすることで大人の世界に強制的に組み込まれるので)。子供時代の荒井が感じていた疎外感は、親の愛を理解していても帳消しにはならないのではないかと。


ビヨンド・サイレンス [DVD]
ハウィー・シーゴ
キングレコード
2004-02-25




『ターミナルから荒れ地へ 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』

藤井光著
 アメリカという国家のアイデンティティーを伝統的に描いてきた「アメリカ文学」がどのように変容し、何を描こうとしているのか。翻訳者である著者が現代アメリカ文学をひもとく。
 先日読んだ『空とアメリカ文学』(石原剛編著)に引き続き、本著もターミナルから始まる。アメリカと航空というのは切っても切れない、アメリカといえば飛行機、という関係なのだろうか。航空機そのものというよりも、地上にしろ空にしろ移動する、移動して領域を確かめることが国民性というか、アイデンティティーのようになっているのだろうか。単純に国土が広いという側面もあるのだろうが…。指摘されるまで、いわゆるアメリカ文学がアメリカという国がどのようなものなのか向き合ってきたということに気付かなかったが、言われてみれば確かにそうだ。日本の文学と比較しても、この国は一体何なのか、という側面が強い。ただそういった意識は、現代文学では薄れてきているように思う。本著内でも言及されているように、アイデンティティがそもそも土地としてのアメリカにはない、外から流入してきた移民文化に軸足を置いた文学、国という部分に重きを置かない傾向が見えてくるのだ。個人のアイデンティティの置き所や問題意識の変化が垣間見られる。もっと個の文化圏や時代性に寄せてきている。だから現代の日本文学と局地的に似通った感性が見られるという、面白い現象が起きるのだろう。
 現代アメリカ文学の批評として面白いのだが、文章スタイルが凝りすぎで時にスベっている感じになってしまっている気がした。ちょっと勿体ない。


現代アメリカ文学ポップコーン大盛
吉田恭子
書肆侃侃房
2020-12-14


『私的読食録』

角田光代・堀江敏幸著
 古今東西の小説や随筆、日記などの作品に登場する様々な「食」は、なぜか読者の記憶に残るもの。「食」を作家たちがどのように描写してきたかを、同じく作家である2人が鋭く読み解き紹介していく。
 角田著と堀江著が交互に配置された食べ物エッセイ。食べ物といっても文学の中の食べ物なので、作家によっては食べ物の質感や味に全く頓着せず、便宜上料理名を出しただけ、というようなこともある。一方で読んでいるだけでよだれが出そうな、実に美味しそうな描写、またこれはいったいどういう味なんだろうと想像が膨らむ描写もある。文学の中の食って、なんでこうも興味掻き立てられるのだろうか。下手すると実際の食よりも全然面白い。特に児童文学の中の食は、食の経験値が低い子供の頃に読むからか、まだ知らない世界に対するあこがれの糸口になる。本著中でも児童文学の中の食(「甘パン」とか)が登場するが、本当にしみじみと食べたかったもんなぁ…。
 ピンポイントで食に関する記述を探し出し掘り下げていく著者2人の読者・批評家としての力量も光る。2人の傾向がちょっと違うのも面白い。角田の書き方の方がより食べたくなる、堀江の書き方はその記述の出てくる作品を読みたくなる方向性だと思う。

私的読食録(新潮文庫)
角田光代
新潮社
2020-11-30


『銀魂 THE FINAL』

 不死身の生命を持つ虚により地中のエネルギー・アルタナを吸い上げられ、地球滅亡が迫る中、かつての盟友、銀時(杉田智和)、高杉(子安武人)、桂(石田彰)は虚を阻止するために奔走する。一方、万事屋の新八(阪口大助)と神楽(釘宮理恵)や真選組の面々も、彼らを助ける為に立ち上がる。原作は空知英秋の同名漫画、監督・脚本は宮脇千鶴。
 『銀魂』劇場版3作目、かつ本当の最終回。本来ならアニメ版の最終回はTVシリーズとしてやるべきだったと思うのだが(劇場版はあくまでスピンオフ)、原作もまさかの終わる終わる詐欺かつ最終的には連載媒体移動したから、らしいといえばらしいのか…ある意味首尾一貫している。なんにせよ、アニメ化も最後まで完走できてよかったよかった。製作側の多大な努力とファンの熱意によるものだろう。いやーよく続いた…。アニメシリーズ放送開始に中高生だった視聴者はもう立派な大人ですよね…。
 銀魂と言えばギャグとパロディと悪ふざけ、特にアニメシリーズは製作会社(サンライズ)と原作版元(集英社)のコンテンツをフル活用していたが、今回は冒頭に集中している。正直、今回の笑いは冒頭の「これまでのおはなし」パートで使い切った感がある(作画力もかなり使い切っている)。元ネタのカラー原稿テイストを踏襲しておりクオリティが妙に高い。以降はかなりウェットなストーリー展開なので、ギャグを求める人には拍子抜けかもしれないが、銀魂のベースは割とオーソドックスな人情噺なので最終回としてはこれでいいのだと思う。
 キャラクターの人生にちゃんと決着をつけるという意味では、正しい最終回だったのではないかと思う。あるキャラクターについて、ああやっぱりこういう人だったのかと納得させられる所があり、シリーズを追ってきた者としては感慨深いし、彼のファンだったらなおさらだろう。いわゆる男のクソデカ感情が炸裂している。上映中に泣いているお客さんがいたが、そりゃあファンは泣くだろうなと思った。このパートのみ作画が力んでいる感じ(あとはTVシリーズとあんまり変わらないかな…)。
 なおシリーズ通して見た上で本作見ていると、銀時と高杉に比べると桂はあんまり屈折していない(変人ではあるだろうが)んですね…。何というか、精神が健やかな感じがするのが面白かった。



『声優夫婦の甘くない生活』

 1990年、ソ連からイスラエルへ移住したヴィクトル(ウラジミール・フリードマン)とラヤ(マリア・ベルキン)夫婦。映画の吹替え声優としてのキャリアを活かして再就職しようとするが、需要がなく仕事が見つからない。ラヤはヴィクトルには内緒でテレフォンセックスの仕事を始めるが、意外な才能を発揮し贔屓客も着いてくる。一方ヴィクトルは海賊版ビデオ店で映画吹替えの仕事を得るが。監督はエフゲニー・ルーマン。
 監督自身が旧ソ連圏からの移民だったそうで、ヴィクトルとラヤが体験するカルチャーショックやギャップは、実体験によるものなのだろうか。邦題はフェリーニの『甘い生活』(ヴィクトルはフェリーニを敬愛している)のパロディだが、ヴィクトルとラヤの生活は邦題の通り甘くなく、ほろ苦いししょっぱい。若くはない状態で仕事が見つからないという状況は経済的にもプライド面でもかなりきつい。また、自分たちと同じ民族の国だが言葉は通じない、風土も生活環境もちょっと違うという、生活する中でのストレスが少しずつ溜まっていく。同じだけど違う、という微妙さは、傍で思うよりも結構きついものなのだろうなと思わされる。
 更に、夫婦間の溝も深まっていくのだ。ヴィクトルが新しい環境に馴染めないのに対し、ラヤは早々に仕事を見つけ、ヘブライ語の学習もしていく。語学学校での2人の姿勢の違いが対称的だった。ヴィクトルは自分のキャリアを輝かしいものと自負しているが、ラヤは「その他大勢」扱いだったことに不満があり未練がないからかもしれない。こういう夫婦間のギャップは移民ならずとも、定年退職後等にはありそうだなと思った。妻はそれぞれ自由に暮らしたいと思う一方、夫はようやく夫婦2人で過ごせると思っているという。でも2人で過ごし続けるにはそれまでの積み重ねが必須なんだよなと。ヴィクトルはラヤのことを愛してはいるが、独りよがりで彼女が実際何を考えているのかには思いが及ばない。記念写真の撮り方も、彼にとっては記念なんだろうけどラヤにとってはどうなんだろうと。記念写真は2人で撮るものではないのか?

甘い生活 プレミアムHDマスター版 ブルーレイ [Blu-ray]
アヌーク・エーメ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2012-05-25


『Mank マンク』

 1930年代、ハリウッド。脚本家のマンクことハーマン・J・マンキウィッツ(ゲイリー・オールドマン)はオーソン・ウェルズ(トム・バーク)から依頼された新作『市民ケーン』の脚本を執筆中だった。アルコール依存症に苦しみ、無茶な納期や注文、製作会社からの妨害に振り回されつつ脚本の完成を目指す。監督はデビッド・フィンチャー。
 1941年に公開された『市民ケーン』はオーソン・ウェルズ監督主演の代表作だが、その脚本を手掛けたのがハーマン・J・マンキウィッツ(現在ではウェルズとマンキウィッツの共作扱い)。マンキウィッツが脚本を書いていく様と当時のハリウッドの様子やアメリカ社会の動き、そしてケーンのモデルとなったメディア王ウィリアム・R・ハーストの影を描いていく伝記ドラマ。フィンチャーにとっては久しぶりの伝記ものだが、モノクロ画面に現在と過去を行き来しやがて全体像が浮かび上がるという『市民ケーン』を踏襲したスタイル。『市民ケーン』という作品への敬意が感じられる。と同時に、『市民ケーン』を踏襲しているということは、実在の人物・エピソードを元にしていてもあくまで本作はフィクションだという立て付けも踏襲しているということだ。マンクの勇気と諦めなさ、周囲からの圧力に屈しないタフなユーモアを史実として感動するのには、ちょっと留保が必要だろう。フィンチャーも当然そのつもりで本作を作っているわけだ。本作、こういった構造に加え、観客が『市民ケーン』をしっかり鑑賞していること、製作当時のエピソードや実在の関係者、時代背景についてかなり知識があることを前提に作られているので、鑑賞ハードルはかなり高いと思う。正直、私が見るべき作品ではなかったな…。
 マンキウィッツが書くのはフィクションだ。彼は自分が事実を元にフィクションを書いているという自認は当然あり、それによるリスクも責任を問われることも覚悟している。一方で、ハーストらは選挙を有利に運ぶために「やらせ」のニュース映画を作る。正にフェイクニュースなわけだが(メディアによる情報操作はこのころからあったということに加え、メディア戦で勝つのは資金がある方というのが辛い…)、マンキウィッツはこれに激怒する。フィクションで現実と戦うというのは、こういうことではないのだ。フィクションは嘘でだますこととは違うという、フィクションを扱う者としての矜持が見えた。

市民ケーン Blu-ray
レイ・コリンズ
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2019-11-29


『市民ケーン』、すべて真実 (リュミエール叢書)
ロバート・L. キャリンジャー
筑摩書房
1995-06-01


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