3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2020年11月

『生きちゃった』

 厚久(仲野太賀)、武田(若葉竜也)、奈津美(大島優子)は幼馴染。やがて厚久と奈津美は結婚し、娘が5歳になった。しかしある日、厚久が帰宅すると奈津美が見知らぬ男とセックスしており、3人の関係は急激に変わり始める。監督・脚本・プロデューサーは石井裕也。
 3人の男女の数年間を描いたドラマだが、途中途中で「その半年後」というふうに時間が飛ぶ。彼らの人生は断片的な見え方で、3人のこれまでに何があったのかということは会話の端々から伺える程度だ。その断片が段々繋がってくる。一方で、3人の関係性については冒頭からわかりやすい。厚久と武田は一緒に外国語教室に通い、未だに一緒に何かを目指す(といっても具体的なビジョンがあるわけでもなさそうだが)仲で、10代の頃の関係がそのまま続いているような間柄。対して厚久と奈津美の間には、10代の頃のような気安さは逆に薄れており、微妙なずれがある。そしてそのずれに奈津美は自覚的だが、厚久はぴんときていない。
 序盤、厚久と奈津美の家で武田も交えて酒を飲むシーンで、その気配は既に漂っている。厚久の実家に墓参りに行くエピソードでも、奈津美が一方的に話しており、厚久は彼女の話をあまり聞いていない様子だった。厚久と娘の「犬」を巡るやりとりからも、彼が相手の話をちゃんと聞いていない、どこかちぐはぐな様子が垣間見えた。厚久が相手に向き合うのは、取返しがつかない状態になってからなのだ。それが彼らの関係の非常に辛いところだ。あの時勇気を出していれば、言葉にしていればということの積み重ねなのだ。「英語なら言えるのに」という言葉が後々まで響いてくる。
 一方、厚久と武田の付き合いは言葉が少なくても噛み合っているように見えるし、厚久は武田に対しては率直にふるまえる。相手への親身になった態度や言葉、いたわりはこの2人の間では可視化されている。終盤の武田の献身、とでもいえばいいのか、思いやりにはぐっときた。厚久と奈津美の関係の拗れ方とは対称的で面白い。

映画演出・個人的研究課題
石井 裕也
朝日新聞出版
2020-09-18


『少女ムシェット』

 14歳の少女ムシェット(ナディーヌ・ノルティエ)は酒飲みの父の暴力に耐え、病の母に代わって赤ん坊の世話をしている。貧しく孤独な生活で、家にも学校にも居場所がない。ある夜、嵐の中森で道に迷い、密猟者のアルセーヌに遭遇する。原作はジョルジュ・ベルナノスの小説「新ムシェット物語」。ロベール・ブレッソン監督、1967年の作品。
 『バルタザールどこへ行く』もなかなか辛気臭い話だが本作は更に辛気臭いし更に救いがない。ムシェットの人生って何だったんだよ!とキレたくなる勢いだ。しかし辛気臭さの強度が異常に高い、というか強い。最小限に抑えた俳優の演技と余剰な演出を排したショットの組み立てで冷酷さが際立つ。安易な共感や同情を寄せ付けない。
 ムシェットは悲惨な環境にいる少女だが、彼女の悲惨さは貧しさそのものよりも、子供として扱われない、保護されていないという所にある。両親も、周囲の大人たちも彼女をケアしないし、彼女の話を聞かない。信用できる大人が一切いないのだ。母親が死んだ時に彼女を気遣う大人はいるが、一方的なものであり彼女に気持ちは届かない。ムシェットはほとんどしゃべらないのだが、自分の話をまともに聞こうとする人がいないから喋らないのだ。彼女の心がこの世からどんどん離れていくのもしょうがないと思えてくる。原作者のベルノナスはカトリックの作家として知られているそうだが、本作はむしろ神の不在を感じさせるという所が面白い。悲惨さの質が宗教的なものとはちょっと違うように思ったのだが、これはブレッソンの特質なのだろうか。
 ムシェットを演じたノルティエの佇まいがとても良い。ムシェットは辛抱強いがいわゆる健気が少女というわけではなく、貧しさへの怒り、他の子供たちへの妬みや苛立ちを隠さない。ノルティエは不機嫌そうな表情、むっとした表情が似合う。ムシェットの靴と靴下に貧しさが象徴されているところがなんだかやりきれなかった。

少女ムシェット ロベール・ブレッソン [Blu-ray]
ナディーヌ・ノルティエ、ポール・エベール、マリア・カルディナール、ジャン=クロード・ギルベール、ジャン・ヴィムネ、マリーヌ・トリシェ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2017-06-30


田舎司祭の日記 [Blu-ray]
ニコル・ラドラミル
KADOKAWA / 角川書店
2019-07-05




『森の中に埋めた』

ネレ・ノイハウス著、酒寄進一訳
 キャンプ場でキャンピングトレーラーが爆発し、男性の焼死体が発見された。刑事オリヴァーとピアは捜査を開始するが、トレーラーの持ち主はオリヴァーの知人の母親だった。更に余命僅かだった彼女が何者かに絞殺される。更に殺人事件が起きるが、関係者はオリヴァーの知り合いばかりだった。オリヴァーは少年時代の忌まわしい事件を思い出す。
 オリヴァー&ピアシリーズの新作だが、多分今までで一番ボリュームがある。そして登場人物一覧が長い!更に各一族の家系図付き!人が多いよ!読んでいる間もこの人だれだっけ?と何度も確認しなおしてしまった。今回の事件は、オリヴァーが幼いころから暮らしてきたルッペルツハイン村の人間関係に深く根差し、オリヴァーは子供時代からの知り合いたちとの記憶に苦しむ。幼馴染という言葉だと何となく微笑ましいし、幼いころからの友人というとちょっと憧れる向きもあるだろう。でも実際のところ幼馴染なんてろくなもんじゃないぞ!子供の頃の人間関係を引きずるのは最悪だぞ!という割と身もふたもない話だ。そして相互監視状態にあり人間関係のしがらみがきつい村社会の怖さをひしひしと感じた。
 事件の発端は極めて利己的かつ対して思慮深くもない行動なのに、ここまで事態がこじれてしまった、誰も彼も巻き込まれてしまったという所は悪夢的でもあるが、人間のしょうもなさが露呈しているということでもある。また親の身勝手の犠牲になる子供たちが複数登場するが、本作を貫いているのは大人の利己心だ。


生者と死者に告ぐ (創元推理文庫)
ネレ・ノイハウス
東京創元社
2019-10-30



『ラスト・ストーリーズ』

ウィリアム・トレヴァー著、栩木伸明訳
 センスはあるが手癖の悪い少年にレッスンするミス・ナイチンゲール(「ピアノ教師の生徒」)、かつて友人同士だったがある出来事により決別した2人の女性(「カフェ・ダライアで」)、記憶障害をもった絵画修復士と娼婦が出会う(「ジョットの天使たち」)。人の生の陰影を繊細に描く10篇を収録した著者最後の作品集。
 トレヴァーの作品、ことに短編は当たりはずれが少なく常に一定のクオリティを維持しているという印象があるが、この作品集も同様。どの作品も人生の日陰の部分に触れるような、ひやっとした手触りで油断できない。ちょっといい話になるのかと思いきや、放り出されるような心もとなさが漂う。本作に収録された作品にはしばしば、最初の章で「男/女」など漠然とした呼称で表されていた人物が、次の章では固有名詞を与えられ、さっきのあの人物はこの人のことだったのか、と腑に落ちるという構造が使われている。起きている事柄のあちら側とこちら側、複数の面が見えてきて全体像が浮かび上がってくるという、それゆえにそれぞれの側からの誤解やすれ違いも露わになる。この構造の完成度が特に高いのが「ミセス・クラスソープ」だろう。彼女がどういう人だったのか、周囲が思いをはせるのは彼女が消えてからなのだが。いなくなって初めてその人のことを考えるというと、「身元不明の娘」も同様だろう。こちらはもっと痛ましいシチュエーションだが、ろくに知らない相手に対して痛ましいと思うのはおこがましいのではという思いにもなる。
 個人的に好きな作品は「冬の牧歌」。ベタなラブロマンスが展開しそうなところ、どんどん温度が下がっていく。男女の心が離れていく様と同時に、ある場所でしか成立しない感情・関係の儚さとそれ故の忘れ難さが印象に残った。風景描写がとても美しく、確かにこの場所でならそういう気持ちになるか…という説得力がある。また「女たち」は少女と中年女性2人との、はっきりしているようなしていないような関係性のぼかし方でどこか不穏。女子学生たちのやり取り(あの本はつまらなかった、これは面白かったんなど)が生き生きしていているのも楽しい。

ラスト・ストーリーズ
トレヴァー,ウィリアム
国書刊行会
2020-08-09


アイルランド・ストーリーズ
ウィリアム・トレヴァー
国書刊行会
2010-08-27




『アウステルリッツ』

 ベルリン郊外で、バカンス中と思しき老若男女が大勢門をくぐっていく。様々な言語が飛び交い、スマホであたりを撮影したり、芝生でスナックをかじったりと楽し気だ。ここは第二次世界大戦中にホロコーストで大勢のユダヤ人が虐殺されたザクセンハウゼン収容所の跡地。監督はセルゲイ・ロズニツァ。2016年の作品。「群衆」三部作のうちの一作にあたる。
 人類の負の歴史の記念碑を社会で共有し、未来へつなげる試みとして実施されるようになったダークツーリズム。ザクセンハウゼン収容所が記念館として見学者を受け入れているのもこの一環ということになる。しかし、現地を訪れる人たちの様子を見ていると、ダークツーリズムからダークが抜け落ち、ただのツーリズム、観光になっているように思えた。単に見学する、単に写真を撮るという為だけの観光で、その歴史的背景やどういう思想に基づきこのような施設が作られたのか、それが現代にどのように繋がっているのかという流れについては、「観光」の中に含まれない。音声ガイド等を使っている人たちの姿も多く見られるのだが、この人たちがどういうスタンスでこの場に来たのかはわからない。背景を知っていたら、この場で無邪気に写真を撮るというのはためらわれそうな気がするが…。
 とは言え、悲惨な歴史の遺物だから神妙な顔をして見学しろ、ちゃんと勉強してから見学に来いというのも違うだろう。そういう人にも興味を持ってもらうためにダークツーリズムがあるのだろうし、結果興味を持てなかったとしてもそのことで云々言うのもおかしい。見れば見るほど非常にもやもやする情景なのだ。
 「群衆三部作」というだけあって、本作で映し出されるのはとにかく人。見学者の人々を延々と映し続ける。あまりに人が多くてちょっとひく(一大観光地化されすぎている)のだが、ダーク「ツーリズム」としてしまった以上、こうなることは免れない、むしろこれだけ人が来れば大成功と言えるのかもしれない。ただ、現地のガイドたちの解説の内容はちょっと気になった。本作、その場でどういう言葉が飛び交っているのか、字幕はほぼない。唯一翻訳されているのが様々なガイドによる解説だ。言語は様々なのだが、これは私が教わったり本で読んだりした内容とはちょっと違うのでは…?という部分もあった。すごく省略しているとか経年により研究が進んだとかもあるのかもしれないが、少々ガイドの「俺史観」になっていないか?面白感出そうとしすぎていないか?と気になった。映画『否定と肯定』で出てきた話と同じ流れもあったので…。

アウステルリッツ(新装版)
W・G・ゼーバルト
白水社
2020-02-29


否定と肯定 (字幕版)
ジャック・ロウデン
2018-06-20




『天使 L'ANGE』

 宙づりになった人形を剣で突く男、ミルクの入った水差しを運ぶ女と、机から落下する水差し。階段の暗がりには何かが潜んでいる気配があり、図書館では司書たちが資料探しに奔走する。様々なイメージが美しく怪しい光景に構成されていく。1982年製作、監督はパトリック・ボカノウスキー。
 公開された当時は『アンダルシアの犬』の再来、全く新しいアヴァンギャルド映画として評判になったそうだ。当時としては相当実験的な作品だったのだろうが、今見るとむしろ、実験性よりも強烈な美意識に貫かれた作品であるように思った。ショットの一つ一つが独立した絵として成立しそうな完成度で強烈だ。監督のパートナーで現代音楽家であるミシェール・ボカノウスキーによる音楽も、この映像には正にこの音楽でないと、というハマり方だった。音楽が映像の神秘性を高めている。
 映画はコマの連続で構成されているというフィルムの性質を強く意識させる作品だった。コマとコマの連続の仕方、コマからコマへの移動のスピードが変わると光景が変わる。落下する水差しの軌道がコマの連続として可視化され、同じオブジェクト、同じ動きもカメラの向きやライティングによって印象が全く変わってくる。様々な形で「見せる」と同時に、見えないが何かがそこにあるという雰囲気を纏っている所が本作の魅力。コマとコマの間に何かが漂っているのではという、可視化できない部分の味わいがある。
 幻想的な映像作品で知られるクエイ兄弟が影響を受けた映画の一つが本作だそうだが、見て納得。影と光を駆使したライティングにより「見えない」ものをイメージさせる方向性もだが、空間の使い方はかなり参考にしているのではないかと思った。クエイ兄弟の作品で使われたセットの実物を見ると、意外と小さい。フィルムの中では実物以上の奥行、広がりを感じられるのだ。本作も同様で、同じ場所を撮っているのに広くも狭くも見える。もちろん意図的に撮り方を変えているのだろうが、カメラの位置やライティングを変えることで空間のコントロールができるんだなと実感した。

天使/海辺にて [DVD]
パトリック・ボカノフスキー
アイ・ヴィ・シー
2006-02-24




『国葬』

 1953年3月5日、スターリンの死がソビエト全土に報じられ、各地で大々的な追悼集会が執り行われた。国葬の様子を捉えた大量のアーカイヴ・フィルムから67年の時を越え構成した記録映画。監督はセルゲイ・ロズニツァ。
 ロズニツァ監督による「群衆」三部作のうちの一作。監督の作品は各映画祭で高い評価を得てきたそうだが、日本での劇場公開は初。本作が製作されたのは2019年だが、フィルムに映されているのは1953年当時の映像で、何だか不思議だ。現在の視点から当時の歴史的イベントを眺めるということになる。映画を見ている私たちはスターリンがどういうことをやった人で、歴史的にどのような位置づけ、評価をされたのか知っている(ただロズニツァ監督によると、ロシアでは現在でもスターリンの評価が定まっておらず、近年なぜかスターリンブームが再燃しているのだとか。謎だ…)。そういう視点で本作を見るとかなり不気味でもある。大粛清として多数の国民を死に追いやった独裁者がこのように追悼されるのか、追悼式に臨んだ国民は皆本気で悼み泣いているのだろうかと何とも言えない気になる。
 本作は「群衆三部作」であり、カメラは出席している当時の政府や海外の高官たち(あーこの後ほどなくして死ぬんだよなという人も…)も映すが、主眼はあくまで群衆、無数の国民たちに置かれる。スターリンの遺体が公開され大勢の国民がそれを「見に」来たという史実は知っていたが、ここまで大勢が押しかけていたとは…。そして当時様々な民族を配下に収めていたソ連の各地で同じようなイベントが一斉に行われていたというのも初めて知った。とにかく人、人、人!人の多さが暴力的な域に達している。私が人の顔を見続けるのが苦手というのもあるだろうが、数の暴力というものがあるんだなと実感する。そして、これだけの数の人間に各地で同じ行動をさせることができるというのが、独裁者の権力というものなんだろうと。量=ソ連という国家の一つの側面だったのかと実感する。
 そして、カメラが映しているのはあくまで見た目、情景だ。映し出される個々の人達が何を考え、どのような経緯をもってその場に臨んでいるのかはわからない。映像は表層的なものであるということを再確認する作品でもあった。内面がにじみ出ているショットとかついつい言ってしまうが、それは見る側(ないしは映像を編集した側)が勝手にそう解釈しているだけなんだよな。

スターリンの葬送狂騒曲(字幕版)
ジェイソン・アイザックス
2019-02-02




『アレックスと私』

アイリーン・M・ペパーバーグ著、佐柳信男訳
 鳥類のコミュニケーション・言語の研究者である著者は、1羽のヨウム相手の実験を始める。そのヨウム・アレックスは50の物体の名前、7つの色、5つの形、8つまでの数を学習した。著者との二人三脚で研究に多大な功績を残したアレックスとの道のりを記したノンフィクション。
 ヨウムが賢い、かつ音を発する能力(鳴き声のバリエーションの使い方)が高いというのは知っていたが、人間とのコミュニケーションをここまで出来るとは。ヨウムは大体人間の5歳児くらいの知能があるそうだ。人間の言語を教えていく訓練の組み立て方からは、人間の子供がどのように言語を獲得していくのかという過程もわかり、鳥類の知能に関する研究という側面だけでなく、言語学の側面からもとても面白い。訓練に飽きてしまうアレックスと著者たちの攻防や、アレックスの我儘に翻弄される様はユーモラスだが、ここまで(意固地になったり嫉妬したりはもちろん、これは人間をからかっているのでは?という行動まで)鳥と人間がコミュニケーションできる、それを立証できたということには感動する。鳥の情緒や思考は人間とは別物という認識を著者は持っているが、それであっても意思疎通は出来るし、人間と通じ合う情緒のようなものがある。
 一方で、科学の世界の意外なコンサバさ(当時、動物に独自の言語能力、知能があるという説自体大変バッシングを受けたとか)や女性研究者に対する偏見、不当な低い評価など、著者が戦わなければならなかったものの多さが随所でわかる。何より予算と研究室の確保に汲々としている様は、研究職の方なら涙なしには読めないのでは…。著者はアレックス財団を作りそこから捻出するようになったそうだが、それでも相当大変そう。研究ってお金かかるんですよね…研究者が裕福だなどというのは幻想…。

アレックスと私 (ハヤカワ文庫NF)
アイリーン M ペパーバーグ
早川書房
2020-10-01


フクロウのいる部屋
高木 尋士
集英社インターナショナル
2013-04-26


『パピチャ 未来へのランウェイ』

 1990年代、アルジェリアの首都アルジェ。大学生のネジュマ(リナ・クードリ)はファッションデザイナーを目指し、ナイトクラブのトイレで自作のドレスを売っている。しかしイスラム原理主義が台頭してテロが多発し、女性にヒジャブ着用を強要するポスターがそこら中に貼られるようになる。イスラム原理主義グループはやがて大学寮にまで乗り込んでくる。自分たちの自由の為、ネジュマは命がけでファッションショーを行おうとする。監督はムニア・メドゥール。
 90年代のアルジェリアがこのような状況にあったとは、恥ずかしながらよく知らなかった。本国では上映中止されたり、製作側が政府からの圧力があったと訴えたりで大変だったそうだが、すごく勢いのある快作。ただ、快作と言うには彼女らの戦いが現在進行形すぎて辛いのだが…。ネジュマらが直面している問題は、当時のアルジェリアに限ったことではなく、いまだに世界のあちこち(ことに日本では)で散見されることだと思う。
 はつらつとした女性たちの青春が映されるのだが、中盤で衝撃的な展開があり愕然とした。映画を見ている側にとってもネジュマにとっても、自分が生きている世界はこのようなところになってしまったということを突き付けてくる。邦題のサブタイトルは「未来へのランウェイ」だが、キラキラしたものではなく、文字通り生きるか死ぬか、自分固有の生を守る為の戦いなのだ。彼女らが立ち向かうものはあまりに理不尽で、ラストからの「その先」も前途多難だろう。
 ネジュマや友人が男性から向けられる視線、言葉はかなり偏見に満ちているのだが、今の日本でも見聞きするシチュエーション、言葉なので暗澹たる気分になった。「男の目をひく(から露出の大きい服を着るな)」という言い方、いまだに根深い(それは見る側の問題であり女性側にどうこう言うことではないだろう)。また、最初はネジュマの独立心に理解がある風だったボーイフレンドが、その「理解」はネジュマが彼の価値観の範疇に収まっている間だけのものだったと露呈するのにもがっくりくる。まあこういう人多いですよね…。

少女は自転車にのって [DVD]
ワアド・ムハンマド
アルバトロス
2014-07-02


裸足の季節(字幕版)
アイベルク・ペキジャン
2016-12-14


『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来』

 黒猫の妖精・小黒(シャオヘイ)(花澤香菜)は、人間が森を伐採した為に住み家を追われ、あちこちを放浪していた。妖精の風息(フーシー)(櫻井孝宏)に出会い自分の居場所を得たと安堵するものの、、人間の「執行人」無限(ムゲン)(宮野真守)が現れる。中国で2011年から配信されていた『羅小黒戦記』の劇場版として2019年に制作された。監督・脚本はMTJJ。
 当初、口コミで評判が広がったが上映規が小さく、残念ながら字幕版を見ることはできなかった。今回、日本語吹き替え版としてそこそこの規模で上映されたのでようやく見ることができたのだが、これは吹替え大勝利なのでは。豪華かつ手堅いキャスティングですごく楽しかった。花澤さん、立派になって…。
 中国のアニメーションというと、少し前まではデザインや演出が若干野暮ったいというイメージがあったのだが、本作は相当洗練されている。猫型シャオヘイのデザインがちょっと苦手で(目がものすごく大きい)見るのをためらっていたところもあったのだが、動くと正に猫!という柔らかさしなやかさで大変可愛らしい。またフーシーやムゲン、他の妖精たちのデザインもやりすぎず足らなすぎずの匙加減で、魅力がある。デザインは全般的にすっきり目で、動画のカロリーの高さとバランスをとっているように思った。デザイン上、性的な要素が少なめなのも(中国での上映上の条件や対象年齢などの関係もあるだろうが)見やすかった。
 評判通りアクション作画が凄まじい。動体視力が試される速さと強さ(作画が強い、というと変な言い方だが揺らぎ・ブレみたいなものが少なくムラがないように思う)。しかしキャラクターの演技やアニメーションとしての演出自体は日本のアニメーションで見慣れたものだ。日本の観客にとっては違和感なくとっつきやすいが、ここまでクオリティ高く同じ路線で作られると、日本のアニメーション関係者は戦々恐々だろう。差別化している要素がなくなりつつある、かつあっちには圧倒的に資本がありそうだから…。
 本作、作画の良さが評判になったが、何よりストーリーがオーソドックスに面白い、奇をてらわないことをちゃんとやっている、という点が良かった。新しいことは特にやっていないのだが瑞々しい。こういう、お約束事や独自の文法を踏まえていなくても見られるという部分が日本のアニメーションは弱くなっているのではないか。また、ファンタジックではない部分、人間の町やそこに住む人たちの様子がこまやかに書き込まれている、その「場」の魅力を作っているところも魅力だった。


AKIRA
神藤一弘
2020-05-01




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