3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2020年08月

『アメリカの影』

 黒人の血を引いたヒュー(ヒュー。ハード)、レリア(レリア・ゴルドーニ)、ベン(ベン・カルーザス)の兄妹を中心に、マンハッタンに暮らす若者たちの姿を描いた群像劇。シナリオなしの即興演出で、映画の新たな方向性を確立したと言われる作品。監督はジョン・カサヴェテス。本作が長編デビュー作。1959年製作。
 ヒューは歌手だが段々仕事がなくなっているようで、ストリップショーの司会をやらされるようになり、納得がいかない。歌手であるというプライドを損なわれることに強い怒りを抱き、仕事をとってくるマネージャーにも八つ当たり気味だ。レリアは作家志望でビート族の若者たちとつるんでいるが今一つ馴染めない。ベンは一応ミュージシャン(トランぺッター)らしいが働いている様子はほとんどなく、酒に溺れ気味で不安定だ。彼・彼女らの行動は騒々しく刹那的で「今」を生きている感じが強烈だ。動きも感情表現も騒々しく、エネルギーを持て余しているようにも見える。
 ただ、「今」が火花のようにはじけるほど、その先の未来に期待できないという閉塞感も強まってくる。今を生きる、というよりもとりあえず今しかないから生きる、という感じだ。ベンがバーで絡んできた相手に喧嘩をふっかけるのも、絡まれてきたから喧嘩するのではなく、喧嘩をする為に絡んでいるように見えた。何か爆発させないとやっていられないという哀しさがある。
 3兄妹は黒人の血を引いているが、レリアは見た目はほぼ白人だ。親しくなった青年が彼女に黒人の兄弟がいると知ってたじろぐ。後から「君と僕は同じだ」という伝言をレリアに残すが、取ってつけたようで空しい。理念としては確かにそうなんだけど、じゃあ彼と同じ位置にレリア達が立てるのかというと、そうではない。彼が「同じだ」と言えるのは自分が守られた、強い立場だからで、そこに無自覚なことにレリア達は苛立つのだろう。
 ほぼ俳優の即興で台詞や演技は考えられているそうなので、彼らが生きている時代・場所がダイレクトに反映されている。しかし時代性に頼らず、時代を経た後に鑑賞してもそれが生き生きと感じられるという所が、本作の強さだ。

アメリカの影 2014年HDリマスター版 [DVD]
ヒュー・ハード
キングレコード
2018-08-08


ザ・フィフティーズ1: 1950年代アメリカの光と影 (ちくま文庫)
デイヴィッド ハルバースタム
筑摩書房
2015-08-06


『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』

 勉強一筋に打ち込み名門大学への進学を決めたモリー(ケイトリン・デヴァー)とエイミー(ビーニー・フェルドスタイン)は、パーティー三昧だった同級生たちもハイレベルな進学先を決めていることを知り愕然とする。卒業前夜、失った高校生活を取り戻すべく同級生のパーティーに乗り込もうとするが。監督はオリヴィア・ワイルド。
 アメリカの学園コメディのテンプレートを現代的に諸々アレンジした作品なのだろうが、評判ほどの新鮮さ、革新度は感じなかった。確かに高校生たちはルーツや趣味嗜好セクシャリティが様々だし、エイミーは同性愛者であることをカミングアウトしているが同級生も両親もそこを取り立てていじることはない。もうそこは特別なことじゃないよ、という共通認識がある。モリーとエイミーの「女子同士」のやりとりも「女子」性を強調したものではなく、フラットな描き方になっている(「何すか?!」といった字幕の台詞翻訳もよかった)。ただ、同級生たちの造形は多様だけど、ひとつひとつはステレオタイプ的で、チャラそうなやつが実は優秀という見せ方も古典的。表層的なブラッシュアップにとどまっており、作品の構造自体はむしろコンサバな学園ドラマのままなように思った。ボンクラ男子の女子版というだけ新しくはならないんだな…。モリーは自分が多面的で「面白い」と知ってほしい!と主張するが、彼女自身が同級生らの多面性、「面白さ」に目を向けていなかったと気付くという流れは悪くないんだけど。
 何よりひっかかった、ちょっと古いなと思ったのは、モリーとエイミーが自分たちの高校生活はつまらないものだった、「楽しい高校生活=パーティー等で仲間とはしゃぎまくること」と思ってしまうことだ。彼女らは確かに勉強一筋だったが、そもそも元から勉強熱心な人たちだ。そして2人の間ではバカ騒ぎも悪ノリもある。好きなことを一生懸命やったわけで、だったらわざわざ卒業間際になってわかりやすい「パーティー」をやることもないのではないか。彼女らにパーティーに行かなくてはと思わせるものは何なのかという所に切り込んでいかないと、新しさは感じられないのではと思った。「楽しい学園生活」の概念自体が変わらないとだめなんじゃないだろうか。
 なお、自分はアメリカのコメディ、特に学園コメディはやっぱり苦手なんだなと実感した。下ネタ必須みたいなノリが笑えないんだよな…。モリーもエイミーのプライベートに踏み込みすぎで、こういうのが親友と言う関係なら親友いらないわと思ってしまった。

22ジャンプストリート (字幕版)
アイス・キューブ
2015-03-04


ゴーストワールド [DVD]
ブラッド・レンフロ
角川映画
2009-06-19





『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』

カロリン・エムケ著、浅井晶子訳
 暴力を受けた被害者は自分の体験を話すことが難しい。暴力はその人と世界との「こうあるはず」という約束事を壊してしまうので、自分に何が起きたのか認識し表現できるようになるまでに時間がかかるのだ。語ること、聞くこと、聞いたことを伝えることについて著者が考えたエッセイ集。
 序盤の、暴力被害について被害者は言語化できるまでに時間がかかるという話は、ホロコーストで、戦地で、また災害による暴力に関連して語られるが、最近(ずっと以前からある問題だけど)の問題としては性犯罪被害の際の証言のしにくさや二次被害を連想した。著者のいう語りにくさには当然そういった被害によるものも含んでいる。被害者が暴力について語るとき、直接的に語ることはできない。途中で脇道にそれたり、何か定期的に障害が挿入されたりする。あまりに辛い故に、あったそのままを言語化することはできず、すこしずつずらしながら、何回もリトライをしてというような婉曲的な語りになる。その語りに証言としての信憑性はあるのか?と問う人もいるが、被害者が語れるのかどうかは、聞く側がそれを聞く態勢を取れているかどうかにもかかっている。被害者が世界との関係を取り戻すには、聞き手の誠実さ、他者への想像力に基づく真剣さが必要だ。まともに聞く人がいてこそ語れるという、相互関係がある。語れなさを語り手の責任にするのは筋が違うのだ。
 今まさに進行形の問題にかかわる文章が随所にあるのだが、特に今の日本では「リベラルな人種差別」「民主主義という挑戦」は必読ではないかと思う。


憎しみに抗って――不純なものへの賛歌
カロリン・エムケ
みすず書房
2018-03-16


『ぶあいそうな手紙』

 ブラジル南部の町、ポルトアレグレに暮らすエルネスト(ホルヘ・ボラーニ)は妻に先立たれ一人暮らし。78歳になり目はほとんど見えなくなったが、息子の元に身を寄せる気にもなれず自宅のアパート売却にも消極的。ある日、昔の女友達から手紙が届いた。エルネストはたまたま知り合った若い女性ビア(ガブリエラ・ポエステル)に手紙の朗読と口述筆記を頼む。監督はアナ・ルイーザ・アゼヴェード。
 見ず知らずの相手、かつ実は少々手癖が悪いビアを自宅に招き入れるとは、エルネストは少々不用心すぎないか?と思いきや、彼女を全面的に信用していたわけではないという「テスト」のエピソードが挿入される。まあ可愛らしいものなのだが、このエピソードがあることでファンタジー度合いが少々下がり、それぞれの事情がある人対人の物語に見えてきた。基本善人たちの話でほんわか寄りではあるが、ほんわかに寄せすぎず、人生の寂しさほろ苦さも織り交ぜバランスを取っていると思う。
 DV男と付き合っているビアは、孤独だと誰でもいいから側にいてほしくなってしまうのだとエルネストに言う。エルネストは自分は孤独を感じたことはないと言うのだが、これは彼が全く孤独ではない(孤独を感じない)ということではなく、孤独であっても大丈夫だということではないか。エルネストには旧友たちとの関係や亡き妻や隣人と積み重ねてきた時間がある。今一緒にいないとしても関係性のバックアップがあるのだ。そういう人は孤独にさいなまれにくく、安易な関係に飛びつきにくいのかなと。ビアは家族とも疎遠らしいので、長期的に安定した信頼関係が持てなかったのだろう。
 エルネストとビアは友人に、親子のようになっていく。エルネストが少々浮かれている描写はあるものの、恋愛ではなく広義の愛であるところがいい。2人に必要だったのは信頼と友愛によってお互いの世界を広げることだ。そもそもエルネストは過去に思い残しがあるし、恋愛は同年代とした方がいいというラストでもあるな。
 また、エルネストとビアのある意味わかりやすい交流よりも、隣人との腐れ縁的なやりとりの方が、高齢者の友情の在り方として心に染みる。立ち入りすぎず、具体的に何かを残しあうわけではないが、どうということのない時間の積み重ねによって残るものがあるのだ。別れ際のあっさりとした様もまた染みる。

ウィスキー [DVD]
ホルヘ・ボラーニ
アミューズソフトエンタテインメント
2005-10-28


ラッキー(字幕版)
ロン・リビングストン
2018-12-05


 

『もう終わりにしよう』

イアン・リード著、坂本あおい訳
 わたしは付き合ってそれほど経っていないジェイクと、彼の両親が住む農場へ向かっている。しかしわたしは2人の関係は終わりにしたいと彼に言い出せずにいた。わたしの携帯電話には正体不明の男からの着信が入り続けている。男は「答えを出すべき問いは、ただひとつ」というメッセージを残していた。
 多分、読み始めから読者が想像する話とは大分違う方向にぶん投げられていくのでは。帯の文句「ひとりより、ふたり。そのはずだった」という言葉の意味はそういうことだったのか…。これは出版社が上手いことやったなー。思わせぶりな対話パートも読み終わるとそういうふうに活きてくるのか!と納得。逆に言うと、読んでいる間はどういう活かされ方をするのか今一つわからない(というよりもそういうわからせ方は狙っていない)作品ではある。冒頭から不穏ではあるのだが、不穏さの種類がいつのまにか変わってしまうのだ。予備知識ないまま読むことをお勧めする。
 家族であっても恋人であっても他人は他人で、実際の所相手が何を考えているのか、何者なのかは完全にはわからない。しかし、しかし「それ」であってもそんなにもわからないのかという(ネタバレになるので、歯に物が挟まったような言い方になっていますが)寂寥感が漂う。読む人によってはなんだよこれ!とか笑っちゃったりするかもしれないオチだけど…。


13のショック (異色作家短篇集)
リチャード マシスン
早川書房
2005-11T


『死んだレモン』

フィン・ベル著、足立眞弓訳
 フィン・ベルはニュージーランドの南の断崖で、車いすごと宙づりになっていた。ことの起こりは「数カ月前。酒におぼれた末、交通事故で車いす生活になり、妻とも別れたフィンは、田舎町にコテージを買い移り住んだ。26年前、コテージの前の持ち主の娘が行方不明になるという未解決事件が起きていた。隣にすむ三兄弟の関与を疑ったフィンは、当時のことを調べ始めたのだが。
 出版元(東京創元社)がやたらと持ち上げるし各所絶賛!とぶち上げてくるので逆に疑いの目で見てしまっていたのだが、確かに面白い。私はいわゆるノンストップサスペンスが苦手なのだが、本作はそれとはちょっと違う。帯の「1ページ目から主人公が絶体絶命!」という文句は確かにその通りなのだが、本作の面白さのポイントはそこではないのだ。フィンがこういう状況に至るまでの数か月間をカウントダウンのように描いていくが、意外と早い段階で伏線が張られていたり、後から振り返るとなるほどなというミスリードが設定されていたりと、ミステリとしては勢い任せではなく結構きちんと展開している。また、ニュージーランドの風土や歴史にまつわる要素が多く盛り込まれていて、ご当地ミステリ的な面白さも。恥ずかしながらアフリカ系移民が多い(というかそもそも移民が多い)ことを初めて知りました。
 本作には非常に悪い奴らが出てくるが、悪の在り方が興味深い。社会の枠組みの上にある悪と、それを全く無視した俺ルールの悪があるのだ。どちらもお近づきにはなりたくないが、社会的な損得概念を持たない悪の方が厄介かな。

死んだレモン (創元推理文庫)
フィン・ベル
東京創元社
2020-07-30


アニマル・キングダム [DVD]
ルーク・フォード
トランスフォーマー
2012-09-07




『フライデー・ブラック』

ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー著、押野素子訳
 文字通り戦場となるブラックフライデーに、モールに押し寄せる魍魎のような客を次々とさばき衣料品を売りさばく「俺」(「フライデー・ブラック」)。体験型テーマパークのキャストとして毎日プレイヤーに殺される役の男の葛藤(「ジマー・ランド」)。男無差別殺人に走った加害者と被害者が、死後に新たな惨事を防ごうとする(「ライト・スピッター 光を吐く者」)。角度を変えて見た日常の奇妙さ・理不尽を描く短編集。
 各方面から絶賛されたというのも納得。「今」読まれるべき作品だろう。収録された作品のほとんどが何らかの暴力を描いている。「ジマー・ランド」は正義という名の暴力で遊ぶテーマパークの世界だし、「ライト・スピッター」は殺人事件。また「旧時代<ジ・エラ>」は建前や平等さへの配慮がなくなった弱肉強食世界の暴力性を描く。「ライオンと蜘蛛」では家庭内のボスとしての父親の支配的な暴力性(物理的な暴力でないにしろ)が垣間見えた。そして「フライデー・ブラック」「アイスキングが伝授する「ジャケットの売り方」」「小売業界で生きる秘訣」のモールシリーズとでも言いたくなる連作では、消費欲を駆り立て従業員同士の競争意識を煽る、しかしどんなに売り上げても従業員への見返りはわずかという資本主義の暴力性が見える。ここに登場する客たちはもはやお買い物ゾンビと化しており、特に「フライデー・ブラック」のスプラッタさには笑ってしまった。しかもモールに集まる客たちはブラックフライデーでしか買えない(富裕層はそもそもブラックフライデーを利用する必要ないもんね…)所得水準で、それゆえ必死であるというところに、更に残酷さを感じる。
 また、アフリカ系アメリカ人として生活するということは、どういう視線にさらされることなのか、はっとする作品も。冒頭に収録された「フィンケルスティーン5<ファイヴ>」は、黒人の少年少女が白人男性に「自衛」の為に殺害された事件と、それに対する世間の反応、そして黒人であるエマニュエルの行動を描く。エマニュエルが「ブラックネス(黒人らしさ)」を上げたり下げたりする様はユーモラスであると同時に、そういう行為を強いられる(なぜオフィシャルな場では「ブラックネス」を下げないとならないのか?)という不均等、気持ち悪さを感じさせる。ふと気づくと世界は奇妙でグロテスクなのだ。

フライデー・ブラック
ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー
駒草出版
2020-02-03


地下鉄道 (早川書房)
コルソン ホワイトヘッド
早川書房
2017-12-15


『第五の季節』

N・K・ジェミシン著、小野田和子訳
 数百年ごとに「第五の季節」と呼ばれる天変地異が起こり、文明を滅ぼしてきた世界。地球と通じ干渉する力を持つ「オロジェン」と呼ばれる人々は、その能力故に施政者に管理され、人々から差別されてきた。また大陸に「第五の季節」が近づく中、自分を同じくオロジェンである幼い息子を夫に殺され、娘を連れ去られたエッスンは旅に出る。
 冒頭からいきなり、これは誰が誰に向けた語りなのか、中心となる3人の人物それぞれのエピソードに関連性はあるのか、また独特の名称や用語(巻末に年表と用語集あり)等、文章の流れに乗っていく・どういう構造になっているのか把握していくのに少々難儀した。しかしある文明の興隆と滅亡を描いていく作品としてはとても面白い。作中、文明世界は滅亡の兆しを迎える。それは地球環境の変動によるものでもあるが、同時に人類の文明が積み重ねてきた数々の行為によって導き出されたものでもある。本編前に「ほかの誰もが無条件で受けている敬意を、戦い取らねばならない人々に」という一文が置かれている。正にそういう話なのだ。オロジェンたちのおかれた立場、彼らに向けられる世間の目は、読者が生きる現代にも未だ様々な形で存在するものだ。これらの上に築き上げられた社会システム、文明の中で生きていることとどう向きあえばいいのか、それは許されることなのか。三部作の一作目だそうで、続きが大変気になる(日本での出版は決まっているようなのでほっとしました)。

第五の季節 〈破壊された地球〉 (創元SF文庫)
N・K・ジェミシン
東京創元社
2020-06-12


所有せざる人々 (ハヤカワ文庫SF)
アーシュラ・K・ル・グィン
早川書房
1986-07-01



『ポルトガル、夏の終わり』

 女優のフランキー(イザベル・ユペール)はポルトガルのリゾート地シントラに家族を呼び寄せる。がんの進行が発覚し、自分がいなくなった後のことを考え、余命宣告家族や友人に良かれと思って色々と采配していたのだ。しかし家族らにもそれぞれの事情があった。監督はアイラ・サックス。
 森、山、町、海と緩急に富んだシントラの風景が美しい。目に映るものはまぶしくキラキラしているが、少し寂しい。この味わいが夏休みぽかった。家族親族が集まって、まあ楽しいことは楽しいけど表面上取り繕った感が否めない所も、また夏休み感を強める。。夏休みってこんな感触だったという記憶が呼び起こされる。
 フランキーは自身のことであれ周囲の人間関係であれ、何でも自分の思い通りにコントロールしたがるし、それを実践してきた人だということが窺える。とは言えそこに悪意はなく、家族を自分の友人と息子とがお似合いだからと引き合わせようとする(夫にたしなめられるが)のも、自分が良かれと思ってのことだ。周囲の人間からすると、それぞれ事情ががあるし別の人格なんだから勘弁してほしいという所だろうが。フランキーは何でも一方的に決めてしまうので、周囲は振り回されてしまう。そんな彼女が、一番コントロールしたいであろう自分の体については力が及ばないというのが皮肉だ。
 とは言え、周囲の人たちもフランキーの思惑通りには動かない。家族とは言えそれぞれ別個の人格で他人である、ということが痛感される。本作中では「あなたと同じ考え」という関係性は描かれない。愛し合う夫婦でも親子でも友人でも、考えていることは別でそれが当たり前だ。愛の有無は関係ない。この手のストーリーだとばらばらだった家族が関係を構築しなおすというのが一つのセオリーだが、本作では家族も恋人も他人、いずれは別れ行くものという諦念が底にある。クライマックスの夕暮れシーンはそれを象徴するもののように思った。

『ハニーボーイ』

 人気子役のオーティス(ノア・ジュプ)は“ステージパパ”の父親ジェームズ(シャイア・ラブーフ)とモーテル暮らし。ジェームズは時に感情を爆発させオーティスを混乱させる。演技の道に進もうとするオーティスは、ジェームズに「普通の父親」になってほしいと願うが。監督はアルマ・ハレル。
 成人しプロの俳優として活躍するオーティスが飲酒問題で療養施設に入れられる、という所から映画はスタートする。アバンとタイトル提示直後の流れ・演出があまりに退屈なので(ワイヤーつけてのアクションシーンの成長後/成長前の呼応などうまいことやってやったぜ感が出すぎていて、思っているほど面白くないですよ!と水を差したくなってしまう)どうなることかと思ったが、その後はまあまあ悪くない。こういう演出・構成にしようという意図の方が前に出てしまいかなり図式的で、演出意図が読み取りやすすぎて興ざめする所はあるのだが。
 この手の「至らない親」案件映画を見る度、愛情は免罪符にならないということをつくづく思う。ジェームズは彼なりにオーティスのことを愛し、可愛がって入る。機嫌のいい時には愉快な父親だとも言える。しかし子供を十分に守り、養育するという面では不備が多いと言わざるを得ない。撮影所に迎えに来ないジェームズをオーティスが待ち続ける姿には胸が痛くなる。困っていることを周囲の大人に言えないというところがまた辛いのだ。自分がケアされていないということを周囲に知られれば父親が苦境に立たされるし、自分自身も「かわいそうな子」と思われたくないのだろう。そういう状況がかえってオーティスの首を絞めていく。
 愛情は免罪符にならないというのは子供側においても同様で、どんなに親を愛していても離れた方がいい親というのはいる。なかなか諦められないから辛いんだけど…。コメディドラマでの演技に関する双方の意見不一致の様子など、ジェームズのずれ方が痛々しい域だし、ジェームズの感情的な言動や他の大人の関わりをかたくなに拒む態度は、一歩間違うと虐待やネグレクトになりかねないだろう。問題ある親に対して必要な態度は、許容や許しではなく諦めなのでは。

荒野にて(字幕版)
スティーヴ・ザーン
2019-09-03


フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法(字幕版)
ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ
2018-10-03


 
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