3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2020年06月

『消滅世界』

村田沙耶香著
 人工授精で子供を産むことが定着し、セックス自体が減少している世界。夫婦間のセックスは「近親相姦」としてタブー視されていた。両親が愛し合ったうえのセックスで生まれたと母親から教え込まれた雨音は、母親に嫌悪感を抱き続けてきた。夫との結婚生活は清潔で、夫以外の人間やキャラクターとの恋愛を重ねていくが、出産を計画し実験都市「楽園」に移住する。
 小説単体としては「こういう世界ですよ」という説明に偏りがちな書き割りっぽさがあり、『コンビニ人間』に比べると物足りなかった。とは言え、ディストピアかはたまたユートピアかという世界の造形は面白い。セックスと出産が切り離されている世界は女性にとってはある意味ユートピアだが、「楽園」のように全て一律に「子供ちゃん」「おかあさん」という役割をあてはめられるとディストピア感が一気に増す。雨音は人間の恋人もキャラクターの恋人(フィクション内の登場人物への思慕も一律に恋愛も途切れず、性愛志向も強い。かなりの恋愛体質と言えるのだが、「楽園」に移住した後、徐々に恋愛への欲求は減っていく。恋愛は極めて個人的なもので、一律に「おかあさん」をやる社会とは真逆ということなのか。
 恋愛はほぼ娯楽として扱われており必ずしもセックスを伴わないというのも、ユートピアと言えるのかもしれない。社会的なしがらみ、肉体のしがらみなく恋愛の楽しい所だけ味わえるのだから。ただ、恋愛というタスク自体はなくならないという所に、何かの限界みたいなものを感じた。雨音にしろ母親にしろ、人間は本来こういうものなはず、恋愛感情の伴うセックスは自然なものなはず、性愛は人間に欠かせず出産はセックスを経たものが自然なはず等々の考えをもっているが、本作で描かれるのはその「はず」のうつろう様、人間がいかようにも適応していく様だ。一見異端な雨音は実のところどこにいても「正常」だという反転が皮肉だ。

消滅世界 (河出文庫)
村田沙耶香
河出書房新社
2018-08-10


コンビニ人間 (文春文庫)
沙耶香, 村田
文藝春秋
2018-09-04


『ブルックリン・フォリーズ』

ポール・オースター著、柴田元幸訳
 60歳を前にし、がんを患い離婚して静かに晩年を過ごそうと決意したネイサンは、馴染みのあるブルックリンに戻ってきた。街の古本屋で甥のトムと再会し、古本屋店主のハリーに紹介される。更に予想外の出会いと出来事が生じ始める。
 ネイサンは自分の人生を振り返り、かつ暇を持て余して「人間愚行(フォリーズ)の書」を書いており、本著の題名はここからとられている。ネイサンは頭はいいが誘惑に弱く、かつ自分本位でちょいちょい「愚行」を行いがち。彼を取り巻く人々も決して聖人君子ではなく色々と難点が多く、それぞれ様々な愚行を犯している。しかしだからこそ愛すべき人たちなのだ。ネイサンは最初、かなりいけすかない、女性に対して手癖の悪い男(元妻や娘に対する態度は結構ひどいし、お気に入りのウェイトレスに対する振る舞いも悪意はないが考えなしだと思う)なのだが、生真面目な甥トムや、姪の娘ルーシーとの交流で、徐々に変化していく。愚者は愚者かもしれないが、自分のことだけでなく他人のことを思いやり、力になろうとしていくのだ。人間60手前になっても変われる、成長できるぞというほのかな希望が感じられる。
 ネイサンだけでなく、詐欺師の前歴があり色々とうさん臭く享楽的なハリーの、隠された思いやりと愛情にもほろりとさせられた。しかしアメリカ同時多発テロ事件への言及もあり、彼らの世界が読者の世界と地続きであり、この先起こる悲劇も示唆される。でも今この瞬間は幸福だ、ということの代えがたさと危うさを感じさせるラストだ。

ブルックリン・フォリーズ (新潮文庫)
オースター,ポール
新潮社
2020-05-28


サンセット・パーク
オースター,ポール
新潮社
2020-02-27




『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』

 南北戦争時代のアメリカ。父親が北軍兵として戦地に赴いているマーチ家には、しっかり者のメグ(エマ・ワトソン)、わんぱくで作家志望のジョー(シアーシャ・ローナン)、内気で音楽好きのベス(エリザ・スカンレン)、絵を描くことが得意でおしゃまなエイミー(フローレンス・ピュー)の4姉妹と、優しい母(ローラ・ダーン)が暮らしていた。女性の働き口が限られていた時代、ジョーは作家になる夢を諦めずに突き進む。原作はルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』。監督はグレタ・ガーヴィグ。
 ニューヨークで作家を目指し下宿生活を始めたジョーが、家族と暮らした頃を折に触れて思い出すという、時制を行き来する構成。かつ、これが「書かれた」物語であるということが示唆される構成になっていく。邦題の評判がすこぶる悪かった本作だが、この構造が見えてくると案外的を得たものだったのかなと思えた。「わたしの」とはジョーの体験としての物語であり、彼女が記した物語ということでもある。一部メタ構造になっているのだ。 
 そして「わたし」には、原作者オルコットも含まれるのではないか。ジョーが出版社で言われる「ヒロインが結婚しないと作品は売れない(人気が出ない)」という言葉は、原作者であるオルコットが実際に言われたことだそうだ。オルコット自身は生涯独身だったが、作品を売る為に自作の中ではジョーを結婚させた。作家としては不本意だっただろう。彼女が本来望んでいたであろう展開を取り入れつついかに原作小説に添わせるか、というアクロバティックな構造なのだ。原作に忠実(実際、びっくりするくらい原作エピソードが盛り込まれている)でありつつ現代に即した作品になっており、ガーヴィグはこんなに腕のある人だったかと唸った。古典は古典として素晴らしいが、それを今作るのならどうやるか、ということをよくよく考えられている。
 自分で働き生計を立てることや資産を持つことが難しかった当時の女性にとって、結婚は自分や家族の生活を守る為の手段だった(現代でも未だその側面が強いというのがまた辛いが)。作中で言及されるようにまさに「結婚は経済」なのだ。マーチ伯母(メリル・ストリープ)がメグの結婚を祝福せずジョーを見込みなしとするのは、そういった社会背景がある。彼女自身は独身のままだったが、「お金があるからいいのよ」というわけだ。彼女はエイミーに資産家と結婚して家族を支えるのがあなたの役目だという。一家の命運を背負わされてしまうエイミーが気の毒だった。彼女の子供時代はあの瞬間に終わったのだなと。
 本作、4姉妹皆魅力的なのだが、特にエイミーの造形が新鮮だった。過去の映像作品では少々わがままでおしゃれでおしゃまなキャラクターとして描かれることが多かったと思うが、本作でもそれは踏襲されている。ただ、本作のエイミーは良くも悪くも普通の少女だ。メグのような美貌も、ジョーのような独立心と才能も、ベスのような天使の心も持ってはいない。可愛らしく聡明で絵の才能はあるが、どれもあくまで「ほどほど」。普通の女性に残されている道は経済の為の結婚である、というのはなんとも息苦しくやるせない。フローレンス・ピューが演じているというのも非常に効果的だった。貴婦人ぶりになんとなく、これはこの人の本分ではないのではという雰囲気が出るのだ。エイミーが後々ジョーやローリー(ティモシー・シャラメ)よりも大人びていくのは、年齢を重ねて大人になったというよりも、社会通念に自分を適応せざるをえなかったからだと思う。そういう形での子供時代の終わりはちょっと悲しいのだ。
 ジョーとローリーのじゃれあい、一緒に遊び回る姿は本当に幸福そうだ。男性/女性がまだ未分化な時代だから成立する幸福だったというのが寂しくもある。本来は分化した後も成立するはずのものだが、当時の(多分現代も)社会はそれを許さない。いつか失われる幸福だからこそより強烈に目に映るのか。

レディ・バード (字幕版)
ティモシー・シャラメ
2018-09-20


若草物語 1&2
ルイザ・メイ・オルコット
講談社
2019-12-12


『ジョゼとピラール』

 EUフィルムデーズにて配信で鑑賞。ポルトガル語圏唯一のノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴと、彼のパートナーであるピラールを追ったドキュメンタリー。2010年製作、監督はミゲル・ゴンサルヴェス・メンデス。
 サラマーゴといえばパンデミック小説とも言える『白の闇』(映画化された『ブラインドネス』も佳作だった)、そして今年はサラマーゴ没後10周年。半分は予期せずだがタイムリーな作品になってしまった。本作は晩年、80代のサラマーゴの活動を追うが、非常に若々しく精力的だ。執筆はもちろんだが、各種講演、シンポジウム、サイン会(時間と体力温存の為に献辞は遠慮願うというやり方)、はたまた次作の芝居に出演までという幅広い活動ぶり。しかもそれがスペイン(サラマーゴはスペインのランサローテ島にに移住)だけでなく様々な国で開催されるので、かなりあわただしく海外を飛び回ることになる。講演にもサイン会にも大勢の人が訪れ、文化や政治に関する発言も注目を集める。その注目度は日本における「作家」のあり方とは大分様子が違う。作家という立場のプライオリティの高さや、実際に彼の作品を読んでいる読者の多さが垣間見える。
 サラマーゴのあわただしい活動をマネージャー的にサポートするのがピラール。日常生活はもちろん、仕事のスケジュール管理やイベントの手配、マスコミ対応等、こちらもまた大変な仕事量。サラマーゴの絵画遠征にももちろん同行するし、一方で彼女自身の仕事もばりばりこなす。やたらとエネルギッシュなカップルなのだ。2人の会話の掛け合い、ぶつかり合いも小気味良い。ピラールがインタビュー内でプレジテントと呼ばれ「プレジデンテです」と訂正する(プレジデントは男性名詞、プレジデンテは女性名詞。プレジデンテという名詞が定着していないのはそのポジションが男性ばかりだからという文脈)様や、「セクシャルマイノリティに対して寛容ですよね」というな質問を投げかけられて寛容とかそういう問題でなくて(彼らは現に存在するわけだから)人権問題だと怒る様が彼女の人となり、立ち位置を示していた。
 とはいえば、サラマーゴも高齢は高齢なので、ある時点でがたっと調子を崩す。これが生々しくて(ドキュメンタリーだから当然「生」なんだけど)心がざわつく。彼の最晩年の映像だとわかっているだけに。それを支え続けるピラールの姿は、献身というよりも、チームの一員としての責務としてやっているように思えた。それが2人にとっての愛の形なのだろう。
 サラマーゴはポルトガルで生まれ育って、作家として成功した後にスペインで暮らすようになったという背景がある(当時のポルトガル政府の方針に同意できなかったらしい)。彼とポルトガル、スペインという2つの国の関係への言及が作中でやはり出てくるのだが、なかなか微妙。サラマーゴ展の開幕にポルトガル政府の関係者は出席しなかったというし、ポルトガルからは裏切り者扱いされている向きもあるのだろう。本人のアイデンティティはおそらくポルトガルにあり、祖国への愛もあるのだろうが、そこで生きやすいかどうかはまた別問題だ。

白の闇 (河出文庫)
ジョゼ・サラマーゴ
河出書房新社
2020-03-16


ブラインドネス スペシャル・エディション(初回限定生産2枚組) [DVD]
ガエル・ガルシア・ベルナル
角川エンタテインメント
2009-04-03


『アンティークの祝祭』

 大きな屋敷に一人で暮らすクレール(カトリーヌ・ドヌーブ)は、長年集めてきたアンティークをヤードセールで売り始める。意識や記憶がおぼろげになることが増え、人生の幕引きを決意したのだ。彼女の奇妙な行動を知った娘のマルティーヌ(キアラ・マストロヤンニ)は疎遠になっていた実家を訪れる。監督はジュリー・ベルトゥチェリ。
 冒頭、夜の子供部屋で幼少期のマルティーヌが寝付けずにいる、一方で若き日の母クレール(アリス・タグリオーニ)は身支度をしている。子供の世界と大人の世界の境界を感じさせる構造と色味の美しさで引き込まれた。クレールの屋敷の内装や登場するアンティークの数々も美しい。ドヌーブとマストロヤンニという実の母娘共演が話題の作品だが、むしろ美術面に目がいった。
 クレールとマルティーヌは実の親子ではあるが疎遠。過去のある事件が大きな要因ではあるのだが、元々この2人は人との距離の取り方や情愛の示し方が違うタイプなのだろう。少女時代のマルティーヌがクレールに甘えてもたれかかるシーンがあるのだが、クレールは「痛い」と言ってどかせる。大人になったマルティーヌに対しても(けがをしているとは言え)抱きしめられて「痛い」と言う。娘に対する愛情がないわけではないが、マルティーヌが望む形では差し出せない。マルティーヌの愛の示し方はクレールには少し重いのだろう。誰が悪いというわけではなくそういう人同士の組み合わせになってしまったということなのだ。実の親子であってもこのミスマッチは如何ともしがたい。このギャップが地味に堪える。2人の関係は基本的には変わらないしお互いが満足するようなものにはならない。ほんちょっとだけ許せるようになるというくらいで、ほろ苦さが残る。相互理解による大団円とはいかないのだ。
 ラストの展開が唐突で少々びっくりしたのだが、アンティークにはやはり時間と共に加わった「重さ」があるのかもしれない。クレールが耐えられなくなってきたのは自分の過去・思い出の重さだけでなく、屋敷に詰まったくアンティークの重さものしかかってきたからのように思えた。確かに美術・工芸的な価値は高く見ていて美しいが、一緒に暮らすのは結構圧迫感がありそう。クレールがアンティークをため込んでいったのは、息子や夫を死なせてしまったことに対する自罰みたいなものだったのかもしれない。そこから離れられない、忘れられない状態に自ら追い込んでいったように思えた。それが最後に開放されたのか。

やさしい嘘 デラックス版 [DVD]
ディナーラ・ドルカーロワ
ジェネオン エンタテインメント
2005-03-11


マチルド、翼を広げ [DVD]
インディア・ヘアー
オデッサ・エンタテインメント
2019-09-04



『蜜のように甘く』

イーディス・パールマン著、古屋美登里訳
 戦争で夫を亡くしたペイジは足専門のケアサロンを営業している。店の向いに住む大学教師のベンは、店にいるペイジを眺めるのを密かに楽しみにしていた。ある日ベンは思い切ってサロンに訪れる(「初心」)。私立女子高の校長アリスは、極端に痩せた生徒エイミーを案じていた。エミリーは食事を厭い、蟻の生態研究に情熱を傾ける。アリスの恋人リチャードには妻子がいた(『蜜のように甘く』)。現存するアメリカ最高の短編作家とも称される著者の作品集。
 著者の邦訳作品1作目『双眼鏡からの眺め』に心をつかまれ、2作目が出ないのかずっと待っていたのだが、ようやく出版された!うれしい!正直なところ『双眼鏡~』の方が自分の中でのインパクトが大きいのだが、本作も渋く読み応えがあった。どんな人生も具体的に不幸でなくてもどこか寂しかったり、ままならないものを抱えていたりするが、一つのシーンの切り取り方でその人生のさびしさ、ままならなさがよりくっきりと立ち上がってくる。また、まちまちの年代の人たち、また同じ人物であっても若いころと老齢とが登場する作品が多く、年代の違いによる見えている世界の違いが垣間見える。年を取って失われるものがあるというよりも、若いころ見えなかったものが年齢を重ねることで見えてくることもあるという方にスポットが当たっているように思った。一人でも、寂しくてもまあまあ大丈夫と思えてくる。これは自分が年齢を重ねてきたからかもしれないが…。「石」や「妖精パック」はこれからの人生に対する予習みたいにも思えた。
 ある場所を中心に様々な老若男女の新しい人生と別れとを描く「お城四号」、思わぬ形で人生が動きかつ幸せは人それぞれと示唆する「帽子の手品」、その一瞬の幸せの理由が胸を刺す「幸福の子孫」が特に印象に残った。

蜜のように甘く
イーディス・パールマン
亜紀書房
2020-05-26


双眼鏡からの眺め
Edith Pearlman
早川書房
2013-05-24




『ポップスター』

 学校で同級生が起こした銃乱射に巻き込まれ、一命を取り留めた14歳のセレステ(ラフィー・キャシディ)。姉エレノア(ステイシー・マーティン)と作り追悼式で発表した曲が皮肉にも評判になり、マネージャー(ジュード・ロウ)にスカウトされプロデビューを果たす。18年後、トップスターとなったものの度重なるスキャンダルで低迷していたエレノア(ナタリー・ポートマン)は、再起をかけたカムバックツアーを控えていた。監督・脚本はブラディ・コーベット。主題歌・劇中歌はシーアが担当。
 作中でスクリーンサイズの変更がある映画、章立てされる映画はしゃらくさいという自分内での思い込みがあるのだが、本作はその両方をやっている。過去と現在はわけて章立てされ、各章の冒頭、ドキュメンタリータッチの映像でナレーション(なぜかウィレム・デフォー)が経緯を説明するパートはスクリーンサイズが正方形に近く、ストーリーが展開していくシーンは通常のサイズに戻る。これが何か効果的な演出になっているかというと正直微妙。更にエンドロールの流れが逆向き(下から上へと流れる)だがこれもまた何か効果的かというとそういうわけでもなく、しゃらくささの天丼感を強めているだけだ。ただ本作の場合、しゃらくさくあること自体が重要なのかなという気もする。表層、スタイルに特化してこその「ポップスター」ということなのでは(その表層がかっこよく仕上がってると言い切れないのが本作の辛い所なんだけど…)。
 少女時代に遭った事件はセレステの心身に影響を与えていることが示唆されるが、それが彼女のスターの資質に関わっているというわけではないだろう。セレステには「何かある」と語られるものの、具体的に歌が上手い、ダンスが上手いという評価を明示することは避けられている。曲作りの才能を見せたのはデビュー当時だけであとはエレノアがゴーストライターをしているとさらっと言及されるのだ。作中で出てくるセレステの曲がずば抜けていいというわけでも、MVが突出してスタイリッシュという感じでもない。何をもって彼女の「スター」性が担保されているのかいまひとつわからないまま話が進んでいく。クライマックスのステージを見ても、そこまでインパクトがない。これが演出上のものなのか見せ方に失敗しているのか判断できないのだが…。セレステを演じるポートマンがポップスターぽく見えないというのも一因なのだが、じゃあポップスターらしい人ってどんななんだと聞かれるとそれも困るだろう。むしろポップスターぽくない人が無理やりポップスターに徹する様を見せるというコンセプトなのだろうか。
 スターを主人公にした物語というと、才能ある若者が困難を乗り越え成長・成熟して素晴らしい作品を生みだし大成功、という展開がセオリーだが、本作ではセレステの成長・成熟と彼女のスター性に関連性は示さない。私生活がぐだぐだだろうが人として問題だらけだろうが、スターとしてのパフォーマンスとは別物であり、それこそがポップスターなのか。セレステに何か強烈な魅力があるようには見えないのだが、ステージ上の彼女を見る人たちにとってはおそらく熱狂すべき何かがある。ポップスターは徹底して演出された存在で、作中で見られるセレステの姿はその演出の及ばない部分なのだ。
 なお、スターとなったセレステの娘とエレノアの服装は、多分セレステのファッションに寄せているのだろうが、板についていなくてかなりダサい気がする。スターのイメージを守るのは大変だな…



シークレット・オブ・モンスター [DVD]
ロバート・パディンソン
ポニーキャニオン
2017-05-17





アリー/スター誕生 [Blu-ray]
アンドリュー・ダイス・クレイ
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2019-11-06






『ハリエット』

 1849年、メリーランド州の農園・ブローダス家が所有する奴隷のミンティ(シンシア・エリボ)は、自由の身となって家族と暮らすことを願い続けていた。しかし奴隷主エドワードが急死、借金返済に迫られたブローダス家は、ミンティを売ることにする。売られれば家族とはもう会えないと悟ったミンティは、脱走を決意し奴隷制が廃止されているペンシルバニア州を目指す。監督はケイシー・レモンズ。
 奴隷解放運動家ハリエット・タブマンの人生を映画化した作品。ミンティという名前は奴隷主がつけた呼び名で、彼女が自由を手に入れた時に自分で決めた名前がハリエット・タブマンなのだ。作中で出る字幕によると、彼女が逃亡を成功させた奴隷は70人。南北戦争では黒人兵を率いて戦い、晩年は参政権運動にも関わったという人だそうだ。恥ずかしながらこういう人が実在したことを初めて知ったのだが、本作で描かれる人生は大変ドラマティック。ストーリー展開は直線的で少々ダイジェスト版ぽい、正直野暮ったい作りなのだが、こういう人がいた、という面で面白く見られた。
 彼女は頭部を負傷したことの後遺症で睡眠障害(いきなり寝てしまう)があったのだが、たった一人で逃げ出し、その後は奴隷解放組織の一員として何度も南部と北部を行き来した。非常にタフで、自分を見くびるなという意志の強さがある。奴隷が置かれた過酷な状況は、自身が自由になってからもずっと、彼女にとっては自分の問題、自分の苦しみだ。他の組織のメンバーは自由黒人であったり白人であったりと、奴隷の立場そのものとはやはり切実さが異なる。下宿の主マリー(ジャネール・モネイ)に「臭う」と言われてくってかかる(そもそも失礼だしね)のも、想像力のなさに対するいら立ちからだろう。
 不公正さへの感覚は人によって差があって、ハリエットはそこに鋭敏、かつそれは間違っているという意志を持ち続け、行動に移すことができた。黒人で元奴隷である彼女にとってその行動のリスクは非常に高いし、解放組織の仲間も、彼女には無理だ、組織を危険にさらすなと止めようとする。彼女はそこを押し切って(そこもまた、自分を見くびるなということだろう)行動に移すわけだが、信仰が後ろ盾になっているという面も非情に大きい。ハリエットは睡眠障害の一環として、幻視体験をするのだが、それを神のお告げとして解釈し従うのだ。この幻視がストーリー上都合よく使われすぎな気もしたが、自分を導く存在がいると確信できるというのは行動するうえで大きな支えなのだと思う。解放組織のメンバーとしての彼女の通称は「モーゼ」なのだが、神のお告げに従い民を導く女性という面ではジャンヌ・ダルクのようでもある。白人奴隷主たちは彼女を捕らえてジャンヌ・ダルクのように火あぶりにしろ!といきまくのだが、クリスチャンとしてそのたとえは大丈夫なんだろうか…。

ハリエット
テレンス・プランチャード
Rambling RECORDS
2020-03-25


それでも夜は明ける [Blu-ray]
ブラッド・ピット
ギャガ
2016-02-02


『華やかな食物誌』

澁澤龍彦著
 古代ローマの豪華かつ奇矯な料理の数々、フランスの宮廷料理やそこに集った美食家たち、中国の文人が記した食譜など、美食にまつわるものを中心に、美術・芸術にまつわるエッセイを収録した1冊。
 美食を極めると味の良し悪しとはもはや別次元の世界になってくるのか。古代ローマの饗宴も、フランスの宮廷の晩餐会も、ばかばかしいくらい豪華だ。遠方から珍しい食材を取りよせられるということが財力・権力の証だし、宴会の企画力みたいなものもセンスとして問われたのだろう。それにしても、それ本当においしいの?!大丈夫?!みたいな料理が多くて笑ってしまう。18世紀パリで一人ミシュランみたいな存在だったグリモ・ド・ラ・レニエール主催の晩餐は一つのコンセプトアート(趣味がいいかどうかはともかく)のようでもある。なぜ食にここまで情熱を傾けてしまうのか…。
 なお題名には「食物誌」とあるが、実は食に関係ない美術エッセイの方が多い。著者のエッセイを初めて読んだ当時は、出てくる全ての美術品に図版がついているというわけではなかったので(文庫版は特に図版省略されているので)、いったいどういう美術品なんだろうと想像巡らせたものだった。現代はありがたいことにインターネットがあるので、さっと調べることができる。ただ、わかってしまうことで妄想・期待が膨らまないという面もあるな。

華やかな食物誌 新装版 (河出文庫)
澁澤龍彦
河出書房新社
2017-07-28


バベットの晩餐会 (ちくま文庫)
イサク ディーネセン
筑摩書房
1992-02-01




 

『おれの眼を撃った男は死んだ』

シャネル・ベンツ著、高山真由美訳
 迎えに来た兄によって叔父夫婦の元から助け出されたラヴィーニアだが、更に過酷な運命が待ち受ける(「よくある西部の物語」)。ヒッチハイクで実父の元に向かう「わたし」にはある目的と過去があった(「思いがけない出来事」)。西部劇の舞台のような南北戦争後の町、16世紀イギリス、現代のアメリカ、未来とも異世界ともつかないとある遺跡等、舞台がバラエティに富んでいる短編集。
 収録された作品の舞台は場所も時代も様々。西部劇そのもののような作品から、時代劇やSFまで、さまざまなジャンルにわたっているとも言える。語り口調、小説としての構造の仕掛けもまちまちだ。しかし不思議と統一感がある。全ての作品の根底にはこの世で生きる苦しみ、暴力と欲望とが流れていてハッピーエンドには程遠い。どの作品も常に傷口が開いて血を流しているような、読んでいる側を切りつけてくるような容赦のなさ。ただ、同時に非常に美しい瞬間がある。O.ヘンリー賞を受賞したという「よくある西部の物語」(コーマック・マッカーシーぽいと思う)のラストのは残酷で救いがないのだが、彼女の人生全てがこの一瞬で立ち上がってくるような密度を感じた。
 社会の底辺、隅っこで生きる人たちの生が描かれるが、特に女性として生きる苦しさ、選択肢のなさが抉ってくる。女性はだれかの妻、姉妹、娘、母、恋人であり独立した存在として扱われない。「死を悼む人々」はまさにそういう話で、主人公に認められている価値は、誰に所属する女か、ということだ。また寓話的な「アデラ」は独立した存在である女性が、世間の価値観によって引きずりおろされる話とも読める。
 収録作はすべて必読だが、「オリンダ・トマスの人生における非凡な出来事の奇妙な記録」は、アメリカの現状を踏まえると正に今読むタイミングなのではと思う。1838年に黒人女性が書いた手記という体の作品なのだが、当時のアメリカ南部の「進歩的な」白人の欺瞞や差別の無自覚さが時にユーモラスに醜悪に描かれている。そして黒人であり女性であることの自由のなさも。

おれの眼を撃った男は死んだ
シャネル・ベンツ
東京創元社
2020-05-20


血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)
コーマック・マッカーシー
扶桑社
2007-08-28





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