3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2020年06月

『赤毛のアン』

ルーシー・モード・モンゴメリ著、村岡花子訳
 プリンス・エドワード島のグリン・ゲイブルスに暮らす兄妹・マシュウとマリラは、農作業を手伝わせるために孤児の男の子を引き取ろうと決める。知人に頼んで子供を連れてきてもらったものの、やってきたのは女の子だった。アン・シャーリーというその少女は空想好きで風変わりだったが、徐々にマリラとマシュウにとってかけがえのない存在になっていく。
 実は今までちゃんと通読したことがなかったのだが、こんなに面白かったのか!そしてアンの11歳から16歳までの成長過程を結構なスピードで綴っていく。空想好きでおしゃべり、テンションの上がり下がりが激しく時に非常に頑固なアンの言動はとにかく目まぐるしい。そこがちょっとうるさくもあるのだが、率直でものおじしない態度や「お話」が大好きな内面の豊かさが良い。赤毛とそばかすへのコンプレックスの強さや「膨らんだ袖」、美しさへの執着は当時としてもルッキズム強すぎない?という気がするが、年齢を重ねるにつれ執着が弱まっていく。単純に大人になっていくからというのもあるだろうが、周囲から一個人としての愛情を受けることで、自分は自分として容姿も含め肯定できるようになっていくのだと思う。とは言え、人並みに可愛い服を着たいという気持ちは自然だし、それなりの服を着られるようになってほっとしましたが…。町の世話役的で「世間」代表みたいなリンド夫人もアンの服装はあんまりだと思っていたというのにはちょっと笑ってしまった。
 アンの成長物語ではあるが、少女時代のユニークで自由なアンが、空想する頻度も落ち、上の空なこともあまりなくなり、地に足のついた女性になってしまうのはちょっと寂しい。ただ。一方でもう若くはないマリラとマシュウ、特にマリラが変化していく物語でもあって、大人になってから読むとむしろこちらの方が心を打つ。彼女が表に出さなかったユーモア(ユーモアがあるということは最初に示唆されるのだが)や愛情深さがにじみだしていくのだ。


赤毛のアン Blu-ray メモリアルボックス
槐柳二
バンダイビジュアル
2014-03-26


『ペイン・アンド・グローリー』

 世界的に有名な映画監督のサルバトール(アントニオ・バンデラス)は母親を亡くしたこと、健康状態が思わしくなく脊椎の痛みがひどくなってきたことで、心身共に疲れ果て、仕事も手につかなくなっていた。幼少時代、母親と過ごした日々、バレンシアでの子供時代やマドリッドでの恋と破局など、自身の過去を回想していく。監督はペロド・アルモドバル。
 アルモドバル監督作はいつも色彩がビビッドで鮮やかかつ美しい、時に毒々しいくらいだが、本作の美術の色調は個人的には今までで一番好み。特にサルバトールの自宅のインテリアは大変しゃれていて(サルバトールは美術コレクターでもあり、アート作品も多数所蔵している)赤と水色とのコントラストが鮮やかだった。サルバトールが着ている服も、デザインはシンプルなのだが配色は結構思い切っている。無難な色の服を着ている人があまり出てこない。
 サルバトールは体のあちこちの調子が悪く、特に背中の痛みを常に抱えている。背を丸めてかがむことができないのだが、演じるバンデラスが非常にうまく、可動域が制限されている感じで、どうかすると痛いんだなということがよくわかる。見ている方が辛くなってきちゃうくらいだ。ただ、サルバトールはこういった痛みや不調の改善・治療に積極的かというとそうでもない。病院でこまめな診察を受けている様子はなく、痛みを抑える為にヘロインに手を出して依存気味になってしまう。自分の体に対してどこか投げやりなように見えた。
 しかし、自分作品に出演したものの不和に終わった元主演俳優や、破局したかつての恋人との関係を見直し、関係を築きなおしていくうち、自分の健康面の見直しにも行き着く。更に、創作意欲の復活にもつながっていく。自分の過去を振り返ることは、彼にとってこの先の人生と向かいあうこと、イコール映画を作り続けることでもある。過去の昇華が映画作りにつながるというのは正にナチュラルボーン映画監督と言う感じなのだが、ジャンルは何であれ創作に従事している人というのはそういうものかもしれない。
 今現在の元主演俳優や元恋人と接することで、苦い思い出も多少甘やかな、自分の中で許せるものになっていく。時間を置くことで見え方が変わってくるのだ。(主演俳優ともめたかつての監督作について)重すぎると思っていた主演俳優の演技が違って見えてきた、今はあの演技でよかったと思うとサルバドールが語るエピソードが面白かった。また、元恋人との再会も、円満に幕を閉じる。双方それぞれの人生があり、一緒にはいられなかったがそれぞれ幸せがあったと受け入れられるのだ。
 ただ、母親との関係は一見美しい思い出に見えるが、ずっと苦いものが残る。子供時代のサルバトールについて母が「誰に似たのかしら」といい顔をしなかったことを、彼はずっと記憶している。また老いた母は彼が同居しようとしなかったことをずっと根に持っている。サルバトールは(おそらくセクシャリティ含め)母が望むような息子にはなれなかったし、母の失望は(彼女はそんなこと意図しなかったろうが)ずっと彼を苦しめる。サルバトールのせいではなく単に「そうならなかったから」というだけなのだが、母への愛情ゆえに罪悪感が止まない。母に対してだけは彼女が生きている間に関係を結びなおすことができず、彼の思い出の中=映画の中でだけ再構築される。それはサルバトールの創作と直結しており映画監督として喜ばしいことではあるのだが、取返しのつかなさがどこか物悲しい。

ジュリエッタ(字幕版)
ダリオ・グランディネッティ
2017-06-02


マイ・マザー(字幕版)
スザンヌ・クレマン
2014-07-04


『息子と狩猟に』

服部文祥著
 倉内は週末だけハンターとして狩猟をしている。ある日、小学生の息子を連れて鹿を追っていたところ
、死体を抱えた詐欺集団リーダーの加藤と遭遇してしまう。表題作の他、世界最難関のゆく山での登山家たちの極限状態を描く「K2」の2編を収録した作品集。
 一方で倉内が鹿や熊を追って撃ち取る狩猟の様子、もう一方で加藤が「オレオレ詐欺」その他の特殊詐欺でターゲットから金銭をむしりとっていく様子、2つの「狩り」が同時進行していき、ある一点で交錯する。よりによって最悪のタイミングで出会ってしまう。そこからまた「狩り」が始まるのだが、どちらがどちらを狩るのかスリリングだ。倉内が身を置く狩猟の場は生き物対生き物という、ある意味対等かつプリミティブな世界(人間社会の倫理と生き物としての在り方の間でゆらぐ倉内は少々危ういが)なのだが、そこに加藤が属する欲と金の世界、弱者を食い物にする世界が混入してくる。動物の弱肉強食と、人間間の弱肉強食は全然意味合いが違うという対比がある。狩猟も特殊詐欺も手順の描写が非常に具体的で新鮮だった。「K2」も雪山登山の寒さと危険がひしひしと伝わってくる。どちらの作品も、人間社会の倫理と生物としての本能とのせめぎあいがスリリングで、極限状態の犯罪小説としても読める。

息子と狩猟に (新潮文庫)
服部 文祥
新潮社
2020-04-25


はっとりさんちの狩猟な毎日
服部文祥
河出書房新社
2019-05-21


『ドクター・ドリトル』

 動物と話せる獣医師のドリトル(ロバート・ダウニー・Jr./藤原啓治)は、妻を亡くして以降、森の中の屋敷に引きこもり、様々動物たちとひっそりと暮らしていた。しかしある日、病で倒れた女王を
助けてほしいと依頼を受ける。唯一の治療薬は伝説の島に生息する植物。ドリトルは仲間と共に伝説の島を目指す。原作は100年以上愛読されているヒュー・ロフティングの児童文学。監督はスティーブン・ギャガン。
吹替版で見た。ドリトル先生(原作読者にとってはやっぱり「先生」だよな)は私の中ではどうもダウニー・Jr.のイメージではないし、ドリトル先生に異性のパートナーがいるというのもイメージ違うのだが、原作とは別物としてまあまあ楽しい。原作との共通項は、動物の言葉を話せる医者って所くらいで、あとは動物たちの性格含めおおむねオリジナルだ。ストーリーは幻の島にお宝探しに行くぞ!程度の雑さなのだが、細かいことを気にせず老若男女が楽しめそうだし、変なひねりのない素直なおおらかさなので、嫌な感じがしない。
 動物たちは全てCGなのだろうが、動きや表情が意外と「動物」寄りで、言葉は話す(というかドリトル先生にのみわかる)が人間に寄せすぎていない。ここがとてもよかった。人間に寄せすぎるとデフォルメが下品になる印象があるのだが、そのあたりの踏みとどまり方が的確だったように思う。トンボのみちょっとまんがっぽすぎるかなという気はしたが。
 吹替え版で見たのだが、ダウニー・Jr.役の藤原にとってはこれが遺作ということになるのだろうか。藤原以外のダウニー・Jr.の声にはなかなか慣れそうもなく、寂しい限りだ。私は普段は字幕派だが、本作に限っては吹替え版を推奨したい。本作、日本語吹き替え声優が非常に豪華。ゴリラが小野大輔、シロクマが中村悠一、アヒルが朴璐美、犬が斉藤壮馬等、普段主役を張っているキャストがぞろぞろ登場するので、声優ファン、アニメファンにもお勧め。なおプロ声優以外の起用としてはオウム役が石田ゆり子なのだが、石田ゆり子にたしなめられたい人にはかなり良いと思います。原作のポリネシアのイメージとは違うんだけど、これはこれで素敵。また霜降り明星の2人がある生き物役で出演しているが、予想外に様になっている。


『デッド・ドント・ダイ』

 アメリカの田舎町センターヴィル。警察署長のロバートソン(ビル・マーレイ)と巡査のピーターソン(アダム・ドライバー)、モリソン(クロエ・セビニー)。変哲のない平和な町だったが、ある日ダイナーで凄惨な他殺死体が発見される。なんと墓場から死者が次々と蘇り、町がゾンビだらけになってしまったのだ。謎めいた葬儀屋のゼルダ(ティルダ・スウィントン)の助けを借りて、警官たちはゾンビと戦うが。監督はジム・ジャームッシュ。
 ジャームッシュに縁の深いオールスターが登場する豪華さだが、無駄遣い感がすごい。なんなんだこの間延びした映画は…。ゾンビに刃物を振り回すアダム・ドライバーとティルダ・スウィントンというわくわく感あふれるシチュエーションなのに、全くわくわくしない。全体の流れがもったりしすぎ(まあはきはきしたジャームッシュ監督作というのも変だけど)。あえてのもったりと思えず、単に手を抜いたな、という印象を受けてしまった。
 また、それまでの文脈をぶち壊すような展開があったり、特に前振りや後々の伏線になるのでもない唐突な設定が明らかになったり、行き当たりばったり感が強すぎる。唐突なら唐突で、何かを意図した唐突さならわかるのだが、特に何かを考慮してやった形跡が見受けられないのでイライラしてしまった。出演者の技量とネームバリューに甘えすぎではないか。
 前作『パターソン』は一見変化のない日々を緻密な演出で組み立てていたので、そのギャップでよけいにがっかりしてしまった。また、正直今の時期に見るには(私にとっては)不向きな話だったという面もある。蔓延していくものに対してなすすべもなく飲み込まれていく話だから…。


ゾンビランドサガ SAGA.1 [Blu-ray]
河瀬茉希
エイベックス・ピクチャーズ
2018-12-21




『エジソンズ・ゲーム』

 19世紀アメリカ。白熱電球の事業化を成功させた発明家エジソン(ベネディクト・カンバーバッチ)は直流式送電による電力送電事業の拡大と新しい研究とに没頭していた。一方、実業家ウェスティングハウス(マイケル・シャノン)は交流式送電の実演会を成功させる。このニュースを聞いたエジソンは自分の発明が盗まれたと激怒し、交流式は危険だとネガティブキャンペーンを打つ。監督はアスフォンソ・ゴメス=レホン。
ウェスティングハウスとの会食の約束をエジソンがすっぽかすという冒頭から、非常ににテンポが速くどんどん話が進む。最近あまり見なくなった画面分割演出がテンポの速さと情報量をより強調しているように思った。当時の時代背景や2者が打ち出している送電システムの違い、そもそもエジソンとウェスティングハウスが何をしている人なのかなど、あまり具体的な説明はされないので、ある程度予習をしてから見た方が楽しめるかもしれない。わりと知っていて当然でしょうみたいな見せ方なので、アメリカでは言わずもがなな史実なのだろうか。
 エジソン夫妻とウェスティングハウス夫妻、2組の夫婦は対称的な描き方をされている。エジソンは自分の研究と事業に熱中して妻子のことを時に忘れてしまう。行き過ぎてしまう彼を私が引き止めるのだと妻が話すシーンもある。エジソンは幼い子供たちにとって愉快な父親ではあるのだろうが、家族として共に暮らすには少々大変な人だ。妻ともすれ違いが重なり、取返しがつかない事態になる。一方ウェスティングハウスは妻とのパートナーシップが良好。プライベートだけでなく事業の上でも、妻と車の両輪のように稼働していく。考え方も生き方も対称的な2人の人物は家庭での在り方も違うという演出だろうが、あまりウェットな感触はない。とにかくテンポが速くエモーショナルさを煽るような溜めはほぼ排除されているので、かなりドライ。見る人によっては無味乾燥に思えるかもしれない。ただ、このドライさが自分にとってはちょうどよかった(タイミング的にもドライなタッチの方が楽に見られる時期だったのかも)。
 電力事業が拡大していく様が、映像としてわかりやすい見せ方で、さすが映画だなと妙に納得した。エジソンは自分なりの理想・主義があって直流式を推し進めるのだが、交流式に押され、ある一点で主義を曲げてしまう。それがアキレス腱となって攻め落とされていくというのが(彼のネガティブキャンペーンが行き過ぎたものだったとはいえ)皮肉だ。ただ、彼の秘書(トム・ホランド)のように「あなたと仕事をするのが好きだ、楽しいから」と支え続けてくれる人もいる。人としては難物だが、職場としては刺激的だったのか。一方で、二コラ・テスラ(ニコラス・ホルト)のようにエジソンの才能を認めつつ見限る人もいる。テスラが選ぶのは、転載ではないが誠実な仕事相手であるウェスティングハウスだ。人の価値をどこに置くかという考え方の違いが、エジソンとウェスティングハウス当人だけでなく、彼らの周囲の人たちの態度からも垣間見られる。

訴訟王エジソンの標的 (ハヤカワ文庫NV)
グレアム ムーア
早川書房
2019-06-06


処刑電流
リチャード・モラン
みすず書房
2004-09-19


『リトル・マン』

 EUフィルムデーズ2020にて配信で鑑賞。リトル・マンは森の中に家を作って、一人暮らしに満足していた。しかし自分の人生に欠けたものがあるという夢に悩まされ、眠れなくなってしまう。ある部屋を訪問しろと夢で告げられた彼は旅に出る。監督はラデク・ベラン。原作は2008年にチェコで出版された絵本。
 人形を使った実写映画。と言ってもアニメーション(ストップモーション)ではなく、操り人形を使った「人形劇」であるというところがユニーク。まさにチェコのお家芸!人形の動きにしろセットにしろ小道具にしろ緻密でやたらと力が入っており、なぜこれをわざわざ人形劇でやろうとした…?(コマ撮りができるアニメーションならまだわかるんだよね…)とその情熱に心打たれるやらあきれるやら。人形劇だからオールセットなのかと思ったら、ちゃんとロケをやっている(グラスの水や湖等でちゃんと「水」を使っているあたりが地味にすごい)という手間暇のかかり方。人形の造形は決して可愛らしいものではなく、妙にリアル志向だったり時にグロテスクだったりする。人間とも動物とも虫ともつかない不思議な造形のキャラクターが次々と登場する。原作の絵本がどういうビジュアルなのか気になるが、ちょっとグロテスクでとらえどころのない部分が魅力になっている。
 美術面には非常に拘りを感じるが、ストーリー展開や全体の構成はかなり大雑把。リトル・マンを引き回すだけ引き回しておいて、最後はあっさり収束させてしまう。そこで諸々説明してくれるのなら、最初からそこに行けばいいのに…と、今までの経緯は何だったんだろうと唖然とした。緻密な部分と大雑把な部分の落差が激しすぎる。おおらかで作品の自由度が高いとも言えるかもしれないけど…。


ポヤルさんのDVD-BOX
コロムビアミュージックエンタテインメント
2009-03-18


 

『その手に触れるまで』

 13歳の少年アメッド(イディル・ベン・アディ)はイスラム指導者に感化され、過激な思想にのめりこんでいく。とうとう学校の教師をイスラムの敵として危害を加えようとするが。監督・脚本はジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。
 ダルデンヌ兄弟作品の主人公は、必ずしも共感できる人ではない、何を考えているのか行動原理がわからない人物であることが少なくない。本作の主人公であるアメッドはその中でも特に不可解であり、共感できない主人公だろう。アメッドがなぜ過激な思想に傾倒していくのか、何をもって教師を敵とみなしているのか、周囲からはわからないし、作中で説明もされない。カメラはアメッドの行動をじっと見つめるのみだ。
 アメッドの母親は彼の変化を理解できず「昔のあなたに戻って」と泣くが、アメッドにそれが響いている様子は見られない。また更生施設の職員たちや、実習先の農場主やその娘など、彼に関わり、彼を引き戻そうとする。しかし、その言葉も試みもなかなか届かない。特に、農場主の娘はアメッドと同年代で彼と親しくなるが、届きそうで届かないままだ(彼女のアプローチがちょっとセクハラまがいだというのもあるけど…)。アメッドは彼女に好意はあるのだろうが、彼女に提示する「条件」は、他者、特に女性を対等の存在として扱っていない、尊重していないものだ。カウンセラーがアメッドに教師との面会を許さないのは、彼にその自覚がないからでもあるだろう。どうすればそこに気が付けるのかというアメッドの周囲の格闘を見ているようでもあったが、自分で気付くしかないんだろうな…。アメッドが「気付く」、というかぽろっと引き戻されるシチュエーションがあんまりにもあんまりなので、そこまでやられないとだめなのか!かつそこで終わるのか!という衝撃。
 アメッドはイスラムのコミュニティの中で生活しているが、イスラム教徒であっても信仰との向き合い方が様々な様子が垣間見えた。アメッドの学校の教師が地元のイスラムのコミュニティで、放課後学級でのイスラム語指導の仕方について話し合いをする。保護者の中には、授業の内容についてもあくまでコーラン上の言葉を扱うべきだという人も、将来働くためにも世俗的な言葉に慣れておくべきだという人も、様々だ。そういうコミュニティと関わり続ける教師の労力は大変なものだし、アメッドらに関わり続けようとする姿勢には頭が下がる。しかし彼女の誠意が地元のイスラム指導者は気に入らず、アメッドが起こす事件につながる。教師としてのまともさがリスクになる世界って何なのだろう。イスラム指導者とアメッドの言動から垣間見られるミソジニーの強烈さ・根深さもきつい。もし教師が男性だったら、彼らの敵意はここまでエスカレートしなかったのでは。

午後8時の訪問者(字幕版)
オリヴィエ・グルメ
2017-10-06


サンドラの週末(字幕版)
カトリーヌ・サレ
2015-11-27


『ビッレ』

 EUフィルムデーズ2020にて配信で鑑賞。1930年代、幼い少女ビッレは貧しい家庭に育つ。両親は喧嘩が絶えず、父親はすぐにお金を使ってしまい、母親はそれにいらだっていた。ラトビアを代表する作家ビスマ・ベルシェヴィツァの自伝小説を映画化した作品。監督はイナーラ・コルマネ。2018年製作。
 主演の子役が非常にうまい、というかはまっている。変に可愛すぎない所が生々しかった。そして物語としては、子供は辛いよ、であり、大人はわかってくれない、でもあるのだが、大人からしたら子供はわかってくれない、でもある。まだ社会との接点が薄い子供の世界が映し出されていく。ビッレは「パラダイス」を目指して友人らと家出をしたりもするが、基本的に一人でいる子だ。自分の頭の中の世界があり、それは友人とも両親とも分かち合うことが難しいものだ。特に両親に自分の思いを伝えられない、伝わる言葉を持たないもどかしさが感じられた。この伝わらない感じ、子供の頃にこういうことあったなとほろ苦い気分になった。
 ビッレの家庭の暮らしぶりはかなり貧しく、両親はいつも金策にきゅうきゅうとしている。原因はよくわからないのだが、両親ともにあまり世渡りの上手い人たちではなく、何かの拍子にレールから外れてしまいそうな危うさがある。特に母親は人づきあいが下手と明言されており、ビッレに対する態度も不器用。夫や子供への愛はあるが、接し方が荒っぽくなりがちだ。一方で父親もどうも頼りなく、すぐに母親を怒らせる。貧しさと機嫌の悪さが悪循環を起こしていくようで、見ていて少々辛かった。お金のなさは気持ちの余裕のなさと直結しているのだ。
 とは言え、幸福としか言いようのない瞬間も確かにある。両親と「おばさん」にお金を無心しに行った顛末の可笑しさや、友人らと「パラダイス」を目指す高揚感など。ただ、徐々に彼女の世界と両親の世界は離れていく。学校に入ったことでそれは加速していくように思った。同時に、それにつれて家庭内の状況が徐々に良くなっていく感じが面白い。子供を学校に行かせるとその分費用がかかるから大変だと思うんだけど、経済状況が良くなるような何かがあったのだろうか(作中では言及されない)。

マイライフ・アズ・ア・ドッグ [HDマスター] [DVD]
トーマス・フォン・ブレムセン
IVC,Ltd.(VC)(D)
2014-10-24


『理由のない場所』

イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳
 16歳の息子ニコライが自殺した。母親である「私」はもう存在しない息子との対話を続ける。言葉遊びや反抗期の子供らしい皮肉を交えつつ、2人の対話は季節を越え続く。
 「私」とニコライの対話にはしばしば言葉遊びが交えられる。小説家である「私」は言葉に敏感であり、ニコライもまた「私」の使うちょっとした言い回しや単語に素早く反応し、往々にして攻撃する。母と子という立場の違いと合わせ、「私」は中国からの移民であり英語はネイティブではない、たいしてニコライはアメリカで生まれ育った英語ネイティブ。母親の英語の発音がおかしいと指摘することもある。親子という関係とは別に、ここには文化的なギャップがあるのだ。
 ニコライは時に手厳しく母親を非難し、反発する。2人の対話は続くが、この対話をしているニコライはもちろん、「私」の頭の中にあるニコライだ。こういうことを言ったらニコライはこう反応するであろう、こういう理屈を持ち出すだろう、という想像でしかないとも言える。しかし「私」の脳内であっても「私」とニコライの対話は平行線を辿り、愛情は合っても理解し合っているとは言えない。ニコライがなぜ自殺をしたのかも言及されることはない。「私」はもちろんなぜなのか考えに考えたのだろう。ただ、対話相手としてのニコライがそれを明かすことはなく、「私」にとってわからない部分を残した存在であり続ける。永遠に謎のままで、「私」はこの先もその謎を問い続けなくてはならないというのがとても辛い。終わりがないのだ。「私」はそこから逃げるつもりも終わらすつもりもないのだろうが、そこがまた辛い。

理由のない場所
リー,イーユン
河出書房新社
2020-05-19


黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)
イーユン リー
河出書房新社
2016-02-08


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