3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2019年10月

『空の青さを知る人よ』

 秩父の町に住む高校生のあおい(若山詩音)は、13年前に両親を亡くし、姉のあかね(吉岡里帆)と2人暮らし。あおいは東京でバンドをすることを目指し、受験勉強もせずベースの練習に打ち込む。地元を離れようとするのは、あおいの面倒を見る為に、当時付き合っていた慎之介(吉沢亮)と上京することを断念し、地元で就職したあかねへの負い目もあった。そんな折、町おこしの祭りに来た有名演歌歌手のバックバンドの一員として慎之介が帰郷してくる。それと同時に、高校生当時の慎之介があおいの前に現れるのだった。脚本は岡田磨里、監督は長井龍雪。
 『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』『心が叫びたがってるんだ』に続く秩父を舞台とした作品。ただ、少年少女たちの物語だった前2作に対し、本作はむしろ、かつて少年少女だった人たち、大人2人の物語という側面が強かったと思う。私が年齢的に大人の立場で見ているからということもあるが、あおいのエピソードはちょっと印象が薄かった。後で謝るとは言え同級生に対する態度がものすごく失礼(相手も相当無遠慮なんだけど、あれだけ言われて怒らないとはなんて心が広いんだ…)というくらいしかインパクトが残らなかったんだよね…。
 あおいとあかねは仲のいい姉妹と言えるだろう。しかしあおいは、あかねの人生、10代から30代にいたるまでの彼女の時間を自分が奪ってしまったと罪悪感に駆られており、自分が離れればあかねも「自分の人生」を歩めるだろうと考えるのだ。とは言え、あおいと過ごした時間もあかねの人生であり、彼女が不幸か幸せかはあかねが決めることだ。あかねの幸せはあかねが決めることだと見落としているあたりが、あおいの若さ・視野の狭さなのかなと思った。また、慎之介の「自分あかねを幸せにしないと」という思いもまた、独りよがりなものだろう。あかねにはあかねの空の青さがある。
 なので、エンドロールのおまけ的映像はちょっと蛇足というか、本作の趣旨からずれたものになってしまっている気がした。ああいう、当初思い描いていたような未来がなくてもそれぞれ幸せになれるはず、というのが趣旨なのではなかったか。10代の頃の思いと30代になってからの思いはそもそも違うしな…。


心が叫びたがってるんだ。 [Blu-ray]
水瀬いのり
アニプレックス
2016-03-30


『さらば青春の光』

 1964年ロンドン。オフィスのメッセンジャーとして働くジミー(フィル・ダニエルズ)は、毎晩ドラッグをキメてクラブで騒ぎ、改造スクーターを乗り回す日々を送っていた。週末に訪れたブライトンで、リーゼントに皮ジャンできめたロッカーズたちとの全面対決が勃発する。監督はフランク・ロッダム。THE WHOの1973年のアルバム「四重人格」を元に、彼らの音楽をふんだんに使い、メンバーもエグゼクティブ・プロデューサーとして参加している。
 ジミーを見ていると、定職についているとはいえそんなに高い給料はもらっていなさそうだし、この人どうやって生活しているんだろう、いくら実家暮らしだとは言え…と思ってしまった。超スリムな(テーラーに無理ですよ!と言われても無理やり細身にする)ジャケットを着てばっちり決め、夜通し遊びまわる生活は、ずいぶんきままで明日のことなど考えていないように見える。ただ、そのきままさは、現状への不安・不満の裏返しなのかもしれない。明日のことは考えないのではなく、考えられないのではとも思えた。
 ジミーは自分自身が何になりたいのか、何が欲しくて何をやりたいのか迷走し続けているように見える。モッズとしてかっこよくありたいのも、女の子といちゃいちゃしたいのも、暴動に乗っかり盛り上がるのも、ふわふわしたイメージ的な願望で頼りない。あまりに刹那的だ。それが当時の時代の雰囲気であり、青春らしさというものなのかもしれないが、現代の若者が見てもあまり共感しなさそうだなとは思った。そもそもモッズとロッカーズの違いがよくわからないだろうし…。あくまで当時の風俗に根差した青春映画。映画ではなく、映画に使われた音楽の方が生き残っている感じがする。

さらば青春の光 [Blu-ray]
フィル・ダニエルズ
ジェネオン・ユニバーサル
2012-12-05


THIS IS ENGLAND [DVD]
トーマス・ターグース
キングレコード
2009-12-09


『生物学探偵セオ・クレイ 森の捕食者』

アンドリュー・メイン著、唐木田みゆき訳
 モンタナ山中で調査にあたっていた生物学者のセオ・クレイは、突然警察に拘束された。すぐ近くで、かつての教え子が他殺死体となって発見されたのだ。セオの嫌疑はすぐに晴れ、遺体に残された傷から熊の仕業だと判断された。しかしセオはその結論に疑問を持ち、独自の調査を始める。
 「犯人は熊ではない!」というパワーワードが帯に載っているせいでこれはコメディなのか?!と思ったが、いたってシリアス。クレイは生物情報工学という自身の専門分野に基づききわめて理論的に謎に迫っていく。が、そのモチベーションやアプローチの仕方ははたから見ると奇妙に思えるかもしれない。彼は人間として一般的な倫理観や感情を持ち、正義を行いたい一心で真相を追うのだが、行動までの経路が短すぎ、あるいは独特すぎて唐突に見える(かつての教え子の死因に疑問があるからといって、一般的にはいきなり血液サンプルを盗んだりしないだろう)。調べる為の知識とツールがあるって強いな…。彼がどのような研究をしていてどういう知識を持っているかわかると、その行動経緯もそんなに奇特には見えないんだよね。
 ヒーローというほど強くはないがユニークな思考の道筋と知識を持っている探偵の登場。本作がシリーズ一作目だそうだが、続きが気になる。


『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』

 中学校卒業を1週間後に控えたケイラ(エルシー・フィッシャー)は無口で不器用な自分を変えようと、SNSやYouTubeに励むがなかなか上手くいかない。父親の心配はうざいし、高校生活への不安でいっぱいだ。とうとう高校体験入学日を迎えるが。監督・脚本はボー・バーナム。
 ケイラがなぜ学年の人気者の男子女子に近づきたがるのかちょっとぴんとこなかったのだが、彼女が基本的に素直で、物事をむやみに斜めに見たりしないということなのだろう。かっこよくて人気ある人には素直にあこがれる。そのあたりはわかりやすいのだ。どうせ自分なんて、とひがんで相手を心の中で貶めるようなことがない。最後に怒るのも、相手がシンプルに「失礼」だからだ。いたってまともな子なのだ。世をすねずに自分を変える努力をできるのってすごいことではないかと思う。あくまでレールの上で勝負しなければならないというのが、ちょっと息苦しいしそこから降りてしまってもいいのになとは思うが。
 私はもうケイラの父親の年齢に近いが、この年齢になってみると彼のまともさがよくわかる。ケイラに向き合い続けるのは正直なところかなり面倒くさいと思う。そこをあきらめずアプローチし続け(ここはケイラと似ている)、邪険にされても怒ったりしない。ケイラがすごく傷ついて帰ってきたときに迷わず後を追っていくが、これはなかなかできないと思う。父親が往々にして逃げてしまいがちな場面だろう。
 ケイラと知り合いの高校生との車中のある出来事が起きるが、いまだにこんなかとげんなりするし、ケイラが「ごめんなさい」というのも辛い。こう言わせてしまう世の中だというのが辛いのだ。彼女は全然悪くないのに。この件に関するフォローが作中になく、ケイラが一人で何とか飲み込んでしまうというのもちょっと悲しい。

さよなら、退屈なレオニー [DVD]
カレル・トレンブレイ
Happinet
2020-01-08


レディ・バード ブルーレイ+DVDセット [Blu-ray]
シアーシャ・ローナン
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
2018-11-21


『サイラス・マーナー』

ジョージ・エリオット著、小尾芙佐訳
 親友と恋人に裏切られ盗人の疑いをかけられたサイラス・マーナーは、故郷を捨ててある村にたどり着く。村のはずれで機織りとして生計を立てるようになった彼は、蓄えた金貨を眺めることを唯一の楽しみにしていた。しかしある日、金貨が盗難にあう。そして嘆き悲しむ彼の元にみなしごが迷い込む。
 信頼していた人たちに裏切られ世捨て人のようになったサイラスが、養い子を媒介として愛と信仰を取り戻すという、だいぶ教条的な(1861年に発刊された作品なので時代的な背景もあるだろうし、エリオット自身が福音主義の薫陶を受け、キリスト教研究書の翻訳をしていた経緯もあるだろう)ストーリーではある。とはいえ説教くさくはない。ストーリー展開にメリハリが強く、ドラマティックで飽きない。今だったら連続ドラマ、朝の連ドラ的な王道さと引きの強さ。
 また、登場する人たちのふるまいや感情がとても生き生きとしており、古びていない。特に郷士の長男であるゴッドフリーの優柔不断さ、面倒なことや自分を脅かすことは後回しにして事態をよりこじらせてしまう臆病さは、読んでいてなかなか身に染みるものがあった。人の欠点、強くない所の表現が鋭く具体的なのだ。サイラスの隣人で、無学だが人が良く生活の知恵にたけたドリーの安定した頼もしさ、現代の自立した女性に近い、独身を貫く(父親の資産あってのこととはいえ)名家の長女プリシラのざっくばらんさなど、女性の造形も面白かった。

サイラス・マーナ― (光文社古典新訳文庫)
ジョージ・エリオット
光文社
2019-09-11



『おばちゃんたちのいるところ』

松田青子著
 かわいくて、気が利いて、セクシーで、やさしい女を目指し脱毛に励む私の元に、おばちゃんがやってきた。おばちゃんは相変わらず図々しく不躾でパワフルだった。ただ、おばちゃんはもう死んだはずなんだけど。追い詰められた人たちの元に、幽霊のおばちゃんたちが助けにやってくる連作短編集。
 よく女の情念とか女の嫉妬とかマイナスイメージで言われるが、それをすべてプラスに反転していくパワフルなおばちゃんたち。女性だから(ひいては男性だから)、この年齢だから、この立場だからといったくくりを全部無効化し、あくまで「自分」である様は頼もしく清々しい。おばちゃん、私のところにも来てほしい。そしておばちゃんたちがスカウトされている「会社」に就職してみたい。怪談、幽霊話がモチーフとなっているので、古典落語や歌舞伎を多少知っているとより面白いのでは。あの女性にもこういう事情があってその後こんな風に生きてきたのか…と感慨深くなるかも。






問題だらけの女性たち
ジャッキー・フレミング
河出書房新社
2018-03-20



『アダムズ・アップル』

 仮釈放されたネオナチのアダム(ウルリッヒ・トムセン)は更生プログラムの為に田舎の教会で暮らすことになる。彼を迎えに来た牧師のイヴァン(マッツ・ミケルセン)はアダムに今後の目標を尋ねるが、アダムはまともに取り合う気はなく「教会の庭のリンゴの木になったリンゴでアップルケーキを作る」と適当に答える。しかしイヴァンは大真面目で、教会に住み着いている前科者のカリドとグナーを巻き込み、リンゴの木を天災から守る為のミッションを開始する。監督・脚本はアナス・トマス・イェンセン。
 ストーリーの構成要素だけ見ると感動的なヒューマンドラマにもなりうる、というかそういう要素も確かにあるのにこの奇妙さ、不穏さは何なんだ!聖書のヨブ記がモチーフの一つになっているそうだが、確かに一つの寓話、神話のような雰囲気はある。が、それにしても展開がおかしい。
 アダムはネオナチ思想に染まっているクソ野郎として登場するのだが、イヴァンを筆頭に教会に集う人たちの灰汁が強すぎて、アダムが一番常識人で共感性もある人物に見えてくるというまさかの逆転現象。特にイヴァンは「いい人」ではあるのだが、かなりクレイジーだ。本人の中で自分に起こった出来事や言動の矛盾がリセットされてしまうので周囲から見ると奇妙だし、話が通じない。この話が通じずコミュニケーション不全になっていく過程がじわじわと怖い。基本コメディなのだが、あの人にとっての世界と自分にとっての世界と、見え方とらえ方が全然違う、どこですり合わせればいいのかわからないという現象を目の当たりにする気持ちの悪さ、そら恐ろしさみたいなものがある。
 人間は基本的に主観で生きているものだと思うが、本作に登場する人たちはそれが強すぎる。自分の頭の中の世界で生きており、その世界の度合いが強固な人の地場に周囲が引きずられていくような感じだった。その当事者が宗教者というのが皮肉というかなんというか…。

偽りなき者 [DVD]
マッツ・ミケルセン
角川書店
2013-10-04


スーパー! スペシャル・エディション [Blu-ray]
レイン・ウィルソン
Happinet(SB)(D)
2012-01-07


『宮本から君へ』

 文具メーカーの営業マン、宮本浩(池松壮亮)は不器用だが正義感が強い熱血人間。会社の先輩である神保(松山ケンイチ)の仕事仲間である中野靖子(蒼井優)と恋に落ちる。しかし靖子の元彼・裕二(井浦新)が現れる。靖子に暴力を振るった裕二に対し、宮本は「この女は俺が守る」と言い放つが。原作は新井英樹の同名漫画。新井は宮本の父親役として出演もしている。監督は真利子哲也。
 宮本の熱血バカ、スポーツできないのに体育会系気質な所(というよりもそういう環境に投げ込まれている)は、受け付けない人はとことん受け付けないだろう。宮本という男性の造形にしろ、本作における男女の関係の在り方にしろ、かなり古さを感じることは否めない。そもそも原作がそこそこ以前に描かれたものだから仕方ないのかもしれないが。私も宮本のようなキャラクターは本来苦手なはずなのだが、なぜかするっと見ることができたし不快感もさほど感じなかった。真利子監督のタッチがかなり乾いているからか。また、宮本の行動を全面的に肯定・共感するわけではない、彼にしろ靖子にしろちょっと引いた目線で撮られているというのもよかったのかもしれない。登場人物たちはかなりストレートに感情をぶつけ合い、激情を示す。俳優たちも熱演しているのだが、池松と蒼井の演技がすごくいいかというと、いいことはいいが突出していいという感じではない。むしろ、ふっと力が抜けたようなシーンの瞬間的な表情の方に、はっとする良さを感じた。これは演じる側と撮る側の力のバランスが取れているからだろうなと思う。路上のキスで柄にもなくぐっときた。
 宮本の「頑張り」は実は具体的に何か・誰かの役に立っているわけではない。靖子になじられるように自分の為だ。むしろ、一番肝心な時に彼は何もできず気付きもしない。ただ、自分が納得するために悪あがきして、空回りで何が悪い!という突き抜けた感じがする。この人はこうすることしかできない人、考えるよりとにかく動いた方が前に進める人なのだと納得できる見せ方になっていた。現代的ではないのだろうが、現代でも確かにこういう人はいるよなと。
 宮本の取引先のお偉いさん方と靖子とを交えたシーンが、本作中一番きつかった。前時代的なパワハラ・モラハラの嵐なのだが、今でもこういう関係性は間違いなくそこかしこにあるし、こういう営業がまだまだあるんだよなー。待ち合わせに遅れてきた靖子が、赤の他人である宮本の取引先の真淵(ピエール瀧)に勢いよく頭を下げる、それを聞いた真淵が気をよくして「ついてこい!」と飲みの席に彼女を同席させるという流れがたまらなく嫌だった。真淵らが勝手に来てるんだから謝る筋合いないんだけど、そうやって場を収めるのがベストという判断が靖子の身に付いてしまっているというのが辛い。

宮本から君へ DVD-BOX 
池松壮亮
ポニーキャニオン
2018-10-03


定本 宮本から君へ 1
新井 英樹
太田出版
2009-01-17


『ボーダー 二つの世界』

 税関職員のティーナ(エヴァ・メランデル)は、人間のおびえや嘘を嗅ぎ分ける能力を持っていた。そのため違法なものを持ち込む人間を見分けることができるのだ。ある日、怪しげな旅行者ヴォーレを呼び止め検査したものの、証拠を掴めず入国審査をパスする。彼から何か特別なものを感じたティーナは、ヴォーレに近づいていく。原作はヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの小説。監督はアリ・アッパシ。リンドクヴィストとは共同脚本になる。
 ユニークで面白かったのだが、見ていて段々辛くなってしまった。ティーナには人間としては特殊な能力があり、自分が所属している社会にすんなり溶け込んでいるというわけではない。同居人とのやりとりや食事シーンに、この生活への違和感や相手との断絶が滲んていて薄ら寒く感じられた。そんな彼女の前に現れるのがヴォーレだ。彼女にとっては初めての仲間、自分と同種の存在で、同じようなものの感じ方、世界のとらえ方をできると実感できる存在だ。2人で過ごす中での彼女の高揚感や喜びが非常に鮮烈で瑞々しい。世界の見え方が変わるとはこういうことかと思わせる。
 しかし、新しく出会った世界にためらいなく同化(というか回帰)できるのかというと、そうではない。彼女は人間社会の中で育ち生きてきた存在だ。その社会の中でのルール、倫理がすでに自分の一部になっている以上、それを捨てて「彼」の理論、価値観に乗ることは倫理的にできない。彼の価値観は彼女のタブーなのだ。結局、どこに行ってもティーナは部外者であり、彼女は彼女として、ただ一人生きていくしかないということが浮き彫りになっていく。ヴォーレと共にあるときの高揚感・幸福感が強烈だったからこそ2人の間の越えがたい溝が痛烈なのだ。
 ティーナは一人きりではないという可能性が最後に提示されるが、その他者の存在は彼女を守ってくれるわけではなく、逆に足かせになるのではとも思える。この先の困難がうかがえるだけに、何とも辛いのだ。
 
ボーダー 二つの世界 (ハヤカワ文庫NV)
ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト
早川書房
2019-09-19



ぼくのエリ 200歳の少女 [Blu-ray]
カーレ・ヘーデブラント
アミューズソフトエンタテインメント
2014-03-26


『真実』

 フランスの国民的大女優ファビアン(カトリーヌ・ドヌーブ)は『真実』という題名の自伝を出版する。出版を祝うために、アメリカで脚本家をしている娘リュミエール(ジュリエット・ビノシュ)は俳優である夫ハンク(イーサン・ホーク)と娘と共に帰省する。しかし自伝に書かれたエピソードは架空のもの、そして家族にとって重要なはずなのに書かれていないエピソードがあった。監督・脚本は是枝裕和。
 超豪華キャストだが、やっていることはいつもの是枝監督作品。車体はコンパクトカーなのにエンジン等はレーシングカー並みとでもいえばいいのか、ドヌーブとビノシュがいるだけでバランス感がおかしなことになっている。贅沢すぎるのだ。とは言え、ドヌーブはいつもの是枝監督作品における樹木希林的な役回りなんだなと見ているうちに腑に落ちていく。傍若無人だが可愛げがあり、周囲を振り回していくと同時に俯瞰している年配者という立ち位置。そういう意味でも「いつもの是枝監督作品」なのだ。字幕の文体が普段見慣れているものとちょっと違って(あまりに是枝作品ぽくて)違和感があったのだが、日本語の脚本をそのまま字幕に転用しているのだとすると、腑に落ちる。
 ファビアンヌは自身が女優であることを最優先しており、その振る舞いは妻、母である以前に女優としてのもの。彼女の「真実」とは女優としての彼女にとっての「真実」なので、彼女を母として見ているリュミエールにとっての「真実」とは食い違う。2人の気持ちが通じ合ったと思えるいいシーンの直後、突如「女優」として考え始める姿には笑ってしまうし、リュミエールの唖然とした表情を見ると気の毒にもなる。この人はそういう人だからしょうがないとあきらめるしかないのだ。
 ではリュミエールにとっての「真実」が全面的に正しいのかというとそうでもない。彼女の立場からは、ファビアンヌの女優としての部分、またある人物の友人・ライバルとしての部分はあまり見えていない。お互い自分の立場から見ているから記憶にも食い違いがあり、どちらが正しいとも判断できない。お互い様なのだ。真実はモザイク状だったり、レイヤーになっていたり、グラデーションがあったりする。本作における「真実」とは主観でしか語れないものなのだ。客観的な事実としてどうだったのかということは、ずっとはっきりしないままだ。ファビアンヌとリュミエールは常にちょっとすれ違い、全面的に重なり合うことはないままの関係なのだろう。ある程度理解はしあっているし愛情もあるが、相入れないのだ。ファビアンヌがリュミエールが「逃げた」ことについて、言及するシーンがある。親にこういう言われ方したらかなりきついと思う。ファビアンヌなりに配慮しているところがまたきついのだ。
 ファビアンヌがフィクションを体現する表現者であるなら、リュミエールはフィクションを作る脚本家という立場。終盤でのある意趣返しとでもいうような行為は、ファビアンヌが自伝を書く行為とあまり変わらないようにも思えた。

秋のソナタ Blu-ray
イングリッド・バーグマン
紀伊國屋書店
2013-12-21


海よりもまだ深く [Blu-ray]
阿部寛
バンダイビジュアル
2016-11-25



 
ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ