3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2019年08月

『ピータールー マンチェスターの悲劇』

 1819年、ナポレオン戦争の後、不景気が続き庶民は困窮していた。深刻化する貧困問題の改善、庶民代表の義会参加の権利を売った、マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールド広場に6万人が集まった。しかし鎮圧の為に政府の騎馬隊が出動する。監督、脚本はマイク・リー。
 人権の為の戦いを始めた人々を描くが、カタルシスは全くない。セント・ピーダーズ・フィールドでの集会とそこでの衝突に至るまでの数年間、様々な人たちが何をしていて、どのように変化していくのかといううねりを描く群像劇。ナポレオン戦争の悲惨な戦場から始まり、かろうじて生き残った人にもまた辛い展開が待ち受けるラストへ進む。大惨事により何がどう変わったのかということもはっきりとは提示されない。
 民衆は生活も尊厳も奪われる一方であるように見える。織物工場で働くネリー(マキシン・ピーク)が、ストライキに参加したものの結局殴られ賃金も払われなかったと言うように。とは言え、誰かが声をあげ、その声がおおきくなって行かないと、そういう声がある、そういう人達がいると言うこと自体、他の階層では知られないままになってしまう。長い道のりのまだ初期の段階で、この後に続く人たちが必要なのだ。作中、集会を主催する地元の新聞社や、ロンドンや各地の記者たちマスコミが登場する。彼らはそんなに「立派」には見えないし、野次馬根性で来たような記者もいる。しかし民衆の声が広く伝わるかどうかは彼らにかかっているわけで、マスコミの必要性が見えてくる。また、弁論家のヘンリー・ハント(ロリー・キニア)は自己顕示欲が強く保身に走っているようにも見えるし、実際、口がうまい山師という印象は否めない。しかし彼の立ち回りは、とにかく自分の声を広く遠くまで届ける為のもの(なので逮捕されないように日和見も辞さない)ではあるのだ。
 国王をはじめ貴族、政治家、聖職者、軍人、商人など権力者層が登場するが、彼らの(富裕層以外の)「国民」理解は実に表層的で、血肉を持った、意思も知性もある存在としての「国民」はイメージされていない。具体的に庶民がどういう生活をしていて、どの程度の金銭や物資があれば困窮していないと言えるのかという実感がないのだ。まだ「人間らしい生活」という概念がない時代だったことが、工場経営者の言葉からありありとわかる。こういう人たちに対して基本的人権を訴えていかなければらなないわけだから、道のりは長い。また、声が届かないのは上の層だけではない。演説の言葉、報道の言葉には独自の文法があり、同じ階層であってもその文法の外にいる人には通じないこともある。婦人会に出席したネリーは議長が「何を言っているのかわからない」と何度も訴える。ハントの演説の時も彼の言葉は物理的に(遠すぎて)ネリーには届かないというのが象徴的だった。世の中を変えようという言葉はこういう人たちにも届けなくてはならないし、またその言葉を理解しない人であっても(主張の趣旨により)すくい上げるものでないとならないのだろう。
 作中、具体的な年月日や経年数にはあまり言及されないので、はたと気づくと数年経過していたりする。それでも、見ていてそんなに混乱することはなかった。控えめに見えるが、結構丁寧な演出がされている。権力者は醜悪に描かれているが、庶民が善良かと言うとそうでもない、どちらもほどほどに愚かでほどほどに知恵があるという描き方がいい。

ヴェラ・ドレイク [DVD]
イメルダ・スタウントン
アミューズソフトエンタテインメント
2006-02-24





未来を花束にして [DVD]
キャリー・マリガン
KADOKAWA / 角川書店
2017-07-28

『隣の影』

静かな住宅地。老夫婦のインガ(エッダ・ビヨルグヴィンズドッテル)とバルドウィン(シグルズール・シーグルヨンソン)が隣家の中年夫婦エイビョルグ(セルマ・ビヨルンズドッテル)とコンラウズ(ソウルステイン・バックマン)にクレームをつけられた。庭木がポーチに影を落とすので切ってほしいというのだ。これを皮切りに2家の関係は悪化。身の回りで起こる災難は全て相手の嫌がらせに見えてくる。一方、インガ夫婦の息子アトリ(ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン)は妻アグネス(ラウラ・ヨハナ・ヨンズドッテル)との関係が破綻しそうになり、実家に転がりこんできた。監督はハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うかなんというか・・・。相手のやることなすこと気に食わない!というご近所付き合いの闇が広がっていく様をブラックユーモアで描いている。アイスランドの映画のユーモアってちょっと独特というか、人間の可能性にあまり期待していない感じがする。かなりシニカルだ。
2つの家庭がぶつかりあっていくが、双方の憎しみの度合いは同等のものではない。インガは少々被害妄想に走っているように見える。彼女の憎しみは大分理不尽だ。エイビョルグの妊娠を知った時の一言には、えっそっちに反応する?!そんなこと言う?!というもの。そしてコンラウズは妻の異変に気づいているが、肝心な所で逃げる。インガの変調は長男の死がきっかけらしいということが徐々にわかってくるものの、そもそも愛情のあり方にちょっと問題のある人なのでは。夫婦共にその問題、そして長男の死とちゃんと向き合ってこなかったのではと思えてくる。アトリの妻子に対する態度もかなり問題あるが、当人は自覚していない。この一家「そういう所だぞ」という部分が多すぎるのだ。隣家とのもめごとにしろ妻から愛想尽かされることにしろ、今に始まったことではなさそう。
エイビョルグとコンラウズは彼らに巻き込まれてしまったように見えてくる。2人の言動は確かに無神経だし傲慢なところもあるのだが、そこまで病的な印象ではない。何の因果で・・・。不条理劇ホラーのような作品だった。

馬々と人間たち [DVD]
イングヴァル・E・シグルズソン
オデッサ・エンタテインメント
2015-06-02






ひつじ村の兄弟 [DVD]
シグルヅル・シグルヨンソン
ギャガ
2016-07-02

『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』

北村紗衣著
批評家は探偵に似ている。テクストを読み解き手掛かりを拾い集め、その作品の筋道を発見し理解の糸口を導き出す。映画と文学をフェミニスト批評から読みとくパンチのきいた批評集。サブタイトルに「フェミニスト批評入門」とあるように、本格的な批評というよりも、批評と言うのはこういうものだ、こういうアプローチの仕方があるのだという入口の案内のような1冊。読みやすくとても面白い。映画や小説を鑑賞していて、一応面白いし世評も高い、でも自分の中では何かひっかかる、もやもやするという時に、なぜひっかかるしもやもやするのか考える糸口になりそう。若い人に読んでほしい。特にファミニスト批評としてのアプローチなのでジェンダー由来の「もやもや」をひもとく糸口になりそう。批評は自分を知ることでもあるのだ。
キャッチーかつ個人的にも深く頷くところが大きかったのは『アナと雪の女王』批評。ディズニーアニメとしては確かに画期的だし技術的にはもちろん素晴らしく、中盤までは面白かったのが、私は終わり方に納得がいかないというか、なんでこんなつまらない終わり方なんだと思っていたので(他社作品だが『ヒックとドラゴン』にも同じことを感じたんだよな・・・)。ディズニー作品は「社会参加」の壁は多分越えられないんだろうな・・・。


『我らが少女A』

高村薫著
 12年前のクリスマス。早朝、東京郊外の野川公園で、元・中学校の美術教師である年配女性がスケッチ中に殺害された。犯人は特定できず、当時捜査責任者だった合田雄一郎は後悔を抱き続けていた。そして12年後、1人の女性が同棲相手に殺害された。その女性・朱美は、12年前に殺された元・美術教師の教え子で、事件への関与をほのめかすような言葉を残していた。
 合田が警官としての現役を退き、警察大学で教鞭をとっている(57歳だそうです・・・)ことに呆然とするというか感慨深さがあるというか・・・。読者にとってだけではなく、本作の登場人物全員にとって、時間の経過はひとつのテーマになっている。朱美と幼馴染だった真弓にしろ、同級生の浅井や小野にしろ、その親たちにしろ、事件当時は気付かなかったが時間がたつと見えてくるもの、気付きたくなかったが気付いてしまうものがぽろぽろと出てきて、そこがうっすらと怖い。その一方で、真弓と朱美の母親たちのように、年月を経たからこそ新たに関係を築いていけることもある。
 2つの殺人事件が中心にあるが、事件そのものではなくそれによって揺り動かされる人たちの群像劇としての側面が強い。とは言え、事件によって関係者の人生に生じた諸々は、事件がなくてもいずれは表面化したのではないかというものだ。事件の当事者は不在のまま、誰かの口から語られる彼女たちのままで、それが物悲しくもあるし本作の題名は皮肉なのでは。

我らが少女A
髙村 薫
毎日新聞出版
2019-07-20


冷血(上) (新潮文庫)
髙村 薫
新潮社
2018-10-27




『ひとり旅立つ少年よ』

ボストン・テラン著、田口俊樹訳
 1850年代、アメリカ。12歳の少年チャーリーは、詐欺師の父親を殺され、父から託された大金を奴隷制廃止運動家の元に届けようと決意する。ブルックリンからミズーリを目指すが、彼の金を狙う犯罪者と逃亡奴隷の2人組が執拗に追ってくる。
 奴隷制度と人種差別がごく普通のものだった時代のアメリカで、チャーリーは自分と父が行った詐欺行為の償いとして奴隷制廃止運動家に資金(武器を買う為の金だというのがまた時代性を感じさせるが・・・)を渡そうとするのだが、詐欺の前には人種も性別も年齢も平等であるという所が皮肉だ。 チャーリーの父親は根っからの詐欺師、山師で息子のことも平気で騙すのだが、妙に憎めない所がある。この困った人であり客観的には悪党なのだがチャーミングで嫌いになり切れないという造形がうまい。チャーリーが父を愛し続けてしまう(そもそも12歳の子供にとって他に頼れるものはないのだが)気持ちに説得力があった。チャーリーにとって不本意かもしれないが、父親の詐欺師としての才能と愛嬌みたいなものはチャーリーにも受け継がれており、それが彼を助けることになる。
 父親だけでなく、彼と関わり助ける大人たちの造形がどれもよい。彼らの列車内で知り合う女性の善意と勇気、一見シニカルな“葬儀屋”の気骨にしろ、それぞれの美点がチャーリーの中に受け継がれていくように思った。悪人たちは徹底して悪人という割り切りの良さが少々単純ではあるのだが、本作を神話、ファンタジー的なものにもしている。
 作中、実在の人物や文学がしばしば登場、引用される。チャーリーに自作の詩の一篇を手渡す人物にしろ、奴隷制反対派牧師の姉妹が書いたある小説にしろ、チャーリーが迷い込む見世物小屋にしろ、それらが全てチャーリーの旅を象徴するようなものだ。チャーリーは最初、詩を理解できない。しかし、徐々に実感として何が表現されているのか掴んでいく。彼が自分の旅、自分の人生を俯瞰できるようになり、それが大人になっていくということなのだろう。ちりばめられた史実や実在の人物、文学は、アメリカという国を象徴するものでもある。本作は著者の前作『その犬の歩むところ』と似た構造で、アメリカという国を小さきものの視点を借りて旅し俯瞰すのだ。『その犬~』は「今のアメリカ」だが、本作は今に至るターニングポイントとなった時代のアメリカとも言える。

ひとり旅立つ少年よ (文春文庫)
ボストン テラン
文藝春秋
2019-08-06





その犬の歩むところ (文春文庫)
ボストン テラン
文藝春秋
2017-06-08


『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』

 アメリカの捜査官ルーク・ホブス(ドウェイン・ジョンソン)は、因縁浅からぬイギリスの犯罪者デッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)と無理やりコンビを組まされ、ある指令を受ける。政府の研究組織から盗まれた新種のウイルスを奪還しろというのだ。ウイルスを盗んだ容疑者はイギリスのエージェントでショウの実の妹であるハッティ(バネッサ・カービー)。しかしそれはウイルスを入手しようとするテロ組織が仕組んだ罠だった。ホブス&ショウは組織が擁する強化人間ブリクストン(イドリス・エルバ)と対決する。監督はデビッド・リーチ。
 私はワイルド・スピードシリーズは好きだし、このシリーズに精緻なシナリオや細やかなドラマを求める気は毛頭ない。が、本作はそれにしてもちょっと雑すぎないか。シリーズのスピンオフ的な立ち位置ではあるが、過去作でのホブス一派とショウの因縁が(仲間を殺されているわけなのに)あるはずのなのに反目は口だけという感じで、双方深く内省しているわけではない。また、ホブスとパートナーが都合よく別居しており、これまた都合よくハッティとロマンス的雰囲気になるのもいただけない。無理やりお約束展開を持ちこもうとしているように見える。
 何より、本作で描かれる「ファミリーの絆」は、これまでのシリーズで描かれたものよりも後退し、保守的なものになっているように思った。そもそも家族という概念が保守的なんだと言えばそれまでなのだが、これまでのシリーズでは血縁による家族だけでなく、共に生きる仲間を「ファミリー」としていた。しかし本作では血縁による家族こそが帰るべき場所、という方向になってしまった。ショウのご家庭の事情は前作で既に明らかになっており、これはこれで微笑ましく楽しい(お母様最高だしな)。しかしホブスの家族はそこか?!これまでファミリーファミリー言ってたのは何なの?!と裏切られた気持ちになってしまった。彼の実家の事情がいきなり明らかになるのも苦しい展開だった。今までそんな描写あったっけ・・・?
 ホブスとショウの喧嘩するほど仲がいい、理想のケンカップルみたいな関係は確かに楽しいし可愛いのだが、あまりにテンプレすぎてちょっと気持ちが乗って行かなかった。それぞれのキャラクターは好きだし、2人の対称的なライフスタイルを画面分割で見せていく序盤もいい(かっこいいかというと微妙だが)んだけど。ただ、ステイサムのアクション演出はかなりいいシーンがあった。敵アジトでの密室1対複数名はユーモラスな演出もされており楽しかった。ステイサム、本当に体が動く人なんだな・・・。


ワイルド・スピード オクタロジー Blu-ray SET (初回生産限定)
ヴィン・ディーゼル
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
2017-10-06





コードネームU.N.C.L.E. [Blu-ray]
アーミー・ハマー, ヒュー・グラント, エリザベス・デビッキ ヘンリー・カビル
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2016-09-16

『トム・オブ・フィンランド』

 第二次大戦後のフィンランド。帰還兵のトウコ・ラークソネン(ペッカ・ストラング)は広告会社でイラストレーターの仕事をしつつ、自分の為だけにたくましくセクシーな男性の絵をスケッチブックに描き続けていた。当時のフィンランドでは同性愛は法律で禁止されており、ゲイであるトウコは自分のセクシャリティを明かすことも、公の場でパートナーのヴェリ(ラウリ・ティルカネン)との関係を明かすこともできなかったのだ。トウコは作品をアメリカに送るようになり、雑誌の表紙に起用されたことがきっかけで、世界中でその作品は評判になっていく。監督はドメ・カルコスキ。
 本名で作品を発表できないトウコのペンネームが「トム・オブ・フィンランド」。実在したゲイアートの先駆者、トム・オブ・フィンランドの伝記映画だ。フィンランドでは法的に同性愛が禁止されているため、アメリカに作品を送って売っていたわけだが、トウコがあずかり知らぬところで彼の絵がどんどん知られるようになり、ゲイの人々の間で愛されるように、また彼らをエンパワメントするようになる。その流れを作家当人は全然知らないままだったという所に時代背景を感じた。ファンの招きにより渡米して初めて、トウコは自分の作品がどのように受けいられているのかということ、そして作品に勇気づけられた人たちがいることを知る。このエピソードはアートの持つ力、役割を感じさせ感動的ではあるのだが、同時にヘルシンキとカリフォルニアとの状況が違いすぎて辛くもある。同じ時代であっても生まれた場所が違うだけでこんなに自由の度合いが違うのかと。カリフォルニアで警官の振る舞いを見たトウコの表情が何とも言えない。トウコにとって警官は自分を迫害し痛めつけるもので、礼儀も尊重もなかったのだから。
 トウコの戦時中の体験と、戦後の生活、そして晩年とを行き来する構成で、彼の人生を追っていく。また同時に、彼の作品がどのように受容されていったのか、ゲイ社会がどのように変化していったのかという社会背景も映画いている。トウコが初めて渡米した頃は解放感に満ちていたのに、エイズの発症が確認されるようになると同性愛者差別が加速し、また時代が逆行したようになっていく。同性愛が法に触れなくなった後も、トウコはヴェリと外で手をつなごうとしないし、「ゲイっぽい」振る舞いをすることに抵抗があるように見えた。妹にも自分とヴェリの関係をちゃんと説明していたのかどうか、はっきりしない。職場でヘテロっぽさを強調するあまりちょっと女性へのセクハラっぽくなるあたりはいただけなかった。トウコ自身はかなり保守的というか、ゲイに対する差別と闘うといった意欲は長らくなかったように見える。長い間そういったことが禁じられていたから、隠すことが習い性になってしまっていたというのもあるだろう。彼の意識がちょっとずつ変わっていく過程を描いた物語でもある。終盤、カーテンにまつわるエピソードにはちょっとほろっとしてしまった。あの時無理だと言っていたことが、ちゃんとできるようになっているじゃないかと。時代は確実に変わるのだ。
 彼の作品はゲイの人々をエンパワメントするものだったが、作者当人はなかなか自由にはなれなかった。作品の方が作家よりも早く遠くに行けた、作家当人にはその自覚がずっと希薄だったところが面白いし、皮肉でもある。それがアートの面白さなのかもしれない。

『サマーフィーリング』

 真夏のベルリンで、30歳のサシャが突然亡くなった。パートナーのロレンス(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)とサシャの妹ゾエ(ジュディット・シュムラ)は茫然とする。それぞれの生活が続くものの、悲しみはなかなか癒えない。監督はミカエル・アース。
 同監督の『アマンダと僕』と同じく、喪の仕事を描く物語だ。舞台は夏のまぶしい光の中だが、どこか寂しい。ロレンスにとってもゾエにとっても異国であるベルリンから、ゾエの故郷であるパリ、ロレンスの故郷であるニューヨークへと1年ごとに舞台は変わる。2人を照らす夏の光も雰囲気もその都度異なる。そして、2人とサシャとの距離、ロレンスとゾエの距離も変わっていく。
 それは少し楽になっていく、日常に立ち返っていくことだが、元に戻るということではない。失われたものはやはり失われたものにほかならず、そこを埋めるものはないのだ。時間がたつにつれ、それがありありと立ち現われてくる。悲しみは薄れるのではなく、距離を取るのが上手くなるだけで依然としてそこにある。ニューヨークでゾエが泣くのは、(現状自分が幸せかどうかとは関係なく)失ったもの、変わってしまったものの動かせなさ、時間の止まらなさを再確認してしまったからではないだろうか。夏の光はいつもまぶしいのだが、どこか寂しい。
 ロレンスとゾエ(とゾエの家族)の関係の微妙さが印象に残った。仲がいい悪いではなく、そもそも面識がろくにない状態からサシャの訃報がきっかけで対面するというのは、お互いどう振る舞うのが正解なのかわからないだろう。会食の席でのロレンスの居心地が悪そうな表情が忘れられない。こういう時って何かしら言い訳を造って帰りたくなっちゃうよな・・・。
 なお、ロレンスには姉がいるのだが、姉弟の関係はかなり親密そう。『アマンダと僕』の主人公にも親密な姉がおり、どちらの作品でも親とは疎遠、というよりも親からのケアが希薄だから姉弟の絆が強固になったという設定が透けて見えた(本作では、父親が仕事で不在がちで、いなくなった母の代りに姉がロレンスの世話をしていたと明言されている)。この設定は監督(ないしは身近な人)の実体験が反映されているのかなとちょっと気になった。

しあわせな孤独 [DVD]
ソニア・リクター
KADOKAWA メディアファクトリー
2004-07-02




夜の浜辺でひとり [DVD]
キム・ミニ
ポニーキャニオン
2019-03-06

『主戦場』

 日韓の間でくすぶり続ける慰安婦問題。アメリカ人YouTuberのミキ・デザキは“ネトウヨ”から度重なる強迫を受けたことがきっかけで、彼らの主張に興味を持ち、慰安婦問題の渦中に飛び込む。取材先は右左、日米韓を問わず論争の中心人物たちだ。
 ミキ・デザキ監督は本作が長編ドキュメンタリーのデビュー作になるそうだが、組み立ての手際がよく、編集が的確かつ「突っ込み」スキルが高い。ここはボケだな!という部分の発見の仕方が上手いのだ。デザキ監督がアメリカ人で元々この問題に詳しいわけでもなかったという、いわば部外者、新参者的な立場でアプローチしていることが、この問題のいびつな部分を発見しやすくしているだろうと思う。
 監督にとって「ボケ」であるのは、右翼陣営のインタビュー対象らだ。話し方は穏やか、理知的でまともそうに見える。しかし、その歴史認識はどこかおかしい、持論の文脈も、資料の解釈の仕方も恣意的すぎるのでは?とひとつひとつ検証していく、つまりツッコミをいれていくのだ。能面のようにがっちりガードしてそつがない人がいる一方、話していく中で、この人はもうあまり喋らない方がいいのでは・・・本人も所属している陣営も得しないのでは・・・という場面も。ここに壮大なボケがあるけどなぜ世間は突っ込まないの?というのが監督のスタンスであるようにも思った。そして取材を重ねる中で、この問題をある目的にしようとしている集団がいるのではということを後半であぶりだしていく。
 慰安婦問題は歴史認識の問題としての側面と同時に、人権問題、ジェンダーの問題をはらんでいる。この人権問題、ジェンダーの問題であるという認識が右左双方であまり浸透していない。右派はあえてそこを避けようとしているし、左派でも意外と理解されていないように思う。女性の性被害の理解されなさは日韓問わず、また家父長制の弊害があることも韓国の研究者により指摘されていた(国内ではこの指摘にかなり反発があったようだ)。現在、この問題が非常にこじれているのは、これらのことにも関係しているように思う。本作の後半では慰安婦問題をある目的に利用しようとしている集団がいるという新たな側面を展開するが、その中で人権問題としての慰安婦問題のあり方から焦点がブレてしまった気がした。とはいえ、ズレた先の面白さ、怖さが予想外で、そこも本作の力なのだろう。ただ、それを部外者から指摘されるというのはかなり恥ずかしいしキツいのではないかと思うけど・・・。

『フィフティ・ピープル』

チョン・セラン著、斎藤真理子訳
 ある大病院を中心に、50人の人々の人生がすれ違い絡まり合う。老若男女、年齢も立場もまちまちな人たちの悲喜交々を描く連作短編集。
 医師がおり、患者がおり、病院の事務員や用務員がおり、生きている人も死んでいく人もいる。ある町を舞台に様々な人たちの人生が展開していく。それが当人たちも知らないうちに、影響しあい、時に誰かの支えになったりもする。人は一人では生きられないとよく言うが、一人になろうと思ってもなかなか難しい、生きている以上関わり合わざるを得ないという方が正しいのだろう。ある時代、ある場所(つまり現代の韓国の地方都市ということになる)の物語を様々な角度で切り取ったものとして読めた。なので当然、社会問題が様々な形で顔をのぞかせる。様々な人が登場するほど、それぞれの立場で直面する様々な問題が見えてくるのだ。社会規範、「~らしさ」の圧力の不条理さ(特に女性が主人公のエピソードでは強く感じられた)を感じるエピソードは多く、その圧力は鬱陶しいが、本作の登場人物たちはそうそうへこたれないし、軽やかに乗り越えていく人もいる所に救いを感じた。
 妻から見た状況と夫から見た状況、親から見た状況と子から見た状況、同じ場にいても立場が違えば当然違った風景で、その違う風景を様々見ていくことで世界が豊かになる。独りよがりさが抑制されているのだ。鬱陶しさ世界は断片から成っていると同時に断片もまたひとつの世界だという構成が上手いし、個人あっての他人との関わり合いだよなと思わせる。本作、なにより人間の善性と勇気に信頼を置いているところに救われた。思いもよらない悲劇が起きても、たとえ立場が違っても知らない人同士でも、手を差し伸べ支え合うことができるはずという祈りのようなものがある。今の時代だからこそ読みたい、同時に時代を越えた普遍性がある作品だと思う。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ