3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2018年11月

『あなたの顔』

 第19回東京フィルメックスで鑑賞。本年度のヴェネチア映画祭ワールドプレミアを飾った作品。12人の人々の顔が、それぞれが生きてきた時間を現していく。監督はツァイ・ミンリャン。坂本龍一が音楽を手掛けた。
 人の顔を長回しで取り続けるのは、撮る側も撮られる側も見る側も結構な気力がいると思う。ツァイ・ミンリャン監督は『郊遊 ピクニック』でもえらい長回しで主演俳優リー・カンションの顔を撮影していたが、被写体はもちろん、見ている観客の側ももう間が持たないというか、段々居心地の悪さを感じてくる。それを見越したうえでの長回しではあるのだろうが、この執念はどこから生まれてい来るのかと不思議だ。
 本作では(おそらく)市井の人たち、中高年の男女12人の顔をアップで撮影し続けている。被写体の全身像が全く出てこない。カメラを向け続けられて1人目の女性は思わず笑ってしまうのだが、何も話さないままの人も、居眠りしそうな人もいる。はたまた、舌の運動を始める人もいて、リアクションが結構人それぞれだ。ずっとカメラを向けているというのは、ある種の暴力的な行為でもある。撮る側、撮られる側、お互いにある程度の信頼関係がないと(映画を見る側としても)耐えられないのではないか。本作ではその信頼関係があるんだろうなと思う。作品そのものと言うよりも、これを撮影できる関係・環境にどのように持っていったのかなという過程に興味が出てきた。
 カメラを向けられた人たちは、自分の人生について時に流暢に、時にとつとつと語る。いかにもエネルギッシュな女性が2人(別々に)登場するのだが、2人ともいかに若い頃から寝る間も惜しんで働いたかという話をしており、世の中の人はこんなに働くのか・・・とちょっと辛い気持ちに。男性たちが意外と仕事の話をしていない(そういう話が出てもカットしたのかもしれないけど)のと対称的だった。
 なお、ラストの長回しはある空間のみを延々と撮る。場所の記憶を刻み込むようで、監督の『楽日』をちょっと思い出した。


ツァイ・ミンリャン監督作品 楽日 [DVD]
リー・カンション
竹書房
2007-02-23



『そしてミランダを殺す』

ピーター・ワトソン著、務台夏子訳
 空港のバーで出発までの暇つぶしをしていたテッドは、見知らぬ女性リリーに声を掛けられる。酔った勢いと二度と会うことのない相手だという気の緩みから、テッドは彼女に妻ミランダが浮気をしていること、彼女に殺意を持っていることを打ち明けてしまう。リリーはミランダは殺されて当然と断言し、彼に殺人の協力を申し出る。計画を立て着々と準備を進めたテッドだが、結構間近になって予想外の出来事が起きる。
 多分二転三転するサプライズ系サスペンスなんだろうなと予想していたが、予想通りに驚かせ楽しませてくれる。途中までは多くの読者が予想している通りの展開だと思うのだが、その先が、あっそっちの方向ですか?!という楽しみがあった。初対面の他人と殺人計画を練るという大味な導入だし二転三転のさせ方は結構大らかではあるのだが、ピンポイントで細かい所をちゃんと詰めている印象。最後の不穏さもいい。4人の男女の一人称で語られるので、彼らが自認している自己像と、他人がどういう風に見ているかというギャップの面白さがあった。特にミランダとリリーは、自分の見え方について、当人が意図している部分としていない部分がある。狙い通り!ってこともあるし、そんなつもりじゃなかったんじゃないかなって所も。この2人はやりたいことがはっきりしており、男性陣よりもいいキャラクター造形だった。

そしてミランダを殺す (創元推理文庫)
ピーター・スワンソン
東京創元社
2018-02-21


見知らぬ乗客 (河出文庫)
パトリシア・ハイスミス
河出書房新社
2017-10-05


『ギャングース』

 犯罪集団の盗品や収益金を狙って「タタキ」を繰り返すサイケ(高杉真宙)、カズキ(加藤諒)、タケオ(渡辺大知)は少年院で知り合いチームを組むようになった。親からも社会からも見捨てられた彼らには、窃盗以外に生活の手段がない。ある詐欺グループを狙って大金入手に成功したものの、犯行がバレ、後戻りできなくなる。原作は鈴木大介・肥谷圭介による同名漫画。監督は入江悠。
 サイケたちがやっている「タタキ」は窃盗なので当然犯罪なのだが、楽して金を手に入れようとしているわけではない。楽天的なカズキとタケオはともかく、情報収集に余念がないサイケは努力家で勤勉といっていいくらいだ。いわゆる不良とはちょっと違う。彼らは安定した職に就くためのベース自体がない。家族がいないと保証人を得にくいので住居の賃貸契約ができない、なので固定住所を持てないし、学校にも行っていないので履歴書段階で普通の採用では落とされる。スタートラインにすら立てないという苦しさだ。一方、せめてレースに出場して上の奴らを食い物にしてやる、というのが詐欺集団側。詐欺集団の「番頭」加藤(金子ノブアキ)が部下たちに仕事の心得を叩き込むのだが、その内容も若者の貧困ありきのもの。話のベースに経済的な貧困プラス家族関係の貧困があるあたりが現代の作品だなぁと思う。貧しくてもつつましく暮らす仲の良い家族、という設定はもうフィクションとしてのリアリティ(って変な言い方だけど)を持たないのかもしれない。経済的な貧困がもたらす負の連鎖が実社会にありすぎるもんなぁ・・・。
 サイケたちには頼れる親はいないし、カズオは明白に親から虐待されていた。彼らが少女ヒカリ(伊藤蒼)を行きがかり上保護してしまうのも、彼女が虐待されていたからだ。家族に対していい思い出はないはずなのに(いやだからこそか)、自分たちで疑似家族的なものを作って自己補完していくサイケたちの姿は、なんだかいじらしい。それでも親を憎めないとカズキが漏らす言葉も切なかった。なおヒカリの最終的な処遇についての判断がいたってまともで、ちょっとほっとする。
 シリアスとコメディのバランスが良くて、テンポよく進むし、出演者の演技も良く、当初見る予定はなかったのだが、見てよかった。東京フィルメックスのイベントで、入江監督とアミール・ナデリ監督の対談があり、ナデリ監督が本作をいたく気に入っていたので興味が出たのだ。ナデリ監督は本作の狂気、クレイジーさは、他の国の若手の作品ではあまり見ないタイプ、コミックの影響かな?と言っていたけど、正直なところそれほど狂気は感じなかった。マンガっぽい演技や演出のことなのかな?と思ったけど、ちょっと違う気がするしな・・・。こういうのがスタンダードになっていて自分が見慣れちゃっているということかな?


『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』

 C(ケイシー・アフレック)は妻M(ルーニー・マーラ)を残して事故死してしまう。幽霊となったCは2人で住んでいた家に留まり、Mを見つめ続ける。しかしMには新しい恋人が出来、やがて家を去っていく。Cはずっと家に留まり続ける。監督はデヴィッド・ライリー。
 英米の“奇妙な味わい”とでも称されそうな短編小説みたいな作品だった。後半は、パーティーでの男の話が前フリになっているわけなのだが、ちょっとSFとホラーのドッキングみたいな味わいもある。こぢんまりした作品なのだが無駄がなくてよかった。序盤の方で、なぜこういう撮り方になっているのかな?と不思議に思う(この時点では必然性がない)シーンが続いていたのだが、後々になってちゃんと理由があることが分かるという、伏線の敷き方。伏線が巧みというよりも、必要なものだけでできている(ので伏線は伏線としてちゃんと機能する)という感じ。
 CはMへの愛情ないしは妄執の為にこの世に留まり続けるのだが、Mに対して何か出来る、彼女を守れるというわけでは全くない。彼に出来るのはその場で見ていることだけだ。時にはポルターガイストを起こしたりもするのだが、必ずしも自分でコントロールできるわけではないみたいだし、それによって何かを変えられるわけでもない。死者は無力なのだ。おそらく、徐々に生きていた時の自我も記憶もなくしていくのではないか。忘れられ、自身でもそのあり方を忘れていく彼らの存在は、恐いというよりも、寂しく切ない。
 幽霊たちの寂しさ、切なさは、彼らが生きている人間の時間の流れから取り残されていくことにあるだろう。幽霊となったCにとって時間という概念が希薄になっていく様を、反復と省略堵で簡潔に見せていくやり方が上手い。Mにとって数年が経年していても、Cにとっては昨日今日のよう。だんだんギャップが開いていくのだ。MはCとの生活を過去のものとして新しい生活を始めていくが、Cには納得できず、時にポルターガイストを起こしたりする。とは言え、Mは彼のことを忘れたのではなく思い出さない時間が増えただけなのではないか。記憶が浮かび上がってくると心は乱れ、それがCの乱れとも共鳴するようだった。死者と生者の記憶と時間のあり方が如実に現れており、何ともやるせない。
 あまりにもベタな“ゴースト”の外見なので、これを直球でやるのは結構勇気がいるのではないかと思う。ジョークっぽくならないよう、シーツのドレープの美しさや目の穴のニュアンス等、かなり考え抜かれた造形になっている。哀愁漂うというところがポイント。

ツリー・オブ・ライフ [Blu-ray]
ブラッド・ピット
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2013-01-23



『GODZILLA 星を喰う者』

 武装要塞都市メカゴジラシティを起動させ、ゴジラに挑んだハルオ(宮野真守)らだったが、あと一息という所で失敗。更にその過程でビサイルドたちと地球人たちとの間に亀裂が生じる。ハルオは自信喪失し敗北感に苛まれていた。一方、エクシフの大司教メトフィエス(櫻井孝宏)はある目的の為に信者を増やしていた。監督は静野礼文&瀬下寛之、ストーリー原案と脚本は虚淵玄。
 アニメーション版『ゴジラ』3部作完結編。次作はもっと面白くなるのかな?盛り上がるのかな?と思っているうちに完結しちゃったな・・・。大きな難点や欠点があるとか非常に突っ込みたくなるとかではなく、漠然とさほど面白くないという、一番絡みづらい雰囲気になってしまった。怪獣の強さ能力設定や地球の変容度合いの設定等、ちょっと盛りすぎなくらいなんだけど、ドラマの濃さがその盛りの良さに追いついていないように思った。エクシフの「宗教」の設定には、ちょっと古さも感じる。このニュアンスは90年代末から00年代一桁台くらいなのでは・・・。今だと、わざわざそれやる?何度も見たやつでは?って気分になるのでは。
 個々の構成要素はそんなに悪くないのだろうが、組み合わせると食べ合わせが悪かったなぁという印象。これはゴジラというフォーマットでやるべき話だったのかな?と疑問に思った。ゴジラを外しても、文明の肥大化という設定さえあれば成立しちゃうんだよね。ゴジラを見たい人の為の映画ではないんじゃないかなと思う。私はゴジラにはさほど思い入れがないけど、本作のゴジラの見せ方にはあまり「怪獣」としてのスケール感とか魅力は感じなかった。今作のゴジラは過去最大サイズだけど、その大きさが映えていない。観客の予想を裏切るようなゴジラを!という意図だったのかもしれないが、だったらゴジラ使わなくてもいいよなぁ・・・。
 個人的にはあんまりぱっとしない印象の本作だが、櫻井孝宏劇場としては鉄板だった。櫻井孝宏が中の人のキャラといえばこういう感じだろう、という要素が集結されたセルフパロディような役柄でした、メトフィエス。




『マジック・ランタン』

 第19回東京フィルメックスで鑑賞。古びた映画館で働く映写技師の若者は、ある映画を上映する度に幻想に引き込まれていく。映画館でフィルム上映をする最後の日、またその映画を上映する。映画に登場するのはヴィンテージファッションショップ店員の青年と、店の客である少女。青年は少女の落し物であるスマートフォンを届けようとするが、彼女はどこかに消えてしまった。監督はアミール・ナデリ。
青年が撮影スタジオの倉庫らしき空間でさまよう冒頭のシークエンスからして引き込まれるし、最後のフィルム上映を行う映画館という舞台にしても、映画愛に満ちている。映画の映画、という点では監督が日本で撮った『CUT』にも通ずるが、方向性は全然違う。本作はナデリ監督こういうのも撮るんだ!というくらいロマンティックだ。上映後のティーチインによると、溝口健二監督の霊に背中を押されて撮ったとか(ナデリ監督は溝口監督の『雨月物語』を絶賛している)。
 作中作である映画の中の出来事と、その映画を見ている映写技師の世界とが、並列して描かれる。しかし映写技師がしばしば自分のインナーワールドに引きずり込まれ、今どの世界線にいるのか、彼は夢を見ているのか覚めているのか段々わからなくなってくる。今、この世界線とあの世界線が交差した!と実感できる瞬間、それこそ映画的な瞬間と言えるのではないだろうか。
 とは言え、本作を見ている観客側にとってはどちらも映画であるのだが。映画の映画は、映画を愛するものにとっては一際愛着がわくものだが、切なくもある。どんなに映画を愛してもその愛は一方通行だからだ。映画を見ている私たちは、映写技師とは異なり映画の一部になることは出来ない。

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紀伊國屋書店
2013-09-28


CUT [DVD]
西島秀俊
Happinet(SB)(D)
2012-07-03



『幻土』

 第19回東京フィルメックスで鑑賞。シンガポールで建設現場の作業員をしている中国系移民のワンは、不眠に悩んでいた。ある日、移民仲間の友人が失踪する。現場監督は彼は国に帰ったんだと言うが、ワンは不審に思う。一方、地元の刑事がワンを探しに来る。ワンは何日も宿舎に戻っていなかった。監督はヨー・ショウホァ。ロカルノ映画祭で金豹賞を受賞した作品。
 監督はシンガポールで生まれ育ったそうだが、上映終了後のティーチインでシンガポールは夢のような国だと話していた。経済的に急速に発展し、都市の整備が整い富裕層が集まる、と言った「夢のような」ではなく、足元がおぼつかないという意味での夢。シンガポールは海岸の埋め立てによって国土を広げ、都市の風景の変化も激しい為、何だか地に足の着いた気がしない時があると言うのだ。そういう意味での幻の土地、幻土だと。
 作中でもワンが車を運転しながら「ここは~、ここは~」と、どこの国から来た砂で埋め立てられた場所なのか話すシーンがある。シンガポールにいながら他の国の土地にいるとも言える。建築現場で働く人々は殆どが移民、海外からの出稼ぎ民で、祖国ではないこの土地で生活している。しかしその生活も工事が終わるまでのもので、土地に根差したものではない。土地に根差して生活しているという実感のない不確かさが常にある。先日見た『クレイジー・リッチ』はシンガポールの超富裕層の世界が舞台だったが、あの世界を支える底辺が本作に登場するような世界なのか・・・。ワンが熱中するネットゲームもまた、実体がない不確かなものの象徴として登場するのだろうが、これは少々紋切型すぎると思う。他の国の土砂で新しく土地を作るというシチュエーションだけで十分では。
 ワンと刑事は一つの現象の裏表であるように見えてくる。2人が対面する瞬間はカメラには捉えられないし、刑事が追っているのは幻の男であるようにも思えてくるのだ。アントニオ・タブッキの小説でアラン・コルノー監督により映画化もされた『インド夜想曲』を思い出した。どこかリンクしているようでいて平行線のままのようでもある。この部分の調整はいまひとつという印象を受けた。社会派的なリアリズムと幻想との配分バランスがしっくりこない。

インド夜想曲 [DVD]
ジャン=ユーグ・アングラー
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2012-05-09



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チャオ・タオ
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2006-07-28


『ボーダライン:ソルジャーズ・デイ』

 アメリカで一般人15人が死亡する自爆テロ事件が起きた。犯人はカルテルの手引きによりメキシコ経由で不法入国したと政府は睨み、CIAへ任務を課す。CIA特別捜査官マット・グレイヴァー(ジョシュ・ブローリン)は、カルテルに家族を殺された過去を持つアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)に協力を仰ぐ。麻薬王レイエスの娘イザベル(イザベラ・モナー)を誘拐して敵対組織の仕業と見せかけ、麻薬カルテル同士の争いへ発展させる計画を秘密裡に実行するが。監督はステファノ・ソッリマ。
 前作はドゥニ・ビルヌーブが監督だったが、ソッリマに交代。また前作は音楽をヨハン・ヨハンソンが手がけたが、彼が亡くなったことで弟子筋のヒドゥル・グドナドッティルが担当という、引き継ぎが相次ぐ案件だった。しかしさほど前作の雰囲気から外れていない。ストーリーテリングからはビルヌーブの奇妙かつ粘着質な手癖が薄れストレートになったが、音楽の雰囲気はびっくりするほど引き継がれている。個人的にはむしろ本作の方が好きかもしれない。三部作構想だそうなので、次作もちゃんと作られると嬉しい。
 前作は捜査官が異世界に迷い込み、アレハンドロが歩む煉獄を垣間見るような構造だったが、本作でもアレハンドロは相変わらず煉獄を歩き続けている。そして課された任務のせいで地獄度がより高まっている。行っても行ってもまだ地獄!そして帰る場所などないのだ。一方、マットもまた地獄を歩むことになる。上司から責任を丸投げされ、自分の仲間も倫理も切り捨てろと迫られる。政府の高官からCIAの責任者へ、そしてエージェントへとどんどん責任を丸投げされていく過程が悪夢のようだ。投げてくる側は気楽なもんだよな!中間管理職としてのマットの苦しみが辛い。また、麻薬王の娘として生まれたイザベルは、本人の意思とは関係なく、修羅の道を歩むことになる。そもそも選択肢がないのだ。不遜な態度だった少女が、終盤で見せる抜け殻のような表情が痛ましかった。
 本作でのデル・トロはもはや人間ではないような、一度死んで何か別の者としてこの世に戻ってきたかのような、胡乱かつ不気味な存在感を放つ。ラストにはしびれた。洋画の邦題というと映画ファンからは非難されるケースが多いが、このシリーズに関しては的を得ていると思う。全員が何らかのボーダーを越える、あるいは越えない瞬間を捉え続けているのだ。そこを越えたら元には戻れない、という緊張感がみなぎっている。


犬の力 上 (角川文庫)
ドン・ウィンズロウ
角川書店(角川グループパブリッシング)
2009-08-25



『生きてるだけで、愛』

 躁鬱病の影響で過眠症になり引きこもり状態、当然無職の寧子(趣里)は、ゴシップ雑誌の編集者をしている恋人・津奈木(菅田将暉)と同棲している。ある日、寧子の前に津奈木の元恋人の安堂(仲里依紗)が現れる。津奈木とよりを戻したいから自立して部屋を出ろというのだ。安堂は無理矢理寧子のバイト先を決め、寧子はそのカフェバーで働くことになってしまう。原作は本谷有希子の同名小説。監督は背木光才。
 寧子は津奈木に、私と別れられるあなたが羨ましい、私は私と別れられないと吐露する。自分と付き合い続けることがあまりにもしんどいという痛切なシーンで心に刺さった。本作、この自分であることの苦しさがずっと描かれている。寧子の他人に対する振る舞いは感じが良いとは言えないし、津奈木に対して言葉をぶつける様は八つ当たりのようにも見える。彼女は自分自身と付き合うのに手いっぱいで、周囲に対して気力体力を振り分けることができないのだと思う。感じよく振舞う、相手に配慮することに多大な気力体力を使わざるを得ない人もいるのだ。自分もわりとそうなので、寧子が疲労していく様は他人事とは思えないし、そんな状態で接客業なんてやったらダメ~!とハラハラしてしまった。感じよく振舞いたいという意欲はあるんだけど、頭と体がついていかないんだよね・・・。
 寧子は津奈木に、自分が言葉と感情をぶつけたら受け流さずに返してほしいと訴える。自分と同熱量、同じ本気度で対峙してほしいのだ。気持ちはわかるが、常にそれを求めるのは酷だよなぁ・・・。寧子は自分と相手との感じ方のギャップに敏感で、自分の気持ちが伝わっていないとわかるとすごく傷つく。バイト先の店長たちとのちぐはぐさも、こういうことってよくあると思うのだが、見ていて辛かった。コミュニケーションの理想が高いというか、ある意味相手を過大評価しているんだろう。そんなに全力で生きられないよ・・・。作中、彼女に対して一番本気でぶつかっていたのは安堂かもしれない。すごく迷惑な本気度ではあるけど、安堂はやりとりを流さないんだよね。


『傍らにいた人』

堀江敏幸著
 慣れ親しんだ文学の中で、何かの拍子に思い起こされる登場人物や情景。日本文学を中心に、そんな「傍点を打たれた」風景を紹介していく52篇。
 「その折の景色のなかに目立たない見えない傍点が打たれていたのだと気づかされるような影たちと、何度も遭遇してきた」という著者の一文があるのだが、読書を続けているとこういう体験があるのだと最近分かるようになってきた。初めて読んだその時ではなく、再読した時や全く別の書物を読んだ時に、ふいにあの時読んだあれはそういうことだったのか、と腑に落ちることがあるのだ。本作はそんな、附に落ちる瞬間をいくつも掬い上げている。更に本作、一つの章から次の章へとリレーのように橋渡しがされている。新聞連載だったという側面もあるだろうが、このように一つの文学から他の文学へと記憶と知識が飛び石のように繋がっていくと言うのが、教養があるということなんだろうなとつくづく思った。優れた批評集でもあり、取り上げられている作品は有名なものが多いのだがまた読みたくなる。シャルル=ルイ・フィリップ『小さな町で』が取り上げられているのが嬉しかった。

傍らにいた人
堀江 敏幸
日本経済新聞出版社
2018-11-02


その姿の消し方 (新潮文庫)
堀江 敏幸
新潮社
2018-07-28


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