3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2018年06月

『終わった人』

 東大卒で大手銀行に就職したものの、いつしか出世コースから外れ、関係会社に出向したまま定年退職を迎えた田代壮介(舘ひろし)。美容師として働いている妻・千草(黒木瞳)が多忙にしているのを横目で見つつ、自分は「終わった人」になったと落ち込み、毎日暇を持て余していた。しかし青年実業家・鈴木(今井翼)やカルチャーセンターの職員・浜田(広末涼子)らとの出会いで、壮介の人生は再び動き出すように思えたが。原作は内館牧子の小説。監督は中田秀夫。
 すごく額面通りの演出とでも言えばいいのか、多分原作小説の文字に書かれたことをそのまま、かつ記号的に映像に置き換えているんじゃないかなという気がした。特に壮介の浜田に対する恋心とやる気(笑)の演出は、今時それはないよな!コメディ演出としてもスベっており、真面目すぎるのか、野暮ったいのか・・・。分かりやすいと言えば分かりやすいのだが、見ていて気恥ずかしいのは何とかしてほしい。ちゃんと真面目に映画を作っているということではあるし、手堅い作品ではあるのだが。
 前半は、「定年後やったらダメなこと事例」のようで、ある意味大変教育的。数年後に定年退職を控えてている方は、教材として見てみるのもいいかもしれない。定年退職したら夫婦で旅行に行きたいなーなんて話は実際によくあるが、既に妻には妻の生活と人付き合いがあって、夫と一緒に旅行する暇もないし気分も乗らない。壮介に旅行に誘われたり車で迎えに来られたりしてうっすら迷惑そうな千草、対して「仲の良い熟年夫婦」のつもりでご満悦な壮介のすれ違いはイタい。壮介、早く気付いて!と言いたくなる。定年後に夫婦で円満に生活するには、それまでの積み重ねが必要なのだ。積み重ねが必要ということがわからないのではなく、自分が積み重ねていないことに気付かないままの人が多いんだろうけど。
 千草との関係が既にすれ違っていることだけでなく、壮介は色々なことに気付かない。浜田との関係にしろ、自分の仕事能力の度合いにしろ。彼がちょっとずつ「今」の自分とその周囲のことについて気付いていく話でもある。とは言え、定年退職イコール「終わった人」って、世界が狭すぎる気がする。そんなに仕事が好きですか。他に社会との接点はないのか。そもそも社会との接点がそんなにないとダメなのか。このへんの感覚はやっぱりわからないなー。

終わった人 (講談社文庫)
内館 牧子
講談社
2018-03-15


定年ゴジラ (講談社文庫)
重松 清
講談社
2001-02-15



『ソロ』

ラーナー・ダスグプタ著、西田英恵訳
 ブルガリアの首都ソフィアでうらぶれたアパートに暮らす盲目の老人ウルリッヒは、貧しく、家族も親族もいない。ご近所の厚意に助けられて暮らしている彼は、自分の子供の頃からの記憶をひもといていく。一方、ブルガリアの田舎町に生まれた少年ボリスは幼い頃に両親を亡くすが、音楽の才能を開花させていく。更にグルジアの首都トビリシで豊かな家に生まれたハトゥナとイラクリ姉弟は、共産主義の崩壊と共に没落の一途をたどる。
 第一楽章「人生」ではウルリッヒの、第二楽章「白昼夢」ではボリスとハトゥナ、イラクリの人生が描かれる。第一楽章と第二楽章は語り口のテイストやリアリティラインが微妙に異なり、なぜ一見ウルリッヒとは関係なさそうな人たちの話を?と思うかもしれない。しかし第二楽章は第一楽章の変奏、つまりウルリッヒの人生の変奏曲なのだ。第一楽章を読む限りでは、ウルリッヒの人生は何者にもなれなかった、全て徒労に終わったようなものと捉えられるかもしれない。ウルリッヒ自身も、そう思ってきただろう。しかし、彼の内的世界の豊かさは別の物語を作り上げる。それは決して徒労ではないし、みじめな行為ではない。自分の人生を受け入れる為の作業なのだ。第一楽章での様々な局面、要素が第二楽章に織り込まれており、ボリスもハトゥナもイラクリも、あったかもしれないウルリッヒの人生の一部だ。人間はなぜ物語を必要とするのか、物語の効用とはどんなものなのかを体現する作品だと思う。
 読み終わると、題名『ソロ』正にその通りの内容なのだと納得するだろう。また各楽章内の章タイトルは、メイン登場人物の属性や指向を象徴するのだろうが、時に彼らの人生との矛盾を感じさせ切なくもある。なお、功利と精神性を理解しない物質主義を体現したようなハトゥナの造形が、少々ミソジニーを感じさせるものなのは気になった。

ソロ (エクス・リブリス)
ラーナー・ダスグプタ
白水社
2017-12-23



東京へ飛ばない夜
ラーナ ダスグプタ
武田ランダムハウスジャパン
2009-03-12


『ワンダー 君は太陽』

 10歳の少年オギー(ジェイコブ・トンブレイ)は生まれつきの障害のせいで、人とは違う顔のつくりをしている。その為長らく母親イザベル(ジュリア・ロバーツ)を教師に自宅学習をしていたが、小学5年生から学校に通うことになった。最初のうちは周囲から奇異の目で見られ、いじめにも遭うが、徐々に友達もでき、周囲の目も変わり始める。原作はR・J・パラシオのベストラー小説『ワンダー』、監督・脚本はスティーブン・チョボウスキー。
 オギーが環境に適応するというよりも、周囲が彼がどういう人間なのか知り接し方が変化していくことで、オギーが学校内での立ち位置を確保できるようになるという面が大きい。校長が言うように、私たちが知ろうとしないと、変わらないとということなのだろう。いじめられるのはオギーの責任ではないのだ。色々な人がおり、それが普通のこととして対応する世の中がいいんだという姿勢は、教師として正しい。若さ故にもうちょっとぎこちない新任教師にも、やはりそういう姿勢がある。オギーの周囲にいる大人が、教師も両親もちゃんとした人たちで理解があるので、安心して見ていられる。
 とは言え、オギーが周囲から好かれるようになった、評価されるようになったのは、彼が頭が良く、性格も良く、ユーモアを持っているからだろう。「普通」の小学5年生よりはもうちょっと出来る子、「持ってる」子なのだ。この「持ってる」部分が若干盛られすぎなように思った。それって「普通」なの?とも、そりゃああれだけ才能あって性格良ければ好かれるでしょ、とも。本人の生まれ持っての才能や努力で障害を克服しているように見えちゃうのは、ちょっと違う気がする。突出した才能がなくても、人柄が秀でているわけではなくても、障害や見た目に関係なく「普通」にお互い接することが出来るというのが正しいあり方なんじゃないかな・・・。
 オギーの視点だけではなく、家族や友人の視点から順番に物語が描かれ、オギーと家族との関係や、学校での人間関係がよりよくわかる。体が弱くケアが必要だった弟がいることで、良い子でいざるをえないオギーの姉のパートが切ない。彼女は元々弟が欲しかったのでオギーのことを大好きだし姉弟仲は良いのだが、時々両親に自分の方を見てほしいのだ。彼女の友人が、オギーと家族のことを太陽系みたいだと言うのだが、言い得て妙だ。自分以外の誰かが常に家族の中心で、自分の番は回ってこないというのは、ちょっときついと思う。

ワンダー Wonder
R・J・パラシオ
ほるぷ出版
2015-07-18


ウォールフラワー スペシャル・プライス [DVD]
ローガン・ラーマン
Happinet(SB)(D)
2015-12-02


『ニンジャバットマン』

 ゴッサムシティで街の平和を脅かすヴィランたちと戦うバットマン(山寺宏一)。ある日ゴリラグロッド(子安武人)の企みに巻き込まれ、ジョーカー(高木渉)らと共に時空転送されてしまう。バットマンがタイムスリップしたのは戦国時代の日本。各地の戦国大名に成り代わったジョーカーたちによる歴史改変を止める為、忍者たちと共に戦いを挑む。監督は水崎淳平。
 アニメーション制作は神風動画で、スタジオ代表の水崎が監督を務めている。アニメーションとしてのクオリティは素晴らしくかつユニークで、これが今の神風動画だ!という自負と自信を感じる。岡﨑能士のスタイリッシュかつややこってりめのキャラクターデザイン、またディティールのデザインや背景美術の和風テイスト、それぞれの要素のバットマンという作品への落とし込み方がとても上手い。特に背景美術は浮世絵っぽい構成だったり、背景全体に和紙の風合いや空摺っぽい文様を入れる等、大変凝っている。和「風」であり、伝統的な和というわけではなくどこかキッチュさをまとっているところも魅力。アメコミを戦国時代舞台でやる、という設定に対してのビジュアル面でのアイディアが満載で、とても楽しい。アニメーションの方向性も、セル画に寄せた部分、3DCGに寄せた部分等バラエティに富んでいて楽しい。一部手書きアニメーションのパートもあり、スタジオのイメージとは大分違うのでちょっと驚いた。
 中島かずき脚本だが、実にらしいというか、キャッチーさとケレンたっぷり。後半の城の使い方にしろ猿やコウモリの使い方にしろ、やりすぎ!と突っ込みたくなるが、バカバカしいことを全力フルスイングでやられると逆にバカっぽくならないものだなと思った。悪ふざけをしているという感じではなく、ストーリーにしろビジュアルにしろ、自分たちのバットマンはこれだ!という大真面目な姿勢に感じられる。これをやってもOKだというDCコミックは懐が深い・・・。バットマン、ジョーカーというアメコミキャラクターの汎用性の広さも実感した。
 声のキャスティングはベテラン揃いでどのキャラクターも良い。特にジョーカー役の高木は、この人以外のジョーカーはちょっともう考えられないかなというくらいハマっていた。逆に、絶対安全パイ的な山寺の方が、別に山寺さんじゃなくても・・・的な雰囲気。今回割と抑え気味の演技だし、バットマン自体そんなに個性の強いキャラクターではないからかな。

バットマン:ハッシュ 完全版
ジェフ・ローブ
小学館集英社プロダクション
2013-09-28


ポプテピピック vol.1(Blu-ray)
三ツ矢雄二
キングレコード
2018-01-31


『モーリス』

E.M.フォースター著、加賀山卓朗訳
 凡庸な少年時代を送ったモーリスは、ケンブリッジ大学に進学。学舎で聡明で博識なクライヴと知り合い、お互いに深い親しみと愛情を感じるようになる。モーリスは体が触れ合ううちに想いを募らせ、クライヴも愛の言葉を口にするが。
 新訳がとても読みやすく理解しやすいのでお勧め。青春小説としてこんなに面白かったんだなと新鮮だった。モーリスはどちらかというと俗人で知的好奇心が強い方ではないし、作中でも何度も鈍いと評されている。新しい知識、世界に積極的で感性豊かなのはクライヴの方だ。2人の学生生活はまさに青春!という感じでキラキラしており、恋愛の高揚感に満ちている。とは言え、この時代、同性愛は罪悪と考えられており、法的にも処罰された。先進的に見えたクライヴがやがてキリスト教的な罪の意識から逃れられなくなり、コンサバに見えたモーリスがそのあたりに無頓着になっていく逆転は面白いが切ない。モーリスはやがて同性を愛する自分を「治療」しようとまで思い詰めるが、最後には自分が同性愛者であることを受け入れていく。彼の苦しみの半分は時代によって規定された規範によるものだが、自分自身を受け入れていくという部分では普遍的なものがあるかもしれない。
 また、イギリスの階級社会を描いた作品としての側面もある。ここでもモーリスとクライヴの考え方の逆転が起きており、モーリスが旧来の規範や階級を突破していく(そういう意欲があるということではなく結果的にそうなってしまうのだが)人物だという印象が強まる。とは言え、労働階級の生活をモーリスが理解しているというわけではなく、アレックに対する呼びかけも世間知らずとしか言えないのだが・・・。その甘さがモーリスという人の特徴なのだろう。

モーリス (光文社古典新訳文庫)
E.M. フォースター
光文社
2018-06-08


モーリス restored version [DVD]
ヒュー・グラント
ハピネット・ピクチャーズ
1998-11-21


『恋は雨上がりのように』

 怪我によって陸上部選手として活躍できずにいた高校生・橘あきら(小松菜奈)は、雨宿りに入ったファミレスで店長の近藤正己(大泉洋)と出会ったことがきっかけで、そのファミレスでアルバイトを始めた。あきらは近藤への恋心を募らせるが、45歳離婚歴あり子供ありの近藤はその想いに戸惑う。原作は眉月じゅんの同名漫画、監督は永井聡。
 漫画原作だからなのか監督のテイストなのか、漫画的なコミカル、誇張された表現が度々見られるのだが、本作の場合はそれがミスマッチだったように思う。全体の構成や台詞も、もっと映画という媒体に寄せた方がよかったんじゃないかなと、少々勿体ない気がする。映画には映画としての表現方法があるので、漫画やアニメ、あるいはTVドラマの見せ方にそんなに近づけなくてもいいんだけどな。
 あきらの店長に対する想いは恋だが、近藤は(心揺れることはあっても)あきらに恋をしているわけではないだろう。あきらのことを好ましく、まぶしく思うことはあっても、それは本人が言及するように、自分が若い頃に抱いていた(そして本当は今も抱いている)情熱を思い出させる、媒介のようなものだ。恋愛物語としてはあきら側に大分寄せており、より青春映画のテイストが強まっているように思った。
 青春映画として悪くないなと思えた要因の一つは、あきらの同級生や後輩役の俳優たちが好演していたということもある。あきらの幼馴染で陸上部の同期でもあるはるかを演じる清野菜名は、前半はちょっと演技がぎこちないのだが、夏祭りのあたりからぐっと良くなる。近藤と話しているあきらの姿を見た時の表情や、その後の思いの吐露等、すごく巧みな演技というわけではないが心情がこもっている感じ。他校の陸上選手であきらと競いたいと願うみずき役の山本舞華も、素直さとふてぶてしさが同居しているような表情が良かった。
 キャスティングの妙としては、やはり大泉の安定感が大きいだろう。高校生がギリで好きになりそう、かつ未成年に手を出さなそうという信頼感。近藤の大学の同期で人気作家の九条ちひろ役に戸次重幸を起用しているあたりは確実に双方の古参ファンを狙っているのだろうが、色々な意味でもにゃもにゃしますね・・・。


『万引き家族』

 治(リリー・フランキー)、信代(安藤サクラ)夫婦と信代の「妹」亜紀(松岡茉優)、治と信代の「息子」祥太、そして「おばあちゃん」初枝(樹木希林)。一家の生活を支えるのは初枝の年金と治の日雇仕事の賃金、信代のクリーニング店でのアルバイト料だ。治と祥太はある夜、団地の廊下に放置されている幼い女の子を見つけ、連れ帰ってしまう。一家はその女の子をりんと名付け、一緒に暮らし始める。原案・脚本・監督・編集は是枝裕和。第17回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作。
 是枝監督作品では度々家族の姿、ありふれていそうだが特に理想的ではない家族の姿が描かれる。本作もまた家族が物語の中心にあるが、その家族のありかたは非常に危うい。何となく寄り集まっているうちに家族的なものになってしまったような心もとなさがある。
 彼らが子供を育てるという責任を全うしているのかというと、そうとは言い切れないだろう。経済面はともかく、子供への教育や倫理的な問題を教えていくことは、彼らには出来ないしそういうことをしなければという意識もあまりなさそう(万引きは悪いことなのかと尋ねる祥太に対する信代の答えとか)。祥太が自分がやっている万引きと言う行為の是非について漠然とした疑問を持ち、自分たち「家族」のことを考え始めた時点で、この家族の終わりの気配が見え始める。
 とは言え、治も信代も子どもたちに愛情はあり、彼らの世話はそれなりにしている。虐待を続けていたりんの両親とはよっぽどましだ。愛情だけでは、あるいは血のつながりや経済的バックボーンだけでは家族として機能していると言えないだろう。生活に不足なく、教育も十分に受けられ、ごく模範的な家族に見えても、その中に居場所がない人もいる。家族という仕組み、また人間そのものの曖昧さや両義性を、善悪どちらかの側に偏らないように注意深く描いた作品だと思う。

海よりもまだ深く [DVD]
阿部寛
バンダイビジュアル
2016-11-25


わたしは、ダニエル・ブレイク [DVD]
デイヴ・ジョーンズ
バップ
2017-09-06


『それから』

小さな出版社の社長キム・ボンクン(クォン・ヘヒョ)は、新人スタッフとしてソン・アルム(キム・ミニ)を雇う。アルムの出勤1日目にボンクンの妻が来社し、アルムをボンクンの浮気相手と勘違いして責め立てた。同じ夜、ボンワンの本当の愛人で部下だったイ・チャンスク(キム・セビョク)が戻ってくる。監督はホン・サンス。
 男女のしょうもないやりとりが延々と続き、絶対その場に交じりたくないと思うが、妙に面白い。大人のダメさとだらしなさが縦横無尽なのだが、それが彼らの可愛げになっており見ていて不快にならないところが面白い。大人に対する期待値が低そうな映画だ。恋に浮足立っているボンクンのふわふわ加減や独りよがりなセンチメントにしろ、アルムが彼の愛人と間違えられたと知ると、彼女と不倫していることにすればいじゃない私は奥さんに顔割れてないし!と言いだすチャンスクにしろ、結構身勝手でおいおい!と突っ込みたくもなる。
 三角関係に巻き込まれた形になるアルムはいい迷惑ではあるのだが、彼女は彼女でボンクンに形而上的な議論をふっかけたりその議論にあまり実がなさそうだったりと、なんだか青々しい。アルムは生真面目なんだかふざけているんだかよくわからないところがチャーミングだった。タクシー車中のシークエンスは、本作内で最もキム・ミニが美しく魅力的に映っているのではないだろうか。
 3人の“それから”は非常にあっさりとしている。あの盛り上がりは何だったの、というオチの決まらなさが、そんなものだよなぁという諦観とおかしみの余韻を残す。社長たちは次の段階へ進んでしまい、アルムだけまだ“それから”と言える段階に辿りついていないようにも思えた。彼女は他の登場人物に比べるとまだ青年のようなのだ。

ソニはご機嫌ななめ [DVD]
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2015-05-30


教授とわたし、そして映画 [DVD]
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紀伊國屋書店
2013-05-25


『バーフバリ 王の凱旋』

 蛮族カーラケーヤとの戦争に勝利し、マヒシュマティ王国の次期国王に氏名されたアマレンドラ・バーフバリ(プラバース)。見聞を広げる為に身分を隠して国外を旅する中で、クンタラ王国王女デーヴァセーナ(アヌシュカ・シェッティ)と恋に落ちる。彼女を妃にしようと国に連れ帰るが、王の座とデーヴァセーナを奪われたことをねたむ従兄弟バラーラディーヴァ(ラーナー・ダッグバーティ)の策略に翻弄される。監督はS・S・ラージャマウリ。
 前作『バーフバリ 伝説誕生』(伝説誕生の主人公・シヴドゥの父親の話が王の凱旋なのね)は見ていないのだが、意外と大丈夫。また完全版で見たのだが、さすがに長すぎて終盤少々辛かった。ただ、音楽と踊りがあることでかなり間がもつし飽き難くなるんだなということは良く分かった。歌って踊っている場面は概ね楽しい。私は普段、本作のような超エンターテイメント大作のインド映画を殆ど見ないので、その作法には少々戸惑った。ブロマイド風ショットにそんなに尺がいるの?とか、CGの風合いがもろCGでも気にならないの?とか、このシークエンスここで切っちゃうの?そしてここと繋ぐの?とか。映画に求めるものの違いがなかなか面白い。ドラマ部分よりも歌謡ステージ的な部分の方が見ていて違和感ないのは、求めるもののギャップが少ないからなんだろうな。
 バーフバリのキャラクターが、意外と見えてこないところが興味深い。際立った個性があるわけではなく、最大公約数的な「英雄」「ヒーロー」といった感じだ。対してデーヴァセーナや王母シヴァガミ(ラムヤ・クリシュナ)らは、こういう人でこういう価値観を持っている、という造形がはっきりとわかる。特にデーヴァセーナの率直さや強さは好ましかった。そりゃあ指を切るよな!デーヴァセーナの従兄弟がバーフバリ言葉により本当の勇気を手にする姿にもぐっとくる。その分、後々の展開が辛いんだが・・・。

バーフバリ2 王の凱旋 [Blu-ray]
アヌシュカ・シェッティ,ラーナー・ダッグバーティ,サティヤラージ,ラムヤ・クリシュナ,ナーサル,タマンナー プラバース
株式会社ツイン
2018-02-21


バーフバリ 伝説誕生 [Blu-ray]
プラバース
株式会社ツイン
2017-07-05


『警官の街』

カリン・スローター著、出水純訳
 1974年のアトランタ。3か月間で警官4人が殺害される事件が起きていた。どの死体もひざまづき額を撃たれるという処刑スタイルのもので、犯人は“アトランタ・シューター”と呼ばれていたが、証拠は何もなく容疑者も上がっていなかった。5人目の被害者が出たが、今までとは殺害スタイルが違う。女性警官マギーは捜査に加わりたいと熱望するが、男性社会の中ではまともにとりあってもらえず、独自に調べ始める。
 警察小説として、70年代を描いた小説として、この時代・場所で女性として生きることがどういうことか描いた小説として、とても面白かった。警察という組織の体質に加え土地柄もあるのか、人種差別、女性差別が厳しい。女性が警官になるということ自体が(ことに警察内部から)白眼視されていた時代だ。マギーが男性同僚から受けるセクハラは耐え難いし、母親や叔父から受ける警官を辞めろというプレッシャーもきつい。特に母親と叔父とが違った形でマギーを縛ろうとする様には怒りが沸いてくる。一方、育った環境からして警官らしからぬ新人警官ケイトの下剋上的奮闘は清々しい。冒頭とラストの対比にはぐっとくる。女性達の共闘に対して、白人男性警官らによる警察という組織の異形さが浮かび上がってくる。

警官の街 (マグノリアブックス)
カリン・スローター
オークラ出版
2015-12-25


あなたに不利な証拠として (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローリー・リン ドラモンド
早川書房
2008-03-01






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