3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2018年03月

『聖なる鹿殺し』

 心臓外科医のスティーブン(コリン・ファレル)は美しい妻アナ(ニコール・キッドマン)と2人の子供に恵まれ、郊外の閑静な住宅地で暮らしていた。スティーブンは16歳の少年マーティン(バリー・コーガン)と時々会っている。マーティンを家族に紹介した時から、奇妙なことが起こり始める。監督はヨルゴス・ランティモス。
 奇妙な復讐劇というかホラーというか・・・。呪われる理由はあるものの、呪いの表出の仕方が独特かつ発動・収束システムがいまいちわからない(収束方法の説明はあるけど筋が通っているかというと・・・)。呪いの表出よりも、理屈が通じない、話が一方的で対話にならない部分がホラー的に怖かった。
 とは言え呪いそのものというよりも、そういう理不尽さに直面した時にスティーブンがどのように振舞えるかという所の方が重要な話だし、呪いの発動元もそこを見たがっていたんじゃないかと思う。マーティンもスティーブンの息子でまだ幼いボブも、スティーブンの体毛の濃さを妙に気にする。嫌がると言うよりうらやむ、面白がると言う感じ。「大人の男」としての印に引き付けられているということになるのか。マーティンはスティーブンに彼が考える「大人の男」を強要しているようにも思える。
 マーティンが考える「大人の男」は、セックスという要素も含むのだろう。スティーブンはマーティンの母親からセックスの誘いを受けるが、拒む。もちろんこの場合拒むことが「大人」としての適切な振る舞いなのだが。一方家庭では、死体のふりをするアナを見ながらオナニーするという関係。実際の所はセックスしようがしまいが大人たることは出来るのだが、マーティンが考える「大人の男」ではない。そもそもスティーブンは「大人の男」というよりも「大人」としての振る舞いがなかなか出来ない。彼は延々と迷い続け、追求も決断も保留する。対してアナの言動と決断は明瞭だ。あるシーンでは明瞭すぎてそこまで言う?!と思ったくらい。

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2018-03-02


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2016-11-30

『15時17分、パリ行き』

 2015年8月21日、アムステルダムからパリへ向かう高速列車タリスで、銃で武装したイスラム過激派の男が無差別殺人を試みた。たまたま列車に乗り合わせていた米空軍兵のスペンサー・ストーン(本人)とオレゴン州兵のアレク・スカラトス(本人)、アンソニー・サドラー(本人)は男を取り押さえ、大参事を防ぐ。彼らは幼馴染同士で、休暇を利用してヨーロッパ旅行をしていたのだ。監督はクリント・イーストウッド。
 実際の事件を題材に、事件の当事者が本人役を演じているということで話題の本作だが、イーストウッド監督作品の中でも相当奇妙な味わいの作品だと思う。本人が本人役を演じる、というか当時を再現する「再現ドラマ」とも言えるのだが、いわゆる再現ドラマとは映像が明らかに違い、映画としか言いようがない。更に終盤、当時の実際の報道映像も使用されているのだが、割と最近の出来事だしそこに至るまで本人が本人役なわけだから、当時の本人と映画として演じている本人の見分けがつかない。「実際」の映像と「映画」の映像が限りなくシームレスになっているのだ。近年のイーストウッドは実話題材を好んで扱っているが、俳優は当事者本人でもいけるとなると、イーストウッド映画ではプロ俳優は必ずしも必要ないということになってしまう。どこまでが映画か?どこまで映画として撮れるのか?という壮大な実験が開始されてしまったような・・・イーストウッド存命中に実験終わるのかな・・・。
 事件は冒頭から断片的にちらちらと提示されるが、本格的に始まるのは終盤。それまではスペンサー、アレク、アンソニーの少年時代を経て、彼らがヨーロッパを旅する様子が延々と続く。スペンサーとアレクは幼馴染で、アンソニーが転校生としてやってくる。教師からADDと断定され(最初の学校の担任教師といい転校先の校長といい、えっ教員がそういうこと言うの?!ってちょっとびっくりした)学校から浮いているスペンサーとアレク、口が達者でいたずら好きのアンソニーは意気投合する。とは言えその後ずっと一緒にいたわけではなく、アンソニーはまた転校する。スペンサーとアレクも違う道を進んでいく。
 ドラマはスペンサーに主に焦点をあてているのだが、彼は空軍のパラシュート部隊に憧れ、空軍に入ったものの身体能力で落第、他の部門でも遅刻をし、最終的にサバイバル技能や応急処置を学ぶことになる。彼の人生にはちょこちょこと躓きがあり、自分でもどこに向かえばいいのかわからないまま紆余曲折しているようにも見える。ただ、兵士として人の役に立ちたいという意欲はずっと持ち続けており、失望しても腐ったりしない。この意欲を持ち続けていたことが、彼がテロリストに対してとっさに動けた原動力であるように見える。もちろん、彼がパラシュート兵になれずにサバイバル技能を学び、その中で出血時の応急処置を学んだのも、柔術を学んだのも、他の観光客が勧めなかったパリ(パリってそんなに嫌われているんだろうか・・・)に向かったのも、Wifi利用の為に一等車に移動したのも偶然だ。しかし映画として再現されると、全てテロを防ぐという一点の為に経てきた体験のように見えてくる。それが映画と単なる再現映像との最大の違いなのかもしれない。


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2012-04-25


『犬猿』

 印刷会社の営業職をしている金山和成(窪田正孝)は粗暴でトラブルメーカーの兄・卓司(新井浩文)にうんざりしつつも恐れていた。和成の取引先である印刷工場の二代目社長・幾野由利亜(江上敬子)は、和成に密かに思いを寄せていた。由利亜の妹・真子(筧美和子)は印刷工場を手伝いながら女優を目指している。仲の悪い2組の兄弟姉妹は、やがて感情を爆発させていく。監督・脚本は吉田恵輔。
 兄弟姉妹に起こりがちな気まずさ、険悪さに満ちている。兄弟姉妹のいる人なら、どこかしらあるある!と頷く部分があるのではないか。いやーな気分にさせる要素に関して、細かい部分まで目が行き届いておりいちいちいやさを感じさせる。他人に対してこういう種類のいやさはあまり感じないだろう。縁を切れないからいやさが募るのだ。
 彼らが抱える、兄弟姉妹への屈託・コンプレックスの描き方、そしてその原因となっている兄弟姉妹の描き方は、若干戯画的である種の型に沿ったものとも言える。しかしだからこそ「あるある」感に直結している。「出来のいいお嬢さん」ではあるが容姿に恵まれなかった由利亜の、容姿に恵まれ愛され上手な妹へのコンプレックスはそりゃあそうだろうなと言うもの。が、真子にとっては姉は有能で何でも自分より出来る(英会話のくだりがきつい)、少なくとも家業では必要とされる存在で、自分の取り柄は「かわいい」だけ、しかもその「かわいい」も中途半端なものなのだ。この姉妹は、お互いにもうちょっと違う接し方をしていたらこんなに関係悪化しなかったんじゃないかという部分が見え隠れして、いちいち「ちょっと言い方ー!」と突っ込みたくなりいたたまれなかった。
 対する金山兄弟は、卓司の暴力性があからさまで、それに対する恐怖が刷り込まれた和成は逆らえない。これは男兄弟特有の上下関係なのかな。とは言え和成は和成で兄の暴力を影でそれとなく利用したり、嫉妬しつつも言い訳がましく馬鹿にしたりと、恐怖一辺倒ではない。和成を演じた窪田は最近の出演作の中では最も好演だったのでは、目の不穏さが際立っている。一方、実家に高額なプレゼントをした卓司が、結局和成の安価なプレゼントの方が長年愛用されている様を見てキレるのだが、これって末っ子あるあるだわ!と。一見卓司が圧倒的強者に見えるが、対両親についてはそうでもないわけだ。
 終盤、沸点部分が長すぎな気がした。エモーショナルな音楽とか流されると逆に冷める。その後の「穏やかに見えるけど実は」的な不穏な気配は、兄弟姉妹ってそういうものだろうなとは思う。所で本作の兄弟姉妹、子供時代は仲が良かったという設定なのだが、仲悪い兄弟姉妹って大概子供時代から仲悪いんじゃないかな?むしろ子供時代は仲悪かったけど、大人になったら(大人として話し合えるようになるので)関係改善されたってパターンの方が多い気がするのだが。




『しあわせの絵具 愛を描く人 モード・ルイス』

 カナダ東部の小さな町に暮らすモード(サリー・ホーキンス)は兄が実家を売却した為、叔母の元に身を寄せていたが、叔母とは反りがあわない。ある日モードは雑貨店に貼られた家政婦募集の広告を見て、広告主で魚の行商をしているエベレット・ルイス(イーサン・ホーク)の小さな家に押しかけ、半ば強引に住込みで働き始める。監督はアシュリング・ウォルシュ。
 題名はほんわか風、予告編はかなりガーリーな雰囲気だったが、本編はもっと落ち着いたトーン。モードとエベレットの難物ぶり(決してお友達になりたいタイプというわけではない)、お互いにすごく腹が立つであろう面も見せている。それを踏まえた上で、色々難ある2人がお互いに補いあう関係になっていく過程が、ラブストーリーとして染みてくるのだ。
 モードはいわゆるピュアでか弱い女性というわけではない。人づきあいが苦手でともすると粗暴になってしまうエベレットとさしでやりあうのだから、それなりにタフだし性根も座っているのだ。自分と言うものがしっかりとあるのに、自立した人間ではない(一人暮らしなどできない)と家族に見なされて、そりゃあ腹立たしかったろうなと思える。
 対するエベレットは人から好かれやすいとはお世辞にも言えないような人だが、周囲から侮られてはならない(彼は読み書きや言葉を選ぶことが不得手)と気を張って生きてきたように見える。人づきあいに乏しいので、「住込み」で女性を雇うとどういうことが生じるか考えが至らない。モードのことを最初は持ち物や家畜のように扱うが、徐々に変化していく。
 2人の関係は雇用主と従業員として始まるが、段々ビジネスパートナー的な関係になっていく。モードがエベレットの顧客メモを作り、エベレットはモードの絵を売る。実生活の上で補い合うにつれ、精神的にもお互いに相手が大事にしているものへの尊重が生まれていくのだ。モードがエベレットの小屋で絵の制作を続けるのも、エベレットがモードをある場所に連れて行くのも、そういうことだろう。どちらかというと、エベレットがモードにより変化していった側面の方が大きかったんじゃないだろうか(精神的な面はもちろんだが、モードが絵に専念するようになると、エベレットの家事スキルがどんどん上がっていくのがわかるあたりが面白かった)。モードのエベレットに対する態度は最初からオープンで、そんなに変わらない。その変わらなさが何だかすごいなと思った。

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2007-12-21


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『シェイプ・オブ・ウォーター』

 政府の極秘研究所で清掃員として働くイライザ(サリー・ホーキンス)は、研究所に運び込まれた不思議な生き物(ダグ・ジョーンズ)を目撃する。それはアマゾンで神のように崇拝されていたという、水中で生きる生物だった。彼に興味を覚えたイライザは、密かに会いに通い手話や音楽でコミュニケーションを図る。声を出すことが出来ないイライザにとって、彼は素のままの自分でいられる唯一の存在となる。しかし彼を解剖する計画があることを知り、イライザは何とか彼を逃がそうとする。監督・脚本はギレルモ・デル・トロ。
 イライザも、彼女の隣人のジャイルズ(リチャード・ジェンキンズ)も、同僚のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)も、研究者のホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)も、決して社会の中での立場が強いわけではない、「隅っこ」に生きる人たちだ。そんな彼らが、イライザの情熱に突き動かされるかのように、“彼”を救出するため団結していく。自分にとって得にはならない無謀な行為だが、友人の為に、あるいは“彼”という神秘的な、おとぎ話のような存在を守る為に。イライザと“彼”のラブストーリーではあるが、異種間のラブストーリーというファンタジーに殉じる人たちの姿にも見える。ファンタジーなしでは生きられない、ファンタジーと共に生きるという姿は、デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』を思わせる(というかデル・トロ監督作品は往々にしてそういう側面があるのだろう)。ロマンチックではあるが、結局この世界には居場所がないのだろうかという、はみ出し者たちの哀歌も聞こえてきそうだ。
 一方、施設の警備担当ストリックランド(マイケル・シャノン)は非常に現世的・即物的でマッチョな嫌な奴だ。彼は"彼”を虐待し、イライザやゼルダに平気でセクハラ・パワハラをはたらき、サディスティックな面を隠そうともしない(イライザに興味を示すのは彼女が「物を言えない」からだ)。しかし彼の過剰なマッチョさと立身出世欲は、「まともな男であれ」というプレッシャーによるものではないかと垣間見えてくる。ストリックランドの妻子は絵に描いたような「アメリカ中流の白人の家庭」で、こういう家庭を持っておけば「合格」であろうというストリックランドの思考が透けて見えるみたいで気味が悪い。マチズモの弊害を体現したような人物だ。
 アンチ『美女と野獣』とでも言うべき作品で、美しさは結局一様なのか?!そっちの基準に合わせるしかないのか?!という鬱憤が晴らされた感がある。ただ、ちょっと無神経な部分も気になった。イライザに関するセクシャルな描写は必要性が感じられず正直頂けない(ホーキンスにわざわざあの演技をさせる必要があるのか?という意味で)。また流血肉体破損描写についても同様で、必要性があるというよりも趣味としてやりたいからに見える(それはそれでいいんだけど、だったらそういう趣旨の作品でやってほしい)。猫絡みのシーンは、ダメな人は本当にダメだろうな・・・。なお各方面で言われているだろうけど、ゼルダの造形はイライザに対して理想的な友人すぎて、いわゆる白人に都合のいい黒人的に見える部分も。基本色々気遣いされた作品なのだが、気遣いにムラがあるように思う。

パンズ・ラビリンス [Blu-ray]
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2013-05-22


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『ブラックパンサー』

 アフリカにある王国ワカンダは、絶大な力を秘めた鉱石ヴィブラニウムを利用し、密かに超文明を築いていた。ヴィブラニウムが悪用されることを防ぐ為、代々の国王の元、秘密を守ってきたのだ。父である前国王の死により王位を継承したティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)は、王位継承の儀式の中でブラックパンサーとしての超人的な力を得る。ヴィブラニウムの輸出をもくろむ武器商人のユリシーズ・クロウ(アンディ・サーキス)と彼に協力する元工作員エリック・キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)の存在を知り、国を守る為に元婚約者で諜報員のナキア(ルピア・ニョンゴ)、王国最強の戦士オコエ(ダナイ・グリラ)らと動き始めるが。監督はライアン・クーグラー。
 クーグラー監督の前作『クリード チャンプを継ぐ男』はザ・少年漫画!的な王道感が熱かったが、本作もなかなかの少年漫画感。アベンジャーズシリーズで既に登場しているブラックパンサー=ティ・チャラは大変クールでかっこよく陛下素敵!超頼もしい!と思っていたのだが、本作を見てみると、最初は意外と未熟で悩める青年という感じ。ナキアはじめ周囲の女性たち(ハーレム的でなく女性に囲まれているヒーローが登場するようになったんだなとも)の方がよっぽど頼もしい。そんなティ・チャラが国を守るとは、良き王になるとはどういうことなのかと葛藤し、前王を越えていく、ストレートな成長物語だ。なので、そんなに捻ったストーリー展開ではないしストーリーに限って言うとそれほど突出して面白いわけではない。アクションシーンも3Dを意識しているのかカメラがぐるぐる動き、目まぐるしくて期待していたほどではなかった。
 とは言え本作、今、現代のヒーロー映画で「国王」というキャラクターを使って何を物語るか、国を愛する・守るとはどういうことなのかと果敢に挑んでおり、そこがとても面白かった。ワカンダはヴィブラニウムの存在を秘密にし自国の中だけで使うことで、繁栄を保っていた。しかし諜報員として他諸国の紛争や困窮を知るナキアは、自国の利益を守るだけではだめだ、技術や資源を提供して世界が抱える困難の解決に取り組むべきではと訴える。ティ・チャラは歴代の王たちの方針に則り、自国の技術や資源を外に出すことには反対する。しかしキルモンガーの出現で、それが揺らいでいくのだ。キルモンガーのやり方は許されることではないが、彼の理念は実はナキアに近い。本作、ティ・チャラとキルモンガーが光と影になっているのではなく、ナキアとキルモンガーが光と影になっているようにも思えた。
 終盤でティ・チャラはあるスピーチをする。本作の物語は、このスピーチに説得力を持たせる為に紡がれてきたようなものだろう。このシーンが力を持っていれば、本作は成功なのだ。アメコミのヒーローである「国王」(そもそも正式な手続きに則って就任すれば正しい王と言えるのか?という要素も本作には含まれている。ワカンダの伝統的な王位継承システムは「王位継承者はそれなりに有能で倫理的」という大前提に基づいてるよね・・・)にこのスピーチをさせることに、本作の矜持が見られると思う。

ブラックパンサー・ザ・アルバム
オムニバス
ユニバーサル ミュージック
2018-02-28


ブラックパンサー (ShoPro Books)
レジナルド・ハドリン
小学館集英社プロダクション
2016-04-20



『blank13』

 コージ(高橋一生)は兄ヨシユキ(斎藤工)から、13年前に失踪した父親・雅人(リリー・フランキー)が末期がんで入院しており、余命3か月だと知らされる。コージは面会に行くが父とのやりとりはぎこちなく、その後父はあっという間にこの世を去ってしまった。葬儀の参列者たちの話から、家族が知らなかった父親の姿が立ち現れる。監督は齊藤工。
 70分という長さがちょうどいい。前半と後半でがらっと雰囲気が変わる(題名が出るのは作品中盤)所や、冒頭の導入の仕方、回想シーンへの入り方など、ちょっと映画学科の学生の自主制作作品のような演出だなと思った。が、全編見ると意外とオーソドックスな撮り方をしている。特に美術がとてもしっかりとしており、衣装のヨレ方や室内の作りこみ等説得力があった。コージ一家は雅人の借金のせいで困窮しているのだが、本当にお金ない感じがにじみ出ている(家の構造はちょっと謎だったけど・・・)。ここに説得力を持たせないと、コージとヨシユキの父親に対する憎しみ、母のわだかまりがぼやけてしまうだろう。
 スタッフと出演者に恵まれた作品だと思う。高橋一生はやっぱり上手いんだなと改めて思った。父親を見舞いに行った時に顔のこわばり方や動きのぎこちなさから、父親に対して強い葛藤があること、父親を許容できないことが伝わってくる。また母・洋子役の神野三鈴がとてもいい。生活が逼迫しすぎてちょっとおかしくなっている感じにぞわっとした。
 コージもヨシユキも父親を許せないし、雅人がろくでもない父・夫だったのは確かだろう。彼らはそんな父親を切り捨てて生きてきたわけだが、わずかな良い思い出が、コージを子供時代に引き戻す。こういうのって、すっぱり切り捨てられた方が楽なんだろうけど、なかなかそう出来ないよなぁ・・・。母親の苦労をより鮮明に覚えているであろうヨシユキとは、父親への距離感が少し違う所は、目配りがきめ細かい。葬儀での洋子、コージ、ヨシユキそれぞれの振る舞いが、彼らと雅人との関係を示しているように見えた。

父、帰る [DVD]
コンスタンチン・ラヴロネンコ
角川書店
2005-04-08


連続テレビ小説 ひよっこ 完全版 DVD BOX1
有村架純
NHKエンタープライズ
2017-08-25


『ハティの最後の舞台』

ミンディ・メヒア著、坂本あおい訳
 2008年4月12日、ミネアポリスに近い小さな町パインヴァレーで、刺殺され原型がわからないほど顔をめった刺しにされた死体が発見された。遺体は行方不明になっていた18歳のヘンリエッタ(ハティ)と判明。演技の才能があり、殺される直前まで演劇部の舞台でマクベス夫人を演じていた。ヘンリエッタの両親とも親交が深い保安官のデルは捜査を進めるが。
 生前のハティ視点のパート、彼女と関係のあるある人物視点のパート、そして捜査中のデルのパートが交互に配置され、ハティの死、そしてその真相解明にどんどん近づいていく。容疑者は早い段階で絞られるのだが、そこからの引っ張り方、転がし方が上手く次々と「実は」と展開していく。更にハティの死は最初に提示されているが、この時点でなら、あるいはこのタイミングでなら回避できたのではというやりきれなさもにじむ。ハティは聡明で演技の才能があるが、やはりまだ子供で、色々と目算が甘いし人間の心の機微は理解していない面もある。(ハティのみならず)自分の力とその方向性を見誤ってしまった故の、そして選択肢が少なかった故の悲劇にも見えた。ここが田舎町でなくある程度都会だったら、別の「演技」をする相手がいたら、また違った道もあったかもしれない。ハティがSNSである人物と文学や演劇についてやりとりする時の、お互いの高揚感は痛感できる。やっと同じ言語で話せる人がいた!という感じ。そりゃあ目も曇るよなぁ・・・。



V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)
トマス ピンチョン
新潮社
2011-03-01


『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目覚め』

 シカゴに暮らすコメディアンのクメイル(クメイル・ナンジニア)はパキスタン出身。パキスタンを紹介する持ちネタは今一つぱっとしない。両親からはパキスタン文化に則り見合い結婚しろと迫られている。ある日自分が出演するライブを見に来ていた大学院生のエミリー(ゾーイ・カザン)と恋に落ちるが、同郷者との結婚が当然と考えている家族に彼女のことを打ち明けられずにいた。これがエミリーに知られ2人は破局。しかしエミリーが原因不明の病気で昏睡状態になってしまう。監督はマイケル・シュウォルター。
 コメディアンのナンジニアの実体験を本人が演じる、しかも脚本は妻のエミリー・V・ゴードン(つまり作中のエミリー!)。今シーズンは実話を本人が演じるムーブメントでも来ているんですかね・・・。自身の体験に基づく話というと非常にパーソナルなものになりそうだし、実際にパーソナルな話ではあるのだが、どの人、どの家庭でも生じそうな普遍的な話としての側面もある。
 パキスタン人として生きてきた両親の元でアメリカ人に「なった」クメイルと、元々アメリカ人の両親の元でアメリカ人として育ったエミリーとでは、背景となる文化にギャップがある。クメイルにとってアメリカ人であることは選び取るもの、エミリーにとっては無条件で付与されたもの(だからいちいち意識しない)なんだなと考えさせられるシーンがいくつかあった。エミリーの両親は、最初はクメイルを「アメリカ人」とは見なしていなかったんじゃないかな・・・(娘を傷つけた男に対する怒りもあるし)。
 クメイルとエミリー、またクメイルとエミリーの両親の間には育った文化の違いによるギャップがある。が、同じ文化圏にいたはずのクメイルと家族の間、あるいはエミリーの父親と母親との間にもギャップはある。人と人とがコミュニケートするというのは、多かれ少なかれ異文化同士がぶつかり合うことだろう。お互い何とかやっていくにはすり合わせていくしかない。それ故か、彼らは実によく喋る。本作におけるコミュニケーションの殆どは言葉によるものなのだ。これやっていい?これはどう思う?とクメイルとエミリーは相手の意思を確認し応酬を続ける。だからクメイルが家族について説明しなかったエミリーは怒るのだろう。とは言え言葉、会話が多すぎて少々疲れる作品でもあった。コミュニケーションて、労働だよな・・・。

40歳からの家族ケーカク [DVD]
ポール・ラッド
ジェネオン・ユニバーサル
2014-03-05






『ぼくらが漁師だったころ』

チゴズィエ・オビオマ著、粟飯原文子訳
 1996年、ナイジェリアに住むアグウ家では父親が単身赴任に出た。厳しい父親の不在により4兄弟のたがが緩み、学校をさぼってぶらつくようになる。ある日近所の川で釣りをしていると、1人の狂人が長兄イケンナについて恐ろしい予言をする。予言を信じたイケンナは人が変わったようになり、家族は崩壊している。
 現代の物語で具体的なナイジェリアの情勢が背景にあるが、ベンジャミンたちは未だ呪いや予言が力を持つ神話・伝説の世界に生きているようだ。信じなければ呪いは呪いにならない、信じるから呪いとして発動してしまうのだ。兄たちはそれぞれ聡明で行動力もあるのに、次々と狂人の言葉に絡め取られ自滅していく。子供故の知識のなさや世界の狭さが事態を悪化させていく(冷静に考えればそんなことする必要ないのに!という局面が多々ある)のがもどかしい。また背景には当時のナイジェリアの情勢の不安定さがある。実際問題として、大人の世界においても彼らに危険が迫るのだ。それがまた事態をややこしくしていくのだが・・・。9歳の四男ベンジャミンの語りによって物語は進行する。この語りがどういう状況下で始まったものなのかわかると、彼らの運命の奇妙さ、残酷さに更にやりきれなくなった。

ぼくらが漁師だったころ
チゴズィエ オビオマ
早川書房
2017-09-21


あたらしい名前
ノヴァイオレット ブラワヨ
早川書房
2016-07-22

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