3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2017年12月

『謎の天才画家 ヒロニムス・ボス』

 15~16世紀のネーデルランドで活躍した画家、ヒエロニムス・ボス。その人物像については生年月日を含め謎が多く現存する作品は25点のみ。その中でも傑作と名高いのが、プラド美術館所蔵の三連祭壇画「快楽の園」。プラド美術館の全面協力のもと、この「快楽の園」を細部まで撮影し、様々な研究者やアーティストが作品に込められた意図を探るドキュメンタリー。監督はホセ・ルイス・ロペス=リナレス。
 全体の構成があまり上手くなく、焦点があいまいでぼけているという印象を受けた。「快楽の園」に対するアプローチの方向は、絵具の成分やX線による下絵の確認、またモチーフを読み解き解釈する、歴史的な背景から制作経緯を推測する等様々だ。絵画の研究とはもちろんそうした多面的なものだが、情報の提示の順番の道筋が散漫で、エピソード間のつながりがちぐはぐなように思った。思わせぶりな「イメージショット」的映像が多いのも気になる。もうちょっと筋道はっきりさせて、展開を見せてほしかった。
 作品解釈が印象論寄りになっているのは残念。X線を使った下絵の研究など面白いので、こちらをもっと見せてほしかった。そもそも、明確にわかっている部分が少ないから(材料が少ないから)印象論にならざるを得ないのかもしれないけど・・・。正直な所、目新しい情報は少ない。
 ともあれ、「快楽の園」を超クロースアップで見られる機会はなかなかないだろうから、そういう意味では貴重。茟のタッチがかなり細かいことがよくわかる。それにしても「快楽の園」、現代の目で見ると宗教画とは思えないフリダームさに見える。当時は宗教画として成立していたわけだし、ボス自身もキリスト教的倫理に則って描いたと思われるが、それが不思議だ。こういう部分をもっと掘り下げてほしかったけど、映像的には面白みないか。




『わたしは、幸福(フェリシテ)』

 キンシャサに暮らすフェリシテ(ヴェロ・ツァンダ・ベヤ)はバーで歌って生計を立て、息子サモと2人で暮らしている。バーの常連で修理屋のタブーは彼女に気があり、何かと声をかけてくる。ある日、サモが交通事故に遭い、手術を受けるための費用が必要になった。フェリシテは金策に奔走するが、惨酷な知らせが彼女を待っていた。監督はアラン・ゴミス。
 カサイ・オールスターズによる音楽が素晴らしい。いわゆる美声というわけではない、特に叫ぶようなフェリシテの歌声は、この音楽に乗ると実に表情豊かで力強い。フェリシテはほぼ全編にわたって苦労の連続で、表情は硬く(無表情に味がある)、内面をたやすくは見せない。しかし歌う時だけは幸福感に満ち、エネルギーに包まれる。そんな彼女が歌えなくなる時、どれほど疲労し絶望が深いのかと痛感させられるのだ。
 金策に走り回る話というと、今年見た映画では『ローサは密告された』(ブリランテ・メンドーサ監督)を思い出した。『ローサ~』では保釈金の為にローサと家族が奔走するが、本作では息子の治療費の為にフェリシテが奔走する。警察も政府も腐敗しており最早アンタッチャブルな世界に突入している『ローサ~』に比べると、本作の方が貧しいながらもまだ殺伐としきってはいないように見える。とは言えお金のことを考え続けるのは心身が削られるものだ。彼女が「ボス」の家に押しかけた際の「私は物乞いじゃない」という言葉は、負け惜しみというよりも彼女にとっては正当性があると考えてのことだろうが、それでも(物理的にも)ボロボロになる。それでもやらざるを得ないというのが辛い。
 しかしそんな中でも、「わたしは幸福」と言えるであろう瞬間が訪れる。前述のように音楽に裏打ちされたシーンはもちろんなのだが、日常のちょっとしたことで、日が差し込むような気持ちになるのだ。無表情だったサモがある瞬間に見せる表情がすばらしかった。タブーの立ち振る舞いが引き出したものだが、彼の2人への関わり方がつかず離れず、でも諦めずといった感じで良かった。2人をサポートするが強権的ではないのだ。

ローサは密告された [DVD]
ジャクリン・ホセ
ポニーキャニオン
2018-03-02




『ルージュの手紙』

 パリ郊外に住むクレール(カトリーヌ・フロ)の元に、長年音信不通だった元義母のベアトリス(カトリーヌ・ドヌーブ)から連絡が入る。重要な話があるから会いたいと言うのだ。30年前、ベアトリスが家を出て行った後に父親は自殺し、クレールは彼女を許せずにいた。しかし、脳腫瘍を患っているというベアトリスを放っておけず、不承不承付き合うようになる。監督はマルタン・プロヴォ。
 クレールは助産師という仕事にも、これまでの自分の人生にも誇りを持っている。地に足の着いた生活をする彼女には、破天荒で感情の赴くままに生きるベアトリスのやり方は理解できない。生活者として生き生きとするクレールと、放蕩者として生き生きとするベアトリスは対称的だ。しかし2人の間には、何か通じ合うものが生まれてくる。かつて短い時間とは言え母娘であったから、父親=夫という2人が愛し合た存在があったからというのは一因にすぎないだろう。むしろ、それぞれのやり方で人生を楽しんでおり、相手の人生を尊重しているからではないだろうか。クレールはベアトリスの食生活や喫煙等生活習慣に色々口出しするし、ベアトリスはクレールの野暮ったい服装やストイックな食生活に難癖つけるが、ある一線以上はお互い踏み込まない。口出しはするが、相手を否定するようなことは言わないという大人の振る舞いだ。ベアトリスはずうずうしく振舞うが、一線は弁えているように思えた。
 この距離感の保ち方は、クレールと恋人(らしき)ポール(オリヴィエ・グルメ)の間にも言える。ポールは親切で色々とクレールの世話をやいてくれるが、彼女が踏み込んでほしくなさそうな部分には踏み込まない。クレールはポールに好意は持っているが、常に一緒にいてほしいわけではないだろう。それぞれ自分の生活があり、お互い都合がつくときに一緒に過ごすというスタンスの無理のなさが好ましい。クレールは節制したきちんとした生活を好むのに、自由人ぽいポールと付き合っているしポールの生活態度についていちゃもんつけたりしない。それはそれ、これはこれ的な、領域の重なる部分と重ならない部分をちゃんと見分けている感じがして面白かった。

ヴィオレット ある作家の肖像 [DVD]
エマニュエル・ドゥヴォス
ポニーキャニオン
2017-07-05


クロワッサンで朝食を [DVD]
ジャンヌ・モロー
ポニーキャニオン
2014-02-04



『人生の段階』

ジュリアン・バーンズ著、土屋政雄訳
 1783年に物理学者ジャック・シャルルが、初めて水素気球で空を飛んだ。1878年、女優のサラ・ベルナールはパリ中心部から気球で飛び立った。1888年、英国近衛騎兵隊大佐のフレッド・バーナビーはドーバー・ガスの工場から気球で飛び立ちイギリス海峡を越えフランスに着地した。熱気球の歴史をひもとく一部、熱気球に魅せられたサラ・ベルナールとフレッド・バーナビーの恋を描くフィクションの二部、そして、妻を突然亡くした著者自身の追想がつづられる三部から成る。
 一部、二部は明らかに「気球」という共通項があるのだが、三部には共通項がなさそうに見える。しかし、本作の中心となるのは三部に違いないだろう。妻の死への深い悲しみと、それ故の自分を励まそうとする人や、逆に妻の思い出を(著者への配慮や居心地の悪さからだろうが)避けようとする人たちへの反発。また、同じような体験をした人同士でも共感し得ない、理解できない領域があるということ等、感情的な書き方ではないだけに痛切だ。悲しみを癒すのは時間だとはよく言ったもので、数年経つうち、著者は何を見ても聞いても辛いという状況から、徐々に距離を保てるようになっていく。とは言え悲しみが消えることはなく、何かの拍子にぐっと近づく。この不安定さが、距離を保たねば地上に落ちてしまう、風向きによっては目的地以外に流されてしまう気球のあり方と著者の中では呼応したのかもしれない。

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)
ジュリアン バーンズ
新潮社
2017-03-30


フロベールの鸚鵡
ジュリアン バーンズ
白水社
1989-10

『ラブラバ』

エルモア・レナード著、田口俊樹訳
 元シークレット・サービスの捜査官で、今では写真家のジョー・ラブラバは、12歳の頃の初恋の相手である、元女優のジーン・ショーと知り合う。ジーンとの出会いに心浮き立つラブラバだが、彼女は厄介な男たちに目を付けられていた。アメリカ探偵作家クラブ最優秀長篇賞を受賞した作品の、新訳版。
 ラブラバは一見呑気でピントがずれているが、実は頭がきれ腕っぷしも強いという、なかなかのチートキャラ。都合が良すぎるチートぶり(経歴が結構すごいもんね・・・)もレナードの軽口をたたくような軽妙で洒脱、しかしクールすぎない文体だと違和感を感じない。世界観の統一がされているということだな。ラブラバの、頭はきれるが基本的に人が良く、特に女性に対しては脇が甘い所も、やりすぎ感を抑えている。ラブラバの中の客観的で冷静な部分と、自分が信じたいものを信じたいという情の部分のせめぎ合いが、本作を単なる「クール」ではなくしていると思う。
 本作、’40年代フィルムノワールへのオマージュに満ちていて、固有名詞をわかる映画好きにはより楽しいのでは。ジーンがどのような女優なのかということも、よりわかる(そこが辛い)はず。引退したとはいえ彼女はやはり女優で、「映画」をやりたいのだ。事件の謎は中盤で明かされてしまうが、謎解きは本作の重点ではない。女優として生きるジーンと、それに対するラブラバの配慮が泣かせるのだ。ラブラバは信じたいものを信じようとしても真実に引き戻されるが、ジーンは自分が見せたいものに殉ずるようでもあった。夢に生きてこそのハリウッドの住民ということか。
 悪役として登場するノーブルズとクンドー・レイの珍道中もいい。ノーブルズの言動は頭が悪いのに結構怖い。中途半端な悪人、かつ思い込みの激しさ故の怖さがあるのだ。



グリッツ (文春文庫)
エルモア レナード
文藝春秋
1994-01

『スターウォーズ 最期のジェダイ』

 伝説のジェダイであるルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)の元に辿りついたレイ(デイジー・リドリー)。ファーストオーダー、そしてフォースを使えるカイロ・レン(アダム・ドライバー)に対抗するべく、彼にレジスタンスへの協力を求めるが、ルークは拒む。一方レイア(キャリー・フィッシャー)率いるレジスタンスは、ファーストオーダーの猛攻にさらされていた。ポー(オスカー・アイザック)とフィン(ジョン・ボイエガ)は新たなミッションに挑む。監督はライアン・ジョンソン。
 吹替え版で見たが、悪くない。むしろ、私にとってのスターウォーズは吹替え版のイメージが強い(よくよく考えるとエピソード4,5,6は字幕で見たことがない・・・日本語で喋るルークしか知らないわ)ので、違和感なく馴染んだ。あざとくかわいいキャラでくすぐり入れやがって・・・と若干イラっとしていたポーグたちも、チューイとの攻防含め悪くない。可愛いんだけど、瞳の中に虚無があるというか、そこはかとない邪悪さを感じるのは私だけだろうか。
 2時間越えの長尺で、スターウォーズにさほど思い入れがない身としては間が持つのかちょっと心配だったのだが、意外と飽きずにテンポがいい。今回はレイのパートとフィンたちレジスタンス、そしてファーストオーダー側のおおよそ3パートが平行して進行する。作品1本通して大きなストーリーがあるというよりも、中規模のエピソードを団子状に回収していくような構成なので、正直構成の妙があるとは言いづらいし、展開上、色々つっこみたくなるところはある(場面移動の動線がちょっと無駄じゃないかなというか・・・そこに舞台集中させる必要あります?って箇所がある)。レジスタンスの戦略の上手くいかなさが、状況の困難さというよりも戦略の杜撰さに見えてしまうのも痛い。しかし、1エピソードごとに盛り上げて回収、ということを小刻みにやっていくので、長尺でのダイナミズムや全体としての話の整合性には乏しいかもしれないが、飽きずに見られた。
 スターウォーズはエピソード6まで父殺しの物語を繰り返してきたが、前作今作と、そこは、もうぼちぼちいいんじゃないかな?巨悪とか、それいります?というモードになってきたのでは(ルーカスの手を離れたのが大きいのかもしれないけど・・・)。ないしは父殺しのウェイトがそれほど高くなく、ちゃっちゃとやっちゃって次の段階に移りたいということだろうか。えっそこもう処理しちゃうの?!とびっくりした。
 今回、「次の段階に移りたい」という点では、これまでとは大分大きな変化がある。ここが旧来のファンにとっては受け入れがたい所なのだろうが、個人的にはすごくいいなと思った。いわゆる選ばれし人たちの物語ではないという方向に舵を切っているのだ。最初からヒーローな人はいないし、血筋によって英雄・傑物になるわけではない。そもそも、英雄という存在すら怪しいのでは。英雄的な行為の種子は様々な名もなき人の中にあって、きっかけがあればそこかしこで芽吹くかもしれない。終盤の「少年」はそういうことじゃないかなと。フィンもレイも、たまたま主人公なんだと思う。特にフィンの「何者でもなさ」は新鮮ですらある。
  今回、レイもフィンも厳しい環境で育ってきたにしては他人の話を信じすぎというか、単純すぎる気がしたが、2人とも人間関係が乏しくて人の心の機微があんまりわからないということなのかなー。特にレイは同じ感覚を共有できる人って今まで全くいなかったろうから、通じ合うものがあるとわかると信用しちゃうんだろうな。





『女の一生』

 男爵家の一人娘ジャンヌ(ジュディット・シュムラ)は、神父と両親の勧めで子爵ジュリアンと結婚。新生活は順調に見えたが、夫の不貞を知る。原作はギ・ド・モーパッサン。監督はステファヌ・ブリゼ。
 おおよそ時系列に沿ってはいるが、ジャンヌの人生の断片が随所にちりばめられており、さっきちらっと見えた場面はどういう状況なんだろうか?と思っていると後々わかってくる。冒頭から不穏そうなシーンもあり、不幸の予兆を常に感じさせる。実際、夫の不貞を発端に、ジャンヌの人生には次々と困難が降りかかる。その困難は、当時(原作が発行されたのは1883年)の女性にとってはそんなに珍しい話でもなかったんだろうな・・・。
 ジャンヌは夫や息子により辛酸舐めさせられるが、夫とも息子とも幸せな時間は確かにあった。彼らを恨んだり悲しんだりするのと並行して、幸せだった頃の記憶がよみがえる。本作の構成は、その記憶がよみがえる感じ、一つの記憶が他の記憶と次々に連動していく感じを意図しているのだろう。夫にしろ息子にしろ、相手を恨むだけならまだ楽かもしれないが、なまじ幸せだった記憶が生き生きとそこにあるので、余計に心が引き裂かれ辛い。特に伯爵夫人や幼馴染のメイドとの女性同士のじゃれあいや他愛のない会話のあれこれは親密さを感じさせるものなので、後々の展開を思うと実に苦い。
 ジャンヌは夫や息子に振り回され、流されているように見えるが、当時の女性としては他に生き方の選択肢があまりなかったということだろう。両親にとっての娘、夫にとっての妻、息子にとっての母という、誰かに紐づけられた存在としてしか立ち位置がないというのが、何とも息苦しい。誰かを待ち続ける彼女の姿が痛々しくてならなかった。

女の一生 (光文社古典新訳文庫)
ギィ・ド モーパッサン
光文社
2011-03-10


女の一生 [DVD]
杉村春子/賀原夏子/宮口精二/北村和夫/南美江/丹阿弥谷津子/三津田健/近藤準/村松英子
(株)カズモ
2004-10-01

『否定と肯定』

 1994年、アメリカに住む歴史学者デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)は、自著の中でイギリスの歴史家デビッド・アービング(ティモシー・スポール)が唱えるホロコースト否定論を、真向から否定する。アービングはリップシュタットの講演会に現れ彼女を非難、更に名誉棄損で彼女を提訴する。イギリスの司法制度では訴えられた側に立証責任がある。リップシュタットはイギリスの弁護団と共に裁判に臨む。監督はミック・ジャクソン。
 訴えられた側に立証責任があるというイギリスの裁判制度には奇妙に思えるし、当然リップシュタットも戸惑う。そもそも、歴史上の事実として確固としているものを、偽造された歴史と並べてどちらが正しいか証明しろというのも変な話なのだ。とは言え、リップシュタットに「放っておけば世間は忘れるから示談しろ」という人もいるが、リップシュタットは拒否する。放置しておけば、放置していてもいいものとして認識されかねない。ねつ造は許されないとその都度正していくことが、歴史学者の勤めだということだろう。
 アービングは話がうまく、かつ言葉で相手を煽り動揺させる。リップシュタットの弁護団は、アウシュビッツの実在を証明するのではなく、アービングの著作の間違いや矛盾点を積み重ね、彼が意図的にホロコーストはなかったと偽装しようとしたと証明しようとする。リップシュタットによる直接的な反論や、ホロコーストの生存者達の証言は扱わないことにするのだ。このやり方は歴史研究者であるリップシュタットの意に沿うものではなく、生存者らを傷つけるものでもある。アービングの自説は死者と生存者らの存在を否定するものだが、弁護団のやり方もまた、彼らにとっては「否定」と受け止められかねない。弁護団のやり方がまずいというのではなく、歴史研究者の振る舞いと法律家の振る舞いとには差異があるのだ。リップシュタットや生存者らをアービングと同じ土俵に上がらせないことこそが、弁護団の倫理であり誠意である。リップシュタットと担当弁護士ランプトン(トム・ウィルキンソン)、ジュリアス(アンドリュー・スコット)は激しく言い合うが、彼らの道義の有り様に気付いたリップシュタットは、徐々に彼らを信頼していく。リップシュタットの振る舞いは一見口うるさく面倒くさい人のようなのだが、彼女が自分の良心と責任に忠実であり、他人任せにすることを忌避するからだ。そんな彼女の「良心を預ける」という言葉は非常に重い。
 一見「面白いおじさん」であるアービングの中の差別意識がどんどん明るみに出てくるのだが、差別主義者って自分が差別主義者であるという自覚はあんまりないんだろうし、それを改める気もないんだなと茫然とする。アービングは女性差別的な発言も頻繁にするのだが、それが女性差別だとは全くわかっていないようだ。これはアウトだろ!という言葉を報道陣の前でぽろっと言っちゃうしなぁ。

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)
デボラ・E リップシュタット
ハーパーコリンズ・ ジャパン
2017-11-17




『オリエント急行殺人事件』

 イスタンブールからイギリスに戻る為、オリエント急行に乗った名探偵エルキュール・ポワロ(ケネス・ブラナー)。しかし途中で脱線事故が起きて足止め状態になり、更に車内でアメリカ人富豪ラチェット(ジョニー・デップ)が刺殺されているのが発見された。ポワロは鉄道会社の重役ブーク(トム・ベイトマン)の依頼を受け、殺人事件の犯人探しを始める。原作はアガサ・クリスティの同名小説。監督はケネス・ブラナー。
 過去、映画やTVドラマとして度々映像化されている作品だし、原作の人気も高いので、自分がイメージしていたのと違う!という観客も多そうだが、私は楽しく見た。ブラナーのポワロは神経質さや独特の几帳面さをより色濃くした、少々仰々しい造形。ポワロだけでなく作品自体がドヤ顔かましているような印象なのだが、ブラナーが主演・監督兼ねているからまあしょうがないかな。私はブラナー監督作の舞台劇っぽさというか、独特のオーバーアクションな演出・演技が少々苦手なのだが、本作は作風と非日常的な物語・舞台との相性がよかったのではないか。『オリエント急行~』って、クリスティ作品の中でも特にイベント性が高い、「お芝居」的な要素の強い作品だと思う。
 原作の尺との兼ね合いがあるのでしょうがないのだろうが、ポワロが超推理を展開しているように見えてしまう。手がかりから結論へ飛躍しすぎな印象になるのだ。とは言え、ミステリとしての筋書きそのものよりも(私が原作既読だからというのもあるが)、列車内での殺人という限られた空間内でのドラマを、どのようにビジュアルの変化を盛り込み、単調ではなく見せるかという創意工夫が面白く感じられた。見取り図のように真上から撮影したり、ポワロ自ら列車の外へ飛び出て原作からは想像できないようなアクションを見せたりと、見た目のバリエーションを付けようと言う意欲が色々感じられた。
また、セットや衣装等美術面が大変豪華で、それだけでも楽しい。
 冒頭、イスラエルでの謎解きの経緯や、ポワロの「世の中には善と悪しかない」という言葉をはじめ、ポワロはこういう考え方をする人であり、彼の言う正義とはこういうものだと紹介するような作品だったと思う。殺人事件の決着のつけ方自体、ポワロの正義感と善悪観を如実に反映したものになっている。ポワロ入門編と言ってもいいかもしれない作品。当然シリーズ化したいんだろうなぁ。



オリエント急行殺人事件 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
アルバート・フィニー
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2013-08-23

『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』

山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山際壽一・永田和宏著
 京都産業大学での講演・対談シリーズ「マイ・チャレンジ一歩踏み出せば、何かが始まる!」を文字起こししたもの。各分野で既に「何者」かになった山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山際壽一に、細胞生物学者で歌人の永田和宏(当時は京都産業大学教授)が聞く。
 対談をした4人は既にその道の大家と言ってもいい存在だが、駆け出しの頃には五里霧中で手さぐりだった頃もある(羽生さんはあんまりそういう感じではないんですが・・・)。未知の領域に踏み出すことを躊躇しがちな今の学生たちの背中を押したいという意図で企画された対談だが、むしろ、今すごいことになっている人はやっぱり若い頃からすごかったということを突き付けられた気がする(笑)。なるべくして今のポジションにいるので、学生たちの参考になるかというと、正直あまりならないのでは。とは言え、各分野の第一線にいる人たちによる対談としてはとても面白いので、一読の価値はある。山際先生のお話は、先生のキャリア変遷云々というよりもゴリラ研究内容がすごく面白くて、むしろ全編ゴリラで!と思っちゃった(笑)。
 ただ、全員に共通しているのは、何かを始める時の思いきりの良さというか、先をそれほど考えずにえいやっと飛び込める所。これは(突出した才能有無に関わらず)生きていく上で結構大事だよなと思う。私には欠けている資質なので、ちょっと我が身を省みて辛くなりましたね・・・。



現代秀歌 (岩波新書)
永田 和宏
岩波書店
2014-10-22

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