3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2017年09月

『散歩する侵略者』

 数日間行方不明になっていた夫・加瀬真治(松田龍平)が別人のようになって帰ってきたことに妻・鳴海(長澤まさみ)は戸惑う。同じ頃、一家惨殺事件が発生し、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)は事件の生き残りである少女・立花あきら(恒松祐里)を追っていた。そんな桜井に天野(高杉真宙)が声を掛けてくる。自分とあきらは地球を侵略しにきた宇宙人で、桜井にガイドを頼みたいというのだ。一方、鳴海も真治に自分は地球を侵略しにきたと告げられる。原作は前川知大による劇団イキウメの舞台。監督は黒沢清。
 宇宙からの侵略者たちは、人間の「概念」を奪うことで人間らしい振る舞いを獲得していく。概念を奪われた人間はどこか崩れていく。この「概念を奪う→奪われた人はまともでなくなる」という設定はわりとふんわりとしていて、奪われた後どういう影響が出るのかも、人によって違う。なぜこの人のこの概念を?役に立つの?と思う所もあり、なかなか扱いが難しい設定だったのでは。これは映画というよりも、原作の舞台の難点と言った方がいいのかもしれない。同じくイキウメの舞台が原作の映画『太陽』を見た時も私はあまりぴんとこなかったので、もしかしたらイキウメと相性が悪いのかもしれないなぁ・・・。SF的設定の扱いとか終末感の演出が自分と相いれない感じがする(ただ、本作はそういう部分の精密さが求められる類の作品ではない)。
 ただ、真治が牧師(東出昌大)から「愛」の概念を取ろうとする件には笑ってしまったので、このシーンの為だけにでもこの設定でよかったな!と思えた。東出の存在が最早出オチのようだった。彼は決して演技が達者というわけではないんだろうけど、ハマるとものすごい効果を発揮するなぁ。
 脇役の東出のみならず、個々の俳優の存在感、特異さで成立しているような作品だった。主演の松田もまた演技が達者というよりも存在感で魅せる、画面内にいるだけでいい系の俳優という印象だったが、本作を見て、あっこの人しっかりスキルあるんだな!と再発見した感があった。概念を獲得していく度にちょっとづつ立ち居振る舞いが変わっていくのがちゃんとわかる。また、長谷川博己のいるだけで何となくおかしい感じになっていく独自の存在感と身体能力(今回、結構走らされている)も素晴らしい。シリアスなやりとりのはずなのに、彼がやるとどこかユーモラスに見えてくる(声質のせいかなーという気もする)。また、引きこもり青年役の満島真之介のインパクトがすごかった。怪演とも言える。
 身近な人がふっと見知らぬ人になる、あるいは圧倒的な他者が現れるというパターンは黒沢監督作品によく見られるが、本作では全くの異物であった侵略者との間に、何となく親密さのようなもの、何らかの繋がりが生まれていくという所が面白い。夫にある意味擬態している真治と鳴海の組み合わせよりも、そもそも全くの他人でたまたま出会った桜井と天野の組み合わせの方がそれが顕著だった。いやいや相手侵略者だから!と突っ込みたくなるし、桜井も人類が滅べばいいと思っているわけでもない。それでもそこには何らかの繋がりがある。もう損得越えちゃっていると言ってもいいだろう(少なくとも桜井に得はない)。これは、真治が最後に獲得した概念に近いものでもあるような気がするのだ。



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『三度目の殺人』

 弁護士の重盛(福山雅治)は、殺人前科があり、勤務先の社長を殺したという新たな容疑がかかっている三隅(役所広司)の弁護を担当することになる。社長を殺害後、火をつけたと三隅は自供しており、このままでは死刑は免れないが、動機は曖昧なままだった。重盛は面会と調査を重ねるが、三隅の自供は二転三転していく。監督・脚本は是枝裕和。
 是枝監督は、主語が大きい話を描くのは苦手なんじゃないかなと思った。本作の主人公は重盛だと言っていいし、重要人物はもちろん三隅と言えるだろう。しかし、重盛という個人、三隅という個人の物語になっているかというと、ちょっと違うのではないかと思った。彼らはある思想、観念を表現するための道具であり、手足の代わりのようなものなのではないだろうか。そのせいか、台詞は紋切型が目立ち、「こういう人」というバックグラウンドや人間のディティールには、他の是枝監督作に比べて少々乏しいように思った。会話シーンは概ね退屈なのだが、その中で面白いと思った部分は、重盛と元裁判官である父親のやりとり。距離と不躾さとが混在している感じに、ああ老年の父親と成人した息子のやりとりってこんな感じだろうなという説得力がある。是枝監督の良さ、得意なものは、こういうディティールの部分にあるのだろう。
 本作では真実が曖昧であること、そして司法のシステムの(外部から見た際の)奇妙さが描かれる。真実の曖昧さについては、ご丁寧に「盲人と象」の例えが持ち出され、そういう所はやたらとわかりやすくするんだ・・・とちょっとおかしくなってしまった。しかし、三隅の真実を追求するという部分と、司法システムの奇妙さ・限界を見せる部分とが、一つの映画として意外と噛み合っていないように思った。三隅を巡る部分は多分に不条理劇のようなのだが、司法の不条理とは質が違う。司法の不条理は、物事を処理していく上での合理性が逆に司法の本来の目的から逸れていくという所にあるのだろう。原因がまあわかっていると言える。しかし、三隅の不条理さはそれとは違う。そもそも原因などわからない類のものだ。この2種の不条理さを一緒にしたことで、何とも座りの悪い作品になっているように思った。意図した座りの悪さ(「藪の中」的な座りの悪さは意図したものだろう)ではなく、監督の意図しない部分での噛み合っていなさなのではないか。すっきりしない、ではなく設計されきれていない、という印象だった。絵の魅力に乏しいのも残念。やはり紋切型で、ラストシーンなどなぜそんなベタなメタファーを・・・といっそ不思議なくらい。面白いことは面白かったのだが、あとちょっとでもっと面白くなるはずなのにそれがどこだかわからない、というもどかしさが拭えなかった。



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『ダンケルク』

 第二次世界大戦中の1940年、北フランスまで勢力を広げたドイツ軍は英仏連合軍をフランス北部の港町・ダンケルクに追いつめていた。イギリス首相チャーチルは、ダンケルクに取り残された兵士40万人の救出を命じ、5月26日、軍艦の他に民間の船舶を徴収・総動員したダイナモ作戦が発動する。監督はクリストファー・ノーラン。
 IMAX版で鑑賞。自分が見られる上映形態のうち、ノーランが意図した画角に一番近いのがIMAXだということで選んだのだが、正直な所、上下左右、多少切れていても私は気付かなかったんじゃないかな・・・。どうしてもこの画角じゃないと駄目、というほどの絵の説得力は感じなかった。見比べれば色々と違うのかもしれないけど、わざわざ見比べる意欲が沸くかというと今一つ。私がこういう部分にあまり拘らないというのも一因だし、見ていると(内容とか音とか)結構疲れる作品だということも一因。 とは言え、疲れるというのは、それだけ迫力があるということでもある。特に音量、音響のデリケートさはIMAXで見て良かったと思える点だった。爆撃機のエンジン音の迫り方や銃撃の音など、見ていてびくっとするくらい迫ってくる。
 自分にとってノーラン監督の作品は、新作を初見で見ている間はすごく面白いんだけど、再見するとこんなに構成下手だったっけ?間延びしてたっけ?と思うことが多い。語り口があまり上手くないという弱点があるのだ。本作はノーラン作品としては尺がかなりタイトで、こなすべき出来事を短時間に圧縮してどんどん処理していく感じだった。慌ただしさ故に、物「語る」感がわりと薄く、そのおかげで弱点が目に付きにくかったように思う。浜辺の兵士、パイロット、民間船舶という3つの視点が入れ代わり立ち代わり提示されるが、それぞれ時間の圧縮具合が違うので、全体的に何がどうなってどことどこがつながるという流れはわかりにくい。これは意図的なものだろう。あえて俯瞰の「物語」を見せないことで、登場人物たちのその場のことしかわからないという、戦争の只中にいる感じが強まるのだ。
 ダンケルクの救出劇は、イギリスにとって敗退ではあるが人々の勇気と倫理(見殺しには出来ないという)を示した英雄的なエピソードだ。しかしこの出来事の後、戦争は更に激化し、更に大勢の人が死ぬ。登場人物の中にも、この後の命運が危うい人もいる。救出の高揚感は、一時の気休めみたいなものでもある。ラストに映し出される人物の顔がどこか懐疑的な表情にも見えるのは、周囲の浮き立ちに対しての違和感でもあるだろう。

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『戦争のはらわた』

 デジタルリマスター版で鑑賞。サム・ペキンパー監督、1977年作品。
 第二次大戦中のロシア戦線。ソ連からの奇襲・猛襲にさらされドイツ軍は圧倒的不利だった。その中で、シュタイナー(ジェームズ・コバーン)曹長率いる小隊は絶対的な信頼を集めていた。フランス戦線からプロイセン貴族であるシュトランスキー(マクシミリアン・シェル)大尉が赴任してくるが、名誉欲が強く鉄十字勲章に執着するシュトランスキーは、捕虜の扱いを巡ってシュタイナーと対立する。
 ドイツ軍視点で描く第二次大戦だが、アメリカ映画故ドイツ人の登場人物の台詞は英語。最初のうちはここがどこで彼らがどこに所属する兵士なのかも明言はされないので、見ているうちに、だんだんどこの国の話なのか曖昧になってくる。ソ連兵はロシア語を話しているが、シュタイナーたちに関しては自国への言及も少なめ。特にドイツ軍=ナチスという側面をあまり見せないようにしているように思った。観客が多少なりとも共感しやすいようにという意図ではあるのだろうが、同時に、彼らはあまりナチスの思想に染まっておらず、だからこそ旗色が悪いソ連戦線に送られたのかなとも思えてくる(執務室にヒトラーの肖像がかけられているが、落ちてもそのままだ)。
 そもそも、シュタイナーは軍人ではあるが組織や国への帰属意識、ナショナリズムはあまり強くなさそうだ。いわゆる(国家が想定するような)「愛国者」には見えない。彼は優秀な軍人ではあるが、あくまで職能としての軍人で、メンタリティは少々違うのではないかと思った。彼は何よりもまず個人であり、帰属意識はあるとしても自分の小隊に留まっているように見える。自分と自分の部下を生き延びさせることが最優先で、名誉や国の行く末は二次的なもの(というよりも本人は殆ど気にしていないもの)なのだろう。本隊とはぐれて四苦八苦しつつも、「だが自由だ」と笑うところに、シュタイナーの本質があるように思った。本来、軍人に向かない人なのだ。
 対するシュトランスキーはろくな戦場経験はなさそうだが名誉欲は旺盛で、勲章の為なら他人を見殺し手柄を横取りすることも厭わない。嫌な奴だが、勲章でもないと親族に顔向けできないとぽろっと漏らすあたり、妙に人間味がある。やっていることは最低だが・・・。勲章欲しさに彼がやる行為は、平時だったらここまで極端なことはやらないだろうというもので、戦時下だから許されてしまう怖さがある。人間のたがが段々外れていくのだ。シュタイナーとシュトランスキーが、共に(違う方向ではあるが)ある一線を越えてしまうクライマックスは悲惨だが、どこか笑ってしまう悲惨さでもある。こんなに理屈が通らないことってあるか!と。シュタイナーの暴走は理屈が通らないことへの怒りでもあるように思う。

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2015-06-24

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2017-09-13

『推理作家謎友録 日本推理作家協会70周年記念エッセイ』

日本推理作家協会編
 江戸川乱歩賞の選出のほか、作家たちの交流団体という面も持つ日本推理作家協会(入会すると健康保険に入れるというのを初めて知った。フリーの仕事の人にはやっぱりありがたいのかな)。なんと今年70周年だそうだ。それに際して、会員から原稿を募った記念エッセイ集。
エッセイ集なんだけど、執筆者に対して提示したテーマが明示されていないのはなんでなのかな・・・。どうも3つくらいテーマを提示してその中から好きなのを書いてねというスタイルだったみたいだけど、読者に対してその説明がない。自分と協会との関係、あるいは自分の近状をそつなく書く人が多いけど、ここ10年でのお勧めミステリというテーマで自由闊達に書かれる方もいる。その中でも貫井徳郎のレオ・ブルース推しには吹いた。よりによってそこかよ!しかも推しているのに「ただ残念ながら、レオ・ブルースは小説がうまくないんですね」って言っちゃってるよ!いやわかる、わかるけどさぁ!なお、売れて大量に書いている人の方がボリューム、文体ともにちょうどいい感じの文章を書いているので、力量ってこういう所に出るのかなぁと。また、キャリアの長い方は健康上の問題や介護の問題に言及されている方も少なくなく、なんだかしんみりした気分にもなった。

推理作家謎友録 日本推理作家協会70周年記念エッセイ (角川文庫)
今野 敏
KADOKAWA

『最初の刑事 ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』

ケイト・サマースケイル著、日暮雅通訳 
 1860年、イギリスのカントリーハウスで3歳の男児が惨殺死体となって発見されるという事件が起きた。屋敷の中には両親、兄姉ら、そして使用人たちがいた。多数の容疑者がいる中、当時創設まもなかったスコットランド・ヤードのウィッチャー警部の捜査は難航を極める。そして新聞や雑誌はあることないことを書きたてて大衆の好奇心を煽っていった。
 実際に起きた事件を当時の報道や裁判資料等により再構築したノンフィクション。とはいえ1860年の話なので、読んでいる方の感覚としては小説に近い。当時の警察の捜査方法はまだ手探りなので、ああー初動捜査がもっとうまくかみ合っていれば・・・ともどかしくなる。ウィッチャーは当時のヤードの中でも有能な警部だったそうだが、色々なものが上手くかみ合わない。地元の警察のやっかみにも足を引っ張られるし、被害者家族の非協力的な態度も足かせになる。警察の権限がまだ少ない世界だったことがわかる。当時のマスコミと世間の過熱も興味深い。過熱するのは現代と同じではあるが、事件のディティールを勝手に作ってしまいどんどんフィクション化していく。当時は家庭内なプライベートな領域、外からの目にさらしてはならないものという意識が非常に強くなっていたそうだが、その一方で他人の家庭で起きた事件に興味しんしんで家庭の事情を探りだしさらしものにしたいという欲求が増大していたという、うらはらさがとても面白い。ゴシップ好きにしてもいきすぎでなんでこんなに加熱したのかと思うくらい。容疑者の絞れなさ、まさかの自白等事実は小説より奇なりとは本当なんだなと。ただ、ノンフィクションである本作を読むと、人がなぜ殺人事件を扱うミステリ小説をこのんで読むのかわかってくる気がする。不条理な出来事にもかならず合理的な解決があると信じたくなるんだよな。




刑事たちの三日間 上 (創元推理文庫)
アレックス・グレシアン
東京創元社
2013-07-27

『ロボット・イン・ザ・ガーデン』

デボラ・インストール著、松原葉子訳
 様々な仕事をするアンドロイドが普及した近未来のイギリス。両親を亡くして家と遺産を相続したものの無職のままのベンは、弁護士として活躍する妻エイミーを苛立たせていた。ある日ベンは、自宅の庭に古びた旧式ロボットがいるのを発見する。なぜかそのロボットを特別だと感じたベンは、彼を「タング」と名付ける。彼を修理できる作り主を探しに、タングと共に旅に出るが。
 弱気な男とロボットとの珍道中を描くロードムービー的な作品だが、タングの造形はロボットというよりも、幼い子供のそれだ。そこが可愛らしくて楽しいという人もいるだろうが、私はどうも物足りなかった。ロボットならロボット、AIとしての知性と成長を持つはずで、人間のそれとは違うからこそ面白いのに!と。著者はSF的な意図は本作に込めておらず、子供のメタファーとしてのロボットとして描いているのだろう。でもそれだったらロボット設定にしなくていいよね(笑)。当初ベンは自分自身未熟で子供の親なんてとてもとても、という感じなのだが、手間のかかるタングと共に生活することで、誰かをケアすること、心を配ることを学んでいく。本作冒頭、家庭内でのベンの振る舞いは、エイミーが出ていくのも当然だよ!というしょうもないもの。このしょうもなさ、周囲への配慮のなさが妙に生々しく説得力があった。なお、ベンとタングが日本に行くパートがあるのだが、日本人はロボット好きというのはもう定説になっているのか・・・

ロボット・イン・ザ・ガーデン (小学館文庫)
デボラ インストール
小学館
2016-06-07






『ローサは密告された』

 マニラのスラムで、小さな雑貨店を営むローサ(ジャクリン・ホセ)一家。ある日、ローサ夫婦は麻薬の密売容疑で逮捕されてしまう。ローサと夫は生活の為に、店で少量の麻薬を扱っていたのだ。警察から恐喝まがいの麻薬売人の密告要求と高額な保釈金の要求を突き付けられたローサと家族は、自分たちの生活を守る為に奔走する。監督はブリランテ・メンドーサ。第69回カンヌ国際映画祭主演女優賞受賞作。
 舞台はスラム、ローサは麻薬の売買もする個人商店主だが、それが特別なこととしては描かれていない。麻薬を売ることも、突然逮捕されることも、密告されることも、密告を強要されることもこの土地では普通のことなのだという、画面の中の「日常」感に圧倒された。ローサたちは、別に特別なことだと思っているわけではないんだよなと。裏社会とか闇社会とか俗にいうが、裏も表もない、これが今いる世界なんだという生々しさ。裏社会とかスラムの闇とか軽々しく言ったら、ローサたちにぶっとばされそうである。彼女たちは自分たちが運が悪かったとは思っているだろうけど、不幸だとはそれほど思っていないのではないか。ここはそういう世界だから、それに応じて生きるしかない。
 フィリピンの警察怖いし酷い!につきる話でもある。腐敗しきっており、麻薬も金も応酬して横流し(警部が札束を持って訪れる先が署長室というのがなんともはや)である。公的な保安機関が自分たちを守ってくれず、搾取する一方なので一般市民の無力感が半端ない。警察とギャングとやっていることが同じだし、権力の後ろ盾がある分警察の方が性質が悪い。不条理を解決できるのはお金だけという不条理さで、法治国家って何よ、という気分になってくる。こういう社会だと、「身を守る」ということへの意識のあり方のレベルが全然違ってくるんだろうな。
 ローサを含め登場人物たちが歩く背中が、度々映し出される。映画を観る側は背中についていく感じになるが、彼らが歩いていく先には目的は異なれどお金が絡んでいる。その金が、彼らの自由をわずかながら保証するのだ。ほぼ全編誰かしらがお金を追いかけていく話なので、見ていてなんだかげっそりしてしまった。お金のことばっかり見ていると、体も心も削られていく感じが(私個人は)するのだ。





『セザンヌと過ごした時間』

 少年時代に出会ったポール・セザンヌ(ギョーム・ガリエンヌ)とエミール・ゾラ(ギョーム・カネ)は共に芸術を志、夢を語り合う。やがてパリに出たゾラは小説家として成功するが、セザンヌはパリの画壇では評価されず、苦しい生活を続けていた。ゾラはセザンヌを支え続けるが、小説『制作』を発表したことで、セザンヌは自分を勝手にモデルにしたと怒り、2人の友情に亀裂が入る。監督・脚本はダニエル・トンプソン。
 セザンヌの作品が好きな者としては、題材に興味があって見たのだが、『制作』発表時からスタートし少年時代に一気に遡るという構造が、あまり上手く機能しておらず冗長に感じられた。『制作』発表時に至るまでの経緯を見せるわけだが、途中の年代の飛び石状態は唐突だし、過去に遡ってという構成が逆に月並みに見えてしまった。『制作』発表後の2人の晩年まで描くので、発表時にそれまでの経緯が集約されていく感が薄まってしまっている。当時の画壇、文壇の面々の名前が出てくる所や、南仏の風景は楽しかったが。
 セザンヌとゾラが友人同士だったが、ゾラの小説が原因で仲たがいしたというエピソードはどこかで読んだことがあったが、そのエピソードはセザンヌ側の言い分に軸足を置いたものだったと記憶している。本作は、どちらかというと(この件に関しては)ゾラ側の視点が強い。映画原題も『Cezanne et moi』(セザンヌと私)だもんな。そして、セザンヌが付き合いにくい人だったというエピソードも読んだことがあるが、本作で描かれるセザンヌ像は、確かに付き合いやすくはなさそう。彼と決裂したにせよ長年友情を保ち、経済的支援までしていたゾラは聖人じゃなかろうかというレベルだ。
 (本作の)セザンヌはプライドは高いが卑屈、傷つきやすいのに毒舌で喧嘩っ早い、加えて女好きで手が速いという控えめに言っても面倒臭い人。この手の人間として難点が多いが天才肌タイプの人というのは、困った人だがそれでもどこか人間的な魅力がある、というパターンが一つの定型としてあると思う。だがセザンヌ(くどいようだが本作中の、である)は魅力に乏しい。彼が長年不遇だったのは、彼の才能が時代の先を行き過ぎていたのはもちろんだろうが、多分に人として愛されにくい、手助けしたくならないタイプの人だったからじゃないかなという実も蓋もないことを想ってしまった。先鋭的な天才であればあるほど、生きていくために愛され力が必要なのでは・・・なんとも世知辛い話だが(セザンヌはマネやルノワール、モネと比べて更に革新的ではあったろうが、飛び抜けてという感じでもないので、やっぱり人徳が・・・)。
 ゾラもセザンヌの妻も指摘するが、「自分が」すぎで、元々他人への興味が薄いのでは。彼は自分とゾラとの思い出が小説の材料にされて激怒する。自分たちだけのものだったのに矮小化しやがってという思いもあるだろうが、セザンヌの存在のみで『制作』が成り立ったわけではないだろう。そして彼はゾラも表現者であるということを失念している。興味深いネタがあったら、それが自分の親友のことであってもやっぱり描きたくなるんじゃないだろうか。

セザンヌ (岩波文庫)
ガスケ
岩波書店
2009-04-16


制作 (上) (岩波文庫)
エミール・ゾラ
岩波書店
1999-09-16

『山村浩二 右目と左目で見る夢』

アニメーション作家・山村浩二の最新短編をまとめたプログラム。全9作品から成る。

『怪物学抄』(2016)
架空の中世ヨーロッパの学者による、架空の生き物=怪物に関する公文書。「飼いならされた野生」「鎧という名の武器」等想像膨らませる言葉による紹介と、それを受けたイメージにわくわくする。どの怪物にも愛着が沸いてくるのだ。この怪物はこういう生態、という雰囲気が、短い時間の中でも伝わってくる。アニメーションというよりもイラストの良さと文章、そしてヘンデルの音楽とのマッチングの妙という印象だった。特に音楽の合わせ方は上手い!

『Fig(無花果)』(2006)
アニメーション映画生誕100年を記念して、「東京」をテーマに制作されたオムニバス・アニメーション『TOKYO LOOP』より、山村浩二制作パートを抜粋したもの。墨絵のようなモノクロっぽい画面で、東京タワーは登場するけど東京っぽいかと言われるとどうかなぁ・・・。自分の中の東京のイメージよりも、静かでひそひそざわめいている感じだった。音楽(山本精一)がやはり良い。

『鶴下絵和歌巻』(2011)
17世紀に製作された俵屋宗達の「鶴下絵和歌巻」をモチーフとした作品。その構造や宗達の意図を読みとき解釈を試みた作品。いわゆるアート系アニメーションという感じだが、正直な所あまり印象に残らなかった。山村の作家性よりも、宗達の作品をモチーフとして実験する、という意図が前面に出ているからか。日本ががそのまま動くようなイメージは美しいが。

『古事記 日向篇』(2013)
古事記のうち、日向を舞台にしたエピソード、「禊」「天照大御神」「此花之佐久夜毘売」「海佐知山佐知」をアニメーション化したもの。よく知られた創世神話なので物語に馴染みもあり、「お話」としての側面は今回上映作の中では一番強い。繊細だがどこか素朴な味わいのアニメーションの画風とも合っていた。それにしても、古事記の神様たちは結構やることがひどいな(笑)!改めて見ると、「海佐知山佐知」のオチとか結構エグくて軽くひくレベル。さらっと語られてるので余計に。

『干支1/3』(2016)
2016年トロント・リールアジアン国際映画祭20周年を記念し、「20」をテーマに製作された作品。干支は十干と十二支を組み合わせたとされるもので、60年で一周することから、20年を1/3周として表現した。1997年から2016年までの20の干支の要素が現れる。文字が生き物や表象に変化していく様は、漢字の醍醐味でもある。ほぼ朱と黒のみでの色彩表現で筆で描いたようなタッチはシンプルだが、メタモルフォーゼの連続はアニメーションならではの表現。

『five fire fish』(2013)
カナダ国立映画制作庁(国立でこういう省庁があるということがすごいな・・・)が開発した映画製作用iPadアプリ「McLAREN's WORKSHOP」のデモンストレーション映像として、その仲のEtching on film」というアプリを使って即興的に制作した作品だそうだ。アプリの名称通り、エッチングのようなひっかいた感じの線描によるモノクロアニメ。「fish」のスペルが魚になって泳ぎ回る、これも文字のメタモルフォーゼを表現した物。わずか1分強の作品だがのびのびとしている。

『鐘声色彩幻想』(2014)
本作もカナダ国立映画制作庁と、Quartier des Spectaclesのパートナーシップにより、カナダの実験映像・アニメーション作家ノーマン・マクラレンの『色彩幻想』の抜粋を用いて制作した作品。教会にプロジェクションする為、縦に長い画面構成になっている。今回上映されたものの中ではこれが一番好き。ドローイングにより音を視覚化するような作品。色と形の運動が楽しく、音楽との連動が実にかっこいい。こういうのがミュージックビデオってことじゃないかなと思った。なお、音楽はモーリス・ブラックバーン。鐘の音が印象的で、教会へのプロジェクション・マッピングには良く合っていたのではないか。プロジェクションされたものを見て見たかったな。

『水の夢(1原生代)』(2017)
ピアニストのキャサリン・ヴェルヘイストと舞台デザイナーのエルヴェ・トゥゲロンからの依頼による舞台用作品だそうで、当然音楽はヴェルヘイストによる演奏。これも音楽そのものと音楽との一体感が素晴らしい。山村監督、音楽への素養・理解度が高いんだろうなぁ。なおジョージ・クラムへのオマージュ作品でもある。海中での古生代の生物の発生と進化を描くが、アニメーションてこういう表現もあるのか!とちょっとはっとするところも。墨絵と写真の合成のような質感があって面白い。

『サティの「パラード」』(2016)
エリック・サティによるバレエ音楽「パラード」を、サティのエッセイの中の文章、ウィレム・ブロイカー楽団の演奏と合わせアニメーション表現にしたもの。バレエの登場人物の他、サティのエッセイ内に登場するジャン・コクトーやピカソだけでなく、同時代のマティスやマン・レイ、モンドリアンやジョアン・ミロらしきモチーフも登場する。そして当時アメリカと言えば映画!映画といえばチャップリン!なんだなぁと。賑やかでカラフルな楽しい作品。サティのエッセイの中に、「コクトーは明らかに私のことを敬愛しているが、机の下で足を蹴ってくる」というような一文があって、それはどんなツンデレ・・・!と吹き出しそうになった。

怪物学抄
山村浩二
河出書房新社
2017-07-14



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