3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2017年08月

『パターソン』

 ニュージャージー州の街パターソンで暮らす、バス運転手のパターソン(アダム・ドライバー)。毎日定時に出勤してバスを運転し、帰宅後は愛犬マービンの散歩に出て、バーに立ち寄りビールを1杯だけ飲む。詩人である彼は毎日ノートに少しずつ詩を綴る。監督はジム・ジャームッシュ。
 パターソンの1週間を追うドラマだが、冒頭、ベッドから出た彼がキッチンでシリアルを食べているシーンで、ガラスの器が素敵なことや、部屋は狭いけどインテリアのコーディネートはユニークで住みやすいようにコーディネートされていることに気付く。ここで何だかほっとした。パターソンと妻のローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)は、自分たちの生活を心地よくしようとする意欲があるし、生活を楽しんでいるんだとわかるのだ。
 パターソンが住む町はどうということもない、むしろさびれた地方の小さな町だ。しかし、彼の出勤風景は妙に美しい。煉瓦造りの古い工場跡のような建物や、同じく古びたバス会社の操車場が、なんだかかけがえのないものに見えてくる。これは、パターソンが自分が住む世界を愛しており、その彼の目を通して見た風景だからだろう。随所で挿入されるパターソンの詩(少しずつ修正しながら書く為、これもまた反復の一種にも見える)は、彼にとっての世界に対する驚き、美しさの記録でもある。
 パターソンの生活は反復を重ねているように見える。仕事である路線バスの運転も、同じルートをぐるぐると回る行為だ。しかし、乗客の会話はその日によって違うように、日々は似ているようでいて一日一日が全然違う。彼の日々はささやかかもしれないが驚きに満ちている。映画を観ている側も、なんだか彼と一緒にびっくりしているような気分になってきた。
 パターソンとローラは、性格のタイプとしては大分違うように見える。パターソンは内向的で詩の発表をする気もあまりない。対してローラは彼に作品を発表するよう勧めるし、彼女自身の表現活動も外へ外へと向かっていくものだ。行動力にあふれ、ぱっと思いつきで実行できる人なのだ。それでも、お互いに相手が何を大切にしているかを理解しており、そこは尊重している。2人の愛情、信頼関係も本作を見ていて安心できた要因の一つだ。パターソンが何らかのトラブル(終盤でトラブルどころではない大事件が起きるのでびっくりした)が起きてもローラやマービンに八つ当たりしない所も、とてもよかった。彼は人間がすごくできている人だと思う。
 翻訳された詩はレインコートを着てシャワーを浴びるようなもの、という台詞が出てくるのだが、本当にそうなんだろうなぁと思う。思いつつも、でもレインコートがないと私は他国の詩を読めないのに!ともどかしくなった。翻訳業の人たちは、より良いレインコートを作る為に尽力してくれているわけだな。

ブロークンフラワーズ [DVD]
ビル・マーレイ
レントラックジャパン
2006-11-24


パタソン―W・C・ウィリアムズ詩集
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ
沖積舎
1988

『ワンダーウーマン』

 女性だけの島で育った王女ダイアナ(ガル・ギャドット)は最強の者しか持てないと伝えられる剣に憧れ、母親の言いつけを破り強くなるため修行に打ち込んできた。成長した彼女は、自分に秘められた能力があることに気付く。ある日、島に不時着したパイロットのスティーブ・トレバー(クリス・パイン)を助けるが、彼はイギリス軍のスパイで、彼を追ってドイツ軍までが島に乗り込んでくる。外の世界では大きな戦争が起きていると知ったダイアナは、戦いを止める為にスティーブと共にロンドンへと旅立つ。監督はパティ・ジェンキンス。
 本作、アメリカでは大ヒットし、女性監督による女性が主人公のアメコミ原作映画としては画期的という触れ込みで、実際その通りではあったのだろうが、そんなに新鮮味は感じなかった。また、女性をエンパワメントするというフェミニズム的要素も、さほど強くない(女性にとって不快な要素はほぼないと思われるが。クリス・パインが逆サービスカット的に脱いでいるのは笑ったけど)ように感じた。ハリウッドの男社会性がそれほど強固ということなのかもしれないが、ワンダーウーマンというヒーローの背景をどう認識しているのかで、受け取り方が違うのかもしれないなぁとは思う。アメリカと日本だと、見えているものが違うのかなと。日本の場合は「戦闘美少女」的で絵として見慣れているのでぱっと見新鮮味がないというのはあるだろう(ただ、戦闘美少女に必ず付加されている未成熟な少女としての可愛らしさはワンダーウーマンには意図されていないので、そこは大きく異なるが)。
 ダイアナは物理的な力と、膨大な言語を操り百科事典並の知識を持ち合わせているという知的な力を持ち合わせている。しかし彼女は、人間の社会のことは知らない。ロンドンに出てきたダイアナは様々なカルチャーショックに見舞われるが、これは彼女が世間知らずというよりも、人間の世は彼女から見たら妙なことばかりで、なんでこうなっているの?という感じなのではないかと思う。なぜ肌を見せてはいけないのか、なぜ動きやすい服を着てはいけないのか、なぜ死にそうな人を助けに行くことが不利益と見なされることがあるのか。彼女の疑問はプリミティブなものなのだ。
 本作、ダイアナを1人の人間・女性として見るものではないのではないかとふと思った。彼女は性別云々以前に神により近い存在で、彼女がロンドンにやってくるのは、神が人間の世に降り立ったという状況により近いのだろう。本作が帯びている神話性(ダイアナの母が語るのは正に神話としての自分たちの発祥だ)は、主人公が神の物語だから当然と言えば当然ということになる。同時に、人間の世のことは神にとっては(特に本作が設定しているようなギリシア神話の神々にとっては)基本的にどうでもいい他人事だ。その他人事を捨て置けずわざわざ乗り出してくるというのがダイアナのやっていることなわけだ。彼女の「愛」は恋愛における愛ではなく、人間に向けられる神の愛に近いものなのではないか。それだったら、愛によって世界を救うというのが月並みでも大げさでもないなと腑に落ちる。人間の負の面を見た神がそれでも地上に留まるかどうかという神話として見れば、ラスボスへの違和感を含め、そういうことかなと思えなくもない。『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』でも見られた宗教画のようなショットが本作でも使われているが、DCユニバースは神々の闘いというニュアンスを強めて、マーベルと差別化を図るのだろうか。




『コードネーム・ヴェリティ』

エリザベス・ウェイン著、吉澤康子訳
 第二次大戦中のフランスで、イギリス特殊作戦執行部員の女性がナチスの捕虜になった。彼女は痛めつけられ、イギリス軍の機密を教えれば尋問を止めると親衛隊大尉に強要される。彼女が綴る内容は、親友の女性飛行士マディを主人公とした小説のようなものだった。彼女はなぜこのような書き方をしたのか?
 二部構成になった作品で、前半は捕虜となった女性の手記、後半は手記の書き手ではない、また別のある女性の闘いが描かれる。前半の手記が何だったのかということが、終盤で明らかになっていき、書き手であった女性のなけなしの勇気と知恵にぐっとくるのだ。彼女が手記で何を伝えようとしたかというミステリ要素はもちろんあるのだが、本作全体としてみると、正直そこにはあまり感銘を受けない(読む際にもそれほど重視する必要はなく、出し方も取って付けたような感じではある)。むしろ、彼女がこの手記の読み手として誰を想定していたのか、どんな気持ちを込めたのかという部分に心をうたれる。彼女は冒頭に「私は臆病者だ」と記す。確かに、彼女たちは聡明ではあるが戦場の残酷さに耐え抜けるほど強くはない。物理的な暴力に対しては無力だし、尋問・脅迫にも屈してしまうだろう。自分でもそれはよくわかっており、「怖い物リスト」の内容が戦況が悪化するにつれ変化していくのは痛ましい。しかしそれでもなお、彼女たちを踏み留まらせるものがある。「キスしてくれ、ハーディ」という言葉に込められたもの、それを受け取る者の姿にぐっときた。愛と友情という言葉はこういう時に使うのか。

コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)
エリザベス・ウェイン
東京創元社
2017-03-18


スカートの翼ひろげて [DVD]
キャサリン・マコーマック
アミューズ・ビデオ
2000-02-04



『ブレンダンとケルズの秘密』

 9世紀のアイルランド。バイキングの襲来を恐れる修道院長は、修道院の周囲に高い壁を築いていた。そこに、優れた写本士として高名な僧エイダン(ミック・ライリー)が逃げ込んでくる。院長の甥である少年僧ブレンダン(エバン・マクガイア)は、エイダンが持つ「ケルズの書」に興味津々で、彼を手伝おうとする。インクの材料の木の実を取に、危険だからと禁じられていた森に入るが、そこで精霊アシュリン(クリステン・ムーニー)に出会う。監督はトム・ムーア。
 『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』のムーア監督の長編デビュー作。『ソング~』と比べるとストーリーの運び方が少々荒っぽく、話の焦点が絞り切れていない。キャラクターデザインも、『ソング~』の方がより洗練されているように思う。本作は、キャラクターの動きがちょっとカートゥーン寄りで、他の部分と少々ミスマッチを起こしているように思った。
 しかし、美術面はとてもユニークで美しい。「ケルズの書」の文様をそのまま動かせないかという試みをしているのだが、よくまあこれを動かそうと思ったな!と唸った。他の部分でもケルト文様が多用されており、あらゆるところがうごめいているような印象を受ける。ブレンダンには絵の才能があり、様々な文様を幻視するのだが、世界は図像で満ちており、それを見る目を持った人が「ケルズの書」のような作品を残したのではないかと思えてくる。ブレンダンが闇のものと闘う際に白墨で線を引き、図像を描く。良く見ること、それを記すことが闇を払うことになるのだ。
 ケルズの書は福音書で、ブレンダンたちは修道士だ。にもかかわらず、意外なほど神の名が出てこないし、宗教色も薄いように思った(宗教色については、クリスチャンが見るとまた違うのかもしれない)。ブレンダンを助けるのは、彼の信仰対象の神ではなく、おそらくキリスト教にとっては異教であろう土着の存在たちだ。この2つが両立しているように見えるところが、とても面白かった。ブレンダンにとっての祈りは描く行為そのものなのかもしれない。

ソング・オブ・ザ・シー 海のうた [Blu-ray]
デヴィッド・ロウル
TCエンタテインメント
2017-04-05


ケルズの書
バーナード ミーハン
創元社
2002-03-01

『ベイビー・ドライバー』

 天才的なドライビングテクニックを持ち、とある事情により犯罪組織のドク(ケビン・スペイシー)から仕事を請け負っているベイビー(アンセル・エルゴート)。ある日、ウェイトレスをしているデボラ(リリー・ジェームズ)に一目惚れしたベイビーは裏稼業から足を洗おうと決意するが、ドクに脅され、強盗犯の逃走を助けることになる。監督はエドガー・ライト。
  ベイビーは耳鳴りを防ぐため、常にiPodで音楽を聴いている。彼の動きも運転も音楽に合わせたものだ。冒頭のベイビーの一連の動きは音楽に合いすぎていて笑っちゃうくらいで、これをわざわざやったのか!と監督に大して少々呆れる気持ちもある。見ていて楽しいし体感として気持ちいい(とにかく、音と動きを徹底して合わせているので)のだが、ちょっとやりすぎだなぁという気もした。ともあれ、こういうやり方の音楽映画もアリだとは思う。意外とMV的ではないように思えたところも、面白い。音楽と並走しているが、主体はやはり人体であり車なんだなぁと。  カーアクションに魅力がある。荒唐無稽過ぎないラインがすごい、という感じ。非常に高いドライビングテクニックを駆使して車をちゃんと運転している感のあるカーアクションというか、トンデモ感が薄いのだ(ようするにワイルドスピード的なものではないということで)。カースタントってこういうことだよなー!とうれしくなる。しかしクライマックスではやっぱり車同士のガチンコを始めるので、これは近年のトレンドなんだろうか。
 ベイビーが常に音楽を聴いているのは、耳鳴りを防ぐ為の行為であると同時に、自分自身にサントラを付ける、自分を演出することでもある。冒頭の彼のはしゃぎっぷりは正に「主人公」だし、音楽はその感覚を更に強めている。ただこの音楽、周囲の人には聞こえない(イヤホンで聞いてるから)はずなので、ちょっとイタい人みたいに見えないかな・・・。ベイビーにとって音楽と車は、自分を外界から守る鎧みたいなものでもあるのだろう。それを脱いでいく話なのかなと思っていたら、そうでもないのでちょっと拍子抜け。まあ趣旨は音楽映画なんだろうからそれでいいのか。
ベイビーは裏社会に染まり切っているわけではない。暴力を見るとすくんでしまうし、人を傷つけたくない。そんな彼が、デボラを守りそこから抜け出す為、裏社会のルールに自ら乗っかっていくというところには違和感があった。違うやり方でもいける、という成長の仕方もあるんじゃないかなぁと。同じ土俵に乗らなくてもなぁというもやもやが残った。
 ところで、エドガー・ライトは男女のやりとりに興味がないのか描けないのか。ベイビーとデボラのやりとりにしろ、作中の男女関係にさっぱり魅力がないのには参った。バディ(ジョン・ハム)を援護しようとダーリン(エイザ・ゴンザレス)がバッツ(ジェイミー・フォックス)に言い返す内容、もうちょっと何とかならないのか。ダーリンがその程度のことしか言えない人である、という設定なのかもしれないがそれこそ退屈すぎる。





『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』

 19世紀半ばのアメリカ、マサチューセッツ州で、豊かな家庭に生まれたエミリ・ディキンスン(少女時代のエミリ/エマ・ベル)は、マウント・ホリヨーク女子専門学校に通っていた。しかし学校の福音主義的な方針に背き、アマストの家に戻る。詩作を続けていたエミリ(シンシア・ニクソン)は父エドワード(キース・キャラダイン)の介添えを得て新聞に作品を掲載されるが、編集者の反応は芳しくなかった。進歩的なヴライリング・バッファム(キャサリン・ベイリー)との友情やワズワース牧師への思慕を抱くが、彼らは去っていき、エミリは家に閉じこもるようになる。生前は無名だったが1800篇近い詩稿を残し、後に伝説的な詩人となったエミリ・ディキンスンの伝記映画。監督はテレンス・デイヴィス。
 エミリが学校で自身の信仰を問われるシーンから始まるのだが、ここでの発言で、(この映画の登場人物としての)彼女のことをぐっと好きになった。エミリは自分に信仰があるかどうかはまだわからない、見たことのない物を信じることは出来ないと言う。他の生徒たちは信仰の道を進む、ないしは今は保留しているけど後に進むという返答で、この場では信仰があるのかどうかわからないという返答はあり得ないのだ。エミリが無神論者だというわけではない。よくよく考えた結果、学校の不興を買うことは承知でわからないと答える。波風立たせぬ様適当な答えを言うことも出来るだろうが、それは自分に嘘をつくことになる。またエミリは教会に行くことや牧師の前で膝をつくことを拒むが、当時の良家の子女としては型破りで非難もされる。しかし、信仰があるとしたらエミリ自身の中にあるのであって、教会や牧師が関与することではない。教会や牧師は型にすぎないというのが彼女の考えだったのではないか。
 エミリは非常に正直で率直でもあり、特に自分の魂に関わること(信仰や創作等)については、自分に忠実に振舞う。その正直さは時に周囲を、時には自分をも傷つけもするし、本人もそれはわかっているのだが、やめられない。この姿勢にとても共感した。周囲に合わせておけば波風立たないとわかっている、でも自分の中の何かがそれに強く抵抗するのだ。そこで流されると、自分が最も大切にしている部分が損なわれるように思うのだ。周囲から見たらエゴイスティックなのかもしれないが、自分の魂に忠実であり続けようという、ある意味非常に誠実な姿勢が一貫している。詩作という、自分の中へ深く潜るような行為を続けるには、この誠実さを手放すわけにはいかないのだろう。真剣になればなるほど、周囲からは孤立してしまう。
 エミリは生涯引きこもっていたと「伝説」化しているし晩年は確かに引きこもっていたようだが、まったくもって孤独だったかというと、そうでもない。彼女は家族に恵まれており、特に妹・ラヴィニア(ジェニファー・イーリー)とは親密な信頼関係があった。弁護士だった父親はエミリを理解したとは言い難いのだろうが、それはそれとして彼女のやり方を尊重する。姉妹と兄が、そりの合わない伯母を見送る際の「チック・タック・・・」が微笑ましい。この伯母も、エミリとは価値観が違うのだが、それはそれとして、皮肉の応酬でやりあえるような情愛があるのだ。エミリは家族と家を愛し、ここ以外にいるなんて想像できないと漏らす。彼女が生涯家から離れなかったのには、そういう背景もあったように思う。
 エミリは美男の兄、美人のラヴィニアに対するコンプレックスを垣間見せるが、この気持ちもよくわかるなとしみじみと見た。彼女は内面を非常に重視しているが、かといって自分や他人の外面から自由になれるわけではない。詩人としての彼女に会いに来た男性から姿を隠し、声だけでつっけんどんなやりとりをする様は痛々しくもある。姿を見せて失望されるのが怖いわけだが、そんなに気にすることないのに!とは言え気になるもんなぁと。



愛情は深い海の如く [DVD]
レイチェル・ワイズ
東宝
2014-01-24


『夜明けの祈り』

 1945年、第二次世界大戦終結直後のポーランド。赤十字の医療活動として赴任中のフランス人医師のマチルド(ルー・ドゥ・ラージュ)は、修道女に助けを求められる。ソ連兵の暴行により7人の修道女が妊娠し、信仰と現実の板挟みになり苦しんでいた。マチルドは修道院長の反対にあいながらも医者として修道女たちを助けるために修道院に通い、徐々に修道女たちの信頼を得ていく。監督はアンヌ・フォンテーヌ。
 マチルドの両親は共産主義者で、当人も無神論者と言わないまでも特に信仰に拘りはない様子。彼女から見れば、修道女たちの信仰の姿勢、現実と信仰との折り合いのつかなさで苦しむ様は、ぴんとこないものだろう。彼女は肌を見せること、人に触られることを忌避して診察すら拒む修道女に「信仰はちょっと脇に置いて」と言うのだが、それが出来ないのが信仰というものなのだろう。修道女たちも、自分たちの生き方は理解されにくいだろうというのは重々承知だ。
 マチルドが彼女らの生き方を理解する、積極的にそこに参加することはないのかもしれない。それでも彼女は、考え方・生き方は違うが医者として、助け合うことができる存在として、修道女たちに寄り添っていく。マチルドの機転により間一髪でソ連兵を退けた後の修道女たちの安堵感、高揚感は、見ている側もああよかった!と手足の先が暖まっていくように伝わってくる。主義主張とは別の所での理解や共感がそこにあるように思う。マチルドと同僚の男性医師とのやりとりにも、似たものを感じた。2人はセックスはするが恋仲というわけではないだろうし、赴任地を離れたら再会することもないのかもしれない。しかしそこには共感と思いやりがある。
修道女たちも様々で、一様ではない。修道院に入る前には恋人がいたという人もいるし、世の中のことを全く知らないまま修道女となった人もいる。生まれてくる赤ん坊を慈しむ人もいるが、人に託して修道院を去る人もいる。どの道が正しいかということではなく、その人個人にとって何が最適なのか、その人が何を「良い」と思うのかなのだろう。
 それにしても、修道女たちに襲いかかったもの、それを追体験するようなマチルドの体験を目にすると、カッと腹が立つ(どころではない)し怖くなる。そんなことがまかり通っていいのか!とわめかずにいられない気分だ。戦争の副産物としてつきもの出来事だが、戦時下=異常な状況だからってわけではなく、その芽は日常に見え隠れしている、それが表に出てきたということだろうから。

ボヴァリー夫人とパン屋 [DVD]
ファブリス・ルキーニ
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2015-12-02

イーダ DVD
アガタ・チュシェブホフスカ
2015-05-01


『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』

 19歳で史上最年少のロイヤル・バレエ団プリンシパルになったセルゲイ・ポルーニン。圧倒的な才能で絶賛されるが、2年後に突如退団を発表する。その後、ホージアの『Take Me To Church』のMV出演で再び注目を集め、YouTubeでのMV公開によりバレエファン以外にも知られるようになった。本人、家族、友人らのインタビューを通し彼の姿に迫るドキュメンタリー。監督はスティーブン・カンター。
  私はバレエには疎くてポルーニンの名前も本作で初めて知ったくらいなのだが、素人目にも子供時代から才能がずば抜けていることがわかる。特に横っ飛びにすっ飛んで行くような飛翔の仕方がすごい。えっこんなに飛ぶの!とびっくりする。彼の母親は息子の才能を確信し、家族全員で学費を工面してバレエ学校に入学させるのだが、実に先見の明があったということだろう。また、息子の才能と母親の確信を信じた家族も、本当に理解と愛情があったのだと思う。 しかし、費用の工面の為に父と祖母が出稼ぎに、更にイギリスにはポルーニン単身で渡るという状況の中、両親は離婚。誰のせいというわけでもなく、こういう状況だったらしょうがないんじゃないかなとは思う。ポルーニンが責任を感じることはないのだろうが、彼がバレエに打ち込んだのは経済面を含め家族の努力に報いる為(当人もプレッシャーを感じたと言っている)という側面も多々あったのだろう。ロイヤル・バレエ時代のポルーニンはスキャンダラスな言動でも有名だったそうだが、バレエに賭けたことで結果的に家族がバラバラになっていったことも、彼の迷走の一因だったのかもしれない。梯子を外されたような気がしたんじゃないだろうか。精神的に成長しきっていないまま地位を築いてしまった人の右往左往という感じがするのだ。
  また、ポルーニンのバレエ学校での担当教師によると、彼は振付をマスターしつつ、毎回違う解釈を加えてきたそうだ。彼の退団後の紆余曲折を見ると、バレエという枠にダンサーとしての彼が求めるものが収まり切らなかったのかなという気もする。もちろんバレエダンサーとして突出してはいるのだが、どんどんはみ出ていく感じの人なのかなと。
 本作、ポルーニン本人の言葉は意外と少ない。彼の周囲の人たちが見た彼、という側面の方が強いが、それも少々通り一遍な言葉であるように思った。家族の話にしても、アウトラインはなぞっているが彼の内面には迫っていないのだ。その為、ドユメンタリーとしては少々薄味になっている。ポルーニンを知らない人に紹介するにはいいが、既に知っている人には大分物足りないのではないか。ポルーニン自身が言葉での表現があまり得意ではない人なのではないかもしれない。彼の雄弁さはやはりダンスによるものだ。随所で挿入される彼が踊っている映像を見ると、もっとこれを見たい!と思うのだが、だったら彼のステージのDVDでも見ていればいいわけで、ドキュメンタリーを見る必要はない。ドキュメンタリーである本作が彼のダンスに負けている。撮影側が、ポルーニンに切り込めなかった(ポルーニンが距離を詰めさせなかった)んだろうなぁ。なお、ロックやポップミュージックを多用しており楽しいことは楽しいのだが、ちょっと音楽による説明過剰になっている気がした。エンドロールは正に!って感じではまっていたが。

英国ロイヤル・バレエ団「オンディーヌ」(全3幕) [DVD]
英国ロイヤル・バレエ団
日本コロムビア
2011-04-27


『俺たちポップスター』

 幼馴染のコナー(アンディ・サムバーグ)、オーエン(ヨーマ・タコンヌ)、ローレンス(アキヴァ・シェイファー)はヒップホップグループ“スタイル・ボーイズ”として一世を風靡した。しかしフロントマンのコナーが突然“コナー4リアル”としてッソロデビューしグループは解散。オーエンはコナー専属DJになったが今や名ばかり、ローレンスはスタイル~時代にコナーが功績を独り占めしたことを恨み、田舎に引きこもって農場主になった。人気絶頂のコナーは新アルバムをリリースするが世間からは酷評され、あの手この手で売り上げを伸ばそうとするが全て裏目に出る。監督はアキヴァ・シェイファーとヨーマ・タコンヌ。脚本はこの2人に加えアンディ・サムバーグ。主演の3人が監督・脚本を務めているのだ。
 コナーを追う音楽ドキュメンタリーの体で作られているのだが、カメラに向かってのコナーの喋りやスタッフの紹介、「お仕事」風景「プライベート」風景、そして随所に挿入される実在のミュージシャン、セレブたちのコメント(カメオ出演のみの人も。よく出てくれたなーと感心を通り越して呆れた。特にコックの人。扱いがひどい)。あっこういうの絶対前に見たことある・・・的なシチュエーションをパロディ化していて、アメリカの音楽ドキュメンタリーあるあるギャグみたい。当然、アメリカの音楽やポップカルチャー、セレブネタが多いので、よくわからないところもあったが(私はアメリカのポップカルチャーには明るくないので)、そこそこ音楽好きなら笑っちゃう部分は多々あると思う。音楽に関しても、スタイル・ボーイズの楽曲といいコナーのソロ楽曲といい、こういう安い感じの曲どこかで聞いた・・・というポピュラーさとダサさの兼ね合いが絶妙。そして歌詞がはてしなくバカバカしい。字幕で見るとバカバカしすぎて逆に笑えないのが痛かった。
 基本的にバカバカしいコメディなのだが、どこかもの悲しさもある。コナーの栄枯盛衰の「おかしくてやがて悲しき・・・」感に妙に説得力がある。また、3人が元々幼馴染の友人同士だという所が悲哀を増しているように思った。長年の友人を羨まなくてはならないのって結構しんどいと思う。純粋に仕事上のみの関係だったら、コナーとローレンスはこんなに拗れなかったんじゃないかな。ずっと子供時代の友情を信じ続けられるオーエンのメンタルの強さはんぱないわ・・・。

俺のムスコ [DVD]
アダム・サンドラー
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2013-07-24

モンスター・ホテル/モンスター・ホテル2 [DVD]
アダム・サンドラー
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2016-11-02

『幻の女』

ウイリアム・アイリッシュ著、稲葉明雄訳
 町をさまよっていたヘンダースンは、バーで奇妙な帽子を被った女と出会い、気晴らしに彼女をレストランと劇場に誘う。お互いに名前も聞かずに別れたが、帰宅したヘンダースンを待っていたのは妻の死体と警官、そして殺人容疑だった。ヘンダースンはアリバイとしてバーの女の存在を主張するが、バーテン始め、誰もその女を覚えていないと言うのだ。
 本作、出だしの文章のかっこよさ(もとい気障さ)で有名だが、大どんでん返し系ミステリとして面白かったんだな・・・。実は以前に読みかけたものの頓挫していたことを半分くらい読んでから思い出した。なぜ頓挫したかというと、おそらく証人探しの流れがご都合主義的で強引に思えたからだろう。ただ、終盤になるとそのご都合主義込でなるほど!というサプライズが待っている。正直強引なことは強引なのだが、力技で成立させてしまっている。誰も自分の言うことを信じてくれない、しかも他人からの証言が自分の記憶をいちいち否定していくという悪夢のような設定と、死刑のタイムリミットが迫る中での証人探しというスリリングさで読ませる。プロットの力技感と文章のスタイリッシュさのミスマッチに味があった。ところで、当時の女性にとって帽子ってそんなに重要なファッションアイテムだったんですかね・・・。他人と同じ帽子を被るなんて屈辱的!というテンションがいまいちわからない。

幻の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 9-1))
ウイリアム・アイリッシュ
早川書房
1976-04-30

幻の女 [DVD]
フランチョット・トーン
ジュネス企画
2010-05-25

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ