3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2017年07月

『いなごの日/クール・ミリオン:ナサニエル・ウエスト傑作選』

ナサニエル・ウエスト著、柴田元幸訳
仕事を得る為にハリウッドにやってきた青年画家が、夢を追ってハリウッドにやってきた女優の卵や怪しげなセールスマンらと交流する『いなごの日』、立身出世を目ざし上京する青年の暗黒アメリカン・ドリームを描く『クール・ミリオン』他短編2編を収録。
 『いなごの日』の題名は本編終盤の暴動の様相と、黙示録のいなごのくだりからなのだろうが、何とも不吉な雰囲気を醸し出す。アメリカでいなごと言ったら、嵐のように大群がやってきて作物を食いつくして去っていく、という悪夢のようなイメージが自分の中であるからだろうか。しかし本作に登場する人たちはハリウッドのセレブなどではなく、何とか夢を掴みたいと集ってき、しかし夢潰えそうになっている貧しい人たちだ。食いつくすのではなく食いつくされる側だろう。食いつくのはむしろ、ハリウッドそのものだ。夢がかなうかもしれない、と思い続けてしまうことの残酷さを感じる。
 また、『クール・ミリオン』はアメリカン・ドリーム的な立身出世物語の悪意しかないパロディ。青年が成功を目指す度に失敗し、様々なものを奪われ文字通り全て無くしていく様を、笑いのめしていく。ブラックジョーク的おとぎばなしのようだ。主人公をはじめ登場人物の運命は悲惨なものなのだが、本人が徹底した善人でその悲惨さを自覚していないところがまたおかしくも哀しい。2編ともアメリカン・ドリームに中指立てて全否定している。夢を持つことに異を唱えているのではなく、それが叶うかのように思わせてしまうものに対してのアンチテーゼだ。


イナゴの日 [DVD]
ドナルド・サザーランド
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2010-11-26

『フロスト始末(上、下)』

R・D・ウィングフィールド著、芹澤恵訳
 相変わらず人手不足であえぐデントン署。フロスト警部は少女の失踪事件、強姦事件、スーパーマーケットへの脅迫事件にバラバラ死体と、厄介な事件を次々と背負いこんでいた。一方、マレット署長は新たに着任したスキナー主任警部と組み、フロストを他所の署に移動させ厄介払いしようと画策していた。
 上下巻のボリュームだが滅法面白く、特に下巻に入ると一気に読みきってしまった。著者の急逝により、シリーズ最終作となった本作。フロスト警部は相変わらず下品だしだらしないしセクハラ発言は多いし、経費の水増し請求がバレて大変なことになる。ぱっと見ダメ人間的な振舞だが、実際の所仕事熱心で、ぼやきつつも大変なハードワーカー(むしろワーカホリックの傾向が強い)であるのも相変わらずだ。欠点が多い割に部下や同僚からは愛されているっぽいのは、彼には(マレットやスキナーと異なり)部下を思いやり彼らに対する責任は負うという姿勢があり、何より警官としての矜持を持ち続けているからだろう。例え周囲が自分のミスを責めなくても、警官である自分が自分のことを許せない、だから踏ん張り続けるのだという筋の通し方にはやはりぐっとくる。今回、フロスト警部は少々センチメンタルで、亡くなった妻のことを何度も回想する。フロスト夫妻の心が離れていく過程は、ありがちな話ではあるのだがだからこそやるせない。対称的にデントン署が今回抱える事件は陰惨な色が濃く、やりきれない展開も。ことなかれ主義で事件の現場に関してはわれ関せずのマレットですら、絶句するような事態も起きる。泥沼状態の中であがき続けるフロスト警部とデントン署の面々の奮闘にエールを送りたくなる。続きがもう読めないというのは寂しい限り。

フロスト始末〈上〉 (創元推理文庫)
R・D・ウィングフィールド
東京創元社
2017-06-30

フロスト始末〈下〉 (創元推理文庫)
R・D・ウィングフィールド
東京創元社
2017-06-30

『ブラザーズ・クエイの世界 Fプログラム 21世紀のクエイ兄弟』

 特集上映『ブラザーズ・クエイの世界』のうち、Fプログラムを鑑賞。2000年代の作品をセレクトした以下のラインナップだった。現在、渋谷区の松濤美術館で開催中の企画展「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」(私は神奈川県立近代美術館葉山別館で開催した際に見た)と連携した特集上映。

『ソングス・フォー・デッド・チルドレン』(2003)
 以前のブラザーズ・クエイ特集上映で鑑賞したことがある。当時の感想はこれ。ブラザーズ・クエイ作品の中でもかなり好きな作品になる。コーラスとマリンバを多用した音楽と相まって、異様な高まりを感じる。チョークと子供の手の鬼ごっこのような円環運動等、中毒性が高い。クエイ・ブラザーズの作品て、実部を見るとわかるのだが決して人形やセットが大きいわけではない。それをさも奥行があるように見せるのは、撮影技術が高いからなんだなとよくわかる。また(本作に限ったことではないが)同じ映像を何度も反復しても手抜き感とか使い回し感が出ないところは、編集センスの良さなんだろうなぁ。やや強迫神経症的な作風との相性の良さかもしれないが。

『ファントム・ミュージアム』(2003)
 ロンドン科学博物館の医学コレクションを取り上げた作品。今回初見かと思っていたら、以前の特集上映でこれも見ていた。コレクション自体はいたって真面目なもので、過去の医療機器や人体模型等を収集したものなのだが、フェティッシュさを強く感じる。対象物自体がフェティッシュさをまとっているというよりも(そもそも大半は実用の「道具」だから)、自分の中にあるフェティシズムを喚起させられるような撮り方をされている、と言った方がいいかもしれない。ただし、女性型の人体内臓模型(人体内臓の模型で、横たわった女性の「蓋」を開けると内臓が見える)には作った人の執念というか、強いこだわりみたいなものを感じた。素朴とは言え胎児とへその緒まで再現してある。この女性型内臓模型、当時同じようなものが流行したという話をどこかで読んだことがあるのだが、何か一部の人の心に訴えるものがあるのだろうか・・・。クエイ・ブラザーズの手腕というより、対象物の強烈さが印象に残る。

『ワンダーウッド』(2013)
 題名の通り木材を使ったアニメーション。研磨された木材の質感、木目を活かしたビジュアルは、クエイ・ブラザーズ作品の中では異色かもしれない。他の作品に比べると世界観が明るくクリアというか、アクがないなと思っていたら、コム・デ・ギャルソンからの発注だったのね・・・(同名の香水の発売に合わせて制作されたらしい)。予想外のヘルシーさだったが、松ぼっくりや蓮の根のアップは少々禍々しく、朽ちて液体化するイメージも付きまとう。

『涙を流すレンズを通して』(2011)
 フィラデルフィア医師会内にある医学コレクションを取り上げた作品で、『ファントム・ミュージアム』の発展形とも言える。フェティシズムが更に加速しているが、これはコレクションの内容にもよるのかな。個々の死亡背景まで伝えられる大量の頭蓋骨や、骨外性骨形成の少年の骨格標本は、その標本の背後にある死者の物語込みで妙に人を引きつける美しさがある。それは死者の尊厳、死者との思い出を冒涜することなのかもしれないが・・・。収集した人の妄執みたいなものは、『ファントム・ミュージアム』よりも強く感じられた。同じタイプのものを大量に、というのが(それこそがコレクターということなのだろうが)何となく怖いのだ。

『正しい手:F.Hへの捧げもの』(2103)
 ある貴婦人を巡る短編。ラテン文学のマジックリアリスムのような味わい。ナレーションがついているのだが、何か原作となった小説等があるのかな?水辺を舞台に、蒸し暑さ、湿度、夜の風みたいなものに満ちている。熱気をはらんだ空気感は、クエイ・ブラザーズ作品としては珍しいかもしれない。夢の中で感じるような水の気配の再現度が高かった。自分を映し出すものとしての水=鏡と、自分を(船で)運んでいくものとしての水の存在感が大きい。




『裁き』

 ムンバイの下水道で、下水清掃人の死体が発見された。逮捕されたのは民謡歌手のカンブレ(ヴィーラー・サーティダル)。歌の歌詞が自殺を駆り立てるものだったと容疑を掛けられたのだ。弁護士のヴォーラー(ヴィヴェーク・ゴーンバル)、検察官のヌータン(ギータンジャリ・クルカルニー)、裁判官のサダーヴァルテー(プラディープ・ジョシー)が法廷に集い、裁判が進んでいく。監督はチャイタニヤ・タームハネー。
 法廷という限られた場で、現代のインドの様々な側面が垣間見られとても面白かった。カンブレが逮捕される理由や彼を有罪とする根拠だと検察が主張する法律の解釈などは、えっ冗談でしょ?と言いたくなるものなのだが、インドではこれも司法の一つの姿なんだろうなぁ。法律の「どうとでも解釈出来る」領分にはひやりと寒くなった。司法が人の心のあり方にまで踏み込んでくるというのは、やはり恐ろしい。警察の捜査のずさんさ、有罪確定ありきで捜査は後付にすぎないのではという投げやりさは、インドに限らず往々にしてあることだろうが、ちょっと勘弁してほしいよな・・・とため息をつきたくなるもの。弁護士とのいたちごっこのようでもある。
 弁護士のヴォーラーと検察官のヌータンは、法廷外での私生活が映し出される。弁護士と検察官という職業上の立場の違いもあるが、この2人はそもそも住んでいる世界が違う。ヴォーラーは親が不動産を持っている裕福な家の息子で独身、もちろんインテリ層だし友人も同じような階層の人たち。ヌータンはおそらく中流層で、夫と2人の子供と暮らしている。ヴォーラーは自家用車で通勤し、ヌータンは電車。2人とも娯楽で音楽や芝居を楽しみ、家族と外食をするが、その方向性も全然違う。カンブレや死亡した下水清掃人はさらに貧しく異なる階層にいるが、ヴォーラーとヌータンの階層の違い、考え方の違いは特に強調されている。それぞれ似たような行動をしているがその中身が違う、という照らし合わせるような見せ方だった。法廷でやりとりされる言語の差異(ヴォーラーはローカルな言語はよくわからない様子で、英語で話してくれというシーンがある)も、それぞれが違う世界で生きていることを感じさせた。そして、その世界はなかなか重ならないし、歩み寄ろうという意思もあまり感じない。この人たちが法廷以外で交流することはないのではないかなという気がするのだ。
 異なる世界を生きているという点では、ヴォーラーと両親との間にある文化の差も強く感じた。これはインドに限ったことではないだろうが、両親が思っている「普通」と、ヴォーラーが生きる「普通」は違うんだなと。そして、その違いは両親にはなかなか理解されない。ヴォーラーは高級スーパーでワインやデリを買い、ジャズを好み、バーでポルトガルのファドを聞くような趣味嗜好の人なので、両親との価値観の違いは、結構大きそう。実家で食事しているシーンからも、あー色々苦労してそう・・・と同情してしまった。

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『ジョン・ウィック チャプター2』

 ロシアン・マフィアへの復讐劇から5日後。ジョン・ウィック(キアヌ・リーブス)の元へイタリアン・マフィアのサンティーノ(リッカルド・スカマルチョ)が訪れる。実の姉である組織のトップの殺害依頼をもちかけてきたが、ジョンは断り、見せしめとして自宅を爆破されてしまう。かつての盟約により依頼を受けざるを得ないジョンだが、依頼遂行の後にはサンティーノへ復讐すると宣言。命の危機を感じたサンティーノは高額の懸賞金をジョンに掛け、世界中の殺し屋が動き始める。監督はチャド・スタエルスキ。
 キアヌ・リーブスって演技派かというと正直いまだに微妙だし、ハンサムではあるがトム・クルーズのような「ザ・スター」感もいまひとつだし、個性が薄い割に、決してどんな役柄にでも適応できる使い勝手の良さがあるわけでもないと思う。しかし本作のように彼にハマる役柄を演じると、やっぱりスター感あるし魅力的だ。メジャーど真ん中の大ヒット主演作を持っているにも関わらず、何となくカルトスター感がいつまでも漂っている、不思議な俳優だと思う。ちょっと浮世離れした感じというか、実体感が薄い役柄だとハマるなぁと改めて思った。
 前作の5日後という設定で、ストーリーは直接つながっており、前作でのエピソードは特に説明されない。とは言え、そんなに入り組んだ話ではないので、単品で見ても大丈夫そうではある。前作よりも世界観のスケールが広がっているが、これは良し悪しだな・・・。殺し屋専用ホテルは今回も登場するが、更にその背後にある殺し屋ビジネスの存在も垣間見える。これはホテルが総元締めってことなんだろうけど、だとすると完全な中立って難しいんじゃないのかな?そしてなぜそのレトロな電信・・・スマホとタイプライターが並立する世界・・・単にビジュアル的にやりたかったんだろうけど。「やりたい」が先に立ちすぎて設定が色々とちぐはぐな気もするが、ビジュアルは確かに良いので眺めていて楽しい。
 アクションも前作より更に多く、長く、増量している。本作、冒頭から常にベース音がなっているような、一定のリズムで進行しようとしている気がした。アクションはふんだんにあるが、意外とめりはりがない。ペースが一定なので気持ち良く眠くなってきてしまった。だからつまらない、というわけではなく、体感として気持ちがいい。遠距離射撃系の武器が出てこないのは、リズムが崩れるからじゃないだろうか。基本的に、近距離の射撃と格闘による殺し合い(ジョンがいちいち相手をしとめるあたり、プロ殺し屋感ある)で殺すという目的のみで考えると不自然は不自然なのだが、これが殺し屋の美学なんだろうな・・・。
 ジョンは生きた伝説になるレベルの凄腕の殺し屋なのだが、意外とすぐに怪我をするし、攻撃されればちゃんとダメージを受けるし、痛そうな顔もするし、なかなか回復しない。今回、かなり早い時点でフラフラになっており、ほぼ全編ヨロヨロしつつ闘い続けるところが、キャラクター性として面白く味がある。死にそうで死なない、というよりも今にも死にそうなままで居続ける存在なのかなと。また、前作から引き続き、一貫して怒っているキャラクターでもある。自分にとってかけがえのないものを侵されたら怒るし、その怒りは消えないという主張がすごくはっきりしているのだ。

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『ありがとう、トニ・エルドマン』

 元音楽教師のヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)とコンサルティング会社勤務のイネス(ザンドラ・ヒュラー)は今一つうまが合わない親子。多忙すぎるイネスを心配したヴィンフリートは、突然彼女の元を訪れる。しかしなぜか別人“トニ・エルドマン”として。職場やパーティー会場にまで押しかける“トニ・エルドマン”にイネスのイライラは募っていく。監督・脚本はマーレン・アデ。
 どちらかといえば渋い映画っぽいし、ほろ苦いヒューマンドラマ的な作品かなと思っていたら、まさかこんなに笑えるとは!確かに地味にじわじわくる感じの面白みが主体なのだが、後半、イネスの誕生パーティーに破壊力がありすぎて客席がどっかんどっかん沸いた。このシーン、一歩間違うとちょっと笑えないというか、セクハラ・パワハラになりかねないような構造なのだが、そこで笑いにちゃんと持っていくバランス感覚の良さがある。
 バランス感覚という点では、ヴィンフリート=トニ・エルドマンとイネスと、対照的な2人のどちらにも入れ込み過ぎない、肯定も否定もしないという距離感のバランスも良かった。ヴィンフリートがイネスを心配しているのは分かるが、彼の娘へのコンタクトの仕方は得てして一方的で、娘からしてみれば鬱陶しい!迷惑!と怒鳴りたくなるものだ。相手の状況を鑑みず自分がよかれと思って行動するので、イネスにとっては癇に障るばかり。一方、イネスはハードな仕事に邁進しており、生活は分刻みで携帯電話が手放せず、(トニ・エルドマンではなくヴィンフリートとして)訪ねてきた父親を適当にあしらう時間さえない。彼女の目下の仕事は企業にとっての「汚れ仕事」「憎まれ役」であり、そのことに対する葛藤も抱えている。イネスが仕事は出来るが要領がいいというわけではない、根が生真面目な部分がそこかしこに見え隠れし、何だか痛々しくもあった。
 2人は対照的な父娘で、お互い別の世界で生きている。多少歩み寄りはあるが、許容はするが理解はしきれないだろう。ヴィンフリートがイネスの仕事先の現地スタッフに対する処遇に抗議するのも、彼がよそ者であり当事者ではないから言えることだ。とは言え、反目しあうばかりではなく、イネスが急にトニ・エルドマンのでたらめさに自分の行動を合せて来たり、嘘に乗っかってきたりもする。この距離の詰め方が何となく親子っぽいし、イネスのユーモアを感じさせる部分でもある。ヴィンフリートとイネスは、おそらく価値観が違うままだし多かれ少なかれずっとぎくしゃくするだろう。それでも、2人の間に通い合うもの、親子として培ってきたものは確かにある。愛は単純ではないのだ。父と娘の物語だけど、全然甘美さを漂わせないあたりも、注意深く対象との距離を測っている感じだった。








『戦争と平和 (1~6)』

トルストイ著、藤沼貴訳
 フランスから帰国した後莫大な遺産を相続する貴族のピエール、その親友の士官アンドレイ、アンドレイの妹で傲慢な父親に尽くし敬虔なキリスト教徒のマリア、ロストフ伯爵の長男で少々頼りないニコライ、その妹で美しく奔放なナターシャ、ニコライとソーニャの従弟でニコライを深く愛するソーニャ。貴族階級の若者たちを中心とした大勢の登場人物が、ナポレオンによるロシア侵攻とその失敗という歴史上の出来事を背景に、1805年から1813年にかけて繰り広げる大河ドラマ。岩波文庫版で読んだ(岩波版は全6巻で訳者のコラムが途中に挿入されている所が特徴)。
 言わずと知れたトルストイの大長編小説。とにかく長いというイメージがあり今まで手に取るのをためらっていたのだが、思い切って読み始めてみた。予想外だったのは、いわゆるドラマとしての小説以外の部分がかなり多いということ。本作、ピエールらを中心とした人間ドラマであるのはもちろんなのだが、ナポレオンら実在の人物たちによる史実を元にした歴史ドラマパートがあり、更にトルストイの「俺史観」的なものが相当な熱量で展開されているのだ。訳者の解説によると本当はもっと「俺史観」パートが多かったところ、家族や友人の反対により削ったのだとか。家族と友人、反対してくれてありがとう・・・もっと強く言ってくれても良かったのよ・・・。歴史を動かすのは特定の重要人物(それこそナポレオンのような)の動向ではなく、突出した人物はあくまでパーツの一つ、人民個々の動きの呼応から生じる流れの総体が歴史なのだというトルストイの歴史観は当時は斬新だったのかもしれないが、今読むと特に面白みがあるものではないので、大変申し訳ないが所々読み飛ばさせて頂きました。
 とは言え、リーダビリティは意外と高い。ピエールらによる大河ドラマ部分はそれこそ連ドラのように引きが強く、ドラマティックな要素をどんどん盛ってくる。そこそこ下世話なメロドラマとしてつい先へ先へと読んでしまう。当時のロシアの貴族階級の生活が垣間見えるという面白さもあるのだが、人間の心性は100年、200年程度だと大して変わらないという事実を目の当たりにした感がある(それを捉えて如何なく表現したトルストイがすごいということなのだろうが)。登場人物の誰もが立派になりきることもできず、かといって邪悪というわけではなく、ほどほどに情けなく頼りなく、それでも成長していく。人間の一様でなさ、一人の人間の中に起こる変化を長いスパンで見ていくことが出来る。それにしてもトルストイ、人の欠点の設定の仕方が上手い!善人でもつい意地悪さが出てしまう所や、外見上の残念さの表現が丹念で底意地が悪いなぁと思った。

戦争と平和〈1〉 (岩波文庫)
トルストイ
岩波書店
2006-01-17

戦争と平和〈2〉 (岩波文庫)
トルストイ
岩波書店
2006-02-16

戦争と平和〈3〉 (岩波文庫)
トルストイ
岩波書店
2006-03-16

戦争と平和〈4〉 (岩波文庫)
トルストイ
岩波書店
2006-05-16

戦争と平和〈5〉 (岩波文庫)
トルストイ
岩波書店
2006-07-14

戦争と平和〈6〉 (岩波文庫)
トルストイ
岩波書店
2006-09-15

『未来のイブ』

ヴィリエ・ド・リラダン著、斎藤磯雄訳
 青年貴族エドワルドは、ヴィーナスのような肉体と完璧な美貌を持つアリシヤを恋人にしていた。しかし彼女の魂は卑俗で、エドワルドは苦悩する。彼の苦悩を知った発明家のエディソンは、人造人間ハダリーにアリシヤを写した肉体を与える。
 エディソンとエドワルドが語る女性論は、1886年に発表された小説、また異端の作家の作品だということを差し引いても(だって1870年代にイプセンやトルストイやドストエフスキーがいるし、同時代にはモーパッサンやゾラがいるのに・・・。まあリラダンはリアリズム的に人間の心理や社会を描いた文学には興味がなかったんだろうけど)、ちょっとミソジニーがひどいんじゃないかな・・・。エディソンが発明した電話の発展形のような通信機器や、彼の屋敷の仕掛け、ハダリーの「中身」の描写等、SF的なエッセンスは時代を先取りしている感がありさほど色あせていない(一つの様式美として生き残っている)が、ピュグマリオン的願望とアリシヤに対するdisに関しては、当然のことながら現代の視線で読むとかなりきつい。エドワルドは理想の女性として人造人間を手に入れるが、彼にとっての理想の女性というのは、あくまで自分が想定している範疇から出ない存在であり、自分の延長線上の存在と言える。どこまで行っても自分でしかなく、そこに他者は存在しない。人形愛というのならわかるが、中途半端に人格を欲しているのが性質悪い。貞淑で聡明であれ、しかし自分より聡明であるなというのがな・・・。アリシヤの肉体を愛しつつ精神を軽蔑するエドワルドの苦悩にも、肉欲なら肉欲でいいじゃん!と突っ込みたくなる。このあたりは、さすがに時代を超えるのは難しいだろう。そもそも、それはアリシヤのせいじゃなくて肉体に惹かれてやまない自分の問題だよね・・・。

未来のイヴ (創元ライブラリ)
ヴィリエ・ド・リラダン
東京創元社
1996-05-01


メトロポリス / Metropolis CCP-315 [DVD]
アルフレート・アーベル
株式会社コスミック出版
2012-03-26

『しあわせな人生の選択』

 カナダに妻子と暮らすトマス(ハビエル・カマラ)はスペインに住む長年の親友、フリアン(リカルド・ダリン)を突然訪ねる。フリアンは余命わずかと宣告され、治療を諦め身辺整理を始めたとフリアンの従妹パウラ(ドロシス・フォンシ)から聞いたのだ。フリアンはトマスと一緒に愛犬トルーマンの引き取り手を探し、アムステルダムに留学中の息子に会いに行く。2人の4日間を描く作品。監督はセスク・ゲイ。
 トマスとフリアンは長らく(おそらくトマスがカナダに移住してから)会っていなかったようだが、再会すると徐々に昔と変わらないであろうやりとりを始める。フリアンがぶつくさ言い、トマスが受け流すという関係性が確立しているようで、この2人は若い頃からずっとこの調子だったんだろうなと思わせる、深い部分での友達というのは、何年も直接会わなくてもやっぱり友達なのだと思う。ただ、この2人のように、自分の一部を相手に委ねられるかどうかというと、なかなかこの域にいくのは難しいなとも。最後のフリアンの行動は、(多分こうなるんだろうなという予感はずっとするものの)自分の一部を相手に渡す、自分の死後もそれが残るようにするということにほかならず、結構な重さだ。相手がそれに耐えうる人だと信じてやるわけだけど、信じられる側の責任も重い。
 フリアンは犬の引き取り手に会って回ったり、自分の葬式の手続きをしに行ったり、(自業自得なのだが)絶縁状態だった旧友に挨拶をしたりと自分の「始末」をつけていこうとする。彼はそういった作業を出来るくらいには自分の死期を受け入れているかのように見えるが、折に触れて、そんなことはないのだとわかってくる。特に葬儀社で説明を受けるが頭に入っていないような様子で、結局トマスが担当者の話を受けるという流れには、そりゃあそうだよあなとしみじみした。そこまで達観できないよなと。いくら「そのつもり」でいても、いざ具体的な話になるとすくんでしまう。
 なお、葬儀社の担当者が、「私の葬式です」と言われて一瞬止まるもののすぐ通常運転になるあたりは、プロの仕事!と妙に面白さがあった。フリアンが動揺しているのを察してトマスに話を振るあたりも、「普通」の振る舞いに徹している。普通に徹すると言う意味では、トマスの振る舞いも正に普通で、過度に心配したり干渉したりしない、平熱感がある。そう振る舞い続けるには結構な意思の力が必要ではないかと思う。フリアンにとっては、トマスの平熱感がありがたかったのではないか。

最高の人生の見つけ方 [DVD]
ジャック・ニコルソン
ワーナー・ホーム・ビデオ
2010-04-21


体の贈り物 (新潮文庫)
レベッカ ブラウン
新潮社
2004-09-29

『夏の娘たち~ひめごと~』

 養父の容体悪化を知り、故郷の小さな町に戻ってきた看護師の直美(西山真来)。義弟・裕之(鎌田英幸)と直美はかつて男女の関係があった。義妹はそれを知ってか知らずか、「お兄ちゃんと直美ちゃんが結婚して家を継げばいいのに」と言いだす。そんな折、直美と裕之の幼馴染・義雄(松浦祐也)が町に戻ってくる。監督は堀禎一。
 ロケは全編上田市だそうだが、山間の町の、夏の空気感がとてもよかった。しっとりと若干重苦しいが、同時に瑞々しい。直美の実家の旅館として使われている建物(実際に旅館の建物で、出演者は撮影中宿泊していたそうだ)のひなびた、しかし趣のある雰囲気もよかった。昔の木造の旅館ならではの、アップダウンが大きい構造なのだが、2階の縁側や階段の多さが演出に活かされている。この建物でなかったら、本作の魅力は大分落ちるだろうなと思った。
 少人数の集団の間で、男女の組み合わせがいつのまにか変わっていく。狭い集団でのくっついたり離れたりというのが田舎っぽいというか、土着的な(偏見かもしれないが)感じだった。それに対して特になぜ・どうしてという説明がないあたりに、逆に説得力を感じる。流れでこちらとこちら、あちらとあちらというふうに近づいたり離れたりする。作中、ある人物が直美に対して、なぜ自分たちは別れたんだ、自分に悪い所があるなら直すから復縁したいと迫る。しかし、悪い所があったから別れたわけではないだろう(このシーンのある人物のセリフ、本当に「こういうこと言われても困るよな・・・」というもので、ちょっと直美に同情した)。直美は「運命じゃなかった」という言葉を別の場で漏らすのだが、それもまた正解というわけではなく、具体的には何だか当人にもわからないがそうなってしまった、というところではないか。私はそういう流れの方が自然だと思うが、それに納得できない人もいる。前出のある人物は、納得できずに極端な方法を選んでしまうのだ。
 どうということのない会話のシーンに不思議と魅力がある。父親のお通夜での、久しぶりに会った親戚や幼馴染とのやりとりの妙なテンションの上がり方とか、直美と女友達とが旅館(直美の実家)で酒盛りする様とか。こういう、現実で普通にやっているであろうことが、なんとなしな魅力をまとって撮られているというのが、映画っぽさというものかもしれないなと思った。

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