3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2017年07月

『ハートストーン』

 アイスランドの漁村で暮らす少年ソール(バルドル・エイナルソン)とクリスティアン(ブラーイル・ヒンリクソン)。ソールは大人びた少女ベータに夢中だった。クリスティアンはソールの後押しをしつつも、彼に対する特別な思いをもてあましつつあった。監督はグズムンドゥル・アルナル・グズムンドン。
 思春期の少年少女らの、同性の友人との濃密な関係、自分のセクシャリティに対する戸惑いを描いた作品だが、何よりも強く印象に残ったのは、小さな町の息苦しさだ。ソールとクリスティアンが暮らしているのはいわゆる田舎の小さな漁村で、周囲は海と山ばかり。隣の家まで何キロ離れているんだと言うような地域だ。当然人口は少ないので、村人はほぼ全員顔見知り。更に人数が少ない子供は全員顔と名前が知られており、子供たちのたまり場になる場所も限られているので、カフェに行けば同級生がいるし、クラブにもぐりこむと母親が地元の男性と踊っている。人づきあいが苦手な人、周囲から浮いている人にとってはかなりしんどい環境だろう。誰にも会わずに一人でふらふらしたいなと思ったら、野山をふらつくくらいしかやることがない。安心して自宅にいられる環境ならいいのだろうが、ソールは姉2人と同室、クリスティアンは父親と折り合いが悪く、家にも居辛い。2人は度々、つるんで外を歩き回っているのだが、要するに行く場所がないんだなぁと。2人の仲の良さは村の子供たちからも揶揄されており、他の子供たちと顔を合せるのも面倒くさいのだ。
 小さいコミュニティの息苦しさを感じると同時に、外部からの情報が入ってきにくいことの息苦しさ、世界の狭さも強く感じる。子供達だけでなく、ソールの母親のように大人でも息苦しく感じる人がいる。本作の時代設定は現代よりも少し前、まだインターネットが普及しておらず、携帯電話も登場していない頃。子供が「外の世界」の情報を得るにはテレビや雑誌しかなく、セクシャリティに関する情報等はなかなか入手できない。自分のように悩んでいる人は他にもいるのか、どういう受け止め方をすればいいのかという判断材料が乏しいのだ。舞台となる風景は広大なのに(アイスランドの地形ってやっぱり独特だよなーと思う)のに、描かれる世界は閉塞的で風景の広さと反比例していく。ロケーションが開けているだけよけいに「ぼっち感」が強まるのだ。
 クリスティアンはソールよりもやや大人で、自分のセクシャリティにも、周囲がそれになんとなく気付いていることも自覚的だ。それに比べてソールの悩み方はまだまだ子供っぽく単純(女の子とセックスした翌朝のすがすがしく達成感漂う表情、ほんと腹立つわ・・・)。2人の気持ちの並走できない感が辛い。冒頭から破局への予感に満ちていてハラハラしっぱなしだった。2人とも、自分の心を持て余して自爆してしまいそうなのだ。

馬々と人間たち [DVD]
イングヴァル・E・シグルズソン
オデッサ・エンタテインメント
2015-06-02


ひつじ村の兄弟 [DVD]
シグルヅル・シグルヨンソン
ギャガ
2016-07-02

『ホリデー・イン』

坂木司著
元ヤンでホストの沖田大和と突然彼の前に現れた小学生の息子・進。彼の出現により宅配便会社で働くようになった大和と進の生活を描く『ワーキング・ホリデー』シリーズから、スピンオフの短編集。これまでの作品で登場した脇役たちが主役を務める。
スピンオフといっても、本編を読んだのが大分前なので誰が誰だったか記憶があやふや・・・。読んでいるうちに、そういえばこんな人いたな、こういう人だったなと思いだし始めた。著者の作品は基本的に人に対する優しさ、信頼があるので、ちょっと難ありだったり冷たい面がある人でも、その裏にはこんなものがあるんだよとどの短編でもそっと提示してくる。さらっと読める、というかさほど読み応えはないのでファンに対してのおまけ的な短編集か。とはいえ、進が大和を訪ねていった経緯の話などは、母親の対応含めちょっといい。改札からは出ないとか、ちょっとした拘りに説得力がある。

ホリデー・イン (文春文庫)
坂木 司
文藝春秋
2017-04-07





ワーキング・ホリデー (文春文庫)


『バルコニーの男 刑事マルティン・ベック』

マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー著、柳沢由実子訳
ストックホルム中央の公園で、暴行され下着を奪われた少女の死体が発見された。彼女は前年、不審な男に話しかけられたことを警察で証言していた。その2日後、別の公園でまた少女の死体が発見される。果たして連続殺人なのか?公園で多発している強盗事件と関係はあるのか?刑事マルティン・ベックらは事件に取り組むが、手がかりは乏しく捜査は行き詰っていく。
角川文庫は、マルティン・ベックシリーズを新たに全巻発行する予定なのかな?だとしたらうれしいなー。本作はシリーズ4作目。スウェーデンの元祖警察小説、警察小説の金字塔と言われるだけのことはあり、安定した面白さがある。警察の捜査に焦点を当てた作品なので、いわゆるどんでん返しミステリ的な派手さはないのだが、地道な捜査の中で点と点がつながる瞬間や、「仕事」としての捜査のしんどさや刑事たちの人間模様等、地味ながら読ませる。慢性的な人員不足で全員疲労困憊というところには、先日読んだ『フロスト始末』(これはイギリスの話だけど)を思い出した。どこの国でも警察は大変だ・・・。また犯人がやったことは到底許されることではないのだが、本作の犯人の描写を読んでいると何だか悲しくなってきた。ここに至るまでに(特に現代であれば。本作は60年代の話だから)何か軌道修正することができたんではないかと。こういう人が行き着く先って、これしかないんだろうかとやりきれなくなる。なお、殺人犯対する恐怖から市民が自警団を結成して怪しげな人物を買ってに取り締まることに、ベックは強い憤りを見せる。ここに警官としての責任感と、司法国家とはどういうことかという自覚が見えた。

バルコニーの男 刑事マルティン・ベック (角川文庫)

マイ・シューヴァル
KADOKAWA
2017-03-25


刑事マルティン・ベックロセアンナ (角川文庫)
マイ・シューヴァル
KADOKAWA/角川書店
2014-09-25

『ベンヤメンタ学院』

 召使養成学校のベンヤメンタ学院に入学したヤーコプは、服従を学ぶレッスンに励む。学園長ベンヤメンタ氏の妹で唯一の教師であるリーサに惹かれ、彼女に学園の奥へと導かれていく。原作はローベルト・ヴァルザーの小説『ヤーコプ・フォン・グンテン』。監督はブラザーズ・クエイ。「ブラザーズ・クエイの世界」Cプログラムにて鑑賞。
 クエイ兄弟と言えば人形を使ったアニメーション作品だが、本作は数少ない全編通して人間の俳優を使った長編映画。しかし、やはりクエイ兄弟はクエイ兄弟。作風は一貫している。銀板写真のような質感の映像と、閉ざされた空間。そしてフェティッシュさとセットになったエロティシズム。本作では生身の人間が出てくるが、生身であるということよりも、体のパーツに対するフェティッシュ、特に手の動き(ここは非常に厳密な演技が要求されてるんだろうなぁという気がする)によるエロティシズムが濃厚だった。生身の人間全体としてのエロティックさというものは、実はそれほど感じられない。また、召使養成学校ということで、服従が課されていることによるSM的な味わいも。ヤーコプはベンヤメンタ氏やリーサに従順だが、ベンヤメンタ氏やリーサもまた、ヤーコプに、あるいは学院そのものに服従しているようにも見える。
 ヤーコプとキリストになぞらえるようなベンヤメンタ氏の発言や、教会のミサを模したような学生たちのパフォーマンスがあったりする。しかし、ヤーコプは殉教者でも救世主でもなさそうだし、ベンヤメンタ氏もリーサも何かに帰依しているという感じではない。ベンヤメンタ氏とリーサがいる世界は、変化のない完結した閉じた世界だ。スノードームのように舞い散る雪や丸い金魚鉢は、閉じた世界の象徴だろう。2人はそこから解放されたいようでもあり、閉じた世界が壊れることを恐れているようでもある。ヤーコプが入学してきたことで、彼には全く自覚はないのだが、ベンヤメンタ氏もリーサも揺り動かされ世界は変動していく。しかしそれは、完結していた世界が壊れて元には戻らないということでもあるのだ。その壊れていく予兆がそこかしこに感じられ、見ている側も不安に駆られてくる。

ブラザーズ・クエイ短編作品集 [Blu-ray]


KADOKAWA / 角川書店
2016-08-05



『ブラインド・マッサージ』

畢飛宇著、飯塚容訳
 南京の「沙宗琪マッサージセンター」は、親友同士の沙復明と張宗琪が共同出資して開いたマッサージ店。2人の店長も他のマッサージ師たちも盲目で、店の中では盲人の社会がつくられていた。ある日、沙復明のかつての同級生・王が恋人・小孔を連れ職を求めてやってきた。王は株で失敗して開業資金を失い、小孔は恋人の存在を家族に言えず、駆け落ち同然だった。
 私は本作を原作にしたロウ・イエ監督の同名映画(とてもいい)を先に見ていたので、映画はここのアレンジを変えていたのかとか、実際はこのパートが結構長かったのか等、映画と比較しながら読んだのだが、本作自体がとてもいい小説だ。盲人の世界の描写の細やかさ、彼らの形成している「社会」のあり方は小説の方がよりくっきりと立ち上がってくる。マッサージ師たちの間での感情のベクトル、微妙なパワーバランスの危うさは、限定された人間関係の中では起こりがちなもので、温かみがあると同時に人間関係の狭さと偏狭さによる息苦しさを感じる。人間関係の厄介さ、羨望や嫉妬はどこの国であれどんな人であれ同じなのだ。映画と同様に強く印象を残したのは、王の弟の借金を巡る振る舞い。長男の難儀さがのしかかってくる。また、この騒動にけりをつける行動がとんでもないのだが、それが彼の誇りによるものだという所に、彼が今まで何を我慢して何を支えに生きてきたのかが露わになり痛切だ。一人の人間としての誇りであり、盲人としての誇りでもある。本作は、登場人物それぞれの「訳あり」な部分や狡猾さや衝動を描く一方で、それぞれの誇りにも度々言及する。人は何に依って立つのかという部分がそこから垣間見えるのだ。それにしても借金騒動の顛末、これで王は少し自由になれたのではとも思えるが、弟がけろっとしている所がまた腹立つんだよなー。どこの世界にも無自覚なクズっているよな・・・。


かつては岸 (エクス・リブリス)
ポール ユーン
白水社
2014-06-25



『パワーレンジャー』

 それぞれの事情から補習クラスに通う羽目になった高校生のジェイソン(デイカー・モンゴメリー/吹替:勝地諒)、キンバリー(ナオミ・スコット/広瀬アリス)、ビリー(RJ・サイラー/杉田智和)、同じ高校に通うが欠席がちなトリニー(ベッキー・G/水樹奈々)、ザック(ルディ・リン/鈴木達央)は偶然、同じ場所に居合わせ不思議なコインを手に入れる。しかしそのコインのせいで彼らに超人的なパワーが生まれた。不思議に思いコインを発見した場所に戻った彼らは、かつて世界を守った「パワーレンジャー」の1人ゾードン(ブライアン・クラストン/古田新太)と、機械生命体アルファ5(ビル・ヘイダー/山里亮太)に出会う。ゾードンがかつて戦った悪の戦士リタ・レバルサ(エリザベス・バンクス/沢城みゆき)を阻止する為、ジェイソンらが新たなパワーレンジャーに選ばれたと言うのだ。監督はディーン・イズラライト。
 日本のスーパー戦隊シリーズをアメリカ向けにローカライズしたテレビドラマを、映画としてリブートした作品。当然日本では東映が配給しているのだが、洋画の前に東映のロゴが表示されるのって何か新鮮だわ・・・。作品自体はとてもお金がかかってブラッシュアップされたやや年長向けの戦隊ものといった感じなのだが、今回吹替え版で見たので、自分が馴染のある「戦隊もの」感をより味わえたように思う。ジェイソン役の勝地はアニメ吹替えの実績があるので特に心配はしていなかったが、キンバリー役の広瀬が達者とはいかないまでもなかなか頑張っていて、好感が持てた。本業声優の皆さんに関しては当然全く心配ないので、吹替え版も結構お勧めできる。特に沢城みゆきの沢城みゆき感はあーこれこれ!って感じで素晴らしかった。安心感ばっちり。
 パワーレジャーとなる5人の少年少女それぞれが、家庭や自分自身の問題を抱えていたり、学校に馴染めなかったりという背景が設定されている。自閉症やセイクシャルマイノリティという設定も盛り込まれているあたりは現代的だ。5人が何事もなく学校に通っていたら、同級生であっても特に仲良くはならない「別ジャンル」の人同士(ジェイソンとキンバリーはアメフトの花形選手とチアリーダーだから接点あるだろうけど)というあたりは、特撮版『ブレックファスト・クラブ』とも言える。全然「別ジャンル」の相手であっても協力し合えるし話してみたら面白いかもしれないし仲良くなれるかもしれないよ、という示唆はティーン向け映画として真っ当。5人の造形はなかなか良く、通り一遍から若干ずらした感じなので、むしろTVシリーズをこのキャラクターで見てみたくなった。映画だと、やはり5人の背景までちゃんと見せるのは時間的に難しいんだろうな。映画だから当然全員それなりのルックスではあるが、いわゆる美男美女、スタイル抜群という感じではない所も良かった。年齢相応な雰囲気が出ていて、女の子たちも、意外と寸胴だったりする。
 5人がパワーレンジャーに変身するのが大分後半で、しかも1度のみというあたりも、彼ら個人のドラマを見せようという意図だろう。変身や巨大メカというガジェットはあるものの、ベースは思春期の少年少女たちの青春ドラマだ。そこが間口の広さでもあるが、大人が見るには若干物足りないかなという気もする。戦隊もののお約束的カットや音楽の特徴もちゃんと踏まえているが、それに興ざめする人もいるだろうしなぁ。

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櫻井孝宏
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
2017-05-10

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エミリオ・エステヴェス
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2012-04-13



『銀魂』

 宇宙から襲来した“天人”によって開国を迫られた日本。天人の台頭と廃刀令により、侍は衰退していった。侍の心を捨てずにいる坂田銀時(小栗旬)は、剣術道場の長男・志村新八(菅田将暉)、銭湯種族・夜兎族の神楽(橋本環奈)と万屋を営んでいた。原作はアニメ化もされた空知英秋の同名漫画。監督は福田雄一。
 原作はもちろん週刊少年ジャンプ連載の大ヒット漫画で、TVアニメ化も劇場用アニメ化もされた。映画としてどうやるか、というよりも『銀魂』としてどうやるか、という方向に割り切って面白さを追求していると思う。なので、原作を知らないで見に来た人にはあまり通じないだろう。映画としてはエピソード配分のバランスも悪いし、キャラクター数が多いので事前知識がないと正直厳しい。しかし、原作漫画ないしはアニメを知っている人にとっては、あーちゃんと銀魂だ!これだよこれ!と安心できるし楽しめると思う。ギャグのバカバカしさとメタ構造の緩い取り入れ方は、原作風味でもあり、福田監督の手癖でもあり、相性は良かったと思う。ムロツヨシ演じる平賀源外のパートはそれが如実だった。源外役にムロツヨシって若すぎない?と思ったけど、いてくれると安心なんだろうな(笑)
 特にアニメのフォーマットやテンポやキャラクターのセリフ回しはかなり意識しているのではないかと思う。まさか実写映画でもアバン芸が見られるとは思わなかった。雑なフェイク主題歌もいい。人気漫画の実写映画化がここの所相次いでいるが、その中では(スベっても許されると言う特殊なポジションとは言え)かなり成功しているのではないだろうか。キャラクターの再現度も意外と高い。菅田がキラキラオーラを封印して地味眼鏡になりきっているのには驚いたし、新撰組の3人のクオリティも高い。特に沖田(吉沢亮)の沖田感がすごかった。
 また、俳優の力で原作とはキャラクターの作中比重が変わって見えることもあるんだなと実感した。本作はギャグ一辺倒のカブト狩り編(というほど大した話じゃないよな・・・)とシリアス度の高い紅桜編という2つのエピソードを組み合わせている。紅桜編に登場する刀鍛冶の村田鉄矢(安田顕)は、原作でもアニメでも私にとってはそんなに印象に残らなかったのだが、今回は存在感があった。新井浩文演じる岡田似蔵も同様。2人とも熱演で、方向性は違うが上手くやれなかった人、一番になれなかった人の悲哀みたいなものがより濃くなったのではないか。あっこういうキャラクター、こういう話だったんだと再発見した気分。
 なお、福田監督は胸か尻か脚かで言ったら脚派なんじゃないかなー。脚と言えばこの人ということで来島また子役の菜々緒が美脚を披露しているし、菜々緒の足と橋本環菜の絡みというわけわからないアクションシーンもある。しかし、高杉晋助役の堂本剛が結構な脚の露出加減(高杉の衣装は着流しなので、アクションをやるとかなりはだけるんですね)だし、あっそういう角度で撮るんだ・・・的なよくわからない力の入れ方だったように思う。


劇場版 銀魂 新訳紅桜篇(通常版) [Blu-ray]
杉田智和
アニプレックス
2013-06-26

『甘き人生』

 1969年、イタリアのトリノ。9歳のマッシモは母親が大好きだったが、ある日突然、母親(バルバラ・ロンキ)がいなくなってしまう。司祭から母親は天国に行ったのだと告げられるが、マッシモはそれを信じられない。1990年代、新聞記者になりローマで暮らすマッシモ(バレリオ・マスタンドレア)はまだ母親の死について受け入れられず、父親(グイド・カプリーノ)との溝も深くなっていた。原作はマッシモ・グラメッリーニの自伝的小説。監督はマルコ・ベロッキオ。
 まだ幼いマッシモに対して父親は、母親の死をとっさに隠してしまう。後日司祭が母親が亡くなったと説明するものの、父親が最初に「お母さんは出かけた」というような説明をしてしまったことが、マッシモの中でずっと尾を引いている。子供に死、特にマッシモの母親のような死に方をどのように伝えればいいのかというのは、イタリア(カソリック国であるイタリアでは、マッシモの母親の死は更に説明しづらいだろう)のみならずどの文化圏でも悩ましいことだなとしみじみ思った。父親の説明は明らかにまずいのだが、彼も動転しているし子供にこういうことをどう話せばいいのかわからないのだ。父親はその後30年にわたって息子に本当のことを言うことができないのだが、いくらなんでもちょっと無責任だろう。この父親は大変不器用で、マッシモに対する愛情はあるのだろうが、お互いに理解しがたい存在だったように見えた。唯一一緒に盛り上がったのはサッカー観戦だが、それもマッシモの過熱により頓挫してしまう。
 母の死を受け入れることに対する躓きが、中年になってもマッシモを縛っている。幼少時代の様子を見ればわかるように、マッシモは母親との結びつきがとても強い子供だった。母親との一体感が強すぎる為に、母親の死が受け入れられなかったとも言える。一歩引いて他人として見てみれば、彼女の死の真相はおおよそ見当がつくものだ。真相があいまいにされ続けてきたことで、母親は自分とは別の人間であるということも、またあいまいになっていたのではないだろうか。母親の死の真相がわかってようやく、母親であっても他人であり、何を考えているのかなど本当にはわからない、ということが受け入れられたのではないか。母親が不可解な存在であることと、母親に愛されていたことは、両立するのだ。
 1970年代から90年代のイタリアの文化的な背景が垣間見えるところが面白い。特に、音楽映画的な側面もあり、当時の流行音楽が盛りだくさん。少年時代のマッシモの友人宅はヴィスコンティの映画に出てきそうな邸宅なのだが、友人が部屋で大音量で聞いているのがDeep Purpleというミスマッチ感が愉快。どの時代でもロック小僧はエアギターやるのか・・・。

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2012-03-24


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2017-06-02


『マッド・メアリー』

 第26回レインボー・リール東京~東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて鑑賞。暴行事件を起こして半年間服役していたメアリーは、刑務所を出て地元に戻ってきた。親友のシャーリーンが結婚式を控えており、メアリーがブライズメイドを務めることになったのだ。式に同伴する相手がいないメアリーは、同伴者探しに奔走するが、うまくいかない。そんな中で、シャーリーンの結婚式の撮影を依頼されたカメラマンのジェスと親しくなる。監督はダレン・ソーントン。
 思わず、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」と呟きそうになった。しかしメアリーには「花を買い来て」親しみあうような相手もいないのだ!周囲に置いていかれる、自分だけがちゃんとした大人になれていないのではないかというきつさが、我がことのように身に染みてしょうがない。メアリーはバカ騒ぎをしていた学生時代と変わらないままだが、シャーリーンは確実にステップアップし、条件のいい結婚相手を見つけ、社会的な「大人」になっている。身にまとうファッションからして、ああ違う世界の人になったのね、というもので、メアリーとの共通項が見えない。メアリーがバカにしていた同級生すら、結婚式に同伴するパートナーがおり、彼女らから見れば落ちこぼれなのはメアリーの方なのだ。メアリーは必ずしも彼女らのようになりたいというわけではないだろう。ただ、かつて親友だったシャーリーンが別の世界に行ってしまったことが辛いのだ。
 しかしそもそも、メアリーとシャーリーンは同じ世界を分かち合っていたのか、本当に親友だったのか。メアリーは度々シャーリーンに電話をするが、シャーリーンが出ることはないし会ったときの態度もつれない。メアリーが延々と片思いしているようにしか見えないのだ。徐々に、シャーリーンにはシャーリーンが選び取った生活があり、彼女の中ではメアリーとの関係は既に(概ねメアリーが起こした事件のせいで)過去のものになっているとわかってはくる。しかし、片思いを終わらせられないメアリーの右往左往は痛々しい。
 そんなメアリーに新しい世界を見せることになるのがジェスだが、ある出来事で心が離れてしまう。メアリーがやったある行為は、シャーリーンらに「見せつける」ためのもので、ジェスはそれに利用されたと感じるのだ。メアリーのジェスに対する気持ちに嘘はないのだろうが、それでもつい「見せつけ」てしまうくらい、シャーリーン(と地元)に対する鬱屈があるんだろうなぁ・・・。その気持ちはちょっとわかる。自分を変えない頑固さがある一方で、自分は自分、と開き直れる程には強くなれずずっと劣等感が付きまとう。それでも最後は、メアリーは譲歩したんだろうなと思う。結婚式でのレトロな髪形とドレスは彼女にとても似合っていて、こんな雰囲気にもなる人なんだ!とはっとした。本人としては、自分っぽくないと思っているのかもしれないけど。

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2015-04-08


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2013-02-08





『もう生まれたくない』

長嶋有著
震災が起きた年の夏、その翌年、翌々年。マンモス大学の医務室に勤務する春菜、同僚のシングルマザー美里、謎めいた清掃員の神子、大学講師の布田やその教え子である遊里奈や素成夫ら、様々な人たちと「死」の交錯を描く群像劇。
「死」と言っても、芸能人など著名人の訃報であったり、知り合いの知り合いくらいの距離感のある人の訃報であったり、ごく身近な人の訃報であったりと、その距離感は様々だ。人の死は殆どの場合突然訪れる。当人にとっても他人にとっても脈絡なく生じる。だからショックだし混乱するのだ。そして、死んだ人の時間がそこで止まってしまうにもかかわらず、他の人の時間は死者にこだわりがあろうとなかろうと否応なしに進む。その強制的な進み方が、死者の関係者にとってはきつい、しかし同時に強制的であるから若干気が楽になってくるという面もある。題名は「もう生まれたくない」だけど、決してそういう否応なしに時間が流れる感じが、ある年のある時点からふっと次の年のある時点へ、中間を割愛して移行する章立てで強調されている。
相変わらず実在の固有名詞や個人名の使い方が上手い。本作の場合は過去のある時代、「死んだ」ものへのほのかな懐かしみ(といってもその対象と深い関係があるわけでもないのだが。そういう身勝手な郷愁ってあると思う)を感じさせる。

もう生まれたくない

長嶋 有
講談社
2017-06-29


問いのない答え (文春文庫)



長嶋 有
文藝春秋
2016-07-08
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