3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2017年06月

『BLAME!』

 過去の「感染」により、人間が都市コントロール権を失い、無限に増殖し続ける階層都市。都市防衛システム「セーフガード」は、人間を不正な居住者と見なして排除するようになっていた。僅かに残った人間たちによる小さな集落が点在していたが、食料不足によって絶滅も間近と思われた。シボ(花澤香菜)は食料を探しに出た所をセーフガードに襲われるが、旅の男。霧亥(キリイ)(櫻井孝宏)に助けられる。霧亥はネット端末遺伝子を持つ人間を探し続けていた。原作は弐瓶勉の同名漫画、監督は瀬下寛之。製作はポリゴン・ピクチュアズ。
 ストーリーやキャラクター云々というよりも、ポリゴン・ピクチュアズのセルルック3DCG表現が今どういう地点にあるのか、という点で面白い作品だった。原作、監督、スタジオの組み合わせは『シドニアの騎士』と同じ。SFとしての世界設定やキャラクター造形は正直そんなに新鮮味のあるものではない。原作がかなり前に発表されたものだということもあるが、発表された当時でも、そんなに新しいっていう感じではなかったのではないかな・・・。ただ、王道と言えば王道、ベタと言えばベタなストーリーや設定が、本作の映像だと不思議と新鮮に見える。映像が「出来上がっている」というよりもまだ進化しそう、発展途上な伸びしろ感を感じさせるのも一因かもしれない(完成された商品としてそれはどうなんだという見方もあるが)。
 近年のポリゴン・ピクチュアズは、(技術面の素人から見ても)いわゆるアニメ的な「かわいい」「かっこいい」をセルルックの3DCGでやるにはどのあたりが落としどころなのか、ずっと試行錯誤し続けている気がする。『シドニアの騎士』と比較すると、本作の女性キャラクターは明らかに、セルルックの「アニメ」としてのかわいさをより獲得している。技術の進歩を目の当たりにしている感じ。また、ポリゴン・ピクチュアズ制作作品は、この原作・題材を映像化するにはどうするか、というよりも、自社が持っている技術は、どういった傾向・特質の題材・世界観で最も活かされるのか、という方向でのネタの選び方、作り方をしているように見える(実際は全然関係ないのかもしれないけど・・・)。一つのスタジオの作品を追っていく面白さを、今最も味あわせてくるスタジオではないだろうか。

『僕とカミンスキーの旅』

 売れない美術評論家ゼバスティアン(ダニエル・ブリュール)は一山当てようと、スイスの山村で隠遁生活を送る伝説的画家マヌエル・カミンスキー(イェスパー・クリステンセン)を訪問する。カミンスキーは視力を失いつつ製作を続けたことで、1960年代に「盲目の画家」としてスターダムになったのだ。スキャンダルを掴もうと画策するゼバスティアンだが、カミンスキーに振り回されていく。監督はボルフガング・ベッカー。
 冒頭、実際の当時のニュース映像や実在のアーティストの映像を取り入れた疑似ドキュメンタリーパートの出来が良くて、そのもっともさに笑ってしまった。カミンスキーのやっていること、立ち居振る舞いが見るからに「あの時代のアーティスト」然としている。彼は才気あふれるアーティストだが、同時にいかにもアーティストぽい振る舞いによる自己演出で、より自分の伝説化を図っていたきらいもある。ゼバスティアンは彼が当時失明しつつあったというのも演技ではないかと疑い、「大ネタ」を掴もうと企んでいるのだ。
 高齢になったカミンスキーは、物忘れは激しく少々痴呆も始まっているのか、最初は偏屈なおじいちゃんといった雰囲気だ。気にするのは食事と昼寝の時間と、娘の目を盗んでの喫煙。ゼバスティアンは彼をかつての恋人に会わせて自作のネタにしようとするが、マイペースなカミンスキーに妨害されてばかり。珍道中ロードムービー的な側面を見せてくる(からっけつのはずのゼバスティアンがどんどん身銭を切らなければならないので見ていてヒヤヒヤした・・・)。
 しかし、徐々にカミンスキーが芸術、絵画やその制作について言及するようになる。芸術に人生を賭けた人としての矜持や腹のくくり方が垣間見えるのだ。そういう時に限ってゼバスティアンは彼の話をよく聞いておらず、女性関係等スキャンダラスな話題ばかり引き出そうとしているのが皮肉だ。彼が批評の対象として取り上げてきた芸術家としてのカミンスキーが目の前にいるのに、批評の本来の趣旨ではないはずの「おまけ」的話題の方にばかり目がいってしまい、見るべきものを見逃してしまう残念さ。それは、批評家ではなくスクープ屋の仕事だよ・・・。
 なお、エンドロールの名画パロディ風アニメーションがとても楽しい。本編はちょっと長すぎでダレるのだが。

『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』

 ふとしたことで超人的な腕力・体力を身につけたチンピラのエンツォ(クラウディオ・サンタマリア)は、世話になっていたセルジュ(ステファノ・アンブロジ)が殺されたことがきっかけで、セルジュの娘アレッシア(イレニア・パストレッリ)の面倒を見ることになる。日本のアニメ『鋼鉄ジーグ』に夢中なアレッシアは、エンツォを鋼鉄ジーグの主人公“ヒロ”と呼び、力は皆の為に使うべきだと諭す。しかし、ギャングのジンガロ(ルカ・マリネッリ)が2人に近づく。監督はガブリエーレ・マイネッティ。
 ネタのボリュームからすると、映画の尺はもうちょっとコンパクトでもいいんじゃないかな?という気がしたが、ミニマムな「ヒーロー」ものとして面白い。まさかイタリアで『鋼鉄ジーグ』がメジャーだとは知らなかった。しかしなぜジーグ・・・。エンドロールでジーグの主題歌のイタリア語カバーが流れるが、むしろカバーの方がかっこいいし、いい歌謡曲っぽく仕上がっている。
 エンツォは超人的な力を手に入れるが、その力でやることはATM強盗。その映像がYoutubeにアップされて一躍正体不明の時の人となるというあたりは現代的だ。しかし、むしろオーソドックスな「ヒーロー誕生」物語のように思った。エンツォは自分本位な力の使い方をしていたが、アレッシアの無邪気さに触れるうちに、彼女を守ろうと思い始める。アレッシアがエンツォを目覚めさせる「装置」としてだけ存在するきらいがあるのも、一昔前のヒーローものっぽいなと思った。また、ヒーロー誕生と同時に、ヴィラン(悪役)もまた誕生する、2者がセットになっているというあたりも、やはりヒーローものっぽい。
 ヴィランであるジンガロのキャラクターが頭一つ抜けて立っている。ギャングといっても団地内ギャングで大した権力はない。しかし自己愛が強くクレイジーなので始末に負えない。こんな上司は嫌だ!ランキング上位に間違いなくエントリーされるだろう。彼が悪の道をひた走る動機が、エンツォ(とは彼は当初知らないのだが)ばかりがYoutubeで有名になって悔しい、というショボいのか何なのかわからないものなのは、現代ならではなのかもしれない。自己愛が暴走している。また、舞台がローマ郊外で、エンツォのジンガロも基本的に団地で活動しているチンピラ、経済的には結構厳しいというあたりも、実に現代的。ローマと言っても華やかさやおしゃれさ、歴史ある町のイメージとも程遠い。郊外映画(と私が勝手に呼んでいる。郊外の団地等を舞台とした映画。概ね登場人物の所得が低く町の雰囲気が荒んでいる)の一種とも言える。