3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2017年05月

『カフェ・ソサエティ』

 1930年代。ニューヨーク育ちの青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、叔父で大物エージェントであるフィル(スティーブ・カレル)を頼ってハリウッドにやってくる。フィルの雑用係として働き始めたボビーは、フィルの秘書ヴォニー(クシツエン・スチュワート)に恋をする。しかしヴォニーの恋人は意外な人物だった。監督はウッディ・アレン。
 他愛ない話、2人の人を同時に好きになっちゃったけどどうしよう、というだけの話ではあるし、いつものアレン監督作といった感じではあるのだが、割と好き。ウッディ・アレン作品は面白かろうがつまらなかろうが自分にとって気楽な作品が多い。あっさりと浮気したり殺人が起きたりして、そういうこともあるからしょうがない、みたいな突き放した距離感があるからかもしれない。
 本作では、同時に2人の人を愛してしまう人が登場し、話の流れ上どちらか一方を選ぶ。しかし、選ばなかった一方も、ずっと心の中で生き続ける。今の人生、今のパートナーを愛していないというわけでも不誠実だというわけでもなく、1人の人の中で両立してしまうもので、これはもうしょうがないのかもな・・・。そういうのは許せないという人もいるかもしれないが、私はどちらかというと共感する。「夢は夢だ」というセリフが出てくるのだが、正にその通りで、そういう夢を一生抱えていく人もいるのだと思う。選ばなかった人生への憧憬という部分では、『ラ・ラ・ランド』を思い出した。ハリウッドという舞台は、そういう儚いものとの相性がいいのか。
 相変わらず衣装が素敵なのだが、ヴォニーがプライベートで着ているヘソ出しファッションは、ちょっと当時のモードとはずれている気がする。相当攻めたおしゃれをする人という設定なのだろうか。後々登場する時には、いかにも30年代風のタイトなロングドレスを着ているので、そのあたりのニュアンスが今一つわからなかった。
 ユダヤ人ギャグみたいなフレーズが結構出てくる(ボビーはユダヤ系家庭の息子なので)のだが、これはセーフなの?アウトじゃないの?とちょっとハラハラしてしまった。ユダヤ系であるアレン自らやってるわけだからまあセーフなんだろうけど、大丈夫なのかな・・・。
 なお、女性2人の名前がヴェロニカなのは、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『ふたりのヴェロニカ』(1991年)へのオマージュなのかな?話の内容は全然関係ないんだけど。

『帝一の國』

 エリート学生たちが集まる超名門校・海帝高校。歴代の総理大臣は海帝高校の生徒会長出身者が多く、政財界にも強力なコネがある。主席入学した赤場帝一(菅田将暉)の野望は総理大臣になって「自分の国」を作る事。その為にはまず生徒会に食い込まねばならない。2年後の生徒会長選挙で優位に立つべく、次期生徒会長を見定めその懐に入る為、生徒会長選に身を投じる。原作は古屋兎丸の同名漫画。監督は永井聡。
 原作未読の状態で見たのだが、アバンの時点から反則的に面白い。その面白さは、主にテンポの良さと、何より主演の菅田をはじめ、出演俳優たちの全力投球ぶりによるものが大きいと思う。もちろんプロの俳優である以上何に出演しても全力投球だろうが、この作品が何を要求しているのか的確に判断し、そこに向かって思いっきり突っ込んできてるなって感じ。菅田の顔芸の数々が素晴らしく、この人最近映画に出過ぎだけど、まあ出したくなるわな!と思った。
 帝一の天敵である東郷菊馬を演じる野村周平の、下品な方向に振り切っているけどぎりぎりで下品にはならない下衆感も抜群。ベテラン勢では、帝一の父親役の吉田鋼太郎は、最近すっかりおもしろおじさんになってしまった気がするが、間の取り方等やはり上手い。帝一と一緒に試験の答え合わせをするくだりは、2人の息の合い方と吹っ切れ方が素晴らしかった。
 また、「その他」の生徒役、エキストラ的な出演者に対しても演出がしっかりしており、動きを揃えなくてはならないところの動かし方や、集団内での馴染み方がとても良かった。指導するの本当に大変だったろうな・・・。 ストーリーも設定も実に馬鹿馬鹿しく、生徒会の「権力」感等最早アナクロでそれ故にギャグになっているのだが、そういう馬鹿馬鹿しいものをすごく真面目に、フルスイングで演じ、作っている所になんだかぐっときた。
 建て付けはギャグだし、相当カリカチュアされたものでもあるのだが、帝一たちがやろうとしていることは民主主義ということだろう。帝一はとある事件により権力志向まっしぐらになるのだが、彼が加担している行為は、いわば帝政システムから、権力の一点集中と自由な行使を抑制するシステムに移行するためのものだという所が面白い。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』

 宇宙の平和を守るヒーローとして、黄金の惑星ソヴリンの指導者アイーシャ(エリザベス・デビッキ)からの依頼を完了した、ピーター・クイル(クリス・プラット)をはじめとするガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々。しかしロケット(ブラッドリー・クーパー)がソヴリンの高エネルギー源の電池を盗んだせいで、アイーシャは激怒。一行はソヴリンから執拗に追われる羽目になる。危機に陥った彼らの前に現れたのは、ピーターの父親を名乗るエゴ(カート・ラッセル)だった。監督・脚本はジェームズ・ガン。
 1作目ではガーディアンズの面々が本当に「ガーディアンズ」になるまでが描かれ、少年漫画っぽさに熱くなったが、本作ではピーターと父親の問題を軸に、家族を巡る物語が中心に描かれている。ピーターを巡る、悪しき父親と良き父親の対決の物語でもあり、ある登場人物の活躍には目頭熱くせずにはいられないだろう。父親は子供を無事に送り出さなければならない、という姿勢の健全さにもほっとする。また、ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)と妹の確執の顛末や、ベビー・グルート(ヴィン・ディーゼル)の「育児」に試行錯誤するロケットの姿には、まだ上手くはやれないけど何とかこいつとやっていきたいんだ!という一生懸命さがあって、なんだかほのぼのする。
 ガーディアンズの面々の愛すべき所は、皆愛情の出し方、好意の伝え方が上手くはないが、伝えようという意欲は捨てていないという所じゃないかなと思う。他者とのコミュニケーションに希望を持っている人たちなのだ。口が悪いロケットですら、その点に関しては前作程皮肉っぽくはない。本作に登場する「ヒーロー」たちのかっこよさは、ある意味愚直な一生懸命さにあり(ようするに全然クールではない)、悪ノリはあってもシニカルさはない。そこが、作品の愛嬌に繋がっているように思う。
 なお、前作ではドラックス(デビッド・バウティスタ)が筋肉バカみたいな振る舞いだったが、今回は意外と良いことを言っている気がする。彼は比喩表現がわからず文字通りの率直な言い方しかできない、ある意味とっても素直なので、素直になれない他のメンバーたちの心情をずばりと(多分本人は意図していないのだろうが)言い当てているような所があった。マンティス(ポム・クレメンティエフ)へのブスいじりにはハラハラさせられたが、それでも彼女に好意を持っているということではあるからなぁ(ドラックスの種族がそういうことを他人の評価基準にしていないということかもしれないけど)。ブスだから嫌いだとは言っていないんだよね。

『独り居の日記』

メイ・サートン著、武田尚子訳
アメリカの詩人・小説家である著者が、世間と距離を置き片田舎で一人暮らしをしていた時代の、約1年間に綴った日記。著者は60年代後半に同性愛者であることをカミングアウトしたが、そのため大学の職を追われ、更に父親を亡くし、失意の中にあった。そんな中で、自分を徹底的に見直す手がかりとして書かれた文章が本著ということになるのだろう。世間から離れた暮らしとは言え、仙人のように何かを悟ったという風ではなく、著者はしばしば癇癪をおこす(自分でも作中で言及しているが、どうもかっとしやすい性格だったようだ)し、頻繁にしょげる。そういう気分の浮き沈みや自分のみっともなさを(おそらく)ちゃんと記しているところに、作家としての強さ、冷静さがあるのだと思う。自分の思考、感情と著作に対する誠実な態度が随所から窺えるのだが、それ故に文章を書くことの苦しさも常にある。また、自著に対する書評が芳しくなく落ち込んだり、好評に気を良くしたりする様は意外だった。全然超然とした人ではないんだなと。著者は本著を執筆中、物理的に他人と距離を置いて孤独を確保していたわけだが、精神的にも、どんなに親しい人や愛する人であっても立ち入らせることができない領域がある。著者の生活や、時折言及される身近な人との軋轢からは、そういう領域の存在を感じた。他人には(なまじ親密であればあるほど)なかなか理解されにくいことなのかもしれないが。

<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=tf_til&t=countthreea02-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=4622085585&linkId=d6e6df5c84856f153868a139924c69b5&bc1=ffffff&lt1=_top&fc1=333333&lc1=0066c0&bg1=ffffff&f=ifr">
    </iframe>
<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=tf_til&t=countthreea02-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=4622078627&linkId=5b5fadab726690f1937f833fdc752afe&bc1=ffffff&lt1=_top&fc1=333333&lc1=0066c0&bg1=ffffff&f=ifr">
    </iframe>

『観なかった映画』

長嶋有著
映画は好きだが映画ファンというほどではない、という著者による映画評集。映画ファン、シネフィルはともすると、その映画の監督や出演俳優のフィルモグラフィーを引き合いに出して見た映画を語る。しかし、それではほかの作品を見ていない人は話に乗ることができない。監督や俳優の個人名を出さず、その映画の中で生じていることだけで映画を語ってもいいじゃないか、というスタンスで書かれた連載だそうだ(最初のうちはまだスタンスが固まっていないのか、監督名や俳優名が出てくるのだが)。私は映画好きでおそらく著者よりは見ているのではないかと思うが、監督や俳優にはあまり関心がなくて覚えていられない。「映画の中」のことだけで映画を語ってくれる方が、正直ありがないなという気持ちがあるので、本著は楽しく読んだ。著者が映画を見ていてひっかかりを感じる部分が、著者が小説の中で拘っている(であろう)こととリンクしているようで、著者の小説の作り方が垣間見えるようでもあった。あと、映画原作者として心乱される(笑)『サイドカーに犬』と『ジャージの二人』の章は、小説や漫画の映画化って原作者サイドからはこういう感じなのかという現場感があって、また別の面白さを感じた。『ジャージの二人』の方が著者的にはいい現場だったみたいだけど(笑)。

『フリー・ファイヤー』

 とある倉庫に集まった男女。クリス(キリアン・マーフィー)とフランク(マイケル・スマイリー)が率いるグループは秘密裡に銃を入手しようとしており、ジャスティン(ブリー・ラーソン)とオード(アーミー・ハマー)が仲介に立ち、密売人のヴァーノン(シャールト・コプリー)と取引しようとしていたのだ。しかし話はこじれにこじれ、ついに銃撃戦にもつれこむ。監督はベン・ウィートリー。
 監督が『ハイ・ライズ』の人だと気付いてびっくりした。全然方向性違うよ!でもクールな美に徹した一応文芸作品的な『ハイ・ライズ』よりも、本作の方が性に合っているんじゃないかなという気がする。少なくとも、撮っている側も出ている側も楽しそうだ。一種の密室ものであり、閉鎖空間でばんばん銃を撃ちまくる、当然デスゲーム的になるというアクション映画でありサスペンス映画なのだが、登場人物全員が妙に間が抜けており、かつ脚本がわりと精緻ではない、というか大雑把な為に、ユルいアホっぽさが醸し出されている。とにもかくにもバカとは商売を(同じチームとしても相手チームとしても)するなよ!という教訓に満ちている。お前がいなければもっと話は早かったんだよ!と登場人物の一部も観客も思うに違いない。
 空間内の構造と位置説明(各人の位置関係の見せ方の演出)があまり上手くないので、お互いが今どういうふうに移動しているのか、銃弾の軌道がどうなったのか等、いまひとつわかりにくい。電話の登場の仕方やそれに対する登場人物たちの反応も、一定距離を移動させるイベントを発生させる為なんだろうけど、あんまり必要じゃなかったんじゃないかな・・・という気がしなくもない。そもそも、さっさと出口目指せよ!って話だろうしなぁ・・・。シチュエーション的に、いわゆるコンゲーム的な内容かな?と思う人もいると思うが、その部分には全く期待はできない。むしろ、とにかく銃を撃ちまくる、しかもかっこ悪く!という、バカバカしいシチュエーションの為の作品だろう。どの登場人物も、絶対にかっこよくしないぞ!という意気込みが窺えるので、この点は良かった。
 設定、脚本は大雑把でいわゆる「上手い」映画ではないのだが、映画「ぽさ」の出し方はツボを心得ているように思った。画面の雰囲気に何となく昔の「午後のロードショー」的な良さがあり、特に音楽の嵌め方のセンスがいいので、それだけで何となく見てしまう。90分という短さもちょうどよかった。

『スウィート17モンスター』

 17歳のネイディーン(ヘイリー・スタインフィルド)は家庭でも学校でも浮いた存在で、不満たらたらな日々を送っている。ある日、無二の親友である幼馴染のクリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)がハンサムで社交的な自分の兄・ダリアン(ブレイク・ジェナー)と付き合うことになり、自分とは全くタイプの違う兄を嫌っていたネイディーンは大ショック。クリスタに絶交宣言をし突飛な行動に出てしまう。監督はケリー・フレモン・クレイグ。
 ネイディーンにはクリスタ以外に友達がおらず、彼女を兄にとられたような気分になってすねてしまう。とは言え、ネイディーンは少々浮いてはいるものの、非常に変人であるとか、キャラクターが強烈であるとかいうわけではない。人並みの常識はあるし、やろうと思えば無難に振舞うことは出来る。むしろこのくらいの浮き方は、「普通」の範疇だろう。彼女が担任教師のブルーナー(ウッディ・ハレルソン)曰く「嫌われっ子」なのは、ひとえに普段の彼女の態度がちょっと感じ悪いからだろう。ブルーナーの言葉尻を捕えていちいち指摘し、「いちいち人のあげ足取って楽しいか?」と皮肉交じりで尋ねられるのだが、一考した後「うん」と答えるような子なのだ。
 この、浮いているけど「普通」の範疇で、感じ悪さも突き抜けたものではなく「普通」の範疇、というところが却ってシビアだ。こんなの自分でどうにかしないとどうにもならない!突出した個性がないということは、自分にとってこれだという強固な世界もない、よって逃げ場もないということだ。例えばすごく読書好きであるとか芸術のセンスがあるといった特徴があれば、そこが辛いときの拠り所になるのだが、ネイディーンにはそこまで思い入れのあるものはない。はぐれ者にすらなれない辛さというのもあるんだよなとしみじみとした。ネイディーンは相手とシチュエーションによっては感じよく振舞えるので、単に不器用、かつ人間関係の手間暇を面倒くさがっているんだろうけど・・・。このあたりが気遣いの人であるダリアンとの差異であり、彼女のコンプレックスを増大させている原因でもある。
 ネイディーンのちょっと面倒な青春物語であると同時に、彼女の家族の物語としての側面もある。私はむしろ、家族映画としてとても面白いし、細部に配慮がされていると思った。実は彼女の父親は数年前に死亡しており、その死がいまだに家族に影を落としている。ネイディーンの中では、自分は父親のお気に入り(兄は母親のお気に入り)であり、父親はウマの合わない母親との仲介役でもあった。父親が突然いなくなったことで、家族内が母親&兄 VS ネイディーンになってしまったという思いがある。母親も兄も父親がいなくなって大変ではあるのだが、自分のことでいっぱいいっぱいな彼女にはまだそこが見えていない。
 特に、母親が息子に依存気味でダリアンがいないと家庭崩壊しそうな気配が垣間見えてくるので、ネイディーンの動向よりもむしろ母と兄とのやりとりにハラハラしてしまった。ダリアンはルックス良好、成績も運動神経も良好で一見人生勝ち組だし実際ネイディーンに勝ち組宣言するのだが、ちゃんとした「出来のいい息子」だからこそ、母も妹も見捨てられず逃げ場がない。勝ち組以外の道がそもそも許されないのだ。ネイディーンは周囲に当たり散らす(このあたりは母親も似ている)ことができるが、彼はそれもできない。20歳になるかならないかくらいの若者にとっては荷重が重すぎ相当しんどいのではないかと思う。
 とは言え、なんだかんだ言ってもネイディーンが最終的に自分でなんとかしようとするところには希望がある。彼女に好意を示す同級生のアーウィン(ヘイデン・ゼトー)もブルーナーもバランスの取れた、返しの軽妙な人物なので、彼女が暴投しても荒れないところも良かった。ネイディーン(と母親)以外の人が人間出来すぎな気もするが、周囲の出来がいいから彼女がコンプレックス拗らせたって側面もあるのか・・・。


『台北ストーリー』

 不動産会社で働くアジン(ツァイ・チン)と稼業の布地問屋で働くアリョン(ホウ・シャオシェン)は幼馴染で、過去に色々あったらしいが何となく関係が続いている。昇進を控えたアジンだが、勤務先が大企業に買収され解雇されてしまう。渡米したアリョンの義兄を頼って、2人でアメリカへ移住しようとも考えるが、アリョンはなかなか踏ん切りがつかない。監督はエドワード・ヤン。4Kデジタル修復され、待望の日本公開となった。1985年の作品。
 80年代、日本と同じく好景気に沸く台北が舞台。冒頭、アジンは念願のマンションを購入する。徐々に内装が整うマンションの室内は、当時の「ちょっとおしゃれな単身者の住まい」風で、うーんこれは仕事も私生活もぶいぶいゆわせてゆく系の調子良好な都会人たちの話なのかしら・・・と思っていたら、アジンがいきなり失職するし再就職なかなかしないしで、むしろ調子悪くなっていく話だった。なんとなく続けていた青春時代の名残、モラトリアム期間が、とうとう霧散していくようなはかない味わいがある。
 アジンはアメリカへの移住を望むが、台北での生活に具体的な支障があるわけではない。今の生活に行き詰まりを感じており、環境を変えたいのだ。アリョンは彼女に、結婚しても移住しても何かが変わるとは限らないと言い放つが、確かにその通りでもある。ただ、アリョンはアリョンで今の自分の生活に所在なさを感じている。アリョンが少年野球のエースとして活躍し周囲からも期待されていたらしいという話が何度も出てくるが、今の彼は野球選手ではない。彼の人生のピークはあまりにも早く来てしまった。アリョンはアメリカへ行ったり日本へ行ったりもしているみたいだが、やはり自分の居場所を掴みあぐねている。継いだ稼業にも向いているとは思えないし、同年代の起業家たちのように貪欲にもなれない。アリョンのふらふらとしているうち、なんとなくここまで来てしまったがこの先どこへいけばいいのかわからないという状況は、身につまされるものがあった。2人はもし結婚したとしても、アメリカに移住したとしても、どこへも行けない気持ちのままだったのではないか。「どこか」「いつか」などないと断念するしか、今ここから抜け出す方法はないのかもしれないが、それがちょっときついのだ。
 好景気が背景なのに、アジンとアリョンの周囲は金に困っているという話ばかりだ。世間の景気と自分の景気は違うという所も、なんだか身につまされた。アジンは父親の借金のとばっちりをずっと受けているし、アリョンは安易に人に金を貸してしまいトラブルになる。アジンが母親に金を都合した後のシーンが印象深い。アジンはすぐにその場を立ち去るが、母親は帰り道がわからず往生している。アジンには母を案ずる余裕がないのだ。2つの世代の間にはっきりと断絶がある(子は親を、親は子を最早理解できない)のに、親子の関係は切ることができないというもやもやを、アジンもアリョンも抱えているように見えた。



『パリが愛した写真家 ロベール・ドアノー〈永遠の3秒〉』

 フランスの国民的写真家、ロベール・ドアノーの人生と作品を追うドキュメンタリー。パリの街並みやそこで生きる庶民の姿を撮影し、ヴォーグやLIFEでファッションやポートレートの仕事もしたドアノー。彼の家族や親しかった人たちの言葉、また彼を撮影した映像等から構成される。監督はドアノーの孫娘であるクレモンティーヌ・ドルディル。
 ETVで放送されるドキュメンタリー的な、わりとあっさりとした口当たりの作品なので、既にドアノーの生涯や作品についてある程度知っている人には特に新鮮味はないかもしれない。しかし、家族の話やドアノーの映像(晩年はTV番組等にもそこそこ出演していたようで、動画が結構残っている)からは、彼の人柄が感じられ、なかなか面白かった。
 現在、彼の作品の管理は2人の娘が行っているそうだが、事務所には元々アトリエ兼住居(娘たちもここで育った)だった物件をそのまま使っている。父親とその仕事、ここでの暮らしに対して、いい思い出がいっぱいあるんだなと何となくわかる。若い頃のドアノーは、広告写真やカード用の写真のモデルに妻子や親戚を使っていたという話は何かで読んだことがあったのだが、モデルを務めた当人たちから当時の話を聞くことができる。とにかく写真、写真で家族総出で手伝っていたらしいのだが、それが嫌だったという話は出てこないし、家族も結構楽しんでいたようだ。かつてモデルを務めた親戚や知人友人一同が集まって当時の写真を見るという「モデル会」みたいな集まりの様子が映されるが、皆当時の思い出話に興じて、実に和やかだし楽しそう。
 ドアノーは反権威主義で、仕事の上ではすごく頑固なところもあったようだが(かつての仕事仲間が、仕事の内容によっては何かと理由をつけて出てこなくなるので困ったと話している)、基本的に、一緒にいて楽しい人だったのではないか。仕事仲間の話からしても、あまり相手を威圧するところがなく、感じのいい紳士という風。ドアノーは著名人ポートレートの仕事も(おそらくLIFE誌の依頼で)多数手掛けており、個展でいくつか見たことがあるが、どれもいい写真だった。写真撮影の中でも特に人間を撮影する際には、撮影する側の人柄によって作品の出来がかなり左右されるような印象がある。撮影技術の高低はもちろん影響するだろうが、人対人の仕事である、という側面が強いように思う。
 ドアノーと言えば、「パリ市庁舎前のキス」が本人の名前よりも有名なくらいだが、この作品が知られるようになったのは撮影当時よりも大分後、1980年代になってからだという話が面白かった。キャッチーさを先取りしすぎたわけだが、当時のパリでは路上でキスするような習慣はなかったそうで、ドアノーの作品によってパリの「恋人たちの街」としてのイメージが定着したという側面もあるようだ。それだけキャッチーだったってことだよなー。なお、ドアノーは文才もあって、自身による随筆はなかなかいいのでお勧め。本作中には、ドアノーと付き合いがあった文学者たちの名前も出てくる。私が大好きなブレーズ・サンドラールとの共同仕事の話も出てきてうれしかった。


『ワイルド・スピード ICE BREAK』

 キューバでバカンスを過ごしていたドミニク(ヴィン・ディーゼル)とレティ(ミシェル・ロドリゲス)。ドミニクに正体不明の女(シャリーズ・セロン)が接触し、ほどなくしてドミニクはファミリーを裏切る。女の正体はサイバーテロリスト・サイファーで、自分の計画にドミニクを引き入れたのだ。FBIを休職中のホブス(ドウェイン・ジョンソン)はファミリーを招集しサイファーを阻止しようとする。上司であるミスター・ノーバディ(カート・ラッセル)は、彼にかつての敵であるデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)と協力しろと命じる。監督はF・ゲイリー・グレイ。
  ファミリーという言葉がしばしば使われ、ドモイニクと仲間を繋ぐものでもあり拠り所となっている。今回はそのファミリーをドミニクが裏切るという、意表をついた展開だ。では何の為ならファミリーを裏切る、裏切らざるを得ないのか?という所で、更にファミリー、家族というものが浮かび上がってくる。また、ドミニクと仲間たちによるファミリー以外にも、血縁による家族=ファミリーも複数描かれ、正にファミリー映画。そして、ファミリーが一つの岐路にたちまた変化していく兆しも感じさせる。このファミリー、地元の「仲間」的な共同体賛歌には若干憧れ若干反感覚えというスタンスで見ているが、本作ではショウの「家庭の事情」が垣間見られたのは愉快だった。
  相変わらず車の大量消費に拍車がかかっている。元々カースタントが見所だったシリーズだと思うのだが、最近のシリーズ作はカーアクションの「アクション」の意味合いがちょっと変わっちゃったんじゃないかというか、車での対決ってそっちかよ!という突っ込み待ちになっている気がする。本作、どうも自動運転がある程度導入されている世界という設定のようなのだが、事前説明なくそういう要素がいきなり出てくるので、ちょっとびっくりした。車は大量に出てくるけど、それほど愛着を感じない使い方なので、車好きが作るカーアクション映画とは違うんだろうなぁ・・・。ただ、キューバのパートではヴィンテージカーっぽい車体が揃えられていて楽しい。
 ストーリーも設定も相変わらず大味なのだが、派手なアクションパートとキャラクターのやりとりで見せるパートとのメリハリが、これまでよりもついていたように思う。今までは、派手なアクションが続きすぎて却って眠くなってしまったのだが、今回はそういうことがなかった。新キャラクターである青二才捜査官リトル・ノーバディ(スコット・イーストウッド)の投入によって、今までいまひとつ置き所が中途半端だったローマン(タイリース・ギブソン)が活きてきたように思う。ボケに対してツッコミではなく更にボケで応じるというボケのラリーで楽しませてくれる。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ