3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2017年05月

『メッセージ』

 ある日突然、世界各地に巨大な楕円状の物体が出現した。言語学者のルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)は軍の要請を受け現地に赴く。軍は、物体はどこかから来た宇宙船で、未知の知的生命体が中にいると判断。その生命体と意思疎通を図る為にルイーズが必要だったのだ。ルイーズは科学者のイアン・ドネリー(ジェレミー・レナー)と共にヘプタポットと名付けられた生命体とコンタクトを図ろうとする。原作はテッド・チャンの短編小説『あなたの人生の物語』、監督はドゥニ・ビルヌーブ。
 あの短編小説がこうも壮大な長編映画に!こう映像化するのかー!という驚きがある。私は映画の方が好きかもしれない。映画の方が構成に妙があり、SFギミックを使っての「サプライズ」部分が強化されているように思った。SFの素養がなくても、そういうことだったのか!という方向での面白さを提供できており間口は広いのではないか。また、唸り声、ささやき声のような音楽が素晴らしい。本作を構成する要素の中で、ある意味、音楽が一番SFっぽく感じられた。ヘプタポットの「言語」と同じで、地球の音楽からちょっとずらしこんでいるような感じなのだ。
 ルイーズがウェーバー大佐(フォレスト・ウィテカー)に説明する解読手順や、ヘプタポットの「言語」を解読しようと試行錯誤していく様、どこから作業にとりかかるかというような部分が、「研究している人たち」ぽくてわくわくした。科学者のイアンは最初からわくわくしているっぽいし、ルイーズも大きなプレッシャーを感じつつも、研究に引き込まれていくように見える。とにかく結果、「翻訳」が欲しい軍人や政治家とは反応が大分違う。ウェーバーがそれで宇宙人は何を言っているんだ!と焦れるシーンでは、そんなに早くできるかよ!と突っ込みを入れたくなった。研究者と軍人、政治家との、考え方のパターンとか、作業時間に対する感覚の違いが垣間見えるようで面白いシーンだった。途中、一部の兵士たちが起こすある行動は、一般人に近い感覚の人たちという設定とは言え、ちょっと頭悪すぎるんじゃないかと思ったが。そもそも、突然巨大物体を出現させられるような未知の技術を持った存在に、人間が作った兵器が通用すると思う方がどうかしている気もするんだけど・・・。
 ヘプタポットの「言語」にしろ、ルイーズのある選択にしろ、「ああそうか!」と深く納得させられる。後から振り返るとそういうことか!とよりわかる構成になっており、この点すごくよくできているなと思った。この構成自体が、ルイーズの至る境地とリンクしているのだ。

『夜に生きる』

 禁酒法時代のボストン。警官の息子として育ったジョー・コフリン(ベン・アフレック)は一匹狼のギャングとして強盗を重ねるようになっていた。ある賭場で知り合ったエマ(シエナ・ミラー)と恋に落ちるが、彼女はアイルランド系ギャングのボス・ホワイト(ロバート・グレニスター)の愛人だった。窮地に追い込まれたジョーは対立組織であるイタリア系ギャングのボス・ペスカトーレ(マックス・カセラ)の傘下に入る。彼はペスカトーレの指示でタンパに赴き、ラムの密造を仕切るようになる。原作はデニス・ルヘインの同名小説。監督・脚本はベン・アフレック。
 ベン・アフレックが監督・脚本・主演の3役をこなしているが、原作小説に対してちょっと腰が引けているのかな?という印象を受けた。彼が以前に監督を務めた『ゴーン・ベイビー・ゴーン』や『ザ・タウン』も原作小説があったが、原作の咀嚼と再構成が的確でいい手腕だと思っていたので、少々残念。私が期待しすぎてしまったというのもあるのだが、原作小説自体が、2時間前後の映画というフォーマットにあまり向いていなかったかもしれないなとは思った。ルヘインの原作はとても面白いのだが、数年にわたる主人公とアメリカ社会の変遷を描いており、どちらかというと連続ドラマ的な構造向きだったのではないか思う。本作、長篇ドラマのダイジェスト版のように見えるのだ。
 また、フィルム・ノワール、ギャング映画的な世界を作ろうとしているが、あくまで「的なもの」であり、そのものというわけではないように思った。ジョーが自分はギャングにはなりきれないと考えているからというギャングの世界との距離感もあるのだろうが、ギャング映画の雰囲気は醸し出しているけどドラマの見せ方が起伏に欠ける為に、なんだかイメージビデオのように見えるのだ。特に前半の舞台がボストンのパートはその傾向が強かった。舞台がタンパに移動すると、もっと動きが出てくる。原作の構成上しょうがないのかなーという気はするが。
 原作小説を読んだのは発行された当時なので、大分細部は忘れてしまっていた。だが、本作を見ているうちに、私はジョー、というよりもコフリン一族のことが最後まで好きになれなかったなということを思い出した。小説としてはとても面白いが、主人公には最後まで思い入れが生じなかったという作品だ。
 ジョーは自分は悪党だと言ってはいるが、自分は悪人だとは多分思っていない。実際、当時のギャングにつきものの殺人には強い抵抗があり、そのせいで上司の信頼を失ったりもする。ただ、彼がやっている「事業」はやはり暴力、殺人がついて回るものであり、自分で手を下さないだけで死人は出ているのだ。それで悪人ではないつもりでいるのって、ちょっと虫が良すぎない?と思ってしまう。悪党なら悪党らしくちゃんとやれよ!と。彼が初めて「ちゃんとやる」のが終盤のクライマックスということになるのだろうが、ちゃんとやってしまった以上、もうこの世界にはいられないという裏腹さがある。題名は「夜に生きる」だが、ジョーは夜を生き抜くこともできず、かといって真っ当な昼間の世界にも馴染みきれない、中途半端さをずっと孕んでいるのだ。

『バッドエンドの誘惑 なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか』

真魚八重子著
 世の中にはいわゆる「バッドエンド」、後味の悪い映画がたくさんある。後味の悪さも千差万別。その「厭さ」を分類し何が厭さをかきたて、同時になぜ人は厭な映画を観てしまう、あまつさえそれに癒されることすらあるのか読み解く映画評集。
 厭映画の分類の仕方に納得の技がある。そしてこまかいセクションの名称がパワーワードの連打で痺れる。第一章「バッドエンドの誘惑」内には「神は人の上に人を作った」、「絶望の長さ」、「報いなし」と飛ばしてくるし、更に国別厭な映画集(映画ファンなら予想の付く人もいるだろうが、厭映画充実度はデンマークがぶっちぎりである。北欧映画の厭さは一味違うぜ・・・)、第三章「女と子供」では、あの映画しかないだろう!という「幼女の嘘で村八分」、厭映画の定番とも言うべき「こども受難映画」等、てらいのない盛りの良さ。厭さでお腹いっぱいである。とは言え、紹介されている映画の半分近くを見ていることがわかったので、私は多分バッドエンドが嫌いではないし、厭な映画でないとカバーできない心の傷、というと大げさだけど陰りみたいなものってあるんだろうなと実感した。本著、その映画の何がどう「厭」なのか、その「厭」さの背景には何があるのかということに焦点を置いて丁寧に読み解いており、大変面白かった。読み手に対して過剰に立ち入らないが寄り添う感じの距離感が保たれており、真摯さがあると思う。

『バンディーニ家よ、春を待て』

ジョン・ファンテ著、栗原俊秀訳
 イタリア系移民のスヴェーヴォ・バンディーニとその妻マリア、14歳のアルトゥーロ、12歳のアウグスト、8歳のフェデリーコという3人の息子から成るバンディーニ家。一冬の家族の姿を描く、著者の自伝的小説。
 主にスヴェーヴォ、マリア、アルトゥーロの視線から語られるが、3人とも気分の浮き沈みが激しく、ちょっと痙攣しているような文体だ。特にスヴェーヴォとアルトゥーロは良くも悪くも、熱狂的な所があり、エネルギーに満ち溢れており騒がしい。また、3人とも視野が広いとは言い難い人たちなので、その世界の狭さが息苦しかった。経済的に困窮しているという息苦しさと、夫婦関係、家族関係に行き詰っている息苦しさが入り混じっているのだが、そのどちらもこれ以外に生きる方法を知らない、ここ以外にどこも知らないというどん詰まり感により拍車をかけられているように思った。スヴェーヴォのキャラクターは強烈だ。煉瓦工事職人としての矜持はあるが、怒りっぽくて計画性がなく、父親としても夫としてもおおよそ役に立ちそうもない。しかしそんな彼をマリアは愛し、アルトゥーロは誇りに思っている。彼の「男らしさ」は彼自身の首を絞めることになりかねないのだが、妻にとっては執着の対象、息子にとっては憧れなのだ。それが何だかやりきれなかった。スヴェーヴォには良き夫・良き父であろうという意欲はあるのだが、毎回自分で台無しにしてしまう。無学であることへのコンプレックスと労働者としての誇り、イタリア移民であることへの引け目と自分の民族に対する誇りが彼の中でせめぎあっており、それが時に爆発する。彼自身が、何で自分が爆発するのか、自分の中のせめぎ合いが何なのかよくわかってないのだろう。全編、彼(だけでなくマリアやアルトゥーロ)の苛立ちと怒りが根底に流れているように思った。

『パーソナル・ショッパー』

 モウリーン(クリステン・スチュワート)は、服やアクセサリー等の買い物を代行するパーソナル・ショッパーをしている。今のクライアントはパリに住むセレブのキーラ(ノラ・フォン・バルトシュテッテン)だ。一方、モウリーンは双子の兄アランを亡くし、彼の亡霊が自分にメッセージを送るのではという思いを捨てきれずにいた。アランとモウリーンは霊媒の資質があり、特にアランは霊感が強かったのだ。監督・脚本はオリヴィエ・アサイヤス。第69回カンヌ国際映画祭コンペティション部門監督賞受賞作。
 アサイヤスがこういう作品撮るの?!という意外性にあふれる作品だった。幽霊の表現のあまりのベタさには、ちょっと笑ってしまいそうになった。アートというよりも、ホラー映画の文法にオーソドックスに従っている感じ。ちゃんとエクトプラズマ吐く(欧米の幽霊はなぜ頻繁に嘔吐するんだろうか・・・)しなぁ・・・。アサイヤス監督作でこういうものを見るとは思わなかったよ!ある意味律義な見せ方なので、妙に感心した。
 パーソナルショッパーという要素と、オカルト的な要素という、まったく関係がなさそうなものを混ぜているのには、なぜ?別々の作品でよくない?と最初は思ったのだが、見ているうちに、何となく腑に落ちるような気もしてきた。パーソナルショッパーとしてのモウリーンは、どこか所在なさげに見える。「そんな仕事」と揶揄される立場であることや、物理的な本拠地を持たない(自宅はあるが本当に寝に帰るだけみたいな感じだし、常に移動し続けている)ことが、彼女のフラフラしている感じを強めている。その所在なさげな立ち位置は、「あちら側」からの干渉を受けやすいのではないかと思った。ひいては、付け入られやすさに繋がってくるのだが。
 また、パーソナルショッパーという仕事は、クライアントの代理で買い物をするわけだが、指定された品物だけではなく、クライアントが好むであろう品物を選んで買うこともある。クライアントの意向を読む、気分をくみ取るわけだ。そのくみ取ろうという姿勢は、モウリーンが霊的なものとの対峙した時のやり方と似ているのだ。霊は具体的なメッセージを送ってくるわけではない。メッセージがあることはわかるが、その内容は受け手が推し量るしかないのだ。そういう意味では、ショートメールは明らかに異質なのだ。メッセージの正解がわかるとも限らないので、モウリーンの「くみ取り」は自家中毒的にもなっていったのではないか。ラスト、心がざわつくのはそのためだったと思う。どこで「終わり」とすればいいのかわからないのだ。

『トンネル 闇に鎖(とざ)された男』

 車のディーラー、イ・ジョンス(ハ・ジョンウ)は車での帰宅中、トンネルの崩落事故に遭い、がれきの中に閉じ込められてしまう。車中にはバッテリー残量78%の携帯電話、娘へのバースデーケーキと水のペットボトル2本。事故は全国ニュースになり、国を挙げての救助活動も始まるが、現地の状況は救助隊の創造を越えるものだった。監督・脚本はキム・ソンフン。
 特に前半のテンポが良く、今後ポイントとなってくるアイテムの示唆や設定の見せ方、伏線の提示などひとつひとつちゃんとやっているよ!という印象。妙な言い方だが、パーツのひとつひとつが機能的な映画だ。所々突っ込みたくなる点はあったが(バッテリーの持ちがよすぎるとか、ドローンに対して電波障害が起きるのに携帯電話は通じるのかとか)、見ている間はそれほど気にならない。脱出できるのかどうか、救出できるのかどうかというサスペンスとして、最後まで見る側を引っ張っていく。
 本作のような「閉じ込められる」系のシチュエーションは私はどちらかというと苦手なのだが、ハラハラするものの、割と落ち着いて見ることが出来た。これは、事故にあったジョンスの行動によるところが大きいと思う。ジョンスはごく普通の営業マンで特殊技能や特別な知識はない(カーディーラーなので車には多少詳しいが)。しかし、普通の人としての善良さや思いやりを持っており、それを保ち続ける。極限状態でどこまで人間性を保てるか、私だったらこんなにちゃんとした「大人」をやれないよ・・・等とぐっとくる。ジョンスも何を優先するかで大いに迷うのだが、それでも「あるべき人としての姿」を全うしようとする。そして、発狂しそうにはなるが諦めない。それは、救助隊隊長のキム・デギュン(オ・ダルス)も同様だ。彼ら2人の、個人としての勇気と真っ当さが本作の救いになっているのだ。
 ただ、個人としての振る舞いが救いになっているということは、組織としての姿にはあまり期待できるものがないということでもある。そもそもこれって人災じゃないの?!とも言いたくなる。カリカチュアされているだろうとは言え、本作での政治家官僚やマスコミ、ひいては世論の振る舞いはなかなかゲスくて辛かった。どこの国でも多かれ少なかれ、こういうものなのかもしれないが。日本でも、1人の命と多数(救助隊員等)の命とどれを取るんだ!?経済面での損害を考えろ!みたいなことは言われるんだろうなぁ。作中の事故の報道の際、アナウンサーが「またしても国民の信頼を裏切る~」的なフレーズを使うのだが、韓国では国の公共工事に対する信頼度が落ちているということなのだろうか。何か具体的な時事背景があるのかな?

『スプリット』

 見知らぬ男に拉致され、密室に閉じ込められたケイシー(アニヤ・テイラー=ジョイ)、マルシア(ジェシカ・スーラ)、クレア(ヘイリー・ルー・リチャードソン)。ドアの外で男性と女性が話し合う声を聞いた3人は助けを求めるが、そこに現れたのは女性の服を着て女性のように振舞う誘拐犯だった。彼/彼女である「ケビン」(ジェームズ・マカヴォイ)には23の人格があり、先程の男もそのうちの1人だというのだ。監督・脚本はM・ナイト・シャマラン。
 監禁される恐怖の盛り上げ方、要所要所での小道具の使い方や伏線(フレッチャー医師の振る舞い等)は、ストレートにサスペンスとして面白いのだが、物語の要であろう「出現」シーンで、は?と脱力してしまった。そのまんまじゃん・・・。それまでのやりとりから見ている側が予想するであろうものからさほど外れないことに加え、視覚的にもさほど面白くない。あれ意外と地味・・・?と拍子抜けしてしまった。ケイシーの幼少時代の回想が随所で挿入されるのだが、これも早い段階でこの先何が起きるのかがわかってしまい、予想がつくこと自体はストーリー上の疵ではないが、まあげんなりさせられる内容ではある。
 ある変化がクライマックスとなっているわけだが、その「力」の根拠が、それってちょっとおかしくない?というものだった。私はシャマラン監督の『アンブレイカブル』の面白さがさっぱりわからないのだが、それと同じような納得のいかなさがある。人の傷や辛さってそれを被った本人にしかわからないのではないか、他人が評価するものではないのではないかと。ある人物の物言いに、「お前が言うなよ!何様だよ!」という気分になってくるのだ。そういう考え方が登場人物を救うんだろうなというのはわかるが。
 とは言え、面白いことは面白いし、何よりマカヴォイの1人23役はやはり見事。人格が入れ替わる瞬間がわかる、更に人格Aが人格Bを「演じている」姿まで、やり抜く様には唸った。

『カフェ・ソサエティ』

 1930年代。ニューヨーク育ちの青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、叔父で大物エージェントであるフィル(スティーブ・カレル)を頼ってハリウッドにやってくる。フィルの雑用係として働き始めたボビーは、フィルの秘書ヴォニー(クシツエン・スチュワート)に恋をする。しかしヴォニーの恋人は意外な人物だった。監督はウッディ・アレン。
 他愛ない話、2人の人を同時に好きになっちゃったけどどうしよう、というだけの話ではあるし、いつものアレン監督作といった感じではあるのだが、割と好き。ウッディ・アレン作品は面白かろうがつまらなかろうが自分にとって気楽な作品が多い。あっさりと浮気したり殺人が起きたりして、そういうこともあるからしょうがない、みたいな突き放した距離感があるからかもしれない。
 本作では、同時に2人の人を愛してしまう人が登場し、話の流れ上どちらか一方を選ぶ。しかし、選ばなかった一方も、ずっと心の中で生き続ける。今の人生、今のパートナーを愛していないというわけでも不誠実だというわけでもなく、1人の人の中で両立してしまうもので、これはもうしょうがないのかもな・・・。そういうのは許せないという人もいるかもしれないが、私はどちらかというと共感する。「夢は夢だ」というセリフが出てくるのだが、正にその通りで、そういう夢を一生抱えていく人もいるのだと思う。選ばなかった人生への憧憬という部分では、『ラ・ラ・ランド』を思い出した。ハリウッドという舞台は、そういう儚いものとの相性がいいのか。
 相変わらず衣装が素敵なのだが、ヴォニーがプライベートで着ているヘソ出しファッションは、ちょっと当時のモードとはずれている気がする。相当攻めたおしゃれをする人という設定なのだろうか。後々登場する時には、いかにも30年代風のタイトなロングドレスを着ているので、そのあたりのニュアンスが今一つわからなかった。
 ユダヤ人ギャグみたいなフレーズが結構出てくる(ボビーはユダヤ系家庭の息子なので)のだが、これはセーフなの?アウトじゃないの?とちょっとハラハラしてしまった。ユダヤ系であるアレン自らやってるわけだからまあセーフなんだろうけど、大丈夫なのかな・・・。
 なお、女性2人の名前がヴェロニカなのは、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『ふたりのヴェロニカ』(1991年)へのオマージュなのかな?話の内容は全然関係ないんだけど。

『帝一の國』

 エリート学生たちが集まる超名門校・海帝高校。歴代の総理大臣は海帝高校の生徒会長出身者が多く、政財界にも強力なコネがある。主席入学した赤場帝一(菅田将暉)の野望は総理大臣になって「自分の国」を作る事。その為にはまず生徒会に食い込まねばならない。2年後の生徒会長選挙で優位に立つべく、次期生徒会長を見定めその懐に入る為、生徒会長選に身を投じる。原作は古屋兎丸の同名漫画。監督は永井聡。
 原作未読の状態で見たのだが、アバンの時点から反則的に面白い。その面白さは、主にテンポの良さと、何より主演の菅田をはじめ、出演俳優たちの全力投球ぶりによるものが大きいと思う。もちろんプロの俳優である以上何に出演しても全力投球だろうが、この作品が何を要求しているのか的確に判断し、そこに向かって思いっきり突っ込んできてるなって感じ。菅田の顔芸の数々が素晴らしく、この人最近映画に出過ぎだけど、まあ出したくなるわな!と思った。
 帝一の天敵である東郷菊馬を演じる野村周平の、下品な方向に振り切っているけどぎりぎりで下品にはならない下衆感も抜群。ベテラン勢では、帝一の父親役の吉田鋼太郎は、最近すっかりおもしろおじさんになってしまった気がするが、間の取り方等やはり上手い。帝一と一緒に試験の答え合わせをするくだりは、2人の息の合い方と吹っ切れ方が素晴らしかった。
 また、「その他」の生徒役、エキストラ的な出演者に対しても演出がしっかりしており、動きを揃えなくてはならないところの動かし方や、集団内での馴染み方がとても良かった。指導するの本当に大変だったろうな・・・。 ストーリーも設定も実に馬鹿馬鹿しく、生徒会の「権力」感等最早アナクロでそれ故にギャグになっているのだが、そういう馬鹿馬鹿しいものをすごく真面目に、フルスイングで演じ、作っている所になんだかぐっときた。
 建て付けはギャグだし、相当カリカチュアされたものでもあるのだが、帝一たちがやろうとしていることは民主主義ということだろう。帝一はとある事件により権力志向まっしぐらになるのだが、彼が加担している行為は、いわば帝政システムから、権力の一点集中と自由な行使を抑制するシステムに移行するためのものだという所が面白い。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』

 宇宙の平和を守るヒーローとして、黄金の惑星ソヴリンの指導者アイーシャ(エリザベス・デビッキ)からの依頼を完了した、ピーター・クイル(クリス・プラット)をはじめとするガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々。しかしロケット(ブラッドリー・クーパー)がソヴリンの高エネルギー源の電池を盗んだせいで、アイーシャは激怒。一行はソヴリンから執拗に追われる羽目になる。危機に陥った彼らの前に現れたのは、ピーターの父親を名乗るエゴ(カート・ラッセル)だった。監督・脚本はジェームズ・ガン。
 1作目ではガーディアンズの面々が本当に「ガーディアンズ」になるまでが描かれ、少年漫画っぽさに熱くなったが、本作ではピーターと父親の問題を軸に、家族を巡る物語が中心に描かれている。ピーターを巡る、悪しき父親と良き父親の対決の物語でもあり、ある登場人物の活躍には目頭熱くせずにはいられないだろう。父親は子供を無事に送り出さなければならない、という姿勢の健全さにもほっとする。また、ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)と妹の確執の顛末や、ベビー・グルート(ヴィン・ディーゼル)の「育児」に試行錯誤するロケットの姿には、まだ上手くはやれないけど何とかこいつとやっていきたいんだ!という一生懸命さがあって、なんだかほのぼのする。
 ガーディアンズの面々の愛すべき所は、皆愛情の出し方、好意の伝え方が上手くはないが、伝えようという意欲は捨てていないという所じゃないかなと思う。他者とのコミュニケーションに希望を持っている人たちなのだ。口が悪いロケットですら、その点に関しては前作程皮肉っぽくはない。本作に登場する「ヒーロー」たちのかっこよさは、ある意味愚直な一生懸命さにあり(ようするに全然クールではない)、悪ノリはあってもシニカルさはない。そこが、作品の愛嬌に繋がっているように思う。
 なお、前作ではドラックス(デビッド・バウティスタ)が筋肉バカみたいな振る舞いだったが、今回は意外と良いことを言っている気がする。彼は比喩表現がわからず文字通りの率直な言い方しかできない、ある意味とっても素直なので、素直になれない他のメンバーたちの心情をずばりと(多分本人は意図していないのだろうが)言い当てているような所があった。マンティス(ポム・クレメンティエフ)へのブスいじりにはハラハラさせられたが、それでも彼女に好意を持っているということではあるからなぁ(ドラックスの種族がそういうことを他人の評価基準にしていないということかもしれないけど)。ブスだから嫌いだとは言っていないんだよね。

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